長崎虫眼鏡

長崎虫眼鏡

「長崎虫眼鏡」は江戸時代中期(元禄17、1704)に大坂の富士屋長兵衛と云う人から出版されたもので板本である。 外国との窓口として栄えた長崎の風物誌であるが、作者などは全く判っていない。 この出版から50年後の宝暦年間に長崎聖堂の書役田辺茂啓と云う人が書いた長崎実録大成(長崎志とも言う)があり、項目内容や構成が極めて近い。 長崎聖堂が作られたのはこの虫眼鏡出版より50年程前(1647年)であるから、虫眼鏡も聖堂の書役の様な人の作ではないだろうか。 聖堂では長崎奉行の下で貿易管理も行ったという。

幕末に編纂された通航一覧では長崎についての記述に長崎志は引用しているが、虫眼鏡は見当たらない。 一方虫眼鏡は板本であるためか国会図書館はじめ大学図書館などに多数残っているようである。

P1

長崎虫眼鏡序

春すぎ夏くれハ秋さりて
やまもあらハに木の
葉ちり残る、外山の松
のゆき、香炉峰と *雪
たのしミ、たそがれのかねに *黄昏の鐘
まくらをそはたつる折から
柴のとぼそをたゝきて *柴の戸
旧人江原氏一帙を懐に
し来り、我にあたふ、
燈火にひらきて見るに

P2
彼が崎陽に伝聞せしを *崎陽=長崎
記せるものなり、わが党の
わらはへと等しく見と *童=仲間達
虫目がねと号、梓に
ちりバむるものならし
むは、これ
元禄十六ひつじの *1703
とし冬十一月日
弄古軒管狄

長崎虫目かね目録
壱 長さき興建
弐 御奉行御代々
参 御制札之うつし
四 御公儀御船
五 御船ぐら *蔵
六 御土蔵
七 石火矢台石垣
八 御番所
九 御番船
十 常燈龍
十一時之鐘

3
十弐神社并祭礼
十三仏閣
十四町
十五十善寺唐人屋敷
十六出島町おらんだ
十七来朝并漂着
十八雑説并炎焼
十九白糸貨物代物替
廿 異国渡反物字尽
廿一同海上道のり
廿ニ唐音字つくし
目録終

長崎虫めかね

そもそも肥前国長崎ハ唐せん *唐船
着がんの所、繁花ぶねうの津 *富饒 ふじょう
たる事、余州にこえたり、その *超えたり
興起をたづぬるに、元亀天正 *1570-1593
の頃、此所の領主長さき甚ざへもん *長崎純景
春徳寺上の山を城くわくとして *城郭
居住せられき、甚さへもんハ大村
の主、前丹後守あねむこのよしなり *大村純忠
そのぢぶん深ぼりの領主、ふか掘 *時分
茂宅、人数五百はかりもよほし *催し
たびたびおしよする、甚さへもんかた
よりも手勢二三百ほど出して
ふせぎたゝかひ、一度も長さき方
うちまけず、しかるに甚ざえもん

p4
不慮の事ありて
太閤秀吉公の御意をそむき
筑後へ浪人す、そのゝち大むら *其後
利仙領地となる、元亀元年 *1570
かのへ午のとし、長さきへ黒ふね
はじめて入津商ばいす、これに *商売
よつてあくる未のとし三月ニ
利仙家来、友永対馬見分
のうへ地わりをし、そとうら町
大むら町、島ばら町、ひら戸町
ぶんち町、よこせうら町以上六町
はじめて出来たり、そのゝち又
本はかた町、かはしま町、今町
元五島町、内下町いできしと也
元来かの利仙きりしたん宗 *切支丹宗門
門たるによつて、町屋のぶんてらへ *分寺
寄付せられて、切支丹てらより
しおきす、その頃高木かんざへもん *仕置
別当紹喜、後藤宗太郎、白倉
如庵、たかしま一類。よしおか一類 *高島
文知・ふか川・ばば、山本等まちまち*馬場、
かしらぶんとして、諸事を支 *町々頭分
配す、そのゝち
秀吉公九州御げかう。ちくぜん *下向
はかた御着津の頃、右ばてれん共 *筑前博多
御礼のため、かの津へ立こゆる折
ふし、御老中へ乗打の不礼を
いたし。首尾はなはだあしく *悪しく
御礼とくるに不及、あまつさへなが *剰
さきへかへる事もかなわず

註1 香炉峰、鐘

唐の詩人白楽天(772-846)が長安から江州(江西省九江)の長官補佐役(司馬)に左遷され、その地でのんびり過している時に詠んだ七言律詩の一節、

「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだて)て聴き、香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」から引用されている。 平安時代の和漢朗詠集や枕草子にも引用されている

註1 長崎起源の記述は他の書(通航一覧)を参照すると若干違いがあり、虫眼鏡に混乱があると思われる。 通航一覧では

1.頼朝より文治年中(1185-1190)長崎小太郎に長崎の地が与えられ、春徳寺上山に城郭をつくり長崎を支配してきた。

2.小太郎子孫の長崎甚左衛門の時代に足利十三代将軍義輝(在職天文12-永禄8、1546-1565)の勘気を蒙り、長崎の領地を没収、大村純忠(後の理専入道)に与えられる。

3.元亀元(1570)大村純忠が長崎の港を開き、町を作る。

4.秀吉の九州征戦(1587の島津征伐)の時、長崎のキリシタン化を知り、関係者バテレン達を追放、町の指導者達も処分された。

5.秀吉が天正16(1588)公領とし、鍋島直茂に預ける。

6.其後寺島志摩守を奉行に任命

上記より元亀天正の頃というのは誤りで天文ー永禄以前となるべきか。 又太閤秀吉の御意に背きというのはそれ以前の足利義輝将軍となるはず。 元亀年中は秀吉はまだ織田信長の一武将に過ぎない。

註2:通航一覧及び宝暦年間に成立した長崎志には元亀元年の開港は大村純忠(理専入道)の支配時であり、長崎甚左衛門純景(1548-1622)の名はないが、理専の配下で開港に尽くしたと云う説もある。筑後に浪人したのは長崎が秀吉に天正16年(1588)召上げられた時のようである。

註3 前丹後守: 大村純忠(理専入道1533-1587))は民部大輔、丹後守を称し、嫡男喜前(1569-1616)も丹後守を称した。 従って純忠を指すと思われる


註1 元亀元年の地割六町

外浦町、大村町、島原町、平戸町、文知町、横瀬浦町

其後の追加

本博多町、樺島町、今町、元五島町、内下野町

文禄の頃には二十三町となる(長崎志)

p5 長崎絵図

p6

高久の内、かづさ村水月といふ所

へ引こみしと也、元来長さきは

寺領たるのむね

秀吉公高ぶんにたっし、めしあげ *高聞

られ御公領となる、およそ長さき

はじまりて百三十余年になる

町屋ひろまる事も百ねんあま

りになる、そのむかしハはかた又 *博多

ふんご、あるひハ高来のうち口の *豊後

津むら、大村の内よこせうら、

ふくだむら、ひら戸などへ入津

せしと聞へし

二 御奉行御代々

寺沢志摩守殿 文禄之比ゟ慶長七年 *1592-1602

迄十一ヶ年ほど

小笠原一庵殿 慶長八年より十 *1603-1605

ねんまて三ヵねん

長谷川左兵衛殿同十一年ゟ十九年 *1606-1614

まて九年

長谷川権六殿元和卯のとしゟ寛 *1615-1625

ふん二丑迄十一年 *寛永の誤記か

水野河内守殿 寛永三のとしゟ *1626-1628

たつのとしまて三年

竹中妥女正殿 同六巳のとしゟ同 *1629-1632

さるのとしまで四ねん

曽我又左衛門殿同十酉のとしゟ一年*1633-1634

今村伝四郎殿 これゟ両人ツヽ

榊原飛騨守殿 寛永十一戌のとしゟ *1634-1635

神尾 内記殿 同ゟ壱年

P7

榊原飛騨守殿

仙石大和守殿 寛永十弐いのとしゟ *1633

壱年

榊原飛騨守殿 寛永十五とらの年 *1638

まで五年

馬場三郎左衛門殿 同十三子のとしゟ *1636

大河内善兵衛殿 同十六卯のとしゟ壱年*1639

柘植楽左衛門殿 寛永十七辰年ゟ *1640-1642

午としまて三年

馬場三郎衛門殿

山崎権八郎殿 同廿未年ゟけいあん *1643-1650

三子年まで八年

馬場三郎衛門殿けいあん四卯のとし *1651

まて十六年

黒川与兵衛殿 同年ゟ

甲斐床喜右衛門殿せうおう元たつのとしゟ*承応

万治元いのとし迄八年 *1652-1658

黒川与兵衛殿

妻木彦右衛門殿 万治三丑のとしより *1660-

九ねん

黒川与兵衛殿 寛文四たつのとし *1651-1664

まて十四年

嶋田久左衛門殿寛文弐子のとしゟ *1662-1665-

五年巳の年迄四年

稲生七郎右衛門殿 寛文五巳のとしゟ*1665-1666

午のとしまて、弐年長崎死去

下曽根三十郎殿

筑後久留米御目付役なれ共

右七郎右衛門殿死去によつて御越

寛文六午歳也、同年六月に *1666

甚三郎殿御下向交代也かわり

P8

松平甚三郎殿 寛文六年のとし *1666-

六月ゟ六ケねん

河野権右衛門殿同九月下向

右御両人支配之内唐人、おらんだ

御礼はしまる

牛込忠左衛門殿寛文十一いのとしゟ *1671

延宝九とり迄十ケ年 *1681

岡野孫九郎殿 同十二子のとしゟ *1672

延宝七未迄八ねん *1679

川口源左衛門殿延宝八申のとしゟ *1680

元禄七未迄八ねん *1694

宮城監物殿 同九酉のとしゟ貞 *1681

享三子のとし迄六年 *1686

大沢左兵衛殿 貞享四卯のとし *1687

川口源左衛門殿元禄四ひつじのとし *1691

摂津守殿と御

名のり、元禄七戌 *1694

のとし江戸へ御下り

山岡十兵衛殿 貞享四卯のとしゟ *1687

元禄七戌のとし迄八年 *1694

宮城越前守殿 同年下着

元禄九年江戸にて頓死 *1696

近藤備中守殿 元禄八亥のとし下向

諏訪兵部殿 元禄九子のとしゟ

永井讃岐守殿

大嶋伊勢守殿

別所播磨守殿

林 土佐守殿

右四人御当職

P9

三 御制札之うつし

禁制 肥前国長崎

一ばてれん日本へ乗わたる事

一日本の武道具異国へ持渡ル事

一日本人異国へ渡海の事

附り 日本住宅の異国人同前之事

右之条々於違犯之輩ハ速に

可被処厳科者也、仍下知如件

延宝八年八月日 奉行 *1680

諭唐船諸人

一耶蘇邪徒(蛮俗曰天主教)以罪

深重故、其駕舶所来者、先年

悉皆斬戮、且其徒自阿媽港 *マカオ

発船渡海之事、既停止訖、自今

以後唐船、若有載彼徒来、則

速斬其身、而同船者亦当伏誅

但縦雖同船者、告而不匿則赦

之、可褒章事

一耶蘇邪徒之書札并贈寄之物

潜蔵於日本来、則必須諜之、若

有違犯来者、早可告訴焉、猶

有匿而不言、其罪同前条事

一以重賄、密載耶蘇邪徒船底

来、則速可告之、然則宥其咎且

其賞賜可倍於彼重賄事

右所定三章如此、唐船諸

商客皆宜承知、必勿違失

P10

延宝八年八月日 奉行

条々

一ばてれん并切死丹宗門之やから

いこくより日本へ渡海之さた近

来これなく候間、しぜん相したゝめ *準備する

ひそかにさしわたす儀可有之事

一先年いこくへさしわたさるゝなんばん

人子ども、ばてれんにしたつべき *仕立

くわだて有之よし、此已前渡海

ばてれんとも申之条、今程やうやう

ばてれんになるべきあいだ、日本船ヲ

つくり、日本人のすがたをまなび

日本こと葉をつかひ、相わたる義

これあるべき事

一異国船近来四季ともにとかい *渡海

じゆうたるあいだ、浦々の義ハ *自由たる間

申におよばず、在々所々にいたる

まで、つねにゆだんなく心を付

見出し聞出し申出べし、たとひ

彼宗門たりとも、申出るにお

いてハ、其咎をゆるし御ほうび

のうへ、乗わたる船荷物ともに

下さるべし、万一かくし置、後日に

ばてれんまたハ同類のともがら等

とらえられ、拷問之上其かくれ

有べからざるあいだ、不申出あひ

かくす輩之義ハ申におよばず

その一類またハ其所にて一在所

のものまで、急度曲事に

P11

おこなわるへき事

右之条々海上見渡すところの

はんの者とももちろん、猟船の *番

ともがら其外の者に至まで

念を入見出し聞出し、奉行所迄

可申出もの也、仍下知くだんのごとし

申九月日 源左衛門 *延宝八年

忠左衛門

P12

一博奕一切停止之事

右之でうでういぼんの輩於有之 *条々違犯

は可処厳科者也

申九月 源左衛門

忠左衛門

一ばてれん・いるまん惣而切死丹

宗門之者かくし置べからざる事

一異国住宅の日本人もし帰朝ニ

おいてハかくし置べからざる事

人うりかひ停止たり、但年季

のもの十ケ年をかぎるへき事

一請人無之ものに家をうり、并ニ

宿をかすべからざる事

附主人のまへそむき来りもの

かゝえおくべからざる事

一武士のめんめん異国人てまへゟ

直にかいものてうじの事 *買物停止

一異国人之ものを買取、銀子にちゝ *遅々

いたすべからざる事

一ふり売りに来たるもの、両となりへ *両隣

見せずしてかふべからざる事

一にせ銀ふき出すまじき事

一分銅并はかりの類、後藤うつし

のほか取やりいたすべからざる事

一けんくわ口論停止之事 *喧嘩

一切支丹宗もんの義累年

御制禁たりといへとも、いよいよ以

だんぜつなく相あらたむべし*断絶無く相改む

自然ふしん成もの有之者 *不審なる者有之ば

申出べし、御ほうびとして

ばてれんのそ人 銀五百枚 *訴人

いるまんのそ人 銀三百枚

同宿并宗門訴人 銀五拾枚

又ハ百枚品によるべし、かくしおき

他所よりあらわるゝにおいては*顕るゝ

その五人組まて曲事たるべし

右之通嘱託下さるべき段、先年

仰せ出さるゝといへども、いよいよ以

相守るべし、若違犯之ものに

おいてハ急度厳科に処せらる

べき者也、仍下知くだんのごとし

延宝八年八月日 奉行

条々

一諸国においてハにせ薬種一切

停止たるべし、若にせやくしゅ *若し偽薬種

せうばい仕るともがら有之ハ *商売

P13

訴人に出べし、急度御ほうび

下さるべき事

附り、どく薬一切うりかひ

仕るべからざること

一商売のともがら諸色一所に

買置、しめうり致すべからざる事 *占売

一諸しょくにん申合せ、さくりやう *職人、作料

手間ちん高直に仕るべからざる事

右之条々相守べし、此旨もし

違背之ともがら有之ニおいてハ

軽重をただし、あるひハ死ざい

あるひハ流罪たるべし、そうして *惣じて

誓約をなし徒党をむすぶ者

あらば、御穿鑿の上厳科ニ

処せらるべき者也、仍下知如件

延宝八年九月日 奉行

条々

一公儀之船ハ申におよばず、諸くわい

せん難風にあふ時ハたすけ船ヲ *諸廻船

出し、船破損せざる様に成ほど

精に入るべき事

一船はそんの時、其所ちかき浦の

もの精に入、荷物船具等とり

あぐべし、其あぐる所之荷物之

内、うき荷物二十分一しずミ

荷物十分一、河舟ハうき荷

物三十分一しずミ荷物廿分一

取あぐる者につかわさるべき事

P14

一沖にて荷物はねる時ハ着せんの *はねる

みなとにおいて、そのところの

代官下代庄屋出合、せんさくいたし *穿鑿

船に相のこる荷物ふな具等

のぶん証文いたすべき事 *分

附せんどう浦のもの申合、にもつ *船頭

ぬすミ取、はねたるよし、いつわり

申においてハ後日に聞ゆると

いふとも、せん頭ハ勿論申合る

ともから死ざいに行るへき事

一湊にながなが船を掛置ともがら

あらば、其子細を所之もの相

たづね、日より次第そうそう出

船いたすべし、其上難渋せし

めば何方之船と承とどめ

註1 漢文読み下し

唐船諸人に諭す

一耶蘇邪徒(蛮俗曰天主教)は罪を以って深重故、其舶に駕し来る所の者、先年悉皆斬戮す、且其徒阿媽港より発船渡海之事、既に停止せり、今より以後、唐船若し彼徒を載せ来る有らば則速に其身は斬り、而(しこうして)同船者も亦当(まさ)に誅に伏すべし、 但縦(たと)い同船者と雖も告げて

匿さざれば則これを赦し褒章すべき事

一耶蘇邪徒之書札并贈寄(ぞうき)之物

潜(ひそかに)蔵(かくして)日本に来るに於て、則必須(すべからく)之(これ)を諜すべし、若し違犯して来る者有ば早く告訴すべし、猶匿(かくし)て云わざる有れば其罪

前条に同じ事一重き賄(まいない)を以って、密(ひそか)に耶蘇邪徒を船底に載せ来るは則速にこれを告ぐべし、然(しからば)

則其咎を宥(ゆる)し、且其賞賜は彼重賄に於ける倍あるべき事

右定める所三章かくの如し、唐船諸商客皆宜しく承知すべし、必違失勿(なか)れ

P15

其浦の地頭代官へきつと申 *急度

たつすべき事 *達す

一御城米まわる刻、船具水主

ふそく船に積べからず、ならびニ *不足

日和よきせつ破船せしむるニ

おいてハ、船主・沖之せんどう *船頭

曲事たるべし、惣而りふじん *理不尽

の儀申掛、またハ私曲あらば

申出べし、たとい同類たりとも

そのとがをゆるし、御ほうびくだ*咎を赦し

さるべし、且又あだもなさざ

る様ニ 仰付らるべき事

一自然より船并荷物ながれき *流れ来たる

たるにおいてハあげ置べし、半

年過迄荷ぬしなきにおいてハ

あげ置ともから是をとるべし

もし右之日数すぎ、荷物ぬし

たづね来たるとも返すべからず

しかれとも其所之地頭代官之

さしづをうくべき事 *指図

一博奕そうじて掛せうぶ弥 *賭勝負

かたく停止たるべき事

右之条々此むねを相まもるべし

もし悪事仕るにおいてハ申出

べし、急度御ほうび下さるべし

とが人ハ罪之軽重にしたがひ *咎人

御さたあるべきもの也 *御沙汰

延宝八年八月日 奉行

P16

右之御制札

七串 桜町札之辻

壱串 江戸町大波戸

弐串 唐人屋しき

弐串 おらんだ出島

三串 浦上村山王前

三串 長さきむら

四串 小せとむら

四 御公儀御船

東京造之御船 壱艘 *トンキン造り

六十挺立 壱 五十挺立 壱

四十六挺立 壱 四十弐挺立 壱

拾六挺立 壱 八挺たて 弐

唐造之御船 壱艘

五十石積 十善寺ニ有之

五 御船蔵 五軒

八間ニ拾三間 壱 七間ニ十一間 弐

六間ニ十弐間 壱 五軒ニ七間 壱

但前方ハ板ふきなりしを

松平右衛門佐殿寛文

十年かわらふきニ仕なをさる

六御土蔵 十軒

御船道具入 壱軒

唐船造御船道具入 壱軒

御糸ぐら 弐軒

御米ぐら 弐軒

御土蔵 四軒

三間ニ廿七間 三間ニ廿六間

三間ニ十弐間

七 石火矢台石垣 七ヶ所

P17

壱番 大たき 長さき領

弐番 神島 大むら領

三番 神島 長さき領

四番 白さき 大むら領

五番 たかた ひぜん領 *高鉾

六番 長刀石 ひせん領

七番 かけの尾 ひせん領 *陰の尾

右松浦肥前守殿、承応二 *1653年

年のとしつくせらる

八 西泊戸町御番所軒数凡 *にしはと町

三十八軒

松浦肥前守殿 筑前ふく岡

五十弐万石

松浦信濃守殿 肥前佐賀

三十五万七千石

右御両かくねん御つとめ *隔年

侍二十五人 但ばん頭ともニ *番頭共

人数七百八十人内 あしがる百二十人

かこ 三百二十人

残ハ侍并又者

船数弐十艘

右肥前ゟいづる、但何れも

番代りによつて人数并

船多少有之

此ほかにふかぼり *他に深堀

鍋島志摩守殿相つめらる *詰め

右慶安五年ニ出来

P18

九 江戸町大波戸詰番船

細川越中守殿 肥後くまもと

五十四万五千石

松平主殿正殿 肥前島ばら

七万石

右御両所かくねんニおつとめ

ふね御出し

九月朔日ゟあくる四月晦日迄 *翌年?

細川越中守殿ゟ

五月朔日ゟ八月晦日まて

松平主殿正殿ゟ

御勤船弐艘

四十挺立壱 廿挺立壱

十 同所常燈龍堂

寛文五巳のとし七月、唐人

通詞中江仰付られ、たつる *建る

油ともしともニ通詞中ゟ支配す

十一 時之鐘

むかしハ時のかねなく、寛ぶん *寛文五 1665

五巳のとし八月、島ばら町の

堀のうへにたつる、そのゝちえん *其後

はう元年丑十一月、今籠まち *延宝元年

上畠地へ鐘楼ならびにかねつき

居所ともニ引なをす、かねつき

両人給分壱貫四百目、此の、きうぶん *給与

鐘楼の修理、地下中ゟいだす *出す

鐘の高さ 三尺五寸五歩

口さし渡シ 弐尺五寸五歩

かねの重さ 九百斤ほど *550kg

いもじちん 壱貫四百目

かねの銘 即非和尚

p19

十二 神社并祭礼

諏訪社 御 朱印地

伊勢社 八まん宮

稲荷社 天まん宮

こう神 大こく堂

こくうぞう *虚空蔵

中にも諏訪大明神と申奉るハ

くわん永弐年に御再興、同五年 *1625

石の大とりいたつ、同十一戌年 *1634

御神輿祭礼、能そのほか当

人神しょく内外月役等をはじ *神職

めらる、同十弐亥のとし神しよく

三人やく料に唐船壱艘口せん

銀有り次第下しおかる、くわん永*寛永

十五とらのとし、祭礼入用に *1638

唐船壱艘口せん銀、ありしだい

つかわさる、右之まかない船当

人の町内外八町にてこれを

支配す、正保弐年に石のとり *鳥井

井たつ、同四年に新やしき *1647

拝領ありてあくる慶安元年 *1648

旧地より当社へ 御遷宮せら

れき、同四卯のとし、御本社

こんりう有之、拝殿ハ承応二 *1653

巳のとし、末次平兵衛きしんす *寄進、

寛文九とりのとし、御 朱印 *1669

被下置、社境内山林竹木諸役

御免許のよし、延宝六年のとし *1678

床台、廻廊、拝殿の前のもんを

つくらしむ、むかしハ祭礼ばんばん*祭礼番

P20

町三年まわりにて一日つゝ御供 *番町

を仕たりしかども、明暦元未の *1655

としゟ六ケねんまわりになりて

七日九日両日御供をつとめき、

そのゝち、くわん文十弐子のとし*1672

より大町のぶん御わけありて

町数多くなりたるによつて

七年まわりになりぬ、祭礼の

町組ひだりにこれをしるし

侍る、番付をもつてねんねん *年々

の町組をしるべし、七番め

より壱番めへもどる、壱年ニ

十壱町宛として是をつと

むる事也

壱番 元禄十丑のとし *1697

新奥善町 今下町

西築町 東上町

南馬町 大黒町

新石灰町 東浜町 *新しっくい町

東古川町 中紺町

本古川町

弐番 とらのとし

本築町 御くら町

小川町 内中町

西上町 八百や町

かつ山町 えびす町

今こん町 炉粕町

伊勢町

三番 卯のとし

p21

本大工町 今魚町

今博多町 本かご町

本紺屋町 ざいもく町

上築後町 江戸町

後奥善町 ふる町

本奥善町

四番 辰のとし

引地町 浦五島町

桶屋町 本石灰町 *本しっくい町

さかや町 大井手町

ふくろ町 舟大工町

ほり町 出来大工町

新町

五番 巳のとし

船津町 糀しま町

本はかた町 平戸町

やはた町 糀屋町

北馬町 万屋町

西浜町 銀屋町

諏訪町

六番 午のとし

榎津町 西古川町

うまや町 本紙屋町

新はし町 新大工町

大むら町 本五島町

金屋町 出来駕町

いま町

七番 未のとし

油屋町 今石灰町

下ちくご町 今かぢ町

P22

今かご町 西中町

東中町 ぶんご町

本下町 外うら町

しまばら町

此ほかに

丸山町 より合町

右両町ハけいせい町也、此ぶん *傾城町

まいねんまいねん祭礼を相つとむ

追加

右に記する所之内、御祭礼御

入用銀、くわん文元丑のとし *1661

より口せん銀の内三貫目 *口銭銀

四貫目つゝ進せられし

ところに、くわん文十壱亥のとし *1670

より七貫目宛になる、しかれ共

祭礼修理かたふそくす、これに

よつて延宝八ねんより口せん *1680

銀の外に付町壱町つゝ

仰付られて、三ケ壱のまし銀を

附せられき、且又神しょく

三人役れうも、明暦元ひつじ*役料*1655

のとしゟ口せん銀のうち三

貫目を三人へ下されぬ、そのゝち

くわん文十弐子のとし、神しょく *1672

四人になりて四人江四貫目

つゝになりたり

十三 仏閣

天台宗

安禅寺 現応寺 多聞院

p23

真言宗

体性寺 延命院 青光寺

能仁寺 願成寺 文殊院

聖無動寺 清水寺

唐寺

興福寺 崇福寺 福済寺

徳苑寺 正福寺

一向宗

大光寺 正学寺 光源寺

現崇寺

右西本願寺宗

光永寺 勧善寺

右東本願寺宗

禅宗

胎台寺

此寺御 朱印として延宝

五巳のとし丈六の金剛仏

こんりう、底順和尚住持之

時也、其後延宝八申のとし

大門をつくらしむ

春徳寺 雲龍寺 禅林寺

光雲寺 高林寺 永昌寺

浄土宗

大音寺

此の寺も御 朱印地として胎

台寺と同時に大門出来

三宝寺 浄安寺

P24

法泉寺 雲光寺 正徳寺

法華宗

本蓮寺 御朱印地

長照寺

十四 町中

内外町数八十町

内廿六町 内町

五十四町 外町

内町 陸手十五町 陸公役

舟手十一町 舟公役

外町 陸手三拾四町 陸公役

舟手弐十町 舟公役

地子銀内外町中

上納銀高五拾貫目也

惣間数合

壱万五千三百五十三間弐合四夕弐才

三千六百七拾六間五尺七寸七歩 内町

壱万千六百七十六間弐尺三寸 外町

かまど数合

壱万千六十五竈

三千六百九十七竈 家持

七千三百六十八竈 借屋

人数合

五万弐千七百弐人

弐万七千七百九十八人 男

弐万四千九百四人 をんな

P25

酒屋数合百六十軒

五十九石五斗壱合八才 大酒屋高

弐十石 小酒屋高

惣高合三千七百八十壱石五斗六升弐

橋数合三十三

大はし十七 いたはし四 いしはし十三

小はし十六 いたはし九 いしはし七

町中船数合四百三十八艘

内町船数 百五十九艘 弐百五十石ゟ

三石つミ迄

外町船数 弐百七十九 八十石ゟ

三石つミ迄

日本留住之唐人、まへかたハあまた

ありけるが、年々病死有之

P26
残る人数
林一官 陸一官 周辰官
江七官 陳九官 楊壱官
蔡二官
右七人ハ古来ゟ住宅
魏九官 同子清左衛門
同 治兵衛 家来 嬉
右四人ハ寛文十弐子のとし御
ねがひ申上、日本に住宅、御
赦免ありて、子息弐人延宝七
未のとし日本人の姿となる
けいせい町ハむかし方々にありし
かとも、くわん永十九午のとし、丸山 *1642
町、より合今のところへうつさる
十五 十善寺唐人屋しき
唐人屋しきハそのかミ御薬苑
なり、しかるを貞享五たつ *1688
のとし、地割ありて
御公儀普請にてたてらる、
あくる元禄弐巳のとしはる *1689 巳年春
ふねの唐人ゟ此屋しきへ召 *召し置かる
おかる、此所の
おとな 福田伝次兵衛 *乙名
高木四郎右衛門
組頭 平野屋庄右衛門
水野 小左衛門
前ハ此屋しきまへに薩摩守殿
屋鋪有、しかるを大波戸場へ
替地にて、その跡に唐人

P27
道具入置蔵たつ、此ハ元禄 *1691
四未のとし春の事也、同秋
唐人屋しき近所の在家十五
軒、十善寺上の山へひかれし
唐人屋しき火のようじん
ためとて、在家引料壱坪
にて三十弐匁九分三りん宛とて
右 御公儀より下さるゝ
十六 出島町
くわん永十三子のとし、南ばん人 *1636
町屋におる事御てうじな *御停止
されし、是によつてまち人
めんめんに出島をきづき、南
はん人を召おきぬ、子うしとら之*子丑寅
三ヵねん、せうばい致し、卯 *商売 *1638
のとしゟなんばん人日本江渡 *南蛮人
海之事かたくとどめられぬ *堅く留められぬ
そのゝち寛永十八巳のとし *1641
ひら戸よりおらんだ人を引 *平戸
とり、此出島へめしおかる、出島 *召置かる
口のばんハつねづねふなばん *常々船番
壱人町年寄常行司、けらい
壱人つゝ一日一夜相つとめ、
諸事帳面に書しるし、毎朝
御奉行所へ差あぐると也、右の
ほかに一日一夜づゝ内外町ゟ
相かわりに番をつとむ、白いと
割付中ゟもつとむる事也
しかし内外町ならひに割付
中ゟのばんハおらんだ入津之

P28
日より九月廿日出船までなり
右のほかにねずのばん五人 *寝ずの番
出島町よりやとひ出ス、たゝし
出島の口明、商売始り出船迄
帳めんさし上(のぼ)す
出島町軒数弐拾五ヶ所
人数弐拾五人
惣間数弐百四間六尺二寸
地子銀 壱間ニテ七匁三分五厘ツヽ
上納高 壱貫四百三十弐匁三分五厘
宿ちん銀 壱間ニテ弐百六十三匁八分
五拾五貫目
右おらんだ人ゟ出す

長崎虫眼鏡上巻終
出典:国会図書館