1857和蘭領事書簡
初代オランダ領事書簡(1857)
国立公文書館安政雑記第十六冊
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安政四年丁巳(1857)
唐人英国と争端を開候始末書
昨九月頃唐国ニ於而唐人と英人と争端を開、英国 *アロー号事件による開戦
船将セイムール人名唐国を焼払、亜米利加并仏蘭西共
右船将を相接候由、右旨趣は兼て条約書を以、ケ条取
組有之候所、唐国ニ而兎角嫌拒ありて条約ニ縢候候事 *縢 綻びを繕うの意だが意味不明
抔有之右之始末ニ至り候趣、就而者御当国ニ於而能々御
勘弁不相成候而者、些細之事ゟ争端を開候様相
成候而者以之外ニ有之、右戦争之義は別段書面
を以申上候得共、評判記書抜申上候迄ニ而右様之内
情者難申上候間、御内々御含まて口達を以申上候旨、か
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ぴたん申出候ニ付此段申上候、以上
巳二月 本木昌造
長崎御奉行
荒尾岩見守様
於出島千八百五十七年第二月廿四日(安政四年巳二月朔日)
和蘭領事官申上候、当節渡来之和蘭商船ウイルレル
ナユンカウ船号を以、別段風説書送越不申候
拙者江送越候評判記ニ広東ニおいて英人唐人之間ニ
闘争差起候義書越御座候
数ヶ所之砦等英人奪取、アドミラール官名ムセイムル人名一 *Michael Seymore
手之軍艦ヲ以広東を焼払申候
右兵端者英人の条約を唐国高官之者ニ而相守不申
候事ゟ差起候儀ニ可有之候
和蘭領事官
ドンクルマキュルシュス
巳二月 岩瀬弥七郎
西 宗太郎
本木 昌造
長崎御奉行
荒尾石見守様
於出島千八百五十七年第二月廿六日(安政四年巳二月三日)
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和蘭領事官義、通詞昌造を以御口達御談ニ付申上
候者、広東ニおいてアトミラール官名ムシムール人名と唐国
高官之者之間ニ差起候義者、拙者思慮ニ而者日本政府
ニ至極御大切之義ニ可有之、右兵端差起候次第、其事情
日本之為至極肝要之義ニ可有之候
右之始末ニ至候事情、拙者見込之次第書面ニ而者難
申上、乍去口達ヲ以委細無腹蔵申上候義者差支無御座候、
右恭敬申上候
和蘭領事官
トンクルキユルシユス
右之通和解仕候 小出宗右衛門
西 宗次郎
本木 昌造
二月五日永持亭次郎并御徒目付、御手付かひたん
方江御遣、唐国戦争一件御尋、昌造通詞かひたん
申口左之通
十ヶ年計前英国唐国戦争差起、唐国ゟ和を乞、条約
取結之上和睦相調、唐国之内五港則広東・厦門・寧波・福 *1842年南京条約 五港開港、香港割譲
州・上海者英人其他外国人之為相開、居住并住家地所勝
手ニ借貸・売買出来、万事唐人外国人之無差別、右五港
滞在之外国官吏、唐国奉行職と書翰往復面会等
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無差支、其応接書翰之文言等指而尊卑を別候事
なく、右五港之内厦門者一円英国ニ譲り全英領と相 *右五港の外香港は英国領とする
成、同所居住之唐人其外土地之仕置者英国ニ而支配致
し、広東者初条約取結之砌、外四港相開候後二ヶ年を
経て可開約定之所、年限相立候而も兎角相開不申、諸
事定約ニ悖候事共有之今ニ開不申由、然ニ厦門英領ニ *もとる 反する 縢と直してあるが却って不明
相成候以来、唐人仕置抔も以前唐国仕置と者事変、万事
緩ニ有之候ニ付、諸方之唐人厦門ニ移住之者相増、土地之 *厦門とあるは香港の誤りか
繁栄古ニ倍し、外国人も兎角同所ニ而已集候様相成、唐
国之交易日を追而繁昌し、別而茶・絹布之商法盛ニ成
行、居民を富し国力大ニ相増候由、初条約取結之砌は
唐国ニ而余程危踏候得共、漸々交易之事順、当時ニ而ハ
唐国政府も交易之肝要たる事を悟り、専ら手広
相候様心懸ケ候由、且厦門ニ而者唐船之貸買売も自
在ニ而、英国其他之記旗ニ而唐人外国人一同乗組、唐国
諸州交易之為通航致候由、然ル所此節唐船ニ英国之旗 *アロー号 香港船籍
を建、船頭英人外唐人十二人乗組、広東江交易之為渡
来候所、広東之唐国奉行職ニ而右船乗組唐人十二人を
召捕、英国記旗を引下捨候由、右召捕候次第者十二人之唐
人共、前方一揆荷担之者之由風聞有之候ニ付、右之始末ニ *太平天国(1851-1860)のメンバーか
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至候由、然ル所英国支配之唐人ニ罪科有之候節は毎港
滞在之英国官吏も懸合其手ニ而相糺シ引渡候事ニ条
約取極有之候所、無其儀ニ付右船頭英人官吏江訴出、依 *広東在英領事ハリー・パークス
之官吏ゟ書面ヲ以奉行職江懸合候は右始末手違致し
方全く事之行違ニ而可有之間、面会談判之上召捕候唐
人を返し、英国記旗を建候様相成候ハヽ事穏便ニ可済
旨申遣候得共、有無の返答無之、尚其折関東港碇泊之英
国軍艦之惣督セイムールも同様懸合候得共、是以返答
不致候ニ付セイムール并官吏より再度稠敷懸合候は、条約
面之通り全心得違ニ付、右唐人差返、記旗を建候義差
支無之旨、尚面談之有無四十八時之内ニ返答無之候ハヽ厳重
之沙汰ニ可及旨、再応懸合候得共有無之返答無之候ニ付、無拠
セイムール組下之軍兵を上陸せしめ、砦等数ヶ所乗取、大
砲者釘打、右砦江罷籠候唐国軍兵者逃去候由、其上ニ而
又々面談之有無并返答承知致度、若返答無之候ハヽ
尚厳重之手当可致旨懸合候得共返答無之ニ付、セイ
ムール一手軍艦之内、蒸気船ハルコウタより奉行所江
一丸を発し、其上ニ而又々同様懸合、此上ニも返答無之候
ハヽ広東一円焼払可申旨掛合候得共、更ニ取合不申
候ニ付、軍艦弐艘より数丸を発し広東外曲輪を打崩
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し候上、セイムール并官吏其外士官五六輩を引連
奉行所江押而参候所、奉行職者役人残らず召連立去居
候ニ付面会不相叶引取候上、乗取候砦数ヶ所ゟ放発致
し、奉行所并役人之居宅を焼払、其上ニ而又々同様懸
合、若し返答無之候ハヽ、事実広東を焼払可申、就而者
老幼男女之死亡も有之、実ニ不仁之義ニ付、是非返答有
之度懸合候所、其節漸返答有之候得共、至極不相当之
事ニ而、殊ニ面会評議不致候ニ付、無是非軍艦・砦より十
四日之間発放いたし広東所々焼払候所、其砌亜米利
加、仏蘭西軍艦も広東港停泊致し居、其軍兵を上
陸せしめ候由、是者広東乱妨之為ニ無之、広東ニ有之候
其国之商館并人民警衛之為ニ候由、評判記ニ書載有之
其末ニ此度之一件者唐国奉行職之不明ゟ事起り、英
人理不尽之致方ニ無之、多分此度も唐方より和を乞、英人
之存意相立可申旨、広東之居民風聞致候由書載有
之候、扨日本も亜墨利加と者条約相済、下田・函舘御開
相成、公ニ交易者未御免相成不申候得共、金銀銭を以
品物相調、或者品替又者官吏之滞在も御免有之候得者、
先交易之道相開候と申もの有之、又英国共御条約相済、
是者下田・箱舘・長崎三ヶ所御免相成、下田・箱舘者亜米利
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加と相替候事無之、然ルニ長崎ニ而者御所置者内港
ニ入帆不相成、高鉾辺島々碇泊可致、端船を以乗廻
并上陸不相成、其外廉々無徊之御規定有之、右様有
之候而者英人ニ而条約取結候詮も無之候、又魯西亜共御
条約相済、三ヶ所御免相成、長崎者外国異人江御免許
之通御所置、魯人至極不満之由承知仕候、尤沈没之テイ
ヤナ船下田ニ而者御所置并難民御救助之次第者至極感
伏いたし候由承り申候、右三ヶ国ハ世界之強国ニ而、別而魯西
亜者世界中最大国、殊ニ御隣国ニ而味方ニ有之ハ無上御
後楯可相成、敵ニ取候而者至極之大切ニ可有之、尚別而御
懇情被施候得者御安全之御良策ニ可有之、右三ヶ国之外
仏蘭西と御条約可相済事も近々可有之、然者世界中之
強国と唱候四ヶ国不残御条約相済候間、此上者此迄
之御国法御改革相成、世界普通之御法ニ御改相成
度、左も無之、是迄之御法ニ而者諸国ニ而承伏不仕、正法
之国と者相唱不申候、尤未条約不相済国ニ箱舘ニ
おゐて病院御手当相成候義者、西洋之人情ニ相協至
極御良善之御所置と可申候、元来日本者世界東方諸
国之内一箇之富撓強国ニ而、其居民英才有て、唐国
抔之及所ニあらず、但シ東方之国民ハ自分尊み他
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を卑むる癖ありと西洋人評判仕候、拙者久敷日本
ニ罷在、見聞仕候ニ其説ニ不違、日本も其癖有之候
様相見申候、折々外国船渡来之砌右船江被遣候御書
翰之内御文言等心付候儀者可申上旨ニ而為御見相成候
所、兎角御命令相成候様之御文言有之、御頼申御文
言者曾而見請不申候、御国内限之義者兎角可申上様
も無之候得共、外国江之御文言者御改相成候様有之度、和
蘭人者年久敷渡来、御国風も粗相弁候間、左程ニ者
不申候得共、外異人ハ至極不快義ニ御座候、斯申上候迚他
を賤められ候と申上候ニ者無之候得共、外国人之思ふ
所我人、彼も人と申事其本意ニ候得者、書翰御文言を始、
御応接其外一体、自他尊卑なき様之御仕置御肝要
奉存候、一旦御取結ニ相成候而者御大切儀ニ候間、粗略
不相成、能々御勘弁相成度奉存候、元来条約之趣意者
只親睦を旨と致候義ニ而、紙上細事書載不能候間、
万事些細之義者可相成丈御沙汰不相成候方可然、
向々御糺上可相成程ハ狭く相成候様之御所置者不
可然、只親睦之処を以御心懸相成、万事広く相成
候様緩々御沙汰御為可然奉存候、既ニ和蘭船将フビユス
下田箱舘一見として罷越、下田滞津之亜墨利加官吏
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江面会仕候所、日本者兎角小事ニ拘り、些細之事申
立候而も返答埒明不申、無益之小事而已申聞、実ニ
煩敷候間、亜墨利加政府江申立、前後可及談判抔
噂致候由、右様之事より漸々可及混雑候間、得と御思
推相成度、尚渡来之外国船申立廉有之節者、可
相成丈速ニ御返答相成度、及遅々候義者外国之風義
ニ者相協不申候間、是亦御含相成度、且御免許可相成
程之事者速ニ御免相成候方可然、初御免許難成
旨御申聞相成候義も強而申ニ任セ差免候様ニ而者、
強而さへ申立候得者被差免候様心得、事実御免許
難成義も強而申立候様相成申候、御免許可相成程
之義者速ニ被差許候得者御国威も相立可申、強而乞
ニ任せ被差許候而者、威も少く御免許之名も薄、御国
威も相減じ、夫丈ケ申立者之方ニ国勢相増可申候、兎
角兵端は小事より起り候ものニ而、此度唐国之弊
も右等之事より起り、自分弱を知らさるハ知と難申、
御国ニ而者能々御勘弁有之度、尤御国唐国程弱く
候と申ニ者無之候得共、久敷太平打続、欧羅巴程軍
事ニ不被為馴、唐国者其地連続仕居候得共、御国
者四方海岸ニ而、一度兵端を開き候而者至極御大切
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ニ可及候間、能々御勘弁相成度、此度唐国之一件
只何国之事と御聞捨(無之)、事情得と御賢察御所置 *無之 の脱落か
御座候様仕度旨、かびたん申出候