近世の江戸は頻繁に火災に見舞われたが、中でも明暦三(1651)正月18・19日の火事は江戸の大半を焼き、江戸城の天守、本丸迄延焼を免れなかった最大の火災で、「明暦の大火」と呼ばれている。
「むさしあぶみ」は上記明暦の大火の記録物語であり、大火の四年後、万治四(1661)年京都の中村又兵衛出版である。 作者名の記載がないが、浅井了意と云う浪人文筆家によると云われている。 物語の構成は大火の際、不覚を取り家族、家財産を全て失い世捨人となり、楽斎房と名乗る男が京都彷徨中に昔の知合いの小間物屋と偶然出会う。 小間物屋の需に応じて大火の様子及び、幕府の復興支援及び都市改造等を委しく語り、又自分がとった不覚も話して聞かせると云う筋書きになっている。 上下に分かれており、上では18日の火事の描写が主で、下の方では19日の火事の描写とその後の復興の様子、又楽斎房が19日火災でどんな不覚を取ったかを述べている。
尚当会員のホームページで上下巻の現代語訳が下記に掲載されている。
むさしあぶみ_酉年大火 (em-net.ne.jp)
PDF版 musashiabumiB6.pdf (em-net.ne.jp)
明暦大火出火延焼考察
原本出典 国会図書館
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むさしあぶみ 上
世すて人にハあらで世にすてはてられ、今
はひたすらすべきわざなく、かみをそり衣を
すみにそめつつ、楽斎房とかやなをつきて *名を付けて
心のゆくかたにしたがひ、足にまかせて都の
かたにのほり、爰かしこおがみめぐり、名におふ
北野の御やしろにぞまうでけり、わが古郷
ゆしまの天神とハ御一躰の御事なりと
ふしおがみ、かなたこなたと見まハすところに
年ごろあづまの方へ行かよふこま物うりに *小間物売
あひたり、此男大きにきもをつぶし、扨いかなれ
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ばかかるすかたにはなり給ふといふ、楽斎房云
やう、さればおもひの外なるめんぼくをうしなひ
て、身のをきどころなきまゝに、かゝる姿にハ成
侍りといふ、それはいかなる恥をかき給ふらんおぼ
つかなしととひければ、さればこそかたるに付て
なおなおつらきことの侍り、さだめてそのかみ *その昔
明暦三年ひのとのとり正月の火災の事ハきゝ *丁酉
および給ふらんといふ、男いふやう、それハかくれ
なきことにて其時の災難に都方にも手代
わかきものくだりあハせてむなしくなりたる
事ありて、今になげきかなしむ親子とも是
おほく聞つたへたるありさま、さしもおびただし
さらバ御坊ざんぎさんげのため、そのありさ *慚愧・懺悔
まをあらあらかたりてきかさせ給へといふ、楽斎
房申すやう、ものうき事かなしき事わが身ひと
つにせまりておぼえたり、かやうのことハとハぬも
つらく、とふもうるさきむさしあぶみ、かけても
人にかたらじとハおもへども、ひとつハさんげのた
めとおもへばあらあらかたりてきかすべし
注 武蔵鐙さすがにかけて頼むには
とはぬもつらし とふもうるさし
(伊勢物語)
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(絵)
扨も明暦三年丁酉正月十八日辰刻ばかりのこ
となるに、乾のかたより風吹出ししきりに大
風となり、ちりほこりを中天に吹上て空に
たなひきわたる有さま、雲かあらぬか煙のう
ずまくか、春のかすミのたな引かとあやしむ
ほどに、江戸中の貴賤門戸をひらきえず、夜
は明ながらまだくらやミのごとく、人の往来も
さらになし、やうやう未のこくにおしうつる時分に
本郷の四町め西口に本妙寺とて日蓮宗の寺によ
り俄に火もえ出てくろ煙天をかすめ、寺中
一同に焼あがる、折ふし魔風十方にふきまハし
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即時に湯島へ焼出たり、はたごや町よりはるか
にへだてし堀をとびこえ、駿河台、永井しな
のゝ守、戸田うねめのかみ、内藤ひだのかミ、松平しも
ふさの守、津軽殿そのほか数ヶ所、佐竹よしのぶ
をはじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の
屋形たちまちに灰燼となりたり、それより
町屋かまくらがしへ焼とおりぬ、かく当酉の刻に
いたりて風はにしになりはげしく吹しほりけれ
ば、神田橋へハ火うつらずしてはるかに六七町へだ
てゝ一石ばしの近所さや町へとびうつり、牧野さ
どのかミ、鳥井主膳正、小浜民部少輔、そのほか町
奉行の同心屋敷、八町ぼりの御舟蔵、御舟奉
行所のやかた数ヶ所、海辺にハ松平越前守、さし
も大きにつくりならべられし殿舎ども風に
したがひ煙につゝまれて焼あがり、猛火のさかん
なる事四王忉利の雲のうへまでものぼるらん
とぞおぼゆる、こゝにおひて数万の男女けふりを
のがれんと風下をさしてにげあつまる程に向ふ
へ行つまり、霊岸寺へかけこもる、墓所のめぐりハ
はなハだいろければ、よきところなりとて諸人
爰にあつまりいたる處に当寺の本堂に火か
かり、これより数ヶ所の院々にもえ渡り、一
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同に焼あがり、くろけぶり天をこがし、車輪
程なるほのほとびちり、かぜにはなされて
雨のふるごとく大勢むらがりいたるうへに落
ければ、かしらのかみにもえつき、たもとのうち
より焼出、まことにたえがたかりければ、諸人あ
はてふためき、火をのがれんとて我さきにと霊
岸寺の海辺をさしてはしり行、泥のなかにか
けこみける、寒さハさむし食ハくハず、水に
ひたりてたちすくみ、火をばのがれたりけれ
ども精力つきはてゝ大かた凍死する、それま
でもにげのぶることのかなはざるともがらハ炎
五躰にもえつきてことごとくこがれ死す
うめきさけぶこえすさまじく、ものゝあハれ
をとどめけり、すべて水火ふたつのなんに
死にほろぶるもの、九千六百余人なり、此海辺
までちりも残らず焼はらひ、海のむかひ四
五町西のかた、佃島のうち石川大隅守の屋し
きおなじくそのあたりの在家一宇ものこら
ず焼うしなふ
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(絵)
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その日の暮れがたにおよんで、西風いよいよはげし
く吹落て、海上ハ波たかくあがり、其うへに去年
の冬より久しく雨ふらず、かハき切たる事
なれば、なじかハたまるべき風にとびちる炎十町
廿町をへだてたる所へもえ付て焼けあがる程に
神田の明神皆善寺社頭仏閣をいはず堀の丹
波守、太田備中守、村松町、材木町にいたる迄
あまたの家々ことごとく、柳原より和泉殿
橋を切てみな焼通りぬ、扨又右の駿河台の火
しきりに須田町へもえ出て、一筋ハ真直に通りて
町屋をさして焼ゆく、今一筋ハ誓願寺より追ま
ハして押来る間、江戸中町屋の老若、こハそもいか
なる事ぞやとておめきさけび、我も我もと家
財雑具をもち運び西本願寺の門前におろしを
きて休みける處に、辻風夥しく吹まきて
当寺の本堂より始て数ヶ所の寺々同時に
鬨と焼たち、山のごとく積あげたる道具に火も
え付しかバ、集りいたりし諸人あハてふためき命
をたすからんとて井のもとに飛入、溝の中に
懸入ける程に、下なるハ水におぼれ、中なるハ友に
おされ、上なるハ火にやかれ、ここにて死するもの四
百五十余人なり、さて又はじめ通り町の火ハ伝馬
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町に焼きたる、数万の貴賤此よしを見て退あし
よしとて車長持を引つれて浅草をさして
ゆくもの幾千万とも数しらず、人のなく声
くるまの軸音、焼くずるゝ音にうちそへて、さな
がら百千のいかづちの鳴おつるもかくやと覚えて
おびただしともいふばかりなし、親ハ子をうしなひ
子ハまた親におくれて押あひもみひせ
きあふ程に、あるひハ人にふみころされ、あるひ
は車にしかれきずをかうふり、半死半生に *轢かれ *蒙り
なりておめきさけぶもの、又そのかずををしらず
(絵)
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かゝる火急の中にも盗人は有けり、引捨てたる車
長持ちを取て方々へ逃げ行く、殊更におかしかり
けるは、位牌屋の某が我一跡は是なりとてつくり
たてたる大位牌小位牌、朱塗、箔綵(はくだみ)色々成
けるを、車長持にうち入引出し、余りに間近く
燃えきたる火を逃れんとて、うち捨てたるを
何時の間にかはとりて行、浅草野辺にて錠をね *盗りて
じきるも蓋を開たりければ、用にもなき位牌
ども成けり、火事を幸に物をとらんとねらいけ
る盗人共、あるいはぬか俵を米かとおもひて取て
のき、或は藁草履の入たる古かわごを小袖かと
心得て奪い取りてにぐるも有、其中に此日頃
重き病を請て、今をかぎりとみえし人を火事にお
どろき、すべきかたなくて半長持におし入、かき出し
辻中に卸し置たりしに、何者とは知らず盗取
行方なくなりにけり、是を尋んとする程に、家財一跡
皆焼すてたる人もあり、あるひは我子をば取うしな
ひ他人の子を吾子とおもひ手をひきうしろに
負て遠く逃げたるものもあり、年老たる
親、いとけなき子、足弱き女房を肩に
掛け手を引、せなかにかき負て、なくなく落行
ものもあり
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(絵)
爰に籠屋の奉行をバ石出帯刀と申す、しき
りに猛火もえきたり、すでに籠屋に近付しかバ
帯刀すなハち科人どもに申さるゝハ、汝ら今
はやきころされん事うたがひなし、まことに
不憫の事なり、爰にて殺さん事も無惨
なれば、しばらくゆるしはなつべし、足にまかせ
て何方へも逃行、随分命をたすかり火も
しづまりたらば、一人も残らず下谷のれんけい寺
へ来るべし、此義理をたがへずまいりたらば、我が身に
替ても汝らが命を申たすくべし、若し又此約
束を違えてまいらざる者ハ雲の原までもさがし
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出し、其身の事は申に及ばず一門迄も成敗すべし
と有て、すなはち籠の戸をひらき、数百の科人を
ゆるし出してはなされけり、科人共は手を合わせ涙
をながし、かかる御めぐみこそ有がたけれとて、おもひ
おもひに逃行けるが、火しづまりて後約束のごとく
皆下谷にあつまりけり、帯刀大きによろこび、汝等
まことに義あり、たとひ重罪なればとて義をま
もるものをばいかでころすべきやとて、此の趣
を御家老がたへ申上て、科人を許し給ひけり
道ある御世のしるし、直なるまつりごと、上に正し
ければあまたの科人ども義を守りて命をたす
けられけるこそ、ありがたけれ、此事をきく人みな
いわく、帯刀に情け有、科人また義あり、御老中
に仁ありて命を助け給へり、爰におひて国道
あることは明らけしとぞかんじける、其中に一人
の囚人しかもいたりて科の重かりしが、よき事に
おもひて遠く逃のび、我古郷にかへりしを、在所の
人々、此ものはたすかるまじき科人なるに、のがれ
て帰りしこそあやしけれとて、連れて江戸
へまいりければ、奉行がた大ににくまれ給ひてこ
ろされしとなり
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(絵)
しかるにかのあさ草の惣門をこゝろざしてに
げ出けるともがら、貴賤上下いく千万とも数
しらず、されどもむかふは河原なり、枡
がたをだに出たらバさのミせきあふまじかりし
を、いかなる天魔のわざにや籠屋の科人ども
ろうを破りてにぐるぞや、それのがすなとらへ
よといふ程こそ有けれ、あさ草のますがたの惣
門をはたとうちたりけり、これはおもひよらず
諸人いづれもわきまへなく、跡よりくるまをひ
きかけひきかけ押来る程に、伝馬町よりあさ草
の惣門つゐぢのきハまでそのみち八町四方があ
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ひだ、人と車ながもちとひしとつかえて、いさゝ
かきりを立つべきところもあき地ハさらにな
し、門はたてゝあり、跡よりハ数万の人おしに
押されてせきあひたり、門のきハなるものども
いかにもして門の関貫を引はづさんとすれ
ども、家財道具をいやがうへに積みかさね
たれば、これにつかへてとびらさらに開かれ
ず、さてこそ前へ進まんとすれば門はひらけ
ず、うしろへかへらんとすれば跡より大勢せ
きかくる、進退ここにきハまり、手をにぎり
身をもみて只あきれはてたるところに、北の
かたはじめ焼とまりし柳ハらの火おこりて
ぜいぐわんじ前の大名小路へおしうつりて立
花左近、松浦肥前、細川帯刀、丹羽式部
少輔、安藤但馬、加藤出羽守、おなじく遠江
山名禅閣、一色宮内少輔、都合三十五ヶ所、寺 *寺方
がたにハにちりんじ、ほんぜんじをはじめとして*日輪寺 本泉寺か
ちそく院、こんがう院にいたるまで百二十ケ寺 *知足院、金剛院
一同にもえたつ、右伝馬町の火とひとつにな
りて焼あがり、ほのほハ空にみちみちて風に
まかせて飛び散りつつ、かさなり、集まりおし
あひもミあふ人のうえに三方よりふきかけ
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しかば、数万の男女さハぎたち、あまりに
たえかねて、あるひハ人のかたをふまへてはしる
もあり、あるひは屋の上にあがりてにぐるも
あり、これハこれハといふ程こそありけれ、高さ
十丈ばかりにきりたてたる石垣のうへ
より堀の中へ飛び入けり、命のたすかる
かとかやうにせしともがら、いまだしたまで
おちつかず石にてかうべをうちくだき、かいな *腕
をつきおり、半死半生になるもあり、したへ
おちつくものハ腰をうちそんじてたちあが
ることを得ざるところへ、いやがうえにとびかさ
なり、おちかさなりふみころされ、おしころ
され、さしもに深き浅草の堀死人にてうづ
みけり、その数二万三千余人、三町四方
にかさなりて、堀はさながら平地になる
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(絵)
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のちのちにとぶ者ハ前の死骸をふまへて飛
ゆへに、その身すこしもいたまずして河向ひに
うちあがり助かるものおほかりけり、とかく
する間に重々にかまへたる見付の矢倉
に猛火燃えかかり大地にひびきてどうと崩れ
死人の上に落かゝる、さて人にせかれ、車にさへ(ぎ)られ *()脱字か
ていまだ跡に逃おくれたるものどもハむかふへす
すまんとすれバ前にハ火すでにまハり、後によりハ
火のこ雨のごとくにふりかゝる、諸人声々に
念仏申事きくにあハれをもほよす間
に前後の猛火にとりまかれ、一同にあつとさけぶ
声、上ハ悲愴のいただきにひびき、下ハ金輪の底迄
も聞ゆらんと、身の毛もよだつばかりなり、翌日
みれば馬喰町、横山町の東西南北にかさなり臥
たる死人のありさま、眼もあてられぬありさま
なり、さてその夜の亥の刻ばかりにうつりては
悪風なおもしづまらで、海手をさして下屋敷
以上十九ヶ所ひとつも残らず炎上せり、此時
にあたつて御倉のうしろ、逃げおくれたる
もの七百三十余人有けるが、御倉に火かゝりて詰
置かれし米俵にもえつきたりければ、諸人こ
の煙にむせび、うちたおれ、ふしまろび
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あるひハ川中に転び入て死す、それより
炎は七八町もへだてし大河を飛こえ、うし島 *現回向院付近
新田にいたり、しまの在家迄ことごとく焼
ほろびて、其夜の寅の刻に火事ハこれ
までにてしづまりぬ
(絵)
P18
夜すでにあけくれば四かく八方へおち散たり
ける者共、親は子を尋ね、夫は妻をうしなふ
て涕とともに声うちあげ、そんでうそのなにがし *そんじょ其何某
と名を呼びつつ声々によばはりて、やうやう
尋ね逢てたがひによろこぶ人もあり、又は
死にうせて巡りあふ事なく、力をおとして
歎くもありて、ものゝわけも聞えず、ここかしこ
にあつまりて焼死て重なり伏したる死骸
どもをかたずけかたずけ、親子兄弟夫婦の屍を
尋ねもとむるに、あるいひハかしらの髪みな燃え
つくして半は過て大方尼法師のごとく、くろ
くすぼりに焼こがれ、あるひハ小袖着る物みなもえ
うせて五躰焼めぐり、竪横に肉さけて魚の *ししむら 肉叢
あぶりもののごとくなるもあり、みしにもあら
ぬおも(面)わすれして、それかこれかと見ちがへてたず
ねまどへるもおほかりけり、その紛れには盗
人共たちまじりて死人の腰につけ、肌へに
つけたる金銀をはづしとり、その焼金をもち
出て売代なす、これをまた買とらんとてあ
つまりける程に市のごとく、その外町の中
辻小路におとしすてたる家財雑具共数も
しらず、拾ひとり持ち出して売りしろなし
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にわかに徳付たるものもおほかりけり、らくさい
ばう又かたりけるやう、それがしの母も行き方
なくなりしかば、今は定めてむなしくなりぬ
らんとおもひさだめ、夜のあけがたに死人のか
さなり臥たるあたり、彼方此方と尋ねも
とめしに、母に似たる人焼死てうち臥たるを、こ
れこそそれよいざや家にとりてかへり葬礼
仏事せんとて戸板にのせて家にかへりければ
孫子兄弟跡まくらにさしつどひてなげき
かなしむところに、門よりしてまことの母かへ
りきたれり、人々此よしを見て、あれはいかに
はや亡霊になりて来り給ふぞや、此日比
申給ふ念仏は何のためぞや、妄念をもさま
して、すみやかに極楽の上品上生に往生
せんとこそおもひたまふへきを、まだ此娑婆に
執心を残して亡霊になりて来り
給ふかや、あさましき御事也、とくとくかえり給へ
跡をばねんごろにたふらひてまいらすべし
かまへて六だうの辻にばしまよひ給ふなと
いひければ、母大きにおどろき、われハ芝口まで
逃のびて命たすかり侍り、死なずしてかへり
しをばよろこばで、これはいかなる事をいふぞや
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と申さるゝ、人々聞て御死骸はまさしくこれに
有、死なずと宣ふこそ心得侍らねとて、彼取
てかへりし屍を能々みれば、さしもなきものゝか
ばねなり、人たがへは世の常あることなれども
にがにがしき中におかしかる事也、まず何
事もなく帰りおはせしこそうれしけれとて
とるものも取あへず、かの屍をばひそかにかき
すてたる由々しさよ、さらば一家は何事なく
たすかりける祝ひ事せよやとて、酒肴かひ
もとめてかなたこなた数献に及びてよろ
こぶ事かぎりもなし
(絵)