通信講座5

古文書を楽しむ会通信講座 第五回 二〇二〇年五月廿八日

〇教材

景清の墓又は霊 出典 視聴草(みききくさ)三集の一 国立公文書館

〇背景 藤原景清は源平合戦の頃の平家方の勇猛な武士で悪七兵衛景清として、能、歌舞伎、浄瑠璃等に登場し、義経と同じ様に人気のある武士だが、能や歌舞伎の創作が先行して実像はよく分かっていない様である。

源氏が政権を取ると日向に流されたと云う説があり、源氏の世を見たくないと自分で両眼を潰した等の逸話がある。

教材は日向国宮崎郡(天領)の代官が江戸時代中期に偶然景清の墓を発見した所から始まる。

〇視聴草は江戸後期の幕臣宮崎成身が見聞した事件や災害の記録、あるいは貴重な資料や怪談奇譚を百七十六冊に纏め、江戸後期から幕末にかけての世相や風俗、幕臣たちの生活をかいま見ることができる。 成身は又林大学頭達と共に幕府の「通航一覧」等の編纂事業にも参加している。

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〇解読

P1

景清の霊 *視聴草目次は景清の墓とする

日向国御代官池田喜八郎、享保四年の頃其国の郷

村見分として野廻りの折節、宮崎郡羽木村と云 *羽木村の存在は?、他説は下北方村

在所の野はつれに一ツの塚有、其上に苔むしる *堂→た

石塔あり、蔦かつらはひまとひて其かたちもさたか

ならす、在所の老夫にとへともいかなる者のしるしと *問えども

いふ事をしらす、喜八郎怪敷おもひて草なと取

はらハせ、苔をおとして見れハ文字あり

P2 右

建保二年辛酉 *1214年

水鑑景清居士 裏ニ 悪七兵衛景清ト有 *景清の法名

八月十五日

喜八郎是を見てむかしの事なとおもひ出て所の者に

言つけてあたりのかやなとはらハせて掃除なと *茅

致させてあたりの竹なとにて垣なとしつらハせて *設らはせ

また其次の村へうつりてかへりぬ、翌年八月十五日ふと

おもひ出て一首の和歌を詠して、家来に持せて彼

墓所へつかはせし歌

代々ふとも曇りやハする水かゝみかけ清かれとすめる心は *代々経とも

此歌を持て使の者半途にて出し折から、怪敷老夫 *怪しき老夫

P2左

何となく道つれとなりて物語ひとつふたつして、いかなる

御用にて此野へハ来り給ふと問ふ、使の者しかしかの事

にて景清の墓へ和歌を手向るといふ、老夫此事を聞て

さてさて有かたき御心さし也と感涙して、其歌をくるし *苦しからずば 嫌でなければ

からすハ拝見致度と願ふ、老夫にハやさしきこゝろさ

しとて見せけれハ、御秀作とほめなして、恐れなから

我も一首腰折をつくり申へしといふ、紙筆を乞、使の *下手な歌(謙遜して)

者懐中より紙筆をつかはしけれハ老夫一首の和

歌を詠す

心たにすめはかけきよ水かゝみくもらす過る代々そうれしき *曇らず過ぎる

P3右

使の者此歌を見て志をかんじ、其方ハ所に住るものか又は

遠国より来りたるかととふ、此老人答ていふ、所に久しく

住せる者といふて供使の者にいひけるハ、御代官様の御歌

彼古塚へ御手向候ては風雨の障りありて、末々誰しるも

のもなくして御代官様の御心さしも無になるへきなり

幸この先二町程行てひとつの寺あり、景清の古

しへ観音、其外かゝれたるもの等今ありて、ことに *景清の時代の観音の意味か

景清の位牌も此寺にあり、此へ御手向被成、住持へも *おたむけなられ

此御志を御しらせあらハ、末々此詠歌も御名も

残るへきといふ、使の者尤なることに思ひて、かの

P3 左

老夫を案内として一二町ゆきてミれは寺あり

妙法寺といふ、老夫は玄関に残りて案内して *他書では沙汰寺、誤写しやすい文字

寺僧をつれて景清のいはいを拝して此歌を

手向、住持も再吟して誠に喜八郎の心さしを

感心して、景清のあらはれたるかと世の人

いふ

右享保四年之事なり、建保二年より五百二 *享保二年 1717年 *建保二年 1214

十七年になる *間503年 干支二回分の誤差か?

〇解説 現代語訳は省略

この咄は視聴草の宮崎成身より五十年程前の根岸鎮衛(佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行等歴任)が寛政から文化年間に書き残した耳袋にも、微妙に違うが和歌を中心に載せている。 小生耳袋は岩波文庫三巻迄しか所持しておらず、同文庫四巻に載ると云う文をネットのやぶ氏ブログから引用させて戴く。

「御代官を勤し三代已前の池田喜八郎西國支配の時、享保八年日向國に景淸の塚ありと聞て土老へ尋しに、宮崎郡下北方村沙汰寺といへるに寺の石碑をさして、是なる由申ければ、能々其碑を見るに、年經ぬると見へて苔むせしに、水鏡居士と彫付あり。喜八郎は和歌をも詠ける故、 世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は、と書付、其邊へ出役(しゆつやく)せし手代に爲持(もたせ)、右墳墓へ手向けるを、頰骨あれて怖げ成老人、何事也やと尋る故、景淸の塚と聞て和歌を手向候由申ければ、奇特成事、我等無筆也そこにて書給はるべしとて、乞(こふ)に任せて筆取ければ、心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき と言て書消て失ぬる故、其邊の草刈童に尋しに、何方の人にや不覺(おぼえざる)者の由申せしとかや。」

又地元宮崎市大宮地区の史跡案内書には、以下の説明がある。

「沙汰寺跡の境内には、平景清を祀った景清廟があります。景清は、平家滅亡後に日向国に下向し、宮崎郡内で300町を領し、宇佐・厳島・稲荷の三神を勧請して古城に八幡宮を建立したと伝えられています。境内には平景清の墓と伝えられる石塔があり、寛政四年(1792)に下北方村を訪れた高山彦九郎は「筑紫日記」に、「薬師堂南向右に水鑑景清大居士墓、西向千手石、並ひて社の如く覆ひ有り、行人削りて目の為、瘧の為メにす、景清墓二尺、高サ五尺余有り、古の墓碑は沙法(汰)寺に納むと云ふ」と記しています。」

註 高山彦九郎は草莽の勤皇志士として、幕末の勤王の志士達の精神的支柱だった様で明治維新後神格化されている。

景清廟は偶々小生友人の近所なので、此度写真を数枚送って貰った。 どれが前述三名の云う石塔なのかは不明だが、昔からの言い伝えがある事は確かである。 墓石写真の右端の石碑は昭和十年の銘があり、「景清公の塚」となっているので、その左隣の五輪塔かと思われるが文字は何も見えない。 尚景清の墓と称するものは大坂や島根にもある由だが、正保二年(1712)成立の和漢三才図会の日向国の項に佐土原の南に景清墓がある旨記されている。

宮崎市下北方町の景清廟

中は分からないが琵琶などがあると言う咄である。

明治の初めの廃仏毀釈で寺(沙汰寺)は取り壊されたがその境内に残る墓石。 右端の石碑には景清公塚、裏に皇紀2595とあるので昭和十年(に整備したものか。

左は下北方町の景清廟から大淀川を挟み、3キロ程西南の宮崎市生目にある生目(いきめ)神社で、祭神の一人は藤原景清との事。

目の病気にご利益があると昔から伝えられている由。

景清が抉った両眼を納めた神社とか。