古文書鵜を楽しむ会通信講座 第三回 二〇二〇年五月一四日
〇街談文々集要
文化文政期(1804‐1829)の巷の話題を十八巻(文化元年から略年一巻)に書き記したもので作者は石塚豊芥子(1799‐1862)。 分野は広く当に新聞、週刊誌と月間誌を合わせたようなもの。今回は第十巻十八話の文化九年の神奈川地震についての雑記を読む。 絵があるがこの絵は次の十九話の吉原の火事の絵と思われる。
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〇解読
第十八 関東大地震
十一月八日未ノ中刻大地震にて江戸中所々土蔵毀れひゞ *午後二時頃 *丹→に
破れ、土を落し土台めり込打片向、家々者庇・大屋根・鬼瓦・ *者→は *庇(ひさし)
丸瓦・けらば残らず打落し、怪我人多く数しれず *けらば瓦(切妻側瓦)*志連春→しれず
御城御館向者御別条なく、御櫓御塀内外、御廓御見付所々
大小名御屋敷の破損数多ニ而書に遑あらず、予勤し主人 *数多 あまた *予 自分
の庭に六尺四方程のたゝきの泉水ありしか、ゆれにて水溢 *耳→に
漆喰たゝき打崩れ、天水桶片向或ハ打かへしたり、其節同 *多→た *傾き
勤吉兵衛といふ者雪隠ニ居たりしニ、足を踏こたゆる事不能 *不能 あたわず(出来ず)
終に片足ふミ落しぬ、此朝茂兵衛と云もの、相模の得意廻りに *怒→ぬ
旅立、神奈川ニ而此地震ニ逢ひ難義せし由、当宿にて商人の
女房乳吞子をかゝへ、亭主共三人往還江逃出んとせし時家ひしひしと*逃の異体字(兆でなく外)
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潰れ、親子三人鮨を押たる如くなりて死去せし由、哀れなる
事ともなり、其外死人怪我人多かりしト云々、此節小田原の飛脚
来り噺にハ小田原御城所々破損、御城下地裂、死人怪我人数多 *丹→に *数多 あまた
箱根向ふ沼津少々震ふ、伊豆国右同断、小田原ゟ大磯平塚辺
街道所裂、並木の松多く倒るゝ、藤沢・戸塚・程ヶ谷右同断、
神奈川・川崎地裂、家土蔵多々崩レ死亡怪我人数しれず、六郷
両岸共地大裂、土砂吹出し大森辺右同断、品川宿家土蔵
大損しなりと聞まゝをしるせり、又上野御成街道ニ綿屋にて *ニある、か? *亭→て
土蔵四方江裂、屋根両方江なだれ落、土蔵に隣合の家々者皆
家根瓦を打砕き壁を落し、柱を曲ケ二階根太落ち、家々傾き *幾→き
梯子丸太にて押へ請止め、其騒動言語に尽すべくもあらす
日光道中ハ千住ゟ宇都宮近辺にて大震ひなし、中山道同断、東
海道者駿河ゟ先者一向地震無之由ト云々、其節
大地震ゆり直すのか潰すのか上はひりひり下はぎちぎちぎち よミ人しらす *須→す *飛→ひ
〇解説
現代文訳は省略するが、本文は色々な変体仮名が使用されており、文章は難しくないが現代人には読みにくい所が多い。 「に」にも耳、丹、ニが使われている。
この地震は文の様に神奈川県が中心のようで、文化九年神奈川地震として記録ある。
〇古文書を始めて間もない人のための補講。
・時刻について。
表記方法が二つあり、一つは十二支の子を零時として、二時間毎に順に丑が夜中二時、寅が四時、卯が朝六時、辰八時、巳十時と進み、昼十二字が午(正午とも)となる。更に二時間の中を上刻、中刻、下刻と分けている。
今一つの表記は昼十二時が九ツ、二時が八ツ、四時が七ツ、六時が六ツ、八時が五ツ、十時が四ツ、零時が九ツとなる。 従ってこちらは夜八ツとか、昼八ツとか言わないと夜中の二時なのか、午後の二時なのか分からない。 又二時間毎になっているが、間の奇数時刻は半で表す。 午後五時であれば夕七ツ半となる。
この他によく幽霊咄に出て来る「草木も眠る丑三つ時」と云うのがある。これは二時間を三十分毎に四つに分け、丑は夜中の二時であるから丑一つは一時から一時半、二つは一時半から二時、三つは二時から二時半、四つは二時半から三時となる。
従って幽霊の好きな時間帯は夜中2時から2時半と云う事になる。 但しこの表記方法は一般には余り例を見す、前二つの表記が多い。
・方角
方角も十二支で表す。 北を子とし丑、寅、辰、卯(東)辰、巳、午(南)、未、申、酉(西)、戌、亥となる。 丑と寅の間を艮(うしとら、北東)、辰と巳の間を巽(たつみ、南東)、未と申の間を坤(ひつじさる、南西)、戌と亥の間を乾(いぬい、北西)という。