摂陽落穂集別本1

摂陽落穂集には二種類の系統があり、一つは大坂錦城の事からはじまる十巻本と、今一つは大坂古名の事から始まる十巻本がある。此処では後者の第一巻を読む。 写本は国立公文書館にもあるが、序文のある早稲田大学図書館本による

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摂陽落穂集序

秋の田の穂ひろふわざは寡婦の利と

こそきけ、予ふるきを温るさがありて  *さが→性

あまたのとし月、かゝることにのミかゝつら

ひて畿内をはじめ遠きあたし国を    *あだし→他の

さへ問求め聞あきらめたれは隠れたる  *明らめ

名所もゆふつく夜たとたどの迦羅    *夕づく  *唐言?

言さぐりいでたるをかいとどめつつ数の *書きとどめ

 

巻をなせり、そが中に摂津の国名は石上 *そが→其 石上→古の枕ことば

ふるき代より物知り人の文に絵に詳

なれハ、級戸のかぜのいふきはらひし *級長戸辺命(しなとべ)=風の神 

ミそらの雲の残れる處あらねど     *か勢→かぜ 風

おのがしらぬ□国に筆たて初ぬは

いとまいとまほい難しと、こゝかしこの *暇々 *本意難し?

田つらのくまくまをもとめいてゝ、早稲(わせ) *田つら→田面 *隈々

晩稲(おくて)のわいためなくひろひ入たる    *わいだめ→区別

なればとて摂陽落穂集と号

侍る事になむ

 文化五秋の日    濱松歌国

     筆を収む


摂陽落穂集第壱之巻

   一大坂古名之事

   一大坂の坂の字之事

   一道頓堀川の事

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   一上納年貢高之事

   一町名帳切銀之事 

   一売家御許容御印紙之事并惣年寄之事

   一往古の宗旨手形之事并ニ巻おさめ之事

   一往古銀借付証文之事

   一御町奉行三人之事

   一大坂三郷之事并ニ明珎火事之事

   一天満天神祭之事并ニ淀屋辰五郎之事

   一堂しま調合米之事并株札御免之元

   一米相場御免御触之事并ニ江戸堀相庭之事

 

     大坂古名之事

大坂といへる地名古き書、和歌などにいまだ見へず

おもふに日本紀第十一巻仁徳皇紀二十二年春

正月、天皇ヲ八田皇女為妃時、皇后贈答

歌曰

阿佐豆磨(アサツマ)能() 避介能烏瑳(ヒカノヲサ)介()烏() *朝妻の *小坂を

介多那耆珥(カタナキニ) 瀰致喩區(ミチユク)茂()能() *片荷 *道行く者も

茂多愚譬氐序豫枳(モタグヒテゾヨキ)    *たぐいてぞ善き →寄添うのも良い      

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釈日本紀にいわく阿佐豆磨、朝妻といふ難波の

地名也、避介能も所の名、烏瑳介ハ小坂(おさか)と書り

これらの歌より出たるなるべし、承徳年中の    *10971099

古図を見るに大江の岸の巽、生玉の庄に小坂村と

いへるあり、後世村民繁栄して民家莫大の

地と成、時の人小坂を転じて大坂とするか考ふべし

 

  大坂の坂の字の事

或人のいわく大坂と書に坂の字を用ゆること心得

有べし、坂の字ハ土扁に反ると土にかへるとあるゆへ

忌きらひ阝扁に書へきとあり      *明治五年以降 大阪になる

 

  道頓堀川の事

元和元年大坂落城の翌辰年より松平下総守殿  *松平忠明 家康の外孫

御知行となりて北船場南船場二郷に天満の

郷今三郷と呼ぶ、大坂御陣の時離散の町人とも

御引戻し仰付られ、諸人安堵の思ひをなし万世を

となへよろこべり、上町東堀までハ諸し(士)方御屋鋪

にて御曲輪の荒地、伏見より弐百丁(町)ほど御引移

しにて今惣年寄先祖は慶長八年のころ

長崎表唐物入津御取締の節、長崎、江戸、堺

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京、大坂五ヶ所之間、百貫目以上の身体〈代)の町人御撰ミ *銀現代価値 一億円  

出し遊され、町方支配仰付られ元〆衆とも相唱へ

御年貢の地子銀取集め未進等は取替遣し

則松平下総守殿へ上納致され候よし、町々

年寄も元〆衆より極められ候、其頃今の嶋の内

荒野にて三津八幡も小宮祠又三津寺もいたつての

小庵のよし、東堀より長ほり、西横堀今の道

道頓堀までハ四百五十間余四方をハ下総守殿ゟ *450x450=202,500坪 67.5町歩

家建之義今の惣年寄安井五郎兵衛先祖へ

仰付られ町割等安井九兵衛致され候、今の道頓堀

 

東堀詰より木津川口まで荒地之所、則安井

拝領致され、川を掘りて南堀と名付引移され

道頓堀と改て可申由仰付られ候、 其外の

惣年寄衆先祖の寺地は所々に在之由、此義も

安井氏に由緒書物有之候

 

  上納年貢高之事

松平下総守殿へ納り候年貢高ハ *太閤検地 屋敷一反に付1.2石で計算

   古町之分   五千石  *5000/1.2   約400町余か?

   新町之分   六千百八拾三石三斗九升八合余

   合壱万千百八拾三石三斗九升八合余

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八ツ成納メ        税8割

   八千九百四拾六石七斗壱升八合余 *11,183x0.8=8,946

   印代壱石ニ付銀弐拾目替       *税石数を銀に換算 *20匁

   此銀高百七拾八貫九百三拾四匁余 *8,946 x 0.02=178.920余  現約1.8億円

 

     町方帳切銀之事       *帳切 家屋土地の名義変更

其頃の町方ハ家作り皆藁葺にて今の今宮

村天下茶屋むら見るやうなる姿にて、裏ハ

畑となし野菜を作りなどして明地多く家の

買人も無之よし、此節の家やしき買取候者より

 

其銀高の四十歩(分)一上納致し候と相見へ候、則帳切銀と

申、下総守殿御役人御請取書の写し

   請取帳切銀之事

  合銀  壱匁壱分五厘          *45匁x1/40=1.125

右南久太郎町弐丁目北側伝治郎後家屋鋪表口

四間裏行十五間銀四拾五匁ニ九郎右衛門方江売渡ス  *60坪 45匁

此四十歩一銀慥ニ受取候也

   元和二辰九月二日   島 庄吉

              村 五郎兵衛

              候 九太夫

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      九郎右衛門へ

 右請取書御印紙にて往古金銀の払底

 家作の様躰をおもひやり、今の家直段土地の繁昌

 なる事推量すべし

 

   売家御許容御印紙之事

元和五年松平下総守殿和州郡山へ御移りニ付、御城代

内藤紀伊守殿、御定番ハ元和八年よりはじまりて

玉造口稲垣摂津守殿、京橋口高木主水正殿、町

奉行ハ元和五年ニ始り東御番所ハ水野河内守

西御番所は嶋田越前守と御定なされ、元〆廿一人の衆

中に御目見へ被仰付、已後惣年寄之名目改て

町方支配是迄の通りニ致すべき旨を仰付られ

候て、是より江戸表へ御年頭の御礼の為、毎年下向

仕るへき旨を仰付られ、地子上納之義町年寄衆等

其通りつとめられ候よし

       惣とし寄御年頭の事委しく奥ニ記ス

扨町屋売渡しの義、町年寄より惣年寄へ相達

惣年寄裁判之上にて御奉行所へ御断り申奉られ

帳切銀ハ廿歩一銀子を上納の上御奉行所より

御許容の御印紙下され、惣年寄より相渡り候

印紙之写し奉書二ツ折ニして左之通り下され候

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   家屋鋪買取之事

一大工町三丁目見屋長兵衛家屋敷之事、表口

三間裏へ九間之所、年寄中以宰判、永代買取

由心得候もの也

   元和六年        嶋 清左

    庚申十月廿六日    久 忠左

           ふしや喜兵衛

右嶋清左等ハ御奉行所嶋田越前守様御名清左衛門様と

申、久貝因幡守様御名忠左衛門様と申、かやうに

御奉行様の御印紙被為出候よし    *出し為され

 

 往古の宗旨手形之事

一大工町三丁目岡弥五左衛門宗旨ハ本願寺門徒ニて

御座候、則夫婦女子二人以上四年共に我らの旦那ニて

御入候、為其一札如斯ニ候

               安養寺

                 正順書判

    寛永十一暦戌五月廿二日

      御町江参

往古ハ寺請証文と申も右躰の姿にて相済候

所に、寛永十五年肥前嶋原天草切支丹宗門

百姓一揆をはつし騒動に及び候、依之追々

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御征伐あり静謐の後、寛文年中に宗旨

人別御改に相なり、人別帳面に旦那寺の

印形を押、組合寺之連判仕候事ニ相成、元禄

八年寺之五人組印鑑帳、町々御渡し被成、宗旨手形 *寺の五人組もあった

の印形と引合取置候やうに仰付させられ、宗旨手形の

文言も御案紙被下候、三ヶ条証文、町人連判証文の

御案紙被下片折にしたため、毎月印形いたし

巻候て差上候所、とり候判ゆがミあるひは

書直し等も有て見くるしく候により、いつの

ころにか厚紙の折本に成、程村紙の宜敷と申、右之次第ゆえ *厚手の和紙ブランド

三ヶ条巻納めに唱へ残り候

 

   往古銀借付証文之事

      借請申銀子之事

一銀百五拾目也     *銀百五十目(匁)現在価値約15万円

右之銀慥ニ預り申候、万一銀子返済致し不申事

御座候ハヽ人中におゐて御笑ひなされ候とも

其節一言之申分無之候、仍而如件

   万治三年子五月  狭野や善兵衛判   *1660

   はりまや嘉兵衛との

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其頃は金銀貸借等一札もかやうの振合にて

事すミ候と見へたり、借銀不納の人笑ハれ候事を

大きに恥辱と思ひ居候程の事故、御公儀様の

御苦労等にハ預るまじ、今大坂繁栄ニ付てハ

次第に人家もまし、金銀貸借の出入も夥敷

自然と事六ケ敷成行候

 

  町奉行三人の事

元禄十二年今の東御番所に御奉行三人かゝりと

いへりといかゝ致せし事やらん、其訳ハしらず、則

御奉行様の御性名ハ長見甲斐守、安田美濃守

松平玄番頭其節の大坂の絵図に如此出たり

 

   大坂三郷之事

三郷といへるは北組、南組、天満組なれとも大坂ハ

二郷にて天満ハ南中嶋の内也、今当地繁昌

にて町続なれとも、古き絵図ニ今の市場の辺ニ

建家なし、其頃わらんべ口すさみに

 大坂の餅と天満の餅とくらべて見れハ

 天満の餅ハ大きい事ハ大きいが豆の粉がすく *豆の粉 あんこか

 のふて 下略

今に人口に残れ共これらを証とするにはあらず

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意朔翁の連歌に

  漕出て作る鯰の船遊び天満の神事    *天満橋の上流 鯰江川か

  見るハどこ衆

  大坂は二郷にわかつて北南、念こそいるれ

  宗旨あらため

  契るてふ未長からん縁組に 下略

此意朔翁ハ大坂惣年寄の役伊勢村氏也(当時難波橋西詰)

其頃の連歌師にして天和の高名集、万治の百人

一句、寛文の歌仙等に出る名人といひ、別而役柄の

人の句作なれバ証とする、近くハ享保九年辰三月

大坂大火之節  御公儀様御帳面之写を見るに

大坂三百三拾八丁天満七拾丁焼失、大坂家数六千弐百

四拾七ケ所、天満家数三百拾八ヶ所、竈数四万七千八百

三拾九軒、天満竈数壱万三千四百五拾三軒焼失と有

これらを見て思ひ合すべし

 事のつひでなれバ爰に記す、天満天神の鳥居の

 前ニ明珎火打といへる商家あることハ世人しる所也  *火打ち石屋か

 案するに此出火は

 大坂堀之江橋通三丁目金屋喜兵衛借家金屋妙知ゟ

 出火とあり、されバ妙知が火はよく出るといへる心ニて

 名付しが、いつしか明珎といひあやまりたる成べし

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   天満天神祭の事

わらんべのたハむれに尻まくり御法度、けふ(今日)は

廿五日といへる事あり、いかなる故とかおもひしが、古翁

のいへらく西成郡南中嶋いまだ町家とならざる頃

大将軍の社へ菅神の鎮座まします(此義ハ世人のよく知る處なれハ略す

例年六月廿五日に菅神の祭礼を行ハれるに

もと大将軍を産土神とあふぎ奉れバ菅神の

祭礼廿五日を失念する事度々也、それゆへ

村長此日に農作に出る人をとどめ神事に詣で

させんとて、尻まくり御法度、けふハ廿五日と

 

うたわしけれバ、農人等フト心付尻からげして野に

出る事を止め菅神をまつりしとぞ

 往古はかやうの素質なりし祭礼ハ次第に広大に

 成、浪花第一の神事とあをぎ奉、御神徳いち

 しるし、都鄙の老若炎天の暑きをいとはず

 大川の川面に群集して祭礼を拝し、夜は

 数千のてうちんの光り諸人の目をおどろかし

 遊山の舟ごとに花火を上て吉野竜田の

 春秋におとらぬ夏の夜の景色、けふは

廿五日とうたひし昔に似たる事朝暮の

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参詣の繁きを見てもおもひやるべし、扨又

昔浪花の名物と呼りし淀屋三右衛門も先祖

ゟ九代目辰五郎の時にあたりて、宝永二年  *九代→五代目

酉五月に退転せり、其五年已前天満天神ニ  *闕所処分

奉納の詩仙あり、ものゝつひでなれバ爰に出す

菅家神退八百年、万句の連歌、於摂津国

西成郡南中嶋惣社天満宮興行

    元禄十四辛巳二月  初四日  習礼 *予行日

              十五日  満座 *法会最後の日

    第二 春雨期何

 春雨のもらさぬ四方の草木哉     廣當

  紐とて(く)花を待て見ん庭    宗雲  *紐解く 蕾が開くの意あり

 初蝶のやどれる垣ね日ハさして    則喜

右発句は淀屋辰五郎、脇は平野住人大文字や四郎左衛門

第三ハ松本岩之助といひし人なりとぞ

 

  堂島帳合之事

大坂表米相場といへるは淀屋辰五郎先々代三右衛門

御公儀様御取立遊され、諸家大名方御廻米

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引請候商売を始けれバ諸方より数多の

人数あつまりて、北浜淀屋橋の浜先にて商売

を致しけり、これ正米相場の始めなり

御公儀様ゟハ諸方廻米引請の御朱印を下され

て数年米市相続せしが、辰五郎身上召上ケ

に相成、御廻米の御朱印も御取上ケ被成候ゆへ

今の堂島へ所替して相替らず賑ハしく

米相場立会いたせしが、とかく正米商内ばかり *正米 現物

にてハ追而売つなぎ買つなぎの商内も出来がたく

ゆえ、其節柴屋長左衛門、備前屋権兵衛といへるもの

 

建物米と申すものを立置、切月限日をきハめ、日限

迄の内を延売といふ事をはじめなバ、場所も繁栄す *延売り 先物売買

べしといひ出しけれバ、諸人より集り居たる

ものともいづれも是は尤と同心なし、夫より右の

仕方の商内をはじめけれとも初々敷事なれバ

いかがあるべきと思ひの外人数あつまりて

互に振合ハ相対にて限月迄に済来りしが

おひおひに人数相増し候ゆへ、振合の相対にては

済がたきやうになり、夫ゟ支配人と申者を相定め、賃金

を以て支配させ候ハヽ埒明もよろしかるべしと、又々

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相談におよひ支配人と申者始りける、是当時の出来

両替也、尤延売買の事なれバ 御公儀を恐て

やはり両替屋の帳面にてハ正銀正切手の出入のやうに

いたしける、支配銀を歩銀と名付壱貫目にて

何ほどと相定候、しかる所に享保六年辛丑八月

廿六日米穀年来高直なるゆえ、御政道あつて

右相庭の場所へとり手の役人大勢来り、米仲買之内

六七人召捕て帰られけるゆへ、相庭ハとんと相止けり

扨六七人の米仲買は御奉行所北条安房守様の

御前へ召出され、相庭の仕方を御尋遊されけれバ

 

紙屋治兵衛、高田屋作右衛門ハ年長たる者ゆへ延売買の

委細申上るやうに仰付られ、両人の者申やうハ元来米

相場の義ハ淀屋橋浜にて立会致せし所、其後今の

堂島新地に移り尤堂島は新地の事に候ゆへ

所繁昌のため、年来の正米かけ引のつなぎの為に

延売買を相はじめ候事、毛頭不日の仕方にて

ハ無之、勿論淀屋与右衛門にハ米相庭御免之御朱印

下し置かれ候所、辰五郎闕所の砌右の御朱印も御取上に

相成候よしつたへ承りおよび候、右申上候通り正路の

商内に相違なきよし申上候ニ付、御奉行仰出され

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候にハ、両人ハなん歳に相成候哉申上べしと御尋

遊され候ゆへ、治兵衛ハ六十四才、作右衛門ハ六拾六才罷成候と

申上候處、追而御沙汰有べきよし仰渡され、其後

六七人の者とも残らず御召出し遊され、御奉行

安房守さも御相役飛騨守様と御立会之上、米相場

御朱印と申儀決而無之事にして、正米売買之義ハ

格別也、已来延商内停止申付候間、其旨相心得申べき

とて此度は何の御𠮟りも無之、夫より延商内相止候

所、翌年寅二月頃より又々少々ツヽ忍び忍びに

売買致し候所、同四月三日又々三四人召捕られ停止

 

申付置こと猥りにいたし候段不届至極也とて闕所

仰付られ候、是によつて其後ハいさゝかの忍び商内

仕候ものも無之候処、享保八年極月にいたり米穀

千石までハ売買致し候てもくるしからずよし

風説いたし候ニ付、同九年辰正月より少々宛商内

立会いたすべき旨内談有之しが、同三月廿一日

大坂大火にて万事混雑に及び候を経て静謐

に相成候へとも、五月前津軽米を建物にいたし売買

いたし候得共丑寅の両年召捕れ候人も目のあたりに

見来りさうどうに及し事故、仲買共も危踏居     *騒動

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候處、同十一年丙午江戸表におゐて紀伊国屋源兵衛と申者

大坂にて米会所仕度段願ひ奉り則御聞届有之て

当表におゐて米会所相始候所、程なく同十二年丁未

川口屋茂右衛門、中川清十郎、久保田源兵衛右三人願上奉りて

又候や米会所出来之所、故障の義ありて御取上ケ

相成り候、同十四年酉とし冬木善太郎と申者願出候而

小浜壱丁目にて米会所致し候得共是又相止ミ

同十五戌三月仲買之内田辺屋藤右衛門、尼崎屋藤兵衛

加嶋屋清兵衛右三人仲買惣代として江戸表へ罷下り

大坂表におゐて米商内之義御免願上奉り、此時

 

加賀守様旅用金御拝借仕り候故、御奉行様大岡

越前守様御評定所にて御糺之上大坂米商内

之義ハ意味深長なる事ども御聞取遊され、同八月

大坂米商内之義ハ古来より致し来り候仕法をもつて

流相庭商内諸国商内ともゝ大坂米商内仲買

勝手次第手広く売買を仕段、江戸表より

仰付させられ御触在之候ニ付、先年之通りにて堂嶋に

おゐて仲買一統恐れなく売買始め申候、其頃米

直段下直ニ付、同十六年亥十月仲買之内加嶋屋久右衛門

枡屋平作、津軽屋彦兵衛、俵屋喜兵衛、久宝寺屋多兵衛右五人

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当御番所へ召出させられ、米直段引立に相成べき義

有之候ハヽ申上候様仰付られ、仲買一統に相談之上

米仲買人数を相定め、諸御蔵米御払米之節

入札をもつて買請候へハ米直段〆りよろしく有之

べきや、其段申上奉り候處、御奉行様稲垣淡路守様

松平日向守様ゟ江戸表へ右之趣御達し遊され候ニ付

亥十二月大坂米仲買御札 

焼印附御印札出させられ、御株札四百五拾枚てうだい仕 *頂戴

江戸御帳面株高弐百四拾枚之内ニ有、同十七年子ノ四月

 

五百三拾枚てうだい仕候て同廿年卯七月三百六十弐枚

都合千三百五拾弐枚、万代不易之御株札てうだい仕候て

仲買一統難有御事とよろこびあへり、亥十二月御召

遊され候加嶋屋久右衛門、升屋平作、津軽屋彦兵衛、俵屋喜兵衛

久宝寺屋太兵衛右五人江米年寄仰付られ、これより

して米年寄相勤候もの御番所へ脇さし御免      *脇差

上下御免之上□訴訟仕候事、全米直段引立之為仲買  *かみしも

人数株江仰付させられ、冥加至極難有御事也、さて

やりくり両替ハ同年当御番所様へねがひ奉り

五十軒仲間御免仰付させられ、両替屋印札には名前

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人店十ヲ御書付在之候、仲買御株札ハただ大坂米仲買

と計り成しが、其後

寛保元辛酉年松浦河内守様、佐々木美濃守様、

御奉行之時、御株札焼印御改なされ候

      八木

恐多くも 有徳院殿様御威徳によつて御免  *徳川吉宗 八代将軍

なし下され候事忘るへからず、御老中には松平

左近将監様、酒井讃岐守様、松平伊豆守

黒田豊前守、小出信濃守、松平右京大夫、井上河内守

西尾隠岐守、御勘定奉行細田丹波守、松岡佐渡守

寺社奉行黒田豊前守、御町奉行大岡越前守

因幡下野守、大坂御城代土岐丹波守、御町奉行

稲生淡路守、松平日向守、右御触有之て御賢

察をもって御株札下しおかれ幾世たへせぬ

米市場榮へ榮へて目出たかりける

古来ゟ致し来り仕方ヲ以流相庭商内諸国商内人

并ニ大坂仲買勝手次第ニ可仕候、両替之義ハ出来候

五十軒余之取計らひ、敷銀其外相場差引勘定に

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之義前々之通りいたし商内障り成不申様可致候

畢竟米相庭宜成り候が為之事ニ候、其趣をもって

勝手次第商内可致候、尤冬木善太郎米会所之義

相止、取組古来ゟ有来り候儀ハ構ひ無之、若古来ゟ

無之候儀を新規ニ拵出し、古法と申紛敷義在之バ

詮議之上急度曲事に可申付候、米商内ニ付ては

公事訴訟ハ古来の通り不取上候、然ハ有来り之外ニ

おゐてハ格別候、惣て仲買之自分の趣意ヲ

以、猥りに仲買之騒敷義無之候様可致候、右之趣

従江戸表被為仰越候間、三郷街中不洩様可相触者也

  享保十五年           日向

    戌八月十三日        淡路

 

     江戸堀相庭之事

      安堂寺町壱丁目     

        大坂屋行兵衛借家

            相模屋又一

右之者依願、今般於江戸堀三丁目米市場御免

両替株仲買株堂嶋之通ニ候、御払米儀御蔵米

入札可致候、株札望之者ハ右亦市之相対可致者也

   申十一月