レイソン・ヤッパン巻3
日本に関する雑誌(1852)

今回取り上げた史料は1846年から1850年迄長崎出島に勤務したオランダ商館長J.H.Levyssohn(レヴィソン)が帰国後オランダハーグで出版したBladen Over Japan(日本雑纂)1852の中の「第三章米国の日本へのアプローチ計画」である。 この部分の翻訳は18534年頃日本で行われたと推定される。 その写本が幕府書物方の宮崎成見による視聴草続七集之七(国立公文書館内閣文庫)、又1854年開港した函館奉行所に勤務した力石勝之助の力石雑記巻34(北大北方史料館)の中に残されている。 原本復刻版はオランダ語だが米国で市販されており、第一章は日蘭関係歴史(歴代商館長名など)、第二章は著者在任中の主要な事柄、第四章は日本の概要である。

  第三章の内容はアジア諸国との貿易拡大を図る米国が日本の開国を望んでいたところ、偶々同国捕鯨船が北海道沖で遭難して全員救助され送還されたが、その扱いを巡り米国世論が沸騰した。人道上の立場から日本を力づくで開国させよと政府にせまり政府も腰を上げてペリー艦隊の派遣となった。 その決定過程が米国人の手紙と共に議会での討論記録、新聞記事などを商館長に生々しく伝えられている。 尚商館長は漂流民の扱いは彼らが報告したような非道な事は決して無かったと書中で反論している。尚商館長が手紙を受け取ったのは多忙な商館長交代の時期と思われ、日本滞在中に米国の状況、内容を日本側に伝えた形跡はない。

レイソンヤッパン抜粋   J.H.Levyssohn   *オランダ商館長(日本滞在1845-1850)

 巻之三

  外国人日本通商の企、亜墨利加人当今日本へ  貿易協会の更なる試みと北アメリカ人の日本への意図された冒険に関する公式文書、報告書、談話 

  志望の事を載たる公顕の告牒記録の事

我れ日本に在し時、ヘルミル人名の暦数千八百五十年第一 *我=レヴィソン  *Aron H.Palmer

月八日、ワスシンクトン共和政治の都府より発たる一翰を得たり  *Washington 合衆国首府

将又是に付属の書あり、是則彼地執事衆議

の時に告せし説ニして、既に日本の事に携し議

也、是を蘭語に訳し左に出す

共和政治に於て和蘭使節たる我友テスク人名の      *Testa男爵  オランダ駐米大使

計ひに因て左の書を汝に贈る、大ニ良し 


第一シベリー地名・マンシュラ同上北大平海中亜細亜州属島   *シベリア、 満州

の地理

政事・商法録評定官の命に依て暦数千八百四十                *上院の委員会

九年版する所なり

第二亜墨利加通商を東方に開弘する趣向ニして東方

在の国民に携りし事ニ就て我友ケレトン人名に与たる   *Jhon M.Crayton、国務長官

書翰、評定官の命に依て千八百四十九年版する所なり

第三海上の事に携る執事の長キンク人名、共和政治領    *J.B.King

分より南太平海を経、上海及広東に蒸気船

の通路を開んの為め、弁利なる事を衆会館に

P2

示したる説、其命に依て千八百四十九年版する所也

第一第二は日本海岸にて亜墨利加鯨漁船ローレンス    *エトロフで難破 7人漂着

船号・ラゴダ同上難破におよひ、其漂民汝の扶助によりて獄を *松前沖で難破 15人漂着

免れ自国に帰る事を記載せり、此漂民等獄を免れ

共和政治に帰参のため汝の仁恵深切ハ亜墨利加

諸民感謝する所也、風聞記は此国に於て公説

流布の具なり、漂民等日本に於て非道の応接に逢

の説専にして、速に共和政治の軍勢を江戸に発向し、

日本政府をして法律正整の人民の制度に倣しめ、

亜墨利加通商の為め、其湊港を開き、且サンフランスコー

北亜墨利加の地名より上海・広東に通路すへき蒸気船の為め、松前

・対馬・琉球の地に石炭場を設る趣向を促し、若其談判

をシヨトグンス 乍恐                     *将軍   

公方様御事をいふ歟の方ニ於て及び執政拒むに於てハ日本政府承

伏に及ふ迄、其都府にボムベン及焼玉を放発して、           *榴弾砲

国中の湊港を塞閉し恨を日本船ニはらさん、此意頻

に止さる所なり、故に是を衆会館にて得るよふにすへし         *議会

我等当今諸(説)に因り、不日に太貌利太尼亜・仏朗       *英国、フランス

西の両国日本征戦に加勢すへし、素より日本無量の産物を

有ち土地豊饒ニして、交易ニ莫大の利益ある

P3

諸品諸出産出産する帝国の政府をして閉鎖の法度

を停め、政務を法律正整の諸法民に改革せめ

ん趣意なり

 思ふニ是日本の為め必ず大事なり、汝日本に

朋友もあらハ告知して可ならん歟、但亜墨利加人の文なり

我れ此書簡に付添の雑説を悉く述るに暇あら

す、只暦数千八百四十九年第九月三十日の亜墨利

加風聞記中に強盛の旨趣を爰に著すもの也

 先日本に発向し其国をして亜墨利加人の損亡を

 購しめ、而して日本人向後善行を勤るの証を

 得、亜墨利加使節日本政府に在勤すへし、若

 此等の免許なき時ハ暴を以て砲煩を発するに

 危踏の期なし、此急速の発向は専ら亜墨利加

 商法の利益を促が為也、 但風聞記中の説なり     *風聞記=新聞等 

一公説録ハ亜墨利加州一般の通商、就中印度・唐国・

 日本と貿易の因を結ひ、殊に日本には鯨漁及ひ蒸気

 船の通路を目指し、黄金富饒のカリホルニ北亜墨利加州

 地名 より直に遠隔の東方を経、通商の基を開の旨趣なり

 是寓説に彷彿たり

一オルドホイス人名は自著のテイドシキリフト書名中に暦数  *Oldhuis *タイムライン(時事新報)

P4

 千八百四十八年の説を述へ、フーフェル人名は千八百四十八年のテイド *van Hoevell

 シキリフー書名中に此趣向に 拘るケレトン人名の書簡を載とあり

一ペルミル人名は暦数千八百三十年より四十年までねーヨルク地名に   *ニューヨーク

 て亜墨利加及ひ他邦のデイレクテュルファンアケントスカッフ官名   *貿易振興局長

 の任に因て、東方の諸政府其国司等に書簡応答し、印

 度及其諸島・唐国・豪斯多刺里等の名たゝる風聞

 記を定式得、近頃欧羅巴・英吉利・仏朗西・和蘭国巡行

 の時に当て、東方の国産、其人民の貿易通信の道を公に

 弁知せんが為め、其国々に於て官府出入の赦免を得たり、

 是必ずペルミル人名 地理・政事・商法記の肝要たるを知るの

 才あるを以て也、此説を名付け東方不知国の著目あり

  ペルミル人名曰、前のセケレタリスデルシカットカームル官名ワルキル *財務長官 G.Walker

 人名此著書を検閲し、我国の通商を開弘に必要たるを

 知り、此著述普く諸方を経歴して未審の国々政務

 産物等を料簡し、就中北亜□細亜州にコンシュル官名         *領事

 アケント同上等在住任せざるといえとも探索を極たる功讃へあり  *エージェント 代理人

 扨ワルキル人名此著述を他邦の新説によりて補ひ、是に地

 図等を具属し、近来測量に依て全備せしめ、政府

 の庇蔭にて公論の書とするの志念ありて推挙せし

P5

 に評定館の執事免許の意あれとも、其有司の評     *上院財務委員会はOK,その委員長の反対

 決にて空しくなれり、実に嘆するに余あり

一暦数千八百四十八年第十二月十一日ワルキル人名著述の終歳記録      *年次報告

 の載たるハ共和政治、東方独立の国民と議談ニおよび

 古より未たあらさる所の通商開興においてハ、共和政治国

 中商業貢税に拘る弘大の有益あり、東方の国民人丁      *税収の増大

 通計凡拾億の数なり、将又此通路にて我蒸気船南洋

 にいたれハ、ワルキル人名思考の如く、我国の有益に於て世上の

 商業一変し、我国弘大安寧、盛権政整興国以来多

 々栄盛ならん


一去月八日汝に与へしねウヨルク地名べルチモール同上の記録を熟     *Baltimore

 覧して、以て是を国司およびカヒネット館名に呈するを願ふ      *内閣

 所なり、蓋第二月廿四日国司の任を受たる都督テイロル人名に  *大統領、Taylor大将

 此ねウヨルク地名記録は贈たり、此記録中ニ共和政治の政

 府より使節を唐国に向け、是に相当の勢を具属し、此

 辺にある東北亜細亜及ひ印度諸島の通商の道を開

 き、此使節唐国に赴の序、東亜仏利加アベイスシニエ地名ア *エチオピア旧名

 ラビヤ同上等の名たゝる港にいたり、亜墨利加の足さる所を

 補んか為、其地の産物等を識知するの令命を受んと欲

 す、此告牒に唐国・東印度海通商の大任を受たる官府

P6

 ねウヨルク地名のバンキール金銀指揮職アスシュラテュール保証職・ニートル船主・シケ *銀行家、保険会社、

 ープスホウヽル船工等名を記せり、扨此告牒を共和政治のレゲント   *船会社、造船会社

 法侯或執政 諸所の裁判館・ねウヨルク地名の諸執事等良善とし、加    *下院議員

 之フィセプレシデント官名 フィルモール人名及びセナテコール官名シワルト *副大統領、Filmore

 人名 此告牒の趣意貫徹専要とせり               *上院議員、Seward

一斯の如くして評定官・鑑官に与ふる記録に高貴の官

 人各名を記し、暦数千八百四十六年第六月一日テイクス人名より  *Dix

 評定館に与へ、尚外国の事に関るコミサ―リス官名に贈たり   *外務委員会

一ベルチモール地名の記録には其地に名たゝる商家等名を記し、 *Baltimore, MD


 東方の国民と貿易の固を結んがため、我政府より特に使

 節を送るを促せり

一此強盛の亜墨利加共和政治は人民興発急速に備り、普く

 航交易に繁栄の国と同列するとも、聊恥る事なし、時既

 に至り亜墨利加政官等勉て他邦の産物・地理・政事・

 風俗を明弁し、我国の交易を外国に開弘し、有益に依

 て外国と好を結ふこと肝要也

一専ら我政府の法則たるは、只東方の人民と通信貿易の

 道を開くを係要とするのみにあらずして、尚通商航海自

 在の記験を普く北洋より南洋に示し、則我星旗をし      *星条旗

P7

 て恭致せしむるにあり、加之政府に於て亜墨利加人民及

 び其正直の交易を警固すること、西方より東方の地に

 至らしめ、諸海に及ぼすを勤務とす、但シ記録中の説なり


一此公顕の告牒中、日本に携る説のみ抜粋して左ニ出す

 一日本と通商の道を開き、以て高麗と貿易の好を結ぶ

  期に至れり、元来朝鮮及び其他湊港は高麗南東

  の海岸なり、其地の住民フュンフュンの港を経て日本と

  交易す、扨日本対馬島及フモンシャンの海街は高麗   *釜山港

  裏面の海岸也、其交易ハ聊他に免す事なく、唯対馬

  の国王麾下のみに限るなり、対馬ハ高麗の海口に    *宗氏

  
  ありて日本と高麗の交易便宜の地辺、此地をして亜墨

  利加人等志望する所のサンフランスコ地名と上海・広東の

  通路に供する石炭囲所たらしめ、究竟の土地とす、世

  人の説に日本に境界するの土地、石炭潤沢なりといへり

 一日本ハ独立にして其人性偏慝の質あり、此国暦数

  千六百三十年来唐・和蘭の外外民の貿易を断絶

  せり、雖然、暴策或ハ時勢によって世上一般盛なる

  貿易の志念は其偏慝の意を折くの期に至らん、

  今西方に於て貌利太尼亜の盛なるが如く、必一度は

P8

  東方にて是に等しき威を振ふの国とならん

 一日本人は精神頗ル敏賢にして、其性質亜細亜人と

  比較すれハヤヽ欧羅巴人ニ近し、且諸品発明するを旨

  とし、其接対廉直にして、頻に外民の礼節習風を探

  索し、世上の興廃動静を明らめ、西洋人の学術を知る

  を要事とす、又日本人は才能多く節倹を守り、行作

  正潔にして、友人の交応甚敦厚なり、蓋一たび

  恨を含めハ其念解ず、是を和すること至て難し、長者

  を承恭し是に伏従慎謹すること、普く諸民日本人に

  対揚するもの少し、其性意高貴たるを以て東方人

  民の類にあらずして、盗窃或は什物の為に罪科

  を犯すこと稀なり、扨又日本は二百五十年来国を鎖し、

  人民一統して独立特行し、政度法令一定して国語も

  古に同じ、宗旨只一信にして唐国の制令に従わず、

  未曽て外民に降伏せず、将タ外国の所属たらざるもの也

 一日本語は文字の連綴数多く、仮名は四十八字を数ふ

  語音静清にして東亜細亜州に於て頗る整備たり、

  又此語唐音にもあらず、又亜細亜州他邦の部類にあら

  ざる也、扨日本人は自国の文字備り、其数最多し、

P9

  学校ありて若輩の男女貴賎、始学の教示をうけ、大学館

  には高貴の学術、則測量・天文・地理、亜細亜欧羅巴

  州の名たゝる国語の学識あり、又江戸に書庫あり、世人

  の説に此書庫に書冊丁数十五万備へあるといへり、将日本  *城内紅葉山文庫

  人ハ都て学問法律に長じたること、唐人に勝れり、又諸

  件に頗る秀するの性あり

 一此国の貿易航海を営む輩は外民と交親の厳禁緩

  綽ならん事を庶幾するの意甚し、蓋外民は当今

  唐・和蘭人長崎に来着するのみなり、雖然国政法度

  の擾乱を畏怖して鎖国の法弥厳也、九州薩摩領


  鹿児島港の商民ナバキャン海名を経、琉球海上ニ於てフェンシ  *東シナ海?

  ャン人と貿易す、其売物ニ亜墨利加産の木綿織等あるなり、   *福州人

  此貿易世人の説に薩摩国主の免許に依て遂るといへ      *島津氏

  り、但し其国主日本帝族にして、琉球及び鹿児島の

  太主なり、扨日本政府に於て厳禁ありといへとも、其国

  属地の商民世人欲する意のごとく、密かに唐及び魯西

  人と貿易す

 一日本国中大都会の市店にて農工の諸産物ありて遠

  近の人民群集す、将タ国中の商業農作江戸・京都・大坂・

  下の関・鹿児島・サンカル島名・小倉・長崎・土佐・松前の市街に

P10

  於て商買の品物の値牒を作るとあり、又産業を励の法

  令あり

 一大阪は外国産物の大市なり、此街民生頗る夥く、土地淀

  川口にありて住民、商業繁栄を以て他所に勝るもの也

 一日本と和蘭通商は舶数二艘を限として、年々第六月

  交留巴より発す、四年を経使節貢を齎して江戸に赴    *ジャワ バタビア(現ジャカルタ)

  向す、将又唐国と貿易は乍浦より長崎に来るを限り、

  年々舶数十二艘を定む、其搬齎する品物に亜墨利加

  産木綿織夥くあり、是を対馬国主の商館より高麗

  に送るなり

 一和蘭売物の員数定限ありて甚少し、其運賃は又甚

  多し、爰を以て考ふるに此国一たび外民の為湊港を

  開かは舶齎の品物を請ひ求る事疑なし  

  一此国より搬送する品物に就て疑問あり、日本銅坑外

  国諸州の物に対揚する事ある歟、就中近頃豪

  斯太刺里州に銅坑の発明あり、雖然日本と貿易せは

  其利潤弘大なる事更に疑なし

 一日本には貴重金類の坑夥くあり、爰を以て暦数千六百

  拾一年より千七百六年頃数多金銀銅日本ゟ外国ニ出

  せり、此儀日本政事館の記録にありと公の説にあり、

P11

 我れ其事を翻伝するに四十一億三百三万六千八百ドルラルス

 銭名の高なり、大日本島に黄金潤沢也、故に坑業に限際

 の法あり、然らざるに於てハ通用の貨過多なるに及ぶを以

 てなり、蓋此国通用の貨は金銅銀なり


一亜墨利加鯨漁民去年キュルリレン島北方港湊海岸にいたり   *クリル(千島列島)

 漁業を始めり、衆民夫の為に大幸を得たるを以て、大抵此

 年は漁船の航通増益するならん、抑此海辺遠隔不

 知案内にして精密の地図備へざるを以て既に数多船

 舶難破の患災あり、説に聞く是等の災害に罹りし

 もの、ローーレンス船号ラゴダ同上デフイットヘットトック同上なり、爰

 を以て懸念するに、向後かゝる災厄に逢ふ者多からん
一ローレンス船号難船の時に当て助命の者ありて、日本キュルリ *エトロフ島

 レン島に哀情に堪へ難き形状にて上陸したるに、拾七月

 の間囚れの様に行れ、警固厳く其接対甚だ人道に戻

 れり、蓋其一人囚厄を免れんが為走るものあり、是を捕ふ

 に日本番兵理不尽の業作あり、此条評定官の命に依て、

 暦数千八百四十八年第三月四日の記誌あり、是我手牒に

 異ならず

一ラゴダ船号の乗組も亦上陸場所の長より幽囚せられ滞

 在中尚如斯なり、扨デフィットベットトック船号の乗組はエニハ   *樺太、エニワ湾

P12

 の湊に上陸せり、此地は則テラベー島の南西の方にありて  *樺太、サハリン島

 日本領なり、此漂民温和に遇接せられ、値を責さずして

 食住を得たり、雖然常ニ番兵の警固厳重なり、既に

 三日を経て米水を恵与し、其地の吏役漂民をして自己

 の端舟に遂退せり、其後暫を経て、松前近海に於て亜墨

 利加鯨漁船主デコローフ人名に救助せられたり

一要用品物・水等の欠乏、或は烈風強雨の時に当り、鯨漁

 民・商売の輩止むを得ずして屡日本港内に来り破船の患

 を避ることあり、只唐・和蘭人に限りて長崎湊内に其館

 を設け、其他日本に来る外民ハ災厄に逢ひ不得止して


 其期に及びし者も忽囲囚せられ、而して番兵警固

 ありて長崎津に送らる、其地に於て再び囹囚せられ、

 日々に与ふる所の食物は僅に米魚水のみ、加之幾多無恕

 之辱をうけ、既ニ絵板を踏せ是に吐唾せしめり、実に

 艱難に逢ひし我窮民斯の如く暴戻に接対せられ

 如何して片時も忍ぶべけんや、斯る患情を以て我政

 府須臾も堪ることを得ず、日本ショーグン前に訳すに書翰を

 贈り、以て其政府に我民鯨漁航海通商を営むも

 のゝため、患を除かん事を請ひ、暴風雨剛雨の時、其港内ニ

 来り危難を凌ことを得、欠乏の諸品を当時の値を以て

P13

 購ひ、将タ破船の時は其接遇賓客の饗応ありて、急速咬   *バタビア(ジャワ)「

 留巴在住の共和政治コンシュル官名に回帰せん事を庶幾す、蓋

 其費用はコンシュル直に弁すべし、此道理正実の冀

 望若しショーグン拒むに於てハ我政府廉直の旨意に

 本つき、人倫徹適の誉光を輝し、日本政府に対し

 強威を振ひ、此冀望の道を開ん、蓋江戸港・松前津の

 閉鎖を開くに僅二艘のフレガット艦を以て事足るへし、

 而して驕奢の日本政府をして速に我本意に伏従

 するに至らしめん

一外民日本海通帆繁盛し、亜墨吏加鯨漁民・商売の輩

 其他西邦の人民商売航海を事とし、或は地理或ハ学術

 に志し、発明を旨とするの輩、其地ニ来るを以て日

 本政府力に及はず、終に鎖国之法を全すること得ざるべし

 地理に因れは日本ハ島なり、港湊碇場最良之住民満

 々して頗ル勉励の性なり、其人丁五千万に過ぐべし

 国産無量にして貿易品物界際なし、王侯貴人

 聡明英知、実に国民の博識工材志望最甚し、爰を以て

 他亜細亜人に比すれハ其質遥に勝れり、此国偏屈の

 政度賢良の緩に因り、天然人作無量の有益を以て共和

 政治と貿易の因を結び大幸を得べし、蓋其国の権盛及

P14

 ひ宗門に聊損害なし

一亜墨利加鯨漁船マンハッタン船号船司メルカトル人名暦数千八百

 四十五年江戸港に至り、日本漂民二拾二人回帰せり、但し

 此漂民は洋中に於て沈船に在しを、島に在しを救助

 せしもの也、其後千八百四十六年第七月、共和政治一手の水

 師提督ビットル人名、其他士官等江戸港に到り其大度厚

 慇懃雅を以て、日本政府及其民に我国風の高貴な

 るを示せり

一暦数千八百四十七年貌利太尼亜人、高麗諸島の内最大

 のクウエルハールト島名及ひ唐国北方、日本南方の海岸に  *済州島

 境界するマルタ島名、此二島開興の企あり、蓋しクウエルハー

 ルトは軍艦其他船舶の繋場、マルタ前に出ルは唐国海測   *済州島

 量研究の為供する所なり、是必英吉利長崎に渡来

 の志念ある萌にして、此年唐国魯西亜人に満州大河

 アミユル河名の出入を免許し、北東亜細亜の国王其港湊及  *アムール河

 び近隣の島を外民通商の為開たるを以てなり、是果

 して日本政道一変し、外国と通親開発の道となり、

 帝国たる日本に亜墨利加通商の基となるべし

一日本亜墨利加両国の交接意の如く整ひ、唐国に亜墨利

 加蒸気船通路の企、蝦夷都府サンガル地名海門に接する   *津軽海峡

P15

 松前及対馬の属島フェンフェンク島名の湊に石炭場を設

 け、以て成就するに於てハ日本人のため 其政務・商業に

 益あること夥し、而して日本人蒸気船製作・運用、当今発

 明改革(注2を入れる) 「時は是を不佳せずして、日本政府に信告し 「注1」 

 以て亜墨利加通商の為日本港湊を開くの理を説くべ

 けん」

一使節質良ニして事を遂るに何の難きことかあらん、唯世法

 頭令たるショーグン、神法頭令たるミカドをしてこの意を

 明悟せしむるのみなり、我趣意日本宗門政事に関

 係するの念なし、日本と和順し双方有意の貿易を

 鹿幾するのみにして、其国家城郭商館所領ニ望なし

 又其国を政抜する意更に無し、只我民日本通商免さるゝ

 に於ては、其法度を守るに甚だ慎ミ貿易の運上を納め

 其宗門政事に関係するを厳禁し、其国の若長法

 則を教恭すへし、是を日本帝国政府免許せば速に

 共和政治の使節江戸に至り、通商の (注3を入れる)「したる陸戦海軍の 「注2」

 法則を現在習学すべし、是則日本人性頗勇なる

 に因り其政府をして外民の襲来を防ぎ、国家の危難

 を除き、東方第一の水師強盛・通商繁栄の国たらしむる

 の要務なるべし、加之我蒸気船来着の便宜に因より、其

P16

 政府に外国諸州の政事・商法・学術の告知速なること

 咬留巴より発する蘭船、乍浦より来る唐船に勝るべし」

一当今和蘭人は往昔の如く日本と外民の交接を妨るの

 意更になし、彼れ其所領印度の商法を緩改するを良策

 とせり、抑去年第三月十七日死去の和蘭前国王日本に外

 国通商開興の説を伝へたる事世人の知る所なり、思ふに其

 嗣子第三世ウィルレム人名若我政府彼に日本開興の為公   * WillemⅢ

 に願ふ(注1を入れる)「海岸に於て我商法の憂患除防の為発向するの  「注4」

 節を以て誌記するもの夥し


 此発向に供たる海軍大勢なること尋常ならず、且我水

 師将士の名誉提督ペルリ人名、東印度備一手の海軍将

 の任に当れり、是必趣意あらん、或人の説に此船装闘戦

 の萌あるなり、将世人一般帝国たる日本を襲ふの企

 と思へば、我輩是を伺ふに和親の指意ある説を聞甚

 快し

  我思ふ処又斯の如し、万民のため志望を懐き是を遂

  んとの意ある時は、礼儀温和を旨とすべし、次に著す所

  の共和政治司フィルモール人名の書翰の意唯通商の事を  Filmore

  述るのミにて、他事更になし

P17

  然といへとも其威勢緩ミさるハ、志望を遂げ日本」 「条目を  「注3」

  定むべし、但日本政府の其港内に於て亜墨利加通商安

  全を計る所に従ふべし、将又日本国民彼港内に来り貿

  易するものあらば之を衛護する誓約を立て、日本共

  和政治両国の和親をして不易ならしめん」

   但公顕告牒の説なり

一記者の説に此使節の旨趣ハ琉球及び其他島々に到

 り、其独立して国王ある地は是と誓約し亜墨利加

 国民防禦の為、蒸気軍船印度・唐国・日本海往来するの

 希望を遂んとなり、其語に曰

  亜墨利加人の権威を顕し以て彼独立国王誓約違

  背する時ハ是を征んが為忽ち発興し、将タ廉直の

  商業を営む亜墨利加人民の為其危急を除拒す

  るの意を示すへし

一此録誌に日本坑或は林ニ産する貨財の著標を付属せ

 り、是貿易・蒸気船等のため専要なり、尚是をヒュンボルト人名の  *von Humboldt

 説を以て増補せり、其説を抜粋し左に出す

一名誉ヒュンボルト人名の説に欧羅巴と日本の交接の道を開し

 期をパナマ地名の窄地を漕路とし両大洋接合の時に先じ

P18

 難し、此企成就せば亜墨利加・唐国・日本の西方北西海岸

 の産物行程六千里を減じ、欧羅巴州及び亜墨利加共

 和政治に運送せられ、東方亜細亜の国政大に変ずべし、

 此国は数百年の間唐・日本の楯となるが故也

一亜墨利加人の智謀巧才に因て、当今パナマ地名の窄地に轍路

 を開くの企あり、これをニウガラナータ国名の政府よりエスピルワル

 ト人名・スティフンス人名・ショーンシー人名に免許し、亜墨利加商売

 の為設けんとニウヨルク地名に於て談決せり、既に其道程測

 定し不日に是を始起すべし、世人の考に此轍路、暦数

 千八百五十一年第一月成就すべきなり

 

一爰に漕路鉄道・マグネティーセテレガラーフ磁石の気を以て事を告知する機器

 を以て交接するの企あり、其説を左に出す

 カリホルニ地名オレゴン同上の海岸広大にして亜墨利加州益盛

 なり、我民印度・唐国海通帆弥増し、南海の通商・鯨漁

 繁栄し、去年日本及び其所領の海岸蝦夷或オホツカ地名

 の渚カムシカツトカ地名・ベーリングスタラート同上及び氷海を通

 航するに至れり、北辺発向の船数凡千二百箇、水主人丁

 三万五千に過ぬ、爰を以て我民通商航海を司り、海上の

 権柄を大貌利太尼亜の手より我国に譲り、治平にして

 是を掌握するの期ならん

P19

一サンフランシスコ地名商業に利益ある事著明なり、其港南海に

 於て遠隔東方通商の都会となるべきの説あり、左に出す

一(使節日本発向の時、ショウグンに贈物を致すの

 説あり左にしるす)

 亜米利加海岸及び都府の地図、プレシテンド国司より遣したる

 使節の事に拘る政録・アタラ洋・南太平海・蒸気船通路

 の誓約記録・轍道漕路・マグネテイセテレガラーフ前に訳すの

 図稿、但オレゴン地名カリホルニ同上両大洋接合ニ拘るもの也

 亜墨利加州海河用蒸気船の図識、亜墨利加陸戦海軍の絵図・

 大工道具・治療道具一式・全完の外治内療書・

 窮理書・測量天文航海兵学書・工農の品物・草木・煙草・

 綿の種苗・農作抗業轍路に拘たる亜墨利加の目録・ねウ  *ニューヨーク

 ヨルク地名・ボストン同上等の雑記・其他商売品物の値録、プレシデン

 ト国司及び長官の画像、但ダケウロ写真鏡の一種を以て写したるも *大統領

 の也、暦数千八百四十九年の亜墨利加暦・国産木綿毛織の  *ダゲレオタイプ 銀板写真

 様式・マグネティーセテレガラーフ前に訳すの図式なり

 此数品求るに易し、東印度備一手の軍艦を以て唐国詰

 の水師執権より長崎に送るべし、思ふに此贈物悉く受

 納すべし、是我政府より日本政府に贈る意厚く、共和政治

 の地理・国語・農工商抗業、国中豊饒強盛、法律至整の

 告知にして、日本港湊を亜墨利加通商の為開き、日本に

P20

 幾許の益あらん事を示さんが為なり、 

 但し記録中の語なり

一黄金豊饒のカリフォルニ地名益発興するを以て、暦数千八百五

 十年・千八百五十一年北亜墨利加州ニ於てヘルミル人名の指意

 を専とし、既に千八百五十一年の秋日本発興の企あるを聞けり

一暦数千八百五十二年第二月ねウヨルク地名の告牒を左に出す

一近来海軍の威勢益盛なるを以て、政府意を決し東印

 度海に逞兵一手を遣し、日本赴向を旨とし水師提

 督オーリッキ人名老年ニ因て其任を辞せしと也、蒸気フ

 レガット船シュスケヘンね船号を以て発し、若使節の意遂ざ *サスケハンナ号

 る時は彼逞兵専要たるへきとなり     

一是等の告牒、共和政治及び欧羅巴州に夥し、其些少を

 左ニ出す   

  亜墨利加使節日本発向の事

   但し千八百五十二年第三月ねウヨルク地名の記録

一我政府意を決し、強勇海軍亜墨利加州東方(注4を入れる)をして好良

 の政度に伏せしむるの計策なり

一帝国たる日本は地方百万里に越へ、北緯三十度より四十三度

P21

 東経百廿九度より百四十三度にあり、此国恒地の北方にあるを *ユーラシア大陸の東側

 以て其気候我国に異ならず、即ちニーウオレアス地名と子 *ニューオリーンズ

 ウヨルク地名の間の風度に等し、民丁凡三千萬あり、此国元来

 連島なるを以て其海岸広大なること、共和政治アタラ海渚 *大西洋

 に勝れり、此国我所領南海に接する地に対す。蓋し日本

 蝦夷の両大島を以てサンガル地名の海門をなし、数百の我 *津軽海峡

 鯨漁船毎歳通帆す、然して其厄難に逢しもの薪

 水食糧を得んが為に上陸し、或は暴風強雨の時これを凌

 んため、其地に来る船破壊せられ、人民殺害せらるゝに

 至れり

 案るに災厄に罹りし船、破砕せられ人民殺害せられ

 たること絶て無し、反て憐情を以て食糧を与へ、其値を

 受ざる例なり、其両条を左ニ出す

一暦数千八百四十五年サマランク船号の船司其証を得たり

   但弘化二巳年長崎津に来りしエゲレス軍艦也

一亜墨利加コルベット船プレブル船号の船司ギリン人名食糧を値

 を以て求めんと欲せしに、日本人是を聞かずして恵ん

 とせり

一我其船司に食糧を贈たるに、彼是を受けず、其意を暦

 数千八百四十九年我に送る書翰に因て考るに、彼此食

P22

 糧を日本人の贈者と疑ヒ案ぜし故なるべし

    但嘉永二酉念長崎津に来りし亜墨利加軍艦也

一テイリデンス船号の漂民只扶助せられしのみにあらず、所

 持の衣食類砲一門出島に護送せられたり、是正しく

 以て破船の時、毀伐せざるの証とするに足れり

   但テイリデントは誤歟、嘉永三戌年松前より送越され

   たる漂民三十一人の船イーモント船号なるべし

一我誓ていふ、日本に於て漂民殺害セらるゝ事なく、又

 籠を以て荷運セらるゝ事なし、世人の説是に反セり、蓋

 漂民を住所に送るに運具を用ゆ、是をカゴと名づく、其証人


 則我なり

      但著者の註なり

 日本ハ外民通商を免さず、是道理に当らず、此国海

 岸広大なるに其港を災厄に逢し船々の為開かず、却て

 其海浜近く来るものにハ砦を構へ熕砲を発す、将タ暴

 風の時漂ひ来る船あらはその水主を捕縛し、駕籠を以

 て荷運し或は是を傷殺す、今我等海岸を領する

 居民に示諭し、外民通商断絶の政度を停止せしめ、

 法律至整の国民斯る政度を捨置かは唯万民の商業

 に妨とならざる間のみなり、我等法律至整キリステン

P23

 切支丹宗たる民の政度に因り如斯暴戻の所為を征し、以て

 人道に従はしめ万民の肯とする諸州海岸港湊の出入

 自在の証を得、危難の時に当て港湊海岸を領する

 国民、是を扶助し、賓客の饗応あらしめん、是諸州港

 湊に於て万民の掟とする所なり、若其掟に逆ふもの

 あらば、其害を除き通商の道を開くこと商売の為メ

 専要也

 思ふに何の故を以て亜墨利加、日本ニ往時の憂患の報

 答あるへき歟、何事を以て彼斯く感激の及ぶ歟、観るもの

 其事情を明弁し、以て其虚実を正すべし、是漂民の

 故を以て歟、暦数千八百四十五年第七月より千八百五十年第

 十一月の間、我日本に在し時 漂民五十三人、日本政府我に託

 し、其自国に回帰セしめり、日本政府之を撫育する

 事厚く、衣服を与へ患者には医薬を施せり、唯乱妨を

 なせし徒のみ獄中に戒られ、其他は住居を寺院に定

 め、其周囲を囲ミ、蘭人の出島に在るの如く、是に携る吏

 役の外他人の交接を断れり、是他事にあらず、不慮の

 確執を避んが為メなり

 当今亜墨利加水主囹囚となりて、日本に在るものを知ら

 ず、又是を信せず、我知る所を以てするに、外民観見の為

P24

 ため国人禍を生ずること、欧羅巴に於ても例あれば其患を除

 んが為、漂民を長崎に送るに常に船路を良とす

     但著者の注なり

一日本ハ法律至整の政度を知らず、数百の亜墨利加鯨

 漁船毎年サンガル地名の海門を通帆し、或ハ暴風に逢ひ

 其旅店なき海岸に漂着するものあれば、是を殺害す、

 実に災厄に罹りし船ニ慈悲ある港に到れば破損

 補理するの免除あるへきに、然らず却て海上に追遂し、

 是をして際期を待に至らしむ、かかる所為ある事既

 に久し、然して亜墨利加鯨漁益盛なるにより其暴

 戻無恕の土地に到り、艱難に逢ふ事又弥多し、爰を以

 て我政府思慮を廻し、日本人をして其政度を外民の

 ため改革セしむるの発起あり

一去年亜墨利加鯨漁船百二十一箇サンドウィス島の港内 *ハワイ島

 に到れり、此地鯨漁場より甚遠隔なり、然して日本海

 岸に船々補理の為赴くへき港湊なきを以てなり、是

 我国其辺の通商繁昌し、黄海とオホツカ海の通商を

 遮止する徒の暴戻無道を制するの専要たるを示す

一我政府此地商売の催促によりて其旨意を発するにあら

P25

 ず、是賢良法政、我農工商術護の故と此日本を往時憂

 患のため糾明し、自後法律正直国民航海を営むもの、

 若し天変に罹り日本海岸に漂着し、或ハ暴風に逢

 ひ是を凌んが為メ其港内に入来る時、其接遇温和にして

 饗応厚からしめん

 前に自注あり、就て見るべし、提督ペルリ人名の旨意日本

 港湊を開き、万国諸州の人民暴風の時、其出入自由な

 らしめんとの事、我是を信せず、既に蘭人累代日本に

 居住し、未曾て此証を得ず、殊にイスパニヤ及ポルトガ

 ル国は日本厳禁なる故を以て弥信セず、其往昔の


 記録を按ずるに、日本彼両国を忌む事最甚し、今

 ペルリ人名旨意遂さる時は如何せん、殺伐に及ぶへき歟、然

 る時は血戦に及び、甚怨念不止すして自後日本海岸に

 漂着する窮民に其報答あらん、爰に於て我レ暦数千

 八百五十二年第三月著す所の商法雑説中日本記考

 に同意せん、尚センシグニ人名の説も是に等し

 縦令其旨意只自己の為にのみ遂る事あるとも、普く諸

 民の弁利となる事難し、既ニ和蘭人も諸民の為日本

 に冀希せしに是また然り、素より総国中就中江戸

 京都の出入、当今の国政に於て免るを得べからず、シーボル

P26

 ト人名日本記考凡例中ニ述る所を考ふべし、其語に

 曰く

  爰に見よ是幸福の国なり、既に弐百年太平の

  旭輝を冠、其国長の徳沢高大に因り擁護せられ、

  政道は王侯の柄権に因り威と慎とを以てす、不熟の

  新法を忌ミ、此民世国家安泰の和に浴し。其習風旧

  古に因り、既に是を法則とし日々を送り、年々歳々

  万事法規に因りて行ふもの也

    但著者の注に他人の説を載せしものなり

 斯るを如何してか外民通商の故を以て、其法度変ずへ

 けんや


一名哲ラウツ人名暦数千八百四十七年著述の日本記考これに同

 じ、其語に曰く

  此民世知勇信義備り、術芸に通じ常に学識を専と

  す、然して王侯立る所の鎖国法に伏し是を仰ぎ

  天幸とし、其意恰も鉄石の如し、是を如何

    但著者の注に他人の説を載せしもの也

一此指趣を以て提督ペルリ人名選まれ発向総勢の司令

 官となれり、是智謀・聡敏・大強剛の器量備ざれば

 其任に当かたし、ペルリ人名の行ふ所屡々其器量顕る、爰を

P27

 以てペルリ人名、前に令命を受けし、快然たる地中海巡行を廃

 せられ、今万民の安危、東方に於て亜墨利加通商の興廃

 を決する大任に臨めり、是に供する軍艦は蒸気船シュスクヘ

 ンね船号・ミスシスシッピ同上・プリンシトン同上、その他フレガット船運送

 船等にして其シュスクヘンね船号施旗船なるべし、一説に

 陸軍の予備ありて、往昔の憂患を報ひ、当今日本滞

 在する亜墨利加水主を回帰せしむるに係要たる兵器

 を備ふると聞けり

一我等歓喜に堪さるは今政府係要大志を発するの

 期に臨めり、唯費す所は遠隔に赴く蒸気船に適用

 たる石炭のみなり、且此兵勢其手を他方に備へたる内より

 出すハ智謀の致す所なり

一此指趣只亜墨利加州の為のみにあらず、万国諸州の

 幸福とならんこと実に歓喜の至なり、我等聞く所を以

 てするに提督ペルリ人名日本をして往時我等になせし

 暴戻を購ハしめ、今囲囚となりて其地に在る亜墨利

 加人を免しめ、尚獄中にある外民を悉く回帰せしめんと

 なり、此輩都て天災に罹り日本海岸に漂着せしもの

 なれハ獄中ニ戒らる故なきを以て也、将又提督ペルリ人名

 志す所、万国諸民をして自後暴風の時、日本港内に

P28

 到り危難を凌ぎ破損を補イ、必用の品物を購ひ賓客の

 饗応あるの証を得さしめんとなり、是正しく窮民殺害せら

 れしと表裏の差なり

一此旨意達るの期に至らハ自から通商の道開けん、但提督ペ

 ルリ人名通商を事とする所、唯亜墨利加州のみの事を以てし、

 危難の時に当て日本港内に到、其政府をして衛護せ

 しめんとの事は敢て自国のみにあらず、普く諸民の

 為にせんこと、論を待ずして明也、我等察するに提督ペルリ人名

 迫劫し以て日本国中政事の弊をなさず、将タ通商の

 故を以て其軍勢常に日本国中に備置の証を求メさるへし、

 

 扨正法至律の万国一度此国湊内に至ることあらハ日本

 国速に世に出へし、是貿易を開く道となるべし、其貿易

 は人道を興すの重具なり、我等其国の都府、江戸出入自由

 ならざるの年爰に久し、然して剛情のヤンケー亜墨利加人の譏たる綽号

 我等に告るに、江戸の住民人丁二百万、或ハ纔五万、此

 可否を知るの日近きにあり

 キューレン地名の日戴雑記の放言甚し、是按ずるにカールキットル  *ケルンの新聞

 人名其他名誉の地理家著す所の書、全備を待ずして

 版せしもの也、尚土地案内の国々の記考といへとも其政度

 等の事悉く実説なるや否を知らず

P29

 江戸の地方大小を論ずるは只疑察のミにして、歩兵の多少、

 又然り、兵士たるものゝ外に、国帝の臣たる吏役は戦争の

 時に当りて各士卒となるを以て、其 員数極めがたし

      但著者の注なり

 然る時は我等忽ち国帝の兵士人丁五十二万五千、其六万  *日本の総人口3500万程と推定される

 は騎兵なる歟、又員数凡百万にして其十万は騎兵なる

 や否を弁知すべし、我等知る所を以てするに日本に小

 麦・裸麦産する事夥し、是を債物金銀銅に易へ唐国

 海岸に送る、且国中の年貢一億四千万ドルラルス銭名の高

 に及ぶ、此国の街港、都て防禦厳く我鯨漁民サンガル地名

 海門通帆する比に、凡二里海岸に近く時ハ砦に要害の

設をなす、若其鯨漁船危難に逢ひ漂着する時は是を

捕へ獄に戒め、自国に帰る事を得さらしむ、斯る所為、

在位のハイプレシデント亜墨利加国司をいふの世に於て存し難き事必 *whig president ホイッグ党大統領

せり、尚外国の事に関る長官デニルウェブストル人名、海岸大 *Daniel Webstor  国務長官

元帥たるゲレヘム人名あるを以て弥然り、察るに賢良法政      *William Graham 海軍長官

の故を以て、不日に我国産の綿・鉄等夥しく日本に送り、

是を金銀樟脳に易へ我国に運ん、此時に当て日本港内

に於て万国の通商盛なるを見るべし

 我等も又万国諸州の通商を願ふの意あり、案ずるに

P30

日本に於て小麦・裸麦は自国の食料にして外国に *裸麦=大麦 小麦はパンによい、大麦は麦飯

出すの有余なし、只小麦を僅和蘭貿易の替品とし

て咬留巴に運送セしことありて唐国に運搬するも亦

然り

一金銀を外国に出すハ厳禁にして其料斬罪に当る也

国中の年貢一億四千万ドルラルス銭名の高に及ぶか既に *江戸時代後期のGDP 9千万石説

 国中政道等の事未審なるを憂へ如何して其年貢

の員数を知る事あらん


原本:国立公文書館内閣文庫視聴草(陰影本)