江戸名所記は寛文2年(1662)に出版された江戸の地誌で、浅井了意の作と云われている。
1657年の明暦の大火の記録物語である「むさしあぶみ」もこの頃出版されており、浅井の作と云われている。
本書は七巻からなり、70か所余の江戸名所についてのべているが約九割は神社仏閣及びその関連である。 第一巻の冒頭は武藏国、江戸城、日本橋の由来、状況などから始まり、以後は神田、上野方面の神社仏閣をとりあげている。 この書が出版された時には江戸城の天守閣は既に明暦の大火で焼けて存在しない筈だが、大火前の威容などが記されているので一概に大火後の様子とは限らないように思われる。
江戸名所記巻一
P4
春の日うらゝかなるに、いざなはれて、柴の *粗末な家
戸ぼそを立出。そこともわかず、たどり行ける
に、とし頃の友だち、これも我とひとしき *長年の
心にて、あれたる宿をうかれ出たるにゆき合
たり、たがいにめづらしき心ちして笠をかた
ぶけて立ながらしばらく物がたりせしかども
猶言葉はつきせず、これよりわかれてかえらんも
残りおほし、夫もの毎わざとならぬこそ *物事
よけれ、とりつくらふはむつかし、いざや俄に
思いたちて、名所おほき江戸まはりをめぐり
て見ん、年月こゝに住みながら知らぬ人に尋ねら
れて、そこは見ず、爰は知らずと答えんもお
こがましかるべしやといふ、それこそいとよき事
なれ、されば物かたりのたねにもならんかし、いで
や日も闌(たく)るにて、うちつれだちてあゆむ *盛んになる
かしこなりける茶やに立よりて酒少
うちのみて暫らくやすらへ、そのめぐるべき
道すじをさだむ
P5
江戸名所記巻一目録
一 武藏国 二 江戸御城
三 日本橋 四 東叡山
五 不忍池 六 牛天神
七 忍岡稲荷 八 神田広小路
九 湯島天神 十 神田明神
十一 谷中清水稲荷 十二 谷中法恩寺
十三 谷中善光寺 十四 谷中感応寺
十五 新堀村七面明神
江戸名所記第一
― 武藏国
さても此国を武藏と名つけし事はいか成
故かあるらんといふに、あるじの翁こたへて
いはく、古き人の物がたりにこの国のうちに
祖父が嵩(おうじたけ)とて高き山あり、その山の有さま
鎧武者の大にいかって立あるかたちに似
たり、されば人王十二代景行天皇の御宇に
日本武尊、東夷を鎮めんためとて、この国に
下り給ひ、かの嵩を見そなはしての給はく
此山のいきおひによりて、此国の人は心の
P6
たけきに余国にすぐれたるもことわりなり
我今大将軍として東夷のともがら王命に
そむくものを責め従へんがために下れり、や
がては此嵩の神、わが軍を守るべしとて
みづから所持の武具を嵩の上なる岩蔵に
こめて山神をまつり給ふ、武具を込めし岩蔵
の国なれば文字に武藏と書たり、さて程
なく平らかに国中治まりければ、今ははや
武者武具をさしおくなりと宣いしより
むさし国とは名つけたり、かの嵩は後に
弘法大師のぼり給ひて妙見大菩薩を
勧請し給ひける故に、妙見菩薩の御嵩と申也
とかたり伝へ侍るといふ、誠にめでたき物語かな
今は殊更あめがした平らかに治まりて国に *天が下
そむく輩なし、牛を桃林の野にはなち、馬を *注
華山の陽にはなちて、太平の世をしめし給ふ
国の人がらも慠毅にもなし、心だて正直にして *傲毅 威張る
物やわらかなるは政道正しく上に聖賢
の風ありて、徳澤の普く流(つた)はれる広き御恵の
おとなはるゝ故也と云て立出てゆく *訪う
武藏にも都の手ぶり似さしつゝ
今ハ人柄やさしかりけり
P7図 茶店
注 馬を崋山の陽に帰し牛を桃林の野に放つ(帰馬放牛)
周の武王が殷を滅ぼしたときに、戦争に使用した馬を崋山の南側に帰し、武器などを運搬させた牛を桃林に放って、二度と戦争はしないことを人民に示した故事に基づく。(出典書経)崋山は陝西省(せんせいしょう )にある名山
二 江戸御城
此御城はそのかみ後花園院の御世、文安年中に *1444-1449
鎌倉の山内に管領上杉右京亮憲忠とてお
はせしが威勢大にふるいて、十ヵ国に及び
あまねく従へて受領せらる、其家の子に
大田道真といふもの長禄元年にはじめて江戸 *太田資清 *1457
の城をつくり、其子持資入道道潅おなじく相
つぎて居城せらる、しかるに享徳三年甲戌 *1454年
十二月廿七日に鎌倉の公方西御門成氏公すな
わち御所のうちにして管領憲忠を誅し
給ひぬ、これより関東大に乱て静なる時なし
P8
しかるに道潅は上杉修理大夫定正の長臣とし
て扇谷に伺候せられしに、山の内の管領上
杉民部大輔顕定と定正すでに中あしく成
度々戦(いくさ)ありけり、文明十八年丙午太田の *1486年
道潅むほんの事有て、定正のために誅せら
れ、江戸の城は定正の手にわたり、子息五郎
朝良にいたる二代のうち在城あり、朝良卒
して後に管領上杉修理大夫朝興この城に
ありしを、大永年中に北条氏綱にせめおとさ *1521-28
れ、北条家四代のうち相つづき氏直のときに
いたつて北条治部少輔・遠山左衛門尉をもって
城代とせられしを、天正十八年七月六日小田原落 *1590
城して氏直滅亡せられしより此の方天
下おだやかに四海太平にして、当家に属し
江城すでに日にしたがい月を追てとしを
重ぬるにますます繁昌し、諸国の大名小
名なびきしたがう事は吹風に草ののえふすが *隁のえふす ひれ伏す
ごとく日本国の諸人いりあつまりて市をなせ
り、城の大手は東にむかい、あしたに出る日の光
に映じて、殿主のかげ、さちほこのうろこの *天守閣
ひかり、上は雲まにかがやき、下は海原のうしほに
うつろひて金花さくかとあやしまる、西の丸は
P9
本丸の南にありて、大手の門又南むきなり
西の丸と本丸のあいだに紅葉山あり、御城の
めぐりは大名小名の屋形、棟をならべ軒をきし
りて立つづき、君を守護したてまつらる、出
入諸侍たち、大身も小身も礼法みだりならず
威儀ただしく太刀かたなの下緒の
右往左往(びらりしゃらり)とするもいとおだやかにみゆ
あまのはら ふりさけみれば 白たへの
たかくつくれる江戸の城
注 天の原ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも(阿部仲麿)
P10 図 江戸城
P11
三 日本橋
橋の長さ百余間北南にわたされし橋の
下には魚舟、槇舟数百艘こぎつどいて、日毎に
市をたつる、橋の上より見れば四方晴て景面
白し、北に浅草東えい山みゆ、南にふじの山
峩々とそびえ、峰は雲まにおし入て、鹿の子まだ
らに降つむ雪までのこりなくみゆ、西のかたは
御城なり、東には海づら近く行かう舟もさだか
にみえわたれり、されども橋の上は貴賤上下の
ぼる人下る人、ゆく人帰る人、馬乗り物人の行
通う事、蟻の熊野まいりのごとし、あしたより
ゆうべまで橋の両脇一面にふさがり、おし合
もみあい、せき合て、しばしも足をためて立
とまる事あたわず、うかうかとかまえたる者は
ふみたおされ、けたおされ、あるいは帯をきら
れて刀わきざしを失い、あるいは又きん
ちゃくをきられ、又は手に持ちたる物をもぎと
られ、偶々見つけてそれと云わんとするに
人たまひの中に立まぎれて跡をみうし *人溜まり
なう、すべて西国より東国の末まで諸国の
人の上下往来する日本橋なれば、まことに
せきあうもことわり也、橋のしもなる市の声 *下
P12
橋の上なる人音、さらに物のわけもきこえず
只わやわやとどよみわたるばかり也
あめがした なびきわたりて 君が世の
さかゆく江戸を しる日本橋
図 日本橋
四 東叡山
爰は忍岡とて当国の名所也、南光坊の慈眼大師と諡号有
開基なり、都の丑寅のかたにあたりて比叡山
あり、桓武天皇の御宇に伝教法師の草創し
給うところ、王城の鬼門をまもり、天下国安全
のいのりをつとめらる、この東叡山はまたこれ
江城の鬼門をまもり、悪事災難を払う鎮
護国家の霊場也、天台四明の法燈をかゝげ、仏乗
三観の覚月をあおぐ東国の叡山なれば東叡山と
いふなり、此山にのぼりぬれば江戸中は残らず
目のしたにみゆ、忍の岡の事は今は上野に
ありと聞ゆ、俊成卿の歌に
たがために忍びの岡のしたわらび *下蕨 小さなわらび
けぶりはたえず見えわたるらん
とよまれしは爰の岡の事にやあるらん、覚束
なし、又続古今俊恵法師の歌に
なに事を忍ぶの岡のおみなえし
おもいしおれて露けかるらん
とよみしは奥州の名所をよめりといへり、いず
れとさだめて知がたし
ひだるさを忍の岡の岩つつじ
色にいづとも酒はのまばや
図
五 不忍池
忍ぶの岡にたちつづきて、しのばずの池あり、本は
しのばずが池と云いしを今は篠輪津が池と呼び
来れり、堯恵法師の路次記に、忍ぶの岡は今は
うえ野にありといふ忍ばずが池。今はしのばずの
池と号すと云えり、池の大さ五町四方もあり
なん、池の中に嶋あり弁財天おはします、水谷
伊勢守建立せらる、南のかたに茶やあり、北に
ゆけば谷中に出る、池水常にたゝえて滔々
として底ふかく、風ようようと吹おこれば小波か
さなり立て水面に皺をたゝみ、月雲を分て
P15
出れば影水底にうつりて百錬の鏡を見、かく
木にのぼる魚もなく波をはしる兎はなけれ
ども、さながら竹生嶋のおもかげあり
水底のきよきを神のこゝろにて
なにをかくさん忍ばずが池
注 謡曲(能) 『竹生島』 (ちくぶしま) の一節。
「緑樹影沈んで魚木に登る気色あり 月海上に浮かんでは
兎も波を奔るか 面白の島の景色や 」
図 不忍池
六 牛天神
東叡山黒門の際、右の方にあり、堯恵法師中
興として上野の鎮守たり、ある人いわく、北条
氏康関東対治の後霊夢おはしけり、管丞相
御手に一枝の梅花をもち、大なる牛にのりて
都の右近の馬場より御やうがう有けりと
夢さめて此やしろを初めらる、久しく大破に
及びしを堯恵中興して、その跡失わずと
いへり、松梅はもとより神木也、一花ひらきそめて
梅は天下の春をしらしめ、時雨に色かへぬ、とかへり
の松は忠節無二の徳をあらわし給う、されば老
松紅梅殿みな此御神の末社たるよし、これまた
ふかき故ありとかや
人ごとにまうでくるまの宮めぐり
牛天神やよだれたるらん
P17
図 牛天神
七 忍岡稲荷
社まで猶忍ぶの岡のうち也、太田の道潅こ
れを勧請せらる、本社は洞の内にあり
ほらのうえにもまた社あり、やしろの前はすなわち
石のほりぬき也、穴の前、両脇に白き狐有
神木は榎木なり、やしろの右のかたに糸桜
あり、柳のえだに桜の花をさかせたるがごとし
春風にうちなびく有さま、朱の玉垣にいろを
うえて且ちる花や匂うらん、宜祢がうちふるしら *白幣
にぎてを柵をへだてゝみるがごとし、石壇の
したに泉水あり、岸は石にてたたみたり、西の
P18
方にむかえば忍ばすが池は目の下に見ゆ、またすて
がたき絶景なり
護国院はこれ明神の霊夢によりて立られし
ところ松桜竹のはやし、万木えだをきしり
梢の花色をあらそう、鳥井の内に茶やあり
わが思うねがいをみつの御社に *三つの?
ゆふかけてさく糸桜かな
いにしえ空海和尚入唐帰朝の後、東寺の門
前にして稲を荷いて来り給う、その時は *神の化身か?
おきなのすがたにておはしましけるを、大師
これをいはひしづめまつり給う、稲荷山これ
なり、此明神を太田道灌勧請せられし、かの
本山は紅葉を名物として歌にもよみける事 *伏見稲荷
あり、又あおかりしよりと云う本歌を思い出して *注
あおかりしいなりの山はさもあらばあれ
いまはあやかれ白ききつねに
注 時雨する稲荷の山のもみぢ葉は
青かりしより思い初めてき(古今著聞集、和泉式部関連)
P18 図
八 神田広小路薬師
当寺の本尊薬師如来は伝教大師御在生の
とき、七仏薬師の霊像をきざみ給う、今其中の
一躰也、しかるに本山第二の座主慈覚大師
あまねく衆生利やくのために、この本尊を
もり奉りてくたらせ給い、ひろく済度の御結
縁をほどこし給う、爰に又江城の元祖太田
道潅この霊像を帰敬し、年久しく城内に
あがめ給いしが、又故ありて神田にうつし奉り
いよいよ祟教浅からず、ことさら時の大御台
御願主となり給ひて御堂御再興あり、玉を
つらね、こがねをちりばめて綺麗なること目を
おどろかしけり、そのうちに又故ありて広小
路にうつしたてまつる、しかれば此如来星霜
久しくもろもろの衆生にけちえんし給ひ *仏道に帰依
所々に坐をとどめ、現当二世の悉地は古往今 *成就
来、さらにいよいよさかん也、しばしば霊瑞奇特を
しめし給う事は語り伝え、聞き伝えて諸人
あまねく知る所なり、されば東関群庶の福田なれ
ばとて、当初より寺を東福寺と号すとかや
なむやくし ちかひのあみは ひろこうじ
いをせんざいと人やいふらん *魚善哉?
P21図
九 湯島天神
そもそも当社は人王百四代後土御門院の御宇
文明十年の夏のころ、太田の道潅江戸の城
を築て居住す、北野の天神を信ずる心ざし
ふかゝりければ、すなはち城中に勧請せらる
その年の秋あやしき夢想をこうぶりしに、あ
くるあしたに、ある人菅丞相の自筆の御影
を奉りぬ、道潅この奇特をかんじ給ひて城の
北のかたにやしろをたて、梅の木あまた植たて
社領をよせてあがめまつらせしより、このかた
ようやく繁昌して宮居はたぐいすくなき
P22
絶景の勝地となれり、湯島はこれ郷の名なり
ある人の発句に
行(ぎょう)を水になすな湯島の神の春
ちはやふるあら人神の身をわけて *菅原道真→天神
きよき湯島にあらはれにけり
図P23
十 神田明神
この社は将門の霊なり、いにしえ桓武天皇六
代の後胤陸奥の鎮守府、前の将軍従五位下平
朝臣良将が次男相馬の小次郎将門と云う人あり
朱雀院の御宇承平二年にあたって総州相
馬郡にありて、つわものを集め謀反をおこし
伯父鎮守府の将軍良望、後には常陸の大丞
国香と改名す、かれをうちほろぼし、関八州を
なびかし、自ら相馬郡に宮古をたて平親王
と仰がれ、天下をうばひとらんとす、ようやく東
国をせめしたがえ、その勢い大に成て、駿河国
までうつてのぼる、ここに天慶三年庚子に
国香の子、平貞盛大将軍の宣を蒙り、藤原
の忠文朝臣、俵藤太秀郷副将軍としてはせ
むかう、秀郷はかりごとを以て将門を打ける
ところに、その首とんで空にあがり雲に入しが
此所におちとどまりしを都にのぼせて獄
門の木にかけられしに、その首更に死なず
して祟りをなし、この首を見る人たちま
ちに皆煩いける、故にさまざま御きとう
ありしかどもしるしなし、ある人この首のほ
とりに来りて
P24
まさかどは米かみよりぞきられける
たわら藤太がはかりごとにて
とよみければ、此首からからとわらいて、それ
より目をふさぎ、たたりをなさざりけり、かく
て此所に送り下し御たくせんの事に
よりて社をたて、いはいしずめたりければ
霊験あらたにおはしませり
ちはやぶる神田の宮井年ふれど
いのるしるしは猶あらたなり
図
P25
十一 谷中清水稲荷
谷中通清水のいなりはむかし弘法大師御修行
の時、此所をとおり給いしに大に喉かわき給う
一人の姥あり、水桶をいただき遠き所より水
を汲てはこぶ、大師このうばに水をこひ給ふ、姥
いたはしくおもひ奉りて水をまいらせていわく
この所更に水なし、わが年きわまりて、遠き
ところの水はこぶ事いと苦しきよしを
かたり申けり、又一人の子あり、年ころわづらひ
ふせりて、うばがやしないともしく侍りと *乏しく
歎きければ、大師あわれみ給ひ、独鈷をもって地を
ほり給へば、たちましに清水湧き出たりし、その
あぢわい甘露のごとく、夏はひややかに冬は温也
いかなる炎天にもかわくことなし、大師又自ら
この稲荷明神を勧請し給ひけり、うばが子此
水をもって身をあらうに病すみやかに癒えたり
それよりこのかた此水にてあらうものハよく
もろもろのやまい癒えずと云う事なし、この故に
清水のいなりと申す、又人の家たちづづきて
すなわちここを清水町と名づく、神木は杉なり
千載集僧都有慶の歌に
いなり山しるしの杉のとしふりて *伏見稲荷の事
P26
みつのみやしろ神さびにけり *三つ 上中下社
とよみしも時にとりては思いあわせらる
あらへただけがれに濁る人こゝろ
清水のいなり神のまにまに
来てみればいなりの清水底澄て
やどる月さへくまなかりける
図P27
十二 谷中法恩寺
後土御門院御宇文正年中に太田道灌この寺を
建立せらる、開山は日住上人なり、後に台徳
院殿より寺領御寄附の朱印を下さる、いまは
不受不施の門流をくみて放逸にしてむなしく
信施をついやす事をおそる、本門究竟の大道 *信者の布施
をしめして三車方便の化用を貶む、まことに深き
故あるよしを聞つたえし大門の左の方に三
十番神のやしろあり、拝殿の前に魂屋あり
鐘楼は屋根なし、本堂の両方に桜二本あり
花信の風の後、この花はじめてほころび出れば *花たより
曼陀羅花の地よりわきあがりて、木ずえに
むらがり、とどまるかとあやしまる、詣で来る
ともがらは帰らん事を忘れてながめくらす、わか
き女房たち、麗しき小袖にいろいろの衣
裏(えり)さして袂をつらねて入来り、他念も
なく此花をながめ居たるありさまは我此土安穏
天人常充満の経文にかなへりとおぼして、いとど
うきたつ春の日に諸人こゝろを空になす、幸
に此花本堂の南方にあれば、自ずから御本
尊にさゝげたてまつる心地して云うばか
りなく見えければ
P28
折とらばたふさにさかるまでながら *た房に下がる迄
釈迦と他宝に花たてまつる
とも云うべしや
よみいたす経はなむめう法恩寺
庭の桜は陀羅二本かな
図
十三 谷中善光寺
当寺の本尊は秘仏にて開帳なし、両脇
には善導法然の絵像かゝり給ふ比丘尼寺なり
信濃の国の善光寺の如来は仏在世の時に
月蓋長者がつくりし所、閻浮檀金の三尊遠く
日本にわたり給ひしを、欽明天皇の御宇に尾 *物部尾輿
輿連、弓削守屋がわざとしえ難波堀江にしずめ *物部守屋
たてまつる、信州水内郡に本多の善光と云もの
官に駈(から)れて都にのぼり、国に帰らんとする折
から、堀江の岸を通りて此本尊を拾いた
てまつり、国に帰り家をうつして寺となし、わが
名をもって直に善光寺と名づけしとかや
今の谷中の善光寺はいづれの時、如何なる事に
立られしとも定かに聞えがたし、門の内には
両方に並木の桜あり、善光寺は尼寺なりければ
善光(よきひかり)照らす誓いのしるきかな
なむあまだ仏(ぶ)の声をたづねて
P30図
十四 谷中感応寺
長曜山感応寺は中興日長上人、当代にい
たるまで九代、法花とくじゅの声相
続きて絶たず、十羅刹、三十番神も
かんのうのまゆをやひらき給うべき当寺
に高祖日蓮大聖人自らつくり給へる
御影あり、十月十三日はこの聖人の御忌なれ
ば諸人詣であつまる事市のごとし、御
影は秘して常には開帳これなしよし
人立願の事ある時には草履一足をもち
て参り、御影の前にかけたてまつりて
P31
いのるに所願成就する事、たとへ
ば鐘のしもとにしたがいて音をいだし
谷のひびきに応ずるがごとし、よく諸
のきどく多ければ感応寺と名づけし
も故あり、虎うそぶけば風生じ、龍吟ず
れば雲おこるがごとし、これを感応と云う
まさに行者のこゝろざし誠ある時は
そのしるしむなしからず、しかるを常々
念ずることもなく、信ずる事もなくて
すぐに何事にて我が身の上にむつかし
き事のあるときにいたつて、にわかにい
のりをかくる人の心だてこそおろかなれ
情ごはにいのるねがいをかなえずは
感応という甲斐やなからん
P32図
P33
十五 新堀村七面明神
七面はもとこれ見延にあり峯七ツの山也、古
日蓮聖人此見延山にして法花経読誦(とくじゅ)あり
その声雅亮にして谷峯に響き、天人もあ
まくだり、十羅刹女もやうがうし給うらんと聞人 *法華経行者の守り神
感涙を流しけり、かゝる所に一人の美女忽然とし
て来り給い、聖人にむかってのたまいて、我は
これ此山の神なり、経王どくじゅの声にひかれ
てあらわれ出たり、此山の峯七ツあり、各々
面をむかえて住す、今よりのち守護神とな
りて、この法をまもるべし、わが本躰を見給へとて
大蛇のすがたを現して、やがて御すがたをかくし
給う、聖人すなわちこれをあがめ、身延山の守護
神とし給へり、爰に新堀村宝珠山延命院の
住持日長上人、万治三年庚子正月十六日うたゝね
の夢に七旬にたけ給ひし老僧かうぞめの *七旬=七十歳台
袈裟をかけ、水精の数珠をつまぐり枕もとに *後染め
来り給ひて、汝かならず七面の明神を勧請せ
よ、しからば大に繁昌して宗流ますます
ひろまるべしとあらたに告を蒙りて夢は
そのままさめたり、日長つらつら案ずるに、我
日頃妙見大菩薩を勧請すべきや
P34
七面の明神を勧請すべきやと二心あり
てついに決せず、日比を経る所に、今この夢想
を蒙る事の有難きよとおもい、やがて七面
の明神を此地に勧請申されし、御縁日は
九日と十九日と廿九日をとる、神事は九月
十九日なり、七面は本地北斗の七星、妙見もまた
これ星の名なり、武曲(ぶごく)星のかたわらにありて
もろもろのつかさたり、経には妙見大菩薩と
説き給へり、されば妙見は諸星の中の大王な
れば、あらゆる星の北に向うは妙見星をあが
め給うところなり、七面をあがむれば妙見大
菩薩はその間にこもりておわします也
日蓮聖人大難の時にあたって梅の梢に星
くだりの奇特をあらはし給うも七面の明神
守護の故なり、かゝる奇瑞あるをもって今
又此地にひかりをやわらげ□をたれ給う
北にすむ星のひかりをやわらげて
人の世てらす七おもての神
P35図
巻一終
出典:国立公文書館内閣文庫