朝野纂聞九
朝野纂聞別録
P3
閣老衆江差出候写
上
京尹建白 癸亥早春到来 *文久三 (1863) *京都町奉行の別表現
P4
今度
御所向ゟ島津三郎儀京都守護職被 仰付度 *島津久光 鹿児島藩主島津忠義の実父
被 仰進候哉之趣、右御案肥後守殿上京家来江も伝
奏衆ゟ内達有之由ニ而外嶋機兵衛と申者殊之外ニ心配申聞 *会津藩士
候間、右写内見候處、実以不容易儀已ニ先頃中薩長両
家互ニ張合候節も応仁之乱兆と存候処今般三郎兪
右之通被 仰付候得者猶更以不堪痛心、尤肥後守
殿おゐて偏ニ公明正大、鉄心石腸ヲ以関東御補翼
P5
天朝御尊奉之御所置有之候得者、三郎如何ニ剛腸也共人
心有之者ハ感伏落胆仕、禍乱も起申間敷候得共当時
之御場合天下之人情必ず肥後守ニ者関東ニ而被 命
候守護、三郎者 叡慮を以被 命候守護と申唱自然差
別を立候気合ニ可相成、天下之人情差別を立て候気合
相成候者者即刻国党之兆、御国内之争乱此一勅書ニ起
可申嘆息痛心必至、猶機兵衛儀彼是手を尽其筋探
糺候模様承候処、一藩奉職ニ而ハ人心必居合も如何有
之哉御懸念 思召候と之御文言者肥後守殿耳ニ而者御不
足ニ而 関東江彼為対候処いまた御疑念、御隔意被為在
候様被存候得共、御所ニ而者決而右様之 思召ニ而者無
之、畢竟御親藩計ニ而者公平之御処置ニ無之と之議
論盛候故、其折合方を深御心配ニ而外藩を彼加度
思召と之由、右者必定初発五大老之論意ニ基付三藩より
遮而申立種々議論を以 叡慮を恐動致候付実以
可然と之御実心より出候儀ニ而敢而御疑念御難題被
p6
仰出候思召ニ者有之間敷哉、其被察候得共藩士彼是
之議論ニ寄右様之御所置有之候者只一時之折合を
御心配被成候迄ニ而後来大乱之端と相成候處へ者
御心不被為付つまり目前姑息之御所置に有之、殊之
外藩国守之内可般 令者有之処、三郎者
公武御一和之基を致周旋、且当主ニ無之候得者守護
職に専一ニ可相調儀と被 思召候段者外ニ御意味
合可有之候様被存、其上家督ニも無之者江守護之
大任被 命候者国家大体を御弁明無之御不相当之
至、万一右様被 命候節者相当之高禄重官をも不
被下候而者相成間敷、家督ニ無之者俄に大任
付高禄重官等被下自然外御警衛諸大名之差配を
も致候様相成候得者、当秋御内 勅之中将御推任と
者万々不容易儀諸藩一統必不服心を生、如何様之
儀出来可申も難計方々其表江被 仰進候共決
而御請ニ者被為成間敷御儀と奉存候得共別段
P7
叡慮を以断然守護職被 仰付度
叡慮貫徹致候様と之御文意者此儀ニおいて者
無他事十分御据りニ而被 仰出候儀者被存候間
家督之者ニハ無之不相当又者諸藩の気配ニ拘候等
道理上之御論を以御否ミ相成候得者 *否 いなみ
御所向おいて道理上ニ者相屈ニ相成候共当節之御
場合外藩守護職被 命肥後守殿と並候而者
関東ニ而御不都合故御否ミ之被成候等万一
御所向ニ而御聞取ニも相成候得者御内心之御疑惑者
一層相増公武一和御情実之御障と相成可
申、此段之御所置乍恐実ニ一大御難事治乱之
大機関と奉存候間右 勅書之御趣意ニも
不戻、且者乱兆を御塞相成候御良策有之間敷
哉、私共限種々勘弁仕候處、一體
皇都之御守護四海之御鎮撫者乍恐
p8
将軍家之御職掌被為在候間、是迄も京都
御警衛向追々諸家江被 仰付置候処当節
柄別而御配慮被為在、新たに肥後守殿へ御守護
職被 仰付候處猶一藩ニ而者人心折合方も不宜
彼是御配慮被為在候間、此上者速ニ御上洛被為
在
御祖先以来之御職掌を以
御自身 禁裏御守護被為遊而天下之親
外諸藩之公論御採用 叡慮御伺之上皇都之
御守護四方海陸之防御等御差配可被為在間
叡慮を可被安と之御趣意を以御返答被
仰出早々有之御手順ニ被遊可然哉奉存候、尤
御上洛之儀此節専ら御取調中と者奉存候得
共昿世之御大典殊ニ御麻疹後ニも被為在候間
年内御上洛之御運びニも被為 成間敷哉奉存
候間、先肥後守殿早々御上京被成候方哉共奉存
P9
候得共此度之儀ニ付不取敢御上京と相成候得者
三郎より先後之権を被争候様ニも相当り
御所向之御酌取も如何可有之哉、其上当時定而
勅使御引合等ニ而肥後守殿御在府不被為在候而
者御不都合之儀も可有御座候ハヽ先肥後守殿
先鋒隊御人数丈ニ而も早々御差登せ相成御用
御手続ニ者被為成間敷哉何れニも乍恐
御祖先ゟ之御職掌と申名義ヲ以 御上洛
御自身御守護被為在候より外此度三郎守護之
勅旨を御取消御国内争乱之萌芽を御裁切可被遊
御廟算乍恐被為在間敷哉奉存候、右等私共職
外之儀忌諱を不憚奉申上候者識以奉恐入候 *きい 遠慮して口にしない
得共国家大乱之兆目前ニ有之なから心付候事
共不申上にも却而恐入候儀と存愚存之趣奉入
御内聴候以上
文久二年壬戌
十一月廿日
永井主水正 *尚士(なおゆき)京都東町奉行
瀧川播磨守 *具挙(ともたか)京都西町奉行
夢中の妄想
今度薩州より嶋津三郎上京之因由を案ずるに
先年亜米利加船江戸海に迫り来りし以来、和議を主
とするの徒と拒絶を主とするの徒と二党あり、水府公ハ
初メ政府ニ御加り之節者左のミ御論にても無之
といへども後日に至りては頻ニ外夷打攘の議を御主張あり
蓋シ其故は夷狄飽く事なきの願と姿にて種々の
難題を申出、一を許せハ又一を請ひ其望む所際限なし
P38
故ニ一端ハ之と和交なすとも畢竟釁隙を生せざる事ハ *きんげき 仲たがい、
本邦ハ土地豊饒にして海外四方の便利宜く殊ニ
支那ニ隣るを以外夷若し我土地を有する事アラハ其利
印度にも勝るべし、故ニ恐らくハ英夷のインドを掠奪せし
例に倣ひ 本邦を覬覦するならん、万一異邦の管 *きゆ
轄を受るに至らハ数千歳進捗之御国威一時に滅す
すべし、臍を噛むとも及ばさるべし、寧ろ速ニ弘安賦元の
船を覆滅せし例に随ひ 本邦一統力を合せ誠忠之勇武
を振ひ敵艦を打払せは外夷必 神妙之威に恐愕して
重て侵す事あらざるへしとの御目算と見ゆ、然ルに
公辺に於てハ此御計議を御採用もなく遂ニ異邦と和議
之事ニ御決定と相成る、是亦其故なきにあらす、蓋シ当今
の夷狄は弘安の賦とハ一轍にハ論じかたし、仮令暴風恐濤
ニ逢ふとも容易覆滅すへきにあらず、且一朝争端を開くに
至りてハ一時に勝敗を決すへき敵ならず、歳月の久しきを
厭わず敵艦四周の海岸を囲ひ我国運輸之船艇を奪ひ
p39
出没期なく侵撃せハ我兵ハ唯奔走に疲労するのミならず
無益に莫大の国用を費すへし、又仮令幾艘敵船を破
砕するとも渠は常に憤る所にして敢て之を患ともなす *渠=かれ=彼
べからず、又我兵ハ一旦義気を奮発して戦に臨むとも戦
ふ毎に必ず勝を得る事も難かるへし、若し其戦闘数年
の久しきを経るに至らハ自然と義勇も挫け自国の掠
奪を為すも至るべし、然る誠忠真義之輩は格別、其他
通常の人情ハ皆利を以て導くにあらされハ振勇奮戦
も難き者なり、中古以来 本邦の軍戦にハ惣而戦
士の戦功ある者ニは夫れ夫れ恩賞の領地をも宛行ひ
或ハ敵国も我者となるべきか故におのつから励ともなる
べきに、当今外邦との戦争ニは数年の間辛苦して
一命を軽んじ天晴の戦功を為すありとも土地は已に
皆夫々領主ありて恩賞を施すにも言辞金銀より
外ならず、其金銀とても大抵程のあるものなれハ濫りニ施す
べきもあらず、概して之を算するに仮令百戦百勝を
p40
得るとも百勝毎には甚些少にして却て莫大の損耗
あり、詰る所は国内の争乱より外ならず、自分四民に
塗炭の苦を受しむるに至るべし、夫れよりハ先ず外邦へ通じ
大艦之操法等をも心得、四海を家の如くにして諸外邦に
往来し衆人数万里の外に至るとも我邦内の如くに思
ひ例えハ戦功之恩賞に新阿蘭陀国内に於て何千丁之地
を宛行へし等之事を聞き諸兵士競ふて奮戦を為す
といふ程ニ至り、然る後戦争の端を開くとも遅きにハ非
さるべしとの御目算と見へたり、夫故遂に亜国との御調
印ハ 勅許をも不被為得相済たり、是 禁庭にハ老公の
御内通ありて専ら拒絶を御主張の御事ゆへ、中々急には
調印等之御許容ハ有間敷、其間にハ変事出来難計
御推察故之事なるへし、且老公には刑部卿殿を西丸の
御養君に被立度思召なれハ 公辺ニ而ハ老公と御議論御
一致なき御筝故、西丸江者紀伊殿より御引上ニ相極る茲に
於て老公甚御憤懣に成、俄に御内意之尾州殿、越前候
p41
御示合御諫争の思召にて不時に急御登城有之、御大老
掃部頭殿始メ太田道醇殿其他閣老方ニ御逢ひ色々御 *太田資始
議論有之、且条約御調印の御非難等種々有之處、其御
議論条理貫通致兼、却而御察当等被受、御三方共御本
意ならず御退城ニ相成、依之老公ニハ益御憤懣甚く頻に
て御同志之御方々と御内々御申合され、尾州殿・越前候
阿州候・因州候・薩州候・仙台候・福岡候・長州候・土州
候・宇和島候・柳川候等御同盟之御方々惣代として老公御
内奏被成、刑部卿殿を将軍家の御世嗣と不被為成候而者
当今外夷来寇之時節 本朝之危難とも相成、このだん
関東江 勅諚有之様御取結ひ、且当節幕府の御処置
朝廷を被軽 勅諚を不相得外夷と和親の条約調印
等致候談、国を売るの大賊とも可申等と色々被仰立
幕府征伐之 御綸旨をも御乞受と申場合に至る、また
将軍ニハ異常之御病気ニて俄ニ薨御有之等不穏模
様有之内、掃部頭殿より頓て 京都へ間者を入置、謀計を
p42
運し 御所内之様子等委細に探索致し、九条殿下を
幕府方江引込ミ遂ニ右之御企事露顕ニ及、堂上方を
始メ老公抔御同盟之御方々ニ及ひ従属の義従と称する輩
追々御咎ニ相成、老公之御計索大ニ齟齬せり、去れとも
右従属之徒は少しも其志を変せず誠忠連と称し
命を抛て国恩を報すると号し潜居するもの甚多し
蓋し同盟之方々及ひ誠忠連と称する内にも其内心は数
寄ありて例せハ漢儒の固説を尊奉し禽獣と犀を同ふ
するは 皇国の汚辱となると一心に思ひ込もあり、又夷狄
に親睦するものハ必ず其国掠奪せらるゝと其事をのミ
患ふるもあり、或ハ官吏の私欲を恣にするを悪ミ之を剽絶
せんとするものもあり、或ハ戦争之操会に乗じ己れが邦土を広
大ニせん事を謀るもあり、或ハ無頼の党抔一旦之糊口に供し
不意僥倖を望むも有へし、若老公専ら天下政事を執た
まふとも又恐らくハ之に背くの輩も有へし、然共今皆老候
の従属と為れるか故に其党甚だ多くして数年を経たる
P43
内に徒度義旗を挙げ是非共幕府諸有司を剽除する
約定ある事と見へたり、其故ハ頼三樹三郎等御刑法に行は
るゝ時申条ニハ五ヶ年の内ニは私共の墓前江香花を手向候
人も可有之と云たるまで知るべし、扨上に挙る如く 京都江
御内奏一件露顕之後 公辺ニてハ頻に賄賂等を以
御所向を御取成有之、水国江ハ御上使御遣ニ相成、其上右
征伐之 御綸旨を御取上ニ相成、之を被奉返納茲ニ於て水戸
藩ニ而ハ之を差上間敷とて国中大ニ騒動し、其誠忠連所々
に群衆し隣国にも之が為に大に心配し手配等を致せり
其内右之使徒は刺客と為りて大老掃部頭殿を害し且
上書を懐にして政府御処置の異議を訴ふ、元来彦根候
ハ出来不出来の甚しき御方ニ而始メハ謹密ニ有之謀計を
もつて御内奏を暴露し、雄弁を以老公をも屈伏し又
は御綸旨をも御取上等一時同盟の方々も胆を冷さる程の上出
来なれ共又右等よりして天下の事ハ我了簡次第ニて諸事
弁すへき抔妄想相成大ニ権威に募られ、物事疎略に成
P44
され、依姑の沙汰甚多く、甚しきハ自分遊興の為に諸侯
方登城の定則を替られたる等種々の不出来沢山なる
を以て人々挙て之を悪ミ奸悪不忠抔誉れちに畢竟ハ
才知足らずして大任ニ当られ其始末を終ふ事能ハさ
る御方と見ゆ、扨右御処置の異議を訴へたれ共 公辺には
一向老公の御議論御採用無之、只其後に老公初め其他
の方々御慎解の御沙汰有之といへども是以十分の御免にて
も無之、其内老公は御卒去ニ相成、此時こそハ同盟の方々定
て大なる御失望ならんか、老公ハ実に英傑果断の御方なれ
共御寛大之御気性少く只管に政府の御手ぬるきを悪ミ
給ひ且国中悉く武備之廃絶せるを嘆き給ひ、刑部卿
殿を将軍と為し自分補佐となり快く外寇を掃除
し其内邦内に騒乱あるとも弥武を励むの一助にして則強
国は弱国を兼る大諸侯と雖も或は小国に呑食せられ各
国競ふて勇武を張り上下共ニ倹難艱苦を賞て遂ニハ
武威を海外ニ轟かすの時至るへしとの御目算と見へた
p45
り、只外国の体勢等十分ニ御存なきは悔むべし、扨亦
公辺ニてハ頻ニ 和宮様御縁組の儀を御願ニ相成、是ハ一大切
要の事ニ而若此御事御調ひ無之ハ例之同盟方誠忠連
等公武之御間ニ如何なる御確執の基を開くへきも難計
如何なる事情生じて国家の転覆と相成へきも知へから
す故に莫大之御費用ニも御厭ひなく此御事ニ御周旋
あり、夫故ニ彼誠忠連等ハ此御事を忌ミ嫌ひ、種々流言を発し
或ハ術策を以て御破談を計りしといへ共其事遂ニ行
はれずして 御下向ニ相成 公武益御合体の御模様に
相成、其上加州候をはじめ、其他の大諸侯方ニも自若と
して徒然之如く頂戴之儀を失ひ給はず 公辺御処
置ニ一向御異儀の体も不相見方々多く有之、茲ニ於て長州
にハ段々鑑て最早卒爾に同盟約定の一挙も
行はれ難きを推察し、且もし一挙不成の日ニハ自国
の危難計難きを基り俄ニ一策を決し、公武御間柄思召
之齟齬する所あるを取繕ひ其功を以て従前の責を免る
p46
べきを謀りしと見ゆ、元来主上ニは叡明にして□傑の
御性質ニ被為 在といへとも九重の内に長成し給ひ下
情にハ十分御通じ無之ニ只誠忠連抔の唱ふる 尊
王攘夷の儀と漢説の夷狄禽獣といふ事及ひ外夷
皇国を覬覦する事のミを被 思召、且戦争は義勇を
以て一命を軽んしさへすれハ勝利を得へき事とのミ被
思召、器械、糧食、金銀の費用其他の困窮する時ハ民間
を乱暴する事、農民の役せられて耕作も指支の生ずる
事抔は聊も御配慮不被為 在事故、長州ニ而家臣永井
雅樂に命じて関東之御処置止事を得ざるに出るの
□由を講述せしめ、関東の議をも時宜に随而御採用有
之度由を 京都へ言上し江戸表江も其旨及今一
際京都向と御察奉無之てハ浪士蜂起も難計儀等を
建白相成ケれハ 公辺ニても其志を大ニ御賞美有之、且
朝廷向之儀ハ長州江御依托ニ相成事と見へたり、然るに
薩州ニ而は兼て藩中ニも誠忠連甚多く、其上諸方
P47
の浪士輻輳し来り水府老公の遺志を継ん事を請ふ
といへとも 和宮様之御事を以て難渋し未決し得
ざる由 天璋院様よりの御内書を得て 公武御合体
の御模様を懇会し、且長州に出し抜れたる事を甚
後悔なせし内、当春ニ至り東土の誠忠連の小□大橋順蔵
も被召捕、其徒頓て示し合たる事も画餅と相成、止事
を得ず俄に刺客となり又上書を懐にし幕吏の和□及ビ
非分之賄賂あばき、且 和宮様御事をば奉奪同様抔
と称し、又 今上を廃し奉るの企ありなと種々誣言
を造り且 公辺江は毛頭敵対し奉るにてハ無之抔相調
ひ閣老安藤殿を害せんと計りしに是亦其志を遂ず
薩州ニハ弥増ニ術策齟齬し、いつれ急速に御所向に
被入、時宜に応じて処置せざれハ自国の危難を発す
べきを思惟し、先浪人平野二郎に命じて登 京
せしめ幕府諸有司の誹理を数へあげ是を征伐す
べき数策を密奉し専ら 京都の御模様を探索
p48
せしむるに此密奏に依て再び朝廷ニも御疑惑生
し、旧臘長州より言上の論中にも御拒ミの箇条抔出
来たる事をきゝ三郎は急速に関東出府を名として
多く壮士を召連れ上京し、近衛殿へ参殿いたし所□
述し 朝廷の御模様をも伺ひけるに、昨年末御婚儀
等御整之上なれハ中々関東征伐等之儀を申立、且諸浪
人之騒擾を鎮静すると号し 叡慮を以 京都
に滞留し、又堂上方をはじめ先年御咎被 仰付有之
御方々の御赦免を嘆願し 御所向をとりなし遂に
幕府への 御勅使を勧め奉り衛護と号して京都ニ
至り却而 京都を後援として之に依願し、従来違制
之罪を免れん者ニ似たり、畢竟長と薩との間には釁
隙生ずる事有へし、而して長の策は黠にして功なり
薩の策は激にして拙也と謂へし、然とも当今本邦の
武士昏睡せる者を□覚けるハ独り薩の一挙にあり
文久二年戌七月 平安の隠士
東都之客舎ニ而記ス
p49
海外印行横濱新紙和解
附英公使書牌
p50
於日本神奈川千八百六十三年五月十三日
我文久三年三月廿六日
一我等日本ノ新聞ヲ略記シ以速ニ遠方ノ人ニ示サント
欲ス、固ヨリ当国危殆ノ形情ハ肝要ノ事ヲ記載ス
一日本政府ニ於テ至難ノ事アリ、日本人故ナキニ外国
人ニ向ヒ非道ナル凶悪ヲナセルニ之レニ至当ノ処置ヲ用
ヒス、只一二ヲ悔言ヲ述ルノミニテハ誰カ之ヲ信センヤ
一外国政府此国ノ人民と能ク親睦ヲ結ハント欲スルヲ
以テ此国ノ不規則ナル事ノ為メニハ堪忍ヘリ、夫レ日本
p51
政府ニハ随分智アル人少ナカラサレハ何事モ柔和ニ
商議イタシメ後欺カントセンニ於テハ其時厳刺
ナル所為ヲ用ヒン事尤も然ルヘキ事ナリ
一此国ニ居留スル外国人ハ生命ノ危急ナルヲ恐レテ痛ク
憤激ヲ含メリ、英国ニ於テ既ニ久ク日本ヨリ厳強ニ敵
対スル事種々ノ事ニ就テ観察シ其人民ノ生活ニ於テ
備防ノ術ヲ成サントス、蓋シ英国政府ハ日本ニ於テ□
害損失セル前非ヲ自悔セシメント欲スル事ヲ信実ニ処
置ス
一六周(一周ハ一七日)以前ニ数多ノ海軍を師ヒテ入津セル英民ヲ
殺害シタル故ニ依テ日本政府ニ贖金ヲ望ム事ヲ談及せり
一英国政府ヨリ去月六ニ於テ前段ノ意ヲ江戸政府ニ
告達シ夫ヨリ二十日ノ間ヲ一定返答ノ為メニ准許セリ〇
殆ント期限至リシ時、英ノ「ミニストル」エ日本政府ヨリ一定
返答ノ為メニ期限ヲ緩メン事ヲ請フニ十五日ヲ許セリ
〇日本人或方此時ニ江戸神奈川其他各所エ日本政府
ヨリ公然ニ事情ノ危険ナル形勢ヲ布告セリト〇此布
告ニ由テ当地付近ノ海辺及ヒ市中ノ人家悉ク移居ス
P52
其遺ルモノハ唯戦争ニ関係スル者ノミ〇政府ヨリ貧
賤ノ者ノ為メニ近邑ニ仮小屋ヲカマエ之ヲ救ハシメントス
〇日本兵丁ハ其自得セル所ノ武器ヲ江戸ニ取寄セル中
ニ美麗ナル具足ヲ備フルモノアリ、之レハ遠国等ヨリ運輸
輙所ト云〇又江戸城下ノ所々ニ堡塁ヲ設ケ砲ヲ備ヘシ
事ヲ聞ケト実説哉否吾レ之をシラス〇日本三月十四日ヨリ
十七日マテノ間当地人心ノ動揺尤モ甚シク各家財ヲ運
輸シテ近邑ニ退居セリ、随テ市中寥落貿易断絶セリ
日本人或方此寥落輙スク本復スマシト右騒キハ日本 *スナワチ
浪人ヨリ不意ニ侵襲アラン為カト疑ヒヲ生スル共能其事
情ヲ探索スルニ全ク政府ノ令ヲ奉メ□リト云
一日本人海客ノ為メ奴婢トナルモノ其雇銭ノ残りヲ乞
フテ速ニ退居セザレハ種々之□刑ヲ受ケンカト疑惑ヲナス
此頃日本ヨリ又日延ヲ請ハレシモ依テ英も又許諾セリ、則来る
ル日本四月五日ヲ以テ期限トス〇英国政府ヨリ目的ト〆
商議ヲナセル日本
大君ハ京師ノ途中ニアリシ故之ニ往復且江戸ニ帰城スルニ
費スヘキ時日アルヲ以テ数度期限ヲノフル事甚随意ナ
p53
リト、我ニ於テモ疾ク之レヲ悟レリ〇諸人我等ニ告ケルニ
方今日本大諸侯頻ニ軍旅ノ用意ヲ為シ且外国ト
和親ヲ絶ント欲シ、日本
皇帝の輩下ニ在テ外国人駆逐セントノ密謀ヲナセリ〇又
日本
皇帝外国人ヲ駆逐セン事ヲ決断〆自ラ輩下ノ兵ヲ募ル
ト云〇又大諸侯等
皇帝ヲ逢迎〆事を企ツ時ハ
大君モ之ニ敵スル事能ハス、若之ニ敵スレハ諸侯一時ニ蜂起〆
日本全土忽チ瓦解センカト云
又方今京師ニ於テ 皇帝ニ奸謀ヲ強願シ
大君ノ権職ヲ争奪セント欲スル数個ノ大諸侯アリト
云〇此下ニ記セルハ日本政府ニ背キ
皇帝ノ政ヲ扶助セント欲スル所ノ諸侯也、島津修理大夫
薩州侯兵員七万七千八百人、細川越中守肥後侯同五万四千人
黒田美濃守筑前侯同五万二千人、毛利大膳大夫長州萩侯
三万六千人、鍋島肥前守肥前侯三万五千人、藤堂和泉守勢い
州津侯同同、蜂須賀阿波守阿州侯同同
p54
総計三十五万九千八百員
猶此外右ノ党類数多アリ
一仙台ハ大国ニシテ其中ニ二十三諸侯アリト云
一加賀ハ富国ニシテ 大君ニ次クト云、併此疑ラクハ吾輩聞ク如
キニハアラザルヘシ、此侯モ亦日本 皇帝ニ敬服セリト云
一此以来方今ノ政府旧キニ依テ政府ト唱フルナラハ外国トノ交易モ
示続スヘシ、然レドモ今此政府執レニ属スルヤヲ知ラス、又其国乱
トナルヤ外国ト戦争ニナルヤ料リ知るルヘカラサレハ我亦預シメ其乱
ヲ避ル事成シ難シト云
船号 船形 砲数 船将 着日 国名
ユライリス フレギシップ 五十一 シャウスリング 三月廿三日 英
セントウ 同 十二 ケレッシー 去年八月 同
ヒールヽ コルフェット 二十一 バルレース 三月廿日 同
エンコーント 同 十四 デイウ 四月十二日 同
コクエット 同 十四 アレキサンドル 四月晦日 同
レースホース 同 四 ボックセル 同廿七日 同
ハーテック グアンボート 三 プール 三月晦日 同
ケステレール全 二 ドムロック 去年八月廿四日同
P55
ボーウンスル全 全 ホールドル 四月十二日 同
セミラス 蒸気フレガット三十五 同 仏
ヲテユサ 同 十六 カサンボート 四月五日 蘭
横浜新聞紙館 英人 ロサー粋行
英公使送国色示書翰翻訳
於横浜千八百六十三年第四月六日 我文久三年三月十九日
一我既ニ今日日本政府ニ送りシ文意ハ英国人民ノ殺害及ヒ手
負セラレタルモ嘆シクシテ日本政府未タ其罪を罰セサル無
法ノ所置ナルヲ以テ我英国女王殿下ノ命ヲ蒙リ期限ヲ定テ各
種ノ報復ヲ要する事ヲ記シタル文義ヲ足下ニ告ケリ
一去年六月廿六日東禅寺ニアル英国公使館ニ於テ同国レナルトノ
歩卒二人ニ惨劇ナル狙撃并ニ九月十四日我民リチャルトソンヲ殺シ
同時ニ一女子二貴人ヲ襲撃セシ暴悪人重罪ノ為今其贖ヲ望
P56
一其贖トハ日本ニ於テリチャルトソンヲ殺害セル人ヲ極刑ニ所置シ且
莫大ナル贖金ヲ以テ之ヲ補、又別ニ手負等ノ
親族ニモ分与スヘキモノカヲ記載セリ
一如此猛悪行為ノ為メニ報復ヲ要スレハ 大君殿下ノ政府速
ニ其理ニ服スヘキヲ望ム
一若シ日本政府用ヒ難キ議論ヲ発シ無益ニ日限ヲ延メ是ヲ
避ントシ或ハ其理ニ不服共ハ現在当港ニ排列セル英国水
師提督アタミラルコンマンダ等ニ依テ打杖ヲ行フヘシ、其時又是
ヲ足下ニ告ケン
一来ル六日ヨリ廿日ノ間ヲ日本ヨリ一定セル返答ヲ待ツへき猶
予ノ日限ト定ム若シ其件々許諾セハ可ナリ許諾セズンハ厳
シキ処置ヲナスヘシ
一右事情ニヨリ足下へ命スル所ハ其部下英国商民共ヲ召シ
集メ彼等ノ商法ヲナサシムヘシ、若我厳シキ処置ヲスル間ニ日本
人士外国人所々ノ居宅ヲ不意ニ掠奪或ハ襲撃ニ向フテ
我カ防禦一統ニ関係セハナリ
一其厳シキ処置ヲナスニ利アリヤ否当国ノ我カ水師提
p57
督及ヒ各国公使領事官等ト同意ヲ極ムル策略ハ
近日集会〆評議セント欲スル旨ヲ言ヘリ
一今我足下ニ示ス此所ノ文意ヲ神奈川横浜ニ在留
セル足下ノ同役タル各国ノコンシュルエ前知セシムヘシ
ションニール
チャールスウインテェステル君
仏国新聞紙
閏八月二三日の此の新聞紙
欧羅巴の使節等日本ニてあしき取扱を受たる故ニ仏
政府ニて支那ニ在る軍艦を日本ニ送るへしと命したり
又仏国軍艦の近き處ニ行んとす
外国人日本ニて不安心なる近日必ず大騒動あらんと
唱へり〇大名は外国の人を国外ニ追出さんと欲す
又某大名等は大君よりも 帝を好ミ其権をなく
p58
セんとす、其故は大君は外国人を本国中ニ置く事を
許セはなり、欧の諸使節は江戸去り横浜江行けり、其
故は此横浜ニては使節護するための軍あれハ
なり〇右の使節は少し計りの武士を以て其任居の
周囲を守る、此武士は装薬セる銃を備ふ、若し事
あれは之を放たんとす、然れとも悪事なし〇今平
安を嫌ふ日本人目覚め居れは其外国の政府黙止す
へからず
日本より三書(三度書通をと云ふ義)を受取たり、此国中に少時の後
大騒動あるへし〇日本帝は江戸江大使を遣して大君
は帝ニ□し何物なるかを□らしめんとす、又政を
改めんとする天下の最強き大名京ニ到れり、其京の
周囲ニ多くの武士を遣したり〇京の民上下共ニ帝を好も
大君を好まずして最怒り居れし〇長崎ニて仏の水夫
二人日本の取締役二人を殺したり、其仏人は条約ニ従
ひ罪セらるへし
閏八月九日新聞紙
P59
少時の後日本ニ悪事有るへし、今外国人の生命を保護
し難しかニ外国人は江戸江留るへからずして仏船ニ乗
れり筈、大君外国人を追払す□れハ大名は帝を好ミ
大君を好まず、大君の位を除かんとす。何れ時
や詳ならず
此事支那ニ在て仏アツミラール聞ける時日本ニ多くの軍艦を
送りたり、アトミラール〇ジヤウレス〇此後支那ニ置けるべき
仏の軍艦総督等にふるへし、第九月廿五日皆スエスに到
着セリ、此時此総督等パリスの法帝より命を受たり、此後
命は其ヨウロヘント云舶にて日本ニ到れり
右新聞紙の確実ならされ共欧羅巴様子察すへし