泛鹵尾島漂流

パラオ島漂流記

文政三(1820)年正月奥州盛岡より江戸に向かう荷物船(12人)が遭難し、2か月漂流後、パラオ島に漂着した。 現地住民に親切に扱われ四年程過ごした頃、大型の商船が難風の為漂着し、この船に救助され厦門(福建省)に到着、日本へ帰国の為寧波に送られる。

文政八(1825)年11月 長崎行の商船弐隻に分乗して寧波を出航するが、3名が乗った船が難風で漂流し、翌年正月遠州の住吉の浜に漂着、清水港で食料,水等の補給を受け、同年(1826)年四月長崎に到着して日本の土を踏む。 但し故郷には帰れず長崎の揚屋で生涯過ごしたようである。

本写本の元は、小倉藩士西田直養が乗組員口述を筆記したもので、ペラホ物語として石井研堂の漂流奇談全集に収録されている。 大筋は同じだがペラホ物語の方がパラオでの生活をより詳しく載せており、パラオ脱出の船は暹羅国の貿易船となっている。又乗組員は奥州の故郷に戻れたようである。

泛鹵尾島漂流

奥州盛岡領大土村

黒沢屋六之助船

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文政九戌年正月奥州南部領之者三人唐船ニ

乗組、遠州住吉之浜江漂着仕、同月十八日駿州清

水港江御牽入ニ相成、猶同所右三人之者共御糺し

有之、其以前外国漂流之話

右者奥州盛岡之城主南部大膳太夫殿領分、同州

閉伊郡大土領黒沢屋六之助船、沖船頭平之丞外 *大土村

水主八人私共三人共都合拾弐人乗組、右六之助商荷

物、粕油大豆塩肴、同領村々より領主江納候干魚樽詰メ

筵菰包等江戸御屋敷江差出候荷物共積込、去ル文政

三辰年十一月廿六日同所出帆、仙台領当府港へ入 *仙台城下蒲生湊

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津仕、此所ニ而泙待いたし、十二月九日同所出帆仕候所、十二 *凪待ち

日ゟ雨僅ニ相成り、地方を見失イ房州沖へ漂イ、同日夜

乾風強く辰巳之方へ吹流され、同十三日垢の道ツキ

無拠荷物大半刎捨、十四日ゟ又々雨時化ニ相成、何方ゟ

吹風とも不弁、方角を失イ洋中へ押流され、同十五日風

静に相成り候ニ付、垢之道ヲ塞キ、同十六日帆桁を取繕イ

陸之方を志し走り候處、十九日ゟ又々北風ニ相成南洋

江吹流サレ、同日夜楫を折り船中之者とも大きニ力を落し

一心に神仏ヲ祷り、大綱ヲたらしに引而流次第ニ相成り

翌年正月六日迄洋中ニ漂イ居り、其里数何程とも

不相分、時候追々暖に相成り日本ノ六七月比之心地ニ

覚候、然ル處、船中呑水相尽キ難儀いたし候處、十九日

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夜雨ふり参候ニ付、器を並べ呑水ヲ取申候、夫ゟハ風に

任せ流れ次第に相成居申候

一其翌廿日夜頻に浪音聞へ申候ニ付陸地近くへ参り

候義ト存、夜明ニ随イ所々を見候得ハ、大キナル島山ニ相

着申候、然とも四方岩石ニ而波打付ケ容易ニ可着所

無之ニ付、碇を卸し候得共、相保不申、船の艫ヲ岩先へ

当テ申候ニ付、一同陸上りの支度いたし、船頭平之丞ハ

浦賀御番所御手形ヲ首に掛、艀船ヲ卸し乗移り

候處、荒波ニ而岩にうち付ケ、元船艀共ニ微塵に砕ケ

糧米残荷物其外諸雑物共ニ海中に散乱いたし

船頭平之丞水主の内亀之助両人水中ニ溺死いた

し、残り拾人ハ漸々一命ヲ助かり、體計ニ而岩に掻付

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上り申候、其辺所々見廻り候得とも、人之住家ハ一向相見

不申、其日ハ無拠所竹木而巳有之所ニ一夜ヲ明かし、其翌廿

二日一同山に登り而四方を見渡し候處、遥か遠き方ニ

人家之様ナ物ノ見へ申候ニ付、、其方ヲ慕イ参り候處、漸

々右之所へ参り、人家を見請候に左ながら山小屋之様

成ル家ニ而、屋根ハ木之葉ニ而厚サ三寸位ニ葺キ、四壁

共木の葉ニ而囲イ、内ハ土間ニ而竹簀子をしき、其上ニ

草ニ而織候莚ノ様ナ物を敷キ住居いたす趣なり

その人物を見請候處男女共ニ丸裸ニ而木之皮ノ様ナ

物ヲ腰ニ巻き、頭ハちぢれ歯ハ黒く髭長く生イ、惣

身赤く毛生イ候而、其様鬼神か又ハ日本ニ而云フ

山男之様ナ姿ニ而、我々共来り候ヲ見付追々ニ大勢

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集り、何かささやき候得とも、言語一切相分り不申候、其内

役人らしき者壱人参り何か申付、食用として薩摩

芋之様ナ物を持参り給へさせ、其内壱軒へ壱人ツヽ連

れ参候而其夜ハ明し申候

一其後島人等大勢集り小屋ヲ壱軒拵イ、内ハ竹簀子

之上へ草ニ而織候莚ヲ敷キ、我ら共ヲ一所ニ入置朝夕右

之芋ヲ替る〱に持参り候而食用ニ呉れ申候、依而空腹

ニ及候時ハ右之芋ヲ二ツ三ツ宛給へ申候、初之内ハ喰イ足り不

申候得共、追々腹中も相馴れ後ニハ餓ニも不及候、着物ハ船

ゟ立之侭ニ而上り候得ハ、追々着破り候得とも此辺年中

暖ニ而着物ハ入り不申候、後ニハ裸身ニ而暮し申候、此島

四方岩山多く田ハ一向相見へ不申候、山之間に有之

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小畑へ年中右之芋を作り、是ヲ平生之食用ニいたす

趣ニ御座候、泙日の宜き時ハ丸木船を浮へ投網漉 *凪日

網釣之類ニ而魚を取、余慶ある時ハ少き人江分ちあ

たへ是を煮焼きして給へ申候、其内久助久兵衛弐

人大病相煩候得共、医者も無之薬用等も不致、終ニ

島ニ而相果テ申候、其節ハ島人大勢集り草ニ而編ミ

候菰へ包ミ土中へ葬り申候、都而寺も坊主も無之

趣ニ而、島ニ而死去人有之節も右之通りニいたし土中ニ

埋メ申候、此島本国ト云ハ無之、数千里の波濤ヲ隔たる

大海の中の離れ島ニ而、外国へ交易いたす産物も

無之、諸国へ往返いたす船も無之、文字も無之様子

ニ而、言語も一切不相分、何事も手真ねを致し通

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用いたし来申候、人界とも鬼界とも不相分島なれ共

日月の照鑑したまふ所ハ人を助けてくれる情ケ

心のあるハ実に有り難き事ニ候、此島我々共出船のせ

つ、海より見渡し所長サ凡ソ廿四五里も有之様ニ見へ

申候、島の名ハ泛鹵尾島ト申由ニ御座候

一此島年中暖ニ而夏冬の差別も無之、只月日の出

入を一日の限りと定め、日数を考る所此島に凡ソ四

年計も暮し居り申候、其年之秋比ニも有之哉、不

見馴大船壱艘流れ参候而此島の浦辺ニかかり居

り候ニつき、其内彼ノ船に入而様子相尋申候所、是船

ハ大唐近キ国ニ而夏門と申所之船に候而難風ニ逢 *福建省厦門

イ流れ参候由、文字も相通じ申候ニ付、我々共ハ日本

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奥州之者ニ而四年以前此所へ漂流之上、是迄難渋

いたし候訳を申述、大唐迄乗せ参り呉候様願候處

早速了察有之ニ付、右之島へハ是迄長々厚情ニ逢

成り候一札を述、同年八月時分右之島を出帆いたし、夫ゟ

申酉の方に向イ凡昼夜十日計も順風ニ而走り申候所、

綿連巒ト申所ニ着キ、爰ニ而暫ク滞留いたし夫ゟ九 *メレラン

月上旬此所ヲ出帆仕候所、船中ニ而我等八人之内伊勢

松病死いたし候所、船中ニ難差置旨申候ニ付、無拠所右死

骸ハ海中ニ捨、同廿五日夏門ト申所之港ニ着申候

此所ハ大唐近き国々交易度会之港ニ而、人家凡二三

千軒も有之大躰瓦葺ニ而、又ハ切石ニ而壁を塗立

候家も有之、戸障子ハ木之類を用イ或ハ漆塗ニ而

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彩色いたし、亦ハ硝子鼈甲之類ニ而明り窓抔細工いた

し候所も有之、屋根壁ハ皆漆喰ニ而日本之土蔵ノ如く

結構なる栖ニ御座候、右船主之案内ニ而此所之役方へ

委細願出候所、一々被聞入日本へ便船之義ハ容易

之事ニ不参候ニツキ暫時旅館において逗留可有旨

被申渡、夫ゟ客屋へ返り申候、夫ゟ役人躰之者三四人

我等客屋へ被参、食物酒衣類小遣銭之事迄一々

差図被致、無不自由相暮申候、此所にて髭月代も

剃り、衣類も貰イ、再ヒ日本人之姿ニ相成申候、此所者

大唐へ近き国ニ而文字之通用も致し、人物も宜敷

男女皆惣髪ニ而衣を牡丹〆ニいたし、頭へ笟ノよふな

頭巾ヲかぶり、所々ゟ見物ニ集ル人夥敷事ニ御座候

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此所ニ凡半年程も御馳走ニ相成り暮居り、退屈仕候節

ハ遊ヒに出、又問屋方荷物運送出シ入り手伝抔いたし

暮し居り申候

一翌酉年三月時分役方へ被仰出□□寧波迄

陸送り之積りニ相成候趣被申渡、夫ゟ竹ニ而編ミ候輿

の様ナ物ヲ七挺相造り、是に我々共ヲ乗せ役人差添

陸地ヲ宿村継送りニ相成り、日暮ニ及候時ハ結構ナル

宿屋へ入り役人付添諸事差図致し、又雨風之日

ニ者其所ニ一両日ツヽ滞留いたし、道々見物人夥敷

参候、其道筋大川を船ニ而下り候所も有之、又二三里

ツヽ海上ヲ渡り候所も有之、険阻之山坂も有之、田畑広

キ所有之、能キ御城下も所々ニ有之、里数何程か不相分

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同年八月時分に漸々福州之寧波ト申所ニ着キ申候、此所ハ *浙江省

日本長崎同様諸国之商船交易度会之場所ニ而其

繁昌ナル事日本大坂も同様之港ニ御座候、是ニ而も御役

所より御言付ヲ以客屋ニおいて諸事無不自由馳走被致

着物も日本之風ニ相仕立貰イ申候、其外此所ゟ日本江

交易ニ渡り候船頭之人々月々四五人ツヽ為見舞、色々

酒肴亦ハ品物抔持参り呉申候、其後十一月上旬同所ゟ

日本長崎へ出船二艘有之、私共七人之内倉松、清

助、栄治郎、栄介ハ船主英省安船ニ乗り、私共三人ハ船

主揚啓堂船に乗り同所出帆仕候處、洋中ニ而亦々

風並悪敷、英省安船ト別々ニ相成り、私共船ハ深ク東

沖へ吹流サレ数日漂流いたし、日本遠州住吉之浦

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江収着仕候

一寧波船主揚啓堂外水主百拾三人、日本漂流三

人都合百拾六人、文政九戌年正月朔日遠州住吉

之浦江相着キ、此日ハ朝元之賀ニ而船中笛太鼓鉦

等之音楽ニ而囃し立噪キ立候ニ付、里人大キ驚キ早

飛脚ニ而支配中泉役所エ注進申候所、御役所ゟ *静岡県磐田市

出張御差図ニ而小船ヲ差出し様子身届候処、先

方ゟ書翰差出し、右者年々長崎へ交易之船并ニ

日本之漂流人三人護シ参候所、海上逢難風、当浦

へ漂着仕候所、荒磯ニ而風波ノ難ヲ恐候間、港之中引

入尚亦米薪水等送り給り度趣ニ付、其段早打ヲ以テ

江戸表江伺之上、正月十八日駿州清水へ牽入ニ

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相成り、遠州ゟ駿州清水迄浦通り村々ゟ浦役ニテ

小船ヲ差出し、凡ソ小船十五六艘ニ而綱ヲ付、掛声

ニ而引キ申候、近辺村々ゟ見物人夥敷事ニ候、右之

船、長サ三拾六間、横幅拾四間、高さ五丈余、舳先ニ

鬼ノ首ノ形チヲ作り、艫ハ龍鳳ノ形チヲ彫り付、敷ハ白ク

漆喰塗ニいたし、両脇ハ黒き中取赤キ色ニ而釘貫

キ壱ツ巴ノ紋ヲ画キ、楫碇者木ニ而造り、帆ハ木賊ニ而 *トクサ シダ科植物

織り候帆ヲ三本立テ申候、船中荷物ハ都而織り物

毛氈、羅紗、天鷲織、木綿物、其外薬種類、人参、伽

羅、麝香、沈香、丁子并ニ異国之産物等ニ御座候

一清水港ニおいて駿府御代官羽倉外記様、中

泉御代官竹垣庄蔵様御両所御立会諸事御作配

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被成候、尚亦逗留中用心為警固、遠州横砂御領 *横須賀

主西尾隠岐守様、駿州田中御領主本多伯耆守様

御両所ゟ清水向カ島ト申所へ野陣ヲ備へ幕ヲ張、鎗

鉄砲ヲ並へ足軽侍五六拾人位ツヽ入替り相詰メ居り

申候、唐人之給へ物ハ米魚豆腐薪水之類入用

次第日々清水港ゟ小船ニ而付届ケ申候、尚亦右

船之両脇ニ番船として小船四五艘飛付キおり、近

辺ゟ見物之人をよせ付不申候、清水ニ而右荷

物之貿易ハ相許し不申候、其後諸事相済、遠

州掛塚ニ而大船壱艘長崎へ為送差出、御普

請役弐人、手代衆弐人長崎迄舟路案内之船

頭、其筋々ニ而壱両人宛三月十三日清水ヲ出船

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仕り、四月下旬長崎へ着仕候由、右南部領三人

之物ハ長崎へ連参り七人一所ニ相成り、生涯舟

乗り不相成趣ニ而、長崎揚家ニおいて永住居

被仰付候由ニ御座候

右姓名

南部大膳太夫様領分

奥州閉伊郡大土領

黒様屋六之助船

水主 長吉

喜太郎

津留松

外四人者 倉松

清助

栄治郎

栄助