落穂集巻九
落穂集は享保十ニ年(1727年)に大道寺友山によって著された徳川家康及び江戸初期の事柄の聞書きである。
落穂集十五巻は徳川家康出生から大坂夏の陣(豊臣家の滅亡)迄の事柄、同追加十巻は江戸幕府初期三代の間の幕臣や制度、社会についての挿話を収めている。
ここでは追加十巻の中の第九巻を読む。 第九巻は次の三つの話題が問答形式で書かれている。
・岡本玄冶法印新知拝領の事
・由井正雪の事
・酉年大火の事(明暦の大火)
尚落穂集追加十巻について全巻の翻刻、脚注、現代語訳が当会会員HP大船庵に掲載されている。
こちら→落穂集 (em-net.ne.jp)
資料出典 国立公文書館 内閣文庫
落穂集巻九
一問云、家光将軍様御不例(ごふれい)以之外成御様躰御座有た
る、と申候ハいつ頃の義と其元は被聞及(ききおよばれ)候哉、 答云、我等の承
及び候ハ寛永十年と同十四年両度御大切成御不例に御座成 *1633 1637
由、其内二度めの御不例御申ハ至て重御様躰(おもきごようてい)にて御医師衆
何れ共に御療治御叶被遊間敷(あそばれまじき)と有旨を被申上候ニ付、御三家
にも御気遣ひに思召候処に、前方(まえかた)御不例の節も岡本玄冶
法印御薬にて御快然被遊候間、今度も玄冶御薬を可被召
上旨 上意之処、玄冶御申上は、以前の御不例とハ御違被成
今度之者御大切なる御様躰にも御座候へハ、私御薬を差上候
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儀は仕かたき旨御断被申上候処に、其方御薬を可被召上(めしあがられるべき)旨被仰出
其上御様躰の義は御医師衆一同大切の旨被申上に者辞退
被致に不及旨、御三家方にも仰之由御老中方御申ニ付、玄冶
御御薬を調合被差上候処、其御薬を被召上やいなや御快と有
上意の以後、段々御順快被遊候ニ付、玄冶夫迠ハ五十人扶持被下
置を新知千石拝領仰付候と也、 右御不例御大切と有之候砌(みぎり)に
御城に於て井伊掃部頭殿には大目付衆を御呼有、今度御不例 *井伊直孝 大老格
ニ付御三家方、駿河大納言殿には御機嫌伺として毎日登城あら *忠長 家光弟
れ候、当時御三家方と申ハ正敷(まさしく) 公方様の御叔父様方にて
御入候得共、登城とあられ候節何も御あいしらい様子以前に *態度、様子
かわり奉る義も無之候様ニ相見へ候処に、此日に至り駿河殿
登城とさへ有之候へば、諸役人中我も我もと御目通りへ被罷出(まかりでられる)様子
に相見候、日頃左様に致し被付(つけられ)たる衆中たりとも、此節者
御上の御不例に取紛れ不被罷出候ともの事に候、増てや日頃 *候共の事
左様無之衆の義ハ近頃見苦敷事に候、と苦々敷御申付(もうすにつけ)
其以後の義ハ日頃出付被申たる衆中も被罷出義ならざる
ごとく罷成候と也、右者永井日向守殿雑談あられ候と也、 其まへ *永井直清
御不例の時なるべし *忠長死去1633年
註 岡本玄冶(1587-1645)家光の侍医、京都、江戸に住み皇室からも信頼されていた。
玄冶店は岡本玄冶が拝領した江戸の土地に貸家を作り、この名前がついた。
駿河殿 家光の弟で子供の頃家光を差置き次期将軍候補だった、寛永九年(1632)改易、
寛永十年(1633)自殺
楠由井正雪が事
楠由井正雪が事
一問云、以前由井正雪と申たる浪人ハ徒党企(ととうくわだて)候故に訴人の者
有之露顕に及び、同類悉く御仕置に被仰付(おうせつけられ)候と有之候、いか様
之次第に候と被聞及候哉、 答て曰、其儀は 大猷院様之 *慶安四年 1651年
御他界の年の義と覚申候。 我等幼年之時の儀に有之候 *作者友山12-3歳
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正雪事ハ同類の輩に委細の儀申含置て、其身ハ駿府へ
罷登り梅屋町とや申所に忍居在て、種々の悪党を相企
罷有内に御当地に於て訴人有之悉く相顕れ、駒井右京殿へ
被仰付駿河へ被遣(つかわされ)、彼地の町奉行落合小平治と被相儀、正雪
儀は何とて生捕に致御当地へ被引下度と有之所に、正雪并
同類の輩共に不残旅宿へ取篭自殺致候て相果候となり、
其節御当地に於ひてハ丸橋忠弥と申浪人者共召捕へられ、
数日御詮議の上品川表に於て、同類不残磔罪に被仰付候、右
科人共被引渡候節、我等なども井伊掃部頭殿屋敷前に於て
見物致候處に、丸橋ハ鼻馬にて其跡に段々と相つづき妻子等
迠も被引渡候中に至る幼少なる児共の儀は切縄を結て
首に懸させ手にハ風車人形なとを持せ、穢多共是を抱き
母親共の乗候馬の脇に附そひつつ参り候ごとく有之候。 其節迠ハ
外桜田御門外只今馬たまりに成候処に、上杉殿向ふ屋鋪と
申て有之が、 其門前迠丸橋が馬の先のぼりハ参り届候へ共、跡の
紙のぼりハいまた麹町土橋辺に相見へ申程の義に有之候故
前代未聞の事也、と見物の諸人共に申候也、 同問て云、右正雪
と申たる者の義者、名字をば楠と名乗、先祖楠判官正成ゟ
伝来之由にて、門弟を集め軍学の指南をも致、其頃世上に
広く人にしられたる者の由に候、其人と成の次第ハいかが被聞
及候哉、 答曰、我等の承り及候は、楠正成の正統なとと申ふれし
ハ皆以作り事にて、元来ハ駿河国由井と申所の紺屋の世倅にて
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有に紛れ無之候由、幼年の比(ころ)より同国清見寺へ遣し置、学文を致させ
後々ハ出家と可致(いたすべし)と有、親々共ハ存知寄に有之上ハ、其身出家を
きらひ御当地へ罷下り是かしこと徘徊仕り、牛込辺に罷在(まかりある)
内に段々子細有之宜成り浪人をたて罷在候処に、下町辺に
楠正成が嫡流と申ふれ、一巻の書と名付候家伝の巻物など
所持仕りたる由を申ふれ候年寄たる孤独の浪人ものに有
之候を承出して正雪念比(ねんごろ)に致し、朝夕の儀迠をも世話
に仕り遣し候處を以、弥入魂(いよいよじっこん)に成、後々ハ父子の契約を致し
近所あたりの者共えも其広めを致罷在内に、件の老人
病気付相果候砌も忌服を受、仏事作善のいとなミ迠も
懇(ねんごろ)に仕、夫よりハ楠正雪と名乗、楠流の師と号して書物
等をも編立、門弟をよせ集、指南を致、世間広く徘徊致し
知人等沢山になり、其身のさし当利発に有之を以、才知なども
有之如く人々存附候へ共、畢竟(ひっきょう)武士道も本意にたがひ、正儀
正法の本理を弁へざるが故に、大悪不道の企に及びおのれが身を
失ふのミに非ず餘多の人をもそこなひ亡び果候由也、右悪党共の
御仕置相済候以後、御当地において焔硝の差置所の御吟味有
駿州久野御番附として榊原越中守殿へあらたに与力同心御頭
の儀など被仰出候となり
註 榊原越中守 旗本三千石、代々久能山東照宮司を勤める、
越中島に屋敷を拝領しており、地名の語源となった
酉の年大火之事 *明暦2 1656年
一問云、御当地に於て大火事など申儀已前者まれに有之
たるとハ申ハ其通の事に候哉、 答曰、久敷以前桶町より出火
致、新橋迠町並に焼候義有之候由、関東御入国已後御当地
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初ての大火事故、其節在国あられ候諸大名方ゟハ何れも御機嫌
を被相伺也、 是を桶町の火事と申候て我等など若年の比(ころ)は
夥事に申ふれ候、然所に明暦三年酉の年に至り御当
地始りての大火事にて武家屋敷、町屋敷共に悉く類
焼致候也、 同問て云、右の年の大火事と申も当年ゟハ七十年余に
も過去(すぎさり)候を以、慥(たしか)に覚へたると申人も稀事ニ候、具に承り度事ニ候
答云、右大火之節我等儀者十九歳の時の義に候へハ大躰は覚居申候
正月十八日十九日両日之大火に在之候、先十八日の朝飯後の比(ころ)よりも
北風つよくして土埃を吹立、五六間も先の方ハ物の色も見へ不申
候ごとくに有之、其節本郷の末本明(妙)寺と申法花寺(ほけでら)より出火いたし
御弓町、本郷湯島、はたご町、鎌倉河岸、浅草御門内町屋を悉(ことごとく)
く焼広がりたると申候へ共、外桜田之辺、我等など居申近所にてハ
誰も不存候ハ右申土ほこり故、焼先も見へ不申候處に下町辺
より逃来候もの共の申ニ付、初て存たる程なる事に候、 右之
火ハ霊岸嶋、佃嶋を限りに通り町を海端を焼通り、夜半
過に至り漸々焼鎮り申候處、然るに翌十九日にも前日の刻
限に北風強く、焼場の灰まじりに土埃を吹立候ニ付、諸人
気遣居申処に又候や小石川より出火致、大火に成候へ共土埃
故煙先相見不申、初のほどはしかと相知不申処に牛込御門
の内大屋敷不残類焼いたし、竹橋御門内御堀端に有之候
紀伊大納言殿、水戸中納言殿の大屋敷一度に焼上り候ニ付
其火御本丸へうつり金魚虎(きんのしゃちほこ)の上りたる五重の御天守へ焼
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付、夫より段々と焼広り御本丸中の御殿屋不残(のこらず)御焼失
にて、大手門先へ焼出、神田橋、常盤橋、呉服橋、数奇屋橋等の
御門、矢倉不残焼、八重洲河岸をかぎりに焼上り候処に、其日の
八ツ時過又候六番町辺より出火致、半蔵御門外松平越後守殿屋 *午後二時過
敷を始、山王の社、井伊掃部頭殿屋敷へ移り、霞ヶ関辺外桜
田近辺の大名屋敷不残焼、虎の御門より愛宕の下増上寺
門前より芝札之辻辺、海手を限りに焼候を江戸中にてハ西丸
和田倉、馬場先、外桜田御門之内計残りたるごとく有之候なり
其以後は御当地の火事度々有之、左様の節ハ風も吹
候へ共右酉の年大火之節ごとく成風と有之儀ハ我等終(ついに)覚へ
無之候、子細は壱弐畳計共(いちにじょうばかりとも)相見候火之付たる屋根こけらを
中に吹とばせ申如く有之候也、 同問云、右大火之節 御城さへ御
類焼ほとの義に候へハ公辺、又ハ外々に於てもさまざまのかわりたる
義なども可有之様に被存候事に候、何ぞ被聞及事ハ無之
候哉、 答云、御申のごとく大変の砌也義にも有之、広き御当地
の事に候へハ定而種々の替りたる儀も可有之候へ共、手前とて
も其節は若年の儀にも有之、其上取紛れ候節の義に候へハ
委細には可存様も無御座候、然共其砌(そのみぎり)世上に先(まず)及び候事
などハ少々申述候なり。
一十九日四時比になり小石川より出火、大に焼広がり田安御門内 *午前十時
の大名屋敷へ火移り候節、松平伊豆守殿にハ御留守居衆
御呼、此風並にてハ 御城の儀もいかが御心元なき事に候
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しかれハ 公方様にも御立退被遊候にて可有之候間、先女中方 *家綱 16歳
の義ハ上下共に早々西丸の方へ立退せ候様に可然(しかるべく)候、上ツ方の
女中の儀は表向の道筋不案内に可有之候間、道通りの畳
壱畳宛はね返し、夫を知(しる)へに被出候様に御申付候へと有之。
其通りに御申付候を以、女中に候へ共道に迷惑被申儀も無之
何れも無事に立退被申候と也
一公方様にも弥(いよいよ)御立退可被遊との義に付、其前方御徒目付壱人
百人御番所へ御老中方の御差図にて候、此御番所へも定て火之
粉可参候間、組の同心衆へ下知あられ随分御防がセ候へとの義に
候と被申候処に、其日は横田次郎兵衛殿当番故、御番所之前
に居られける、是を聞れ件(くだん)の御徒目付衆へ御立向へ、只今両
日の大火只事に不非(あらざる)と存るを以、我等組の同心にハ御預之鉄砲
に火縄をかけさセあの如く御門を堅め罷在候ニ付、火の粉
などを払わせ申者とてハ無之候ニ付、左様には不罷成(まかりならず)候と
被申候へハ、御徒目付衆被聞、松平伊豆守殿の御差図に候と被申
候へハ横田殿被聞、御老中をもめされ候人が左様成ばか成事を *召され
御申有て能(よき)ものにて候哉、伊豆守殿の事ハ扨置、たとえ
上意にも致セ此次郎兵衛に於てハ左様にハ不罷成、被申ニ付
御目付衆も不興の躰にて立帰、横田殿申分の通り
を有の侭にて被申達候へハ、側に阿部豊後守殿御居合候、御当番
ハ誰にて候哉らんと被申候ニ付、横田次郎兵衛当番と相見へ候右之
被申様に候と被申けれハ豊後守殿御聞あられ次郎兵衛ならハ
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左様に可有者との義にて御笑ひ候と也。 其後次郎兵衛殿にハ組
の与力衆被向、各中の内に 御本丸御屋形内の案内を被存(ぞんじられ)
たる衆ハ無之候哉と尋の節、誰ニも御玄関より奥向之
儀をば存不申(ぞんじもうさず)候と有之候ヘハ、其申訳をば追て我等可致
候間、誰にても両人御本丸へ被相越、御座敷之内何れ方迄
も被参、御老中方を見掛次第に可被申候、次郎兵衛申候は
公方様にも追付西の丸へ被為成(なりなされ)候との事ニ候、拙者儀大手
の御番にて有之候へ共、久世三四郎義組之者を被召連(めしつれられ)、下
乗迠相詰候て罷在候間、御門の義ハ三四郎へ相渡し、私義は
蓮池の御門え加番に罷越、御成先を堅メ候てハいかが可有御座(ござあるべき)
候哉、御窺(おうかがい)候旨、被申達候へと、被申候ニ付、与力衆両人御本
丸へ被罷越候處に、其節追付西の丸へ被為成候との儀にて御老中方
にも御玄関前に御入候故、右之趣伊豆守殿へ申上候処に、一段と能所へ
御心附候、成程左様に被致尤之由被申候ニ付、横田殿事ハ御番を
三四郎殿へ御引渡、蓮池の御門え被相詰候処に間もなく御成之節
伊豆守殿御申上候ハ、次郎兵衛義ハ大手の御番にて罷在候へ共西丸へ
被為成候ニ付、御番所之儀は久世三四郎え相渡是へ相詰候、と御披露
あられ候へハ別(べっし)て御詞(おことば)を懸させられ候と也
一浅野因幡守殿其節の屋鋪ハ霞が関と申只今の松平安芸守
殿向屋敷にて有之候。 大火事の節玄関へ御出、家中の侍とも *侍共
儀も罷出相詰居申候処に於て、留守居役之者に御申付被成候は
昨今の大火と云、其上御本丸御類焼の儀にも在之候へハ御機嫌
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を相伺ひ度義に候へ共、此節之事に候へハ外へ問合可申様も無之
いかが致たるものにて可有之候哉と、御申候へハ留守居役のもの申候は
御譜代の御大名方には定めて御機嫌を被伺にて御座有るべく候、
御外様衆中之儀ハ如何可有御座候哉と申に付、用人共儀も、御外様
御大名ニはカ様の砌(みぎり)、結句御差控の方も可然哉と申候
へハ、因幡守殿御申候ハ何もしかと不存義も有べく、同じながら
外様と云内にも浅野家ハ御譜代も同前の説も有之義也
外様者の身にていわれざるさし出がましき儀を仕るかと有之
後日に至り御とがめなど有之候て夫ハそれ迠の儀也、御本丸
御類焼についてハ 公方様にも何方へぞ御成不被遊(おなりあそばされぬ)儀は御座
有間敷(ござあるまじき)所に其御安座をも御伺不申と有義ハ無之筈の儀也
と御申有て立出候に式台の侍へ馬を引かせ乗出し候に付
其場に居合候侍共ハ不残供仕(ともつかまつり)候儀を馬上より見給ひ、振袖の
児姓共ハ皆々残り候へ、と御申ニ付、子供の義ハ残り候へ共其外の
侍大勢の供廻りにて外桜田御門へと馬を早められ候処に、先立の
歩行士壱り帰り、あれへ御見へ被成候ハ井伊掃部頭様にて候と申
ニ付、然ば供之者共皆々御堀端へ片付下座致候(かたつきげざいたしそうら)へ、と御申付候
内に間近く成、 掃部頭殿にハ渋手拭の鉢巻にて供の侍十人計 (ばかり)
を馬の側に御つれ候迠にて、因幡守殿へ御向ひ昨今ハ不軽(かるからぬ)大火ニて
候、其元には何方へ御越候哉と有之候ニ付、因幡守殿にハ御本丸
御類焼と承り候ニ付、御機嫌相伺申度存(もうしたくぞんじ)罷出候と返答被申候へば
掃部殿御聞候て、御尤至極成事(ごもっともしごくなること)に候、御城内御殿向の義は
不残御類焼候へ共 公方様には一段と御機嫌能(よく)、西丸へ被為
入(はいりなされ)御安座の御事に候、 其元にハ桜田御門迠御越御尤ニ候、本御番は
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相馬長門守にて岡野権左を加番に被仰付、詰被居候間、権左迠
御機嫌被相伺可然候、権左組の与力、同心共土橋へ出張御郭内
えは人を通し不申筈(もうさぬはず)に候間、掃部頭へ御断候と有儀を御申
供中をも御門外に残し置れ、手廻り計にて御乗通御尤に候
と被申有、自分の屋敷の方へ御返り候ニ付、因幡守殿にハ外桜田
御門御番所へ被相越、権左衛門殿え御機嫌を被相伺帰宅あられ、玄関
に於て右之首尾合など被申聞(もうしきかされ)、用人共と雑談いたし候處
表門の屋根の上に罷有候足軽共声を上、番町辺より出火の由
呼り候を因幡守殿聞付給ひ、此風並ニて番町辺より出火と有は
心元なき義也、能(よく)見せ候様にと御申の処に間もなく松平越後様
の御屋敷へ火移り候と有之ニ付、扨は此辺もたまるましき間
家中何も立退候様に、と因幡守殿自身世話をやき被申処に
又屋根の上より井伊掃部頭様の大台所焼上り候と呼り候ニ付、
是はとなり屋敷の義也と申て大に騒ぎ出、因幡守殿も御出退き
家中共に久保町の方へと退候処に、虎の御門舛形の内大に込あひ
侍分の者共も怪家を致、小人、中間にハ死人七八人ほど有て
因幡守殿にも落馬被致候へ共、別儀なく舛形の内を遁(のが)れ
候と也
一阿部豊後守殿用人に高松左京と申者其日桜田御門へ参り
岡野権左衛門殿へ申理(もうしことわり)候ハ、若(もし)御城廻り出火と有之候ニ於ひてハ
麻布下屋敷に罷有候家来共皆々駆付候様に、と豊後守
兼て申付置候を以、家中の侍共追々罷越候たるハ当御門より内
P12
へハ御人留の由に候得共、私是に罷在人別相改通し可申候間、左様
御心得被下(くだされ)候様にと申、御門外土橋へ出張、権左衛門殿与力中へ申談、自
身人改を致悉(ことごとく)由候、以後御番所へ罷越豊後守家来共には
大方罷越候ニ付、私義も上屋敷へ参候、此以後豊後守家来之由
御理(おことわ)り申者有之候共壱人も御通し被下候に不及候由申断て
其身も上屋鋪へ罷越也
一十九日晩方に至り西丸に於て保科肥後守殿、松平伊豆守殿へ
御申候は、今日之大火に御三家方を始め千代姫様、両典厩(てんきゅう)様方の
御安否の段ハいかが御聞候哉、と有之候へハ伊豆殿御申候は、左様之義
今日の御取込故、右之処へ参り居不申旨御申候へハ、肥後守重て御申
被成候は、 公方様にハ今昼前当御丸へ被為成候間、御安座の御事
に候、只今にても御前より御尋の義など有之候節各中には
如何可被仰上(おうせあげらるべく)候との義に候哉、早々御聞届被置候様にと有之候へば
伊豆守殿にも成程仰の通御尤に候、 との義にて夫より御徒
衆を両人宛所々へ被差越候由、其刻(そのきざみ)一座の衆中肥後守殿
え御申候は、今日之火事にてハ其元築地の御屋敷も定て
御類焼たるべく候、御家内何も無恙(つつがなく)御立退との御左右なとを *情報
も御聞あられ候哉と被申候得ば、成程御推量の通定て手前
屋敷の儀も類焼と存事に候、乍去(さりながら)只今其元にも御聞及
之通、御三家方、両典厩様方の御安否さへ相知兼不申時節の
義に候へハ、此肥後守など妻子共の義成次第の事に候と御申の
よしなり
P13
一正月廿四日の儀は毎歳増上寺へ御成被遊候へ共、右大火ニ付御成ハ
相止之、御名代として保科肥後守殿御越あられ、帰宅之節京橋
へ御廻り、去十八日十九日両度に焼死仕たる者共の死骸を一所に
持寄山のごとく積置しを見分あられ、供の侍を御呼有浅草
橋御門外にても焼死の者の死骸を積置たるとの義なり
此所に有之死骸ともと交量致多少も有増(あらまし)を見分致
帰候様に、と御申付帰宅あられ候處に、其者立帰り能く見
分仕候処に、京橋に有之死骸の三分一程も可有之哉と申
ニ付、其後登城あられ掃部頭殿を始め各老中方へ御申候は、
手前義増上寺へ御代参として参詣帰宅之節、京橋へ罷越今
度焼死の者共の義を見分致、浅草橋へハ家来を遣し候て
見せ候所に京橋に有之候死骸の三分一程も有之、死骸数か
きりも無之候由ニて候 公方様御当地に御座被遊候を以、天下の
万民寄集り今度の大変に出合横死を相蒙(あいこうむり)候と有之ハ不便(ふびん)の
義にも有之、其上数万人の中にハ如何様成士の可有之も難計(はかりがたき)
候処に、悉く外海へ流れ捨(すた)り次第と有之ハ如何可有之候哉、願
くハ公儀より被仰付、所々有之死骸共を一所に持寄せ取納
候様にと致度事(いたしたきこと)に候と御申候へハ、掃部頭殿其外御老中方
も一段御尤の儀と有之、則町奉行衆へ被仰渡、穢多弾左衛門
車善七が手下の者共の役掛りと成、其者共へ公儀よりも
船と下行(げぎょう)を被下置候ニ付、五七日が間には所々方々に有之焼失
の者の死骸計(ばかり)にあらず牛馬犬猫の死骸迠も残りなく
P14
一所に持寄埋て置候、 以後寺社奉行中へ被仰付常念仏堂を
御建立被仰付唯今の無縁寺是成
一右大火之節 御城を始め諸大名方之屋敷、寺社、町屋共
に一同に類焼致候を以、諸方之普請一度に始申にて可有之由を
考申もの有之、江戸中の材木屋共申合、焼残りたる材木を
かこひ置、 諸方より運送致来り材木などをも買置しめ売を
致候ニ付、諸材木の直段(ねだん)殊之外高直(たかね)に成候故、御普請之儀は
三ヵ年の間御延引被遊、御入用之材木之儀ハ山入を被仰付候て
御作事始りても買木とてハ一本も被召上間敷と有之、 諸大
名方の家作も急に被申付(もうしつけられる)に不及(およばず)勝手次第に被致候様にと
有之、松平伊豆守殿一ツ橋の屋敷普請も材木の儀は川越の
知行所より杉丸太を切よせられ候、と有之儀を以聞伝へ、 諸大名
を始め小身衆に至る迠悉く知行所の材木を取らせ被申ニ付、
江戸中の買木之直段殊之外下り、普請も心安く出来、以町
方の義ハ間もなく立揃ひ申たる事に候也、 其節井伊掃部頭
殿にハ瀬田谷地行所へ御申越の由雑木の丸太、竹、縄抔を *世田谷
取寄せ屋敷の外廻りのかこひをば高サ六尺余り共相見へ候
塀の雨覆を丸すのに御申付、外廻り惣長屋の立揃ひ申迠は
右の囲ひニて被差置(さしおかれ)候ニ付、是を手始と致し江戸中諸大名
方の屋敷の外がこひをも、手軽く不致してハ不叶如く有之候也
一右十九日御本丸御類焼之節御旗本、諸役人衆中并諸番
衆の中にハ其勤方の宜(よろしき)も有之、又大に不出来なる方も有之
P15
に付、向後の御尋にも有之候間、御吟味之上善悪の品を可被仰出か
と専ら申ふれ候ニ付、人に依候ハ殊之外気遣致被居(きづかいいたしおられ)たる衆
も有之候と也。 右詮議の折節、保科肥後守殿御申候ハ向後
御尋と有之ハ尤之義に候へ共、我等儀ハ不教(おしえず)して罪すると有
之道理の様に被存(ぞんじられ)候、子細は天正年中 権現様ご入国 *関東入国1590
被遊候以後七拾年に及候へ共、 御当地にて今度のごとく成大火と
申儀は無之、去に依て大火の節は如何相勤候様にと有之
御定法なとは御疎略(そりゃく)の様に被存候、然ば今度の儀にハ其通に
なし置れ、自今以後大火之節は御定法を以、宜敷被仰出候様
にと御座有事ニ候と御申ニ付、御詮議成しに事済候となり
尤公辺の義に候へば実、不実の段は不存、其砌右之通風説仕候と也
註
酉年の大火事 明暦三年(1657)死者十万余といわれ、「むさしあぶみ」1659版本に詳細記録ある
井伊掃部頭 (直孝1590-1659)井伊直政次男、幕命により兄直勝に代わり彦根藩井伊家三代目当主となる。 豪徳寺招き猫の話の殿様
保科肥後守 (正之1611-1673)二代将軍秀忠の四男、保科家へ養子、家光の遺言で
幼君家綱を後見、会津松平家の藩祖
両典厩殿 将軍家綱の弟、松平左馬頭綱重(甲斐藩主15万石)及び松平右馬頭綱吉(館林藩主)
下線部分、底本に欠落、他本より補足
落穂集巻九終
落穂集巻九終