本書は冒頭にも記されているように1839年
和蘭の雑誌に載った日本に関する記事をその数年後に和訳したものと思われるが、元の記事の寄稿者は不明。 この書の特記すべき事は、1837年秋にアメリカ商船(モリソン号)が中国マカオにいた日本漂流人七名の帰国を手土産に日本と交易を望み来日したが、その頃日本では種々の外国船とのトラブルで沿岸に近づく異国船はすべて打払う(無二念打払い)政策の下だった。依って浦賀で砲撃され、鹿児島でも上陸を阻まれやむなくマカオに帰還している。 この時日本側では全くわからない筈の船側から見た顛末が記録されている。 その他の記事はそれまでのオランダ商館関係者(医師)の出版物から引用のようである。 それらはケンペルの日本誌(1728出版)ツンベルグの日本紀行(1776年出版)シーボルトの日本(1832年より逐次出版)である。
猶、このモリソン号が不明の外国船として砲撃された一年後、長崎来航のオランダ船を通じて日本漂流人七名を伴い来日して追い返されたものであると言う情報がもたらされた。 但しこの時もアメリカ船をイギリス船と誤って伝えている。 この事件はやがて渡辺崋山等の蘭学者グループに知られ、非人道的と幕府批判が起こり、蛮社の獄と呼ばれる蘭学者弾圧につながる。 又1853年に開国交渉に来日したアメリカのペリーの文書の中にも、モリソン号の取扱いについて批判し、開国してこの様な事がないように求めている。
・浦賀で打払い時の浦賀奉行報告書及び一年後の和蘭からの情報 →こちら
・会員HPに誤報に基づく幕府見解、蘭学者意見等合わせて下記に掲載している。蘭人日本の記、和蘭宝函抄解説
日本の記 写本出典 国立公文書館内閣文庫
p1
但一千八百三十九年(天保十亥年)刻和蘭宝函
第一百一葉に出ツ
日本の事の欧羅巴人に知れたるハ一千二百余年の頃
支那を奪ひ取りたる大汗(按ずるニ元の世祖をいふ)に久しく奉仕
せしへ子チア人「マルコパラロ」を其嚆矢とす、但し此人は
親しく自ら其地に到りしにハあらす、此人ハ日本の名を
某生の説にて「ヤハンス」シンペンキュエと呼ひ、日の昇り出ツる
傍に在る国土をいへる義なりと言ふにもとつき、これを名つけて
P2
「シハンコ」と記たり、其後閣龍(コロンブス人名)ハ欧羅巴の西方に在る
新世界(即アメリカをいふ)を見出さんと志せしか己の船を向
へき方角とハ日本ハ全く東西の違ひあれとも彼の
意見にてハ西の方へ船を出さは、終ニ必らす東に続り
出ツること疑なしと思ひけれハ「ハラロ」の「ミ。コ」の記を *ジパンコか
見て大に悦ひ、必此国をも覔め出さんとする志を
興したり、其初次の航海の時古巴(是可海(メキシコ)にある島の名)を以て
「マルコパヲルロ」か所謂「ジパンコ」なりと思ひ誤りせり
同年(本註千四百九十二年明応元年)、熱爾波尼亜(ゼルマニア)の地学家の造れる *ドイツ
地球儀にはシパンゴを以てカープヘルチセ島(亜墨利加の
西岸に在緑峰島と訳ス)の西を距ねこと頗る遠き地に置たり、然に
いまた幾はくならず閣龍(コロンブス)ハ更に其地を精査し得て、
其初見の誤りを暁りたり、千五百年の半(天文年間)の頃に *1497年
及ひ波爾杜瓦爾人始て喜望峰を廻りて東印度ニ *ガマ インド航路発見
通ずる海路を発明せし後、其国人東方諸国及び諸
海を縦横に尋訪ひしに、千五百四十二年(天文十一年)葡萄 *1542年種子島
芽の海客難風に逢ひて、日本の一有名の港に漂着セしか
土人丁寧に其人を歓待セり、これ二百年の前ハ
P3
此国へ外国よりの通路甚た厳ならさりし故なり、葡萄
芽人ハ此好機会を失ハす、己か国の交易を弘め行
ハんと力を尽セし折から、千五百四十五年(天文十四年)
日本の一少年臥亜(ゴア東印度西岸の地)にありて耶蘇教に入り
しものにして、二三名の耶蘇会士を伴ひて本国に帰り、 *サビエル来日
其法教を弘めしめたり、初めの程ハ其法教に信従
する者少なかりしかとも、会土輩志ますます堅く精を
凝(こら)し力を尽して、少しも撓屈する心なく専ら其法教を
説き弘めたりしかハ、遂ニ百難に打克ちて今ハ遍く
国中に其居所を占め、日本第二の大都会なるミヤコ
に規制宏荘なる会堂を造営するに至れり、同時に
二三の葡萄芽国の商人ハ此地方ニ居住して、土人と
婚姻を結ひ一心に親しく交りけり、然るに葡萄芽人の
洪福次第に増長するに随ひて、今ハ此国人の威勢も次第
に厳重に是をとり扱ふ様になり、終にハ日本人と外
国人と親睦の交も破れて、互に相讐するに至れり、其
国古来の制度及ひ其国有の神仏を信する
日本人ハ頻りに傲慢なる葡萄芽人と其法を仰ぎ
P4
信する信徒とを忌嫌ふ心を生じけれハ、其国中にて
徒党二ツに分れ互に相讐敵する事になれり、然
るに和蘭人英吉利人は此釁隙に乗して葡萄芽人 *きんげき=すきま
を逐ひ斥けて、日本の交易の一半を我有となさんと
思ひ、力を極めて其策を行ひしかハ、遂に其志の
如く百事順成し、両国の人今ハ平戸島に商館
を置て交易を為すに至れり
然ハあれと和蘭国人此邦にて交易を許されし
後ハ遂に耶蘇教法を禁し欧羅巴風を世に弘むるを
停止したり、千五百九十年(天正十八年)に及ひてハ早々既に
葡萄芽人およひ其教に従ふ信徒と土人の古よりの
神仏を信仰する者との間に戦闘出来て性命を殯す
もの多かりける、然れとも二三のフランシスカネル宗の
僧徒の狂愚なる意念此国の政堂の怒に触るゝ事
なき前ハ未だ耶蘇徒を日本より悉く放逐
セんとまての評議には及ハさりしなり、抑々此僧徒ハ
瑪泥呀(マニラ、呂宋の都の名葡萄芽の所領)、より来りしか、深智ある
耶蘇会士の倣誡をも此国帝の制禁するをも構ハす其
P5
宗門の寺を建て、公けにミヤコの町にて説法を
始めたり、其説の正大なるを証セんとてヘイフル(古経典の類)
を引、上帝を仰ぎ尊んて、其教に従ふ事ハ世間の
王道人倫よりも甚たしかるへしと説き、昇天の洪福
に膺らんとする一心より矯激の説を吐き、他の古典ニ
見へたる教戒を悉くして打忘れ、智あること蛇の如く
順なること鳩の如くなるの古諺に背き、日本人に勧めて
仏像を破り寺を焼かしむ、此の横行を為セし以来
葡萄芽人及耶蘇会士の権勢頻に衰ふ、然して
耶蘇教を奉する土人ハ厳しく蹝跡セられけ
れは遂に大に怨りを懐き、寧ろ己れか子弟を惨毒なる
死刑に処セらるゝとも活てヘイテン宗(天竺の教と云)を奉
するに優れりと云ふに至れり、然るに其頃和蘭人ハ
葡萄芽の船一艘を奪ひ取りしに日本の高貴の
人ゟ葡萄芽に贈る書一二通を得たりしかばハ平戸
に在るセネラール(総督)これを帝に呈しける、此書牌
にて葡萄芽大望を企て全く其国家を傾覆せん
とする陰謀露れしかは、書牌を贈りし人ハ速に
P6
生捕となりて死刑に処せられ、其後直に千六百三十七年
(寛永十四年)にハ帝家の厳命下りて、外国人をハ一切其国に
入るゝを禁じたりしか、其厳命方今に至る迄緩む事
なし、其内地に居れる葡萄芽人ハ支那に在る其国
所謂澳門に放逐し、耶蘇の教に入る土人ハ数を尽く
して生捕られ、耶蘇僧徒の隠伏セるものを捜し得る
人ハ褒金を賞賜すへきを約し、土人の耶蘇教
を奉する者ハ其国より逐出すへき命あり、是外国人
此邦に来るものあれハ厳刑に処して決て是を
界に入れざると同じ道理なれハなり、此号令を行ひ
し後、数千の日本の耶蘇徒一揆を企て、兵器を操て
島原の側なる古城に取籠り、命有ん限りハ是を
防かんとしたりける、既にして帝家にハ和蘭人ハ教法
を此国に伝へんとの望なく、独り交易の為にのミ渡海
し来れる者なれハ、是を政庁に呼出し今度の
一揆を誅戮する援兵となりて彼敵を討す助け忠信
にして弐心なきを証すへしと命セられたり、和蘭人ハ
固より少しも不快を懐くへき道理なく、世権にも
P7
法権にも少しも関係する心なけれハ、かたしけなき
よし対へけり、かくて我国人ハ軍艦を島原に向け
て逆賊をして困迫して城を落去する迄攻たり
けれハ、速に一揆凶滅したり、此騒乱の間、日本人死す
る者四万人と云、千六百三十八年(寛永十五年)一切欧羅
巴人の平戸島に在る商館を毀ち、和蘭人江ハ
新に長崎港中に在りて一橋を以て往来を通せる
一小島の出島を賜りける、此島ハ爾来和蘭の管
轄となり仏蘭西の略奪(ボナバルテの時を云)に遇ひし時も凡て
地球上和蘭の旗旌を建たる地ハ悉く仏蘭西英
吉利に奪ハれしかとも、此島のミにハ何の障も
なく、本国の旗を閃かしたり、然れとも外国人ハ
敢て一歩も日本の岸塘に足を容るゝ事を許さゝりし、
然ハあれと日本国との交易ハ些少の事にて、毎年
唯二艘の船を通するを許さるれと多くハ一艘を
ハタヒヤ(瓜哇の和蘭所轄の府名)より出島に遣りて銅木蠟樟
脳・二三の漆器及ひ其他の雑貨を交易するのミなり
然に商館に於て付合の雑費ハ頗る巨大なれハ
P8
吾們ひそかに謂らくたとひ此土の商館を毀ち傷る *我ら
とも、国計に於て甚大なる減損にハ至らさるへし
千六百四拾年(寛永十七年)に至て葡萄芽初め失ひし
威権を復セんと思ひ同勢七拾人の聘使を澳門にて
仕立、日本に遣したり、帝家にハ欧羅巴ニて使者を
取扱ふ寛宥なる法度を省みす悉く捕へてこれを
殺し、僅に十二三人を遣して是に令して思へ
らくたとひ葡萄芽王自ら来るとも、日本の地に
大胆に足を入るれは同じく死刑に処すへきよしを
申達し、小船に打乗せて逐放ちたり、爾来葡萄
芽の沙汰ハ終に複聞ことなし、英吉利の商館の平
戸に在る者ハ其後頃迄は交易を事とせしに、千六百
廿三年(元和九年)遂に是を毀ちぬ、千六百七拾二年
(寛文十二年)に及て、再ひ日本に交易を取結んと求し
かとも、其願ふ処を遂る事能ハさりしなり、
近二百年来日本の事に就て色々の状態を世に
弘めしハ毎年出島より江都の帝に聘する使者
の見分せし内地の風評及ひ奇観を蒐輯セし *かいしゅう
P9
功に因らさるハなし、此蒐輯ハなかんづく三個の
医人の書記する所也、但し此三人ハ時を同しくセされ
とも、皆和蘭の商館に来り住し同しく聘使に伴ひ
て旅行を為せり、其人ハ独乙都(ドイツ)の人エンゲルベルツ・けむ *ケンペル
へるファン・レムゴ(人の姓名)及蘇亦斉(スウェーデン)人チユンベルグ(人ノ名)*ツンベルグ
及び独乙都人フランツフォンシイホルト(姓名なり)、此三医 *シーボルト
生ハ他邦の産なれと、皆和蘭に来り仕へしなり、シー
ホルトにハ別而千八百二十三年(文政六年)より同二十
九年(文政十二年)迄日本に逗留し、暫時其国にて
獄に繋かれたりしか、切要にして且新殊なる事
物を採輯して大業をなし、大に其書籍・図画・肖像・
金貨諸学科の品物、奇特なる産物を齎し還れり、
叉ラーフルメール・フイスセル及ひ耶蘇会士カルレホイ
キスの二人も日本の事を記したる参考の書を著し
たり、此外千八百十一年(文化八年)日本に囚となる俄羅
斯の甲比丹ゴロウニンも日本の記事を著したり、
近き頃日本に詣らんと思ひ立たるハ亜墨利加の
商人輩にて澳門にて艤し世に知られたる如く破船の
P10
難に逢たる七人の日本人を本国に送こさんと志し
けるか、其志す所終に全く遂ることなし、是か為に
仕立たる船ハ銃礟抔等の兵器をも備へさるモルリツ *銃砲
ソンと名つくる船にて、船中にハ有名なる弘法使者 *宣教師
キュツラツフ(人名)乗セたり、千八百三十七年七月三十日 C.Gutzlaff
(天保八年)江都の港に着す、然るに更に浦川の港に船を *浦賀
進めしか烈しく弾射せられけれハ終に其
烈しく弾射せられけれハ終にその素願を
遂る事能ハず厳密に船の側に乗りしか、初て船に乗入いr
たる人ハ老人なりけり、格別に取り持れたり、此
よふすを見て続ひて二三人乗りこみしか、酒及
鮮新の下物を出して取り持しに初の程ハ
シケーブスコイト(船中にて用る二度焼の蒸餅)少し許を
食せるのミなり、船に来る人ハ少しも交易の物を
携へ来らず、人身畦の雑貨・煙管・扇子等を分ち
贈るを喜ハす、此人々ハ大半雨天なれ共唯甚た
薄き衣服を着し、首ニハ冠りものなし、其頭は巓
頂を剃り、髪を両耳の上を意(わた)り後の方へ撫やり、尾の
P11
形のごとくなし、その刷毛先を下し垂る、婦人の髪は全
頭に生して丈長く多く、櫛及び他の飾具を
刺セり、其男子ハ身体強健骨格好も好く造立セり
叉大抵好き髪を生す、其目ハ長くして狭く、其容
貌甚だ支那人と異なり、其頭短鼻扁平に上
顎前に挺出セる状、高麗・クリル島(我奥蝦夷千島ヲ云)
及ひ北海に住る人と相類す、婦人の容貌ハ
男子よりも妍麗なれとも、其歯牙ハ印度の *けんれい
檳榔を食する人の如く、其色黒し、其人多くハ *びんろう
外套の一種を身に纏ふ、其製ハ席を織りたる
者と相似たり、按づるに蓑衣を云歟叉同状の竹筍の皮にて
造れる大笠を戴けり、一片の紙に漢文にて水と
食とを乞ひ、且官人に対面いたしたきよしを
記して手渡セしにて、日本人ハ漢文を解し
得ざるよしを知けれハ、キュツラツアは色々の
手真似にて此方の心を暁しける、一員の官人
船に来りて対面せさる前ハ漂客を出し逢ハし
むること好からさるよしも申合せけれハ、深く匿して
P12
出会セしめス、日本の船ハ二三十尺の長サにして、
幅六尺より八尺はかり、舳前ハ尖れり、是によりて
見れハ、日本の舟ハ支那の船よりも堅好に造就
セる事明かなり、凡日本人の造れる器物は
皆精好と見へたり、明日は上陸せんと船中の人決心
せしに、夜中に四門の大砲を海岸の高所に架け
暁に及て順々に打放さんとせしかハ、モルリツソン
船ハ遥ニ来りし甲斐もなく、空しく白旗を閃め
かされ(敵になる旗色ヲ云) けれハ已む事を得ず
錨を引揚け既に帆を揚る時、三四十人の兵士を
載たる砲船三艘港の方より出来り無数の弾丸
を自在砲(タラーイハス)にて打放したり、幸にして日本
の火薬粗悪に打法も未熟なりけれはモルリツソン
船も毀傷に遇ふこと少かりけり
今はモルリツソン船ハ江都を距ること三十三里なる
鳥羽港に船を入れて事の成否を試んとしたり
ける、此湊ハ船中に在る漂客の中にて弐三人ハ
曾て船を泊セりとか、然れとも風あらくして、
P13
寄て此港に入ること能わざりしかハ已む事を
得ず八月十日鹿児島の港に船を入たり、此所より
将校按針役に船卒四名を差添へ、港の浅深を
測らん為一番漁船に乗せて佐田浦といへる村の方へ
漕寄たり、此村ハ塩名御崎カーブツエツアクツフより
半里余内地の方へ入こみたる所なり、此者とも速に
官人壱人と其僕幾名とを乗せ伴ひて還り
来りたり、其官人ハ思慮ありて甚器量す
へき容貌なり、衣ハ青白の筋ある木綿の服にて
擱大なる帯を固く結ひ、これに二柄の刀をさし、烟蓑と
烟管と挿ミ掛たり、其余ハ皆全く倮体なりき、
官人少しも別なることを云ハず、直ちに漂客に向ひて
いへらく国人皆公等を盗賊なりと思ひ居れハ、
此船を打払ハんと支度セりと語りけれハ、今度
来着せる主意を精しく打明しもの語りしに、彼も
しからハ甚大切の事件なりと思へる気色なりき、
郡縣の役人并に帝に呈する書(此地ヲ公領なりと思ひたれハ帝にと
いへるなるへし)を出しければ是を手に請取て届け
達スへきよしを約し,一人の測水官をは其侭船に
留たり、但し決して港内に深く船を入るまじき
よしを戒しめたり
其後モルリツソン船へ薪水を贈り来る土人等多く
船四面に来りて見物す、然れ共少しも交易を
なさず、土人ハ浦川の人よりも佳麗にして衣服
も彼よりハ好し、日本の漂客壱人上陸せしに甚だ
懇に歓待せらる、土人漂客に語りけるハ、国中
一揆ありて江戸にて数人刑戮に遇ひ、国中第三
等の都府大坂ハ憤懣を懐ける官人の為に焼
かれて灰燼となれりといへり、前に遣したる書札ハ
速に差戻されしに使に行きし官人云へらく、
上官ハ書札ヲ請取肯せず、然れとも其趣を
委しく鹿児島に云送りたれハ其返答も久し
からずして来るへしと語る、同道セし測水官ハ
船を港の西の方の安全なる所に泊すへきよしの
P15
命令を受たり、此際総て強く防禦を為す光景と見へたり
日本人の約束も速に憑たしとハ見へずなりける、十
二日迄ハ万事静謐なり、然れともこれ一時風波
括静なる後ハ大なる海嘯を起すものなり、今は
モルリツソン船へ食料をも贈り越さず、宰船を出し
て船を好き錨を下すへき所在へ導かんともせず、
土人禁じて一人も船に来らしめず、船にハ厳重
に番船を付けたり、人々鹿児島より官人の来るを
待て□いろろ物語しける内、漂客ハ受取られ
ましきよしの風聞なり、十二日の朝三の漁人船に
入り来りて、漂客の其席に出逢し者に語りける
ハ、此船ハ烈しく打払ハるへし、早く錨を揚出船を
するこそ肝要ならんと熟思して話しける、間もなく
海岸に異しき軍備を為すと見へ、二三の役夫長く
且広く縫ひたる木綿布を長く続て木と
木との間に張て固くし索り幔陣を造る、此陣営を
造り終りし頃三百人の兵士糧嚢を背上に負ひ、疾歩
して陣中ニ入ると見へしが、俄に大小の火砲より
P16
烈しく大丸を打出セり、既にして船ハ帆を揚たり
けれとも風邪なくして帆を吹かざりけれハ、船卒力を
殫して火砲の届かぬ所迄漕除けける、十八時の間
トイツ里法にて一里計の広サなる港の両岸より打出す
大砲の火の中に引包まれてそ居たりける、然れとも
我方にハ火器を備へされハ敵対すへき
様もなし、
掛りけれハ諸の擯望も絶へ果たり、薄命なる日本人(漂流七人
をさす)今ハ永世本国より追放せられ還り去るへき取
扱にあひて大に怨を含める気色をそあらわしける、
七人の内二人ハ己レが本国を思ひ切たる証拠なりとて、
全頭の毛髪を剃棄たり、是迄毎度着岸セし形
勢にて、推すときハ此上長崎へ到るも好ましき
事にもあらず、且漂客等も長崎ニ赴くを好まさり
しにより、モルリツソン船も今ハ何の為出しける功もなく
碇泊を許さゝる海浜を辞し去り澳門の方へ乗行ける
P17
日本の記下
ケンプル(人名)ハ日本を以て英吉利と比較セり、此比較ハ
一ト廉のみならず挍ふへきもの多かりける、此二国は此彼
に重立たる頭島あり、地形梢々狭しといへとも頗る長く、
頭島ことに大都府あり、全形北方より起りて南に
竟(わた)り、毎島各々全国中の重立たる所在を為せり、叉
両国の人口も大抵匹敵す、但し日本は二百五十万人 *二千五百万か
P18
なりと書たれと、是推量に出たる説なれハ、信據
じかたし、三大頭島(本国九州四国)にハ無数の小島各々これに属す
その中の尤大なる者をニホンと云長サ百四十里、
次にシコク(四国)次に九州叉ニシモ、これその三大頭島
なり、九州は西の一分にして長崎湊ハ其地に在り、和蘭
の舘出島も其湊内に在り、四国・九州ハ皆ニホン島の
南に在り、其北の方にハ日本に属従セされ共これと
交係せる蝦夷島あり、蝦夷と端島カムシャツカ
の間にキュルレン島(千島ヲ云)あり、数多の日本人もこの
地に居住セり、蝦夷を通して数ふれは、日本ハ北緯三十
一度より四十五度に竟り、殆と八千箇里方積の大サ
たり、其四面の海ハ甚た危く、しはし大風浪を起し、
海岸の地ハ浅沙あり、是日本人の他国と交らさる
生理を為すためにハ甚た便宜なりとす、大船ハ近く *生理=
暮らし
海岸に寄すへからさる所多く、内地の船ハ是を以て
浅砂を行く、其国の時候ハ平和にして人に宜しく、
冬日ハ雪降り寒気甚強し、然れとも夏日ハ暑熱
高き度に昇る、雨ハ四時を択ハず大に降る、但し六月
P19
七月の比を尤多しとす、国内地震あり大震して
大なる害を為すことあれとも、土人是を怕るゝこと *=恐れる
和蘭地方にて雷電ヲ懼るゝよりも少し
此国の内地は審に知るへからず、海岸も精しく測量すへ
からされとも、国中総て山岳多し、但し「ニホン」島
を尤甚しとす、此島にハ一高山あり一万四千尺に至る
かし、国中に高山あるが故に河水の流るゝ勢甚だ緩
急なり、付属の小島の上に現に火焔を噴起する火山
多し、蝦夷島には一港あり火坑港(ヒアュルカイーンハイ)と名付く、
これ港の両辺に火山ありて是を囲むが故にて此名あるなり
最大島「ニホン」の内中ハ衆多の都府村鎮あり、
全国の頭府にて帝の居城を江都といふ、此都ハ
「ニホン」島の東角に在り、其大サハ北京に比すへく、人
口ハ一百万叉ハ一百万五千許なるへし、大抵日本人のいふ
所にてハ都府の大サも人口の数も過大に失す、都府ハ
一日に一方より他の一方に達すへからず、戸数ハ二十八万
人口ハ一千万たりといへり、家屋ハ皆木にて造り甚だ
浅疎にして高からず、毎街に木戸を設く、帝宮ハ
P20
屋宇ニ鍍金す、人の言によれハ周囲二里半余ありとす、
此都ハ千七百三年(元禄十六年)地震にて殆ト全く荒れたり
第二の大切たる都府をミヤコといふ、国中の神聖なる
君主是に居住す、名付て内裏様といふ、千五百八十五年
(天正十三酉年)迄ハ政治の権柄を執りしとて、此府ハ「ニホン
島の内地にありて、其大サ江戸と相比したり、其書記す
る所によれハ人口五十万あり、寺院の数ハ「ケムフルの説
ニハ六千宇ありといへり、第三等の都府を大坂及び
イトカイ(未詳ならす)とす、ニホン島の海岸に在る港なり、次に
長崎鎮とす、九州の島に在り、此五府ハ所謂国中
の帝領(公領を云)なり、長崎鎮ハ人口七万にして其港
ハ厳重に警衛し、其形ハ頗る長く水の深サ四十尋 *一尋=1.5m *
より四尋に及ふといふ、
二百一葉(原本の帖数)に載たる第一図ハニホンの南西
部に在る小海港下関の図なり、九州とニホン島とを分
つ海峡に在り、此地ハ和蘭の使者長崎より江都に赴
く途中に在り、長崎より先ツ小倉に来、次に下関次に
大坂にいたり終に江都に達す、但しその途は海岸に接セる
P21
山岳の麓を繞りて此都に到る、図に著セる如く日本の *めぐり=巡り
家は卑く街道甚だ狭し、是を以て失火あれハ
数十百家を延焼す
第二版の図日本官道にして旅客平日旅行の状を
見るに足れり、旅行の事に就てハ甲必丹ゴロウニン下
の文を記せり、豊饒なる日本人ハ旅行する状華麗に
高貴の人ハ車乗を用る、其製ハ欧羅巴制と相似て
其始ハ和蘭人より伝ふる所なり、大抵此車乗ハ牛
にて曳く、然れ共亦馬にても牽くことあり、然れ
とも多くハ駕籠を用ふ、叉馬に乗る者あれとも、
馬衝を執るに慣されハにや常に他人をして僵を *はみ=轡くつわ
引かしむ、其道路ハ好き規制にして、二百年前英吉
利の甲必丹「サリス」といへる人の記に曰く道路は一里毎に
小なる木を植たる丘ありて、其一里数を表す、甚だ的切なる
設たり、此制ハ我欧羅巴にハ今に至て無き所たりとい
へり、道の側に旅館及ひ駅站あり、チュンヘルゲ(人名上二
見ユ)曰く日本の人家の櫛比セる家並の華潔なる
造構ハ甚だ和蘭に似たり、チュンベルグの如くケ様に
P22
精しく其土俗を見たる説を信せは、其国々ハ道路の
両側皆好く耕耘して種芸せる膏腴の
地にして一村を行終れハ次の村続て出つとぞ
日本の外国と交易するハ和蘭と支那二国に限れど
内地の商売ハ海陸共に甚だ繁昌なり、毎湊にハ
必らず一宇の運上役所あり、商人の穀値を射中
れる為に諸物の価を記セる一種の告文を出す、其重
切なる商売の品物ハ材木及び米なり、木ハ日本の北
部の産物にて米は南部に多く産す、叉茶煙草
ハ叉家必用の物たり、此等の産物の外叉木綿布・繭帛を
織り、塩を作り魚を漁し、銅鉄山を稼ぎ、有名の
陶磁を製し、菜疏を培養することを其職業となして、
商売の貨物となす也、其人種ハ何の鼻祖より分れ
たるや審ならされとも、形体の貌に就て論する時ハ
マレイス(印度諸島の種の名)種たるへし、その風俗ハ支那より
ひらけたりと見へたり、国人の説し所によれは其
太祖ハ半神聖のなるが故に、他国の人の系統よりも尊
貴なると思ひ、外国の人種をハ皆これを賎しミ悪めり、
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其神聖の君主内裏様ハ代々血統にて相伝し、上にも
云へるが如く、古ハ一国を治平する政権にも関係し、
大半ハ公方様即ち上将軍其大権を握れり、其後
名誉を好む公方終に人君の権を奪ひ、久しき血戦の後
これを盗ミて全く己が有と為せり、然れとも制度法律
の事に関りてハ一切内裏の勅許を得るにあらされハ
行ふことあたわず、表向にてハ帝より内裏を崇尊
すること極めて厚く定りたる、時月にハ宏壮なる儀式
を備へて使を「ミヤコ」に遣し其尊候を問ふ、帝ハ
本国の政柄を地方の名族に分ち授け、国守県主たる者
をして代々其地に土着して是を行ハしむ、人民の
階級ハ地方の政柄を執る公侯貴族、僧官兵士商売職工農
民孥隷是なり、其軍人ハ甚だ尊き位たり、公侯ハ自
身に政官となり其領地に行き、近親の者をは帝への
人質まてに江都ニ残し留む、其官人ハ国家の法
制を守りて失ハさらんと上下皆心を弾セり、毎年
日本に在る和蘭の交易総督ハ帝の尊候を尋る
為に江都に詣る、此時二三の官人をも伴ひ行て、日本人
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数十人前後を警守す、ケンフルの時は此使の往来
三月許りの月日を費したりとぞ、此使節の勤ハ第一ハ
帝に上つる献上物を貢納する為なり、此使にて旅行
する間は厳重なる目付を以て守衛せらる、但し其人
にハ大小の者とも皆道理を知りたる人なれとも守護
の厳重なるにハ安き心なかりし、ケンフル曰く此道中
一千六百九十一年(元禄四未年)に経る所の大府三十三になる
所在七十五、二十九日の道中にて始て定りたる
場所江都に到着しぬ、拝礼の間彼是の礼儀終り
しとき、数百千の人々しばし不都合なる疑問を総督の
側に侍セる者に尋らる、日本人年齢を問イ姓名を
問へハこれを記し与ふを要すへく、ケンフルハ医者
なれハ問ていへらく、何の疾が危険の尤甚しき
者なりや、何の状にて其腫膿漬するや、内患ハ何
の方にて治するやと問ひ、和蘭よりハタビヤ(瓜哇ジャワ)まて
ハ幾許の距離、「バタビヤ」より長崎まてハ幾何里な
りや、欧羅巴の医師ハ何故に人をして死セさらしむる
方法を講究せさるや等の如し、帝ハ是迄ハ婦人
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の中に座しけるか、自ら異国人の側に来り、命
して花美なる衣を着セしめ、衣を着し終れは起
立しめて、其全身の状を観、其後歩せしめ、止ら
しめ、互に揖セしめ舞ハしめ、踊らしめ *前傾してあいさつ
酔るが如き状態をなさしめ、残廃なる日本語を言
ハしめ、和蘭文を誦ましめ、書セしめ、歌はしむ
等一切その命ずる所ハ悉く是をなし、帝
及び官人の嘲戯となる事少なからず、但し使
節を奉する総督のミハかくの如き嘲戯を受
ることなし、是れ此人は本国の顕官の名代を勤
めて朝聘セし人なれハこれを軽んセさる故に
因れり、此等の儀式悉く終り高貴の諸官に進
物をなして後、一連の同伴初の如く長崎に向て
還ること図に著せるものゝごとし、其警固の厳重
なる囚人に異ならず、凡日本にて外国の人を厳
酷に取扱ふ事に就て爰に付すへきは欧羅
巴の婦人を出島に携へ来るを禁じ、若し一人に
ても婦人を船中に帯ひ来ることあれハ、直に
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これを別館に閉こめおき、次の船便を待て
送り還すことゝとす、上にいへる如く日本人ハ
懐土の念深けれハ、たとひ如何様の事ありとも、
国を去り他国に徙すること能ハさるへし、但し官 *徙(うつ)る
より永世国土を放逐するに非されハ甘んし
て是を為すもの一人も有ましと思ハる
また我本国の官人の嚮に出島に来り居れる *嚮(まえ)に=前に
者の実子ありしが、今も猶厳重に番人を付け
らる、我方より度々其赦宥のことを申入セしか
とも決して願ひし事叶なりさりしなり
元催一校