古文書を楽しむ会通信講座 第六回 二〇二〇年六月四日
〇崎陽大荒之沙汰 出典 視聴草 三集の八
今回は文政十一年(1828)八月、九州北部を台風が襲い各地に被害がでたが、長崎における風と高汐による被害状況を
同所町年寄から江戸の町年寄に知らせた手紙文を読む。 崎陽(きよう)とは長崎の中国風呼び名
〇解読
崎陽大荒之沙汰
文政十一年戊子八月九日、夜九ツ時前ゟ大烈風破(破ハ波の誤ならん)俗に *夜中十二時
申候津なみと申ものゝよしニ御座候、浜手之人家不残流失、 *註1
尤紅毛船ハ稲佐村庄屋之門前江打上、唐船三艘之内一艘ハ *オランダ船 *中国船 註2
水入、一艘ハ少々破船、一艘ハ普請中にて岡へ引揚有之
p2
無事ニ御坐候、糸荷宝丸破船仕候、肥前様御備船一艘者水入 *糸荷註3 *肥前様註4
壱艘ハ破船仕行方相知れ不申候、水主七十人余之処十九人
存命、残ハ即死、長崎中瓦を飛し誠にけしからぬ *越→を 希→け
大変ニ御座候、出島十五番蔵ニ砂糖十五万斤有之候処、蔵なりに *一斤=六百グラム 註5
海へ落込、砂糖不残流失仕候
一大破戸に有之候大筒之玉、西御役所之下江参申候(篤いふ大破戸ゟ西役所迄二三町程)
大荒筆紙ニ不及候、諏訪廻廊能舞台吹倒申候
一江戸会所ハ屋根向残らず吹落申候、風ハ辰巳ゟふき申候
一ヶ所大損之土蔵屋根落申候、瓦不残吹落し諸塀、二階
之戸板等不残行衛不相分候、去年より長崎ニ無之事之由
町年寄薬師寺久右衛門老母九十余の人之噂ニ一向覚不申、勿論
咄しニ聞及はぬものと申居候由ニ御座候、幸ニ家内并近付之人ニも *咄しをか、咄しニか?
怪我無之候、紅毛船番両組六人相果申候内、弐人ハ行方不知候
書外ハ御察し可被下候
立山御役所御長屋家根不残吹落申候、已上 *長崎奉行所 立山にある
八月十一日 又左衛門
仁兵衛様
翌朝四ツ時迄ニ風納申候、死人怪我人凡千人も有之候由 *翌朝十時
右者長崎表町年寄ゟ当所町年寄へ文通之由御座候 *江戸を指す
町奉行見せられ候
〇解説
註1 津波は地震が引き起こすもの。結果は似るがこの場合は高汐が正しい。
同じころ発信した薬種問屋出張人の報告では「高汐に相成、津波同様」となっている。
註2 オランダ船はジャワのバタビア(現ジャカルタ)から毎年七月頃来航し、十一月頃帰帆する。
貿易風の関係もあり、年一―二艘。 中国船は南京船、福州船など四―五艘。 この
季節は全ての船が湾内にあり、港は繁忙期だった筈である。
註3 糸荷 輸入品の主力は生糸で、到着の生糸を大阪、堺に運ぶ専用の船で糸荷廻船と云う。
宝丸は千石船だった様で和船の貨物船では最大級
註4 警備は長崎奉行所の下で肥前佐賀藩と筑前福岡藩が一年交代で務めた。 この年は佐賀藩が当番だった。
繁忙期は初夏から秋迄。 秋には全ての貿易船が帰帆する。
註5 白砂糖は全て輸入でオランダ船はバラスト(船底の重り)代りに積んできて、
帰りのバラストは日本から支払いに充てた棹銅だった由。 尚輸入品主力は生糸と砂糖だった。
江戸時代の長崎図(国会図書館長崎虫眼鏡より) クリック拡大
立山奉行所跡復元 現在博物館兼ねる
支払いにあてた棹銅 百斤=60KG
〇現代文訳
長崎大荒れの知らせ
文政十一(1828)年八月九日、夜中零時前から大風波、俗に津波とか云うものだそうです。浜辺の人家は残らず流され、オランダ船は稲佐海岸の庄屋の門前へ打ち上げられ、中国船三艘の内一艘は水船になり、一艘は少々破損、一艘は修理中で陸揚げしており無事でした。糸荷廻船の宝丸は破船しました。佐賀藩の警備船一艘は水船となり、一艘は破船して行方もわかりません。
乗組員七十余人の内十九名は存命ですが残りは即死、長崎中の瓦を吹き飛ばし誠にとんでもない災難です。出島の十五番倉庫に砂糖が九十トンありましたが蔵が海に落ち、砂糖は残らず流失しました。
一、大波止に有った大砲の玉が西御役所下へ転がりました。(実に大波止から御役所迄百―二百メートルあります)大荒は筆紙に尽くせません。諏訪神社の能舞台も吹き倒されました。
一、江戸会所の屋根は残らず吹き飛ばされました。風は東南から吹きました。 一ヶ所大損害の土蔵は屋根が落ち、瓦は残らず落、塀も倒れ、二階の戸板も全て行方不明です。
過去に長崎には無かった事で、町年寄薬師寺久右衛門の九十余歳の老母も全く記憶になく、咄に聞いた事もないと言っているそうです。 幸いに家族や知合いには怪我はありませんでした。
オランダ船警備の奉行所、佐賀藩の両組で六名が死亡し、内二名は行方も分かりません。書面以外は御察し下さい。立山の奉行所の長屋の屋根も残らず吹き落ちました。 以上
八月十一日 又左衛門
仁兵衛様
翌朝十時には風も納まりました。 死人怪我人は凡そ千人との事です。
右は長崎町年寄から当所の年寄への文との事で町奉行に見せてもらったものです。
〇古文書を始めて間もない人への補講
一、異体字について
近世古文書(主として江戸時代、明治初期の文書)に頻繁に使われる少し変わった漢字があります。 習慣的に書いたものが広まったと思われますが、異体字と云い、二百―三百位の字があります。
今回の文書にある役所の所、西役所迄の迄などはそれぞれ異体字の崩しが使われています。
是迄によく見かけた異体字の例を右に記します。 古文書辞書にはもっと沢山載っています。
二、音通(おんつう)について
江戸時代の文書は発音が同じなら余り意味にこだわらない文字をよく使い、現在では間違いと思う物でも通用するようです。 課題文書の中でも、屋根を家根、行方を行衛とするなど。
さすがに最初の大烈風破の破は波ではないかと註が入っています。恐らくこれは全く違う意味になると言う事で筆者が入れたものと思います。風破と風波では状況は確かに違います。 又、原文では大破戸となっていますが、現在名は大波止です。