俳諧歳時記
馬琴の編纂による歳時記を嘉永三年に蘭亭青蘭が編纂しなおしたもの。 板本で五冊からなる。
教室では上記冬の巻の芭蕉忌を読む
P1
芭蕉忌十月十二日 俳諧正風体の開祖
芭蕉庵桃青翁の忌日なり、泊船堂、杖銭子、是仏坊、
風羅坊等の号あり、又無名庵、幻住庵、蓑虫庵、瓢竹庵、
P2
等の庵号あり、〔十論為辨抄〕支考著 故翁の稚名ハ金作
といへるよし、伊賀に四姓ありて、桃地党の中の松尾氏
なりとぞ、むかし俳諧の名ハ宗房といひ、落髪の後ハ桃
姓のひゞきより、桃青ともいへりけるハ梅子熟せすの意
なりとかや、おもふに家名をとげざるのいひならん、十九の
年に官をしりそきて、洛陽に季吟を師とし、武陵に其
角、嵐雪を門人とせり、深川の芭蕉庵に隠遁ありしは
三十六のとしなりとぞ、〔風俗文選〕許六選 作者列伝ニ云、芭蕉
翁は伊賀の人也、武名ハ松尾甚七郎、嘗て世に功を遺さん
とし、武の小石川の水道を修して四年に成る、速に功を
捨て深川芭蕉庵に入る、年三十七支考ハ三十六といふ〔芭蕉翁
正伝〕藤堂家藩竹二坊撰寛政十年印本芭蕉翁桃青ハ、伊賀国阿拜郡
柘植村の人にして俗称松尾半七、後に改て松尾忠右衛門
宗房と呼、正保元甲申の年の生れにして、弥平兵衛宗清
の苗裔(へうえい)なり、よつて宗房と名づく、父の名ハ儀左衛門、母
ハ豫州宇和島の産也、桃地氏の娘なり、支考が翁の碑
名に其先ハ桃地の党とかや、今の氏ハ松尾なりけりと書
るハ、母の氏と聞あやまりしもの也、弥平兵衛宗清が屋
P3
敷跡今に存り、庭に大なる石の手水鉢あり、人ミなこ
れを名物とも、其類今同郷に姓をわかつ、柘植氏、松尾氏
福地氏等是なり、儀左衛門、嫡子與左衛門、上野赤坂町に
手跡師範を以て家業とす、二男半左衛門ハ、藤堂主殿(とのも)
長基の臣たり、三男忠右衛門芭蕉翁也ハ、寛文壬寅年藤
堂新七郎良精の臣となる、夫より嫡子主計良忠俳名蝉吟
へ随身す、〔伊賀上野桐雨筆記〕桐雨ハ翁の門人猿蟭の曽孫也蝉吟子
ハ洛の季吟に俳諧を学び申さる、故に翁もともに其
門に入て、「いぬとさるの世の中よかれ酉の年、と発句あ
りしハ十四歳の時也、明暦三年也しかるに蝉吟子ハ、不幸にし
て、寛文六年の四月世を早うし給ふ故に、翁ハ君臣の
因、風雅の縁ひとかたならぬ歎のあまり、遺骨を負て
高野山に登り、報恩院に納て六月帰国す、その後ひそ
かに遁世の志ありてや、二君に仕へざるよしを告て、しきりに
暇を乞ひ申されしを、あへてゆるしなかりしゆゑに、其秋な
らん同僚孫太夫といふ者の門に、短冊を粘けて「雲と
へたつ友かや雁のいきわかれといふ一句を残、国を去る、
歴代滑稽伝〕許六撰芭蕉翁桃青ハ、伊賀の産、江戸に居し
P4
て俳諧に鳴る、桃青二十歌仙といふ俳書を著、二十歌仙独
吟の内「艪声波をうつて腸(はらわた)氷る夜ハ涙「子をおもふ鯨の
其声かなし「第一第二の弦ハじよきじょきとして牛房を刻
む」前後名を出したる撰集ハ二十歌仙一部也、談林の
時俳書に長し日々向上にすりあげ、終に談林を見破り、
はじめて正風体を見届、躬恒・貫之の本情を探始て「道
の辺の木槿ハ馬にくはれけりと申されたり、天下擧(こぞつ)て俳
諧中奥の開祖、正風の翁と称し侍る、天下の門人數千
人のうち、慥に正風の体を得たるもの少し、初懐紙の項
杉風、嵐蘭、其角、嵐雪、曽良等江戸に在て随仕す、其
ころ故郷伊賀に立帰ける道の紀を、草枕とも野ざらし
の紀行ともいふ、大津の千那、尚白、青亜、三人師としたのむ、
「辛嵜の松ハ花より朧にて、此ときの事也、名古屋にて
野水、荷兮、いらこの杜国、冬の日の俳諧を撰し、次の春
春の日打つゞき曠野に俳諧を勧む、風体冬の日、春の
ハ初懐紙にちかし、曠野ハ俳諧やハらかにして少しかるし、
大垣の如行、荊口等の門人を招て師とし頼む、野ざらしの
紀行の時なり、其後奥の細道の時、大垣より伊勢遷宮
P5
をかミに別るゝとて「蛤の二見へわかれ行秋ぞ、又江戸に *拝み
帰りて、諸門人に正風の躰を勧(すゝ)む、又洛にのぼりて去
来、史邦、凡兆等をすゝめ、初しぐれ猿も小蓑をほしけ也、
と吟じて猿蓑を起す、膳所(ぜゞ)の曲翠、正秀、珍碩等を
引導(みちびき)てひさごの俳諧あり、大かた趣き猿蓑にひとし、
その後江戸に帰り、深川芭蕉庵を再びむすぶ、許六
此時にまミゆ、珍石江戸に来りて深川集の俳諧を
撰す、「乗かけの桃灯しめす朝颪「汐さしかゝる星川の
橋、愚老が俳諧四五年の後ハミなかやうになると申
されけり、支考、桃隣ハ髄仕(ずゐし)して江戸に下り、桃隣ハ江
戸に止り、支考ハ松島象潟(きさかた)の旅に趣き、葛の松原を
撰す、野坡、利牛、孤屋をそゝのかして、炭俵出来たり、
又江戸にて保生、沾圃を勧め続猿蓑を手伝して伊
賀に帰る、杉風餞別に別座敷と云俳諧あり、下略〔本朝
文鑑〕、芭蕉翁終焉記、其角云、此翁孤独貧窮なりといへ
ども、徳の風雅にとめる二千余人の門葉ありて、夷洛
ひとへに合信する因と縁との不可思議いかにとも勘
破しがたし、天和の頃ならん、武江の草庵に急火の難に
P6
かこまれ、潮(うしほ)にひたる笘(とま)をかつぎて、煙のうちに生のびけん、
是ぞ玉の緒のはかなきはしめなるや、爰に猶如火宅の
変を悟り、応無所住の心を発ちて、其次の年ハ甲斐の
山里に身をかくし、富士の雪のミつれなけれバや、三更月
下無我ニ入るといひけん、昔の跡もなつかしかれハ、そこの人々
嬉しくて、焼原の旧草に庵を結び、しバしこゝろをとゝ
むべき便(たよ)りにと、ひと株の芭蕉を植置て盥(たらい)に雨を聞夜
かな、とハその世にその時の吟なれバ人ハおのつから芭蕉翁
とも喚(よぶ)ならし、下略 此記ハ枯尾花集にありて世に流布す、
(これハ支考と対論ありたる再案なれバ因之、)
「惟然坊手記」翁難波にて芝柏亭に一集すべき約諾
なりしが、數日重食し給ひし故か、労(いたハ)りありて出席なし、
発句のミ贈(おく)らる、「秋深き隣ハ何をする人ぞ」此夜より
腹痛の気味にて泄瀉(えいしや)四五行也、世のつねの瀉ならんと思
ひて、薬店の胃苓湯を服し給ひけれど験しなく、三十日
朔日二日とおしうつりしが、次第に度数かさなりて終に
かゝる愁とハなりにけり、惟然、支考内議していかなる良
医なりとも招き候半と申けれバ、師曰我本元虚弱なり
こゝろえぬ医に見せ侍りて薬方いかゝあらん、我性ハ
P7
木節ならで知るものなし、願くハ木節を急によびて
見せはべらん、去来も一同によびよせ談すべき事も有な
れば、はやく消息をおくるべしとなり、夫より両人消
息をしたゝめ、京大津へぞつかハしける、然るに之道が
亭ハ狭(せは)くして外に間所もなく、多人数入こミて保
養介抱もなるましとて、其処(そこ)此処と立廻り、我知る
人ありて御堂前南久太郎町、花屋仁左衛門といふ者
の裏座敷をかり受けり、間所も数ありて亭主か物
数寄に奇麗也、諸事の勝手よろし、其夜直に御介
抱申て花屋にうつり給ひけり、此時十月三日也、四日車庸、
畦止、舎羅、何中等ハ師の不例をしらず、之道亭に至りし
に病ミ給ふ事を聞はべりて花屋にまゐる、病気不(虫損)に
つき尋問の人たりとも、ミだりに坐席に通るまじと張紙
を出す、且仁左衛門が断ると云云、三日廿七行昼夜也、天気
くもる、夜半過、去来きたる、二日朝の状、三日の朝とかく、
其座より直に打たち、伏見に出しハ巳の時なりし、夫より
舟に打乗八軒屋に着しハ亥の時なりしとぞ、直に御
病床に参りたりしに、師も嬉しさ胸にせまり、しバしハ
P8
ものを宣(のたま)ハざりしが、諸国にちなミし人々ハ、我を親の
如く思ひ給ふに、我老ぼれて優しきこともなけれバ、子の如
く思ふ事もなく、殊更汝ハ骨肉をわけし思ひあれバ、
三日見されバ千日のおもひせり、しかるに此度かゝる遠き
境にて難治の憂に罹(かゝ)り、再会あるましく思ひ居たりし
に、逢見ることの嬉しさよとて袂(たもと)をしほり給へバ、去来も
はふり落るなミだぬぐひて云、僕(やつかれ)世務にいとまなけれバ、
させる実意も尽さゞるに、かゝる御懇意の御意をかう
ふる事、生を隔(へだ)つとも忘却仕らず、数行の涙にむせぶ、
何様売薬の効験(かうけん)心もとなしとて、去来又消息をした
ためて飛脚便(たよ)りに木節につかはす、〔支考手記〕云同三日
の夜子の時おひつゞきて木節来る、二日出の両人の消息
その夜着せしゆゑ、大津を丑の時にたつ、一番舟に乗り
しかと短日故遅着、諸子にそこ〳〵にして直に御容
體をうかゞひ、御脈を診(しん)す、主方逆挽湯を調合す、四日
朝、木節申さるゝにより、朝鮮人参半両、道修町伏見
屋より取、同じく包香十五袋とる、天気よし、之道かた
より世話にて、洗濯老女(ばゝ)を傭ひ、師の御衣裳、その外連
P9
中の衣裳をすゝぐ、園女より御菓子幷水仙を贈らる、
支考、惟然介抱、次郎兵衛とても手届かね、之道取計らひ
とて、舎羅、吞舟と云もの来る、按摩(あんま)などうけたまハる、今日
三十余度に及ふ、度毎に裏急後重(こうじゅう)也、〔次郎兵衛手記〕ニ云
五日朝、丈草、乙州、正秀来る、天気曇る、寒冷甚し、時候
の故にや師時々悪寒の気あり、次郎兵衛天満に詣て
昼すぎ帰る、今日師食し給はず索麺二箸也、夜中迄に
五十度に及ぶ、六日天気陰晴きはまらず、朝の食乳麺(にうめん)三
箸、前後よもすがら寝入給ハず、しバらく睡眠し給ふ、御
目覚より去来をちかく召して、先の頃野明か方に残し
置し、大井川に吟行せし句「大堰川波に塵なし夏の月」
此句あまり景色過たれど、夏景色いひかなへたりと思ひ
居たりしが、清滝にて「清滝や波にちりこむ枯松葉と作り
居し、事柄ハ変りたれど、同案なりと人いはんもいかゞなれば、
大井川の句ハ捨はべらんと汝に申したり、しかるに頃日
園女に招かれて「しらぎくの目にたてゝ見る塵もなし
と吟じたり、是また同案に似て句の道すぢ同し、夫故
前の二句を一向に捨て、白菊の句を残し置んと思ふ也、
P10
汝か意いかん、去来涙をうかべ、名匠のかく名を惜ミ道
を重じ給ふ有がたさよ、わづか句一章にさまて千辛万
苦し給ふ御病悩のうちの御骨折、風雅の深情こそ尊と
けれ、眼あるもの何者か此句を同案とミるべき、恐ながら
此句を同案同意などゝ申すものハ、無眼人と申者なり、
その故ハ此句々景情に備りて、句意を見る時ハ三句
ともに別なり、我ハ句の意を目に見て句の姿を見ず、青
苔日ニ厚ク自無塵、是隠者の高儀をほめたる語也、園女
いまだわかくして陌上桑の調あるをほめ給ひたる、意も *小道の草
妙也語も妙なり、世人此句をミるもの、園女か清節をし
らざらんや、波に塵なしの語ハ、左太仲が必非絲與竹、山 註1
水有清音といへる絶唱もおもはれ園女か二夫にまミえ
さる貞潔と大井川清滝の絶景と二句の間相たゝか
つて感じても余りありと申せしかハ、師も機嫌よくおは
しけり、「去来手記」云七日朝より不相応の暖気なり、曇
りて雨なし、薬方逆挽湯に加減、又乳麺をこのミたまふ、
園女より見舞として菓子等贈り来る、鬼貫来る、去
来応対して還す、園女、何中、渭川来る、去来、支考会釈
P11
す、終に薬をめさず、終日くもる夜に入て晴る、人音も
静なりければ、灯のもとに人々伽し居たり、乙洲、正秀
等去来に申しけるハ、今度師もし泉下の客とならせ
給ハゞ、此後の風雅いかに成行はべらん、去来黙して居たり
しが、我も其事心にかゝりし故、二日の消息とどきしゆえ
斯いそぎまいりたり、人々も左思ひ給ふや、さあれバ今
宵閑静也、只今の体におはしまさバ、御快復覚束なし、
滅後の俳諧をとひ奉らんとて、しづかに枕上うかゞひよ
りて、機嫌をはからひ問申しけり、翁次郎兵衛にたす
けおこされ、息つき給ひて曰、俳諧の変化究りなし、しか
れども真草行の三をはなれず、其三より千変万化 註1
す、我いまだ其轡をめくらさず、汝以後とても地を
はなるゝことなかれ、地とハ心ハ杜子美が老を思ひ、さひハ西 註2
上人の道をしたひ、調ハ業平が高儀をうつし、いつまて
も我れ世にありとおもひ、ゆめ〱他に化せらることなか
れ、いひたきことあれども息(虫損)口かなはずと喘ぎ給ひ
けれバ、呑舟御口もとうるほす、又薬をまいらせてしつ
まり給ふ、おの〱筆を執て是を書す、「惟然記」ニ云
P12
八日天気快晴、御不食なり、京の(虫損)士来る、信徳より消息
をもて御病体を問、近江の角上より使来る、人々勝手の
間にて、今度御所労平復を祈奉らんとて、住吉大明神
に連中より人を立べしと去来申しけれバ、おの〱しかる
べしと、之道・次郎兵衛鬮あたりて、社務林采女方に祝詞
をたのミ、厚く神納の品々贈らる、奉納「峠こす鴨のさ *細鳴(さなり)
なりや諸きほひ文草「木がらしの空見なほすや鶴の声
去来「起さるゝ声もふれしき湯婆かな、支考「足かろに *湯たんぽ
竹のはやしやミそさヾい。惟然「此外連中の句あり略之大勢の集会な
りけれハ、悦ひ興じて師をなぐさめけり、木節去来に申
けるハ、今朝御脈をうかがい見申すに、次第に気力もおと
ろへ給ふとミえて、脈体わるし、最初に食滞よりおこりし
泄写なれとも、根元脾腎の虚にて大虚の痢疾なり、故に
逆挽湯主方なり、尚又加減して心を尽すといへども、薬
力とどかず、願くハ治法を他医にもとめんと思ふ、去来師に
申、師の曰木節の申条尤なれども、いかなる仙方ありて
虎口竜鱗を医すとも、天業いかがせん、吾かく悟道した
れバ、我呼吸のかよはん間ハ、いつまでも木節が神方を服
P13
せん、他もとむる心なし、とのたまひける、支考、乙州等去
来に何かさゝやきけれバ、去来心得て病床の期限はからひ
てもうして云、古来より鴻名の宗匠おほく大期に辞世あり、
さばかりの名匠の辞世ハなかりしやと、世にいふものある
べし、あハれ一句を残し給ハバ諸門人の望ミ過ぬべし、師曰
昨日の発句ハけふの辞世、けふの発句ハ明日の辞世、吾生涯
いひ捨し句々、一句として辞世ならざるハなし、もし我辞世
いかにとふ人あれバ、此年ごろいひ捨おきし句、いずれなりとも
辞世なりと申給ハれかし、諸法従来常示寂滅相、これ
ハ是釈尊の辞世にして、一代の仏教此二句より外ハなし、
古池や蛙飛こむ水の音、此句に我一風を興せしよりはじ *正諷体
めて辞世也、其後百千の句を吐に、此意ならざるハなく、
こゝを以て句々辞世ならざるハなしと申也、次郎兵衛が側
より、口を潤すにしたがひ、息のかぎり語り給ふ、「支考手記」
八日夜に入て嵯峨の野明為有より柿を贈り来る、消
息そふ、今日まで伊賀より音信なし、去来、乙州申談し
わざと飛脚を立べきよし師に申けれバ、師の曰我隠遁
の身として、虚弱なる身の数百里の飛杖おもひ立、親族
P14
よりとどめけれど、こころのままにせしハ我過なり、今大
病と申おくりなば、一類中のさわき、殊に主公の聞しめし
もおそれあり、たとひ此度大切に及ぶとも、沙汰有まじと
宣ひけり、師の慮ふかきこと、おの〱感心す、度数六十度に
及ぶ 「惟然手記」云九日諸子の取はからひとして、古き衣装
又夜具などの垢つきたる不浄あるを脱がし、よき衣めさせ
かへまいらす、師曰遠地波濤のほとりに草を敷、塊を枕と
して、終を取べき身の、かゝる美々しき褥の上に、しかも
未来までの友どち、にぎにぎしくつきそひ、鬼録に上らんこと
受生の本望なり、昨夜目のあはざるまゝ、不斗(ふと)案じ入て
呑舟にかゝせたり、おの〱詠じ給へ、「旅にやミて夢は枯
野をかけ廻る」枯野をめくる夢ごころ、ともし侍る、いづれ
なるべき、これハこれ辞世にあらず、辞世にあらざるにもあ
らず、病中の吟なり、しかしかゝる生死の大事を前に置
ながら、いかに生涯このミし一風流とはいひながら、これも妄
犱(もうしゅう)の一ともいふべけん、去来いふ左にあらず、日々朝雲暮雨
の間も置す、山水野鳥の声も捨たまハず、心身風雅なら
ざるハなく、河魚の患につかれ給ひながら、いまハのかぎりに
P15
其風神の名章をとなへ給ふこと、諸門葉の悦び他門の聞
え、末代の亀鑑なりと、洟すゝり涙をながす、眼あるもの
是を見バ魂を飛さん、耳あるものこれを聞バ、毛髪これが
為にうごかん、列座の面々感慨悲想して慟絶し声なし、
これ師翁一の遺教経也、此日より殊更におとろへ給へり、
度数しれず、「去来手記」云十日初時雨せり、師夜の明がた
より度数しれず、一入なやミ給へり、折節に譫言ありて
取しめなきことおほし、木節此日芍薬湯をもる、諸子うち
より食事すゝめまいらせけれど、すゝミ給ハず、梨実を
のぞミ給ふ、木節かたく制しけれど、しきりに望ミ給ふ
故、止ことをえずすゝめけれバ、一片味ひてやミ給ふ、脾胃う
くる所なし、死期ちかきにありといふ、申の下刻に至りて
人心地付給ふ、今日ハ少も食したるものなし、「惟然手記」云
十一日朝また〱時雨す、思ひがけなく東武の其角来る、
是ハ東武のたれかれ同伴にて、参宮の序和州紀伊を打
めぐり、泉州より浪花に打入しが、はからずも労おはすこと
聞つけ、そこ爰と尋廻り漸くにかけつけたり、真に病
床に参て、皮骨連立し給ひたる体を見まいらせて、且
P16
愁ひ且悦ぶ、師も見やりたるまでにて、唯々涙ぐミ給ふ
其角もことばなく、さしうつふき居たりしを、丈草・去
来・支考・其外の衆、次の間に招き御病体の始終を物語
る、此夜よもすがら伽して、思ひよりしことどもものかたり
居たりしに、亥の時頃よりして、師夢の覚たるごとく粥
を望ミ給ふ、人々うれしさかぎりなく、次郎兵衛とり
はからひてとく炊きあげてすゝめまいらす、中かさ椀
にて快く召れたり、朔日以来の食事也、土鍋に残り
たるを、去来椀に入ておしいただき、「病中のあまりすする
や冬こもり、去来」去来云、趣向を他にもとめず、ありあふ
事を口ずさえて師をなくさめまいらせん、深く案に入
らずと頓に句作りたまへ、惟然ハ前夜正秀と二人ニて
一の布団を引はりて被りしに、かなたへ引こなたへ引て
よもすがら寝入らざりけれハ、果ハしらじらと夜明けるに
ぞ、其事をたがいに笑ひあひて「引はりてふとんに寒き
わらひかな惟然「おもひよる夜伽もしたし冬籠正秀
一座是を聞ていづれもどつとわらひけれバ、師もわらひ
たまへり、初時雨の空晴わたり、日影さし入たるに、蠅の
P17
おほく日向にむらがり居たるに、、人々糯もて蠅をさし
とるに、上手下手あるを見たまいて、しバらく興に入給ひけ
れど、大病中のことなれバ、忽ち倦ミ給ひて直に寝所に入
給ふ、支考ハ師の発句を滅後に一集せん心願あれど、此
ころの病苦になやミ給ふに見合せ居たりしに、けふ機嫌
よきに乗じて、申出侍らんと申したりけれバ、去来かねて
師の心中を知たりし故に、大に怒りこざかしきことを申
ものかな、師ハ平生名聞らしき事このミ給ハず、今日漸
く快き体を見うけはべりて、諸人うれしと思ふ中に、御
気にさかふことを聞せ申ては、御心を労しめ申すこと
奇怪なり、この後御床ちかくより給ふな、早く其座を
立給へと、声あららかに次の間に追立けり、支考もはからず
ものいひ出して、諸子の聞前面目をうしなひしが、往々
惟然に打むかひ、我に句あり、そこ書給へいひて「しから
れて次の間にたつ寒かな支考」さすが支考なりけれハ
師もほのきゝ給ひてをかしがり給ひけり、「鬮とりて菜飯
たかする夜伽かな木節」「ミな子なり蓑虫寒く鳴尽
す 乙州「うつくまる薬のもとの寒かな 丈草「吹井より
P18
鶴をまねかんはつしぐれ 其角」一々惟然吟声しければ、師
丈草が句を今一度と望ミ給ひて、丈草出来されたり、いつ
きゝてもさひしをりとゝのひたり、面白しとしはがれし
声もてほめ給ひけり、いつにかはりし師の機嫌のうるハし
きを悦びけるに、木節一人愁をいだける体にミえけれバ
其角その故を問、木節云病に除中の症といへるあり、病
中絶食なるに、俄に食のすゝむことあるハ虫損症也、死期遠き
にあらずといへり、さハしらずおの〱さゝめき居たるに、
夜半ごろより又寒熱往来ありて、夜明ごろより顔色
土のごとくミえ給ひ、しバらくハ悶乱し、人もミしりたまは
ざりが、良ありて又実症になり給ひ、左右に舎羅、呑
舟、うしろより次郎兵衛、抱きまいらせて介抱し、ほど
なく夜明けれバ十二日なり、かねてハ閉こもりたまひしが、。
へだての障子もふすまも取はなさせ、去来、其角、丈草
をこれへと招き給ひ、穢をはばかれハ咫尺したまふなと
ことわり、行水をのぞミ給ふ、木節しきりに制し申けれ
ども、しきりに望ミ給ふゆえ、、止ことをえず湯をまいらせけり。
座をしづかにあらため、木節の医術を尽されしこと
P19
などつとつとに謝し給ひ、さて三人の衆をちかく召れ乙
州、正秀を左右にし、支考、惟然に筆とらせ、なき跡のこと
こまごまと遺言し給ふ、病苦すこしもミえたまハず、人々
奇異の思ひをなしけり、伊賀の遺書ハ手づから認め
給ひ、京江戸美濃尾張もれざるやう遺言したまふを、
門人筆記す、次第に声ほそり、痰喘にて虫損給ひけれバ、次
次郎兵衛湯にて口をうるほしまいらせけり、良ありて
去来にむかひ給ひ、先頃実永阿闍梨より、路通が事
仰あり、その後汝が丈草、乙州等に贈りし消息、露霜とハ
捨置ず、併いミはばかることありて、雲井のよそにはなし侍る
かれが数年の薪水の労、ゆめ〱わすれ置ず、我なき跡
にハよそに見捨たまハず、風交し給へ、このことたのミ侍る、諸
国にも伝へ給ハれかしといひ終りたまひて余言なし、合掌
正しく、観音経を聞えて、かすかに息のかよひも遠くなり、
申の中刻すげて、埋火のあたたまりのさむるがごとく、次郎兵衛
が抱きまらせたるによりかかりて、死顔うるハしく眠
れるを期として物うちかけけり、時に元禄七甲戌年十月
十二日、御歳五十一也、即刻不浄をきよめ、白木の長櫃に
P20
収めまいらせ、其夜直に川舟にて、伏見まで御供し奉る
其人々にハ其角去来、丈草乙州、正秀木節、惟然支考之
道呑舟次郎兵衛以上十一人、花屋仁右衛門が京へ荷物を
送る体にて、長櫃の前後を取まき、念仏誦経おもひ〱に供
養し奉る、八幡を過るころ、夜もしら〱と明はなれけるに
僧李由の下り給へる舟に行あひけれバ、いざとて乗うつり、
相ともにはなき物かたりして、ほとなく京橋に着、夫より
狼谷通りにかかり、いそぎにいそく程に、十三日巳の時すぎに
大津乙州が宅に入奉りけり、御沐浴ハ之道呑舟次郎兵衛
也、御髪の伸させ給へば、月代にハ丈草法師まいらせけり、御
法衣浄衣等ハ智月と乙州が妻縫奉る、浄衣白衣にて召
させまいらせべきを、翁ハいかなることにや、かねて茶色の衣
装こそよけれと、すべて茶色を召れければ智月尼のはか
らひとして、浄衣も茶色の服にせられける、さて葬式ハ十四日
なり云々 終焉記 云湖南の義仲寺に棺を移して、近里遠
境の名を伝ふる人ハ、まねかざるにはせ来りて、凡三百余人
なるべし、墓ハ木曽殿にとなりて、おのづから古ひたる柳も
あれバ、かねてハ終焉のちぎりなるやと、そこに野面の無縫
P21
塔をまねび、あら垣をしわたし、冬枯の芭蕉を植て、其名
の記念とハなせりけり、実にも所ハながら山や、音羽の峰
もちかけれバ、鳰(にお)のさざ波も爰によせて漕行舟も観念
のたよりならずや、樵路の鹿、田家の鶴すべて湖上の月に
映じて、此廟前の風景となれバ、遺骨も永く此地に清か
らん、さらバそのさかひもはるかに其ほども遠く、風の便り
に我翁をしたハん人ハ、爰に此記をもて回向の便りとすべし
云々以上考証ともなるべき書どもより抄出す 小文庫
芭蕉忌と申そめけり三回忌 史邦
凡河内躬常、紀貫之 平安中期歌人
蕉門十哲
榎本其角、服部嵐雪、志太野坡
杉山杉風、越智越人、森川許六、向井去来
立花北枝、内藤丈草、各務支考
蕉門俳人
宗波、岱水、河合曽良、苗村千里
上島鬼貫、浪化上人
加賀の蕉門
野沢凡兆、鶴屋句空、秋之坊
美濃の蕉門
谷木因、近藤如行、宮崎荊口、安川落梧
己白、広瀬惟然
近江の蕉門
浜田酒堂。八十村路通。江左尚白、菅沼曲水
三上千那、河野李由、水田正秀、川井乙州
尾張・三河の蕉門
山元荷兮、岡田野水、坪井杜国、中村史邦
太田白雪
伊勢の蕉門
斯波園女、島崎又玄、岩田涼菟、中川乙由
伊賀の蕉門
窪田猿雖、天野桃隣、服部土芳、、貝増卓袋
沢露川
大阪の蕉門
槐本之道、松木淡淡、除風、坂本朱拙
蓑田卯七、関屋沙明、久芳水颯
註1 西晋時代の左思文
必ずしも絲(琴)と(笛)はなくとも
山水の清らかな音がある
註1 真草行 書道の言葉
真 楷書 心の思考と自然
草 草書 心の思考のみ
行 行書 上二つの中間
註2 地とは
杜甫の心
西行法師のさび
在原業平の格調
野面(のずら)の無縫塔= 自然の石塔
与謝蕪村自筆芭蕉庵再興記
一草屋を再興してほとときす待卯月の 杜鵑待つ卯月 4月
はじめ、をしかなく長月のすえかならず 牡鹿啼く長月 9月
此寺に会して、翁の高風を仰くこと
とハなりぬ、再興発起の魁首ハ
自在庵道立子なり、道立子の 樋口道立 蕪村の俳句門人
太祖父坦庵先生ハ蕉翁のもろこしの
ふミ学びたまへりける師にておハし *唐土の文
けるとぞ、されハ道立子の此挙に
あつかり給ふも大方ならぬ
すくせのちきりなりかし すくせ 宿世の契り
天明辛巳五月下八日
平安夜半亭蕪村慎識
出展 個人