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手鑑より

手鏡を読む

手鑑とは厚手の紙で作られた折帳に古筆の断片を張り付けて鑑賞用として作成されたものである。 桃山時代以降茶の湯と共に流行し、 古筆の断片は古筆切と呼ばれて収集の対象だったといわれる。 このようにして複数の古筆断片を貼って作られた手鑑は武家や公家では大切な嫁入り道具だったという。 また江戸時代には古筆や名筆を鑑定する職業が生まれ古筆了伴、了佐などは鑑定の基準となるような手鑑を作成した。

今回読んだ手鑑は平安期の三蹟と言われる能書家達が書いたであろうと伝えられる古筆切を集めた手鑑でその筆跡を見る。 ひらがなを中心に書かれた和歌だが極めて読みにくい。 くずしが独特であり近世古文書ではあまり見かけない変体仮名が時々使われている。

了伴編集 古筆手鑑 *古筆了伴 1790-1853 江戸後期の古筆鑑定家

見努世友(見ぬ世の友)より *国宝 三大手鑑のひとつ

伝小野道風筆 *小野道風 894-967 平安貴族能書家 三蹟のひとり

御返し

かくよりも はかなくみゆる くものいを

    つゆのかたみと みるぞかなしき

かくよりも儚く見ゆるくものいを、 露の形見と見るぞかなしき

  *くものいを: くもの巣、 くもは雲で宮廷を暗示する

いせへ御くたりにさい院より

あきゝりの たちてゆくらん つゆけさに

        心をそへと おもひやるかな

(微子内親王の)伊勢へお下りに、斎院(選子内親王)より

秋霧の立ちて行くらん露けさに

        心を添えて思いやるかな

御かへし

よそなから たつあさきりは なになれや

            のべにたもとは わかれぬ物を

よそながら 立つ朝霧は何なれや、 野辺の袂は分かれぬものを

*選子(のぶこ)内親王 964-1035 62代村上天皇皇女、

              12歳より斎院

*徽子(よしこ)女王 929-985 醍醐天皇の皇孫 8歳で伊勢斎宮、

              三十六歌仙のひとり

藻塩草より *国宝 三大手鑑のひとつ (見努世友、翰墨城)

伝藤原佐理筆 *藤原佐理 944-998 平安中期の公家、

              能書家 三蹟のひとり

(そせい法師) *桓武天皇の曾孫、三十六歌仙

おもふとも かれなむひとを いかゝせむ あかつちりぬる はな*とこそみぬ

(想ふとも離れなむ人を如何せむ

          飽かず散りぬる花とこそ見ぬ) 古今集799

読人しらす

いまはとて きみかゝれなは わかやとの

         花をはひとも みてやしのはむ

(今とても君が離れなば我宿の 花をば人も見てや偲ばむ) 古今集800

宗干朝臣*源宗干(むねゆき) ?-940 光孝天皇孫

わすれくさ かれもやすると つれもなき 人の

           こゝろに 霜はおかなん

(忘れ草枯れやもすると つれもなき 人の心に霜は置かなん) 古今集801

(読み人しらず)

わすられむ ときしのへとそ はまちとり

          ゆくゑもしらぬ あとをとゝめる

(忘られん 時忍べとぞ 浜千鳥 行方も知らぬ跡を留める) 古今集996

藻塩草より

伝藤原行成筆 *972-1028 平安中期貴族正二位権大納言、能書家、                          三蹟のひとり

たつたかは もみちはなかる かんなひの

            みむろの山に しくれふるらし

(龍田川 紅葉葉流る 神なびの みむろの山に時雨ふるらし) 古今集284

あはぬ日の ふるしらゆきと つもりなは

          われさへともに けぬへきものを

(逢わぬ日の降る白雪と積りなば 我さへ共に消ぬべきものを) 古今集621

あしひきの 山したとよみ ゆくみつに のときそともなく こひわたるかな

(あしびきの山下どよみ行く水に のどきそともなく恋わたるかな 拾遺集645

*行く水の 時そともなく もある

あしひきの かつらき山に たつくもの たちてもゐても きみをこそおもへ

(あしびきの葛城山に立つ雲の 立ちてもゐても君をこそ思へ) 拾遺集779

みなそこに おふるたまもの うちなひき

          心をよせて こふるこのころ

(水底に生ふる玉藻のうちなびき 心を寄せて恋ふるこの頃) 拾遺集640

かせふけは なみたつきしの まつなれや

           ねにあらはれて なきぬへらなり

(風吹けば波立つ岸の松なれや、 ねにあらわれてなきぬべらなり) 古今集671

*べらなり ・・しそうだ