駿河土産は江戸時代中期に大道寺友山が著した徳川家康の言行録である。 家康は1542年に生まれ、戦国に終止符を打ち1603年に江戸幕府を建て260年余の泰平の世の基礎を確立した事で評価される。 幕府の長である将軍職を僅か二年で嫡男秀忠に譲り、自らは駿河の駿府城に移り11年程大御所として江戸幕府の後ろ盾となる。 話題は主にこの駿河時代のものが多いので書名になったものと思う。 尚家康は1616年74歳でこの駿府城で没するが、死後東照大権現の称号が贈られたので、この書では全て「権現様」としている。
写本は複数確認されるが、国立公文書館所蔵のもの(159-054)を底本とした。
p6
駿河土産巻之一
権現様駿府におゐて本多佐渡守江
秀忠様律義なるニ付 上意之事
権現様或時本多佐渡守江 上意ニハ 秀忠ニハ余りに
律義過候、人ハ律義なると云計ニ而はならぬもの也、との
上意ニ付、佐渡守右之様被申上、御前様ニは時々ハうそ
をも仰られたるがよく候と被申上候へハ 秀忠様御笑ひ
被遊 内府様之御虚言をハ買手があるが我等ハ何も
仕たる事かなけれハうそをつきてもかいてのなきに困
るぞと被仰候となり
註
1.本多佐渡守(正信1538-1616)鷹匠として家康に仕え秀吉死後あたりから家康の参謀として重用され、江戸幕府成立以後は秀忠付家老となり実務派として腕を振るう、相州玉縄城主
2.内府 内大臣の事。 家康は慶長元年(1586)秀吉の推挙で家康は内大臣に任ぜられる。慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられる江戸幕府を開く。
P7 御引移り之節御譲金之事
権現様江戸御新城より駿府へ御引移り被 遊候付
御本丸之御老中方被為召 秀忠様へ被
仰遣候、今度駿府へ御引移り被 遊候付、只今迠之
御たくハへ金拾五万枚御譲り被進候、此金子計ニてハ不足 *慶長大判か
候間、此以後猶又御金を被相添、其金子之儀ハ御私用
ニハ御遣ひ不被成、天下の金と被思召、常式の御仕ひ方の
儀ハ御物成ニて御仕廻可被遊候、天下を御取被成候上ニハ御
貯への金銀不足ニても不苦と御心得あられ候ハ宜し
からず候、随分と無用無益なるもの入之儀を御いとひ(厭い)
被成、金銀を御たくハへ可被成候、其金銀之御入用に
三ツの所あり、第一には御軍用のため、二ツには以前京・
鎌倉にも在之たる義なり、此已後江戸中の家屋一軒
も不残ごとく成火事なども有まじきにはあらず、左様之
節ハ御居城之義ハ申に不及、御城下之貴賎万民ともに
居所迷惑不致ごとくの被成方も無てハ叶ふべからず。三ツには
日本国中之儀ハ所々国主・郡主を云付差置義なれば
大躰の凶年などの義ハ其前の守護たる者の力を以て
諸人飢こゝへざるやうの致方有るべきなれども、天地の変と *凍え
云ものハはかりがたき義なれども、打続きたる凶年抔も無
て叶ハず、左様の時節より領分之民百姓共を領主の
力を以てハ扶助致がたき旨訴へ出ルにおいてハ、其守護
p8
守護に力を添て遣し、私領の民百姓を助け救ハすごとく *ざる→す
致と有も是又天下を取ものの役也。 扨又蔵入之知行高
餘計在之候得ばとて、むさと人を取立新地等をあたへ候と
不可然義なり、子細ハ 将軍には年若き儀なれハ段々男子
出生之儀も有べし、我等の末子共にあたへ置たる知行高の
員数も有儀なれハ如何に末子なれハとて 将軍の子とも
に五万石や七万石之知行を取セてハ指置難きなるを
以、蔵入之知行高をへらさぬ様に被致て然とは云るや、是等
之趣其方共も能相心得 将軍えも申達し候へ、との
仰にて有之候と也、 権現様駿府へ御引移被遊候
ては猶又御費がましき義とてハ一円不被遊、万事御手軽
儀ともに被成御座候を以御隠居被遊、御他界被成迠之内
百万両に及びし御貯へ金出来候由、其内を以て尾張殿
紀伊殿え三十万両つつ、水戸殿へ十万両御遣物金として
被進、残りて三十万両有之候を江戸御金蔵え入置可申
哉、と御伺ひ有之候處、其侭駿府に差置候様にと被仰出
候処に、大納言忠長公駿河御拝領之節、右之御金之
義も定て城付にとぞ被仰出候哉と諸人積り之外、其被仰
渡も無御座候故、 公儀之御金御預り御迷惑之由、駿河
殿より被仰達候ニ付、同国久野 御宮の内に御金蔵出来
候て右之御金を引移在之候を世上ニて久野之御金と申
て大分之様に申ふれ候得共、只三十万両なりてハ無御座と
p9
なり、其後尾張殿江戸上屋鋪自火ニて焼失ニ付普請
料之由ニ而十万両、紀伊殿へ和歌山城普請之節十万両、水
戸殿へ三万両、右之通拝借被仰付少々にても御返済
あられ可然旨御勘定頭衆より被申越候処に、尾張殿御返
答被成ハ、我等え御借被成たる御金之儀ハ元来 権現様
御隠居料之内を以御たくハへ置被遊候、御他界之節 御
遣物として我等兄弟三人え御譲金之残り之儀なれ
ハ我等とも拝借致うち之儀なれば返納するには及まじ
きとの被仰様子に付、紀伊殿、水戸殿御拝借金の儀も御
沙汰なしに罷成候となり。 其節ハ外々之大名衆へも拝
借金被仰付候へ共、何れ共に御定の通急度返上あられ
候処に、伊達正宗え御借金返上相滞り在之候を以、御勘
定方より催促有之候処、陸奥守忠宗返答被申候ハ、我等
代になり拝借と申義不仕候、亡父正宗代に拝借被仰付候
とハ承り及び候へとも、何様の思召を以拝借被仰付候哉、其段ニ
おいてハ不存候、親代に御借被成たる御金之儀ニ候ハハ親存生之内
に返上可被仰付義ニ候候處に其通りに被成置、私に返上致し
候様ニとの義ハ迷惑仕候、と有被申様ニ付埒明不申、 御譜代
大名之内ニて松平越中守方にも拝借金相滞有之候ニ付
これ又御勘定頭衆より返上あられ可然と在之候処に、越中守
承り、先年拝借被仰付候節我等方より指上候証文可有
之間見申度との義ニ付、組頭衆両人に持セ被越候處ニ
p10
越中守其手形を見られ、我等覚居申旨と相違無之候
各にも披見可被致候、御借被下難有奉存御金之事と有
之候、尤拝借被仰付候とハ被仰渡候得共、我等心には拝領
被仰付たるとの心得ヲ以て如此之各云ニ書上候、然ば返上可仕
様ハ無之と存候、との被申様ニて是も埒明不申ヲ以、兎角向
後之儀は諸大名方へは御借金被仰付間鋪との訳ニ被仰
出候と也、右拝借金之儀ニ付、其比板倉周防守京都より
江戸表え参向之節、縁者たるにより大田備中守え振舞
に被参候節、相伴に被相越候客衆之中より右大名衆へ之
拝借相止たるとの義を物語あられ候へハ、周防守被申候は
只今迠諸大名衆え 公儀之御金を御借被遊候と有
儀も 権現様御隠居被遊候節、 台徳院様え被仰
達たる事共之中の一ケ條にて是も畢竟ハ天下御長久
の御仕置の一ツにてか 公儀には御手廻を被遊候と申
儀とても無御座ニ付、沢山御蔵にあそびて居候御金を利
足など申儀もなく、返上之義もゆるがせに被仰付御借被遊
と有ハ、諸大名衆之為には大きなる勝手ニも成申事に候。
今時京大坂ニて町人共方より大名方之大金を借用被
致候と有ハ利足を被出候と申斗ニても無之、外失却など
の懸り候と有儀をハ、我等兼て聞及居申事ニ候、然る上は
拝借金等之儀被仰出たる趣を以、急度返上不被致してハ
不叶候処ニ不律儀なる義を被致より起り、向後之儀ハ御
p11
借金御停止と有之ごとくなる御新法をも不被仰出してハ
不叶ごとく成次第ニハ罷成候、わざハひは下からと申ハかよう
の儀ニて候、畢竟御勘定頭中の手ぬるき被致方之様
ニ我等存候事に候、御譜代大名衆之儀ハ申に不及、たとへ大
身なる外様大名衆たり共 権現様之被仰置たる
御仕金筋之邪魔に成可申かと有衆中之儀をハ急度申
立られずてハ不叶事に候、との周防守被申様ニ付其儀を
申出たる仁ことの外迷惑被致候と也
註
1.板倉周防守(重宗1586-1657)京都所司代、落穂集巻六板倉伊賀守参照
2.太田備中守(資宗1600-1680)太田道灌子孫、叔母にあたる英勝院
(家康側室、落穂集八巻松平伊予守参照)の養子となり、秀忠に近侍、寛永六人衆の一人、浜松城主三万五千石
権現様御一生足事を知て足者は常に足
と云古語を御用被遊候事
権現様御隠居被遊候節 将軍様より本多佐渡守
を以御伺ひ被遊候義有之、御用相済候以後佐渡守へ被
仰聞候ハ、我等抔若き時分世上事いそがわしき比故、学
問抔に打懸りて居事もならざるニ付、一生文盲ニて年を
よらせたるなり、乍去老子の言葉の由ニて、足る事を
知てたるものハ常にたる、と云う古語と、あだをハ恩を以て
報ずる、と云世話と此二句をハ年若き時分より常にわすれ
ずして受用セしなり、 将軍には我等とは違ひ学問
なども在之義なれハ、さまざま宜事共をも知て居らるへき
間、此語を用ひられよと云事にてハなきぞ、是ハ其方へ言
きかする義なりと有 上意には有之候へ共、其段共に佐
渡守被申上候得ハ 将軍様御聞被遊、御硯と 上意
p12
ニて御取寄被遊、御自筆ニて右之二句を御書被遊、御床
之内に御張付させ被遊、其後金地院清書被仰付
右御自筆之儀ハ内田平左衛門所持之由承候。 大猷
院様御代御聞に達し、子息信濃守え被仰付御城へ
御取寄被遊、御床に懸させられ御上下を被為
召(めしなされ)御拝見被遊候と也
註
1.老子四十六章 天下有道、却走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊罪莫大於多欲、莫大不知足、咎莫大於欲得、故知足之足、常足矣
天下に道有れば走馬を却けて以て糞す、天下に道無ければ戎馬郊に生ず、罪は欲多きより大なるは莫く、禍は足るを知らざるより大は莫く、咎は得んことを欲するより大は莫し、故に足ることを知るの足るは常に足れり。
解釈 天下が平和なら快速の馬は不要で耕作に使われる、天下が乱れると軍馬が町迄満ちる、欲が多すぎる事ほど大きな罪なく、満足する事を知らない程大きな禍はなく、他人の物を欲しがる程大きな不幸はない、ゆえに足りたと思うことで満足できる者は常に十分である。
一言で言えば欲を言えば限がなく、ろくな事にならないと言う事か
2.仇は恩を以て報ず 老子63章 報怨以徳 怨みに報ゆるに徳を以てす
3.内田信濃守(正信1613-1651)家光家臣、下野鹿沼藩主、家光に殉死
権現様嶮岨成場所ハ御歩行被遊候事
権現様御年よらせられ候てハ猶更之事、御年若に被遊
御座候節より少しニても御馬のありき兼申べきかと有如
くの所にてハ、御馬より下りさせられ御歩行被遊候と也。
或時御近習衆江被御聞候ハ、我等の道あしき所ニて馬より
下るハ大坪流に極意の一伝也、惣じて少もあやうく思
所にてハ馬には乗ぬ者也、扨又其身大身ニて乗替之
馬をも牽(ひか)せべきハ格別、只壱匹馬を乗ありく小身
侍などハ随分と馬の足をかばひたるが能(よき)也、馬に乗は乗
事と計心得、少もいたはる心なく馬の足を乗損じ、爰ハ
馬に乗ずして不叶と有所にのぞミ、乗る事もならぬ
様に在之ハ散々の事なり、能心得候へと被仰候と也
註
1.大坪流 馬術の一流派、元祖大坪式部太輔は足利義満・義持に仕える
権現様加藤清正へ三ケ條之異見を本多
佐渡守へ被仰含候事
権現様には加藤清正と本多佐渡守と挨拶よき
と有儀を御聞及被遊、其身存寄たるごとくニて清正へ
p13
異見を加へ見候へ、と被仰付たる儀有之、或時佐渡守
清正宅へ被相越、談話之節被申出候ハ、我等儀其
元と御心安く伺御意候ニ付、いつそ折を以て可申入と存
罷在たる義在之旨被申候へハ、清正きかれ、それは何よりの
過分之事ニて、たとへ何様之儀なり共少も無御心置御申
聞給はり候様ニと在之ニ付、佐渡守被申出候ハ、其元え申入度
と存寄たる儀三ケ條在之。 一つには只今ハ前と替り中
国・西国筋之諸大名方、大坂へ着岸あられ候へハ其侭すぐ
駿河・江戸表へ被相越如く在之候処に、其元ニハ大坂表に
逗留あられ、以前之如く秀頼卿之機嫌を被相伺、其以後
ならでハ駿府・江戸へハ御越なく候、二つには当時は(世上)も
物静に候へハ諸大名方何れも参勤之節、召連れ候家来
数をも減少被致候處に、其元ハ只今とても以前に相替
らず多人数にて御のぼり候を以、殊の外ニ目立て相見へ
候由、次ニ今時諸大名方之中に其元のごとく顔にひげを
多おかれたるハ無之候、同(敷)ハ御そり落し被有候様に致度
候、殿中相出仕御列座之節抔ハ別て目立て相見へ
候如く在之候と也、清正返答被申候ハ只今其元之御
申聞候事共之儀ハ兼て我等も心付罷在たる事とも
に候、定て人々の取沙汰致をも被聞及、日頃御心安伺御意
候ニ付、御内意御申聞も過分不浅存候事ニ候、乍去右三ケ条
ともに相心得候其通に可致とハ申難く、其子細は其元ニも
p14
御存知之通、我等儀 太閤之時代ニハ肥後半国を領知致
し候處に、去ル慶長五年より当御代と成候てハ小西が領知
之跡をも手前え拝領被仰付、肥後之国主と罷成候と
有之ハ御当家の御厚恩と申者ニて候、乍去いかに大身に
被成候えハとて、以前より大坂着岸之節ニハ秀頼卿之機嫌
を伺ひ候格式を相止メ、大坂直通に致候と有は武士之
本意に非ずと存るニ付、今更相止メがたき事に候。 次参勤
之節家来を多召連候義を相止メ、人少ニて罷上り候と有ハ
我等之勝手のためと云、家来之者共之為と申を以、左
様に致度事ニ候得共、惣(そうじ)て西国大名共之義ハ何ぞ御用等
も在之候節ハ可被召呼之間、其内は国元ニ休息仕罷
在候様ニとの被仰出抔も在之たる上之儀ハ格別、ケ様に参勤
交代を被仰付との儀も有之候得ば、万一之御用等をも被
仰付べくとの義有之候へハ其元ニも御存知之通、我等知行所
肥後之国之儀、海上遥(はるか)ニ相隔り候を以て、相応之御奉公
をも可申上との心懸に候へば、供に召連候人数をへらし申と
有儀ハ不罷成候、扨又我等つらに生候むだひげをそり落し
てさつぱりと致、気味能て有之とハ手前も朝夕不存ニてハ
無之候得共、若き時分此ひげづらにほう当を致シ、甲之緒
をしめ候時之心よきは只今以相わすれ難く有之候ニ付、いかに
治りたる御代なり共是又そり払候様ニは致がたく候
其元之思召寄て御申聞儀を一色も用ひ不申候段
p15
如何とハ存候得共御聞分あられ給り度との返答ニ付、佐渡守
あきれはて其段被申上候へハ 権現様御聞被遊、清正と
言事か、と迠之上意ニて御笑ひ被遊御座候と也
駿府ニて弓之師匠吉田出雲孫弟子三人御三家へ
被進候事
権現様駿府ニ被遊御座候節、以前佐々木家において家
老分ニて知行八千石取候吉田出雲と申たる者有之、此出雲
が弓之弟子に石戸厳左衛門と申たるもの、年寄て竹林と改メ
三井寺引篭居申段御聞ニ達し則被召出、於駿府若
き御旗本衆え弓之指南仕候様ニと被仰付、竹林派と申て
一派之如く在之諸人取はやし申ニ付、御旗本衆中弓之上手
餘多出来候、中ニも佐竹源太夫、内藤義左衛門と申両
人射芸勝れ候ニ付、尾張殿え師匠之竹林を被遣
紀州え佐竹源太夫、水戸江義左衛門を被遣候、則江戸
表え被仰進候は、右三人之者とも射芸に達し候を以
御三人(家か)方え御付被成候、天下をもしろしめされ候御方の
御膝もとへは天下の名人寄集ものに候ゆへ不被進候
との 上意ニ有之候と也
註
1.吉田出雲(重正)日置流(へきりゅう)三代目
2.竹林 竹林坊如成、竹林派の開祖
駿府ニて或時蜂須賀蓬庵 大野修理が噂
申上候所甚御機嫌損られし事
権現様駿府ニ被遊御座候節、蜂須賀蓬庵 登
城被致、去日頃秀頼卿の機嫌伺ひとして大坂城中
p16
江罷越候所に、大野修理私へ申候ハ其元ニハ故太閤
之厚恩ニおいてハ定て今以忘却被仕間鋪候間、此
以後何様之義ニよらず其元を頼みに秀頼ニは
思召事に候間、兼て左様に相心得候様に、と申聞候
ケ様之儀を聞捨ニ仕差置かたく候ニ付、申上候と被申上候へハ
権現様以之外御機嫌悪き御様躰に被為成、被仰候
ハ、其元ニハ若老耄など被致候に哉、其元抔被存ごとく先
年関ケ原一戦之砌、秀頼事も逆徒と共一所に
身上を不果してハ不叶次第に在之候を、我等心得を以
宥免致し差置のみならず大禄をあたへ安楽に
指置には何の不足も無之儀ニて、其元抔の口より
左様之事を被申て能き者にて候哉、との 上意に付
蓬庵 殊外迷惑致し候と也、御下心有之儀と有之候と也
註
1.蜂須賀蓬庵 (家政1558-1639)小六の嫡男、阿波大名、秀吉家臣、秀吉後は親家康派、関が原には自身参加せず、嫡男至鎮は東軍参加で領地安堵、家政は隠居して蓬庵 となる
土井大炊頭江戸表ゟ駿府へ参上之節関東ニて
ハ今以新田取立て候やとの御尋之事
権現様駿府ニ被遊御座候節、江戸表より御用之儀ニ付
土井大炊頭参上被致、彼地逗留之間ニ折節御夜
話にも被出候と也、或夜大炊頭へ被仰候ハ今以関東筋に
於は新田をひらき候哉、と御尋被成候へハ大炊頭被承
上意のごとく只今以、爰かしこ新田の場所を見立、無
油断開発仕り候旨被申上候へハ、当時二三万石とも有之
新田一所ニ出来仕候ニ於てハ其方共如何可存候哉、と
p17
上意被遊候へハ大炊頭被承、二三万石とも有之候新田出来候
有之儀は永々之義にて御座候へハ一かどの御為にも罷成候へハ
重畳之儀と可存候、と御請被申上候へハ重て 上意被遊
候ハ、二三万石とも有之古田之場所永荒に成て捨てたる
と聞候ハハ何も如何ニ存候哉と、之被仰付ハ大キ成御失つひ
之義ニ候得ば悔ましき義御座有べきや、と申上候得ば
権現様御笑ひ被遊ながら被仰候ハ、其方共ハ新田
之出来るをハ悦び、古田の永荒と成て捨り候をハ何とも
おもハずやと 上意有けれハ大炊頭、中々左様之儀ニてハ
無御座候、古田之義をハ成程大切ニ仕り、新田等之儀も古
田之場所え相障り申所に於てハ開発致させ不申、堤川除
之御普請之儀ニハ御物入之構無て随分丈夫に仕、古田
之損耗無之様ニとのミ仕候、と被申上候へハ重て被仰出候ハ、其方
なども今程大役を勤居候が随分と役義を大切に思ひ
物毎念を入れ候様に心懸候ても、人には了簡違ひ心得たがひ
抔を以致損じと云事無て不叶、夫か凡夫だけと云もの
なり、然る時ハ誰にても其仕落をとがめ正し候と有も是又
仕置の一ツなれハ、見のがし聞のがし斗致て指置と有儀ハ
ならず候ニ付、其不調法之軽重ニ隋て或ハ役儀を取上候と
か、又ハ遠慮閉門など云つけ様の品は有べき事なり。
これに仍て其身も迷惑致、先非を悔ミ了簡を仕替て向
後の覚悟をさへ致候に於てハ旧悪の儀をハ指ゆるし、其身
p18
も安堵致悦喜仕りて心まめに奉公をはげみ勤候ごとく
いたすが能キ也、左様無之時ハ其者に取セシ置たる知行之分ハ
古田の永荒に成て捨たるも同じ道理にてハ無之哉と、能
く了簡致て見候へとの 上意に有之候となり。 大炊頭
江戸表え被帰、右 上意の趣を申上候ニ付て之儀ニも有之
哉、其砌二三万石斗も取申候御譜代大名衆壱人、御番
頭衆之中に壱人、其外御役懸り之衆壱両人不調法
之儀ニ付、御前向不首尾ニて被居衆中帰役抔被仰付
たる面々も有之、又ハ其身には隠居被仰付、子息を宜敷
品ニ被召仕たる衆中抔も在之候よし、惣て 秀忠将軍
様えは 大御所様之上意とさへ有之候へハ殊の外御
大切に御用ひ被遊候となり
駿河土産巻之二
駿河ニて或時医師衆江命ハ食に在といふ事
を御尋之事
権現様駿河御城内ニて少々御不例之儀有之候所
に早速御快然被遊候節、御脈被相伺候医師衆え被
仰候ハ、御気分も御快御覚被遊、第一御食も御すすみ
被遊旨 上意ありけれハ御医師衆何レも承り、夫は
御一段之御事ニ御座候、命ハ食に有と申候得ば何より以
目出度御事ニ御座候と被申上候へハ御聞被遊、命ハ食に有と
いふ事を其方共ハ如何心得居候哉、たとへハ当歳生れの
子ハ乳を呑ませ候共過不及無之様ニと有間、親共の心得 *かふきゅう=過不足
なくて不叶、惣して人は朝夕飲食物が大事なるぞと
云ふ心にてハなきかと 上意有けれハ御前伺公の
医師衆何も被承、御尤至極なる 上意ニ御座候
命ハ食に有と申義を只今まで悪敷了簡罷在候と
被申上候と也、上意の如く食事の召過、不及の所
へ心付、むさと給さへ致候へハ能と存候段大に心得
違にて候と被申上候と也
右之趣ハ 権現様駿府ニおいて 上意ニて其
砌より御当地迠も人々の取沙汰仕と今時の俗右之
趣を 大猷院様岡本玄治え被仰聞候
上意と申触候ハ相違のよしなり
註
1.下線部分は別写本159-053より追加、
2.岡本玄治: 落穂集巻9岡本玄治法印参照
駿河ニ権現様被成御座候節阿部川町
遊女殊の外繁昌ニて町奉行彦坂九兵衛江
被仰付、躍を上覧之事
権現様駿河え御隠居被成候以後、阿部川町之傾城抔
近く候ニ付、御旗本の若き衆中遊女町へかよひ被致との
取沙汰有之。 其節駿府町奉行彦坂九兵衛気の毒ニ
被存か、阿部川町を二三里も遠所え引移し申度旨被申上
候を御聴被遊、九兵衛を 御前え被為 召(めしなされ)
御意被遊候ハ、当所之町人共を二
三里も隔て遠方え遣し候てはいかが可有之候哉、御尋ニ付
九兵衛承り、左様御座候て色々売買の障りにも罷也、町
p20
人共何れも迷惑を仕と申上候得ば、重て 上意には、其方儀
ハ阿部川町を二三里も遠所え引移し可然と申が
阿部川町に罷在候遊女共ハ売物ニてハあらずや、売物と
有ハ諸色一様のミ事成ニ、左様ニ遠所え遣候てハ阿部川の者共ハ渡 *別本ナシ
世の致し方も無之筈也、只今までの所に其まま指置候様
ニと被 仰付候と也。 其後は阿部川町の繁昌ひごろに
倍し御旗本衆中勝手衰微の族多く相成候由風聞
有之候と也。 其秋に至り九兵衛を被 召、此間ハ町方ニて
躍を仕る声御城内えも相聞へ候御覧被遊度思召候間
帯・手拭のもの迠も新に支度致ニ不及、有合之衣服ニ而
御城内え躍を入させ候様ニと被仰付候間、駿河惣町を三ツ
に割、支度を調へ御城内え躍を差上候処ニ、躍子はやし方
のものまで握り赤飯御酒など迠被下置上ケ、三ケ夜の躍相済
候以後九兵衛を被為 召、阿部川の躍ハ如何致候哉、と
御尋ニて、阿部川町ハ遊女町之義ニて相除、不申付候由申上
候得ば御聞被遊、御年寄せられ候而ハ女子共の躍をこそ
御覧被成度被 思召候へ、木男斗りのおどりハさのみ面白
思召さるとの仰ニて、それより俄に阿部川町えも躍をさし出候様
ニと有之、阿部川町中一組の大躍を用意仕、来ル幾日
の夜と相定り候処に、惣遊女共の中にて其頃人のもて
はやし候名ある女共之義ハ其名を書付差上候様ニ、と有
其夜おどりの中休ミの節に至り、右之書付に入たる
p21
遊女共の儀は御板えんの上え御あげ置候様ニと有之
壱人ツツ 御前え被為 召呼、銘々の忍名にても御聞被遊
罷在、帰り候節御次之間迠へきにのせたる御菓子を取り
頂戴致させ候とて御朋坊福阿弥小こえニなり、此以後若御差人
にて被 召呼寄候儀有べく間、左様相心得罷在候様ニと
銘々え申聞候様となり、此取沙汰かくれ無聞へ渡り候ニ付、
右 御前ニ罷在候遊女共之義ハいづれが御目ニとまり、与
風可被召呼(風与ふと)もはかり難し、左様の節御尋ニ付てハ何事
をか可申上かとの気遣を以、歴々方の阿部川町通ひ、ひしと
と相止ミ候となり
註
1.彦坂九兵衛(光正1565-1632)三河出身、1609年駿河町奉行2000石、家康死後駿河町奉行は廃止となり、徳川頼宜の家老3000石となる
駿河ニて御伽衆の内より頼朝公の噂咄仕候付
上意之事
権現様駿河御城ニて御夜話之節、御伽衆之内より
右大将頼朝公の儀ハ形のごとくなる明大将の様に申触れ
候得共、平家追討の節名代としてさしのぼせられ殊更軍
忠などにも尽されし参河守範頼、伊予守義経両人之
舎弟達を誅戟被致候、と有ハよろしからぬ事の様に取沙汰
仕候と被申上候得ば、御聴被遊外の面々の方へ御向ひ被遊、
いづれもいかが存候哉との 上意ニ付、誰も右被申上たる仁に
同意の旨御請被申上候處に被 仰出候ハ、其方共が存寄
ハ世上にて判官贔屓とてうばかか(姥嬶)共の寄合て茶のミ
雑談ニする事ニて一向用に立ぬ批判といふもの也、頼朝ハ
p22
天下をとられたる人也、惣じて天下を支配するものの事は
代をも譲り渡べきと思ふ惣領の子壱人より外ニは次男三
男と云事もなく、増てや兄弟など云て外に立置儀ニてハ
無之、親類のよしミたるを以て大身に取立、国郡之主とハ
なし置といへども外々の諸大名に少も替事とてハ是なし。
去ルによつて其面々も猶更身をもへり下り、別て 公儀を
うやまひ万事つつしみてこそ可然儀なるを、左はなくて親族
顔して我がままを働き随分の仕形に及ぶと、いかに子や
弟なれハとて見のがし聞のがしに計致置ハ、外々の諸大名共
への仕置も相立ざる義なれハ、依怙贔屓をはなれ相当の
仕置に申付と有も天下を取ものの心得の一ツ也。但シ不行義
不作法といふ計之義ならハ身上を果し、流罪などに云付
ても事満べき儀也。 既に逆心と云に至てハ死罪に行ふ
より外之儀は無之、世之治乱を考へ万民安堵の義計るが
ゆへ也。 列国の大名の心得と天下を取ものの心得とハ大きに
かハり有る事なり。 頼朝のあしきと云にてハ有べからず、との
上意にて有之候となり
駿府御城内ニ而若き御番衆寄合相撲取居候
所江 権現様被為 成 上意之事
権現様駿府ニ被遊御座候節、御城内ニて若き御番衆
寄合座敷相撲を取居申所え与斗(ふと)被為 成候付、肝を潰し
平伏被致候所ニ 権現様被仰候は、重て相撲取候ハハ
p23
畳をかへして取たるがよきぞ、福阿弥が見候て畳のへりが損
じ候とて腹をたてべきぞ、と有仰まてにて御しかりの
上意とてハ無御座候得共、諸番頭中右之次第を聞及ひ、其
後は座鋪ニて相撲停止に被申渡候となり
註
1.福阿弥(ふくあみ)家康のお気に入りだったといわれる茶坊主
駿府ニ而御足袋箱之事
権現様駿府の御城ニ御座被遊候節、大奥ニ御たび箱と
申て二ツ有之、壱ツハ新敷御足袋を入置、一度も召遣られ
よごれ候御足袋をハ別の函ニ入置、其函つまり候と申上候へハ
皆々御取出させ被遊、其ふるき御足袋の中にてうす
よごれに見へ候を二三足ほどツツもとの函え御入させ置
被成、其外ハ捨よと有之 上意にて下々の女中共ワけ
取に仕候となり。右函のうちへ残し置たる御足袋を被為
召候義にてハ無御座へとも、古き御足袋とて残らず捨よと
有之 仰は無御座候由。 御帷子御汗付候へハすすがせよとの
上意にて洗濯致たる御帷子有之候得共、被為 召たる儀は
無之候となり
右は紀伊頼宜公の御母儀養祥院殿御物語
を承り候由、去ル老尼の咄書留メ申候なり
駿府ニ而御伽衆の御咄申上候節京都ニて
神鳴町家江落候由被申上候得ば夫ニ付
権現様 上意之事
権現様駿府ニ被遊御座候節、御夜話ニ罷出候衆中、此
p24
間上方より罷下り候者の物語仕候ハ、京都上立売辺
の町家え神鳴落候て、家内のもの六七人程不残あやまち
を仕、其内二三人計も即座に相果候よし、前ニも雷の落候義
も度々有之、其節壱人損じの義も有之候得共何も壱人か
弐人の事候、此度は其家内に居合候程のものども残りなく
雷に打れ候ニ付、いか様何ぞばちにて有之候哉と専取沙汰
仕候と申上候へハ 権現様被 仰候ハ、それハ一間なるセまき所へ
寄集り居たる所へ雷落かかり候を以、残らずあやまちをいたし
たるもの也、何の罪ニてもたたりにても是なし、との 上意ニて
御三人の若き御子様方え御付置被遊面々を被 召呼、向後
雷の強く鳴候節ハ御三人の御子様方を(一ツ所ニ)置不申候様ニと被
仰渡候と也
註
1.三人の子 家康の末子達、九男義直(1600生れ、後の尾張公)十男頼宜(1602、紀州公)十一男頼房(1603 水戸公)か
京都大仏殿炎上ニ付淀殿より江戸 御台様江
御願之事
京都大仏殿炎上之以後、秀頼卿の御母儀淀殿より江戸
御台様之御方え御内々を以、御願候は京都大仏殿本尊
計之儀は秀頼より再興あられ候義ニて、既に其沙汰に被及候
處に受負候鋳物師共の不調法を以、鋳形より出火いたし
以前より有来殿閣共に焼失に及び候に付、秀頼之建立には
成兼候間、関東より御合力に被及度由ニ付、江戸表に於て彼是と
御相拶など有之、幸ひ其節御用之儀ニ付本多佐渡守
駿府へ罷越れ候ニ付 大御所様の御聴ニも被達候様ニと
p25
有之、駿府ニおいて御用之序佐渡守右之趣を被申上候得ば
権現様被仰候ハ、淀殿儀は女儀ニも有之 将軍ニも未だ
年若き事也、其方などのよき年にて左様の筋なき
義を我等え云聞遣候と有は沙汰の限りたる義なる、との
仰にて流石の佐渡守当惑致シ被居候處、重て被 仰候ハ
其方などもとくと了簡致て見よ、南都の大仏の事は
聖武天皇勅願を以、本尊堂ともに建立あられたるもの儀
也、然る所に源平の取あひの節平中将重衡兵火を放て
堂を焼失に及ぶとなり、然るに於ては、時の天下取の儀なれ
ハ右大将頼朝より建立可被致儀なるを、俊乗坊と西行法師
と心を合、諸国勧進して建立を遂たると也。 聖武帝勅
願の大仏殿さへ頼朝ハ構へ不申候と見へたり、ましてや京都
の大仏と有は太閤の物好を以建立いたし置たる儀なれハ、親父
の志を相立て秀頼の建立被申べくハ格別、将軍より構ひに
被申事ニハあらざるよし、其方江戸え帰り候ハハ 将軍へ可申達と。
上意ニて同く仰出候ハ、大仏の事斗りに限らず惣じて
日本国中は古来よりの由緒有堂仏閣等は数限りも
無義也、其由緒をさへ云立れば悉く取上ケ修復建立不申付
して不叶といふ事ニてハ有べからず、幾重にも用捨勘弁の有べき
義也、増てや大小によらず寺社等を新に建立などとある儀
は甚以無益之事成べしと 将軍え申達シ、年寄ども
へも能々申聞候様ニと 上意被遊候と也
註
1.御台様:(於江与1573-1626)秀忠将軍正室、近江の大名浅井長政の娘で母は織田信長の妹お市、秀頼母淀(1569-1615)は同母姉に当る
2.京都の大仏: 秀吉が1586年に奈良の大仏より大きい大仏の建立を始めて1595年に方広寺に完成したが、1596年の文禄の地震で倒壊していた(落穂集巻巻三伝奏屋敷参照)。秀頼の再興開始は1602年
3.俊乗坊:(重源1121-1206) 1181年東大寺大勧進職となり、前年破壊された
大仏殿再興に取り組み、1185年開眼となる。
4.西行: (佐藤義清1118-1190)平安時代の武士、22歳で出家して高野山で修行中俊乗坊と知り合う、大仏復興に資金調達で協力する
5.平重衡:(1157-1185)平清盛五男、清盛の命令で反平家勢力の拠点である東大寺・興福寺を1180年焼き討ち。 其後一の谷の戦いで源氏に敗れ捕虜となる。奈良から引渡要求があり大仏破壊の罪で処刑される。
p26
権現様御隠居前御旗本之面々并外様大名
衆迠被 召仕様の義を 秀忠様江被 仰遣
候之事
権現様御隠居前 秀忠様え被 仰遣候ハ旗本
小身之面々え御目を被懸、御念比に被 召仕候儀を肝要
と可被思召候。 おなじ大名といふ内ニも三河以来御当家の
御取立に預りたる譜代筋目の面々ハ格別、古来より国郡
の守護と備りたる外様大名之儀は、我等が家を大切と思ふ(を以)*別
本
何方被成とも、強き方え付て弱きを捨ると有ハ古今の定れる
事なり、それを不届といふべき事にはならず、其筈の儀
と心得給へと被 仰候となり
右は 台徳院様御直の 上意にて承り候と有
儀を八木但馬守被申聞候也
註
1.八木但馬守(守直1603-1666)但馬の豪族の流れで江戸前期の旗本、
秀忠近侍4000石、家光にも仕える
秀頼伏見城ニて討死の諸将之首実検ニ付、御不
審之事
関ケ原の砌九月廿四日大坂表え 秀忠様御越被遊候刻
大名分之面々十六頭被 召連候と也、大坂え御着陣被遊候哉
いなや城中え御使を御立、今度伏見之城ニて討死を遂
候鳥居彦右衛門尉元忠、松平主殿頭家忠、同五左衛門三人
者共之頚を当地え実検被致候有上、其一乱之儀秀頼
企と有に紛無之候ニ付、御攻殺可被遊との御口上ニて城中大きに驚
秀頼之母義淀殿御請被申上候ハ、秀頼未幼年之ことニも御
p27
座候へハ一乱企候義ハ申ニ不及、頚実検の義も毛利輝元其外
奉行共之仕業ニて候、秀頼存たる義ニハ無之旨段々御詫云
之趣、 秀忠様より京都え被仰越候処ニ 権現様御
聞済被遊、秀頼之義ハ御赦免あられ向後之義ハ、御蔵
米七拾万石ツツ行れ候旨被 仰出候と也、夫迠之義は諸家の
旗をも張立一戦の支度ニ有之候處に右之通、秀頼
安堵の儀を被 仰出候以後、諸手共に持旗等を治め
休息仕候と也
註
1. 伏見城での討死の将: 落穂集巻三伏見城の討死参照
駿河土産巻之三
駿府御城不明御門番ハ小従人衆江被 仰付候所
或時村越茂助御使罷出刻限延引ニ付御門
不通之事
権現様駿府ニ被遊御座候節不明御門番之儀ハ小従人
衆被相勤候哉、或時村越茂助清見寺え御使に被参、及
日暮に帰宅之節御門外え来り、村越茂助ニて候、御使に
参り只今帰り候、御門御通し給はり度と申候へ共はや
刻限過候ニ付、此御門よりは不相成候と有之所え安藤
彦兵衛御門を通り被懸、村越茂助ニ紛無之候、御門明ケ
p28
通し申様ニと申付候へかし被申候得ば、小従人衆被申候は各
中は当時重御役をも被勤人達の口より左様の儀を被
申て能ものニて候哉、日暮候て以後此御門を明ケ候有儀ハ
決て不罷成候との答ニ候となり、此儀 権現様之御聴ニ
達し右両人の小従人衆え御加増被下弐百石取ニ被成、両人
共ニ紀伊国殿江御付被遊候と也
註
1.村越茂助(直吉1562-1614)家康家臣300石、関が原後壱万石
2.安藤彦兵衛(帯刀直次1555-1635)家康側近、1610徳川頼宜の付家老、紀州田辺三万八千石城主
駿河ニ而或時本多上野介、松平武蔵守が噂申上候ニ付
上意之事
或時 権現様御前ニて本多上野介松平武蔵守が噂
を被申上候へは、武蔵守ハよく筑前中納言に似たるぞ、と有
権現様之 上意を上野介心得候は、関か原において御約
束のごとく御見方被致たるを以の仰と被存候ニ付、随分律儀
なる人ニて御座候と被申上へハ、いや左様ニてハなきぞ、もはや五十
万石共領地するものハ親兄にも目を懸たるが能なり、律
儀なると云計ニて済事ニてもなしと有 上意にて候と也
註
1.本多上野介(正純1565-1637)本多佐渡守の子、家康が大御所の時駿府で家康を補佐し、江戸の秀忠は父佐渡守が補佐した。 後秀忠の宿老として権勢を振るい他の老中及び秀忠にも疎まれ失脚する。出羽横手に流罪
2.松平武蔵守(池田利隆1580-1616)父は池田輝政(1564-1613)父子共に関が原では東軍に味方、戦後輝政は播州姫路52万石となる、輝政継室は家康の次女督姫、利隆正室は秀忠の養女
3.筑前中納言(小早川秀秋1582-1602)秀吉の親戚の子に生まれ、秀吉の養子となり、更に1594年小早川隆景の養子となる、翌年隆景隠居により筑前、筑後、肥前の一部30万石となる。石田三成と不仲で関が原では西軍から東軍へ寝返ったと云われている。戦後岡山五拾五万石となったが狂死
権現様伏見城ニ被遊御座候節、松平新太郎殿
始而 御目見被仰付候節之事
権現様御代之義ハ不及申 台徳院様御代之頃迄
ハ世上ともに万事手軽義共に有之 公儀之御規式
とも急度相定りたる御様子も有之たると申ハ無御座候
となり、 権現様伏見之御城ニ御座被遊候節、松平新太郎
六歳になられ候時初て 御目見被 仰付候節、白き御小袖
P29
御頭巾を被為 召(めしなされ)御脇指をも御さし不被遊御側脇に被為置(おきなされ)
あれぞ武蔵守が子か、丈夫なる産レ付ニて一段之事と有
上意にて有之候なり。 其後 秀忠様御代となり新
太郎成人ニて江戸え下り始て 御目見被申上候節、織田
常真ハ大あぐらをかき、上座ニて碁を見物致し被居候
御座敷ニて 御目見被仰付(おめみえおうせつけられ)候刻、新太郎そこへはいりやれ
伯耆ハ雪国の由聞及たるがそふでおぢゃるか、勝手え行て
食を喰やれ、大炊同道セよとの 上意に御座となり。 御勝
手へ立御料理を給被申時(たべもうされるとき)、一座之衆十三人有、上座ハ織田
常真、其次之座へ大炊頭差図ニて松平新太郎着座
被致候と也。其節之御料理蕪(かぶ)汁におろし大根、なます
あらめ煮物、干魚の焼物ニて有之候と也
右は新太郎殿へ直物語ニて慥成(たしかなる)事之由也
註
1.松平新太郎(光政1609-1682)池田利隆の嫡子、母は秀忠の養女(榊原康政の娘)六才時の家康へのお目見えは大坂冬夏の陣の頃、家康が伏見城に滞在中と思われる。成人後の秀忠への御目見えは秀忠が大御所になる前後かと思われる
2.織田常真 織田信雄(1558-1630)の出家後の名前、大和宇陀五万石
権現様醍醐之定行院科之儀ニ付遠島被
仰付候事
権現様在世之内醍醐の定行院科之儀(とがのぎ)在之
遠島被仰付候節、伊豆大嶋を御預被置候井出志
摩方え板倉伊賀守書状を被相添たる迠ニて事済
候となり
註
1.井出志摩(志摩守正次1551-1609)元今川家臣、1558家康に仕え駿河・伊豆の代官を奉職。
2.板倉伊賀守 京都所司代、落穂集巻六参照
駿府ニ而奥方の女中松下淨慶をにくみ候ニ付
権現様 上意之事
権現様駿河ニ御座被遊候節御奥方の若き女中寄
P30
集り居られ、あの淨慶坊程にくき事ハ無之と口々に
しかりしを権現様御聴被遊、年寄女中衆を被召、淨
慶が事をハ何ゆへあの如くにも何れもにくみ候哉、と
御尋被遊候へハ、いや別の事にても御座なく何れも申候は
浅漬の香物余りに塩からく御座候ていづれも給兼たるニ付、
今少シ塩をひかへて漬候様に申付給ハリ候様、と淨慶殿へ
度々頼遣しとても、今に塩からく候ニ付ての事ニ御座候、と被申上
候得は 御聴被遊、それハいづれも腹立するが尤なり、塩
からく無之様ニ云付てとらすべきにと有 仰にて、其後
御表に於て淨慶を被為 召、右之趣被仰付候得ば淨慶
ハ御側へはいより何事をやらんひそかに申上候を、御笑ひ
被遊ながら御聞被遊候となり、其節 御前ニおいて見給ひ
被申たる御近習衆不審ニ存じて淨慶に逢ひ、其節は
何事をひそかに被申候哉との御尋ニ付、淨慶答へ候は、いや別ニ
替りたる義ニても是なく、各中も御聞候如く大根の香の物
の儀を 御意ニ付、只今の通塩からく仕給させたるさへ大
分に入申事ニ候、女中共の好のごとく能塩かげんに致し
給させ候ハハ何ほど入可申も計りがたきニ付、左様ニは成不申候
御前様ニは御聞不被遊候分ニて御座なされたるが能御座候との
淨慶申分に有之候となり
右松下淨慶ハ其節御台所頭ニても有之候哉、今以
駿府御城内ニ淨慶蔵、淨慶御門などニて有之候と也
P31
関ヶ原御合戦後浅野左京太夫御加増被下候砌
後藤庄三郎熊野参詣之儀ニ付而 御尋之事
関が原御合戦以後浅野左京太夫幸長、夫迠ハ甲斐
の国主ニて被居候を、御加増ニて三十七万石余の知行高ニて
紀伊国を拝領被 仰付候砌、後藤庄三郎熊野山え
参詣仕り其後江戸表江罷下り候節、 権現様被
仰候は、其方先頃熊野山え罷越候よし帰京之節紀伊
国え見舞候哉との 御尋ニ付、上意のごとく和歌山の城下に
十日余りも逗留仕罷在候申上候へハ重て御尋被成候ハ、逗留中
紀伊守ハ何を馳走に被申付たるぞと 上意、紀の川と申候て
吉野高野の麓より流れ落申候大河御座候、此川え船にて
被出候供に参り、あみをおろし魚をとらせ被申候を見物
仕、其後山鷹野に被出候節も罷出申候、是ハ殊のほかめざま
しき見物事ニて御座候、此山鷹野の儀に付今において
私などの合点のまいらざる儀御座候と庄三郎申上候得ば、
それハ何事ぞ、と有 御尋ニて、雉子、山鳥、其外鹿、むじな
のたぐいにても物数多く取れ候間、定て機嫌能可有之候と
存候へハ大きに腹立致され、勢子、奉行をはじめ其外役
かかりの者共迠散々にしかりに逢申如く有之、又一度之
山鷹野ハ何もとれ不申、殊のほか物数もすくなく有之候間
定て不機嫌に可有之かと存候へハ、一段と機嫌能諸役人共
骨を折大儀にも存候などと有之候て、褒美被致ごとく有之
P32
候と申上候へば 権現様御笑ひ被遊、夫ハ其方共が合
点のゆかざる筈の事なり、紀伊守がせらるるがまことの
山鷹野といふものにて、物数の多少にかまひなき事なり、と
上意被遊候となり
註
1.浅野左京太夫(幸長1571-1613)豊臣五奉行の浅野長政の嫡男で石田三成と対立、関が原では東軍で参加、紀伊守、病死後子供なく弟長晟が紀州藩継ぐが後広島に転封
2.後藤藤庄三郎(光次1571-1625)秀吉の経済官僚だったが後家康の下で金座.銀座主催(御金改役)
権現様所々の御合戦に何流と有る御軍法
御用ひ不被遊候事
権現様には御年若く御座被遊候節より数度之御
陣に御立被遊大場小所に於て御合戦・迫合等に
御出合被遊候へ共、 何流の御軍法を御用ひ被遊候と有
儀も無御座、其時々の様子により御見合次第御下知被
遊いつとても御勝利にまかせられ候となり、然ル所に天正年
中尾州長久手において豊臣太閤秀吉の大軍に御
むかひ被遊、小勢の御味方を以大き成御勝軍有、此後近
年の間に豊臣家と徳川家との大合戦なくて不叶
と世上に於ても専取沙汰仕、御家中諸人之儀猶以
其覚悟に有之候となり、 然ル処に三州岡崎の城主
石川伯耆守別心被致、御家を出発有之太閤え随
身ニ付、御家大小の諸人存ハ右伯州儀は同じ御家老
中と申内にも酒井左衛門尉、石川伯耆守両人の儀は
いつとても御先手を被致、其身の武功なども勝れ候を以て
御家の壱人共可申如くの仁、敵方え降参と有てハ御家の
軍立の模様なども委細敵方え相知レ申ニ付、此已後豊
P33
臣家との御一戦と有ハ万事被遊にくき御事なるべし、あぶのめ
の抜たるとハケ様の事かと有て人々くやみつぶやき
候處に、権現様には伯耆守欠落之儀を何共思
召れざる御様躰ニて、一段と御機嫌宜御座被遊候を以て
御家中諸人不審をたて申如く在之候と也。 然ル處に
其頃甲州の御郡代鳥居彦右衛門尉方え被 仰遣候ハ信
玄時代被申出たる軍法等の書付、其外信玄之用候武器
兵具の類何にやらず国中え相触取集、浜松之御城
内え持セ越候様ニと被仰出、其奉行ニは成瀬吉右衛門、岡部
次郎右衛門両人を被 仰付、惣元じめ之儀ハ井伊直政、榊原
康政、本多忠勝此三人立合之吟味に被 仰付并御家へ
被 召出候御直参の甲州衆之儀は申不及、井伊兵部え
御附人に被成置たる面々などへも信玄時代のことをさへ有之
候ハハ何事ニよらず申上候様ニとの儀ニ付、悉く被取集被遊御
吟味之上にて御家諸色の義を信玄流に被遊かへさセられ、
其年の霜月上旬の頃に至り御家御軍法万事之儀
自今以後武田流に被遊候間、左様相心得候様ニと御旗本中
之儀は申ニ不及家中末々のもの共迠承知仕ごとく御触
御座候と也。 其年北条氏政・氏直父子領分之境目見分
として、国廻り之序に三島えも可被相越之旨風聞有之候
ニ付て 権現様より氏政え被 仰遣候は、我等義多年
御隣国に罷在、其上近年之儀は御縁者にも罷成候得共
P34
いまだ御息氏真えも對面不致候處、幸此度三島迠御
越之旨承及候間、御父子え懸御目候給仕度と有之旨、被
仰遣候處に氏政返答被申候ハ、被仰越趣致承知候兼て
此方ニも左様に存寄罷在候事ニ候間、今度三島迠罷出候
節、木瀬河を隔て可懸御目との返答被申候ニ付、木瀬河
をへだて御対面申と有ハ悉く皆隣国会盟之作法のごとくにて、
御縁者に罷成たる詮も無之世上の聞へもいかがに候間、我ら
三島え参懸御目候、御旅館之儀と申御心安き事にも候へハ
御馳走がましき義を必以御無用に候、と可被 仰越との儀を
酒井左衛門尉承ハられ 御前え罷出被申上候は、今度北
条氏政父子え御対面可被成候旨被 仰越候所に、氏政
殿より木瀬河を隔て可被懸御目との御返答を被申
越候よし、左様なるうつけたる事申ありたる候如くなる仁え
御逢被成度と有るハ詮なき御事ニ候、此度三島え御越被遊候
御対顔被成においてハ、北条家の旗下に御成被遊たると世上
に於て取沙汰可仕は必定に候、左様候てハ御家の名折に
罷成候間、御無用に可被成候と達て被申上候得共、御同心不被遊思
召通り被 仰遣候へハ、氏政殊の外成悦喜に有之大道寺
孫九郎・山角紀伊守両人を以御馳走奉行に被申付。
御出之日限相究候ニ付、前日ニ至り沼津之城迠御越被遊
当日になり三島え御越被成候処、終日終夜の御馳走有之
候となり、御帰り之節沼津の城の外廊之堀・矢
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倉を取こぼち候を北条家御見送として参候使者を
被 召呼御見を被成、今度父子之衆え面談申うへハ弥
以御心安き間がらにて堺目の城には不及と思ひ外曲輪
之要害をハ取崩さセ候間、其方能見置此趣を氏政
氏直父子の衆へ申述候様、と有御直ニ被 仰渡候となり。
右之次第世上にかくれなく上方へも相聞へ候を、扨は徳
川家と北条家は元来縁者たるが猶又今度如何様
成云合セニても在之候哉、と諸人うたがひをなし、就中一切の
軍法を信玄流に御改かへ候との取沙汰有之、以後とても
秀吉卿石川伯耆へ被懇意に於テハ何の代りたる様子
も無之候得共、秀吉卿の旗本に於てハ諸人共ニ石川伯耆
事を古暦とあだなを付て唱へ候となり、其後近年
に徳川家と手切レ之大合戦可有之との風伝なども
相止ミ候よしなり
註
1.石川伯耆守(数正1533—1592)家康三河時代の重臣であるが1585年突然秀吉に走り信濃十万石拝領し1593年病死、子の時代に家康に改易される
2.酒井左衛門尉(忠次1527-1596)三河以来家康家老、徳川四天王
3.山角紀伊守(定勝1529-1603)北条家評定衆、敗戦後氏直に従い高野山に上る、氏直死後井伊直政に召出され相模に封を得た
4.大道寺孫九郎(駿河守政繁1533-1590)北条重臣、作者友山の曽祖父北条家滅亡時氏政等と共に秀吉に切腹させられる
権現様御軍法御咄之事
権現様或時 上意被遊候ハ、今時の人之頭をもするもの
共軍法立をして床几に腰を懸、采配を以人数を
さし遣ひ、手をもよござず口の先の下知ばかりにて軍に
勝るものと心得てハ大きなる違ひなり、一手の将たるもの
が味方諸人のほんのくぼばかりを見て居て合戦など
に勝るものニてなしと被仰候と
註
ほんのくぼ 首と背中の繋ぎ目
権現様駿府御城に被成御座候時尾張・紀
伊国両家え御家老職被 仰付候事
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権現様駿府ニ被成御座候節、尾張殿、紀伊殿御両
家へ御家老職之仁壱人ツツ御付可被成との思召ニて松平
周防守、永井右近両人え御内意有之候処に右両人共ニ、
たとへ御草履を取候て成とも其侭御旗本に御奉公
申上度との願ひニ付、御免被成との取沙汰なども有之候
ニ付、其跡ニてハ人によりちと御上よりも被 仰付にくく下ニても
御請も仕難く可有之と諸人ささやき合候となり。
其折しも、ちと御持病抔も御差発り被遊、御食事
の御すすみも無御座、夫故御鷹野にも不被為成候と也。
其時安藤帯刀、成瀬隼人両人打寄ひそかに相談被
致候は、此間 大御所様ニは御両殿え御付人の儀をことの
外御苦労に被 思召候との御事ニ候、何を仕るも御奉公の
事ニ候間、両人申合御願ひ可申上との儀ニて私共様成不調
法ものニても不苦被 思召候ハハ 御意次第御両殿え御
奉公可申上、と有候得ば 権現様ことの外御機嫌にて
両人之心ざし御満悦被成、御両殿様えハ御付置被成候
得共、只今迠之通り 公儀之御用等を不相替可被仰付
候間、左様ニ相心得可罷在之旨被 仰渡、 尾張殿え成瀬
隼人正、紀伊殿え安藤帯刀を御付被成候、其後水
戸殿え中山備前守を御付被成候と也
註
1.成瀬隼人正(正成1567-1625)家康に小姓として仕え近侍、家康隠居に際し駿府へ呼ばれ大御所政治の一端を担う、年寄のまま慶長12(1607)年尾張付家老となる。家康死後1617年年寄を辞して尾張に専念し犬山城主となる
2.安藤帯刀(直次1554-1635)幼少より家康に近侍、慶長15(1610)家康年寄のまま紀伊付家老となる、家康死後紀伊家専念し元和二年遠近江2万石、
3.松平周防守(康重1568-1640)1608丹波篠山五万石
4.永井右近太夫(直勝1563-1640)下総古河七万二千石、長男尚政は秀忠時代の老中
5.中山備前守(信吉1576-1642)家康に小姓から仕える、1609年水戸家付家老となる
大坂落城之時茶臼山より御覧
被成候節之事
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大坂にて五月七日落城之節、城方の者共と相見へ四
五百人斗(ばかり)にて一所にかたまり居候を 権現様茶臼山
のうへより 御覧被遊、幸ひの事ニ候間、尾張・紀伊国
御取餌被成との 上意ニて御両殿共に早々御越
被成候様との御事ニ候得共、少々御延引ニて御使役衆を被
召、隼人の腰ぬけめに右兵衛をはやく連れてうせをれと
いへ、との 御口上をとりもなおさず尾張衆何れも承り候
所にて被申渡、隼人聞もあへず、此隼人は終に腰をぬ
かしたる覚無之候、左様ニ被 仰候御人こそ武田信玄に
御出合あられ候節腰を御ぬかしあられ候、と諸人の承る
ごとく大声に被申となり。 御陣以後隼人名護やより
駿府え参上して 権現様の御前え罷出被申上候は、
去る頃大坂落城の日義直公を茶臼山へ被 召呼
候節、少々御遅参候とて御腹立被遊、重て御使を以
隼人の腰ぬけめぞ早々御供仕候様ニと被 仰下候、私儀
はしらみ頭(あたま)の節より御心安く被 召遣たる者の儀に
御座候得ば、如何様ニ御口ぎたなく被仰ても其通り之事
ニ御座候、 御前様の御口上之通りを其侭ニて諸人の
承ると何事考へもなく、私え申聞候如くなる勘弁も無之もの
共に、御使番抔と申大切なる御役儀を被 仰付差置候と
有は不可然候、 右兵衛様今程御年若ニも御座被成候得ば
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尾張一家中にても私儀を鑓柱の様にいづれも存入れ罷
在候所に、隼人の腰ぬけめなどと有御言を蒙り候てハ、私
儀ハ重て口もきかれ不申、諸人の存いれもちがひ申候ニ付、其
節恐れがましき御返答を申上候間、定て御聞ニも相達し
可申と其段恐入候と被申上候得ば 権現様御聞被遊、
それは其方が申所尤至極也、との 上意に御座候
と也
註
右兵衛 尾張藩主 徳川義直(1601-1650)の十五六才当時の官職 従四位右兵衛督