脇村正夫著 論文/史資料集 2 令和3(2021)年11月開始
< 連絡先 Email:wakimura365@gmail.com / Tel.Fax:042-794-6249 >
1. 幕末維新史研究会 テーマ資料集
2. 脇村正夫著論文&史資料集
3. 論文: 改定版『長州藩奇兵隊第三代総督赤禰武人「斬罪」の意味』
◎論文、史資料の正規印刷仕様を贈呈いたします。連絡下さい。
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幕末維新史研究会< 研究テーマ集 )第1回-第38回
◎幕末維新史研究会
日時:毎月第三または第四土曜日に開催
会場:東京町田/木曽森野コミュニティーセンター
◎幕末維新史研究会 / 第 回テーマ
日時:令和年月日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
◎幕末維新史研究会 / 第38 回テーマ 王政復古 戊辰の役
日時:令和6年7月27日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十八回テーマ]
日時 令和六(二〇二四)年七月二十七日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p773‐p791を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第六章 王政復古
第五節 戊辰の役
尾越土三藩の周旋
徳川慶勝・松下慶永及び山内豊信等は、之(慶喜による辞官・納地の奏請)を聞いて大いに憂え、相議して、朝命を以てせず、慶喜より奏請せしめることとし、其の文案を作成した。
よって慶応三年十二月十六日象二郎・雪江等をして、文案を具視に呈して、同意を求め、討論を重ねた結果、辞官の外に領地返上の字句を削って「政府御用途の儀も、天下の公論を以て所領より差出し候様仕り度く存じ奉り候事」というに定まった。具視は之に同意すると共に、慶喜の必ず上京して此の奏講を為すすべきことを命じたのである。
斯くて辞官・納地のことは稍々緩和せられたのであった。然らば舊幕府側は、此の奏請案を以てする尾・越二侯の周旋を容れるものであったか。
同日、雪江が二條城に留まっていた永井尚志に、之を内示したるに、尚志は一見抗議して、將軍の官位は将軍職に属するものではないから、辞官というは一向に當らず、又領地返納の事も、今更朝命がなくとも、禁裏の御指支を傍観せず、献貢せんとの台慮である。
畢竟これは体のよき降官・削地の御沙汰てあって、将軍を有罪者としての御取扱であると憤激し、假令将軍が畏み奉承せられても、老中板倉勝静や自分共に於いては不服である。
曩に朝敵の汚名を受けた長州藩すら入洛を許されたのに、将軍に何の罪があって然るや。
大坂城中の紛擾を鎮静するには、事態を十二月九日以前に復し、斯かる不都合を巧み出した奸物を除かざるべからずとさへ、激語したのである。
尚志は幕府有司中、平素穏健を以て知られ、且つ事理を解する著と見られていたが、彼にして猶此の言を吐いたのであるから、他は推して知るべきであった。
尋いで象二郎は雪江に代って尚志を誰得し、相伴って慶勝の宿所に赴き、慶永・雪江等と協議し、慶喜が上洛せば、慶喜は辞官・納地の事を尾・越二侯へ申出で、二侯は之を書取として奏聞し、共の勅許の下ると同時に、御召によって参内、議定職に補せらるべしというに手順を定め、十八日尚志は雪江等と共に大坂に下ったたのである。
挙正退奸の奏聞書
翻って慶喜を迎えた大坂城中の情勢如何急
に。急を聞いて江戸より上坂する舊幕府有司、麾下の士は日を遂うて増した。
而して戦を主とする者は、薩州藩と雌雄を決
し、去る九日の変革を停め、列藩衆議の結果を以て、改革を奏請すべしと論じ、其の勢が城中を圧するに至った。
斯くて慶喜は若年寄並平山敬忠・大目付戸川安愛(やすなる)等の説を抑える事を得ず、安愛を上京せしめ、挙正退奸の表を上らしめようとした。表は慶喜の名を以て草せられ、其の要旨は、臣慶喜は宇内の形勢を熱察し、政令の一途に出でんことを翼う微衷より、祖先以來継承の政権を奉還し、朝廷は広く列藩の意見を徴せちれて、不朽の基本を樹立せられるよう建白に及んだのである。
然るに料らずも在京諸侯への御諮詞も行われず、一両藩戒厳の下に、未曾有の変革が行われた。
是に依って故なく前朝の厚く御遺託になった摂政を罷め、宮・堂上等を排斥せられ、之に代えるに前朝負譴の公卿を擢用せられ、陪臣の輩は玉座近くを徘徊して、数千年來の朝典を汚せる状は、曩に仰せ出された朝旨と反し、実に驚愕の至に拝する。
當今猶御幼冲にましますに、斯かる次第に立ち至っては、天下の乱階ともなり、萬民の塗炭は眼前に迫り、寔に恐耀の情に堪えず、是即ち臣慶喜が今日深憂に堪えぬ所である。
願わくば公明正大、速かに天下列藩の衆議を尽くされ、正を挙げ奸を退け、萬世不朽の国是を定め、上は宸襟を寧んじ奉り、下は萬民を安んじたきが至願であるというのであった。
即ち正に朝廷の御処置に対する弾劾文であった。
之に加え、此の奏状案を諸藩に示して、趣旨に戚激する面々は、兵を提げ速かに上坂すべしと激したのである。
戸川安愛は十八日の夜、之を携えて入京し、総裁職熾仁親王に上らうとしたが、戸田忠至は之を遮り、岩倉具視に示した。
具視及び之を知った松平慶永・山内豊信等は大いに驚き、安愛に暁諭して、上表を尾・越二侯の手許に抑留し、且つ慶喜の上洛を促ざしめたのであった。
辞官納地に関する最後の朝議
慶喜は安愛の報告を聞いて、上京の意を示したが、城中の幕臣等は之を以て危地に入るものとし、寧ろ大挙上京して、君側の奸を清むべしと主張する者が多かったので、其の発途を躊躇した。
よって二十一日、慶喜は書を慶永・豊信に寄せて此の苦衷を所え、朝廷より公然召命があれば、臣隷を諭得して、速かに上京せんと告げたのである。
當時尾・越・土三藩の間にも、朝命を以て慶喜を召すべしとの議があった際なので、届・越二藩から之を奏請した。
二十三日総裁以下三職を召されて、辞官・納地の事を評議せしめられた。
慶勝・慶永は予て起草せる諭書案を提出して、朝廷より辞官・納地の事を命ぜられるならば、臣等は之を奉じて下坂し、慶喜をして奉命上京せしめんと陳ベた。
其の諭書案には、慶喜の辞官聴許の後は、前内大臣と称せしめ、政府の用途は総て天下の公議を探りて、御決定あるべしとあって、領地返上の字句がなかった。
参与中には之を以て不可とし廟堂の議論は沸騰した。
即ち領地返上の事がなくては、政権返上の実効たち難しというのであるが、豊僖・慶永等は此の字句があっては、到底大坂を説得し難しと論じて下らず、朝議は遂に鶏鳴に及び、一旦解散したのであった。
翌二十四日再び朝議が開かれたが、依然として論戦が行われ、何時果つべしとも見えなかった。
然るに後藤象二郎を始め尾・越二藩士が、堂上諸卿の間を必死遊説した事が効を奏し、朝議は遼に決し、総裁熾仁親王から左の御沙汰書を慶永・慶勝餓軌枇に授けて、之を慶喜に伝達せしめられた。
一、今般辞職聞し召され候に付ては、朝廷辞官の例に倣い、前内大臣と仰せ出され候事。
一、政権返上聞し召され候上は、御政務用度の分、領地の内より取調の上、天下の公論を以て御確定遊され候事
右両権心得迄御沙汰候事
是に於いて同二十六日「慶永及び尾州藩附家老成瀬正肥は下坂して、御沙汰の旨を慶喜に伝えたが、慶喜を始め在坂の有司は、軌れも異議なく朝旨を遵奉する旨を答えた。
よって二十八日、慶喜は慶永・正肥に左の請書を託して上奏せしめた。
辞官の儀は前内大臣と称され可く、御政務御用途の儀は、天下の公論を以て御確定遊ばされ可く
との御沙汰の趣、謹みて承け仕り候段、申しあげらる可く候事
慶喜は之に添えて、政府の経費は全国に高割を以て課するに非ざれば、城中の衆心を鎮撫することを得ないと稟奏した。
晦日慶永等は参内して、慶勝との連名を以て復命書を献じたが、慶喜の奏上した全国高割の件は、豊信等とも議り、紛議の起らんことを避けて、之を奏聞しなかった。
今般御沙汰御座候両事件の趣、慶喜へ申聞き候処、謹み承け仕り候旨申出候。此の段申上條。
斯くて辞官・納地の問題を繞(めぐ)る京坂両地の妥協が成立し、慶喜は機を見て上京すべき筈であった。
然るに會津・桑名の一二藩及び大坂城中に於ける幕臣等の主戦論は、依然として熾烈なるものがあり、形勢は決して逆睹すべからざるものがあった。
此の時に當って岩倉具視等及び薩・長二藩に、新しき勢力を加えたものは、実に三條實美等の帰洛であった。
三條実美等帰洛
曩に官位復旧・入京許可の恩命に浴した三條西季知・三條實美・東久世通禧・四條隆謌・壬生基修は、十二月十九日太宰府を発して、帰洛の途に就き、二十七日京に着して、直ちに参内し、実美は議定に、通禧は参与に任ぜられた。
また久しく身を四国・長州に潜めていた澤宣嘉も、同二十八日三田尻を発して、上京の途に
就いたのである(翌年正月二十二日帰京、二十五日参与に補せらる)。
江戸薩州藩邸焼打
是より先、京攝間の形勢は、山爾將に來らんと欲して、風楼に満つるが如くであったが、俄然金鼓の晋を高く響かせるに至った。
是は実に江戸薩州藩邸焼打の飛報によるのである。
西郷吉之助は早く時局の打開は、兵力に依るの外なしと洞観していたが、事端を関東に起して、徳川氏を激せしめ、戦が起れば東西相応じて、之を牽制せんと企てた。
乃ち同藩士伊牟田尚平・益満休之助を東下せしめ、大いに浪士を徴募し、江戸市中及び其の附近を騒擾せしめた。
相楽総三・落合直亮・権田直助等五百余人は、薩州藩邸を本拠として江戸の内外を横行し、或は豪商民家を劫掠し、或は幕吏の邸宅を襲うて殺傷するあり、十二月に入って益々劇しく、關東の人心は頗る恟々たる状態であった。
幕府ば日に戒巖を加えると共に、暴挙の本拠が薩州藩邸にある事の証跡を得るに及んで、勘定奉行小粟忠順、海・陸軍士官等の議に依り、之を討伐するに決した。
二十五日府内取締の庄内藩兵を主力と爲し、前橋・西尾・上ノ山の諸藩兵及び新徴組.陸軍兵に応援を命じ、払暁を期して薩州藩邸及び佐土原藩邸を襲撃せしめて之を焼いた。
休之助は捕えられ、尚平・総三・直亮等は身を以て藩邸を脱し、品川に碇泊せる薩州藩船翔鳳丸に搭じて西走し、他は關東各地に逃亡したのであった。
戦機遂に大阪城に発す
此の報が一たび大坂城に達するや、満城忽ち鼎沸の状を呈し、幕臣諸隊及び會・桑二藩の憤慨激烈の士は、蕨起して老中板倉勝静等を圧迫し、上下挙りて討薩除好を慶喜に迫った。
形勢茲に及んでは、慶喜も亦如何ともすること能わず、大勢に刺せられて、諸兵を北上せしめ、遂に鳥羽・伏見の戦を見るに至った。
二 鳥羽伏見の戦と東征
討薩の表
歳次小茲に改まって明泊元年正月元日、慶喜は大目付瀧川播磨守具挙に命じて、討薩の表と薩州藩の罪状書とを携えて上京せしめ、又諸藩の兵を徴する檄文を発して、大挙上京せんとするの勢を示した。
討薩の表に曰く、
臣慶喜謹て去月九日以來の御事体恐察奉り候得ば、一々朝廷の御眞意に之れ無く、全く松平修理大夫奸臣共陰謀より出候は、天下之れ共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及一劫盗に及び候も、同家家来の唱導により東西響応し、皇国を乱り候所業、別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御渡し御座候榛、御沙汰下され度く、萬一御探用相成らず候はば、止め得ず誅戮を加へ申す可く、此の段謹て奏聞奉り候
正月 慶喜
又罪状書は、薩州藩士が幼主を擁し奉り、私見を以て非常の変革を断行したること、繭朝御依託の摂政以下を廃して、其の参内を止めたること、私意を以て営・堂上方を悉に黜陟したること、禁門其の外の御警衛と称して、他藩士を煽動し、兵杖を以て宮闕に迫る大不敬を犯したること及び浮浪の徒を嘯聚して、江戸及び其の附近を騒擾せしめたる証跡が明白であることの五箇条を挙げたものである。
而して翌二日、軍艦開場九・蟠龍丸は薩州藩船平運丸を兵庫沖に砲撃し、早くも茲に戦の火蓋を切り、同日また幕府の諸兵及び會・桑二藩の兵等は、慶喜入京の前駈けと称して、鳥羽・伏見の両街道より北上を開始した。
京都の情勢
京都に於いても、江戸薩州藩邸焼打の報は既に傳わり、大坂城兵の動静も知れていたので、鳥羽・伏見方面の一警傭を厳にした。
岩倉具視等は薩・長二藩から必ず干戈に訴えて事を決廿んと迫るを抑えて、猶尾・越・土諸藩の周旋に望を繋ぎ、其の調停の成る己とを希望していた。
二日三職會議が開かれ、席上薩州藩は慶喜の上洛は、會・桑二藩主を帰藩せしめた後にすべしと提議したが、尾州・福井・土州・熊本・宇和島諸藩は之に反対して、朝議は未だ決しなかった。
然るに共の夕、大坂挙兵の報が京都に達したので、徳川慶勝・松平慶永・山内豊信・伊蓮宗城等は大いに驚き、各老臣を慶喜の許に遺して、共に軽挙に出づることなきよう戒告したが及ばず、翌三日豊信は事態の緩和を図らんが爲に、會・桑二藩主の帰藩の如何を間わず、速やかに慶喜を召して、国是の基本を定むべさを建議した。
他方に大久保一藏は事態茲に及んで、朝議が猶因循するを憂慮し、速かに徳川氏討伐を断行して、朝権を確立せんことを上書し、また岩倉具視に迫って断然英断出でんことを求めた。
具視は三條実美等と議して、仍お薩.長二藩を抑えたが、刻々形勢が切迫して、終に幕府を討伐し、徳川氏を待つに朝敵を以てするに決したのである。
鳥羽伏見の戦
既にして舊幕府の軍は、老中格大河内豊前守正質(大多喜藩主)・若年寄並塚原昌義を正副総督として、本営を淀本宮に置き、三日午後、伏見・鳥羽両街道より兵を分って進んだ。
伏見口には舊幕府の陸軍奉行竹中丹後守重固が、會津藩兵及び其の他諸兵を指揮して蓮み来り、薩州藩の陣営に道を開かんことを求め、また討薩の表を捧げた大目付瀧川具挙は、桑名藩兵其の他と共に、先づ鳥羽口に來り、踵いで大河内圧質の率いる諸兵と共に鳥羽に達し、同じく薩州藩兵の為に阻まれた。
舊幕兵の北上の報が上聞に達するや、直ちに百官に参朝を命じ、徳川慶喜の入京を停め、徳川慶勝・松下慶永に諭して、舊幕兵を措置せしめ、薩州・長州・土州の三藩に令して、事変に備えしめ、又芸州藩兵を伏見に急派し、阿州.彦根・平戸・大洲・大村・佐土原・備前等の諸藩兵を部署して、京都の内外を戌らしめられた。
斯くて申の下刻(午後五時)頃、鳥羽口に進んだ舊幕兵と、中村半次郎・野津七左衛門の率いる薩州藩兵との間に、先づ砲火が開かれ、尋いで伏見口の舊幕兵も、齊しく進撃して來たので、此処を守備せる山田市之允・林半七の指揮する
長州藩兵は之を遊撃し、茲に鳥羽・伏見両道の戦端は開かれた。
殊に伏見には市街戦も起りて、両街道の砲聲は天地を動かし、兵火は炎焔夜空を焼き、諸手の混戦は暁天に及んだが、舊幕軍は遂に振わずして敗退したのであった。
是の日夜に入り、鳥羽・伏見両道の勝敗未だ決せず、薩・長二藩兵苦戦の報が屡々宮廷に傳
わり、延中は頗る動揺し、公卿・堂上等の慌忙は一方ではなかった。
會々鳳輦を紫宸殿上に置え奉るものがあった。公卿・堂上等は之を見て相驚き、皆乗輿叡山に遷幸し、淑子内親王(桂宮)も亦之に従い給うものと爲し、宮中は之が為に益々騒擾した。
蓋し是は岩倉具視等が予め謀る所あり、主殿頭壬生輔世に命じ、叡山遷幸と称して、駕輿丁をして其の準備を爲さしめたのであった。
是より先、西郷吉之助は予め兵革の起るに際し、乗輿微幸の策を建てて、之を岩倉具税に献じた。
既にして舊幕軍北上の報が傳わるや、吉之助及び大久保一藏は、必ずしも土・芸二藩兵の恃むに足るざるを見、且つ兵も少なく、必勝の期し難きを慮り、具視に謁して長州藩士廣澤兵助を交え、与に密議する所があった。
即ち具視は吉之助の提案に拠って乗輿潜幸の籌策を立て、衆に議していう、若し官軍利を失い、幕軍入京するに至れば、天皇は直ちに女装して宮賓の輿に御し、山陰・山陽両遣の間に幸し給わんことを奏請す。
議定三條實美・中山忠能二卿は之に扈従し奉り、薩・長二藩の兵をして護衛せしめ、途を山陰道に取り、迂廻して芸傭の間に出でて、行宮に駕を駐め給う。
乃ち討幕の詔を四方に下し、薩・長二藩をして西南諸藩を徇(したが)えしめらる。
而して予は自ら総裁熾仁親王を奉じて京都に留まり、拒戦して其の勢支うべからざるに及んで、始めて尾・越二藩兵に命じて鳳輦を擁護し、公卿群僚は之に扈従し、陽に叡山遷幸の状を為せば、幕軍は必ず來り攻めるであらう。
険に拠って防載すること数日の間に、議定嘉彰親王(初純仁親王)・尊秀親王(知恩院宮・後華頂宮博経親王)は東国に下り、令旨を天下に頒って、勤王の兵を招集し、一挙江戸城を衝けば幕軍は東西に其の攻守する所を失い、大事は當に成すべきであると。衆皆之を可とした。
よって予め叡山遷幸と称して鳳輦を傭え、以て人目を欺瞞せんとしたのであった。
議定松不慶永・伊達宗城は宮中之が爲に騒擾するを憂え、相倶に議定晃親王に謁して、乗輿一たび動げば、則ち天下の大事が全く去るであらうとて之を諌止した。
既にして鳥羽・伏見方面の大勢略々定まり、廷中も始めて不静に帰したのである。
征討大将軍の任命
是の日夜牛、議定嘉彰親王に軍事総裁を兼ねしめ、議定伊達宗城・参与東久世通禧・烏丸光徳に軍事参謀を兼ねしめられたが、翌四日親王を征討大將軍に補して、錦旗節刀を賜い、参与四條隆謌・参与助役五條爲榮を錦旗奉行となし、薩・長・芸三藩の兵を率いて進発せしめられた。未刻(午後二時)征討大將軍の宮は錦旗を東寺に進めて、令旨・軍令を諸軍に頒たれた。
慶喜の東帰
是日以降数日、舊幕兵はなお頻りに敗勢を挽回せんとして、進撃を企てたが成らず、且つ淀・津二藩兵の官軍に応ずるあり、富森・淀・八幡・橋本等の拠点、皆其の守備を失って、終に潰走し、七日には征討大將軍の宮は牙営を淀城に進められた。
是より先、大坂城に在った徳川慶喜は、敗戦の報を聞いて、東帰の意を決し、六日の夜松平容保・松平定敬以下諸有司を従えて、密かに大坂城を出でて、開陽丸に移乗し、東帰の途に就いた。
慶喜は大坂城を去るに臨み、城を尾・越二藩に託し、且つ奏状を二侯に遺して、之を奏聞せんことを嘱した。
奏状の旨は、天朝に対して異心なきを弁じ、聊かたりとも宸襟を悩まし奉りしは、恐懼に堪えざれぱ、浪華城を尾・越二侯に託し、謹みて東帰仕るというのであった。
徳川慶喜追討令
是より先、徳川慶勝・松平慶永は舊幕府に対する調停の至らざるに恐懼して、議定職を辞せんことを請い、山内豊信・伊達宗城・淺野茂勳も亦同じく辞表を上った。
又慶永は慶勝と議って、徳川慶喜の為に賊名を雪ごうとして、其の救解に腐心したが及ばなかった。
既にして七日朝廷では百官・諸侯を小御所に召し、慶喜の反状を告げて、征討の令を発し、諸候の去就を問われた。
島津茂久・徳川慶勝・松平慶永・山内豊信・伊達宗城等は、孰れも王事に勤むべき請書を上った。
是に於いて順逆は全く明らかとなり、天下の大勢は茲に決したのである。
九日議定三條賛美・岩倉具視を以て副総裁と爲し、議定徳川慶勝・松平慶永・山内豊信等の辞職を留められた。
十日前内大臣徳川慶喜以下會津・桑名・松山(伊予)・高松・松山(備中)・大多喜諸藩藩主及ぴ舊幕府有司永井筒志・平山敬忠等の官位を褫奪し、慶喜征討の令及ぴ舊幕府領を直轄となす布告書を公示せられた。
是の日征討大将軍の宮は進んで大坂に入り、本願寺別院を本営と定められた。是の日また参与正親町公董を大坂に遣し、参与兼外国事務取調掛東久世通禧に大政復古を諸外国に告げる書を附して、列国使臣に伝達せしめた。
諸道鎮撫総督の任命
曩に征討大將軍の設置と共に、四方を綵撫(すいぶ/安んじる)せんが為に、諸道の鎮撫総督が任命せられた。
即ち四日参与西園寺公望を山陰道鎮撫総督と為し、翌五日参与橋本實梁を東海道鎮撫総督、参与助役柳原前光を同副総督と爲し、九日從五位下岩倉具定を東山道鎮撫総督、具定の弟具経を同副総督と為し、從三位高倉永祜を北陸道鎮撫総督、從五位下四條隆謌を同副総督に補し、各、諸藩兵を率いて発向せしめられた。
尋いで十三日錦旗奉行四條隆謌を軍事参謀兼中国四国征討総督と為し、二十五日前主水正澤宣嘉を参与と為し、九州鎮撫総督に任命し、二月九日正三位澤爲量を奥羽鎮撫総督に、右近衛権少將醍醐忠敬を之が副と爲されたのであった。
親征
鳥羽・伏見の戦後旬日を出でずして、京畿地方は概ね静謐に帰したが、慶喜東帰後の関東地方の向背は未だ明かならず、而も舊幕府の余勢は、決して蔑視するを許さなかった。
正月二十六日岩倉具視は、車駕一たび大坂に幸して、親征の典を挙げげさせ給い、以て天下の耳目を一新し、大政の綱紀を恢復せんことを
建議した。
是に於いて二月朔日、天皇は熾仁親王・三條實美・岩倉具視・中山忠能・正親町三候實愛・徳大寺實則を簾前に召され、車駕親征の議を諮詢し絡い、三日太政官(二条城)に幸して親征の詔を頒ち、四海鼎沸して萬民塗炭に隕ちんこと
を忍ばせ給わず、親征あらせられる旨を仰せ出され、且つ大総督を置き、諸藩に勅して軍傭を構ぜしめられる旨を示し給うた。
是日、天皇は葱華輦に御し、親王・公卿・諸侯は皆騎馬にて供奉した。庶民の拝観するもの堵(かき)の如く、実に王政維新後初度の行幸であった。
東征大総督の任命
二月六目東征の部署を定め、東海・東山・北陸三道の鎮撫総督を改めて、先鋒総督兼鎮撫使と爲し、薩州・尾州・長州等二十二藩兵を以て之に配せられた。
九日総裁熾仁親王を以て東征大総督と為し、参与正親町公菫・西四辻公業・廣澤丘兵助を大総督府参謀と爲し、また議定嘉言親王(聖護院宮)を海軍総督、権大納言庭田重胤・右近衛権中將中山忠愛を海軍塞謀に補せられた。
奪いで十四日参与西郷吉之助・林玖十郎(宇和島藩士)を大総督府参謀に追補せられた。
翌十五日大総督熾仁親王は進発の御暇の為に参内、出師表を上られ、錦旗節刀を賜わり、閫(いきい)外の権の御委任を受けられた。
即日親王は宣秋門より出陣、諸軍を率いて征途に上らる。斯くして皇師は堂々錦旗を東海の濱に進め、三月五日早くも駿府に着陣せられたのであった。
大坂親征
三月二十日天皇紫雲殿に、出御して、親しく軍神を祭り給い、翌二十一日纛(はたほこ)を大坂に進めらる。
副総裁三候実美・輔弼中山忠能・議定細川右京大夫譲久・淺野茂勳・毛利廣封・地田章政等車駕に供奉し、副総裁岩倉具視・輔弼正親町三
候實愛・議定島津忠義・蕗須賀茂韻馨は京都に留守した。
是の日車駕を八幡に駐め給い、四海平定を石清水社に御所願あらせられ、二十三日大坂に着御、行在所本願寺別院に入御あらせられた。
天皇行在所に御駐輦あらせられること凡そ五十日。其の間畏くも政務・軍務に御精励あらせられた。
而して錦旗の進む所、草水の靡き伏すが如く、早くも江戸城は靱らずして皇師の収むる所となった。
是に於いて閨四月七日、還幸仰せ出され、是の日車駕大坂を発し、翌日京都に御凱旋あらせられたのである。(p791)
◎幕末維新史研究会 / 第 37 回テーマ 王政復古 七卿及び長州藩主等の恩赦
日時:令和6年6月22日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十七回テーマ]
日時 令和六(二〇二四)年六月二十二日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p753‐p773を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
箏六章 王政復古
第四節 王政復古の大号令渙発
三 大号令の渙発
七卿及び長州藩主等の恩赦
十二月八日、是日午後偶、朝議あり、賀陽宮・山階官・摂政二條齋敬・左大臣九條道孝・右大臣大炊御門家信・前関白近衛忠煕・鷹司輔煕・前左大臣近衛忠房・前右大臣一條實良・内大臣廣幡忠礼・議奏正親町三條實愛・国事御用掛中山忠能等が参朝した。
前日将軍慶喜以下在京の諸侯及び諸藩重臣をも召されたが、慶喜及び京都守護職松平容保・所司代松平定敬及び老中等は、病を以て参内せず、徳川慶勝・松平慶永・淺野茂勳等が参集したのであった。島津茂久及び是日着京した山内豊信は翌日各々参内した。
朝議は大政朝廷に帰して、當に更始一新の時に際し、來春を以て御元服並びに立太后の大礼も行わせられ、前朝の御一週忌も間近であり、天下人心の一和が必要であるから、負譴の公家・武家に恩赦が降るようにというのであった。
議事は翌暁に及んで漸く決し、元権中納言三候酉季知・三條實美・元左近衛権少將東久世通礼・元修理権大夫壬生基修・元侍従四條隆謌の官位を復して、入洛を許し、故石馬頭錦小路頼徳の官位を復し、元主水正澤宣嘉には居所不明の故で、一族の義絶を釈き、居所分明次第奏上を命ぜられた。
また前関白九條尚忠に還俗を命じ、前内大臣久我建通・元左近衛権中将岩倉具視・元左近衛権少将千種有文・元中務大輔富小路敬直の蟄居を免じて還俗を命じ、其の他堂上の差控を訳かれた。
而して多年の懸案であり、幕府が遂に処分し得なかった長州藩主父子に対しては、寛典を行わせられ、敬親(参議・大膳大夫)・廣封(長門守)及び三末家元周(右京亮)・元蕃(淡路守)・元純(讃岐守)の官位を復して、入京を許され、芸州藩世子淺野茂勲に命じて、西宮に在る長州藩家老をして卒兵上京を命ぜられたのである。
王政復古仰せ出さる
十二月九日、前日來の朝議は漸く今暁に及んで畢り、辰刻(午前八時)頃に至って、摂政以下議奏・傳奏等は退期した。
中山忠能・正親町三候實愛・長谷信篤及び徳川慶勝・松平慶永・淺野氏勲は、仍お宮中に留まった。
是の日朝、勅使千種有任は岩倉具視邸に抵って、恩赦の宣旨を授け、且つ参朝の命を傳えた。
具現乃ち王政復古の勅書・制令の文案を納めた一篋(はこ)を携えて参朝し、篋中御門経之も亦召されて宮中に参入した。
やがて忠能・實愛・経之・具視は、相偕(とも)に簾前に候して、前に聖断を経たる王政復古の大策は、今日を以て断行あらせらるべき旨を奏上し、御前を退いて小御所に入った。
既にして薩州藩士大久保一蔵・岩下次右衛門等が参朝し、西郷吉之助は藩兵を以て宮門の守衛に當り、踵いで尾州・福井・土州・芸州の四藩兵も亦至って、禁闕の警備が全く成った。
尋いで有栖川宮熾仁親王・山階宮晃親王・仁和寺宮入道純仁親王・大原重徳・萬里小路博房及び島津茂久・山内豊信等が参朝した。
天皇御学問所に出御、親王・諸臣を召されて、卿等夫れ国家の為に尽力せよとの勅論を賜い、王政復古の事を諭告せしめ給うた。
御沙汰書の首に曰く、
徳川内府、従前倒委任大政返上、將軍職辞退の両條、今般断然聞召され侯、抑癸丑以来未曾有の国難、先帝頻年宸襟悩まされ候次第、衆庶之れ知る所に候、之れに依り叡慮決せられ、王政復古、国威挽回の御基立て為され候間、自今摂関・幕府等廃絶、即今先づ仮りに総裁・議定・参与の三職を置かれ、萬機行なわれ可く、諸事神武創業の始に原づき、搢紳武弁堂上地下の別なく、至當の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき/喜憂)を同じく遊ばされ可く叡慮に付、各勉励舊來驕惰の汚習を洗い、尽忠報国の誠を以て奉公致す可く候事
と、是ぞ即ち王政維新・百事創業の大御心を宣布し給うた萬世に不朽の聖旨である。
乃ち摂関・内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・傳奏の職を廃し、征夷大将軍徳川慶喜の解職を聴し、京都守護職松平容保・所司代松平定敬を罷め帰らしめ、朝彦親王・二條齊敬・近衛忠煕・鷹司輔煕及び現任の三公等の参朝を罷められた。
而して新に熾仁親王を総裁に、晃親王・純仁親王及び忠能・実愛・経之・慶勝・慶永・豊信・茂久・茂勲を議定に補し、重徳・博房・信篤・具視・橋本実梁に参与を命じ、後日尾州・福井・土州・芸州・薩州五藩の選貢した藩士各三人を参与に補せられたのである。
斯くして一世を震憾せしめた未曾有の大変革は、従來佐幕若しくは公武合体に傾ける宮・堂上等に豫知せられず、一朝にして行われ、国民をして、齊しく永く暗翳に蔽われた天日を再び拝せしむるに至ったのである。
四 小御所の会議
小御所会議
王政復古の大詔、一たび渙発せられて、旭日は大八洲の空に輝き、世は将に百事一新、三千萬の蒼生は齊しく天日の煕々たるを仰ぐべきであった。
然るに天下はなお暫く定まらず、恰も春風已に平野に満ちて、渓谷には氷塊の浮動するが如き状であった。
時正に慶応三年十二月九日、王政復古大號令の発せられた夜、天皇は小御所に出御あり、総裁熾仁親王を始め、純仁親王以下公卿・諸侯の議定、堂上の参與を御前に召されて、會議を聞かしめ給うた。
尾州藩の重臣田宮如雲・丹羽淳太郎・田中国之輔、福井藩の重臣中根雪江・酒井十之丞、薩州藩の重臣岩下佐次右衛門・大久保一蔵、土州藩の重臣後藤象二郎・神山左多衛・芸州藩の重臣辻将曹・久保田平司も亦召によって、御三ノ間敷居際に陪列した。
是ぞ世に言う小御所の會議である。
議定中山忠能乃ち勅旨を宣べて曰く、徳川慶喜巳に政権を朝廷に返上し、將軍職を辞するに由り、其の請を許し、茲に王政の基礎を定め、萬世不抜の国是を建て給はんとす、因って各員聖旨を奉体して公議を尽くすべし、と。
朝議の紛糾、諸員の激論
斯くて議事に移るや、山内豊信は先づ議を発し、内大臣徳川慶喜を召して、朝議に参せしめられたいと陳べた。
参与大原重徳は之を駁して、内府は既に大政を奉還したるも、果して其の誠意に出でしや否
や疑なきを得ない、姑く朝議に與からしめざるを可とすべしと。
豊信乃ち聲励まして、此の度の変革一挙、陰険の所爲多きのみならず、王政の首に當って、諸藩土は戎装して、宮門の内外に兇器を弄す、不祥も亦甚しいと言うべきである。
抑徳川氏が二百余年の治平を致したる功績は偉大である。然るに今毫も顧みられる所なく、一朝厭棄して之を疎外せられるが如きは、天恩の薄きに似て、決して天下の人心を帰服せしめる所以ではない。
内府が祖先以来継承せる覇権を擲って、大政を奉還したるは、皇国の為に政令を一途に帰せしめて、永く国体の尊厳を維持しようと冀う誠意に出たもので、其の純忠は寔(まこと)に感歎に堪えぬ所である。
且つ内府英明の名は、既に世間に著聞せるに、是を此の大議に列せしめざるは、太だ公議の趣旨を失うものである。
斯かる暴挙を敢てしたる三四の公卿は、果して何等の定見があってのことか。
幼沖(ようちゅう/幼い)なる天子を擁し奉り、以て権柄を窺(ぬす)もうとするものであるかと、気色もあらく抗論して、傍に人無きが如くであった。
参与岩倉具視は之を叱して、今はこれ御前に於ける會議なり、當に言を慎むべし。夫れ此の度の事は、悉く聖断に出づ。
然るを妄りに幼冲の天子を擁して政柄を乱すと言うが如きは、亡礼も亦甚しからずやと豊信を碧(たしな)めた。豊信も俄に容を改めて、失言の罪を謝した。
松平慶永は豊信の説を助け、王政施行の初めに、刑律を先にして、徳誼を後にするは然るべからず。徳川氏の功罪を考えるに、数百年隆治輔賛の功業は、今日の罪責を償うに足るものがあると論ずれば、具現は之を駁していう。
辞官納地の議
家康の撥乱反正(「天和偃武})の功績は固より少からざるも、其の子孫に至っては、櫻威を恰(たの)みて、上は皇室を凌罔し、下は公卿・諸侯を劫制(おびやかす)して、大義名分を紊ることが既に久しい。
特に嘉永癸丑以來勅命を蔑にし、綱紀を壊り、外は檀(ほしいまま)に欧米列国と修交通商の約を結び、内は暴威を振って、憂国の宮・堂上・諸侯を処罰し、勤王の志土を刑戮した。
近年また無名の師を長州に発して、政道を失った其の罪は実に大なるものがある。慶喜にして罪を反省自責する心があるならば、當に速かに官位を辞退し、領民を返納して、鴻謨翼費(朝廷への協力)の實効(姿勢)を示すべきである。
然るに政権の空名を奉還して、尚土地人民の實力を保有している。其の心術の陋(ろう/いやしさ)は之を察知するに難くない。
朝廷は宣しく内府に諭して、先づ辞官・納地の実効を徴すべきである。而して其の朝議に参せしめると否とは、実効の如何に依って決すべきである、と。
大久保一蔵は具視の説に左祖して、土・越二侯の説はまた内府心術の正しきを証するに足らない。寧ろ之を事実の上に徴するに如かず、乃ち先づ其の官位を貶し、其の所領を収める旨を命じて、之を奉承するならば、速かに彼を召すべきである。
若し又之に拒悍(きょかん/拒否)の色を示すならば、其の心事の譎詐(けつさ/偽り)なるは知るべきである。
然らば乃ち其の罪を天下に鳴して、之を討伐すべきであると論じた。
後藤象二郎は席を進めて、慶永・豊信の説を支持して、弁論大いに努めた。
中山忠能は尾・薩二侯等の黙するを促して、其の意見を問えば、慶勝・茂勳は共に豊信の議に賛意を表し、茂久は一蔵の言う所に同じと答えた。
斯くて朝議は岩倉卿と薩州藩に対して、土・越・尾・芸四藩の対立となって、議論は容易に決しなかった。
よって中山忠能は聖旨を奉じて、一時休憩を宣した。
休憩後の朝議
この間に具視は茂勲と協議し、将曹をして象二郎を説かしめ、以て豊信がなお執拗に抗論するを止めしめようとした。
時に象二郎は別室に一藏を捉へて、議論を上下していたが、將曹が來って、此の場に臨んで毫も口舌の益なきを諷(ふう/遠回しに言う)した。
象二郎も亦悟る所があり、豊信に謁して、大勢已に決す、今強いて争うも益なし、今日は一歩を譲るとも、必ずや他日挽回の手段があるべしと説き、豊信も終に之を容れた。
既にして天皇は再び小御所に出御、會議を続行せしめられた。
豊信は再び争わず。慶勝・慶永も今にして猶極論すれば、却って内府に姦あるを掩(おおう/隠す)うものとなるを慮って、敢て論ぜず。
朝議の決定
議事は波欄なく進行し、朝議は岩倉具視の提案に基づき、慶喜に官位辞退・所領返納の命を下されるに決した。
総裁熾仁親王は簾前に進み、聖断を仰ぎ奉り、茲に初めて御裁可が下ったのである。
よって徳川慶勝及び松平慶永は、明日二條城に莅(のぞ)んで、慶喜に将軍職辞退勅許の旨を宣達し、自ら辞官・納地を内願せしめるよう斡旋することとなった。
斯くて朝議の終了したのは、夜も早や三更を過ぎた頃であった。大久保一蔵は其の日記に、朝議の模様を記して、「今夜五時小御所に於いて評議、越公容堂公大論、公卿を挫き、傍若無人他。岩倉公堂々論破、感状に堪えず、君公云々御議論、容堂公云々御異論、止め得ず予席を進み云々豪論に及び候。後藤中を取りて論ず、越土の論、直様慶喜を召され候との趣にて、全く扶幕の論也」と。
忽忙の際、其の記事は簡単であるが、蓋し其の眞を傳えたものである。
徳川慶勝・松平慶永二條城に臨む
翌十日巳刻徳川慶勝及び慶永は、勅旨を慶喜に宣達の為に二條城に至った。
是より先、幕府麾下の士を始め、會津・桑名及び二三譜代の藩士等は、諸侯會議に先立って、王政復古の発令せられたるを聞き、徳川氏の大事、薩州藩の奸謀が顯れたと爲し、争って二條城に馳せ聚り、松平容保・松平定敬も亦城に入った。
尋いで禁中に於ける會議の模様が外聞に傳わり、慶喜の召されざるを知るに及んで、幕府遊撃隊士及び會桑二藩士等の憤激激昂は其の極に達し、各、軍装に身を竪め、兵器を携え、殺気は城の内外に漲った。
既にして慶勝・慶永二人が平服のまま、其の間を行くや、大衆の中には瞋睨(しんげい)して罵詈雑言する者もあって、何時爆発せんも測られぬ状であった。
慶勝等は慶喜の室に入り、人を屏けて來意を告げ、少しく四囲の鎮静するを待って、勅旨を傳え、慶喜は衣冠を整えて、之を拝受した。
而も今直ちに御内諭を泰承するは、城中城外の情勢に鑑みて、禍変の脚下に激発する処あれば、暫く御請を猶豫せんことを請うた。
慶勝等の復命
慶勝等も眼前に群下鼎沸の状を見て、慶喜の心事を諒とし、之を許諾して二條城を退き、直ちに参内して其の旨を復命し、慶永より左の陳情書を上った。
政権を帰し奉り将軍職辞退の儀、間召され候上は、官位も一等を辞し奉り、且つ御政府御入費も差上げ度き段、申し上げ候心底には候へ共、即今手元人心居合兼ね、痛心の訳柄も御座候に付、鎮定次第願上げ奉り
度く候間、此の段相含み、両人に於いて然る可く様、執奏に及び呉れ候様、申し開き候事も御座侯間、慶永に於いて天地へ誓って御請け合い申上げ侯間、徳川内府内願いの筋、側聞き届け下され候様願い上げ奉り候
慶勝も亦慶喜の奏請は少しく時日を假(貸)されるよう歎願した。
西郷吉之助・大久保一蔵は慶勝等の措置に不満を抱いて、之を詰ったが、慶永必死の辮明に依って、朝議は之を聴許あらせられた。
翌十一日慶永は再び二條城に到つたが、辞官・納地の事が漏泄して、崖下の上等の憤激は一層甚しく、城の内外に屯集して、大聲暴論を発し、就中講武所剣槍隊の如きは、今にも打って出づべき勢であった。
斯くて慶喜は諾隊の頭領等を招いて、予が若し割腹すと聞かば、汝等は欲するが儘にせよ。予の在らん限りは決して妄動すべからずと戒論し、老中板倉勝静等も鎮撫に心力を尽くしていた際であった。
されば慶永も御内諭奉承を督促する能わず、城内鎮撫の評議に與かる状であった。
而も好手段は按出せられず、結局事態の緩和を図る爲には、慶喜が京都を去る外はなき有様であったのである。
五 慶喜の大阪城退去
二條城中の騒擾
二條城に於ける幕府麾下士、曾桑二藩を始め、譜代恩顧の士等騒擾の状は、當に鼎沸を以て之を喩(たと)うべく、是等は慶喜の大政奉還に対する不満、或は朝廷が直ちに之を聴許あらせられたるに対する失望、また慶喜を今日の悲境に追い詰めたるは、薩長等三四雄藩の奸謀の結果であると考え、是等に封する悲憤怨恨は、幕政に対する眷戀(けんれん/思いしたう)の情と相侯って、茲に爆発したのである。
既に十月下旬以降、老中格大給乗謨・稲菜正巳を始め若年寄・大目付等の有司は、幕府の前途を憂慮して上京し、慶喜に幕権維持を説き、陸軍奉行石川若狭守総管・陸軍奉行並藤澤志摩守次謙等は、兵を率いて上京し、慶喜に東帰を促し、また上国の形勢に憤激せる麾下の士は、江戸を脱して上洛する者が引きも切らぬ状態であった。
特に辞官・納地の事が二條城中に傳わるに及んでは、幕府は根抵から崩壊せしめられるものであると考える者も多く、此の処に集まった者の激昂騒擾は終に鎮撫の途なきに至った。
福井藩士中根雪江が十二月十一日の手記によれば、會津藩にては其の名が聞えていた手代木直右衛門の如きも、薩州兵來襲の浮説に動揺し、血眼となって雪江等に、先んずれば人を制す、今討たずんば戦機を失せん、如何思うぞと詰め寄った。
雲江等は萬犬の吠聲、決して實事あるなき所以を説いて、之を退去せしめたが、また暫くして走り来り、薩州兵今己に竹屋町通より押寄すと斥候の者より申出でたり、如何あらんと騒動する故、前説を反覆して、闕下に乱階を引出しては、朝敵も同然ならん事を弁論して、漸く納得せしめたと記し、「総て城中の変動不則にして、狂人の如くなる者多かりき」と評している。
されば十一日の夜には、彼等の暴発を憂えた慶喜は、夜中用事あるやも計られざればとて、幕兵五千余、會津藩兵三千余、桑名藩兵千五百許りに登城を命じて、之を城中に集め、其の外出を止めたのである。
朝廷に於いても、十一日宮・堂上及び地下官人に諭告して、輦下不穏の景状に動揺せぬよう命ぜられた。
長州藩兵の入京
斯く不穏危殆に瀕した京都の雰囲気を、更に激せしめたものは、長州藩兵の入京である。長州藩兵は十二月朔日西宮に宿陣した。
同八日、薩州藩士大山彌助は西宮の長州藩陣営に來って、同日藩主毛利敬親等の官位復旧・入京聴許の朝議が行われていることを報じたので、長州藩家老毛利内匠は逸早くも軍を進めて、翌九日朝芥川宿に到り、西郷吉之助の王政復古大詔の換発及び敬親等の官位復旧・入京許可を報ずる書に接した。
よって内匠は更に軍を進めて、洛外粟生光明寺に到り、同所に本営を置き、東山東福寺を屯所とした。
十日の夜内匠は兵三中隊を率いて入京して、相國寺に屯し、直ちに朝命を以て参内し、「多年勤王、今度召に応じ、速に登京、御満足思召され候事」との御沙汰を拝した。
尋いで薩・芸等諸藩と共に、九門内外の巡邏及び堂上諸邸警固の命を拝し、後更に思い出深き蛤御門の警衛に就いたのである。
斯くして今や京洛の地は、薩・長・芸諸藩の兵と會・桑二藩の兵とが対峙して、急迫の情勢は何時戦塵を捲き超すか、実に測り難いものがあった。
慶喜の二條城退去
慶喜は二候城に在って此の情勢を見、輦轂の下に血を践む騒動を起さん事を憂慮し、麾下の士等の鎮撫に心を酔いでいた。
十一日慶永と會見した際、同人から、先一先ず大坂城に退去して、衆心の鎮静するを待つに如かすと勧告せられて、其の意が動いていたが、十二日徳川慶勝が慶永と相議して二條城に到り、再び之を説いたので、慶喜は之を容れて、大坂に下るに決意した。
よって慶喜は先づ戸田忠至をして、松平容保・松平定敬の帰藩の御暇を奏請せしめて勅許を得た。
慶喜の意は容保・定敬二人の帰藩は到底行わるべきではないが、さればとて己れの下坂後に、仍お之を京都に置けば、如何なる事変を生ずるも測られない、寧ろ相携えて下坂するに若かずとしたのである。
乃ち慶喜は会津藩の家老田中土佐を招き、薩州人が兵威を擁して、昨今の所業に及べる罪科は、之を問わざるを得ない。されど闕下に於いて干戈を動かすは、叡慮を悩まし奉り、内外に対して乱階を開くに至ろう、よって一旦下坂せんとするから、容保も同行すべしと告げて、容保及び其の藩士に説くことを求めた。
會津藩士中には之に異議を挟む者もあったので、慶喜は容保及び藩士二三と会して、更に説破した。
慶喜は又水戸藩家老大場主膳正景淑等に二條城の留守を命じ、若年寄永井尚志を城中に留めて、専ら鎮撫の事に當らしめたのである。
斯くて此の夜酉の上刻(午後六時頃)、慶喜は容保・定敬・老中板倉勝静等を從えて、二條城の裏門より立ち出で、路を鳥羽街道に取り、騎馬して多数の麾下の士、會・桑三藩士に譲られ、徹宵行を進めて、翌十三日の払暁、牧方に於いて朝食を摂り、守口駅にて午飯を喫し、漸く七つ時(午後四時)大坂城に入った。
慶喜西下の奏状
慶喜は二條城を去るに當って、退京の勅許を奏請するに遑あらず、西下の奏状を慶勝に託して、慶永と議って之を上らんことを囑した。
奏状の要は、戎装を以て宮闕を御固めの上にて、非常の御変革を仰出された際なれば、特に鎮撫に意を用い、誠意を以て尊王の道心を尽くし來りしも、下輩の粗忽等より水泡に帰するが如き事ありては、恐懼に堪えぬ次第である。
因って人心の鎮定するまで、暫時大坂に退くべし。是れ一に配下の者を鎮撫し、闕下を安んじ奉らんの微衷なれば、宣しく諒察を垂れ給わんことを請う。
勅裁を仰ぎ奉る筈なれども、荏苒(じんせん\暫時)の間、或は国家の大事を惹起せんことを恐れ、倉皇(そうこう\急ぎ)出発したりというのであった。
藩士参与の任命
是より先、薩・土・芸・尾・越三藩より選貢の藩士大久保一蔵・西郷吉之助等を始め、九日の小御所會議に召されたる者は、十二日概ね参与を命ぜられた。
慶喜の奏状至るに及び、参与の間に其の御暇を請わずして退京したのを難ずるものがあった。
慶勝・慶永の奏上
よって岩倉具視は慶勝・慶永に議して、二人より慶喜に西下を働説したる旨を併せて奏上することとした。
慶勝等の上った副奏状の別紙には、「官位・貢献二事件は、下坂鎮静次第、迅速申上候約定
に御座候」と特に記されたのであった。
山内豊信の建議
是日十二日山内豊信は書を朝廷に上って、速かに公議を興し、且つ徳川慶喜の辞官・納地の二事は、之を松平慶永に委ねて、緩急斟酌せしむべしと建議し、また阿州・筑前・熊本・久留米・盛岡・柳河・二本松・佐賀・封州・新発田十藩の在京重臣も書を上って、京都の戒厳を解き、且つ公議を以て事を処理せられんことを請うたのである。
慶喜の西下とその心事
思ふに曾ては征夷大將軍の枢衡を占めて居ながら天下に號令し、其の権威はなお群小諸侯を慴伏せしめた徳川慶喜も、今は夜陰に乗じて政治の中心地より自ら退去せざるを得なかった。
慶喜及び其の左右の威慨は果して如何であったろう。是を史上稀に見る悲劇と言うも、決して過當の言ではない。世上慶喜が京を去って、要衝たる大坂城に入った事に就いては、兎角の批判が行われている。
或は其の奏上に言うが如く、一に輦轂の下に不祥事を惹起せしめて、祖先以來の一業績勤功と己れの至誠苦衷とを、一朝にして水泡に帰せしむるを慮り、退譲の途を選んだと爲すものもあり、或は當時其の敵手たる薩州人が推量したと同じく、金権の中心、要害不落の名城に拠って、其の軍容の整傭を計ったと為すものもある。
今やその孰れを以て眞相なりと爲すべきであらうか。之を輕卒に断ずることは、寧ろ避くべきである。
第五節 戊辰之役
一 危機一発の政局
辞官納地の問題
徳川慶喜が辞官・納地の内旨に対して、敢て奏請に及ばず、会桑二藩兵等を率いて、京都を退去した事は、複雑微妙を極める時局をして、一層暗澹ならしめた。
岩倉具視及び同志の堂上並びに薩州藩士等は、此の二事を以て慶喜に自贖の実効を迫ると共に、其の余勢を削減しようと欲したのである。
されば舊幕府側にとっては、其の浮沈死活にも関する重大問題と考え、奮幕臣等の激昂は、慶喜の大坂城退去に由って毫も緩和せられず、其の薩・長二藩に封する衝突は、目睫の間に迫り、京摂の間には戦氣の欝積せる状であった。
當時廟堂に於いて枢機を握れる岩倉具視は、此の情勢に鑑み、十二月十三日阿州・熊本等十藩の建言を容れて、宮中の戒厳を解き、宮門以外の警衛を撤せしめた。
また薩州藩士大久保一蔵を招いて、事態収拾の二策を示して、之を諮問した。
其の方策の一は、薩・長・土・芸旧藩の離合如何に拘らず、断然薩・長の兵を以て乗輿を擁衛し、勅命を奉せざる者を討伐し、成敗を天に任すべきか。
其の二は、姑く尾州・福井画藩の周旋に任せ、慶喜の進止を見て、若し辞官・納地を奏請して反正の実を顕さば、既往は措いて間わず、之を議定職にも任命すべきかというのであった。
一蔵は岩下佐次右衛門・西郷吉之助と議して、暫く第二策を執るべきを答申した。
即ち薩州藩も徳川氏に対する同情者の多きに鑑み、討幕の鋒鋩(ぼうぼう)を収め、形勢の推移を見ようとしたのである。
是に於いて翌十四日、具視は松平慶永に、事態は一日の遷延を許さないから、速かに徳川慶勝と協力して、慶喜をして辞官・納地を奏請せしめるよう周旋せんことを促し、翌十五日辞官・納地の諭書案及び尾・越二藩への命令書案を、中根雪江・後藤象二郎に示した。
然るに其の案文たるや、朝旨を以て、慶喜に辞官及び納地を命ぜられ、尾・越へは周旋の結果を今以て奏上に及ばざれぱ、已むを得ず別紙の如く慶喜に御沙汰に及ばるというのであった。
雪江等は其の文中にある領地返上の語を改められぬ限り、舊幕臣等の暴発は必然で、尾・越二藩の周旋も其の効なきを以て、改刪(かいさん\削除)を請うたが、具視は頑として応じなかった。(p773)
◎幕末維新史研究会 / 第 36 回テーマ 王政復古 王政復古の大号令煥発
日時:令和6年5月25日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十六回テーマ]
日時 令和六(二〇二四)年五月二十五日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p735‐p753を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
箏六章 王政復古
第四節 王政復古の大号令渙発
一 諸交召集
大政奉還聴許
将軍慶喜が大政を朝廷に還し奉った事は、寔に古今の盛挙、明治聖代の劈顕を飾る劃期的な大事であった。
慶喜が上奏した十月十四日、薩州藩士小松帯刀、土州藩士後藤象二郎・福岡藤次、芸州藩士辻将曹は摂政齋敬に謁して、明日慶喜に参内を命ぜられて、願意御聴許となるよう内諾した。
是日有栖川両宮・賀陽宮・山階宮を始め、二條摂政・左大臣近衛忠房・右大臣一條実良・前閣白近衛忠煕以下議奏・傳奏等は参朝して朝議が開かれた。
将軍の上奏に対する措置に就いては、會・桑二藩士等の阻止運動、其の他諸方の入説も反映して、衆議紛々、容易に決しなかったが、四圍の情勢、之を聴許あらせられる外はないというに決した。
依って翌十五日、慶喜に参内を命ぜられて、勅許の旨を達し、次の御沙汰書が下された。
祖宗以來御委任、厚く御依頼在りなされ候得供、方今宇内の形勢を考察し、建白の旨趣尤に思念され候間、聞こし食され候。
尚天下と共に同心尽力を致し、皇国を維持、宸襟を安んじ奉る可く御沙汰候事
なお之と同時に、国家の大事及び外交処分は衆議に決せられ、朝廷の令達、諸大名の稟請(上
奏して審議を求める)類は議奏・傳奏の取扱いとし、自余の事項諸大名会同の上で議定せらるべし。幕府支配地・市中取締等は、姑く舊慣に拠るべしと達せられた。
諸侯召集
又国是決定の為に十万石以上の諸侯に上京を命ぜられ、前藩主の徳川慶勝・松平慶永・伊達宗城・山内豊信・鍋島齊正及び藩主の中から浅野茂長・池田茂政並びに島津久光に速やかに上京すべき旨仰せ出された。
尋いで二十一日、更に十萬石以下の諸侯にも召命が下されたのである。
政務概ね舊に仍る
其の後将軍慶喜は、諸侯の参集に至るまでの政務取扱に關する、十五日の御沙汰書に対して、外交事務其の他緊急を要するものの取扱い方並びに京都警衛、禁裏御料の処置、公家・門跡領の訴訟等に就いての進上を候(伺う)うた。
十月二十日朝議あり、宮・摂政以下議案・傳奏等参朝し、十万石以上の諸藩の在京重臣を召して、三條實美等五卿の処置、及び将軍より稟伺せる事項の取扱に就いて諮問あり、明日を以て奉答すべきを命ぜられた。
諸藩の奉答は、概ね諸侯参集して公論の定まる迄は、仍お舊によって庶政を徳川氏に委任し、五卿等の処置は之を寛大にすべしというのであった。
依って二十二日、朝廷は慶喜に対して、其の稟伺する事項の取締を概ね委任せられ、又三條實美等の処置は、彼等が上坂せば勅命を以て、諸侯の参集するまで滞坂せしむべしとの批答(天子の決済)が下され、同時に十万石以上の諸藩重臣にも、此の旨を示達せられた。
将軍職辞表
徳川氏大政を奉還するも、朝廷に於いては事固より倉卒(あわただしい)に属して、大政を施行せられる用意がなかったので、諸侯の参集までは、将軍の職務は略、舊に仍る事となった。
而して慶喜は、嚢に大政奉還を上表すると共に、位記の返上を奏請したが、位記は返上の謂れなしとして即日却下せられた。
然るに将軍職は未だ辞退に及ばなかったが、将軍職掌が上述の如く決定せられるに及び、二
十四日慶喜は所司代松平定敬を以て、将軍職辞表を上ったのである。
表に曰く、
臣慶喜昨秋相継ぎ仕り候節、賂軍職の義、固く御辞退申上げ、その後厚く御沙汰蒙り候に付、御請け仕り奉職罷り在り候処、今般奏聞仕り候次第も之れ有り候間、将軍職御辞退申し上げ奉り候、此の段奏聞社り候
二十六日朝廷は批して、諸藩上京の上、御沙汰有る可く、夫れ迄の処、是迄の通り相心得候様、御沙汰候事。とて、諸侯の参集まで、舊の如くたるべしとの御沙汰が下った。
国事誤用掛の建白と新政体諮問
十一月十二日、国事御用掛近衛忠房(左大臣)・三條實良(右大臣)・近衛忠煕(前関白)・鷹司輔煕(同上)・大炊御門家信(内大臣)・九條道孝(権大納言)の六人は、速かに王政復古の方策を一定して、綱紀を確立するの急務であることを感じ、連署して書を上り、之を将軍慶喜及び御召の諸侯に諮詢せらるべきを建議した。
即ち慶喜等には封建・郡縣両制度の得失取捨、朝権を一途に帰せしむる策を諮い、また諸侯會
議に附する議案として、太政官八省以下諸寮・諸司・諸衛府使等の再興を立案し、太政官の官
制は大寳令に準拠し、其の卿・輔に公家・武家を任用しようというのである。
朝議は此の議を以て至当なりとし、採用せらるべきに決せられた。
越えて十五日、右の建議に基づいて、徳川慶喜・徳川慶勝及び松平慶永に、朝権を一途に帰るせしむべき方策に就いて諮問せられ、十七日重ねて慶喜以下諸藩に対して、同じく意見を徴せられた。
慶喜は事頗る重大であるから、猶熟慮して奉答すべし。なお諸侯も上京して建議するであらうから、公議を尽くして、萬機の基本を樹てさせらるべきであると答申した。
朝召と諸侯の去就
斯くて大政奉還勅許後の情勢は、其の政治体制を始め、国家の大事は、之を束ねて、藩侯の参集を待って決せらるぺきこととなった。
然らば召命を拝した大小外様・譜代大名等の朝宗の状は如何に。
十月二十五日朝朝廷は重ねて命を諸侯に下し、十一月を限り上京すべきことを命ぜられたが、十一月までに上京したものは、薩州・芸州・尾州・福井・彦根・郡山・大聖寺・膳所・龍野・尼崎・福知山・園部・水口・栢原・西大路・狭山等十数藩の當主若しくは隠居が上京したのみであった。
而も多くは京都附近の小藩で、有力な者としては、薩・芸・尾・越等の数藩に過ぎなかったのである。
蓋し譜代・外様を問わず、多数の諸侯は、時勢の急転に惶惑して、其の去就に迷い、徒らに左顧右眄(決断をためらい)して、容易に召命に応じなかったのであった。
殊に外様大名中徳川氏と舊縁があるか、又はなお徳川氏の権威を憚るもの、或いは薩・長・土・芸の諸藩の心事を疑うものは、上京を躊躇して、或は病と称して上京の期を緩めたいと奏請し、或は老臣をして代って上京せしめたいと奏上するものが続出した。
忘恩の王臣と全義の陪臣論
また譜代恩顧の大名中には、徳川氏の恩誼捨て難しとて、朝召を拝辞しようと言うもの、又は官位を返上して、徳川氏の家人に列し、幕府へ随従の義理を全うしようという者が多数あった。
特に江戸に於いては、大政奉還の事を聞いて、幕府有司等驚情動揺は甚だしく、不平不安の情営中に充満し、有司・兵士等の上京するものが相踵ぐ状であった。
諸侯にあっても、紀州藩は在府の親藩・譜代の重臣を赤坂の藩邸に招いて、徳川氏擁護の為に戮力せんことを提議するあり、また溜間・雁間・帝鑑聞・菊間諸め諸侯の中には各、其の詰問毎に連署して、朝召を辞せんことを幕府に議るものが、七八十藩の多きに達した。
朝召拝辞の諸侯への朝旨
諸侯間に斯かる雰囲気の醸成せられていることは、朝廷に於いても大いに憂慮せられ、十一月幕府に内旨を降ろして、關東に在る譜代大名等は官位を返上し、忘恩の王臣たらんよりも、寧ろ全義の陪臣たらんなど主張する者があると聞くが、これは冠履顛倒、名分を紊る事であって、将軍の誠意に戻るものである。宣しく将軍より之を説得せよ。若し聴かざれば誅戮を加え、皇憲を正すであらうと達せられた。
慶喜は之に奉答して、薄徳の致す所、命令の徹底せざるは漸懼に堪えず、一應関東の家臣共に申し聴かせるであろうと上奏した。
然るに江戸並びに京都の形勢は、時日の経過と共に、益々紛糾を重ねたので、終に全国の諸侯を會して、至公至平の国是を決せられようとする朝廷の思召が、貫徹せられなかったのは、時勢上巳むを得なかったとは言うものの、寔にに遺憾の極みであった。
二 薩長芸三藩兵の東上
大政奉還後の政情が、専ら諸侯の参集を待つのみで、百事確定せず、将軍の執権は仍お依然舊態の儘であった間に、薩・長二藩の出兵計画は、倒幕の密勅を拝して、頓に活気を帯びて来た。
十月十七日薩州藩士小松帯刀・大久保一蔵・西郷吉之助及び長州藩士廣澤兵助・品川彌次郎等は、各々勅諚を奉持して藩地に帰り、出兵を促そうとして、相踵いで退京下坂し、十九日相携えて芸州藩船を借り、大坂を解纜して西航したのである。
倒幕猶予の密旨下る
然るに二十一日、中山忠能・正親町三候實愛及び中御門経之は、勅旨を奉じて倒幕密勅の奉行姑く猶予せよと達せられた。
其の御沙汰書は、
去十四日申達候條々、其の後彼の家祖己來行来たり候国政を返上し、深く以て悔悟恐懼の趣申し立て候に付、十四日の條々、暫く見合わせ、実行否(しか)らず勘考す可く、諒闇中、且つ生民の患に關係するに依り、深遠の思召を以て、再び仰せ出され候事
十月廿一日 忠能 實愛 経之
忠能は薩州藩士吉井幸輔を其の邸に招いて、島津久光父子の中が上京したならば、此の御沙汰を伝えよ、又長州藩へも薩州藩より傳えるようにと命じた。
薩長両藩の出兵協議
恰も此の御沙汰の下された日、大坂を発して西下した帯刀等の一行は、長州三田尻に着し、帯刀・吉之助は彌二郎に伴われて、山口に入り、二十三日藩主敬親父子に面して、具さに京都の情勢を告げ、出兵に関する協議を行い、嚢日来薩州藩兵の三田尻に滞留せる者は速かに上坂せしめ、帯刀等は藩地に帰って、久光父子の中一人を奉じ、兵を率いて上京するを約し二十六日鹿児島に帰着して、藩主茂久に上国の形勢を巨細に復命した。
薩州藩は二十九日藩主茂久が兵を率いて東上する事に藩論を一決し、十一月十三日、茂久は吉之助を始め家老島津伊勢(武盛)・岩下佐次右衛門等を従え、三千の藩兵を藩船四艘に分乗せしめて、鹿児島を解纜した。
大久保一蔵は茂久の出発に先立って高知に赴き、十一月十二日後藤象二郎と会して、茂久上京の事を告げ、豊信の上京を促し、十五日入京、岩倉・中御門・正親町三條の諸邸を歴訪した。
島津久光と毛利廣封の三田尻会見
長州藩に於いても、廣澤兵助が討幕の密勅を奉じて帰藩し、旦つ薩州藩士小松帯刀等との協議に基づき、愈々出兵の準備に着手し、家老毛利内匠(親信)をして卒兵東上せしめ、支族徳山藩世子毛利平六郎(元功)を之れと同行せしめ、徳山藩及v@支族吉川経幹の兵を之に附属せしめるに決し、薩州藩兵の三田尻に至るを待った。
十一月十七日、島津茂久等の乗船も到着したので、長州藩世子廣封は、平六郎及び木戸準一郎・廣澤兵助等を従えて之を迎え、翌十八日茂久・吉之助・黒田嘉右衛門と会見して、更に出兵の要件を協定した。
即ち薩・長・芸三藩は共に大坂を根拠地と爲し、薩州藩は一手にて京都方面を担当して、長・芸二藩の内一藩が之に応援することにし、薩州侯は藩兵を率いて二十三日入京、長州藩兵は二十五旦三田尻を出帆して、西宮に至り、京都の情勢によって兵を進めることを約したのである。
島津茂久の入京
此の協定を遂げて、島津茂久の率いる薩州藩兵船は、即日三田尻を発し、茂久は二十三日を以て入京した。
其の兵三千、嚢に滞京せるものと合せて一萬と號(な)し、大いに兵威を京洛の間に振った。
長芸両藩世子の新湊会見
芸州藩は嚢に藩主の名を以て、大政奉還を建白したが、なお薩・長二藩の提携を放棄しなかった。
依って十月晦日、芸州藩世子淺野紀伊守茂勲(しげいさ)は周防新湊に來り、長州藩世子毛利廣封と会見して、交誼を温め、翌日木戸準一郎を伴って廣島に帰り、是と議して、茂勲の上京、長州藩兵の東上に際しては、芸州藩は藩船一艘を御手洗港に出して誘導すること等を約した。
長州藩末家家老召致の中止
抑(そもそも)長州藩は、嚢に幕府が末家及び家老に上坂を命じたのに乗じて、京坂へ兵を進めようとしたのである。既にして幕府は、略々此の情勢を察知したので、慶喜は之を阻止せんと欲し、書を二條摂政に上って、長防の処分は諸侯の公議に待ち、之を朝廷より御沙汰あるべきであると建議し、同時に芸州藩を通じて、家老等の召致を中止する旨を長州藩に伝達せしめた。
此の幕命が伝えられたのは、十一月十九日であった。
長州藩の要路は議して今更豫定の計画を変更すべきではない。よって芸州藩より幕命を接受する以前に、末家及び家老は既に発程したと為し、著々出兵の準備を講じたのである。
長州藩兵の上坂
斯くて長州藩は軍令及び警備部署の発令等出兵の準備を急ぎ、愈、十一月二十五日を以て、藩兵約千二百は総督毛利内匠に率いられ、藩船七艘に分乗して三田尻を解纜した。
翌日夕、芸州藩との約を履んで、御手洗港に入り、芸州藩船萬年丸の誘導によって大坂に航し、二十九日摂津打出浜に上陸し、尋いで西宮に宿陣したのであった。
尋いで長州藩は第二陣として、別に兵千余を陸路尾道に進め、之を同地に待機せしめた。
芸州藩世子の入京
また芸州藩は萬年丸を長州藩の誘導船として出発せしめると共に、世子茂勲は藩兵三百余を率いて、二十四日海路宇品港を発し、二十八日京都に入って妙顕寺を本陣とした。
斯くて慶応三年十二月の初め、京攝の間には薩・長二藩の兵は、豫定の部署に就き、各々、軍容を張り、二藩士の來往する者が踵を接する
状であったので、京都の政局は頓に異常な緊張を示すに至ったのである。
三 大号令渙発
混沌たる政局
大政奉還後に於ける廟堂の議は、一に諸侯會議の結果を待って、其の方寸を決定せらるべき豫定であった。
然るに諸侯の多数は、朝召を蒙るも趦趄(しそ/行き悩む)逡巡して容易に上京せず、何時諸侯の会同が開かるべしとも見込が立たぬ状であった。
従って政局は一時暗雲低迷して、其の表裏には実に容易ならぬ動きが隠見したのである。
即ち兵力を以て、王政復古の目的を達成しようとする薩・長の二藩、或は公議政体の確立を目標とする土州藩、更に幕権の回復維持を念願とする佐幕派等、互に其の政治的立場・信念を異にして、各様各種の運動が行われたのである。
而して薩・長二藩は其の藩兵を続々上國に出そうとした。此の時に當って、土州藩の其の後の動静は如何に。
土州藩の運動
土州藩を中心とする公議政体派は、其の主張の実現を期して、頻りに周旋遊説に努め、十月二十五日福岡藤次・神山定多衛は、正親町三條實愛を誘い、時勢策を説いて、諸侯相會して簾前に盟約すること、朝廷新に外国との條約を締結せられること、制度改正局・議事院設置のこと等を提議したが、實愛は朝議の容易に行われ難きを告げて、之を二條摂政に説くことを勧めた。
後藤象二郎等はまた叨(みだ)りに芸州・薩州藩士を説き、同志の中井弘三等は英人サトウを訪うて、議事院の組織制規を質す等奔走これ努めた。
十一月二十五日、象二郎・藤次・左多衛等は、相携えて松平慶永に面接して、一日も速かに議
事制度を確立せざれば、王政復古の基礎が立ち難き所以を力説し、終に議事院の設置に疑念を抱いた慶永を動かし、相共に尾州・熊本・因州・備前及び薩州・芸州藩を説いて、大勢を有利に導こうとの議を決するに至った。
山内豊信の入京
斯くて山内豊信は漸く朝命を奉じて、十二月四日藩地を発して、八日を以て入京したのであった。
佐幕派の暗躍
更に政局を紛糾せしめたものに、佐幕派の運動がある。将軍慶喜の大政奉還によって、最も動揺を受けたものは、幕府の麾下士及び幕府と縁故深き諸藩の上下であった。
中にも京都に在って、眼前に薩・長其の他外様諸藩士等の活躍を見聞する者は、悲憤の情禁じ難く、幕府の頽勢を挽回しようとする者が少くはなかった。
殊に京都に大兵を擁して、幕府の重鎮を以て任ずる會津・桑名二藩士の如きは、薩・長・土・芸諸藩を怨嵯すること甚しく、之を射たずんば止まずと称した。
慶喜及び慶勝は、其の事を破らんことを慮り、二藩士を帰藩せしめようと尽瘁した程であった。
また奥右筆格澁澤成一郎が福井藩士中根雪江に対して、幕府今日の衰運は、畢竟幕府を始め親藩の威力の衰微に基づくものなれば、今にして奮起せずば、何れの日をか期すべきと論じ
て、松平慶永が藩兵を率いずして上京したのを、大いに憤慨したというが、徳川慶勝も亦一兵を率いないで上京したので、佐幕派の人々には此の尾州・福井二藩の態度に慊(あきた/満足)らず、後日其の周旋に疑惑を抱くに至ったのである。
其の他近藤勇等の率いる新撰組の暗躍、また大垣藩の井田五蔵等が京都薩州藩邸を火き、鳳輦を大坂城に遷し奉って、西国大名を制圧せんと計画したというが如き類の流言輩語が百出して、京洛の地は物情騒然たるものがあった。
坂本中岡の遭難
偶、十一月十五日の夜、土州藩士中岡愼太郎は、同藩士坂本龍馬(才谷梅太郎)を河原町の假寓(醤油屋の楼上〕に誘うて會談中、京都見廻組佐々木唯三郎が、部下今井信郎等六人と共に之を襲うた。
唯三部は十津川郷士と詐(いつわ)って刺を通じ、龍馬の僕の後に随って階上に上り、不意に籠馬の室に闖入して二入を襲撃した。
龍馬は咄嵯刀を執り、慎太郎は短刀を揮い、刺客の刃を支えたが、共に鞘を脱する暇がなく、龍馬は頭郡に二割を負うて先づ倒れ、愼太郎はなお闘って、身に十余割を受けた。
而して龍馬は即死し、変を聞いて馳せつけた吉井幸輔・石岡英吉・田中顯助等に譲られながら、慎太郎は王政復占の実行は、一に岩倉具視に倚頼するに外なしと告げ、其の一意を同郷に傳えんことを香川敬三に委嘱し、十七日に至って遂に瞑目した。
時に龍馬は歳僅かに三十三、慎太郎は三十。同志の士にして、之を悼惜せぬものはなかった。乃ち相識って遺骸を洛東霊山に収め、後日木戸準一郎は二人の爲に、其の墓標に揮毫したという。
太宰府に在る三條実美も其の死を惜しみ、挽歌を寄せた。
世を思ひ身を思ひても誓ひてし
人のうせぬることそ悲しき
王政復古の将に成らんとする日、遂に此の二人を襲ったことは、皇国の為に惜しみても余りあることであるのみなちず、土州藩の為にも、其の薩・長二藩との連絡に、著しく便宜を失うに至ったのである。
倒幕派の活躍
斯く擾々たる政局に於いて、岩倉具視を中心とする堂上及び薩・長二藩の運動は、著々(ちゃくちゃく)進められ、其の活躍は目覚しきものがあった。
蓋し時局は斯かる政情・世態を、永く放置することを許さなかったのである。
嚢に漸く月一回の外泊を許された岩倉具視は、十一月八日始めて洛中帰住の恩命を拝し、茲に自由に其の同志の堂上・諸藩士と往来して、大事を謀議するの便宣を得たのである。
而して此の際に至っては、賀陽宮・二條摂政等を中心とする公武合体派の廟堂に於ける勢力は、次第に衰え、其の実権は具視一派の中山忠能・正親町三條實愛等に移り、左大臣近衛忠房・右大臣一條実良は引退し(十一月晦日)、摂政も亦辞意を抱くに至った。既にして薩州藩主島津茂久は大兵を率い、長州藩兵も亦既に東上の途に就くや、十一月二十九日、大久保一蔵は正親町三候實愛を訪い、速かに王政復古の基本を確立せんが為に、断乎勇断に出でんことを入説して、今般両三藩大兵を引き、上京仕り候義は、偏に朝廷に御兵力を備え、至理至當の筋を以て基を開き、反命の者掃蕩す可くの決心に候、此の如く一大機会と云ものは、千載の一時に之れ無き哉の旨を以て、朝廷に於いても克々御洞察、是に応じたる非常の御尽力御座無く候ては、大いに失望仕る可く事と存じ奉り候と決然決起すべきことを促し、更に岩倉具視をも誘うて、同じく之を説いた。
大久保・西郷、後藤を説く
尋いで十二月朔日、一蔵は具視の内意により中山忠能邸に低り、同郷の因循説を論破した。斯くて具視・忠能・實愛等は議して、愈、日を期して、王政復占を断行せられるよう宸断を仰ぐことに決し、更めて一蔵に其の期日を示さんことを命じた。
是に於いて一蔵は西郷吉之助と共に後藤象二郎を誘い、王政復古大号令換発の案を示して、之に同意することを要(もと)めた。
象二郎は其の主豊信は未だ上洛せず、此の一提案を容れることを喜ばなかったが、薩州藩等の決意を見て、若し強いて之に反対せば、或は朝敵と看傲されるに至らんことを慮り、福岡藤家等と譲って之に同意した。
思うにこれは象二郎が嚢に大政奉還を建白するに際し、吉之助等をして緘黙せしめたに対して、今は彼等より其の代償を求められたと言うべきである。
王政復古大号令渙発期日決定
期くて一蔵等は協議の結果、大号令発布の期日を十二月八日と決し、之を岩倉・正親町三條・中山・中御門諸卿に答申した。
然るに五日に至り、象二郎は山内豊信の入京が遅延せんことを慮り、発布の日を少しく延期することを求めたが、當時會津・桑名二藩士及ぴ新撰組に対する懸念が少なくなかったので、具視・実愛・一蔵等は頗る之を難じたが、七日忠能の意見によって九日と決し、聖断を仰いたのである。
此の間中山・岩倉等の諸卿の来往、大久保・西郷・品川・後藤等の奔走は、寧日なき有様で
あったが、事は固く外間に秘められていたのである。
尾越土芸五藩へ内示
王政復古発布の手順は、凡そ文久三年八月十八日の政変の際と同じく、摂政以下議奏・傳奏等の参朝を停め、宮門を厳守することを要したので、具視・忠能等及び薩州藩士は協議の結果、尾州・福井・芸州藩に之を内示して、薩・土藩と共に事に當らしめる事とした。
よって八日忠能は是等五藩の重臣を其の邸に招き、内示する予定であったが、當日朝議が
あったので、具視が之に代って内示した。
是の日岩倉邸に参集したものは、薩州藩の手引によって、尾州藩の尾崎八右衛門・丹羽淳太郎、士州藩の誘引で、福井藩の中根雪江・酒井十之丞外に薩州藩の岩下佐次右衛門・大久保一蔵、土州藩の後藤象二郎・神山左多衛、芸州藩の辻将曹・櫻井與四郎の十人であった。
具視は王政復古断行の勅旨を拝したるを告げ、五藩従来の勤労を厚く御依頼あらせられ、深厚の叡慮を以て、発布の前特に密事を内示し、大集断行に支障なからんことを望ませ給ふ、五
藩は宣しく聖旨を奉戴して翼賛すべしと諭し、明朝卯刻(午前六時)を期して、其の藩主を召さ
れる旨の御沙汰書及び宮闕守護の部署書を授けた。
五藩の重臣は命を受けて、唯々拝諾して退去したのである。(p753)
◎幕末維新史研究会 / 第 35 回テーマ 王政復古 倒幕運動の趨勢
日時:令和6年4月27日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十五回テーマ]
日時 令和六(二〇二四)年四月二十七日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p716‐p734を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
箏六章 王政復古
第二節 倒幕運動の趨勢
三 倒幕密勅の降下
薩土両藩の交渉
慶応三年秋に至って、土州藩を主とする和平解決派の周旋と薩・長二藩を主とする武力解決派の運動とは、同時に行われることとなった。
而して両者は孰れも驚天動地の大事を達成しようとするのであるから、其の前途には幾多の困難が横たわり荊赦(けいきょく\対立関係)を拓いて邁進するには、多大の苦心努力を要したのであった。
薩州藩の態度
九月薩・長・芸の間には、一先づ出兵の盟約が結ばれたが芸州藩の素志は薩・長二藩とは異るものがあった。
同藩の意向は寧ろ土州藩と同じく、平和手段を以て大政を朝延に復そうというのが、主眼で、若し幕府が頑として政権奉還に応じないか、若しくは王政復古を妨碍し、阻止するが如き場合には、断然兵を用いるべしと為したのである。
在京の芸州藩家老辻将曹(そうしょう)等が、一時は薩・長の主張に合流したものの、なお藩の素志は捨て難く、特に後藤象二郎等から常に協力を求められるので、其の態度は暖昧模糊たるを免れず、屡々、岩倉・中山・正親町三條・中御門の諸卿及び在京の薩州藩士に、凝惧の念を起さしめるものがあった。
斯くて芸州藩は嚢に藩士植田乙次郎を長州藩に遣して、同藩と協約した出兵の期を、姑く猶豫して上國の形勢を見るに決し、九月二十六日再び乙次郎を山口に遣して、出兵の延期を提議せしめるに至った。
長州藩失機改図の議
当時長州藩に於いては、嚢に薩州藩兵大久保一蔵等が來って、協約した結果に基づき、九月二十五・六日の頃には、薩州藩の兵船が、三田尻に來航するのを待っていたが、期に至っても薩州藩兵は三田尻に影を見せないので、疑惧の念を生じて、藩内に種々な議論が生ずるに至った。
即ち薩州藩兵の來否に拘らず、幕府が末家・家老に上坂を命じたのを機會に、単独に出兵すべしと云う者もあり、又一部には禁門の変で嘗めた苦い経験に鑑み、漸く四境の重圧が去った今日、暫く休養して他日に備うべしとの議論も台頭した。
十月の初め、藩主毛利敬親は、藩要路を會して評議を開いた結果、自ら進んで懸軍萬里の危道を踏むを避けようとの持重論が勝を制して、姑く出兵を延期し、時期を待って後図を策することに決した。長州藩では之を失機改圖の議と称した。
是に於いて長州藩は福田侠平等をして、先づ出兵の延期を芸州藩に告げしめ、更に京都に赴いて、薩州藩士と商議せしめ、また野村靖之助等を鹿児島に遣した。
薩州藩の事情
思うに薩州藩兵東上遅延の理由は、薩州藩の藩論が必ずしも、在京の大久保・西郷・小松等の意向に一致していなかったからである。
藩士町田民部・奈良幸五郎・高崎左京を始め藩士の一部は、出兵に反対であった。
従って嚢に大山格之助が帰藩して、出兵の事に奔走したが、其の實現までには若干の時日を要したのであった。
九月二十七日、薩州藩主父子は諭書を下して、京都出兵は禁闕守護に在るを説諭し、十月三日に至り格之助及び三島彌兵衛は、兵約四百を率い、豊瑞丸に搭じて鹿児島を発し、同六日三田尻に着船した。
時に長州藩では既に出兵延期の議を決した後なので、格之助は兵と共に上陸し、彌兵衛は状を報ずる為に上洛した。
尋いで九日薩州藩家老島津主殿は、兵八百余を翔鳳・平運の二艦に乗せて、小田浦(周防)に着し、是れ亦待機するに至ったのである。
薩長芸三藩会議
薩長二藩の藩地に於ける情勢が斯くの如くであった際、京都に於いては十月八日、薩・長及び芸三藩士は相會して、最後の態度を決する
會議が行われた。
席に列した者は薩州藩小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵、長州藩廣澤兵助・品川彌二郎、芸州藩辻将曹・植田乙次郎.寺尾生十郎であったが、愈々、兵力を以て、王政復古の大義を断行するに決議した。
よって一蔵・兵助・乙次郎の三人は、相携えて中御門経之邸に赴き、経之及び中山忠能に謁して、決議の要目三箇條を上申し、三藩兵が上着すれば、堂上方にも助力せられんことを請うた。
忠能等は之を諒承し、且つ藩主の速かに上京することを促した。
是日帯刀・吉之助・一蔵は連署して、忠能・経之及び正親町三條実愛に討幕の宣旨を下されるよう請願した。
恰も此の時長州藩士福田侠平らが入京して、同藩の失機改図の議を一蔵に告げたので、十一日一蔵・吉之助は相議して、大挙上京の事を藩地に促すに決し、先づ村岡新八を長州藩に遣り、薩州藩兵が三田尻に着船しても、更に当方から一報あるまで待機するよう伝達斡旋を依頼した。
然るに是と前後して、三島彌兵衛は十二日京に着し、薩州藩兵の三田尻到着を報じた。
倒幕密勅の降下
在京薩・長二藩士はなお予定の行動を継続するを怠らず、岩倉具視も薩・長・芸三藩決議の次第を聞き、中山忠能に托して奏聞書を上って、王政復古遂行を密奏した。
其の趣旨は「自今萬國ノ交誼、天地公道の在る所を以て、和戦を決し、進退を定むる際に當り、斯る名分紊乱の制度を以て、萬國と御対峙は相成り難きのみならず、皇国内の人心に於ても亦片時も居合相付き難く、内外実に容易ならざる危急の御大事切迫の御時節」であるから、「断然と征夷将軍職を廃止せられ、大政を朝廷に収復し、賞罰の権、予奪の柄、皆朝廷より出でて、大いに政体制度を御革新在らせられ、皇国の大基礎を確立し、皇威恢張の大根軸を確定せられ度く、非常の御英断を以て速に朝命降下相成り候様願い奉り候事」というのである。
天皇は之を御嘉納あらせられ、倒幕の密勅が薩・長二藩に下されることとなった。先づ降下の順序として、十三日毛利敬親父子に対して、官位復旧の宣旨が下さた。
毛利敬親父子官位復旧の宣旨
其の宣旨は忠能・実愛・経之の奉行であって具視が忠能に代って、之れを兵助を其の邸に召して倒幕の密勅を傳宣した。
其の日付は薩州藩島津忠義父子に対しては十三日であって、毛利敬親父子に対しては十四日と認められている。密勅は両藩兵に同文で、次の通りである。
詔源慶喜累世の威を藉り闔族の強きに侍み妄りに忠良を賊害し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民溝壑(こうがく/死地〕に於いて顧みず、罪悪至る所神州将に傾覆せんとす、朕今民の父母の為是の賊討たずして、何を以て上先帝の霊に謝し、下万民の深讎(しんしゅう\応答)に報いんや。此れ朕の憂憤の在る所、諒闇して顧みざる者、萬己(や)む可からざる也。汝宜しく朕の心を体し賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに回天の偉勲を奉り、而して生霊をして山嶽の安きに措くべし、此れ肢の願い、敢えて惑解すること無かれ。
会桑二藩主誅戮の宣氏旨
尚別に両藩に対して、京都守護職松平容保・所司代松平定敬に誅戮を加うべしとの勅諚も下された。
因に討幕勅書の文は玉松操の起草に成り、薩州藩に賜った勅書は正親町三條卿、長州藩への勅書は中御門卿の筆に成ったと言う。
此の密勅を拝するや、帯刀・吉之助・一蔵・兵助・侠平・彌二郎は、威激流沸して請書を上った。
此の密勅は初め芸州藩にも下される筈であったが、同藩の態度については、堂上並びに薩・長二藩士の間に疑惑があったので、遂に此の事がなかった。
而して是の日、十五代将軍徳川慶喜は、討幕の密勅降下を知るや知らずや、大政奉還の上表を朝廷に上って、勅許を奏請した。
政局は穏約の間に斯くも大きな動きを見せていたのであった。
第三節 大政奉還
一 土芸二藩の建白
薩土盟約の破棄
岩倉具視等及び薩・長二藩の討幕計画が、既に密勅の降下を見るまでに進展を告げていた際、一方に土・英二藩の大政奉還の議も、着々進捗していたのである。
嚢に士州藩論を齊して上京した後藤象二郎等は、九月七日小松楴刀・西郷吉之助を訪い、大政奉還の建白書提出の事を議るや、薩州藩士等は今に及んでは口舌の能く局面を打開すべきに非ず、将に討幕の師を起こそうとすることを告げた。
象二郎は弁論頗る力めたが、薩州藩士等は遂に聴かなかった。
九日象二郎は福岡藤次と共に再び彼等を誘い、暫く挙兵の延期を求めたが、彼等は貴藩は之に関係なく建白せらるべしと答えて、なお之に応じなかった。
是に於いて象二郎等も、単独に建白書を提出するに決意し、相互に其の行動を妨害せざる事を約し、茲に薩土盟約は全く破棄せられたのであった。
後藤象二郎の奔走
斯くて象二郎は、一たび九月二十四日を以て建白書を提出せんと決したが、猶目的の達成を熱望する余り、之を延期し、芸州藩家老辻将曹を説いて、己れの説に同意せしめ、将曹及び薩州藩士中井弘三等に依頼して、更に帯刀を説かしめ、己れも亦奔走遊説頗る努める所があった。
帯刀は元來隠和の人物であったので、土州藩の説に傾き、在京の重臣島津備後も亦帯刀を支持するに至った。
吉之助・一蔵等は固より硬論を棄てなかったが、強いて帯刀等の議に異議を挟まなかったので、十月二日薩州藩は、更めて土州藩に対して、建白書の提出に異論なさ旨を通告した。
山内豊信の建議
是に於いて翌三日、象二郎は同藩の神山定多衛と共に老中板倉勝静を訪い、予て準備せる山内豊信の大政奉還の建白書を提出したのであった。
誠惶誠恐謹みて建言壮り候、天下憂世の士口を噤じて、敢えて言わざるに到り候は、誠に偶れ可くの時に候、朝廷幕府公卿諸侯旨意相違の状あるに似たり、誠に懼れ可くの事に候、此れ二懼は我が大患にして彼の大幸なり。彼の策是に於いて成るかと謂う可く候、是の如き事態に陥り候は、其の責至竟誰に帰すべきや、併せて既往の曲直を喋々弁難すとも、何の益かあらん、唯願わくは、大活眼大英断を以て、天下万民と共に、一心協力、正明正大の道理に帰し、万世に亙りて耻(はじ)ず、万国に臨みて愧じざるの大根底を建てざる可からず、此の旨趣前月上京の砌にも、追々建言仕り候心得に御座候得ども、何分阻當の筋のみ之れ有り、其の内図らずも舊疾再発仕り、帰国止め得ず仕り候、以来起居動作といえども、不随意事に成り到り、再上の儀暫時相整え申さず候ては、誠に残憾の次第にて、只管此の事のみ日夜焦心苦思仕り罷り在り候、因て愚存の趣一二家来共を以て言上仕り候、唯幾重にも、正明正大の道理に帰し、天下万民と共に、皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万国に接し王政復古の業を建てざる可からざるの一大機会と存じ奉り候、猶又別紙得度く御細覧仰せ付けられたく、懇々の至情黙視難く泣血泣涕の至りに堪えず候。
慶応三年丁卯九月 松平容堂
文中用語に妥当を欠くものがあるも、旨趣は大いに見るべきである。
別紙は寺村左膳・後藤象二郎・福岡藤次・神山左多衛の連署を以て、内外庶政の急務、更始一新の要諦を列挙したものである。
即ち政治の大権を朝延に還し奉り、上下両院の議政所に於いて國政を議すべく、学校を都会に設けて学芸を教導すべし、又外交の刷新、軍備の充實、法律制度の釐革(りかく\改革)等の要を述べたものである。
而して特に國政を議する士大夫は私心を去り、術策を設けず、正直を旨とし、既往の是非曲直を問わず、国家の前途を担当すべきであって、言論多くして実功少なき通弊は、之を改むきである。
若し既往の事に拘って、弁難抗論し、朝廷・幕府・諸侯が互に相争う意あるは、尤も然るべからず、是則ち豊信の志願にして、愚瞭不才を顧みず、敢て大意を献言する所以であるというのである。
蓋し土州藩建白の趣意は、幕府をして大政を奉還せしめ、之を以て過去の失措及び恩怨を清算し、公卿・諸侯が齊(ひとし)しく至公至平の大道に則って・国政を更新しょうというのである。
されば既往の罪状を含めて、幕府を討伐せんとする薩・長二藩とは全然其の趣意を異にしているのである。
而して翌四日、左膳・左多衛は二條摂政邸に低(いた)り、建白の次第を言上し、且つ其の謄本を呈したのであった。
浅野茂長の建議
土州藩の建白と共に看過すべからざるは、芸州藩の建議である。
芸州藩の素志も土州藩と同じく、同藩に於いて大政奉還の建白書を提出するに決し、十月六日藩主浅野茂長の名を以て、建白書を幕府に致したのであった。
其の大意は、今日の如く流弊累積して物議百出し、天下の人心支離滅裂、禍乱の起る旦夕を測るべからざるに至った所以は、大義名分の明かならざると、皇威の陵夷とに帰すべきである。
今にして徒らに枝葉末節に拘泥して、大本に反省する所なくば、時運挽回の機會は得られないのである。
宣しく自然の理に基づき、大義を明かにし、名分を正し、政柄を朝廷に帰して、天下の諸侯と共に万機献替の丹誠を披歴し、柳がも矯勅の嫌い、墾塞の疑のなきよう反正の實蹟を学ぶべきである。
若し事茲に至りて、猶舊轍を踏まば、遂に不測の禍害を生ぜん事を恐る。
願わくば熟慮勇断せられんことを希うと言うのであった。
斯くて幕府の大政奉還は、是等外藩の建議に基づいて、急速に實現を見るに至ったのであった。
二 大政の奉還
幕府と体制奉還
文久以來雄藩の台頭、志士の活躍及び尊攘論の沸騰に曲って、幕権の維持が漸く困難となった際、速かに大政を奉還して、責任の地位を去ることが、徳川氏としては最も賢明な活路であると考えた者もあった。
松平慶永の如きは其の一人で、屡々之を幕府に提議したのである。
其の後幕府の権威は衰退の一路を辿りながらも、なお時運に伴って一弛一張を繰返して、愈々其の末期に及んだ、而も二百六十余年の長き歴史を有し、譜代恩顧の大名・旗本等に擁せられて、因襲のカに余喘を保つ幕府としては、自ら進んで其の眷属郎党の思わくをも顧みず、家康以來の覇業を擲って、政権を奉還するが如きは、実に容易の業ではなかった。
併し慶応二年幕府が長州再征に失敗するに及んでは、天下具眼の士は、幕府の運命が早晩窮極に達すべさを豫知するに至った。
土州藩士中岡慎太郎は其の日乗に、王室を尊ぶは則ち徳川氏を助くる所以である。徳川氏を助ける今日の策は政権を朝廷に返上し、自ら退いて臣子の分を尽すにある。
若し強いて暴威を張らば、其の滅亡は必然であると喝破している。
また幕府有司中でも若年寄格永井尚志は、後藤象二郎から大政奉還建議の内談を受けて、之に賛意を表し、速かに建白に及ぶべきことを慫慂したのである。
将軍慶喜の態度
然らば将軍慶喜の政権奉還に対する態度は如何であったか。
慶喜が後年他に語る所によれば、彼が徳川宗家並びに將軍職を襲ぐに際し、此の際幕府を廃して王政に復せんは如何と、其の素志を腹心原市之進に告げて可否を諮った。
然るに市之進は、貴意如何にも遠大の深慮にて御尤もの次第であり、且つ王政復古は早晩行わるべきであらうが、其の方法宜しきを得ず、一歩を誤らば非常の紛乱を招き、又収拾すべからざる事態に陥るであろうから、今は先づカの及ぶ限り、祖先以來の規範を持続すべきであると説いたので、慶喜も之を容れて、将軍職に就き、国政を秉(と)る責に任じというのである。
蓋し當年の慶喜の心境に就いては、複雑なる政情と其の環境とに稽(かんが)え揣摩(しま/個人的)憶測を許さないが、其の後天下の形勢が一層切迫を告げた翌慶応三年の後年期に治(およ)んでは、必ずや聡明を以て聞えた慶喜は、到底幕府の維持し難いことを洞察し、君臣の大義に遵って、祖先以來の遺業に有終の美を濟すを決意したのである。
王政復古の世論
當時体制奉還が略々、天下の通議であったが、其の時期・方法及び王政復古後の政治体制等に就いては、世の識者の間に確乎たる定見を有する者は少く、前途に幾多の疑惑や不安が抱かれていた。
勤王志士の間には建武中興を理想とする議があり、また玉松操の如きは、其の規範を神武創業に則るべしとの意見を有っていた。
而して土州藩の公議政体論即ち議院制の採用に就いては、松平慶永は書を老中板倉勝静に致して、象二郎の意見はとても方今行わるべきものでない。
彼は西洋法を信じて議事院の論を立てているが、是は洋法を假りて私説を恣にしようとするものである。
若し朝廷で輕卒に此の議を御採用になっては、天下に一大変動が起ることは必然で、憂慮に堪えない。
幕府に於いても十分考慮すべきことを説いたのである。
将軍慶喜の決意
後藤象二郎等は十月三日建白書を提出した後、屡々板倉勝静・永井尚志を誘うて、其の採否如何を促した。
将軍慶喜及び其の左右は、當今の時勢として大政奉還は至正至公の道理であるが、唯實行後果して治平が望まれるか否かの目算が立たないので、なお躊躇したのである。
依って十日慶喜は旨を勝静に授けて、松平慶永に腹蔵なき意見を徴せしめた。
翌十一日尚志は象二郎に來訪を求めて、建白採納の事を内報し、慶喜も亦書を前尾州藩主徳川慶勝・紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)に与えて意見を求め、且つ其の上京を促した。
勝静が將軍の意を承けて、慶永に贈った書の趣旨は、山内豊信の建議は至當の論ではあるが、只其の實行に伴う利害得失如何に就いて深く苦慮している。
一朝王政に復せられて、皇国は必ず平穏、上は宸襟を安んじ奉り、下は萬民安堵せば、将軍職の如きは顧みる所でない、王政復古が本懐であるとの公明正大な台慮である。
只前途の目算なお立ち難く、容易に決着し難いに由り、茲に衆議を尽くされるというのであった。
此の書に対して慶永は、王政復古は近年の通議で至當の論の如くに聞えるが、今日猝(にわ)かに王家の舊制に復する事の利害は、淺識の予輩には、確論も立たぬが、豊信の議論の正大なることは信じ得る。
果して其の見込の如く與望に副い、時運に適するならば、更に懇篤に垂問を重ねて断然之を採納すべきであると応えた。
慶永の意見にして既に斯くの如く、諸侯は概ね十分の目途は有たず、如何に大政奉還が言うは易く、之を断行するの難かったかは、想察に余りあるのである。
将軍慶喜の諭告
されど既に大政奉還を決意した將軍慶喜は、十一月十二日老中を始め京都守護職松平容保・所司代松平定敬以下在京の有司を二條城に召見して、自ら其の決意を告げた。
大意にいう。
家康以來の鴻業を一朝にして廃絶するは、先霊に対して憚りあるも、要は天下の治平を保ち、宸襟を安んじ奉るは、神租の盛業を継述する所以である。
今や徳川家の武備は衰えて、天下の諸侯を制御する威力はなく、二十年來の菲政を数(せ)められなば弁明の辞がないので在る。徒に覇業の迹を慕って現状に執着すれば、益々罪責を加え、遂には政権を奪われるは必然である。
則ち當に自ら反省して、己れを責め、私を去り、從來の菲政を悔い、至忠至公の誠心を以て、群侯と共に朝廷を輔翼し、全国の力を戮せて、皇国此の後の大策を定め奉るべきである、
と懇諭したのである。
殿中寂として之を傾聴し、敢て一語を発する者はなかった。
在京諸藩重臣へ諮問
十三日将軍慶喜は、十萬高石以上の諸藩(約四十藩)在京の重臣を二條城に召集した。
是日坂本龍馬は営中参集の事を聞き、後藤象二郎に説いて、若し建白の事が行はれなければ、君は営中に死せよ、予は海援隊の壮士を率いて、大樹を参内の途中に刺さんと激励したという。
営中に於いては板倉勝静が大政奉還の書を示して、忌揮なき意見を徴し、意見ある者は将軍が直接尋問すべしと告げた。
参集の諸藩重臣の多数は、非常の大事なれば速かに藩地に報じて、其の意見を徴すすべしと答えて退出したが、薩州藩小松帯刀、土州藩後藤象二郎・福岡藤次、芸州藩辻將曹及び備前藩牧野権六郎・宇和島藩郡築荘蔵の六人が、将軍に面謁しようとして居残った。
慶喜は先づ薩・土・芸三藩士四名を召見したが、帯刀等は慶喜の英断を称え、速かに上奏すべきを請い、慶喜は之を納れた。
次いで慶喜に謁した備前・字和島二藩士も、同じく将軍の誠意を謝し、速かに公平の処置あるべきを述べ、茲に七百年に亙る武家政治に終局を告げる二條城中連日の會議は終了したのである。
大政奉還の上表
慶応三年十月十四日、将軍慶喜は高家大澤石京大夫基壽(もとすみ)を使いとして、政権並びに位記返上の事を奏上せしめた。
大政奉還の上表に曰く、
臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考え候に、昔し王綱紐解で、相家権を執て、保平の乱政権武門に移りてより、租宗に至り更に寵春を蒙り、二百年子孫相受け、臣其の職を奉ずと離も、政刑當を失うこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す所、慙懼に堪えず候。
況や當今外国の交際日に盛なるより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、從來の舊習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候得ば、必ず海外萬国並び立つ可く候。
臣慶喜国家に尽くす所是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込みの儀も之れ有り候得ば申し聞かす可く旨、諸侯へ相達し置き候。之れに依り此の段慎みて奏聞社り候、以上
十月十四日 慶喜
と、実に上奏文は幕府の失政を陳謝し、列強と対峙する上には、政権を朝廷に帰し奉り、天下の公議に基づいて挙国一致の實を挙げ、以て国体を擁護し、皇威を赫燿せしめようというのであって、肇國の大理想に蘇った大文字というべきである。
宜なるかな、此の将軍慶喜の誠意は九重の天意に叶い、直ちに御嘉納あらせられて、天皇の御親政を仰ぐこととなったのである。 (P734)
◎幕末維新史研究会 / 第 35 回テーマ 王政復古 倒幕運動の趨勢
日時:令和6年4月27日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十五回テーマ]
日時 令和六(二〇二四)年四月二十七日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p716‐p734を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
箏六章 王政復古
第二節 倒幕運動の趨勢
三 倒幕密勅の降下
薩土両藩の交渉
慶応三年秋に至って、土州藩を主とする和平解決派の周旋と薩・長二藩を主とする武力解決派の運動とは、同時に行われることとなった。
而して両者は孰れも驚天動地の大事を達成しようとするのであるから、其の前途には幾多の困難が横たわり荊赦(けいきょく\対立関係)を拓いて邁進するには、多大の苦心努力を要したのであった。
薩州藩の態度
九月薩・長・芸の間には、一先づ出兵の盟約が結ばれたが芸州藩の素志は薩・長二藩とは異るものがあった。
同藩の意向は寧ろ土州藩と同じく、平和手段を以て大政を朝延に復そうというのが、主眼で、若し幕府が頑として政権奉還に応じないか、若しくは王政復古を妨碍し、阻止するが如き場合には、断然兵を用いるべしと為したのである。
在京の芸州藩家老辻将曹(そうしょう)等が、一時は薩・長の主張に合流したものの、なお藩の素志は捨て難く、特に後藤象二郎等から常に協力を求められるので、其の態度は暖昧模糊たるを免れず、屡々、岩倉・中山・正親町三條・中御門の諸卿及び在京の薩州藩士に、凝惧の念を起さしめるものがあった。
斯くて芸州藩は嚢に藩士植田乙次郎を長州藩に遣して、同藩と協約した出兵の期を、姑く猶豫して上國の形勢を見るに決し、九月二十六日再び乙次郎を山口に遣して、出兵の延期を提議せしめるに至った。
長州藩失機改図の議
当時長州藩に於いては、嚢に薩州藩兵大久保一蔵等が來って、協約した結果に基づき、九月二十五・六日の頃には、薩州藩の兵船が、三田尻に來航するのを待っていたが、期に至っても薩州藩兵は三田尻に影を見せないので、疑惧の念を生じて、藩内に種々な議論が生ずるに至った。
即ち薩州藩兵の來否に拘らず、幕府が末家・家老に上坂を命じたのを機會に、単独に出兵すべしと云う者もあり、又一部には禁門の変で嘗めた苦い経験に鑑み、漸く四境の重圧が去った今日、暫く休養して他日に備うべしとの議論も台頭した。
十月の初め、藩主毛利敬親は、藩要路を會して評議を開いた結果、自ら進んで懸軍萬里の危道を踏むを避けようとの持重論が勝を制して、姑く出兵を延期し、時期を待って後図を策することに決した。長州藩では之を失機改圖の議と称した。
是に於いて長州藩は福田侠平等をして、先づ出兵の延期を芸州藩に告げしめ、更に京都に赴いて、薩州藩士と商議せしめ、また野村靖之助等を鹿児島に遣した。
薩州藩の事情
思うに薩州藩兵東上遅延の理由は、薩州藩の藩論が必ずしも、在京の大久保・西郷・小松等の意向に一致していなかったからである。
藩士町田民部・奈良幸五郎・高崎左京を始め藩士の一部は、出兵に反対であった。
従って嚢に大山格之助が帰藩して、出兵の事に奔走したが、其の實現までには若干の時日を要したのであった。
九月二十七日、薩州藩主父子は諭書を下して、京都出兵は禁闕守護に在るを説諭し、十月三日に至り格之助及び三島彌兵衛は、兵約四百を率い、豊瑞丸に搭じて鹿児島を発し、同六日三田尻に着船した。
時に長州藩では既に出兵延期の議を決した後なので、格之助は兵と共に上陸し、彌兵衛は状を報ずる為に上洛した。
尋いで九日薩州藩家老島津主殿は、兵八百余を翔鳳・平運の二艦に乗せて、小田浦(周防)に着し、是れ亦待機するに至ったのである。
薩長芸三藩会議
薩長二藩の藩地に於ける情勢が斯くの如くであった際、京都に於いては十月八日、薩・長及び芸三藩士は相會して、最後の態度を決する
會議が行われた。
席に列した者は薩州藩小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵、長州藩廣澤兵助・品川彌二郎、芸州藩辻将曹・植田乙次郎.寺尾生十郎であったが、愈々、兵力を以て、王政復古の大義を断行するに決議した。
よって一蔵・兵助・乙次郎の三人は、相携えて中御門経之邸に赴き、経之及び中山忠能に謁して、決議の要目三箇條を上申し、三藩兵が上着すれば、堂上方にも助力せられんことを請うた。
忠能等は之を諒承し、且つ藩主の速かに上京することを促した。
是日帯刀・吉之助・一蔵は連署して、忠能・経之及び正親町三條実愛に討幕の宣旨を下されるよう請願した。
恰も此の時長州藩士福田侠平らが入京して、同藩の失機改図の議を一蔵に告げたので、十一日一蔵・吉之助は相議して、大挙上京の事を藩地に促すに決し、先づ村岡新八を長州藩に遣り、薩州藩兵が三田尻に着船しても、更に当方から一報あるまで待機するよう伝達斡旋を依頼した。
然るに是と前後して、三島彌兵衛は十二日京に着し、薩州藩兵の三田尻到着を報じた。
倒幕密勅の降下
在京薩・長二藩士はなお予定の行動を継続するを怠らず、岩倉具視も薩・長・芸三藩決議の次第を聞き、中山忠能に托して奏聞書を上って、王政復古遂行を密奏した。
其の趣旨は「自今萬國ノ交誼、天地公道の在る所を以て、和戦を決し、進退を定むる際に當り、斯る名分紊乱の制度を以て、萬國と御対峙は相成り難きのみならず、皇国内の人心に於ても亦片時も居合相付き難く、内外実に容易ならざる危急の御大事切迫の御時節」であるから、「断然と征夷将軍職を廃止せられ、大政を朝廷に収復し、賞罰の権、予奪の柄、皆朝廷より出でて、大いに政体制度を御革新在らせられ、皇国の大基礎を確立し、皇威恢張の大根軸を確定せられ度く、非常の御英断を以て速に朝命降下相成り候様願い奉り候事」というのである。
天皇は之を御嘉納あらせられ、倒幕の密勅が薩・長二藩に下されることとなった。先づ降下の順序として、十三日毛利敬親父子に対して、官位復旧の宣旨が下さた。
毛利敬親父子官位復旧の宣旨
其の宣旨は忠能・実愛・経之の奉行であって具視が忠能に代って、之れを兵助を其の邸に召して倒幕の密勅を傳宣した。
其の日付は薩州藩島津忠義父子に対しては十三日であって、毛利敬親父子に対しては十四日と認められている。密勅は両藩兵に同文で、次の通りである。
詔源慶喜累世の威を藉り闔族の強きに侍み妄りに忠良を賊害し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民溝壑(こうがく/死地〕に於いて顧みず、罪悪至る所神州将に傾覆せんとす、朕今民の父母の為是の賊討たずして、何を以て上先帝の霊に謝し、下万民の深讎(しんしゅう\応答)に報いんや。此れ朕の憂憤の在る所、諒闇して顧みざる者、萬己(や)む可からざる也。汝宜しく朕の心を体し賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに回天の偉勲を奉り、而して生霊をして山嶽の安きに措くべし、此れ肢の願い、敢えて惑解すること無かれ。
会桑二藩主誅戮の宣氏旨
尚別に両藩に対して、京都守護職松平容保・所司代松平定敬に誅戮を加うべしとの勅諚も下された。
因に討幕勅書の文は玉松操の起草に成り、薩州藩に賜った勅書は正親町三條卿、長州藩への勅書は中御門卿の筆に成ったと言う。
此の密勅を拝するや、帯刀・吉之助・一蔵・兵助・侠平・彌二郎は、威激流沸して請書を上った。
此の密勅は初め芸州藩にも下される筈であったが、同藩の態度については、堂上並びに薩・長二藩士の間に疑惑があったので、遂に此の事がなかった。
而して是の日、十五代将軍徳川慶喜は、討幕の密勅降下を知るや知らずや、大政奉還の上表を朝廷に上って、勅許を奏請した。
政局は穏約の間に斯くも大きな動きを見せていたのであった。
第三節 大政奉還
一 土芸二藩の建白
薩土盟約の破棄
岩倉具視等及び薩・長二藩の討幕計画が、既に密勅の降下を見るまでに進展を告げていた際、一方に土・英二藩の大政奉還の議も、着々進捗していたのである。
嚢に士州藩論を齊して上京した後藤象二郎等は、九月七日小松楴刀・西郷吉之助を訪い、大政奉還の建白書提出の事を議るや、薩州藩士等は今に及んでは口舌の能く局面を打開すべきに非ず、将に討幕の師を起こそうとすることを告げた。
象二郎は弁論頗る力めたが、薩州藩士等は遂に聴かなかった。
九日象二郎は福岡藤次と共に再び彼等を誘い、暫く挙兵の延期を求めたが、彼等は貴藩は之に関係なく建白せらるべしと答えて、なお之に応じなかった。
是に於いて象二郎等も、単独に建白書を提出するに決意し、相互に其の行動を妨害せざる事を約し、茲に薩土盟約は全く破棄せられたのであった。
後藤象二郎の奔走
斯くて象二郎は、一たび九月二十四日を以て建白書を提出せんと決したが、猶目的の達成を熱望する余り、之を延期し、芸州藩家老辻将曹を説いて、己れの説に同意せしめ、将曹及び薩州藩士中井弘三等に依頼して、更に帯刀を説かしめ、己れも亦奔走遊説頗る努める所があった。
帯刀は元來隠和の人物であったので、土州藩の説に傾き、在京の重臣島津備後も亦帯刀を支持するに至った。
吉之助・一蔵等は固より硬論を棄てなかったが、強いて帯刀等の議に異議を挟まなかったので、十月二日薩州藩は、更めて土州藩に対して、建白書の提出に異論なさ旨を通告した。
山内豊信の建議
是に於いて翌三日、象二郎は同藩の神山定多衛と共に老中板倉勝静を訪い、予て準備せる山内豊信の大政奉還の建白書を提出したのであった。
誠惶誠恐謹みて建言壮り候、天下憂世の士口を噤じて、敢えて言わざるに到り候は、誠に偶れ可くの時に候、朝廷幕府公卿諸侯旨意相違の状あるに似たり、誠に懼れ可くの事に候、此れ二懼は我が大患にして彼の大幸なり。彼の策是に於いて成るかと謂う可く候、是の如き事態に陥り候は、其の責至竟誰に帰すべきや、併せて既往の曲直を喋々弁難すとも、何の益かあらん、唯願わくは、大活眼大英断を以て、天下万民と共に、一心協力、正明正大の道理に帰し、万世に亙りて耻(はじ)ず、万国に臨みて愧じざるの大根底を建てざる可からず、此の旨趣前月上京の砌にも、追々建言仕り候心得に御座候得ども、何分阻當の筋のみ之れ有り、其の内図らずも舊疾再発仕り、帰国止め得ず仕り候、以来起居動作といえども、不随意事に成り到り、再上の儀暫時相整え申さず候ては、誠に残憾の次第にて、只管此の事のみ日夜焦心苦思仕り罷り在り候、因て愚存の趣一二家来共を以て言上仕り候、唯幾重にも、正明正大の道理に帰し、天下万民と共に、皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万国に接し王政復古の業を建てざる可からざるの一大機会と存じ奉り候、猶又別紙得度く御細覧仰せ付けられたく、懇々の至情黙視難く泣血泣涕の至りに堪えず候。
慶応三年丁卯九月 松平容堂
文中用語に妥当を欠くものがあるも、旨趣は大いに見るべきである。
別紙は寺村左膳・後藤象二郎・福岡藤次・神山左多衛の連署を以て、内外庶政の急務、更始一新の要諦を列挙したものである。
即ち政治の大権を朝延に還し奉り、上下両院の議政所に於いて國政を議すべく、学校を都会に設けて学芸を教導すべし、又外交の刷新、軍備の充實、法律制度の釐革(りかく\改革)等の要を述べたものである。
而して特に國政を議する士大夫は私心を去り、術策を設けず、正直を旨とし、既往の是非曲直を問わず、国家の前途を担当すべきであって、言論多くして実功少なき通弊は、之を改むきである。
若し既往の事に拘って、弁難抗論し、朝廷・幕府・諸侯が互に相争う意あるは、尤も然るべからず、是則ち豊信の志願にして、愚瞭不才を顧みず、敢て大意を献言する所以であるというのである。
蓋し土州藩建白の趣意は、幕府をして大政を奉還せしめ、之を以て過去の失措及び恩怨を清算し、公卿・諸侯が齊(ひとし)しく至公至平の大道に則って・国政を更新しょうというのである。
されば既往の罪状を含めて、幕府を討伐せんとする薩・長二藩とは全然其の趣意を異にしているのである。
而して翌四日、左膳・左多衛は二條摂政邸に低(いた)り、建白の次第を言上し、且つ其の謄本を呈したのであった。
浅野茂長の建議
土州藩の建白と共に看過すべからざるは、芸州藩の建議である。
芸州藩の素志も土州藩と同じく、同藩に於いて大政奉還の建白書を提出するに決し、十月六日藩主浅野茂長の名を以て、建白書を幕府に致したのであった。
其の大意は、今日の如く流弊累積して物議百出し、天下の人心支離滅裂、禍乱の起る旦夕を測るべからざるに至った所以は、大義名分の明かならざると、皇威の陵夷とに帰すべきである。
今にして徒らに枝葉末節に拘泥して、大本に反省する所なくば、時運挽回の機會は得られないのである。
宣しく自然の理に基づき、大義を明かにし、名分を正し、政柄を朝廷に帰して、天下の諸侯と共に万機献替の丹誠を披歴し、柳がも矯勅の嫌い、墾塞の疑のなきよう反正の實蹟を学ぶべきである。
若し事茲に至りて、猶舊轍を踏まば、遂に不測の禍害を生ぜん事を恐る。
願わくば熟慮勇断せられんことを希うと言うのであった。
斯くて幕府の大政奉還は、是等外藩の建議に基づいて、急速に實現を見るに至ったのであった。
二 大政の奉還
幕府と体制奉還
文久以來雄藩の台頭、志士の活躍及び尊攘論の沸騰に曲って、幕権の維持が漸く困難となった際、速かに大政を奉還して、責任の地位を去ることが、徳川氏としては最も賢明な活路であると考えた者もあった。
松平慶永の如きは其の一人で、屡々之を幕府に提議したのである。
其の後幕府の権威は衰退の一路を辿りながらも、なお時運に伴って一弛一張を繰返して、愈々其の末期に及んだ、而も二百六十余年の長き歴史を有し、譜代恩顧の大名・旗本等に擁せられて、因襲のカに余喘を保つ幕府としては、自ら進んで其の眷属郎党の思わくをも顧みず、家康以來の覇業を擲って、政権を奉還するが如きは、実に容易の業ではなかった。
併し慶応二年幕府が長州再征に失敗するに及んでは、天下具眼の士は、幕府の運命が早晩窮極に達すべさを豫知するに至った。
土州藩士中岡慎太郎は其の日乗に、王室を尊ぶは則ち徳川氏を助くる所以である。徳川氏を助ける今日の策は政権を朝廷に返上し、自ら退いて臣子の分を尽すにある。
若し強いて暴威を張らば、其の滅亡は必然であると喝破している。
また幕府有司中でも若年寄格永井尚志は、後藤象二郎から大政奉還建議の内談を受けて、之に賛意を表し、速かに建白に及ぶべきことを慫慂したのである。
将軍慶喜の態度
然らば将軍慶喜の政権奉還に対する態度は如何であったか。
慶喜が後年他に語る所によれば、彼が徳川宗家並びに將軍職を襲ぐに際し、此の際幕府を廃して王政に復せんは如何と、其の素志を腹心原市之進に告げて可否を諮った。
然るに市之進は、貴意如何にも遠大の深慮にて御尤もの次第であり、且つ王政復古は早晩行わるべきであらうが、其の方法宜しきを得ず、一歩を誤らば非常の紛乱を招き、又収拾すべからざる事態に陥るであろうから、今は先づカの及ぶ限り、祖先以來の規範を持続すべきであると説いたので、慶喜も之を容れて、将軍職に就き、国政を秉(と)る責に任じというのである。
蓋し當年の慶喜の心境に就いては、複雑なる政情と其の環境とに稽(かんが)え揣摩(しま/個人的)憶測を許さないが、其の後天下の形勢が一層切迫を告げた翌慶応三年の後年期に治(およ)んでは、必ずや聡明を以て聞えた慶喜は、到底幕府の維持し難いことを洞察し、君臣の大義に遵って、祖先以來の遺業に有終の美を濟すを決意したのである。
王政復古の世論
當時体制奉還が略々、天下の通議であったが、其の時期・方法及び王政復古後の政治体制等に就いては、世の識者の間に確乎たる定見を有する者は少く、前途に幾多の疑惑や不安が抱かれていた。
勤王志士の間には建武中興を理想とする議があり、また玉松操の如きは、其の規範を神武創業に則るべしとの意見を有っていた。
而して土州藩の公議政体論即ち議院制の採用に就いては、松平慶永は書を老中板倉勝静に致して、象二郎の意見はとても方今行わるべきものでない。
彼は西洋法を信じて議事院の論を立てているが、是は洋法を假りて私説を恣にしようとするものである。
若し朝廷で輕卒に此の議を御採用になっては、天下に一大変動が起ることは必然で、憂慮に堪えない。
幕府に於いても十分考慮すべきことを説いたのである。
将軍慶喜の決意
後藤象二郎等は十月三日建白書を提出した後、屡々板倉勝静・永井尚志を誘うて、其の採否如何を促した。
将軍慶喜及び其の左右は、當今の時勢として大政奉還は至正至公の道理であるが、唯實行後果して治平が望まれるか否かの目算が立たないので、なお躊躇したのである。
依って十日慶喜は旨を勝静に授けて、松平慶永に腹蔵なき意見を徴せしめた。
翌十一日尚志は象二郎に來訪を求めて、建白採納の事を内報し、慶喜も亦書を前尾州藩主徳川慶勝・紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)に与えて意見を求め、且つ其の上京を促した。
勝静が將軍の意を承けて、慶永に贈った書の趣旨は、山内豊信の建議は至當の論ではあるが、只其の實行に伴う利害得失如何に就いて深く苦慮している。
一朝王政に復せられて、皇国は必ず平穏、上は宸襟を安んじ奉り、下は萬民安堵せば、将軍職の如きは顧みる所でない、王政復古が本懐であるとの公明正大な台慮である。
只前途の目算なお立ち難く、容易に決着し難いに由り、茲に衆議を尽くされるというのであった。
此の書に対して慶永は、王政復古は近年の通議で至當の論の如くに聞えるが、今日猝(にわ)かに王家の舊制に復する事の利害は、淺識の予輩には、確論も立たぬが、豊信の議論の正大なることは信じ得る。
果して其の見込の如く與望に副い、時運に適するならば、更に懇篤に垂問を重ねて断然之を採納すべきであると応えた。
慶永の意見にして既に斯くの如く、諸侯は概ね十分の目途は有たず、如何に大政奉還が言うは易く、之を断行するの難かったかは、想察に余りあるのである。
将軍慶喜の諭告
されど既に大政奉還を決意した將軍慶喜は、十一月十二日老中を始め京都守護職松平容保・所司代松平定敬以下在京の有司を二條城に召見して、自ら其の決意を告げた。
大意にいう。
家康以來の鴻業を一朝にして廃絶するは、先霊に対して憚りあるも、要は天下の治平を保ち、宸襟を安んじ奉るは、神租の盛業を継述する所以である。
今や徳川家の武備は衰えて、天下の諸侯を制御する威力はなく、二十年來の菲政を数(せ)められなば弁明の辞がないので在る。徒に覇業の迹を慕って現状に執着すれば、益々罪責を加え、遂には政権を奪われるは必然である。
則ち當に自ら反省して、己れを責め、私を去り、從來の菲政を悔い、至忠至公の誠心を以て、群侯と共に朝廷を輔翼し、全国の力を戮せて、皇国此の後の大策を定め奉るべきである、
と懇諭したのである。
殿中寂として之を傾聴し、敢て一語を発する者はなかった。
在京諸藩重臣へ諮問
十三日将軍慶喜は、十萬高石以上の諸藩(約四十藩)在京の重臣を二條城に召集した。
是日坂本龍馬は営中参集の事を聞き、後藤象二郎に説いて、若し建白の事が行はれなければ、君は営中に死せよ、予は海援隊の壮士を率いて、大樹を参内の途中に刺さんと激励したという。
営中に於いては板倉勝静が大政奉還の書を示して、忌揮なき意見を徴し、意見ある者は将軍が直接尋問すべしと告げた。
参集の諸藩重臣の多数は、非常の大事なれば速かに藩地に報じて、其の意見を徴すすべしと答えて退出したが、薩州藩小松帯刀、土州藩後藤象二郎・福岡藤次、芸州藩辻將曹及び備前藩牧野権六郎・宇和島藩郡築荘蔵の六人が、将軍に面謁しようとして居残った。
慶喜は先づ薩・土・芸三藩士四名を召見したが、帯刀等は慶喜の英断を称え、速かに上奏すべきを請い、慶喜は之を納れた。
次いで慶喜に謁した備前・字和島二藩士も、同じく将軍の誠意を謝し、速かに公平の処置あるべきを述べ、茲に七百年に亙る武家政治に終局を告げる二條城中連日の會議は終了したのである。
大政奉還の上表
慶応三年十月十四日、将軍慶喜は高家大澤石京大夫基壽(もとすみ)を使いとして、政権並びに位記返上の事を奏上せしめた。
大政奉還の上表に曰く、
臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考え候に、昔し王綱紐解で、相家権を執て、保平の乱政権武門に移りてより、租宗に至り更に寵春を蒙り、二百年子孫相受け、臣其の職を奉ずと離も、政刑當を失うこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す所、慙懼に堪えず候。
況や當今外国の交際日に盛なるより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、從來の舊習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候得ば、必ず海外萬国並び立つ可く候。
臣慶喜国家に尽くす所是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込みの儀も之れ有り候得ば申し聞かす可く旨、諸侯へ相達し置き候。之れに依り此の段慎みて奏聞社り候、以上
十月十四日 慶喜
と、実に上奏文は幕府の失政を陳謝し、列強と対峙する上には、政権を朝廷に帰し奉り、天下の公議に基づいて挙国一致の實を挙げ、以て国体を擁護し、皇威を赫燿せしめようというのであって、肇國の大理想に蘇った大文字というべきである。
宜なるかな、此の将軍慶喜の誠意は九重の天意に叶い、直ちに御嘉納あらせられて、天皇の御親政を仰ぐこととなったのである。 (P734)
◎幕末維新史研究会 / 第 34回テーマ 王政復古 明治天皇踐祚
日時:令和6年3月23日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十四回テーマ]
日時 令和六(二〇二四)年三月二十三日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p696‐p716を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
箏六章 王政復古
第一節 明治天皇踐祚
孝明天皇不予
皇儲睦仁親王の儲君とならせ給いてより茲に七年、長州再征の兵革が未だ全く熄まなかった慶応二年十一月、親王を始め奉り、我が国上下は卒然として一大不幸に逢遭したのである。
是の月の初め、孝明天皇は聊か御風気みに拝し奉ったが、其の十一日内侍所臨時御神楽に押して出御、侍医の言上もあって、御所作の行われる前には入御あらせられた。
然るに其の後幾ばくもなく御熱気御強く渡らせられ、十七日遂に御痘瘡と拝診し奉ることとなった。
斯くて親王・准后を始め奉り、宮・堂上等の憂慮は筆紙に尽くし難く、侍医・典薬等は其の力のあらん限りを傾け七杜七寺を始め大小諸社寺は、御平癒の祈願に丹精を擬した。
二十一日将軍徳川慶喜・京都守護職松平容保・所司代松平定敬等は参内して、天機を候(伺う)した。
天皇崩御
斯かる間にも、御病勢は日を追って進ませられ、終に二十五日亥半刻^午後十一時頃)に御登遐あらせられた。宝算三十六。
尋いで二十九日大喪を天下に発表あらせられたのである。
後明治元年八月御崩日を二十五日とし、太陽暦に改暦後は一月三十日を御祭日に御治定あらせられた。
御葬送
慶応三年正月二十七日、御葬送の儀が厳かに行わせられ、洛東泉涌寺の霊域に葬り奉った。
後光明大皇以来天皇御火葬の御事は廃止せられたが、なお泉涌寺の山頭にて、御茶毘作法の形式のみが行われる例であったのを、此の度は全く之を止められ、山陵の制に復し、陵號を後月輪東山陵と称せられた。
二月十六日目御諡號を以て、孝明天皇と称し奉る旨仰せ出された。
これは前権中納言八條隆裕の勧進に係り、孝経の「明王父孝に事える故に天明に事う」に基づいたのである。
恭しく惟みるに、孝明天皇の御治世二十一年間は、我が国前古未曾有の国難に際會して、波瀾重畳、内憂外患は一日も絶える間がなかった。
畏れくも英邁剛毅にまします天皇は、病く宸襟を悩まし結い、常に国体の擁護、大業の恢弘、朝権の伸張、赤子の愛護に、大御心を労し給うた。
叡慮の畏ろしさは、時々国事に関して、朝臣に示し給える数多き宸翰の中にも拝し奉るのである。
當時輔弼の朝紳、有志の侯伯、草葬の志土等が、終始渝(かわ)らせ給わぬ大御心を拝し、感奮興起して、奉戴の意を寄せ奉り、難局の打開、皇威の発揚に献替報効の枕を尽くしたのであった。
聖徳の至高、聖恩の洪大、誰か欽仰せざるものがあらう。
然るに維新回天の大業が、将に明日を以て成らんとする際、弊(にわ)かに晏駕し給う。寔にに恐擢悲歎の極である。
明治天皇踐祚
慶応三年五月九目、皇儲睦仁親王は、清涼殿代に臨みて践昨あらせられ、第百二十二代の皇
統を継がせ給うた。天皇時に聖壽漸く御十六。
二條齊敬摂政と為る
未だ御幼冲の故を以て、関白二條齋敬が摂政に任ぜられた。
今や邊(にわ)かに聖天子を喪い、烏羽玉の晴夜に灯を失った我が上下は、新に九五の位に即かせ給うた天皇に、只管忠誠の心を寄せ奉ったのである。
天皇の御生母遽中山慶子は、新しき御治世の御行末を案じ奉って、父忠能への音信に、
実に々々是よりは一人親王様御心得御大事、何卒天下萬人悦服し、四海泰平衡徳を仰せ奉り候、賢名の英君に成らせられ候様、信心の外之れ無く候、中点ゆだんのならぬ時節、萬事恐入り々々候
と述べておられるが、斯かる言は亦齊しく全国民の祈願の聲であった。
列聖の神霊争でか此の赤子の熱誠を憫察し給わぬことがあらう。
叡聖文武にまします英主は相腫いで世に出でさせ結い、新興日本の基礎は愈々固められる
に至ったのである。
第二節 討幕運動の趨勢
一 薩長土芸四藩の行動
薩州藩の倒幕決意
長州処分・兵庫開港の両問題をめぐって、島津久光・松平慶永・山内豊信・伊達崇城四侯の
意見が、必ずしも一致しなかった上に、幕府も反省して四侯の意見を容れる誠意がなかったが為に、久光を始め西郷吉之助・大久保一藏等の国論を統一して、時局を収拾しようとした意
図も、事志と違うに至った。
是に於いて薩州藩は平和手段に依る時局打開の希望を拠ち、兵力に訴えても、幕府を倒して政権を朝廷に復し奉り、天朝を輔翼して、皇威挽回の大策に遭往せんと決意するに至った。
大久保一蔵が、六月在藩の蓑田樽兵衛に致した書翰の中に「畢竟幕府の意底、四藩の御公論を採用、悔晤反正、勅命奉載、正大公平の道を以て、皇国の御為に尽力致す可きとの趣意、毛頭相顕れず、是非私権を張り、暴威を以て正義の藩といえども、圧倒畏服せしむるの所為、顕然明白にて、実に助け可からざる次第に御座候」と幕府の態度を批評し、「此上は兵力を備え、聲援を張り、御決策の色を顕わされ、朝廷に御尽くし御座無く候ては、中々動き相付け兼ね候」と述べて、速やかに使者を長州藩に派遣して、盟約の趣旨を実行に移すことを議り、且つ藩地から一大隊の兵を京都へ増遣せらるべきことを告げている。
山縣狂介等の帰藩
六月十六日、當時未だ在京中であった嶋津久光は、京都薩州藩邸に潜伏していた長州藩士山縣狂介(初小輔)・品川彌二郎を招いて、以上の決意を語り、不日西郷吉之助を長州に遣わして、大義貫徹の方策を議せしめるであろうから、帰藩して之れを藩主に告げん事を求め、六連発の拳銃を与えた。
なお小松帯刀よりも之を敷衍して「長薩連合、同心戮力教し、大義を天下に鳴し度く、幣藩一定の見込、御熟議仕る可く候間、腹蔵無く御気付きの事件御指揮成し下され度く、就いては不日吉之助差出し、御国一定不抜の御廟議も相窺い度く」と説明した。
翌十七日狂介・彌二郎は、鳥尾小彌太・田中顕助と共に、京を発して、西下の途に就き、山口に向ったのである。
然るに略々、之と時を同じうして、上州藩に於いても新しい国事周旋が開始せられ、薩・土二藩間に新交渉が開かれるに至ったので、薩州藩の討幕の計画は為に一時迂路に入り、吉之助の長州藩訪間も延期ぜられたのである。
土州藩の大政奉還論
是より先、士州藩士乾退助(板垣退助〕は兵學修業の爲に江戸に赴き、浪士中村勇吉・相樂総三の徒を築地の藩邸に隠匿して、密かに機の至るを待っていた。
慶応三年五月退助は同志中岡愼太郎等の勧説によって入京し、慎太郎及び谷守部等と議して、薩州藩の倒幕の挙に加わろうとし、五月二十一日相倶に小松帯刀の僑居に、帯刀・西郷吉之助等と會して、戮力を盟い、退助は帰藩して同志を募り、再び上京せんことを約した。
蓋し退助等は土州藩に於ける所謂急進派であったが、同藩の大勢は之に反して、前藩主豊信を始め、藩の要路は、挙兵討幕に與みせず、平和手段に由って、時局の打開を企圖しようとしていたのである。
而して士州藩論を代表して、新に中央政局に活躍を始めた者が後藤象二郎である。
当時象二郎は藩命を以て長崎にいたが、同藩の海援隊長坂本龍馬と相知り竜馬の時難救済策を聞いて、之に共鳴し、之を前藩主豊信に進言しようとした。
龍馬の意見は、幕府をして政権を奉還せしめ、公議政体を以て更始一新の国是を樹て、之を以
て皇運を挽回し、国威を発揚しようとするのであった。
偶々、象二郎は豊信から上京を命ぜられたので、龍馬と相共に海路上京した。
船中八策
其の船中に於いて立案せられたものが世に謂う船中八策である。
其の綱領は、一、大政を奉還して、政令を朝廷に帰す。二、上下の議政局を設置しで、萬機を公議に決す。三、人材を登庸して、冗官を省く。四、外国との交際を公議に基づいて、至當の規約を立つ。五、古來の律令を折衷して、無窮の大典を撰定す。六、海軍を拡張す。七、新兵を設置して、帝都を守衛す。八、金銀貨及び物価を外国と平衡せしむ、というのである。
斯くて象二郎等は、六月十三日を以て入京した。
豊信既に退京していたけれども、眞邊榮三郎・寺村左膳・福岡藤次等が在京し、佐々木三四郎も尋いで上京したので、是等と協議を遂げ、此の大策を前藩主豊信に頼って、實現せしめよ
うと決し、象二郎等は豊信の決起を促す爲に帰藩することとなった。
併し此の大事を決行するには他の雄藩の協力を求める必要があるので、象二郎等は帰藩に
先だち、伊達宗城に之を説いた。
宗城は時機尚早と為し、西郷吉之助等に議ることを勧めたので、象二郎は先づ薩州藩士中井弘三を説き、尋いで六月二十二日龍馬・慎太郎・藤次・左膳等と共に小松幣刀・西郷吉之助・大久保一蔵等と会見して、其の持論を開陳して賛同を求め、両者の意見は一致を見、茲に薩・土盟約が新に成立したのである。
薩土の盟約
此の盟約の主旨は「国体を匡正し、萬世萬國に亙り恥ざる、是れ第一義」とし「王政復古は論なし、宣しく宇内形勢を察し、斟酌協正すべし。国に二帝なし、家に二主なし、政刑唯一君に帰すべし。将軍職に居て政柄を執る、是れ天地間有るべからざるの理也、宣しく侯列に帰し、翼戴を主とすべし」というを眼目とし、「右方今の急務にして、天地間常に有る大條理也。心力協一にして、斃れて後已ん。何ぞ成敗利鈍を顧るに暇あらんや」というのである。
薩州藩の態度
思うに薩州藩が、既に長州藩と固く結んで、武力解決を意図しながら、今また士州藩の勧説を容れて、平和解決に盟約したのは、一見如何にも其の態度を二にした如き観があるが、仔細に当時の事情、薩州藩其の後の動向を観察すれば、西郷・大久保等が豹変したとはあながち断ずるを許さない。要は猶藩の内情もあり、討幕の決行も、若干の準備と時運の推移を見る必要があって、寸刻を争うまでに、機運が急迫を告げていず、土州藩の大政奉還論は、寔に正々堂々の論であって、敢て之に反対すべき理由がないのである。
而して此の論を豊信が果して採納するや否やに就いては、久光・宗城等は寧ろ之を危んでいた程であった。
されば佐々木三四郎が薩州藩の態度を評して、「此度の事は吾藩を主人となし、一本打たせ、後に大いに成さん目的なり。是れ吾藩に十分のび荷を負わせたる事なり」と言える如く、兎に角士州藩に一役を担当せしめ、以て時勢の転換を見ようと欲し、暫く其の鋒鋩(過激性)を収めたものと見るべきであらう。
土州藩の決定
薩州藩の賛同を得た後藤象二郎は、當時土州藩と同じく、大政奉還の意見を持って上洛していた芸州藩の家老将曹とも協議して、其の賛同を得たので、七月三日京を発して藩地に帰った。
此の際象二郎は、速かに藩論を決定し、且つ主張貫徹の為に卒兵再上京すべき意気込みであった。
山内豊信は象二郎の大政奉還・公議政体に関する意見を聞き、薩・長の討幕計画に対して、徳川氏をして、大政を奉還せしめ、之を滅亡より救うは、恩義両全の良策なりとし、直ちに其の説を容れて、之を朝廷・幕府に建議するに決し、先づ之を家士に諮問した。
之に対して帰藩後大目付・軍務総裁に抜擢せられていた乾退助は、西郷との約に由って、密かに同志を糾合していたが、豊信に謁して、政権奉還の名は美なるも空論である。徳川氏既に馬上に天下を得たり、之を馬上に復するに非されば、数百年來の覇業を倒すことを得ないと切論したが、豊信は之を暴論として斥け、退助の職を罷免した。
八月二十日豊信・豊範は重臣を召見して、藩論の一定を告げ、近日之を朝幕に建議すべきを謝し、建白の事は、之を後藤象二郎・寺村左膳の二人に委任したのであった。
斯くて象二郎・左膳の二人は、八月二十五日一兵をも率いず、急ぎ高知を発して、九月二日大坂に着し、翌日西郷吉之助及び辻将曹と會して、藩議の決定を報じた。
此の際将曹の態度は楡(かわ)る所がなかったが、吉之助は京都に於いて再議しようと答えたのみで、既に之と提携する意思を示さなかったのである。
蓋し象二郎等が高知に二箇月間滞在していた間に、走馬燈の如き當時の政局は、一時も停滞することなく、武力解決派の運動は著しく進展し、其の機運は益々、熱するに至ったので、象二郎等が一片の建白書を以て、旋乾轉坤(倒幕)の大事を決しようとするには、前途の苦心努力は、頻る大きなものがあったのである。
薩長両藩の交渉
是より先、薩・土二藩間に盟約が成立し、西郷吉之助の長州藩訪問が後れたので、在京の薩州藩要路は七月十五日村田新八を長州に遣して、其の事情を告げしめた。
新八の報告に接した長州藩は、敢て薩州藩の心事を疑うことは無かったが、上國の情勢を詳知する必要を痛感し、同月十七日藩士品川彌二郎等を新八と共に上京せしめ、尋いで柏村数馬等に上京を命じて、更に薩州藩要路と協議せしめたのである。
数馬等は八月十一日京都薩州藩邸に入り、屡々帯刀・吉之助・一蔵と会して薩州藩の意表を糺したるに、場合に依っては、薩州藩一手にても事を挙げる決意である旨の明答を得たのである。
然るに其の後薩州藩は、土州藩が豊信の意向で一兵をも動かすを欲しないことを知ったので、愈々、挙兵討幕の決意を新にしたのである。
大久保一蔵の長州訪問
当時、島津久光は京を辞して大坂に駐まっていたが、九月十五日愈々帰藩の途に就くに當って、大久保一蔵・大山格之助を長州に差遣わした。
一蔵等の使命は、一は柏村数馬等來訪の礼に答え、一は挙兵討幕の具体案を協議する為であった。
此の時京部薩州藩邸に潜伏していた長州藩士伊藤俊輔・品川彌二郎も共に西下し、一行は九月十六日三田尻に着船し、翌日山口に入って木戸準一郎・広澤兵助と會談し、十八日藩主毛利敬親父子と會した。
一藏等は幕府が公論を拒み、私意を増長するに依り、薩州藩が断然決起するに至った事情を述べ、薩州藩は京都方面を一手に担当し、決死禁闕の守護に當る決心であるが、微力にして終局の目的を達し得るや否や憂慮に堪えない。
而も歴戦後の貴藩に対して、出兵を請うは、衷心忍びざるものがあるが、幸いに応援の兵を出されるならば、皇国の為に大慶であると申出でたのである。
敬親父子は之を快諾し、一藏に遠來の労を慰し、來國俊在銘の短刀を贈った。
斯くて翌十九日、一蔵は準一郎・兵助等と協議して、茲に薩・長挙兵に関する盟約約を結んだのである。
其の要旨は、薩州藩の軍船は東上の途次一旦三田尻に寄港して、長州藩兵と共に摂海に向うこと、而して其の期日を略々、九月中と為すも、猶時勢によって臨機変更を免れないこと、大坂城の攻略は京都一挙の役とすること等であった。
而して此の二藩の提携を一層強化したのは、芸州藩が加盟したことであった。
芸州藩の加盟
嚢に政権奉還の藩論で、土州藩に合流した芸州藩は、其の後薩州藩の勧説を容れて、之と提携するに決した。
偶々、長州藩と協議する使命を滞びて、長州に入った芸州藩士植田乙次郎は、十九目官市駅で大久保一蔵の帰途に邂逅し、具さに薩・長二藩の協定を聞いた。
翌二十日乙次郎は山口に入って、藩主父子に面會し、木戸準一郎・廣澤兵助と會して盟約を結び、芸州藩兵は薩・長二藩兵を御手洗港に待受け、其の兵の一部は大坂に上陸し、残余は長州藩兵と共に、西宮附近に上陸待機し、且つ長州藩家老の上坂を誘引せん事を約したのである。
斯くて薩・長・芸三藩の間に、挙兵の協定が成立し、其の行動を起こすのも、将に旬日を出でないこととなった。
是の時に當って京都の形勢は果して如何であったか。
二 岩倉具視及び王政復古派堂上の運動
岩倉具視の運動
当時有志の堂上・地下等の間にも、王政復古の気勢が漸次昻まっていた。
而して隠然其の中心に立った者は、堂上中の偉傑岩倉具視である。
具視は時に和宮御降嫁の事に斡旋して、尊擾派の反感を買い、勅勘を蒙って洛外岩倉村に閉居し、転変極りなき世の状態を軟じて、時期の匡救に志し、密かに処土藤井九成・非蔵人松尾但馬・水戸人小林彦次郎・土州人大橋鐵猪・薩州人藤井宮内・井上石見等を耳目とし、「叢裡鳴蟲」、「続叢裡鳴蟲」、「全国合同策」等の策論を草して時事を論じ、朝権の確立、国論の統一を主張した。
既にして慶応二年夏秋の交、幕府が征長再役に失敗して、天下の人心の離反するを知るや、具視は密かに一篇の策論を闕下に上り、また宮内・石見二人をして、山階宮・近衛前関白等に入説せしめた。
策論の要旨は、速かに朝議を確立し、幕府に詔して大政を奉還せしめ、徳川氏をして列藩と共に皇運扶翼の任に応らしめ、また征長の兵を罷めて毛利敬親父子を処分するに寛典を以てし、天下一新の変革を決行せんというにあった。
三十二卿の列参
然るに當蒔廟堂には、賀陽官・二條関白等の佐幕派が勢力を占めていたので、具視及び同志の堂上等の意見は、容易に行われなかった。
具視は密かに其の同志中御門経之・大原重徳等と謀り、有志の堂上をして列参建議を爲さしめようとした。
斯くて慶応二年八月晦日、経之・重徳等二十二人は参内、天顔に咫尺(しせき\近づく)し奉り、諸侯を召集して国是を議定し、安政(戌午)以來幽閉の宮・堂上を赦免し長防追討の兵を解き、且つ朝政の革新を行わせ給わんことを伏奏し、暗に賀陽宮・二條関白を弾劾したのである。
天皇は具さに之を聞召され、諸侯召命の事は聴許あらせられたが、他は之を許し給わなかった。
宮及び関白は、之が爲に責を負うて辞表を上ったが、御聴許なく、また幕府も必死に之が阻止に力めたのであった。
斯くて十月二十七日、経之・重徳等列参の二十二卿は、結党建白の故を以て閉門・差控に処せられ、山階宮・正親町三候実愛等も之に連座し、具視等に対する幕府の監視は一層厳重となって、其の運動も一時頓挫するが如くに見えたのであった。
王政復古派堂上の進出
尋いで十二月御大喪に遭うや、具視等は特赦の行わせられる際、幽閉堂上等の赦免を冀ったが、幸に翌三年正月十五日、有栖川宮幟仁親王の外に十二人、二十五日、有栖川宮熾仁親王の外に八人、三月二十九日、山階宮晃親王の外に二十三人は、敦れも其の幽閉を訳かれた。
是に於いて廟堂に於ける形勢は一変し、王政復古派の堂上は其の勢を挽回した。
而して具視は未だ蟄居を赦されなかったが、久我建通・千種有文・富小路敬直と共に入洛を許された。
但し具視等はなお月に僅かに一回の帰宿を許れたのみであったが、自ら羽翼を伸ばす機会に恵まれ、国事に周旋するに便宜を得たのである。
幽閉五箇年の久しき後、漸く此の恩命を拝した具視は、聖恩の辱(かたじ)けなきに感激し、直ちに二條摂政に請うて、前朝の御陵に参拝し、天皇の御幼沖に在わすことを思い、益々国事を憂うるの誠意を加えたのである。
慶応三年三月、将軍慶喜が外国使臣を大坂城に引見するを聞いて、具視は憂慮に堪えず、齊時の策を草して、二條摂政に上り、外交・航海の権を朝廷に収め、制度変革・国政一新の議を建白した。
岩倉具視の幕府倒滅論
四月更に航海・済時の二策を中山忠能・正町三候實愛に示し、別に己れの所懐を吐露して言う。
前年來既に倒幕の断行を決意せしも、軽壌妄動は成功を齊す所以でないから、専ら幕府の実
情を探り、機の到來を待っていた。
然るに熟々、現將軍の動止を現るに、志望は小ならず、決して軽視すべからざる勁敵(きょうてき)である。
今断然幕府を廃して、徳川氏を諸侯の列に加え、大政の統一、確乎不抜の制度を立てられよ
うとするには、一篇の詔勅のみを以てしては到底行わるべきでなく、絡局は必ず兵力を要するのであるから、其の方略に違算なきを期すべきである。
而して列侯中侍むべきものは、薩・長始め四五藩の外に出ない。是等諸藩に対しては、和衷協同、克く朝意を体して、永く朝廷の股肱たらしむべきであると。
蓋し兵力を有たない公家として、此の識見と此の決意とがなければ、其の主政復古論も空論に終り、到底時局を旋転せしめることは出來ないのである。
岩倉具視と玉松操
當時諸藩の藩士・志土等のうち、具視の識見高遠なるを聞いて、彼に接近しようとする者が漸次多くなったが、幕府が彼の身邊に監視の眼を離さないので、薩・長諸藩士等が彼の隠棲に出入することは容易でなかった。
茲に慶応三年の春、平田門大国隆正の門人玉松操は、三上兵部の推挙によって、具視の為に文筆の労を執るに至った。
操は資性剛毅にして国學に造詣が深く、常に具視の謀議に與かり、具視をして予が当年の事業は、概ね彼の献策に俟つ所大なりと」言わしめた程であった。
岩倉具視と薩長
既にして九月に至り、具視は時勢既に切迫して、王政復古の期愈々近きに在りと爲し、書を中山忠能に致して、「皇国正気憤起も近くて一二ヶ月に之れ有る可く、密告の者之れ有り」と告げ、王政復古の断行を忠能及び正親町三條実愛・中御門経之に説き、また経之等をして薩・長・芸三藩士との連絡を密接ならしめた。
十月六日、経之は己れの別業に具視及び大久保一藏・品川彌二郎二人を會し、密かに幕府を討伐して、王政を復古する方策を商議した。
其の席上、具視は平素読究していた太政官の職制案を示し、且つ玉松操の考案に成る錦旗の図を一蔵等に授けて、之を製作することを託した。
一蔵は錦旗の材料を購入し、彌二郎が之れを山口に携行して日月章の錦旗各二旒と、菊花の紅白旗各十旒とを調製し、一半を山口に、一半を京都薩州藩邸に密蔵した。
斯くて具視・経之及び一歳・彌二郎等は、一堂に會して協議を遂げ、茲に愈々王政復古の計画は、討幕派堂上と薩・長二藩との間に熱したのである。
翌日具視は一蔵に書を送って「昨日は久々にて出會い、多年の宿志貫徹、欣喜此の事に候」とて、宿望の達成せられようとするを欣(喜)んだのである。
三候実美等五卿の動静
京都に於いて王政復古派堂上の言動が活発となるに及び、遠く筑前大宰府に在る三條實美等五卿も亦、中岡愼太郎等の斡旋によって、東西聲息を通じ、三條・岩倉両卿の提携が遂に成ったのである。
慶応三年正月、五卿は未だ帰洛の事も叶わず、西走後四たびの春を迎えて、遥かに東天を望んで、宮闕思慕の情は一層深きものがあった。
時しも其の九日、中岡慎太郎は京より下って天皇御登遐(とか)の悲報を齊(もたら)した。
五卿は此の凶報を拝して、悲歎に色を失い、一面思いを新天子の御輔導、皇国の前途に馳せて、憂心轉(うた\いよいよ)た切なるものがあった。
随従の諸士も亦相顧みて無言、唯落涙するのみであった。
三條実美・岩倉具視の連絡
斯かる間に時勢の急転に伴って、諸藩の使者、勤王志士の太宰府に來往する者が、漸次頻繁となり、上國の情勢、政局の推移は、概ね通報せられた。
四月中岡慎太郎は京都に上って、同志大橋鐵猪より岩倉具視の英傑であることを聞き、屡々、其の幽居を誘い、堂上中超群の人物であるに服したが、六月坂本龍馬を誘って具視に謁し、三條実美等五郷と内外相応じて、王政復古の貫徹を期することを議した。
九月慎太郎は太宰府に赴いて實美に謁し、具視と事を共にすることを説いた。
実美はなお具視を以て、佐幕の大奸であると為して、初めは肯んじなかったが、夙に具視の器量を信じていた東久世通の慫慂(しょうよう/薦め)によって、実美も亦納得するに至った。
斯くして京都及び大宰府の連繋は成り、一は俊邁剛毅、一は純忠至誠、堂上中の二巨擘(はく/指導者)は、茲に氣脈を通じ、諸雄藩と相提携して、王政維新の階梯は漸く築き始められたのである。(P716)
◎幕末維新史研究会 / 第 33回テーマ 朝権の確立 将軍徳川慶喜の施策
日時:令和6年2月24日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十三回テーマ]
日時 令和六(二〇二四)年二月二十四日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p675‐p696を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
箏五章 朝権の確立
第七節 幕政の改革
将軍慶喜と幕政改革
慶喜は嚢に徳川宗家の相続を承諾するに當って、早くも己れの意の儘に弊政を改革すべきことを条件とした。
次いで九月二日慶喜は施政の方針を記して、人才の登庸、賞罰の嚴正、冗費の節約、陸海軍の充実、外交の刷新、貨幣・商法制度の革正等八カ条を老中に示し、之が励行を命じた。
よって慶喜は先づ水戸藩士原市之進・梅澤孫太郎を一橋家から、目付に登用して股肱となしたが、二人参画の一功は頗る大であったという。
また慶喜の幕政改革に就いては、佛国公使ロッシュの助言に基づくものが多かった。
英仏両国の態度
是より先、英国公使パークスと佛国公使ロッシュとが政策利害を異にして、互に拮抗反目している事は、既に之を述べた。
仏国公使が仏国皇帝ナポレオン三世の寵臣である外相デ・ルキスと心を合せ、公使館通辮官メルメ・デ・カションを懐刀として、親佛派の小栗忠順(ただまさ)・栗本安堅守鯤(こん)・平山図書頭敬忠・山口直毅等に接近し、専ら幕府を援助して、其の権威を保持せしめることが、佛国にとって利益なりと考え、機會ある毎に助言を行い、また利権の獲得に努めた。
即ち幕府に進言して、中央集権の要を論じ、薩・長、二藩の圧伏、征長役を急速に終結せしめることを説いた。
既に慶応二年七月、小倉に於いて老中小笠原長行との間に、艦船・武器の供給を約し、尋いで江戸に於いては日佛商社の創立、借款、武器移入等の契約談に及んでいた。
然るに之に反して、英国公使パークスは其の属寮のサトウ、アレキサンダー・フオン・シーボルト、或いは英商グラバー等の戮力によって、克く我が国の大勢を洞察し、到底幕府の興(とも)に語るに足らず、日本をして開明の域に進ましめて、英国の為に貿易の利益を増進せしめるには、薩・長二藩を友とし、其の討幕、王政復古運動を助成せしめるに君かずと為したのである。
乃ち之が為には英国公使は先づ鹿児島を訪間し、藩主父子に會して款を通じ、慶応二年十二月には同国提督キングは公使に代わって長州藩三田尻に赴いて、同藩主父子等と誼を重ねたと共に、幕府に対しては頗る冷淡な態度を示したのであった。
斯くて予て仏国並びに同国公使に好感を抱いていた慶喜が徳川宗家を相続するに及んで、仏国公使の幕府支持の熱意は一層加わって、幕府組織の変更、其の対内対外策及び富国強兵等に就いても、慶喜に進言するに至り、慶喜も亦其の好意を喜び、屡々大阪城に悔晤し、或いは人を以て種々意見を問い、其の改革には仏国公使の献策が多分に斟酌取捨せられているのである。
以下将軍の行なった改革の梗概(大略)を述べるであろう。
朝廷尊崇
是より元慶応二年六月、幕府は関白二條齊敬に役料五百俵を、前関白近衛忠煕の旧功に対して終身三百俵を、賀陽宮の国事勤労に酬いる為に、終身二百五十俵を贈与せんことを奏請して勅許を得た(賀陽宮は之を辞退)。
慶喜の時に及んで、禁裏御料の増加を図る為に山城一国の貢租進献の事が奏請せられた。
幕府は文久三年、禁裏御料定額の外に米十五萬俵を朝廷に上り、翌元治元年更に十五萬俵を増加し、爾後年々合せて三十萬俵を進献する事となったが、幕府は財政困難によって、兎角上納が後れていたので、慶喜は之に恐懼し、上表して山城国一円を献じ、之に代えんことを奏請した。(山城国の諸租二十余万石という)。
斯くて禁裏御料は約十三万石から一躍三十余万石に上る筈であったが、幕府の瓦解の為に、此の事は遂に実現を見るに至らなかったのである。
其の他大宮御所の御造費に国役金の賦課を命じ、また諸侯の伊勢両宮並びに石清水社等の参詣に、礼装の着用を令した如きは、新將軍の朝廷尊崇の一端を示すものであった。
人材の登庸
将軍慶喜が其の新政の初めに當って世の耳目を驚かした英断は、人材の登庸であった。由來制度格式の確守は幕府権威保持の要件の一つであって、是が実に人材登庸が夙く叫ばれながら、容易に行われなかった理由であった。
然るに慶喜は断然其の舊例先規を破り、從來諸侯でなければ、補任せられぬ若年寄に先づ手を染め、慶応三年二月、幕府麾下の士大目付永井尚志を若年寄格に抜擢し、尋いで十二月本役と爲し、四月更に陸軍奉行並淺野美作守氏裕・外国奉行平山敬忠を若年寄並に簡抜した。
之と同時に慶喜は幕府組織の改革に着手し、適材を適所に配したのである。
職制其の他の改革
幕府の職制中、老中は従來勝手掛、外国掛、海・陸軍総裁の外は、特殊の担当事務に軟掌(責任をもつ)せず、月番を立てて凡べて合議制であったので、責任の帰趨も充分明かでなかった。
慶喜は佛国公使の建議を容れて、事務の分担を明かにした。
即ち先づ慶応二年十二月、老中格大給(おぎゅう)縫殿頭乗謨(のりかた)(田野口藩主)を陸軍総裁と為し同稲葉兵部大輔正巳(前館山藩主〕を海軍総裁と為したが、翌三年五月更に老中稻葉正邦(淀藩主)を外国事務総裁、同松平康直(後松井姓川越藩主)を會計総裁と爲して、五局専任の老中を定めて事務の分掌を行い、尋いで月番の制を廃した。
老中板倉勝静(備中松山藩主)は専ら慶喜の謀議に興り、老中首座の位置に在ったので、特に事務を分担しなかったのである。
其の他冗職の廃止及び新職の設置、足高・役知等の廃止と役金の新設、服制の簡略、儀礼の廃止、事務の簡捷(合理化)等其の改革は廣汎に渉ったのである。
陸海軍の改革
次に陸軍は既に文久二年に改革せられたが、慶喜が将軍となるに及んで、鋭意銃隊の編成を志し、諸軍職を改廃し、撤兵(持小筒組の改編)・千人隊(八王子千人同心の改編)及び遊撃隊・統隊・工兵等を編成した。
また幕府麾下の士の兵賦を改めて、悉く之を金納とした。
而して軍隊教育に就いては、佛国公使の斡旋によって、慶応三年の春、陸軍傳習所を横濱に開き(後江戸に移す)、仏国参謀大尉シャノアン砲兵大尉ブリュネー等を招聰して、歩・騎・砲三兵の教育を開始した。
後年戊辰の役、所在に官軍を悩ました舊幕府脱走兵は、此の新教育を受けた者であり、またブリュネー以下の佛国士官・下士の中には、箱館に拠った榎本釜次郎等の軍に参加して、日・佛間に問題を惹起した者もあった。
更に海軍は既に安政二年長崎に開始せられた和蘭士官の傳習によって、創立の端を開いたが、其の後江戸に軍艦操練所(安政四年設置)を、神戸に海軍操練所(文久三年年開設、慶応元念隼廃止)を設け、また蘭・米二国に軍艦の建造を依頼し、其の充實に努めて来た。
幕府は文久元年長崎飽ノ浦に製鐵所を創設したが、元治元年十一月佛国公使に、横須賀・横濱の両製鐵所の設置を委嘱した。
慶喜の時代には横須賀製鐵所は未だ工事中で、実用に供せられなかったが、是は実に今日の海軍工廠の前身を為すものである。
而して幕府は財政の窮乏に苦しみ、横須賀・横演両製鐵所を低當に入れ、佛國ソシュテー・ゼネラル商会及び佛國郵船会社の手を経て、兵器軍需品を購入したが、其の未払金四十二萬弗は、明治新政府の負担に胎されたのであった。
新税賦課産業貿易の振興
慶喜は更に幕府の財政窮乏を補填する一方法として、新税の賦課、殖産貿易の振興、鉱山の開発、運輸業の助成等、種々画策調査する所があった。
また慶喜は佛国公使の提言を容れて、兵庫・大坂の開港開市を機會に、貿易の促進と開港費金の融通とに籍口して、府庫の充貫を図らんとし、大坂に商社の設立を計画し、鴻池(山中善右衛門)・加島(廣岡久右衛門)等の富商を商社頭取以下の諸役と爲し、資金の募集に着手せしめ、また商社に百萬両を限って金札の発行を許可し、百両・五十両・十両・一両・二分・一分の六種凡そ十萬両の金札を発行せしめたのである。
併し金札は信用を欠いて流通せず、從って商社も確立するに至らなかった。
改革と世評
斯くの如く慶喜の改革は、頗る多方面に亙って刮目して見るべきものがあった。
然るに彼が親しく政柄を執ったのは、僅かに一年余の短時日であった為に、諸般の改革も漸く其の緒に就いたのみで、幕府は瓦解し、遂に其の結実を見ずに終ったものが多かった。
されど彼が如何に崩壊の一途を辿っている幕府を救済せんと努力し如阿に徳川の社稷を瀕死の余に保たんと努力したかは、之を推知するに難くはない。
岩倉具視の如きは、將軍慶喜の改革を評して、果断勇決、其の志は小ではない、軽視すべから
ざる勁敵であると言い、木戸準一郎も亦、関東政令一新、兵馬の制亦頗る見るべきものあり、一橋の腕力決して侮るべからず、実に家康の再生を見るが如しと評した。
斯く彼の施政は世の注目を惹いたのであるが、奈何せん、将に倒れんとする大厦(か/家)は一木の能く支える所ではなく、積衰の幕府は終に彼の異常な努力に依るも、なお之を救うことはできなかったのであった。
三 長州処分と兵庫開港
政局の二大問題
将軍慶喜の幕政改革が大いに世の耳目を惹いたが、是は実に幕府自身の廻瀾工作であるに過ぎない。
寧ろ国務の重大案件は、前時代より引き継いだ兵庫開港と長州処分との解決処理にあったのである。
蓋し長州再征が失敗である事と、之を寛大に処分すべしと為す事は、共に朝野の世論であって、幕府も亦之を厳科に処すべからざるを悟っていた。
而して兵庫開港の問題に至っては、先朝に於いて之を停止し給うた事であるも、外国との公約を無視するを許さぬ最も緊要な問題であった。
征長解兵令と長州藩
嚢に慶喜は将軍名代として長州進撃を奏請しながら、倏(たちま)ち形勢の不利なるを見て、其の議を撤廃し、将軍家茂の莞去を機として朝命を仰ぎ、停戦を令し、辛うじて其の破局を収拾した。
尋いで孝明天皇の崩御し給うや(第六章第一節)慶喜は松平容保の反対を斥け、勅許を奏請して、慶応三年正月二十三日解兵の令を天下に布告し、芸州藩を以て之を長州藩に傳え、幕府が寛大の措置に出づべきことを達せしめ、且つ太宰府に在る三條實美等五卿の五藩御預けを解き、五藩に實美等の京都護送を命じたのである。
然るに長州藩は此の命に対して、直接朝廷より寛典の命を拝するに非されば、闔藩の士民は一日も生を安んずる能わすと称して之に応ぜず、依然として領内の戒厳と石州及び小倉方面に他藩領の占拠を持続し、二月十五日、芸州藩に長防士民の名を以て歎願書を致し、新帝登極、天下仁政を仰ぐの日に際し、寛大の御沙汰を藩主父子に賜わらん事を請い、之を天聴に達せんことを依頼した。
斯くて長州藩の処分が停滞している間に大坂・江戸及び兵庫・新潟の開市開港の期日が迫って、此の処に政局は更に逼迫したのである。
兵庫開港の奏請
抑両都両港の開市開港の期日は、文久二年の倫敦覚書に依って慶応三年十二月七日と定まってていたが、其の實施に当っては、諸般の準備の為に六箇月以前に之を布告する必要があった。
嚢に幕府は條約勅許の後、なおも外国使臣等から兵庫の開港を迫られたので、遂に之が勅許の奏請を決意し、慶応三年二月十九日先づ之を尾州以下九藩主に諮問し、且つ其の上京を促した。
然るにに同月二十四日に至り、英国公使は書を幕府に致して、列国使臣と共に上坂して、開市開港の準備に就いて議せんことを求めたので、幕府は諸侯の答申を待つ遑(いとま)もなく、三月五日兵庫開港の勅許を奏請したのである。
是より先、正月、大喪の特赦によって九條圓眞(尚忠)・有栖川両宮・山階宮・中山忠能・正親町三候實愛・中御門経之・大原重徳等四十六人は、前後幽閉を釈(と)かれ、また久我素堂(建通)・千種自観(有文)・富小路敲雲(敬直)・岩倉友山(具視)の四人は入洛を許された。
是に於いて廟堂の情勢はまた一変した。
されば将軍の兵庫開港の勅許奏請に対して朝議は紛糾を極めたが、遂に三月十九日、元朝御差止の叡慮に対せられても、御沙汰に及び難き重大事なり、よって諸藩に御諮詢在らせられるを以て、大樹に於いてもなお熟考すべしと仰せ出された。
然るに幕府は事情の急迫が遷延を許さぬので、二十二日重ねて勅許を奏請した。
二十四日朝延は尾州・紀州等二十五藩に御諮詢になり、四月中を限って奉答すべきを命ぜられ、且つ藩主の上京を促させられた。
是等諸藩のうち期日内に奉答した藩の意見は、概ね形勢の変化に善処する為に、勅許あらせらるべしというに在ったが、朝議はなお容易に決しなかったのであった。
将軍の外国使臣の引見
是より先、幕府は外国使臣の兵庫開港要請に封する策として、将軍代替の故を以て、彼等を引見して、交誼を厚くし、同時に兵庫開港の事を解決するに如かずとし、慶応二年十一月、英・佛・米・蘭四国使臣等を大坂城に引見する旨を奏上し、翌十二月之を四国使臣に通告し、四国使臣の応諾を得た。
翌三年二月六・七両日、慶喜は特に早期上坂した仏国公使ロッシュと、大坂城中に会見して、其の、意見を徴した。
其の際公使は薩・長二藩の陰謀を破り、英国公使の野心を挫かんが爲に、速かに兵庫其の他を開き、且つ下関・鹿児島二港開港をも勧説した。
慶喜は之に対して下開・鹿児島の開港には同意を表しなかったが、兵庫開港は到底延期し難しと為し、期目通り開港すべきを明かに約したのである。
即ち慶喜は勅許を得ざる前に、之を豫約したのであった。
尋いで慶喜は三月二十八日、公式に英・佛・蘭三国使臣を引見し、国法に遵い、租宗以來附與せられた全権を以て、締盟国との交誼を親密にし、条約を履行せんことを告げ、四月朔日遅着の米国公使ファルケンブルクを引見した。
此の際佛・米・蘭三國使臣は、各々、国書を差出したが、英国公使のみは之を呈しなかったのである。
プロシャ使臣フオン・ブラントは辞して大坂に赴かなかった。
尋いで四月十三日、慶喜は独断専行を決意し、老中をして兵庫・大坂に於ける外人居留地規定書案を、四国使臣に示して同意を求め、開港の準備に着手せしめたのである。
薩州藩と四侯会議
是の時に當って、岩倉具視一派の堂上と薩・長二藩間との倒幕の計画は、漸次進捗していたが、薩州藩土小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵等は、島津久光・松平慶永・山内豊信・伊達宗城四侯の京都會同を謀り、大いに奔走する所があった。
斯くて久光・宗城・豊信は吉之助の勧説に依り、また慶永は帯刀の勧告によって茲に四侯は入京し再び一堂に會し、国事に周旋するに至った。
然るに政情は固より元治元年の往時とは異り、また各藩の政見・立場も必ずしも一致していない。
特に長州藩と提携する薩州藩が、此の会同の牛耳を執ったのであるから、その帰趨も自ら明かである。
果して四侯會同の論議は、長州処分と兵庫開港の二問題に集注せられ、其の着手の前後如何が主なる論点となったのである。
四侯は慶喜が專断を以て、各国使臣に兵庫開港の言質を与えたのは、朝野を欺罔するの甚しきものであると爲し、宣しく罪を天朝に謝し奉り、悔悟の誠意を天下に示し、爾後一毫の私意を挾まず、信義を以て政治を行い、朝幕間の欝結を除くべきである。
また時勢をして今日の如く危殆ならしめたのは、幕府年來の失政と長州再征とに起因する。
されば幕府は速かに長州に対し、寛典処分を行い、然る後兵庫開港の事を決すべきであるというのである。
長州処分と兵庫開港との先後論議
四侯は五月十四日二條城に登り、先っ長州処分を決したる後に、兵庫開港の事に及ぶべしと建議し、十九日慶永・宗城・久光(豊信は病不参)は、再び登営して重ねて其の議を主張した。
慶喜は兵庫開港の期日切迫の状を告げて、其の必要を説き、同意を求めたので、四侯は更に凝議して、兵庫開港と長州処分とを同時に行うも己むを得ずと為し、二十一日三人は登営して之を勧説し、慶喜も亦之を容れた。
然るに小松帯刀・大久保一蔵等は此の議を不可と為し、頻りに奔走して、再び四侯の議を前日に復せしめた。
兵庫開港の勅許
乃ち四侯は二十三日連署して、緩急先後の順序を重んじ、先づ長州処分のみを行うべしと建議した。
慶喜は之を省みず、勅許を奏請せんが爲に、同日松平定敬・板倉勝静・稲葉正邦を從えて参内し、慶永・宗城・久光の三人も召されたが、久光は之を辞し、慶永・宗城のみ参内した。
摂政二條齋敬・前関白近衛忠煕・鷹司輔煕及び山階宮・賀陽宮・内大臣近衛忠房、国事御用掛・議奏・傳奏等は、慶喜等と会して朝議が開かれた。
慶喜は形勢切迫せるを以て、長州藩を寛典に処すると共に、兵慮開港に勅許を下されんことを奏請した。
慶永は四侯の意見として、長州虚分を先にすべきを陳述した。
斯くて朝議は兵庫開港の可否及ぴ長州処分との先後に就いて、徹宵論議が行われたが、容易に決しなかった。
二條摂政は大いに大いに苦慮し、翌二十四日更に有栖川両宮の参内を請いて其の意見を問い、又堂上に総参内を命じて協議を遂げたが、慶喜は事の決せざる間は退期せずと称して、頗る強硬な態度を執り、また大原重徳の如きは大樹退期を欲せざれば、何時迄も宮中に留まるべし、摂政以下は速かに退下して可なりと放言して、廷中頗る穏かならざる光景を呈し、議は依然決する所がなかった。
是に於いて二條摂政は決意し、宸断を仰ぎ奉り、遂に幕府の奏請を聴許あらせられる旨の御沙汰を傳えた。時既に戌刻(午後八時)であった。
斯くて二夜に亙って紛糾を重ねた長州虚分及び兵庫開港の二事は、同時に行わるべき事が決したのであるが、是は全く将軍慶喜の強要と、公武合体派の宮・堂上の斡旋とに基づくものである。
從って反対派の堂上等の不平不満も大きかったのである。
正親町三候実愛は「年来苦慮、水泡、悲憤、唯大急のみ」と云い、伊達宗城は「大樹公、今日の挙動、実に朝廷を軽蔑の甚敷き、言語を絶し候」と歎じ、大久保一蔵は「大樹公より摂政殿始めへ暴を以て迫り奉り、御微力の朝廷止め得為されず」御聴許になったのだと述べている。
後日(八月)慶喜の腹心原市之進が暗殺せられた罪状には、彼が水戸藩の出身であるに拘らず、先朝の叡慮を顧みず、天朝を歎罔し、将軍をして不臣を働かしめたのは、不倶戴天の賊臣であると記されていたのであった。
長州処分の紛議
幕府は勅許奏請の経緯から見ても、兵庫開港の着手と同時に、長州藩の処分を寛大にすべきであった。
然るに幕府有司は長州藩の哀訴を須(待)たずして、其の罪を許すのは、国政を誤るものと為し、四侯の反対を斥け、彼をして哀を請わしめ、然る後、寛大の処分に及び、以て幕府の余威を維持せんとした。
よって幕府は芸州藩に内論して、斡旋せしめんとしたが、同藩は長州藩が之に応ぜざるを察し、其の命に応じなかった。
正親町三候實愛は二條摂政に、長州処分は断然朝廷より直接に御沙汰あらせらるべしと迫り、其の他幕府が、二事並行すべきを奏請しながら、開港の勅許のみを布告して、長州処分に及ばざるを難ずる堂上等が多かった。
よって二條摂政は六月二日朝旨を幕府に下して、速かに長州藩処分を行うべきことを命じた。
然るに翌日幕府は不遜にも、庶政御委任に因って措置を講じているのであるから、他の建白に拘らせられて、斯かる御沙汰はあるまじきことと存ずる旨を奉答したのである。誠に不臣の限りであると評すべきである。
四侯の退京
幕府は予て四侯の上京を悦ばず、殊に久光の態度に危倶の念を抱いていたが、形勢斯くの如くなるに及んで、益々四侯の周旋を嫌忌し、屡々、其の帰藩を諷諭(ふうゆ/勧める)したのであった。
而して四侯も其の意見の行われざるを見て不満に堪えず、山内豊信は五月二十七日帰藩の途に就き、四候合同の一角は先づ崩れた。
尋いで松平慶永は八月六日、島津久光は同月十五日、伊達宗城は同月十八日、孰れも京都を辞して藩地に向ったのであった。
是より先、幕府は芸州藩が長州藩歎願書提出の周旋を固辞するや、なお其の立場を失わざらんが為に、津和野藩に内命して、寛典に処せらるべき朝旨を長州藩に傳えしめ、尊いで七月二十三日芸州藩に命じて、朝命を傳達する為に、末家の中一人、吉川経幹及び家老一人を上坂せしめるよう、同藩に傳達せしめた。
然るに當時長州藩に在っては、既に幕府と雌雄を決するの決意を固め、内は頻りに戦備を整えて、士気を振興し、外は薩州藩と結んで討幕の師を起こさんとしていた際なので、却って此の幕命の下れるを好機とし、密かに薩・芸二藩と協議し、家老をして卒兵上坂せしめるに決したのである。
而して荏再(じんせん/時が過ぎる)月余、四侯離散の頃おいより討幕の密謀は愈々熟し、幕府は遂に長州処分を行い得ずして土崩瓦解したのである。
以下章を改めて更に之を説くであろう。
第六章 王政復古
第一節 明治天皇踐祚
一 御降誕
嘉永五年九月二十二日、朝來空は高く晴れわたり、瑞氣は大内山の天地に満ちて、禁苑の菊花は今を盛りに秋色を競う。
此の桂き日の午半刻^午後一時頃)皇子は目出度御降誕あらせられた。
時に御父孝明天皇は常御殿北庭の花壇の菊花を覧たまいつつ、午饌に向いてあらせられたが、皇子御降誕の事を聞召され、天顔殊に麗しくあらせられたと言う。
御誕生の皇子こそ、後に不世出の聖天子と仰ぎ奉る明治天皇におわします。
是頃我が南海・北陸には頻りに外警を傳え、畏れくも孝明天皇は深く衰襟を悩ませ結い、朝野の識者の憂倶は少くなかったのである。
特に心ある堂上等が密かに憂えたのは、斯かる時勢に皇子の少くわたらせ給う事であった。
御降誕
是より先、嘉永三年十一月には皇女一官順子内親王、同年十二月には皇子御降誕あちせられたが、皇子は御天折、内観王は嘉永五年六月御三歳にて薨去し給い、他には皇子女とでは御一方も在わしまさず、上下は深き憂いに鎖されていた。
然るに是歳の夏頃より権典侍中山慶子(権大納言中山忠能女)に御懐胎の事があり、中山邸内には御産殿が営まれ、前権大納言東坊城聰長は御世話卿を命ぜられ、権典侍御着帯の諸儀など滞なく行わせられ、やがて皇子は萬民歓喜の中に御降誕(九月二十二日)遊ぱされたのである。
尋いで九月二十九日、御七夜の儀を行わせられ、文章博士五條爲定の勧進せる嘉名の中より、祐(さち)宮と選び賜った。
蓋し御曾祖父光格天皇の御童名と同一であって、英主に肖(かたど)り給はんことを望ませられた大御心と拝し奉る。
同年十月二十二日、初めて御参内、天皇に御対顔あらせられたが、御五歳の時まで中山邸に在らせられ、安政三年九月二十九日を以て、内裏に移らせ給うた。
親王宣下
万延元年七月十日、御九歳にして儲君と為らせ給い、准后九條夙子の御実子と御治定あらせられ、同九月二十八日親王宣下、御名を睦仁(むつひと)と賜うた。
文章博上唐橋在光の勧進し奉ったものであった。
是と同時に、権大納言正親町實徳を勅別當、左近衛濯中将阿野公誠等五人に家司を命ぜられ、其の他職事・蔵人・侍者・御監を定められ
た。
君徳御培養
斯くて祐宮の御補導には、御父天皇の御心を尽くさせ給いしは申すも畏し、別當以下の諸臣は赤誠を傾けて御教養申上げ、有栖川宮幟仁親王は書道、正二位伏原宣明は御読書の師範として、夙くから君徳の御培養に努めまいらせた。
斯かる間に国歩は日に月に艱難を告げたので、親王には濁り傾例の儀礼に御勤を次かかせ給わぬのみか、安政五年六月、外患祈願の為に公卿勅使が神宮に発遣せられた際の如きは、御父天皇が勅使の帰京まで八日間、毎夜清涼殿の東庭に下御、親しく神宮を拝して祝詞を奏し給ふ間、親王にも亦御七歳の御幼齢に拘らず、必ず庭上に侍し給うた。
又文久元年五月同じく公卿勅使発遺の事が、あった際にも、連宵清涼殿の東庭に下御、神宮を遥拝し絵う間、親王には御白衣に御袴を着けさせられて、朝餉間の西廃止に下られて、遥かに神宮を拝し結ふこと八夜に及んだ。
又元治元年七月禁門の変には、砲丸禁闕に及んだので、准后と共に御座を常御殿等に移させ給いしが、御驚動の余り、俄に病を発して殿上に倒れ給い、侍臣中御門経之が馳せて御水を上り、漸く癒え給う等、常ならぬ世の態に遭い給うて、いとも尊き御経験と御修養とを積ませられたのである。(P696)
◎幕末維新史研究会 / 第 31 回テーマ 朝権の確立 長州再征
日時:令和5年12月23日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十一回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年十二月二十三日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p638‐p656を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第五章 朝権の確立
第五節 長州再征
長州藩論の帰一
嚢に(元治元年十二月十六日)に高杉晋作が下関に拠って藩政改革の蜂火を挙げるや、其の率いる遊撃・力士二隊の外に、之に呼応して起った諸隊と、一意恭順を主とした保守派との簡に内訌戦が起った。
保守派の鎮撫軍は、各所に於いて諸隊の為に破られ、藩の要路は次第に黜陟せられて、所謂
正義派が藩の枢機を握るに至り、此の内訌戦は月余にして遂に諸隊の勝利に帰した。
斯くて藩論は武備恭順、即ち外に対しては恭順の道を尽し、内は専ら武備を充實し、挙藩一
団となって藩の大事に當る事となったのである。
二月二十二日藩主毛利敬親は租廟に参籠し、告文を捧げて、藩論を一定し、衆心を輯穆(しゅうばく/修める)し、大義を天下に伸張せんことを誓い、世子廣封(ひろかね\定廣)及び支
藩主も亦之に倣った。
尋いで二十七日敬親は萩を発して山口に移った。
時に高杉晋作・伊藤俊輔は外遊の志を懐き、三月長崎に赴いたが、英人の説を聞いて翻然(ほんぜん)として西航の念を拠ち、帰藩して井上聞多等と下関開港の議を立てた。
然るに事が中途外聞に洩れて反対の聲が挙り、壮士讐は三人を刺さんとするに至ったので、晋作等は諸方に潜伏し、長州藩は将に有力な指導煮を失おうとした。
恰も好し、嚢に禁門の変後、但馬出石に潜伏して、密かに形勢を穿っていた桂小五郎は四月
下旬藩に帰り、晋作・聞多も尋いで帰藩し、廣澤藤右衛(波田野金吾〕・前原彦太郎(佐世八十朗)と共に藩政に関与するに至った。
桂小五郎の帰藩
五月小五郎は長州藩今日の急務は、防長二州は一和し、其の間寸隙の隙なきを天下に示し、
外は粛然深夜の如く閑として聲なきを装い、内は動かざること山の如くし、其の間に於いて先づ民政・軍政を整えて時機を待つべしと進言した。
敬親父子は深く之を嘉して信任し、藩士亦好指導者を得て、藩の生気は為に倍捷{ばいし/数倍)するに至った。
尋いで村岡蔵六(大村益次郎)は抜擢されて専ら洋式兵制の採用に従事し、六月装條銃隊を編成した。
是の時に当って文久以降阻隔反目を重ねて來た薩・長二藩の間に、既に著しく和解の機運が動き、長州藩は密かに薩州藩を通じて、兵器を長崎より購入するに努め、八月四千挺のミネー銃は陸揚げせられた。
また十月長州藩は木戸貫治・高杉晋作に下関の越荷方頭人を兼ねしめ、新に藩外通商の業を
拡張し、藩内特殊生産品の専売を強化して財政を豊かにし、また屡々、藩士民を戒筋(かいちょく/戒める)して協心戮力せしめ、対内要衝の守備を嚴にし、專軍來らば之を遊撃せんとして、意気軒昂たるものがあった。
長州藩家老廣島に至る
是より先、毛利敬親は幕府の支族及び家老大坂召喚の再命に応じて、家老井原主計に上京を命じ、事理を詳述せしめて、其の態度を天下に明かにせんとし、別に宍戸備後助(山懸半蔵)を中老雇として之に副たらしめた。
偶々四国艦隊摂海進入の報が傳ったので、主計等は程を緩めて漸く二十三日廣島に至った。
其の後主計は帰藩し、病と称して使命を辞したので、長州藩は宍戸備後助を正使とし、木梨彦右衛門を副たらしめた。
永井尚志の西下
幕府は嚢に長州藩再征の勅許を得たが、更に長州藩を訊問し、其の後に於いて征討軍を進めんとの議を決し、十月二十七日芸州藩をして長州藩に、大目付永井尚志・目付戸川鉡三郎を遣ずに由り、十一月を限って長州藩の支族及び家老を同所に至らしむべき旨の命を傳えしめ、再び荏苒(じんせん/月日)を曠(むな)しうするの愚策に出でた。
之と同時に兵威を示そうとして、十一月七日従軍諸藩の部署を定め、其の進攻路を芸州口・
石州口・上之関口・下之関口・萩口の五方面となした。
永井尚志の長州藩尋問
尋いで永井尚志・戸川鉡三郎等は長州藩を訊問すべく、十一月十六日廣島に至った。
二十日永井尚志等は国泰寺に宍戸備後助等を招き、當春の内訌と藩主の対策、藩主が再び居所を山口に移した事、同城を修理し武器を配置した事、下關に於いて英人と懇親せし事、汽船を米国人に売却し、又兵器を外国人より購入した事等八箇傑の訊問を行った。
これ幕府が所謂、「容易ならざる企」と目したものである。
備後助は逐條之に辮疏して屈せず、対答七時間に及んだ。
其の後尚志等は漸く備後助・彦右衛門連署の、藩主父子謹愼待罪の一書を提出せしめて、折衝月余(つきあまり)、十二月十六日廣島を発して帰坂、委曲を復命した。
幕府の長州藩処分案決す
此の時に當って在坂の老中等は、永井尚志の復命及び大久伊一翁等の説に動かされ、漸く将軍進発の虚勢を以て長州藩を屈伏せしめるに足らざるを悟り、厳罰を以て之に臨み、長州藩決死の軍と兵火を交えるに於いては、勝算必し難しとし、寧ろ之を寛大に処置すべしと為すに至った。
然るに在京の一橋慶喜・松平容保・松平定敬(さだあき)等は和議して、幕府が今にして趦趄(ししょ/逡巡)逮巡、徒らに日を曠しうせば、幕軍の士気は日に沮喪して、大事は遂に去るに至るであらう。
速やかに英断を以て之を処置し、天ドの乱階を塞ぎ、諸侯の離反を防ぐべしとし、慶喜は此
の趣旨を将軍にも建議した。
然るに幕閣は之を容れず、漸く慶喜の硬論を多少斟酌して、長州藩に宣言すべき処分を決し
た。
即ち毛利敬親父子の朝敵の罪名を除き、封十万石を削り、敬親を隠居・蟄居に、廣封を永蟄居に処し、家督は別に之を撰び、福原越後等三家老の家は永世断絶せしめ、以て周を結ぱんというのである。
慶応二年正月二十二日、慶喜は容保・定敬及び老中板倉勝静・小笠原長行(ながみち)と共に参内し、長州藩処分案を具して勅許を請い奉った。
朝議は之を許されるに決し、毛利氏の祖先以來の勤功を思わせられ、寛典を行わせられたき思召なれど、幕府決議の趣は間食される、なお国内平穏、宸襟を安んじ奉るようとの御沙汰が下された。
翌日特に傳奏より十萬石を割るには、精々下田を選び、決して疎暴の慮置なかるべしと命ぜられたのである。
小笠原長行の西下
尋いで老中小笠原長行は、此の処分を長州藩に傳達する為に、大坂を発して廣島に至り、芸州藩をして長州藩支族及び家老を廣島に召致せしめた。
此の時芸州藩主淺野茂長は、長州藩が決して幕府の処分に服せざるを警告したが、小笠原長行は省みなかった。
長州藩では幕命を受けたが、皆病に託して赴かず、各、陳情蕃を草して藩情を訴えた。
三月二十六日長行は重ねて長州藩主父子及び孫興丸(当時二歳)以下支族・家老を、四月十五日を限って廣島に召致し、若し病あれば名代を差出すべしと命じた。
長州藩は其の期日を延べんことを請い、宍戸備後助を藩主父子の名代とし、小田村素太郎を副とし、府中・徳山・清末三支藩主及び吉川経幹も各々正・副名代を廣島に至らしめた。
長行は五月朔日国泰寺に備後助及び支藩の名代を招いたが、備後助は足疾で命に応じなかった。
長行は巳むを得ず支藩の名代に処分令を傳え、之を宗家に伝達せしめ、二十日を期して請書を呈出すべきを命じた。
尋いで長行は不審の簾を以て備後助・素太郎の二人を拘禁し、長州藩の支族家老・士民等よ
り提出した陳情・歎願の書を悉く却下し六月五日を以て諸軍の総進撃を行うべきを令した冊
薩州藩の出兵拒否
是の時に當って薩・長二藩の連合提携の密約は、既に両藩の間になっていた。
四月薩州藩は京都留守居の名を以て書を幕府に上り、長州藩容易ならざる企てありとの理由を以て再征となれるも、世上幕府は朝廷寛大の御趣旨を遵奉せずと傳聞して、物議が囂々(ごうごう)として起こっている。征伐は天下の重挙、国家の大事、名義判然し、令を聞かずして四方響応せざれば、至當と言い難しとて、再征の名なきを論じ、仮令進軍の命あるも之に応ずる能わざるの意を陳べた。
幕府は、之を慰諭して、其の書を撤回せしめようとしたが、大久保一藏等は頑として応じなかった。
芸州藩も亦兵を其の封彊(ふうきょう\藩境)に出すを拒否した。
恰も五月大坂・西宮・兵庫地方に於いては、物価騰貴の為に市民の一揆が勃発して、大坂在城中の将軍以下を驚愕せしめた珍事さへあった。
五卿処置の問題
之に加え、幕府は三條實美等五卿の処置をも併せ行おうとして失敗した。
五卿は前年來太宰府の延壽王院に在って、静かに天下の形勢を観望していたが、勤王諸藩の
使者・志士の來って起居を問う者も多く、其の威望は敢て変わる所がなかった。
初め幕府は五卿の江戸護送を企てて行はれず、尋いで大目付永井尚志等を廣島に派する
際し、警護監督を名として目付小林甚六郎を筑前藩に赴かしめ、臭の実五卿を大坂に召致しよ
うと計った。
甚六郎は慶応二年三月博多に至った。
時に筑前藩では、前年來加藤司書・月形洗蔵・鷹取養巴等の勤王派が非命の死を遂げ、藩論も自ら変じていたが、急を聞いて薩州藩士大山格之助・黒田嘉右衛門等は兵を率いて太宰府に來り、五卿の護衛を厳にするに及んで、甚六郎は遂に手を下すことが出來ず、空しく退去したのである。
先鋒総督廣島に向う
斯くて総督徳川茂承は、慶応二年六月三日海路廣島に向い、小笠原長行は九州方面軍の爲、廣島より小倉に赴いた。
七日一橋慶喜・松平定敬は参内して、愈々問罪の軍を発する旨を奏して勅許を得、長州藩の四境には戦が開始せられるに至ったのである。
三 幕軍の敗退
戦闘の開始
戦闘は幕府軍艦が六月七目大島郡を砲撃した事に始まった。
尋いで芸州口・石州(せきしゅう)口・小倉口に於いても相踵いで砲火が交えられた。
大島郡は初め幕府磨下の兵及び松山藩兵の為に、一たび全島を占領されたが、幾ばくもなく高杉晋作が幕艦を夜襲して奇功を奏し、長州藩第二奇隊等が幕軍を撃退して之を回復した。
先鋒総督徳川茂承は廣島に在りて、芸州□・石州口の軍を督し、老中本荘宗秀が之に割となっていた。
芸州口
芸州口には募軍の主力が向い、彦根・高田、二藩兵が先鋒となり、幕府の諸兵及ぴ紀州・大垣・宮津等の諸藩兵が後陣となり、幕艦も亦時々海上より加勢した。
長州藩の兵は、遊撃・御楯・應懲・鴻城の諸隊及び岩國の兵等であって、河瀬安四郎・井上聞多等が之を指揮した。
戦闘は六月十四日小瀬川口に始まり、長州藩兵が機先を制して、彦根・高岡両藩兵を破って芸州領内に入った。
其の後幕府麾下の諸兵及び紀州藩兵等が、彦根・高田藩兵に代って其の衝(しょう\応戦)に當ったが、敦れも洋式訓練を受けた精鋭であったで、長州藩兵との間に芸州藩領玖波(ぐは)・大野を中心として、屡々戦闘が展開せられ、一進一退の勢で八月に及んだ。
また石州口では幕府の軍は濱田を本拠として、紀州・濱田・福山諸藩兵が部署に就いたが、津和野藩は予て長州藩に好意を寄せ、藩兵を城下に集めて長州藩兵の為に道を開けたので、戦闘は直ちに濱田藩領で行われた。
六月十七日長州藩の南園隊及び精鋭隊・清末藩兵等は、大村益次郎・杉孫七郎等を参謀とし、兵を分って益田を陥れた。
濱田藩は援を廣島の本営に求めたが、援軍は來らず、長州藩兵は進んで遂に濱関城に薄(せま)ったので、藩主松平右近將監武聰(たけあきら)は、七月十八日城を焼いて松江に遁れ、濱岡藩領は長州藩兵の占領する所となり、石見銀山も亦其の掌中に帰した。
更に小倉方面を見るに、幕府の命に依って兵を小倉に出したものは、小倉の外に熊本・久留米等の諸藩兵が主なものであって、是等の諸兵は小笠原長行指揮の下に、機を見て海を渡って進撃せんとしていた。
然るに六月十七日、高杉晋作・時山直八等を参謀とした奇兵隊・府中藩兵等の長州藩兵は、逆に軍艦五艘を以て門司・田ノ浦を砲撃し、陸兵を揚げて先鋒たる小倉藩兵を破り、尋いで七月三日また之を攻めて大里を焼き、此の方面も長州藩兵に先づ凱歌が挙がったのであった。
本荘宗秀の召喚
斯くて各方面の戦闘が漸く酣^たけなわ)にして、而も大勢幕軍に不利なので、老中本荘宗秀は今にして漸く長州藩を圧伏するの難きを知り、寧ろ之を懐柔して和議を講ずるに如かずとし、専断にて拘禁中の宍戸備後助・小田村素太郎を放還した。
先鋒徳川茂承(もちつぐ\紀州藩主〕は之を知って大いに怒り、総督の辞表を提出し、麾下の紀州藩兵を廣島に徹した。
幕府は大いに驚き、宗秀を召還して、其の職を褫(は)ぎ、老中水野出羽守忠誠(ただのぶ)をして代って西下せしめた。
八月に及んで、芸州藩と長州藩との間に提携の氣運が漸く熟し芸州藩が藩兵を派遣して、幕府・長州藩両軍の間を遮断したので、此の方面の戦闘は止んだ。
更に小倉方面に在っては、従軍諸藩兵は概ね戦意を欠き、熊本藩家老長岡監物の如きは、小笠原長行と衝突して、藩兵を率いて熊本に還った。
偶々、将軍家茂の訃報傳わるや、長行は七月二十九日密かに軍艦に搭じて長崎に遁走し、尋いで東上した。
是に於いて小倉藩は孤立無援となり、八月朔日自ら城を焼いて香春(かわら)に退き、其の後長州藩兵の侵入を防禦して、十月に至って遂に和議が両藩間に成立した。
斯くて長州再征の役は砲火を交えるに及んで、長州藩の圧倒的勝利に帰したのである。
長州藩の勝因
思うに幕府の長州再征は、假令勅許を得たとは言え、初めより出師(すいし\出兵)の名義は判然せず、雄藩の間に非難の聲が喧しかった。
從って幕府が愈々、其の師を動かずに及んで、蹟目彌久(こうじつびきゅう/無駄に目を過す)、徒らに戦機を失し、用兵の要訣を誤ったのに対して、長州藩土民必死の防戦に遭うたのであるから幕軍の敗退は敢て不思議ではない。
幕軍の士氣が頗る振わなかったのに対し、長州藩士民は田夫野人、老若婦女に至るまで奮起して、天時地利に勝る人和が固く、戦意に燃えていた。
更に慕軍は特に洋式訓練を受けたものを除くの外は、概ね在來の戦法を踏襲して、甲冑を着用し、刀槍を得物とした旧式の兵であり、また各方面の統率者に多く其の人を得なかったのに反して、長州藩は新鋭の兵器を備え、智謀の士に統率せられた一団の勇兵であった。
加うるに財政の窮乏せる幕府は、戦費に苦しんだが、長州藩は蓄積せられた軍資金を有っていた等、却って幕府よりも優越な條件を備えていたのであった。
将軍家茂の死
是より先、将軍家茂は大坂城中で病に罹った。
事天朝に達して畏れくも深く御軫念あらせられ、特に傳奏を差遣せられ、屡々侍医を下し給わったが、病次第に重り、遂に七月二十日を以て其の波乱多き生涯を終ったのである。享年二十一。
幕府は八月二十日に至って喪を発した。
征長中に将軍の嚢去は、幕府にとって真に一大打撃であった。
茲に徳川宗家相続に決した一橘慶喜は、将軍名代として征長役に出陣するに決し、八月八日参内して節刀を賜わり、十二日を以て進発することとなった。
然るに其の時小倉落城の報は至り、征長解兵の論は漸く朝野に喧しく、諸般の状勢は慶喜の出陣に不利であるに鑑み、慶喜は十六日、姑らく征長進軍を止め、列藩と會して今後の方略を議せん事を奏聞した。
休戦の朝命
朝廷では此の内請を容れ、八月二十二日「大樹蔓去、上ド哀情の程も御察し遊ばされ候に付、暫時兵事見合わせ候様旨致す可く御沙汰候、就いては長防に於いて隣境侵掠の地、早々引払い鎮定騒り在り候様取り計る可く事」との休戦の朝命を下し給うた。
休戦協定
慶喜は軍艦奉行勝義邦を廣島に派遣して、長州藩と休載の協議を行わしめた。
九月二日義邦は長州藩の代表廣澤兵助・大田市之進・井上聞多等と厳島大願寺に會見して協議し、募軍撤退の際、長州藩兵の追撃せざることを約した。
斯くて幕府は将軍薨去を機として、九月全く諸方蘭の兵を撤退し、纔かに惨敗の局面を収め得たのである。
此の幕府空前の失敗に依り、天下の形勢は自ら一変し、幕府瓦解の運命は、当に此の時を以て窮まったと言うべきである。
當時薩・長二藩の提携は既に結ばれ、是が時局を新に展開せしめる枢軸となり、維新回天の偉業が成るの日は將に近づいたのである。
第六節 薩長聨合
一 薩長二藩の融和
政局の大観
文久三年八月の政変によって、三條実美等を始め朝権の恢復を意図した少壮気鋭の堂上及び長州藩を中心とした尊攘討幕の志士等は、一朝にして蹉跌敗退し、現状打破を主張した急進派は暫く中央の政局から姿を消し、政局は一転して公武合体派が其の実権を占めるに至った。
言う迄もなく公武合体派の方針は、朝幕の関係を調和緊密にし、幕府を扶助激励して朝旨を遵奉せしめ、以て国政を匡正し、国難を克復しようとするもので、其の政治的信条は現状維持論の畛域(しんいき\境)を脱却しないものと言うべきである。
而して幕府は此の形勢の一変を好機乗ずべしと爲し、因襲に捉われて一意権威の挽回に没頭し、他の容喙に耳を假そうとしなかったので、忽ち幕府の要路と公武合体派の雄藩諸侯との間に種々意見の扞格を來し、島津久光・松平慶永・山内豊信等は、相踵いで悉く京都を退去するに至った。
斯くて政局の趨勢は、漸次公武合体から再転して佐幕的傾向が濃厚となるの結果を馴致(くんち/もたらす)した。
特に幕府が長州再征を主張して、更に幕権を拡張しようと企図するに及び、此の情勢は一層顯著となり、重要な朝議も賀陽宮(かけのみや\中川親王)・二條関白を中心として、専ら一橋慶喜・松平容保等の進言に基づいて決せられるものが多く、宮・堂上の国事評定はあっても、畢尭無きが如き状態となり行き、堂上の一部には怨嗟の聲が高まると共に、尾州・薩州・福井等諸藩士の入説も其の間に行われ、心ある堂上・雄藩の間には、朝権が昔日に比して衰退したことを慨歎し、而も幕府が不明にして益々天下の人心をして離叛せしむるに失望し、国家の前途を憂慮するものが尠(すくな)くなかったのである。
薩州藩の藩是一変
茲に薩州藩は早くも大勢の推移と朝幕の到底与(とも)に為すに足らざるを知るや、文久二年來唱導した公武合体の方針を放螂(ほうてき\捨てる)し、勤王諸藩を糾合し、朝威の確立によって幕権を抑え、以て尊王の大義を宣揚すべしとなし、藩論は西郷吉之助・大久保一蔵等の力によって一変するに至った。
蓋し吉之助・一蔵等は、慶応元年の春、幕府がかの武田耕雲齋等水戸藩の降人数百人に対して、惨刻無比な処刑を行ったのを見て、大いに懣憤し、此の一事を以てするも幕府の滅亡をト(ぼく\予想)するに足るとなし、また吉之助は長州藩に於いて其の保守派が、無益に清水清太郎・松島剛蔵等有爲の士八人を殺したのを聞いて、皇国の為に正氣の士を失ったのを深く遺憾とした。
而して吉之助等が當初から幕府の長州再征を私争と断言して、公然之に反対し、将軍の進発を以て幕府滅亡の期近きに在りと爲し、一藏の如きは「是は別て面白キ芝居に成り申す可くと樂しみ申し候。大抵我思ふ図に参り申し候間、彼は破れ、我は我にて大決断策を用い申さず候ては相済申さず候間、必ず御気張り成され可く侯」とて幕府が自ら墓穴を掘るに頓著なく、我は独自の大策を建てて邁進すべきことを、同志伊地知状之丞に告げている。
以上の事実は、薩州藩の指導的位置にあった吉之助・一蔵及び其の同志等の所見の一端を示すものである。
是等の人々によって導かれる同藩の態度は、假し内部には猶多少の異見ありとするも、既に倒幕に決したものと断ずるも、必ずしも軽率の言ではないのである。
果して然らば嚢に同藩が提携して、長州藩の勢力を打倒した會津藩との関係の如きは、之を敝履(へいり/敗れた履)の如く拾て去ったのに何の不思議はない筈である。
而して同藩が勤王諸藩を糾合し、其の力を以て大勢を所期の方向に馴致(くんち\向かわせる)しようと意図するに當って、諸雄藩中に物色して、先づ己れの侶伴に択んだものは、水戸・尾州・越前等の幕府の親藩でなく、又土州・芸州・因州・備前等の諸藩でもなく、現実に幕府と抗争している長州藩であった。
思うに吉之助等は長州藩の有する実力と、其の士民間に膨溝(ぼうはい)として漲っている意気とに着眼し、之を表裏より助勢して、飽くまで幕府に抵抗せしめ、幕府をして奔命に疲れしめて、自ら瓦解の一途を辿らしめようとしたものと見得るのである。
斯くして薩・長二藩融和の氣運は、漸次征長初役の頃から動き始めたのである。
薩長二藩融和の端緒
薩・長二藩融和の経過を考えるに、征長初役に際して総督の帷幕に参し、東西に奔走した西郷吉之助は、禁門の変に捕えた長州人十人を長州藩に送還したが、當蒔薩州藩の是等の者に対する態度は懇切丁寧を極めたものであった。
尋いで五卿の筑前移転を繞(めぐ)って、吉之助は之が周旋の為、筑前藩士と共に危険を冒して下関に渡海し、諸隊の隊長等に会した。
是の時長州諸隊の士の間には、薩州人に対する怨念を抱く者が多く、「薩人若し馬關に來たるならば、此の門司の海を三途ノ川と思い來たる可し」とさえ豪語する者があったが、吉之助の死を恐れず、専ら五卿及び長州藩の為に図る誠意は、思慮ある長州藩士の心を動かすものがあった。
之と同時に五卿の移転に周旋奔走し、且つ吉之助の為に東道の労を執った筑前藩士月形洗蔵・早川勇等は、當に薩・長接近への最初の功労者として特記せらるべきものである。
而して慶応元年二月、府中藩士井上少輔等が下關白石正一郎の家に於いて、薩州藩士吉井幸輔等と会して二藩の和解を談じ、また長州藩士児玉若狭・野村靖之助等が、対州藩の内向鎮定の為に厳原に赴き、藤州藩士大脇彌五右衛門等と会合した如きは、いづれも二藩接近の先容と見るべきである。(p656)
◎幕末維新史研究会 / 第 30 回テーマ 朝権の確立 条約勅許
日時:令和5年11月25日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第三十回テーマ]
日時 令和五年(二〇二三)年十一月二十五日 午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史全881頁)』の内 621-638)を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第五章 朝権の確立
第四節 条的勅許
三 条的勅許
英国公使パークスの来任
慶応元年閨五月、英国新任公使パークスは横濱に着任した。
彼は着任勿々長崎・箱館より蝦夷島を旅行視察して帰還するや、本国政府の訓令に基づき、九月七目佛国公使ロッシュ及び蘭国公使代理と会し、償金三分の二の放棄と其の代償案とを提議して同意を求めた。
四国使臣の決議
佛国公使は兵庫・下館開港の価値は、償金の放棄に値しないとして之に反対したが、司十一日英・佛・米・蘭四国使臣は相會して、四国間の協調を決議し、英国政府の提案は、刻下の急務である條約勅許の實現を期するに、最も効果ありとの結論に到達し、佛国公使も遂に之に同意して、四国使臣間の協議が調い、優勢な艦隊を兵庫沖に進めて、滞坂中の將軍と膝詰談判を行うべしというに決した。
四国使臣の摂海進出
斯くて四国使臣は九月十三日、英艦以下九艘に分乗して横濱を抜錨し、十六日兵庫沖に進航し、翌朝其の二艦を天保山沖に進めて、老中との會見を求めた。
時に将軍は上洛中であったが、老中格小笠原長行・外国奉行山口駿河守直毅等は、英艦に赴いて四国使臣の要求を尋ねたるに、條約勅許、兵庫先期開港、関税軽減の三事を求められ、向う七日間に回答を与えなければ、直ちに上京して直接朝廷に談判する旨の警告に接した。
兵庫沖の談判
四国使臣の乗艦が兵庫挿に來ったとの報が京都に達するや、洛中の動揺は甚だしく、會津藩土の如きは若し外人が皇都に立ち入らば、忽慶殺(おうさつ\皆殺し)すべしと揚言する状であった。
二十一日將軍は長州藩再征の勅許を賜ったので、閣老等を随えて退京、二十三日下坂して、直ちに老中阿部正外(まさと)等を兵庫沖に遣わして、英国公使等と折衝せしめた。
パークスは強硬に條約の勅許及び兵庫の開港を迫り、正外等は其の頗る困難なる事情を縷述して、回答の延期を求めたが、公使等は容易に承服せず、正外は遂に已むを得ず二十六日を期して確答すべきを約した。
大阪城会議
二十四日将軍は正外等の復命を聞くや、大いに憂慮し、直ちに老中以下を會して、協議せしめると共に、手書を在京の一橋慶喜に発して天下の重大事なり、速かに松平容保と共に下坂せよと命じた。
二十五日大坂城内の評議は未だ決せず、是の日も将軍の面前に於いて凝議したが、阿部正
外及び老中松前伊豆守崇廣は公使等の上京せんことを惧れて兵庫開港の許容を主張し、幕議は遂に之に決した。
一橋慶喜の下坂と決答の延期
一橋慶喜は將軍の招致を受けるや、下坂の聴許を得て二十五日の夜半騎馬にて京を発し、翌早曉大坂城に入った。
慶喜は幕議が既に兵庫の無断開港に決せるを聞いて大いに驚き、斯くては再び安政戊午の轍を履むものなりとて、堅く其の議を抑え、再応公使等を説得して決答の日限を延べ、其の間に勅許を仰ぐべしとし、二十六日若年寄立花穂恭(たねゆき)等を英艦に遣して、十五日間の回答延期を交渉せしめた。
英国公使等は今日に至るも猶朝旨を候(うかが)わざる幕府の怠慢を責め、將軍も遂には一諸侯と伍するに至るであらうとの暴言を発して、頑として肯んじなかったが、種恭等は種々国内の情勢を陳べて、漸く十日間即ち十月七日迄の回答延期に同意せしめることを得た。
是に於いて慶喜は將軍に勅許奏請の為に、速かに上京あるべき旨を進言して、二十七日帰京した。
将軍辞表の上表
斯くて將軍は直ちに上京して、四国使臣の要求に対して勅許を仰ぐべき筈であったが、大坂城内の幕府要路の中には、將軍が堂上・諸藩士等の論議の渦中に入るを恰(よろこ)ばぬ者があって、其の上洛が延引せられた。
其の間に京都に於いては流言が行われ、外国公使の摂海に來たのは、幕府が外人の勢威を籍って外交の難件を処理しようとして、之を誘引したのであると言い、或は幕府は下關償金支払いの苦痛を免れようとして、此の詭計を行ったのであると伝え、為に物議は一層喧(かまびす)しく、朝裁を経ないで公使の要求を容れようとした阿部・松前両閣老に対する非難の声が高まり、遂に両閣老の罷免・懲罰の朝命が幕府に下った。
朝廷が直接に幕吏を免融(めんちゅつ)せられることは前例のない事であるので、此の朝命に接して大坂城内は議論沸騰し、斯くては将軍の職責も尽くし難いから、其の大任を辞して東帰すべしとの説が起り、遂に幕議は断然開港の勅許を奏請し、将軍職を一橋慶喜に譲るの二事を決した。
是に於いて十月朔日、将軍は辞表を朝廷に上り、同三日大坂を発し、東帰の途に就いて伏見に到った。
慶喜・容保等は此の報を聞いて大いに驚き、直ちに伏見に赴き、特軍の駕を抑えて、天朝を軽んずる不作法を詰り、自ら死力を尽くして勅許を奏請すべきを告げて、四日漸く將軍を、二條城に入らしめたのである。
朝議の紛糾
慶応元年十月四日の夕、一橋慶喜・松平容保・松平定敬・小笠原長打等の奏請に依り賀陽宮(かやのみや\中川宮)・山階官を始め、関白二條齊敬・右大臣徳大寺公純・内大臣近衛忠房以下国事御用掛の堂上等は参内し、簾前に於いて朝議が行われた。
慶喜等は條約勅許、兵庫の先期開港の避くべからざる事由を奏して、御裁可を仰ぎ奉った。
宮・堂上等は條約勅許を悦ばず、特に兵庫を開港して外人の京都に近寄るを嫌忌したが、戦を賭して外人の要求を拒否すべしとの勇断もなく朝議は夜を徹して遂に決しなかった。
その間近衛忠房は私に薩州藩士大久保一藏等を非蔵入口に招いて対策を問い、其の意見に伐り、堂上を特使として之に薩州藩の衛兵を附して兵庫に派遣し、諸侯の衆議によって諾否が決せられるまで、回答を延期するよう外人に交渉せしむべしとの議を提出したが、賀陽宮及び松平容保等の為に阻止せられた。
また大原重徳は特に召されて意見を徴せられたが、是れ又別に奇策もなかった。
慶喜・容保等は急ぎ一書を草して、勅許が下らなければ、幕府の存亡は固より、容易ならぬ国難に立ち至るべきを論じ、之を傳奏に呈し、また在京諸藩の代表者を召して意見を徴せられんことを奏請した。
よって五日薩・土・備等十数藩の藩士三十余名を、宮中虎の間に召されて諮詞あらせられた。
其の多数は勅許の可なるべきを奉答したが、薩州の大久保一蔵、備前の花房虎太郎等は外
艦を退去せしむべきを主張した。
朝議はなおも続行せられて夜に入るも決せず、慶喜・長行等は死力を尽くして陳辮これ昂(つと)め、宮・関白以下は殆んど対策なきに窮した。
条約勅許
戌刻(午後八時)に及んで勅書は賀陽宮・關白に下り、左の聖断を宣べ給うたのである。
「条約の儀、御許容在らせられず候間、至当の処置致す可く事」
なお、別紙を以て
「別紙の通り仰せ出され候に何ては是までの条約面品々不都合の廉之れ有り、叡慮応せざる候に付、新に取調べ相伺い申す可く、諸藩衆議の上、御取極め相成る可く事。兵庫の儀は止められ候事」
と仰せ出され、茲に始めて三港開港の條約は勅許あらせられたが、兵庫の開港は停められたのである。
正親町三候實愛は其の日記に、
「戊午年以來、叡旨奉り。攘鎖の議を主
張の処、今日に此に至り此の如し。今に於いては力無く、唯悲泣切歯胸痛を発す、幕府政体を失い、叡念奉らず、殆んど国体を損ね、殊に事理を尽くさざる。況や自ら紛擾を生じ、時日を延べ切迫に及び、倉卒(そうそつ\あわただしい)の間朝家を要し、執柄以下当路の輩を謹(そし)り、之れを遂ぐに誰か之れに服す可きや。然りして朝家拒(こば)まれず、之れ如何(いかん)、憤僚慨の外地無し」
と痛憤したのであった。
四国使臣との折衝
是に於いて七日、幕府は老中本荘宗秀・外国奉行山口直毅・大坂町奉行井上主水主(もんどのしょう)義斐(よしあや)等を英艦に遣わし英-米・蘭三国使臣に之を回答せしめた。
英国公使は兵庫の先朝開港が拒否ぜられたので、容易に同意せず、宗秀等は、一旦英艦を去って、佛国公使を誘うて協議し、臨機の措置として宗秀及び松平廉直・小笠原長行の連署を以て、兵庫は必ず期日に開港し、事情の許す限り先期開港すべき事、兵庫を即時開港せざる代償として、下関償金の全額は期日通り之を支沸い、税率改訂は老中水野忠精をして、江戸に於いて協定せしむべしとの覚書を作成し、佛国公使と共に再び英艦に赴き、其の調停を以て、茲に兵庫沖の談判を漸く終了したのである。
幕府は四国使臣の強圧に堪え兼ね、遂に将軍職を賭して、條約勅許を要請し奉り、漸く御
裁可を得たにも拘らず、一たび回答を齋して外艦に赴くや、傲岸なるパークスの桐喝に遭って忽ち畏縮し、当然要求し得べき下関償金の軽減を自ら放棄したのである。
幕府要路の軟弱怯儒(きょうだ)は真に歎ずべきであった。
改税談判
之れに加え、税率改訂の談判は翌慶応二年四月、漸く勘定奉行小栗忠順(ただまさ)を委員
として交渉を開始し、五月十三日老中水野忠精と四国使臣との間に、改税約書十二條が調印せられたのである。
其の要旨は輸出入税共に五分の課税を原則とし、安政五年の五分乃至(ないし)三割五分の
税率を軽減した外に、文久二年の倫敦(ロシドン)覚書にて約定せられた條項の實施、貿易の増進と鎖国の旧典解除とに関する條項が、新に規定せられたのである。
斯くて安政五年以來、朝幕の乖離、内治外交の背馳を醸し、久しく我が政局紛糾の禍根で
あった條約に始めて勅許が下ったのである。
佛国公使の評した如く、傑約勅許は単なる国際協約の合法化ではなく、根本的に我が国策を変化せしめる基礎となり、また皇室を中心とする我が国体の尊厳が、始めて外人にも理解せられたのであった。
されど一面関税自主権を有たぬ、我が国にとって、税率が列国の欲するままに低率となり、爾後永く我が税関収入を減少せしめ、我が産業の発達を著しく妨害せしめたのであって、彼の治外法権の撤廃と此の関税権の恢復とは、実に明治新政府に容易ならざる重大な案件を胎したものというべきであった。
第五節 長州再征
一 長州再征の議と将軍の進発
幕府の権威回復策
征長初役が征長総督徳川慶勝の方寸によって、刃に血塗らずして終局を告げたことは、内治外交に多事多難を極めていた幕府としても、洵(まこと)に怡(よろこ)ぶべき事で、幕府は須らく大局に鑑み、与論に従って長州藩の虚分に善処すべきであった。
然るに幕府の要路は、長州藩が容易に伏罪したのを見て、甚だ与し易しとなし、長州藩主
父子及び五卿を江戸に招致して、其の処分を断行し、一挙に幕府の権威を恢復しようと企て、却って事態を紛糾せしめ、自ら好んで収拾すべからざる破局に陥ったのである。
幕府は既述の如く、征長総督に長州藩主父子の江戸召敦を命じた以外に、重ねて諸侯に令
して、参勤交代を文久二年前の舊制に遵うべきことを命じ、更に京都と江戸とに分裂せる幕府の勢力を江戸に集中し、東西意見の扞格を防ごうとし、老中・松前景廣(たかひろ)・若年寄り立花種恭を上京せしめ、一橋慶喜の江戸帰還を図らしめた。
元治元年十二月崇廣等は入京したが、慶喜を動かすこと能わず、却って諸方面より将軍の上洛を促されて、空しく帰府した。
尋いで慶応元年正月、幕府は更めて老中本荘宗秀・阿部正外に旨を含めて上京を命じ、同じく十五日、長州藩の処分は、江戸に於いて行うを以て、将軍の進発は之を申上する旨を天下に布告した。
宗秀・正外は二月初旬募兵凡そ三千を率いて入京し、老中以下の総辞職を賭して、慶喜及び京都守護職松平容保・所司代松平定敬等を罷免し、諸藩兵の入京を禁止して、
幕府自ら京都の守衛に任じ、以て朝延を威圧しようと企図した。
然るに京都の情勢は彼等の豫想と全く相反し、何等目的を達し得なかったのみならず、朝召に依って参内するや、関白二條齋敬より卒兵上京を難詰せられ、慶喜等の東帰は止められ、再び将軍の上洛督促の朝命がされたのである。
斯くして正外等は朝旨を奉じて前後帰府したので、幕府は心ならずも前令を翻して三月十七日遂に将軍の西上を布告したのである。
幕府は将軍の上洛阻止及び一橋慶喜等の罷免に失敗したが、少くとも長州藩主父子及び五卿の江戸護送を強行しようと考え、酒井忠績(ただしげ)を大老として、前征長総
督徳川慶勝等の異見を斥け、強いて尾州・薩州・芸州・筑前・字和島等の諸藩に出兵護送を命じた。
是等諸藩は概ね事の困難なるを察し、固辞して応じなかったので、大目付塚原但馬守昌義
は特に之が処理を命ぜられたが、空しく京坂に掩留(えんりゅう)する事となった。
将軍進発の令
幕府はなおも長州藩主父子の江戸引致を實現せしめようとし、若し同藩にして命を奉じな
ければ、将軍自ら進発して之を征伐することを布告し、四月十三日前尾州藩主徳川茂徳(もちなが)に征長先鋒総督を命じ、五月十五日、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を以て之に代えた。
彦根藩主井伊直憲・高岡藩主榊原政敬に先鋒を、又紀州藩外十一藩に従軍を命じた。
尋いで同十九日、将軍進発の期日を五月十六日と定め、長州藩再征の理由として、長州藩に於いて容易ならざる企がある趣であり、更に悔悟の体もなく、且つ朝廷より御
沙汰の趣もあれば、之を征伐すべき旨を公布した。
而して幕府は府庫の櫃乏(ひつぼう〕に苦しみ、軍用金を江戸市民に課し、又護国寺院を
して軍費金を献せしめた。
長州再征仁対する反対
茲に幕府が公表した長州藩再征の名義はあいまいを極めたものであったので反対の論議
が朝野に紛起した。
即ち朝廷では將軍に西上を命ぜられたのは、長州藩の処分審議の為であったのに、幕府は直ちに之を長州再征の為となし、而も朝廷より御沙汰の趣もありと布告したのは、朝旨を矯めるものであるとの非難が起った。
朝議は幕府に再征の名義を責間せられようとしたが、松平容保等が賀陽官に頼って纔(わず)かに其の議は止んだのである。
また前征長総督徳川慶勝及び同副將松平茂昭(もちあき)は、各、再征の趣旨が諸藩に徹底せず、幕府の軽挙とならんことを慮り、「此の御一挙は実に天下治乱の分際に
て、誠に以て容易ならざる御大事に相成る可くと深く心痛仕り侯」と言い、果たして長州藩に叛状があれば之を糺弾したる上、朝裁を仰ぎ堂々と天下に声明して、再征の師を起すべきであるとて、「実に此の度の儀は御名義の正否、御家の御興廃にも関係仕り、至重至大の御儀と存じ奉り侯」と論じている。
其の他同州・津・備前藩等も或は朝旨を候(うかが)いて、慎重事に當るべしと言い、或は其の不可を切言して止まなかった。
薩州藩の態度
此の際に於ける薩州藩の態度を見るに征長初役に活躍した西郷吉之助は、勤王諸藩を糾合
して、朝延に依って幕府の増長を制しようとして、大久保一蔵と共に此の議を藩主茂久(忠義)父子に建白し、小松帯刀等と共に周旋していた。
四月幕府が長州再征を決するや、苫之助等は帰藩して更に藩の態度を出兵拒絶に決し、閨五月一蔵と相前後して上京した。
是の頃吉之助が筑前藩士月形洗蔵に与えた書中に「勿論弊藩杯は如何様軍兵相募り候共、
私に戦に差向う可く道理之れ無く候」とて、幕府の出師命令を拒絶する意を告げている。
また彼は小松帯刀に幕府の軽挙を評して、「弥発足の様子、自禍を迎え候と申す可く。幕威を張るところの事にては御座有る閲敷く、是より天下の動乱と罷り成り、徳川氏の衰運此の時と存じ奉り候云々」と記して、幕府が白ら墓穴を掘るの愚を唆笑(ししょう)している。
将軍の入洛参内
斯く長州再征の反対気勢が盛んである際、将軍家茂は予定の如く、五月十六日江戸を発し
て陸路大坂に向い、閨五月二十二日京都に入り、直ちに参内して、長州藩再征の事由を、「毛利大膳儀、昨年尾張前大納言迄悔悟伏罪の趣申出候処、其の後激徒再発に及び之に加え私に家來外国へ相渡し、大砲小銃等の兵器多分に取調え、其の上密商等如何の所業確証も之れ有り候に付、進発仕り侯事」と奏聞した。
勅諚あり、長防の処置は衆議を遂げて、公平至当の所を言上すべし、固より国家の重事なれば軽挙する事なく、一橋慶喜・徳川茂徳・松平容保・松平定敬等と熟議すべしと宣せられ、家茂は謹んで之を奉承したのである。
長州藩支族家老に上京を命ず
二十四日家茂は京都を発し、翌同大坂城に入って此所に滞在した。
尋いで慶喜・容保等も各勅許を得て、六月に入って前後大坂に赴いたが、老中等は依然として将軍が牙営を大坂に進めたなら、長州藩は其の威仁懾伏(しょうふく\おそれ
る)して、直ちに伏罪すべしと信じ、徒らに目を曠(むなし)うして伏罪使の至るを待つ状であった。
斯くて幕府は将軍の江戸出発後二箇月を経過して、漸く長州藩主父子に代えるに、其の支族の上坂を命ずるに決した。
即ち六月十四日老中阿部正外は慶喜と共に上京し、十七日慶喜・容保・定敬は正外と共に参内、長州藩の処分は其の支族を大坂に召致して之を尋問し伏罪せば寛典の処置に及びたしと奏請して勅許を得たのであった。
蓋し幕府は長州再征の名義に苦しみ、長州藩がこの命令を拒めば、之を名として兵を進め
んとしたものであろう。
長州藩幕命に応ぜず
六月二十三日幕府は芸州藩に命じて、長州藩支族徳山藩主毛利元蕃(もとみつ)及び同吉川幹経(つねまさ)に上坂の命を伝達せしめた。
元蕃・幹経の二人は宗藩と議し、病と称して之を辞し、毛利敬親も家老宍戸備前を廣島に遣して、若し此の召命に応ぜしめなば、昨年來寛大の恩命を待つ闔藩の士民は失
望の余り、動揺して擾乱に及ぶ處ありとて、之を辞するの意を芸州藩に致して、周旋を求めたのである。
幕府は之に耳を假さず、八月十八日更に長州藩支族府中藩毛利元周・同清末藩主毛利元純及び長州藩家老一人に、九月二十七日を限って上坂すべきを命じた。
且つ同時に諸藩に令して、期に至るも之を拒めば、断固たる処置に出でるを以て、予め兵備を整うべきを命じた。
然るに元周・元純も亦病と称して之を辞したが、藩主敬親は藩情を訴えしめようとして、家老井原主計に上坂を命じた。
小笠原行長長州再征の事に当る
斯くして、幕府は長州藩が臭の召命に応ぜざるに依り、進んで征討を行わざるを得ない立場となるに至った。
是の頃嚢に朝譴を蒙って黜(しりぞ)けられた唐津藩世子小笠原長行は幕府の奏請によって宥免せられ、九月老中格に複し(十月老中)、幕府は長行をして専ら長州再征の事に當らしめた。
征長の勅許を奏請す
幕府は予め長州藩征討の勅許を奏請せんとし、家茂は九月十五日大坂城を発して、翌日二條城に入った。
思うに幕府は既に六月、事宜によっては勅裁を経ずして臨機専断したしと奏上し、其の御聴許を得たるに、今更び之を奏請したのは、なお朝威を籍って征討の声を大にし
て、長州藩の伏罪を促そうとしたものであったのである。
而して長州藩再征は依然として、雄藩間に不評且つ反対があり、堂上中にも近衛忠房・正親町三條實愛等が此の挙を非とし、其の他反対の声が多かった。
一橋慶喜・松平容保・松平定敬等は、専ら賀陽官・二條関白等に頼って勅許を得ようとした。
薩州藩士大久保一蔵は、此の間に在って、長州藩は前年既に伏罪したればとて、其の救解に努め、勅許の下らざるよう頻りに奔走したのである。
九月二十日朝議あり、宮・關白・国事御用掛の堂上参内し、慶喜以下も之に陪列し、漸く翌暁に及んで議は幕府の請願を容れられるに決した。よって二十一日家茂は参内
し、長州藩の支族・家老等は召喚の期日迄に上坂の模様なく、最早寛宥の虚置に及び難ければ、旌旗を進めて其の罪状を糺すべき趣旨を奏聞して、「言上の趣聞し召され」旨の勅許を得るに成功したのであった。
薩州藩士諸侯会議を策す
此の後薩州藩士等は、なおも幕府の行動を牽制しようとして、諸侯の京都召集を企図し、
西郷吉之助は島津久光の上京を促す為に掃藩し、大久保一蔵は松平慶永を福井に訪い、吉井幸輔は字和島に赴いて、伊達宗城の上京を促そうとしたが、何れも成功しなかった。
征長の遷延
會、将軍上京の目に後れること一日、前節に述べた如く・英・佛・米・蘭四国使臣は、艦隊を率いて兵庫沖に進入し、幕府に條約勅許等を強要したので、征長の挙は再び
遷延せられる事となった。
斯くて幕府は辛うじて再征の名義は得たものの、事は容易に進捗せず、此の間長州藩は藩論を一定して、挙藩一団となって之に当たらんとしていたのである。 (p638)
◎幕末維新史研究会 / 第 29 回テーマ 朝権の確立 征長初役 五卿移転の問題
日時: 令和5年10月28日 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
幕末維新史研究会
[第二十九回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年十月二十八日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニセンター」
(『概観維新史全881頁)』の内p601-p621)を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第五 朝権の確立
第三節 征長初役
三 征長初役
五卿移転の問題
五卿移転の事は、征長役結末の要件として非常な難件であった。是より先、十一月十五日山口に在る五卿は諸隊の士に擁せられて、長府に移り功山寺に入った。
筑前・薩州二藩は伍長総督との約に依って、五卿の移転を實行せしめる責任があったので、筑前藩士月形洗蔵・早川勇等は長府に至って五卿に謁し、諸隊の領袖の間に周旋して、九州への渡海を説き、西郷吉之助等薩州藩土も亦尽痒した。
然るに長州藩諸隊の士は之に反対し、五卿も長州藩の寛典を説いて、容易に移転を肯んじなかったのである。
是に於いて十一.月十一日、吉之助は吉井幸輔・税所長蔵と共に密かに海を渡って下関に赴き、洗蔵・勇等と謀って周旋大いに努める所があり、漸く征長軍の解兵後に於いて移転することに定められた。
會々此の頃長州藩に於いては、藩士高杉晋作の決起に由り、藩情は将に一変せんとするに至った。
高杉晋作の挙兵
是より先、高杉晋作は藩庁が守旧派によって占められるや、其の身邊の危険を察し、萩を脱して十一月二日筑前藩士中村円太と共に博多に遁れ、月形洗蔵等の庇護を受け、後に野村望東尾の平尾山荘に潜伏した。
然るに其の後、普作は長州藩の形勢が日に非なるを聞き、憤激禁ずる能わず、今や曇如として一身の安を貧るべきに非ずとし、山荘を出でて十一月二十五日下関に帰り、藩論の匡正を志した。
晋作の將に山荘を辞そうとするや、望東尾は予て斯かる際にと用意した新調の衣類を晋作に贈り、左の二首の歌を贐(はなむけ)とした。
まこころをつくしのきぬは国の爲
立かへるへきころもてにせよ
やまくちの花ちりぬとも谷の梅の
ひらく春邊をたへてまたなむ
晋作も亦離別の一絶を賦して之に報いた。
自愧知君我が狂を容れ
山荘我を留める更に多情
浮沈十年杞憂志
閑雲若かず野鶴清し
斯くて晋作は十二月十六日の暁天、僅かに遊撃隊総督石川小五郎・力士隊総督伊藤俊補を率い、下関新地役所を襲うて之に拠り、尋いで三田尻に在った藩の軍艦癸亥丸を奪い、ここに藩論恢復の蜂火を挙げたのである。
曾々、藩の保守派要路は、十九日前田孫右衛門・毛利登人・松島剛蔵・楢崎彌八郎等七人を斬り、更に二十五日、家老清水清太郎に自刃を命じ、益々諸隊の憤激を買い、遂に長州藩は内訌に陥ったのである。
斯かる中に五卿は筑前藩の斡旋に由って、慶応元年正月十四日随員と共に筑前黒崎に渡り、赤間を経て二月十三日太宰府延壽王院に館した。
初め征長総督は五卿を筑前・熊本・久留米・佐賀・薩州の五藩に別居せしめる豫定であったが、五藩は五卿の意中を汲んで同居を策し、遂に卿は永く此の地に留まったのである。
又七卿の一人澤宣嘉は生野の変後、四国に渡り、此の頃長州藩の阿武郡の僻邑に潜伏していたのであった。
総督の凱旋
茲に征長総督徳川慶勝は、五卿の未だ移転せず、また長州藩の内訌が更に紛糾せるを後にして、慶応元年正月四日廣島を発して凱旋の途に就いた。
其の撤兵は或は時期尚早の感がないでもなかったが、将軍より全権を委ねられた総督の権限に基づいての措置であるから、他の掣肘を受くべきでなく、また長州藩が恭順伏罪の状を示したのであるから、其の使命は達せられたと言うべきであった。
斯くて征長の初役は刃に衂(ちぢま)らずして終局を告げたが、其の措置に就いては、之を寛大姑息なりと非難する諸侯もあり、また幕府要路中には甚だ之に僚(あきた)らず、一橋慶喜が故意に幕威を抑えんが為に謀ったのではないかと猜疑する者もあった。
然るに当の一橋慶喜は長岡良之助に致した書翰に、同じく不満の意を漏して、「総督之英気至テ薄ク、芋ニヨヒ候ハ酒ヨリモ甚敷ト之説、芋ノ銘八大島(西郷吉之助)トカ中ス由実事ニ候哉」と記している。
幕府は総督に対して、毛利敬親父子の江戸護送、五卿を江戸に下す事、長州藩士を急度謹慎せしめ待罪せしめる事等を傳えたが、既に撤兵の後であり、また総督は委任せられた全権を以て、取計ったのである事を主張して肯んじなかった。
総督副将の入洛
幕府は慶勝に入京せずして直ちに参府すべきを命じたが、朝廷よりも上洛の召命があったので、慶勝は朝命黙止し難しとし、正月二十四日を以て入洛し、副将松平茂昭は之に先立つこと二日、同じく入京したのであった。
征長初役は総督徳川慶勝の方寸によって、名義を失わず、事の終結に破綻を生ぜず、僅々数箇月の短時日間に、流血の惨を見ずして終了した。
蓋し総督を始め其の帷握の尾州藩士及び薩州藩士西郷吉之助等は、眼を大局に注ぎ、深く慮る所があったのであらう。
試みに幕府の為に計るに、籍府は須らく此の後の長州藩処分は之を朝裁に仰ぎ、諸侯の衆議に徴して徐に之を決し、意を専ら内治外交に注ぐべきであった。
然るに惜しむべし、再び兵を長州藩に向け、
其の結果は遂に自ら墓穴を掘るの愚を演ずる
に至ったのである。
第四節 条約勅許
一 生麦箏件
事件の梗概
文久二年八月二十一日島津久光は、先に勅使大原重徳を護衛して東下し、是日勤健に先だち、数百の藩兵を從えて江戸を発し、帰路の途に上った。
是日の午後、行列が武州生麦に到れる際、川崎大師に向う騎馬の外人四名に出會った。彼等は我が風習を知らず、且つ言語も通じなかったので、下馬して之を避けず、久光の駕が近づくに及んで其の儘馬首を旋さんとした。
輿側の供頭奈良原一喜左衛門は其の無礼を
憤り、矢庭に肩衣をはねて先頭の外人リチャ
ードソンに致命の一刀を浴せ、從士の数名も
亦、周章危難を避けんとするマーシャル、ク
ラークの二人を傷け、一行中の婦人ボロデールのみは僅かに難を免れた。
既にしてリチャードソンは馬上に苦痛を堪えて、走ること十町余にして落馬したのを、
前駆の海江田武次等が之に留めを刺した。
負傷した外人二名は辛うじて神奈川の米国
領事館に逃げ込んだ。
是夜久光は豫定の如く程ケ谷駅に宿泊したが、此の変を知った横濱居留の外人等は、激昂の余り、英国公使の指示を待たず、神奈川宿に殺到し、或は在泊の軍艦より兵員を動員し、久光の宿舎を夜襲して、之を獲んと計り、徹宵騒擾した。
神奈川奉行阿部正外は戒厳を合し、久光に下手入の引渡を要求し、且つ其の発途を止めたが、久光は之を肯んぜざるのみか、幕府へは、途中浪人体の者三四人が外人に封じて狼籍に及んだと届出で、翌日其の行を進めた。
其の後、薩州藩は此の届出書の返附を請い、
更に外人が制止を肯ぜず、無体に行列に乗入れたので、前衛の足軽岡野新助なる者が之に斬りつけ、新助は其の儘外人を追うて行衛を失したと届出で、罪を架空の人物岡野新助に帰して、全く幕府を愚弄する態度に出たのである。
斯くて其の下手人の検挙に就いて、幕府は英国代理公使ニールの強談に悩んで、屡々薩州藩に対して其の引渡を命じたが、薩州藩は眼中既に幕府なきが如く、之に応ぜざるのみか、反抗するに尊しき態度に出でて、幕府が雄藩を制御し得ざる実状を外人にも暴露したのであった。
斯くて英国政府は此の情勢に鑑み、本件の賠償を提起するに當って、幕府に対する要求の外、薩州藩に対しても応懲の意味を以て別個に要求をしたのである。
生麦賠償問題と英仏両国公使の幕府援助提議
生麦賠償問題の提起せられた時は、恰も将軍が上洛して攘夷の期日決定を迫られている際であったから、幕府にとって之は特に困難な問題であった。
幕府は英国公使の期日を限っての要求に対
して、確答を与えず一意時日を延ばすのに腐心したので、其の交渉は日に縫れた。
文久三年三月、日・英両国間の国交が漸く危殆に陥ろうとした頃、英・佛両国公使は幕府が斯くも逡巡するのは、全く其の対内的事情に基づくものと看破し、之が対策として締盟各国は共同して、從來條約上正当なる政府と認めて來た幕府を声援し、之をして国交上有害な反対を試み、其の政策を妨碍する雄藩を圧伏せしめ、以て條約の既得権及び居留民の安全を擁護する途を開かんと決議し、密かに之を外国奉行竹本甲斐守正雅(まさつね)等に提案するに至った。
正雅は京都に赴いて将軍の指揮を仰いだが、
幕府は固より之を拒否したのである。
斯くして幕府は同年五月窮余の策として、償金拾萬磅(ポンド)、外に公使館襲撃事件の賠償金一萬磅を英国に支払い、引続き朝旨に依って横浜・長崎・箱館、二港を閉鎖する旨を列国公使に通告して、僅かに対英難件を解決したのである。
而して幕府は薩・英間の交渉に就いても、英国艦隊の鹿児島行を阻止しようと試みたのみで、我が領土の一部を侵犯せんとする行動に対して、積極的に抗議して、中止せしめる態度には出でなかったのである。
薩英戦争
文久三年六月二十七日、英国公使は提督キ
ューパー麾下の七艦と共に鹿児島湾に到り、
翌二十八日下手人の処罰と、被害者に対する遺族扶助料及び慰藉料として、二萬五千磅を支沸うべき要求條件を提出し、二十四時間を
限って其の回答を求めた。
二十九日薩州藩は下手人発見次第処罰すべ
き事、扶助料其の他の賠償金は理非曲直を論判した後に於いて諾否を決せんと答えた。
英国公使は早くも談判の不調を看取して、兵力の行使を決意し、七月ニ日同藩の汽船三艘を拿捕し、之に坐乗せる五代才助・松木弘安を捕らえたのである。
是に於いて彼我の間に砲戦が開始せられ、折からの烈風豪雨の中で戦を交えること殆んど三時間半に及び、互に損傷があった。
英艦にあってはバージユース號は砲台からの急砲撃に狼狽し、錨鎖を切断して漸く危地
を脱した外、旗艦ユーリアルスの艦長ヂョスリング大佐・副長ウィルモット少佐の戦死を始め、多数の死傷者を出し、薩州藩に於いても各砲台は大破に帰し、前記汽船の外に藩船三艘は焼棄せられ、城下の約一割を焼かれた。
斯くて英国艦隊は意外の反撃に遭って不覚
を取り、翌三日僅かに櫻島砲台を砲艦しながら湾口に退却し、船体の応急修理を行って九日横濱に帰還し、再挙を声明したのであった。
其の後薩州藩も亦砲台を修築し、大砲を整備して頻りに英艦の再襲来に備えたが、幾ばくもなく藩内に非戦論が起り、支族佐土原藩主島津忠寛の斡旋によって、英国公使と直接談判を開くこととなった。
即ち家老代岩下右衛門・応接掛重野厚之丞等は藩命を承けて横濱に赴き、九月二十八日以降四回に亙って英国公使と交渉を重ねた結果下手人の処罰を約し、英国が薩州藩の為に軍艦の購入を斡旋する事を條件として薩州藩は賠償金、一萬五千磅の支沸を容認し、十一月朔日、此の金(約六万両)を幕府から借用して、島津忠寛が代って之を支払い、茲に一年有余に亙って紛糾を重ねた生麦事件は、全く解決せられたのであった。
此の戦闘の結果、さすがに精悼の聞えがあった薩摩隼人も、英国の精巧な新兵器アームストロング砲の洗礼を受けては、切に彼の長を採って己れの短を補うの緊急在るを悟り、英国も薩州藩の勇敢なる戦闘振りを目撃し、彼の侮るべからざるを直感し、爾後薩州藩と英国との関係は却って親密となったのである。而して幕府が薩・英葛藤に就いて殆んど供手傍観していた事は、益々其の権威を中外に失墜し、同時に雄藩をして愈々幕府の統制下から離脱する勢を助長せしめたのである。
此の際幕府に対して好意の中立態度を取っていた米国辮理公使プリュキンは、早くも條約勅許の必要を論じて、條約が勅許せられざる限りは、外国人は常に不安であるのみならず、遂に内乱は勃発するであらう。如何となれば事理共に日本に於ける正當の元首は御門であって、條約には其の許可が必要であるからだと喝破した。
二 下関の外船砲撃と其の報復
長州藩は朝廷及び幕府の布令によって、攘夷期日と定められた文久三年五月十日に、米国商船ペムブロークを下関海峡で砲撃し、攘夷戦の砲火を開いたが、其の後同藩は同二十三日佛國通報艦キンシャンを、二十六日蘭艦メヂュサを砲撃し、各若干の損傷を被らしめた。
之に対して米国公使プリュイン及び佛国公使デ・ベルクールは直ちに報復を志し、米艦ワイオミングは六月朔日下関海峡に至って長州藩の砲台を攻撃し、同藩の軍艦二艘(庚申丸・壬戊丸)を撃沈し、英の一艦(癸亥丸)を大破せしめた。
次いで佛国東洋艦隊司令官ジョーレヌ少將は、旗艦セミラミス、タンクレートを率いて下関砲台を砲撃し、陸戦隊を上陸せしめて前田飽台を占領し、其の大砲を不用に帰せしめた。
此の二回の襲撃に遭って、長州藩は多大の損害を蒙ったが、猶屈せずして兵備を整え、依然として海峡を封鎖したのであった。
英国公使オールコックの長州藩応懲の計画
其の後、米・佛・蘭及び英の四国使臣間には、長州藩の応懲と瀬戸内海通航権の確保とを幕府又は朝廷に交渉し、且つ実力を以て目的を達成せんとの協約が成立したが、英国が生麦事件未解決の為に積極的行動に出なかったので、此の協約は實行せられなかった。
次いでかの八月十八日の政変が起こって政
局は一変し、幕府の長州藩に対する態度も自ら強硬となった。
拾も翌元治元年正月、帰国中であった英国公使オールコックは、対日方針を以て東洋に在る陸海兵力を行使する権限を付与せられて帰在した。
英国公使は長州藩がなお下関海峡を封鎖し
ているのを見て奇貨措くべしとし、之に対して武力を行使し、一挙に之を圧伏すると共に、攘夷の氣勢を粉砕し、以て條約上の妨碍を除去せんと欲し、前年四国使臣間に協約せられた決議の趣旨に基づき、局面の打開を爲さんと決意した。
英国公使の此の計画は、米蘭両国使臣の賛成を得たが、佛国新任公使ロッシュが英国の
政策に追随するを欲せず、態度を決しなかったので、四国間の協調は容易に整わなかった。
四国の協調
然るに其の後佛国公使は幕吏から、末だ長州藩処分の目算が立たず、且つ若し英国が下関遠征に関して、領土的野心を有たぬことを佛国公使から保証するならば、幕府は四国の下関遠征を黙認する旨を聞くに及んで、進んで此の遠征に加わり其の利益に均霑(きんてん\便乗)すべしとし、初めて英国公使の提案に協力することを約するに至った。
是に於いて六月十九日、四国使臣は幕府に通告して、二十目間を限りて下関適航の安全を保証する事を求め、若し期限を経過せば通告を用いずして、軍事行動に移ることを警告したのである。
長州藩士井上聞多・伊藤俊輔二人が、英国留學中祖国の危急を聞知して急遽帰朝し、長州藩と四国使臣間の調停を試みたが、藩論に妨げられて失敗に終わった。
幕府は四国使臣の警告に対して、長州藩処分の猶予と横演鎖港の必要を説くのみであったので、四国使臣は七月十八日若年寄立花出雲守種恭・外国奉行竹本正雅等の來会を求め、最後の交渉を行った。
当時幕府は長州藩の已れに反抗するを忌み、
之を応懲しようとするも、其の策がないのに苦しんでいたのであったから、幕吏の中には密かに四国の下關遠征を望んだ者もあり、叉佛艦の求めに応じて、伊能忠敬測量の同本地図を貸与したとさえ言い伝えられた程であった。
斯くて此の最後の折衝に於いて、種恭等は四国側の行動を阻止すること能わず、四国の聯合艦隊は横濱を解繍(かいらん\ともづなをとく)するに決したのであったが、偶、此の頃鎖港談判使節池田長発(ながおき)等が突如帰朝したので、暫く其の出発が延期ぜられたのである。
横浜談判使節の帰朝と巴里廃約
外国奉行地田長発の一行は先に文久三年の
末、横演鎖巷談到の使命を帯びて渡欧の途に就き、本年三月佛國に低(いた)り、同国政府と鎖港談判を開始したのであったが、固より斯かる使命が彼方の容れる所となる筈はなかった。
曾て我が国に在留した蘭人フィリップ・フ
オン・シーボルトは、巴里に來って長発の為
に斡旋したのであったが、結局前後七回の会商結果は、全然彼の為に論破され、五月十七日佛外相ルイスとの間に、軍艦キクシャンの損害に対する賠償金として、幕府は拾萬弗、
長州藩は四萬弗の支払い、佛船の下関通航、關税の軽減等の箇條を約定調印し、別に幕府軍艦の建造、長州藩応懲の援助を約したのである。
而して長発等は此の失敗に鑑み、他の締盟国に赴いて談到を継続するも、到底其の使命は達成せられざるのみか、却って国辱を異邦に曝すに等しいことを愧じ、且つ欧州列強の富強文物を目撃して、之を祖国の現状に省み、決然死を賭して、其の所信を同胞に訴えて、上下を覚醒奮起せしめようと決意し、中途速やかに帰朝の途に就いたのであった。
是に於いて幕府は其の突然の帰朝に大いに
狼狽し、暫く他所に潜伏することを命じたが、
長発等は之を肯んじなかったので、直ちに長発等に謹愼を命じ、次いで之を減碌・隠居・蟄居に処した。
而して幕府は長発等が巴里で調印した約定
は、使節の越権に出で、且つ両国の和親を破るものとして、佛国公使と議して之を廃棄した。
是れ即ち世に巴里廃約と称するものである。
四回竈合o隊の下関砲口
斯くて英・米・佛・蘭四国聯合艦隊は、英国海軍中將キューパー、、佛国海軍少将ジョーレスに率いられて七月二十七・八の両日に
亙って横濱を解䌫し、豊後姫島沖に集結した。
当時長州藩は禁門の変の直後、内外の厄難が一時に至ったので、先づ海峡通航の安全を約して開戦を避けようとしたが、遂に及ばず、八月五日聯合艦隊十七艘の襲撃を受け、茲に攻防戦は展開せられた。
長州藩の士氣が大いに揚がっていたとはいえ、其の兵力・砲数・武器に於いて到底彼の敵ではなく、諾砲台は相次いで破壊せられ、翌六日敵の陸戦隊二千余人の爲に、前田・壇浦以下の諸砲台台は占領せられ、備砲は奪われ、遂に敗戦の苦杯を嘗めたのであった。
斯くて長州藩は七日之と講和するに決し八
目高杉晋作・杉徳輔・井上聞多・伊藤俊輔等を英旗艦に遣して和議を議せしめ、数次会商の結果、同十四日宍戸備前・高杉晋作等は、キューパー提督と停戦協定を結び、海峡通航の外船の優待、石炭食糧の売渡、風浪の際に於ける避難・上陸の容認、砲台の新造又は修理の中止、戦費の賠償及び下関市街保全の代償金支払いの五箇條を約し、賠償に関しては、更に四国使臣との協議に末俟つことに決した。
停戦後に於いて長州藩と聯合艦隊とは、一転して忽ち親密となり、彼我の贈答・見學等が行われ、他日長州藩と英国との親睦の端が夙くも茲に開かれたのである。
下関取極署の議定
下関砲撃中、横濱に止った四国使臣は、講和の報を得るや、外国奉行竹本正雅等と會見して、長州藩が先に外船を砲撃したのは、全く朝廷・幕府の命令に基づくものである事を確(認)め、幕府は速かに其の態度を改め、進んで條約勅許奏請に努力すべきことを勧告し、若し幕府にして之を實行せざれぱ、列国は直接朝延と交渉すべしと聲明して其の決意を促し、九月六・七両目に亙って、四国公使は老中水野忠精・牧野忠恭・諏訪因幡守忠誠、若年寄酒井飛騨守忠口・立花種恭等と會して、其の責任上、下関事件の償金全部を負担すべしと要求したのであった。
忠精等は略々之に同意し、且つ条約の勅許を得るに努力する旨を答えた。
九月二十二日幕府は若年寄酒井忠□等を全
権として、四国使臣と下關事件取極書に調印せしめた。
其の條項は船艦の損傷に対する賠償、下關市街保全の代償金及び戦費として三百萬弗を支払う事、償金支払いは六回に分ち毎三箇月に五十萬弗宛を支払う事、若し幕府が償金に代へて、下ノ関又は瀬戸内海に於いて適当一湊を開く事を希望せば、四国は協議の上諾否を決すべしというのである。
此の賠償金三百萬弗は法外の額であって使
臣等が明言している如く、之を以て他日の権益獲得に費せんとした底意に出たものであった。
四国聯合艦隊の下關砲撃は、種々な結果を齋したが、就中英国公使等が意図した長州藩を圧倒して、攘夷の気勢を殺ぐ目的を達したのみならず、條約の實施に關して幕府が如何なる言質を与えるとも、條約勅許を見ざる限りは、攘夷党の跳梁はなお止まず、国交の円滑、貿易の進展は到底期し難いとの信念を一層強くし、幕府に対して條約勅許を迫るに至ったのである。
三 条約勅許
條約勅許は濁り外国使臣が翼望するのみな
らず、幕府としては更に其の必要を痛感し、其の實現を熱望していたのである。此の頃幕府は横濱鎖港、征長、常野(常陸・上野)地方の擾乱等の難件が累積して、頗る其の措置に悩んでいた際、更に四
国使臣の條約勅許の要望、下關償金の支払い等
の離間を加えて、益々、苦境に陥ったのであっ
た。
依って九月二十四目老中阿部正外は上京し
て、是讐の情貿を閲下に奏聞し、條約勅許に就いても努力したが、事は意の如くに運ばなかった。
また外国側に在っても、英国公使オールコ
ックは同年十一月を以て本國に召還せられた
ので、外部からの圧迫も稍々緩和せられた。
而して幕府にとっては、下關事件取極書に由る開港場の増設は、国内の事情から到底実施すべきでなく、また約を履んで償金を支払うことは、財政上非常な苦痛であったので、窮余の策として、慶応先年三月十日四国使臣に、新開港場開設に代うるに償金支払いを以てすべきを告げ、其の第一回分を本年六月、第二回分以下の支払いを一箇年後に延期することを求めたのである。
英仏両国の対日政策相反
是より先、英国代理公使ウェンチェスター
は、夙くも幕府の意が新開港場の設置を拒否するに在りと察知し、其の対策として償金を放棄し、兵庫の先期開港と税率の軽減とを要求すべしとし、之を本国政府に請訓したが、同政府は之を容れて、以上の二件の外に更に條約勅許の一項を加え、其の實現を見るならば、第二回償金の支佛猶豫に同意し、且つ償金総額の三分の二、即ち二百萬弗の放棄をも承認するも可なりと訓令した。
蓋し英国は我が貿易の壟断し、なお我が雄藩が貿易開始の希望あるを察知して、開港場の増加を熱望していたからである。
然るに佛国政府はロッシュ公使の意見に基づき、英国政府の政策に反対して、寧ろ幕府
を支援する態度に出で、償金支払いの延期に就いては、之を駐日四国使臣間の協議に委ねん事を主張したので、ある。
(p621)
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 28 回テーマ 朝権の確立 征長初役 長州藩追討の部署
日時: 令和5年9月16日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十八回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年九月十六日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内582‐p601)を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第五章 朝権の確立
第三節 征長初役
一 長州藩追討の部署
長州藩追討の朝命
幕府にとっては、長州藩兵が禁闕を犯した事は、年来意志の杵格して、恰も一敵国の観がある同藩を圧伏し、同時に尊攘派の気勢を殺ぐのに、千載一遇の好機であった。
元治元年七月二十一日より三日に亙る朝議に於いて、長州藩追討は決せられ、二十三日を以て禁裏御守衛総督一橋慶喜を経て追討の朝命を幕府に下された。其の文に云う。
松平大膳大夫儀、兼て入京を禁ず之處、陪臣福原越後を以て、名は歎願に託し、其の實強訴、國司信濃・益田右衛門介等追々差出の處、寛大仁恕を以て之扱われ難く、更に悔悟の意無く、言を左右に寄せ、容易ならざる意趣を合み、既に自ら兵端を開き、禁闕に対し発砲候條、其の罪軽からず、之に加え父子黒印の軍令状国司信濃に授け由、全軍謀顕然候、旁防長に押寄せ速に追討之れ有る可く事
と、此の朝命を賜って、幕府が追討の師を起せば、長州藩を伏罪せしめる事は、決して困難ではない。
若し長州藩にして麁暴過激の言動に動かされて、之に抗すれば、其の存亡も逆睹(ぎゃくと/予想)し難いものであった。
されど幕府が諸侯の軍を総括するに、如何なる方寸を以てし、また長州藩に臨むに、如何なる態度を以てして、此の重大使命の結末を著けるかは、幕府としては最も愼密な考慮を要する
のであった。
羸弱(るいじゃく/弱る)己に久しく、公武合体の名目に因って纔(わず)かに其の余勢を保っていた幕府は、諸侯の大軍を督するには、既に著しく其の威令を失っていた。
而して、堂上・諸侯の中には、さすがに長州藩を不問に附すべしと為すものは無かったが、同藩が従來尊攘の大義貫徹に尽瘁して來た事に対しては、なお同情を寄せ、処分の寛大ならんことを冀望するものが少くなかった。
されば幕府の要路が、大局を洞察して之に善處したならば、或は少々其の権威を恢復し得る
好機でもあったであらう。
之に反して若し時勢に迂にして、徒らに私心を以て事を処置し、一朝其の措置を誤ったならば、やがて土崩瓦解の原因を爲すに至るのであった。
是に於いて征長の事は、濁り長州藩のみならず、幕府にとっても其の運命にも関する重大事件であった。
幕府の征長部署
一橋慶喜は、長州藩追討の命を拝して、即日朝命を諸侯に伝え、紀州・高松・彦根・土州・津・姫路諸藩に、大坂・兵庫・堺・西宮等の警戒を命じ、叉困州・松江・備前・芸州・津山・
宇和島・薩州・筑前・熊本・小倉等、山陰・山陽・四国・九州等の二十一藩に山陣の準備を命じた。
八月二日將軍家茂は諸侯並びに布衣以上の有司に総登城を命じ、征長の事を告げて、各々忠勤を尽くすべきを諭し、尋いで五日令して、將軍内ら軍を進めて、討伐の事に従うべきを告げ、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を征長総督に福井藩主松平越前守茂昭を副将に命じた。
初め一橋慶喜・松平容保等在京の幕府要路は、
松平慶永に入京を勧めて、之を副将たらしめようと百方勧説し、薩州藩士小松帯刀・西郷吉之助等は、一日も速かに出師する亡とを有利なりとして、慶永の決起に斡旋したが、慶永は固辞して遂に之を受けなかった。
七日幕府は茂承の総督を罷めて、前尾州藩主徳川慶勝を以て之に代らしめたが、慶勝は後に
述べる如く、容易に之を受けなかった。
十三日幕府は征長の部署方略を令して、陸路は芸州口・石州口、海路は徳山・下闘・萩の五方面より、長州藩に進撃せしめ、総督には諸軍を督励して、本月中に出陣すべきことを命じ、曩に京都に於いて慶喜の命じた出征諸藩を若干変更して三十余藩とした。
毛利慶親の官位褫奪
尋いで二十二日幕府は毛利慶親・同定廣の官位、並びに将軍より賜った偏諱・松平の称を褫奪し、後日其の支族府中藩主毛利元周・徳山藩主毛利元蕃の一官位を奪い、之に謀慎を命じ、また此の前後に、長州藩及び支藩の江戸・京都・大坂・伏見・長崎の藩邸及び蔵屋敷を没収した。
幕府の情勢
幕府は既に将軍の進発を布告し、其の後、或は随員を定め、或いは進発の道程を公表する等、其の牙営を進めるが如くに装ったが、真に之を決行する意はなかったのである。
蓋し江戸に在って、幕権の恢復に腐心していた老中等は、幕威の陵夷せるを。暁(さと)らず、諸候の軍を動かし、其の磐を大にして将軍の進発を揚言すれば、其の勢威は、長州藩を圧して、容易に之を屈服せしめ得るものと過信したのであった。
之に加え、彼等は昨年來在京して、中央の政局に於いて幕府の枢機を掌った一橋慶喜等に対して猜疑の眼を向け、慶喜等は朝権を擁して幕府の権力を壟断(独占)するものと疑い、国政の大本を忘れて、或は慶喜の帰府を策し、或は其の行動を抑えんとした。
かの征長部署が一たび京都に於いて発令せられたのに、忽ち江戸に於いて之を改変して公布した如きは、此の間の情實を語るものである。
慶喜も亦此の情態に対し只管自己の嫌疑を憚って、機宜の処置に出ずる能わず、幕府の東西に於ける政治は、動(やや)もすれば扞格して閣内の統一を欠き、従って征長に関する措置も甚だ緩慢ならざるを得なかったのである。
参勤交代制復旧の幕令
當時幕閣に列した老中が、如何に大勢に迂遠で、幕構擁護の為に盲目となっでいたかを示す一例を挙げれば、彼等が参勤交代制度の復旧を夢みたことである。
即ち彼等は征長の師が起されたに乗じて、幕権の回復、諸侯制馭の強化を志し、文久二年大英断を以て緩和した参勤交代制を、九月朔日旧に復して、其の妻子を江戸に置かしめ、以て質を諸侯から徴する旧慣を復活しようとしたのである。
されど斯かる時代錯誤も甚だしい命令を、争で諸侯が甘受すべき。
其の結果は徒らに諸侯の反感を招いたに過ぎず、彼等は種々な口実を設けて、依違命に從わず、幕府も遂に其の實行を強いる能わず、却って自ら求めて其の権威を失墜する結果となったのである。
将軍進歩角要望
幕府は斯くの如く征長の措置を怠り、其の総督をすら未だ決定し得ない状態であったので、八月晦日朝廷は其の遅延を責めて、将軍に急遽上坂を命じ、また総督の就任が遷延するならば、副将以下の諸兵を以て、進撃すべきことを命ぜられた。
幕府は朝命の外に、なお一橋慶喜・松平容保及び福井・薩州両藩等からも、再三の勧説があったにも拘らず、依然将軍の上坂を躊躇したのである。
尋いで九月十二日、老中阿部豊後守正外は上洛し、二十四日参内しで、内外の時務に就いて奏上した。
この奏聞の要旨は、英・佛・米・蘭四国使臣が、下關に於いて長州藩を屈服せしめた余威に乗じて、條約の勅許を得べきことを幕府に要請し、若し幕府にして徒らに時日を経過せば、彼等は艦隊を率いて、摂海に進入し、直接朝廷と交渉すべしと主張する由を陳べて、横濱鎖港の如きは容易に行わるべき現状に非ずと上申し、且つ常野(常陸・上野)地方の擾乱をも挙げて、将軍進発遅延の事由を奏聞したのである。
十月朔日、朝廷では此の奏聞を諒恕あらせら
れて、内外の重大事を一時に処置する事は困難なるべしとて、姑く鎖港の事を猶豫あらせられ、速かに征長の軍を進むべきことを命ぜられ、なお正外に速やかに帰府して将軍の進発を督促するよう命ぜられた。
然るに其の後も、幕府の老中等は、依然として将軍進発の事を決行するに至らなかった。
徳川慶勝の総督就任
曩に征長副將を命ぜられた松平茂昭は、八月二十八日藩地を発して、九月六日入洛した、
然るに徳川慶勝は深く慮る所があって、容易に総督の命を受けなかったが、其の後松平容保・松平定敬等が屡々之を勧説し、また上京すべき旨の朝命が下ったので、慶勝は遂に九月十四日、上京の途に就いた。
途上幕府に上書して、総督の命を拝したのは武門の面目之に過ぎるものはないが、非才其の
任に堪えず、願はくば将軍の帷幄(いあく/陣営)に参して、犬馬の労に服せんとて、切に將軍の進発を促し、二十一日入京して、宿所知恩院に入った。
斯くて入京した慶勝は周囲の情勢、諸方の勧告に動かされて、遂に任を耕すること能わず、意を決して再び幕府に上書して、征長総督の任は、寔に重要なれば、その全権を付与せられて、其の方略、進退に就いては臨機の処置に一任せられたき旨を請い、且つ暫く大坂城を以て其の宿所に宛て、蒸氣船の使用をも許可せられんことを求めた。
幕府は其の旨を容れ、長州藩追討の万事を委任して、軍中枢機の專断を許した。
斯くて慶勝は予め幕府よリ其の行動を牽制せられる事を避け得たので、十月三日先づ京都に副將・老中・大目付・目付等と会して軍議を行い、五日正式に征長総督就任の請書を幕府に呈し、翌六日従軍諸藩に牒(ちょう/辞令)して、同月二十日迄に藩主若しくは重臣の大坂参集を求め、軍議を開くに決した。
仍りて十二日慶勝は副将茂昭と共に御暇乞の為に参内し、小御所に於いて龍顔を拝し、天盃並びに鞘巻の御剣を賜わり、慶勝は特に寮の御馬をも賜はり、彌々従軍諸藩の士気を励まし、
人心一途に帰するよう尽力すべしとの御沙汰を拝した。
此の時慶勝は議奏・傳奏に対し、長州藩に於いて悔晤伏罪せば、臨機寛大の処置に及ぶべき旨を告げて、其の所見の一端を漏らした。
尋いで慶勝は大坂に下り、二十二日大坂城に於いて軍議を開き、御沙汰書、軍議の委任状を従軍諸藩の重臣に示し、翌月十一日までに長州藩の封境に兵を勧めしめ、元治元年十月十八日を以て総攻撃の期日と定めた。
斯くて総督麾下の先鋒は、十月二十五日を以て西下し、諸藩兵も逐次其の部署に就き、征長方略は漸く其の緒に就いたのである。
征長の役と諸藩
此の際に於いて征長に対する諸藩の情勢を見るに、幕府が此の一挙を以て、先づ己れに反抗する長州藩を圧伏し、徐に幕権を張ろうと意圖するに対して諸侯中には幕権の大を致すを喜ばず、密かに心を長州藩に寄せるもの、或は事に託して其の従軍を辞せんとするものもあった。
困州藩主池田慶徳は、書を朝廷及び幕府に呈し、防長の地は皇国の領で、其の人民は皇国の民であるのに、今や外国艦隊の侵掠を受け、近隣諸藩は征長の命あるに憚って、敢て之を救援せずして傍観している。
皇国の土地人民を侵されるのは皇国の恥辱である。宣しく外船を退去せしめて、其の後に同藩の罪状をさるべきであると言い、また備前藩主池田茂政は、外患ある際国内に擾乱を生ずるのは、神州の為に痛恨事であるから、諸侯を闘下に召して衆議を徴せられて、長州藩の処置を定められんことを朝廷に建白した。
塾州藩主淺野茂長は、外艦の長州藩侵襲に善
虚して、国威を立たせられた後に、同藩の処置に及ぶべしと幕府に建議し、また阿州藩主蜂須賀齊裕は、外艦が長州藩に捷(勝)てる勢に乗じて摂海に侵入せば、自領要衝の防衛と征長出兵と、事態は両端となつて、蓬に外患を禦ぐ能わざるに至るべきを理由として、征長従軍を辞せんとしたが、許されなかった。其の他征長の猶豫を請える藩もあり、特に筑前・津和野・宇和島等の諸藩は、藩士等を長州藩に遺して、其の恭順を勧告したのである。
征長総督と西郷吉之助
曩に征長の役に関して総督の牙営に出入し、長州藩及び五卿の間に周旋活躍した人物には、尾州藩士は固より芸州・筑前諸藩士があるが、中にも最も活躍したものは、薩の西郷吉之助でであった。
是より先、薩州藩に於いては島津久光の国事周旋も、兎角幕府の要路と勧角扞格(かんかく/対立)して、容易に公武合体の實を挙げるに至らず、且つ同藩の勤王派は、公武合体が却って佐慕の結果を招來して、尊王の大義に反するを憤慨し、斯かる藩情を一変せしめる為に、文久二年以来南海の孤島に流竄の身となっている西郷吉之助を起たしめようと欲して、其の赦免召還を久光に請うた。
斯くして元治元年三月吉之助は遂に赦されて上京を命ぜられ、久光の退京後は、家老小松帯刀と共に在京した。
其の後久光も大久保一藏等をして藩政の改革を行わしめたので、同藩の一方針は漸く公武含体より、尊王倒幕に変更せられんとする勢を示すに至ったのである。
征長の部署に於いて、薩州藩は海路萩口に向うひとに定まっていた。
而して西郷吉之助の征長役に対する所見は、在藩の大久保一藏に与えた書翰に見える如く、速かに長州藩の処分を了ることを急務とし、軍を進めても長州一藩を悉く死地に逐い込むの不利を避けて、其の宗支藩間を離隔し、長州人をして其の過激派を刺せしめんとの策であった。
其の書翰の一節にいう、
攻め掛け日限相分り候はば、直様私には芸へ飛び込み、吉川・徳山邊の處引離し候策を尽くし申し度く、内輪余程混雑の様子に御座候間、暴人の処置を長人に付けさせ候道も御座有る可く候茄歟と相考え居り申し候
と。
即ち吉之助は自ら長州藩の地に入って、長人を以て長人を制する策を施そうとしたのである。
吉之助は総督徳川慶勝に頼って其の策を行おうとして、之を慶勝に説いた。
慶勝も亦速やかに事を処置して、国内の戦乱避けようとしていたので頗る之に傾聴し、且つ吉之助を信頼して佩刀を与え、切に周旋を依頼する所があった。
斯くて征長役は将軍が遂に其の牙営を進めずして其の全権を総督徳川慶勝に委任し、総督は一薩州藩士西郷吉之助に全幅の信任を置き、軍中の方略・緩急が吉之助の方寸献策に出でたものも少くなく、征長の事は挙げて幕府の指揮容喙を許さぬこととなったのである。
既にして西郷吉之助は、十月二十六日同藩士吉井幸輔・尾州藩士若井鐵吉等と大坂を発して西下し、尋いで十一月朔日総督徳川慶勝は大坂を発して、十六日牙営を廣島に進めた。
また副将松平茂昭は十一月三日海路を取って十一日小倉に至り、本営を此の地に置いて九州諸藩の兵を督したのであった。
二 長州藩の恭順
芸州藩の内憂外患
転じて禁門の変後の長州藩の状勢を見るに、藩世子廣封(ひろかね)は五卿と共に、益田石衛門介・福原越後・国司信濃の軍に合しようとして、海路東上の途に在ったが、七月二十一日多度津に至って京都の変報を聞き、叉胴藩支族吉川経幹は備後水島灘に於いて此の報に接し、直ちに東上を止めて各々帰藩の途に就いた。
此の時に當り、米・英・佛・蘭の四国聯合艦隊は、同月二十七・二十八両日を以て横浜を発し、日ならずして下関に来襲せんとし、長州藩は内憂外患交々至るの状態となった。
二十七日藩主敬親は三田尻に赴き、廣封及び三支藩主・老臣等を會して、内外の難局に処する対策に就いて協議を行った。
曾々支族吉川経幹も家老香川邦太郎等を遣わして、福原越後等三家老以下参謀の輩の、主命に違うて大事を惹起したるに由り之を処分し、以て朝廷に陳謝し、名義を立てんことを進言せしめた。
藩要路の議も略々之れに傾いていたので、翌日更に凝議して、責任者を処罰するに決し、二十九日中村九郎・佐久間佐兵衛等の職を免じて、謹慎を命じ、八月二日福原越後等の三家老を罷め、且つ京都に於ける進止の顛末を糺問せしめ、尋いで三人を徳山に監禁し、叉宍戸左馬之介・竹内正兵衛の職を免じて謹愼に処した。
既にして八月四日、四国艦隊は舳艫相銜(じくろあいか/列を成して)んで姫島の錨地を発して、下関海峡に現れた。
長州藩は外患を緩めて内憂に虚せんとし、高杉晋作・井上聞多・伊藤俊輔等をして折衝せしめようとしたが機を失し、翌五日戦端を開いたが、兵器の優劣は如何ともし難く、十四日遂に講和條約を締結するに至った。
是に於いて三候實美等の五卿は不平に堪えず、長州藩を去って備前藩に頼らんとするに至り、叉一郡藩士の不満を買い、藩情は益々複雑紛糾を來したのである。
長州藩の恭順
毛利敬親は既に三家老等責任者を処分して、恭順謝罪の意を決したので、支族吉川経幹を起して専ら此の事に斡旋せしめようとし、清水清太郎・麻田公輔二人を岩国に遣して、経幹を説かしめた。
経幹は之を諾し、清太郎・公輔二人を岩国に留め置き、自ら八月二十一日芸州草津に至り、芸州藩主の浅野式部と会見して、長州藩の為に周旋依頼し、敬親の待命書を受領し、且つ幕府の命によって、爾後長州藩の進達書は凡て吉川氏を通じて芸州藩より朝幕に進達すべきことを諾した。
其の待命書の文意は、三家老が敬親父子の宿意に違い、脱走の輩に誘われ、私意を以て疏状を上り、終に闘下の騒擾に及んだのは恐懼に堪えざる次第である。よって藩地に於いて謹愼して何分の御沙汰を待ち奉る。
叉三家老は之を支族に監禁せしめ置きたれば、其の処分に就いても指揮を請うというのであった。
なお此の外長州藩では、藩士を因州・備前.筑前・津和野・宇和島等の諸藩に遣して、頻りに救解の労を取らんことを求めたのであった。
長州藩の要路一変
斯くて長州藩に於いては恭順謝罪の大本を決したが、内外緊迫の情勢に処する為に、藩府の機構を改革して、政務・軍事を一局に集め、高杉晋作・井上聞多・波多野金吾等を登用した。
尋いで九月朔日、敬親は山口在住の藩士に諭
して、追討軍が至れば誠意恭順を表し、条理を明白に弁解すべきも、若し戦となれば死力を尽くして防戦し、多年報效の微衷を以て天地に愧ずる所なく、朝廷の鴻恩に報じ奉る壁悟である旨を示し、奇兵・應懲・集義・御楯等諸隊の士も亦死を決して、追討軍に当たるべきを主張したのである。
然るに城下萩に在る守舊門閥の藩士を中心とする選鋒隊の士は、禁門の変に次いで下関に於ける外戦の敗北、之に加べるに追討軍は將に藩地の四境に迫らんとするに至ったのを見て、一藩の浮沈茲に極まれり、之が為には一意恭順を尽くし、宗祀を保つには如何なる処分をも甘受すべきであるとし、前年八月の相率いて山口に來集し、敬親父子及び老臣等を説いて要路の更迭を図り、次第に勢力を得た。
恰も此の頃、吉川経幹は塾州藩との交渉を了えて、九月八日山口に至った。
経幹は専ら持董の見を抱き、頗る敬親の信頼を得、深く宗藩諸隊の為す所を苦慮していたので、保守派は経幹に頼って其の希望を達せんとしたのである。
是に於いて保守派は漸次其の勢を張り、藩府の要路は逐次更迭して、穏健者が登用せられ、一方諸隊の土は之に憤慨し、頻りに上書して強硬意見を述べ、藩論は動揺して容易に定まらなかった。
かの井上聞多が撰鋒隊士に襲撃せられ、身に重症を被り、僅かに九死に一生を得たのは、九月二十日の夜である。
彼は是日藩主面前の會議に於いて、藩の態度を一意恭順とするを不可とし、外に恭順を示し、内に武備を整えて他日に備うべしと主張し、盛んに保守派の議を俗論として、之を攻撃したが爲であった。
恰も同夜、久しく藩の要枢にいた麻田公輔(周布政之助)は、時事の日に非なるを憂え、其の責任を痛感するの余り、是夜遺書一篇を藩主に上って、深く己れの罪を謝し、「死後の徐罪、消す處御座無く候得共、精神を天地の間に残し候て成る共、浩恩酬い奉る可く候」と其の熱烈忠誠なる志氣を胎(のこ)して自刃した。時に年四十二である。
藩庁萩に移る
斯くして長州藩其の後の情勢は、盆々保守派の勢力を増し、元治元年十月藩主敬親父子は相前後して萩に退き、藩庁も亦此の所に移って、保守派が其の政柄を執り、藩の態度も暫く恭順謝罪に始終したのである。
而して征長軍の部署も略々、之と日を同じうして確定せられたのであった。
征長総督等の長州藩説得
征長総督徳川慶勝は、僧鼎州(尾張の住職)・同機外(毛利氏の菩提寺住職)及び家臣八木銀次郎等に旨を含めて、吉川絡幹の許に遣り、毛利敬親父子をして恭順謝罪すべきことを説かしめた。
よって経幹は敬親父子は謹慎し、三家老を厳刑に処せんとする状を具して、寛典を講う書を総督に呈した。
奪いで十一月三日、西郷吉之助も亦岩国に到り、経幹と會して恭順を勧め、三家老の処分を促した。
此の時吉之助は、禁門の役に捕えた長州人十人を送還して、密かに薩・長両藩の感情の融和に資したのであった。
三 征長軍の撤兵
三家老四参謀の処刑
征長の役ば総督の意向及び長州藩の態度に鑑み、和平裡に解決せらるべき曙光が認められた。
而して其の総攻撃の日は十一月十八日であって、僅かに旬日を剰すのみとなった。
総督は速かに長州藩恭順の實を挙げさせようとして、西郷吉之助・塾州藩家老辻将曹等をして吉川経幹に之を促さしめ、経幹も亦宗藩に牒して、家老以下の処分の急を要する旨を報じた。
此の時三家老の処分に就き、長州藩諸隊の士等は山口に集合し、其の処刑に不服を唱えて、
喧囂(けんきょう/かまびすしい)を極めた。藩庁は恭順の趣旨に反するものは之を処罰
すべきを令し、また諸隊の隊長等を萩に集めて、
隊士の鎮静を諭したが、容易に静まらなかった、
既にして其の期が益々迫ったので、長州藩主毛利敬親は十二日を以て処刑を断行するに決意したが、諸隊の士等に三家老を奪う計画ありとの報が達したので、之に備えると共に、期を早めて十一日の夜、徳山に於いて益田右衛門・国司信濃に自刃を命じ、直ちに首級を岩国に護送し、十二日岩国に於いて福原越後に自刃を命じた。
同日又宍戸左馬之介・佐久間佐兵衛・竹内正兵衛・中村九郎の四参謀を萩の野山獄に斬った。
長州藩進撃延期の令
長州藩は家老志道安房等をして三家老の首級を廣島に護送せしめ、十四日吉川経幹も亦弁疏の為に同地に至った。
時に総督は未だ至らず、尾州藩附家老成瀬隼人正正肥(まさみつ)は総督に代り、目付戸川鉾三郎(ほこさぶろう)と共に、国泰寺に於いて首級を検して之を収め、且つ四参謀の処刑並びに久坂・寺島・來島の三人は京都に於いて戦死した旨の申告を受けた。
是に於いて同日総督府は、出師の諸藩に対して総攻撃延期の令を発した。
十六日吉川経幹は国泰寺に於いて宗藩主毛利敬親父子の為に弁疏し、大目付永井尚志の詰問に応じた。
此の際西郷吉之助・辻將曹(しょうそう)等は、経幹の為に周旋大いに努めたのであった。
十八日総督徳川慶勝は三家老の首級を実検し、翌日特に経幹の労を慰して、首級を還付、恭順の証として、敬親父子自筆の伏罪書の呈出、三條実美ら五卿の他藩移転、及び山口城の破却の三事を速かに實行すべきを令した。
是に於いて毛利敬親は、十二月五日家老毛利隠岐を廣島に遣し、父子自筆の謝罪書並びに総督の命に從うべき旨の請書を呈出し、其の支藩主も各々、書を以て、宗藩主の為に寛典を請うたのである。
長州処分に関する意見
是より先、総督は十一月二十三日長州藩の伏罪せるを見て、今後の処分に関して諸藩に意見を徴した。
今其の答申を見るに、唐津藩の如きは武力を以て開城を迫るべしとの強硬意見を述べたが、筑前・備前・薩州藩は成るべく之を寛典に処し、藩主父子の退隠、削封を行うべしとした。
総督は西郷吉之助の事態を窮極に進めずして、絡局を速かにせんとの建議を容れて、長州藩が三事の命令を遵守するに於いては、解兵するに決意し、十二月八日諸藩重臣を招いて、其の労を慰し、長州藩伏罪の状を告げ、また之を朝廷及び幕府に報告した。
此の間小倉に在る副將松平茂昭及び熊本藩等は、総督の処置に就いて異議があったが、吉之助等は小倉に赴き、副將及び諸藩間を説いて斡旋する所があった。
巡見使の派遣
総督徳川慶勝は撤兵に先だち、長州藩伏罪の実績を検する要を認め、紀州藩家老石河佐渡守光晃・目付戸川鉾三郎に巡見使を命じて、長州藩内に入らしめた。光晃等は戎兵を従え、十二月十九日山口に至って、居館破却の状を検し、二十一日萩に於いて、敬親等の天樹院に蟄居するを見、廣封の來訪を受けて、軍門謝罪の形式を了し、二十七日廣島に帰り、状を総督に復命した。
撤兵令
而して五卿の筑前等五藩への移転は、筑前・薩州両藩士の斡旋にも拘らず、未だ実現を見なかったが、総督は同日撤兵を急いで之を諸藩に令したのであった。 (P601)
第二十九回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 十月二十八日(土)
午後一時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 27 回テーマ 朝権の確立 長州藩士の歎願と動乱
日時:令和5年8月26日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十七回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年八月二十六日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p563‐p581を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第五章 朝権の確立
三 長州藩士の歎願と動乱
元治元年六月二十四日、同志と共に山崎に抵(いた)った真木和泉・久坂義助・中村圓太・寺島忠三郎・入江九一は直ちに哀願書一篇を淀藩に託して朝廷に上り、尊攘の大義冀賛の宿意を披露し、五卿及び長州藩主父子の冤枉を訴え、其の入京を許されんことを請うた。
翌二十五日九一等は此の書を在京の二十余藩の藩邸に回達して、上達の煩わさんことを請うた。
在京諸藩の長州藩救解
当時京都に於ける諸藩は、長州藩士に同情を寄せる者多く、因州・備前・筑前・芸州・津・米澤・阿州・津和野・対州等十余藩の留守居は、和會して長州藩の救解を議し、長州藩主父子の忠誠に恕(ゆる)して、之を寛典に処し、以て海内の分裂を防ぎ、攘夷の實績を挙げん事を幕府に建議し、また加州藩は、二条関白・老中稻葉正邦・京都守護職等に、長州藩の歎願を容るべきを入説した。
また堂上に在っては、権大納言大炊御門(おおいのみかど)家信(いえのぶ)・中山忠能・大原重徳等一條家の門流三十八卿は連署して、攘夷は神州の大義なれば、速かに其の奏功を幕府に督促せられん事を請うた。
幕府の警戒
斯くて京梛の形勢が漸く険悪となったので、幕府は警戒を加え幕兵を始め會津・彦根等の在京藩兵を以て、禁裏及び洛中の要所を警(かた)め、更に福井・大垣等の諸侯を召して、京都の近郊、竹田・稻荷両街道に兵を配置した。
會々二十七日來島又兵衛等の一隊が、戎装行軍して天龍寺に移動したので、洛中洛外の人心は動揺し、市民は今にも戦が始まるかと、擔荷(たんか)避難する者相踵ぎ頗る騒然たる状であった。
因って松平容保は直ちに病を扶(たす)け、黒谷より輿に乗って卒兵参内し禁裏南門前の御花畑(凝華堂)に宿衛し九門を鎖して嚴に出入りを警戒した。
朝議長州藩兵等の退去を説諭するに決す
是の夜朝議あり、朝彦親王・京都守護職松平容保・所司代松平定(さだあき)等は、長州藩を以て名を歎願に託し、兵威を以て朝廷を圧迫するものとし、之を退けんことを主張し、正親町三條実愛は長州藩士の歎願を聴き、毛利慶親父子の中一人を召して、之を懇諭し、悔悟すれば勅勘を免ずべしと陳べ、禁裏御守衛総督一橋慶喜は国内に変を生ずるを慮り、百方其の道を尽くして、之を退去せしめんと進言し、朝議は暁に及んで、漸く慶喜の議を容れるに決した。
尋いで二十九日一橋慶喜に勅して、輦轂下の不穏に対する措置を委任せられ、長州藩家老福原越後に諭して、其の藩兵を退けて朝命を俟つべきを命ぜられた。
慶喜の説諭
仍りて慶喜は即日使者を伏見に遣して、福原越後に朝旨の寛大なるを説き、撤兵を諭したが、眞木和泉・入江九一等は、之を以て全く幕吏の勅を矯めたるものなりとして信ぜず、今や禁闕咫尺(ししゃく/近い)の地に於いて、幕吏の詭謀に欺かれ、空しく兵を撤するは、徒らに恥辱を後世に胎すものであると論じて、退去を肯んじなかった。
慶喜再三の説諭
七月朔日福原越後は書を勧修寺家に呈し、入京の勅許を得て長州藩有志歎願の趣旨を弁明せんことの執奏を請うた。
三日一橋慶喜は大目付永井尚志・目付戸川伴三郎を伏見に遣し、再び福原越後に少数の兵を留めて他は悉く退去せしむべきを命じた。
越後は暫時の猶豫を求め、重ねて書を朝廷に上って入京の勅許を奏請した。
六日慶喜は朝旨に依り、在京諸藩の留守居を
招き、八日を期して長州藩兵の退去を命ぜんとするを以て、各々之を説得せんことを命じた。
此の時薩州藩は、小松帯刀・西郷吉之助等が在京して、屡々會津藩より出兵を求められたが、帯刀等は事態の紛糾を以て會津・長州藩間の私争と為し、容易に其の請に応じなかったが、今長州藩兵の退去を肯んぜぬに當ってなお之を説得せんとするが如きは、朝威を損するものであると言って慶喜の命を拒んだ。
尋いで長州藩世子毛利定廣及び三條実美等が率兵東上の報が京都に伝ったので、松平容保等は荏苒(じんぜん/時の経過)を曠(むな/むだに)しうして、徒らに其の兵力を増さしめんよりは、之に先だち追討すべしと爲し、朝命を奏請せんと主張したのであったが、一橋慶喜はなお之に動かなかった。
朝議容易に決せず
斯かる中に十五日長州藩兵処置の朝議が行われ、一橋慶喜もまた席に陪したが、廷議は硬軟両論に岐れて、容易に決しなかった。
十七日藩地より既に藩兵増援の得た薩州及び土州・久留米の三藩士は、長州藩兵討伐断行の建議を朝廷に上った。
偶々、毛利定廣等の東上の諜報が確實となったので、朝議は徹宵凝議の結果、漸く議奏・傅奏をして長州藩士に退去を諭し、若し命を奉ぜざれば直ちに追討するに決せられた。
十八日の未明議奏・傅奏は長州藩留守居を議奏六條有容(ありおさ)の邸に召して、此の朝命を伝え、今日を限って撤兵すべきを諭し、列座の諸卿もまた交々之を懇諭し、慶喜も別に旨を留守居に伝え、留守居は直ちに之を福原越後に傳えた。
然るに長州藩士は之に耳を假さなかった。
幕軍の部署
事態既に斯くの如くに至ったので、一橋慶喜等幕府の要路は、戦闘の己むなきを察し、密かに諸兵の部署を定め、伏見方面には大垣・彦根等の藩兵を置き、山崎・八幡方面には宮津・津等の藩兵を備えしめ、又小濱藩兵を以て天龍寺・山崎の間を扼し、天龍寺方面には薩州・膳所・福井・小田原諸藩の兵を置き、筑前(中立売り門)・会津(蛤門)・桑名(台所門の前)・福井(堺町門)・薩州(乾門)等の諸藩の兵をして九門を警守せしめた。
洛中洛外を警戌(じゅつ)する幕府諸藩の兵の総数は、六七萬に上ったと称せられた。
長州勢決戦の議を決す
一方是まで歎願を重ねて来た長州藩士等に在っては福原越後・国司信濃・益田右衛門介を始め、久坂義助・入江九一・来島叉兵衛・宍戸左馬之介及び真木和泉等は、男山の陣営に會して、軍議を凝らした。
義助・左馬之介は今猝(にわ)かに禁闕に薄(せま)れば、却って賊名を受けん事を慮り、一旦朝幕の命を奉じて大坂に退き、定廣の到るを
俟って事を挙げんと論じたが、又兵衛・和泉等は其の議を排して、断然決戦を主張し、追討使の進撃を待って防戦せんよりは、寧ろ潔よく我より軍を進めんと唱えた。
少壮気鋭の諸隊士等は皆之に応じ、また制すべくもなく、遂に會津藩と抗争するに議を定め、三家老の名を以て松平容保誅罰の表を朝廷に上り、且つ之を有栖川営・中山忠能等諸卿の邸に呈し、又其の意を在京諸藩邸に致して其の決意を告げた。
長州藩兵討伐の勅下る
是夜戌刻(午後八時)、有栖川宮を始め中山忠能・大炊御門家信・橋本実麗等は、長州藩士の書を懐にして参内し、奏して議奏・傅奏諸卿の参内を促して朝議を開く。
家信等は松平容保を御花畑より逐わんことを請い、また長州藩士の歎願を許さんことを議す。
須臾(すゆ/間も無く)にして中川宮・三條關白以下三公等は召されて参内し、忠能等の議を駁して論争した。
四更(午前二時)一橋慶喜等は召に依って急遽参内せしも、此の時既に伏見方面に干戈を交えたとの報が至ったので、朝議は長州藩士討伐に決し、やがて傅奏より、慶喜に対して長州藩
士は既に兵端を開く、宣しく在京の諸藩は兵力を尽くして之を征伐すべしとの御沙汰を賜った。
長州藩兵等の撃退
七月十九日昧爽、淀・桑名・彦根・明石・高松・小田原・松代(信濃)・膳所(滋賀大津)、水口(滋賀甲賀)・仁正寺(滋賀蒲生)・綾部(京都府綾部)諸藩主及び水戸藩主の弟松平昭武、尾州・加州二藩の家老は馳参して禁中を警固し、九門其の他洛中洛外の要衝を戌(まも)る諸藩の兵は、既に前日來其の守備を嚴にしていた。
伏見街道を戌る大垣藩兵は、先づ藤森に於いて夜半行を起して、伏見より北上した福原越後の率いる兵七百余を撃退し、後彦根・會津藩兵は竹田街道を転進して來た長州藩兵を破って、嵯峨・山崎に潰走せしめた。
又中立賣(なかだちうり)門・蛤(はまぐり)門・乾(いぬい)門を守る筑前・會津・桑名・薩州の兵は、嵯峨より中立賣門・蛤門に來り侵せる国司信濃の兵八百余と戦い、蛤門に於いて會・桑二藩は苦戦に陥ったが、薩州藩兵が來援して、側面から敵を衝いて之を潰乱せしめた。
長州藩士來島又兵衛は之に死した。
而して山崎より堺町門内の鷹司邸に拠った久坂義助・眞未和泉等の兵五百余に対しては、福井藩が先づ之を攻めて血戦し、彦根藩兵の來
援するに及び、混戦に陥ったが、蛉門に敵を破った薩・會・桑三藩兵が同邸の四周を包囲し、火を放って之を攻め、遂に之を潰滅せしめた。
此の時久坂義助は寺島忠三郎と耦刺(ぐうし/二人で刺し違える)し、入江九一も亦乱撃に遭って斃れ、真木和泉等は重圍(囲)を衝いて天王山に走った。
斯くて長州藩の三家老を始め尊攘の志士は遂に禁闕を犯すに至り、三道皆敗退したのである。
禁中の動揺と洛中の兵燹(へいせん/兵火)
是日長州藩兵の意図した所は、御花畑に籠った松平容保を獲るに在ったので、戦闘は蛤門附近が最も激烈を極め、畏れくも流弾が屡々宮門内に及んだ。
朝臣等は、或は長州藩兵の要求を容るべしと言い、或は板輿を宮中に進めるものもあって、頗る恐懼に堪えない状であった。
また洛中は河原町長州藩邸・鷹司邸・九條邸等から火を発し、延焼すること二昼夜、、兵燹に罹るもの凡そ二万八千余戸、焔煙(えんえん)は天を焦(こが)し、叫喚の聲は市中に溢れたのであった。
翌二十日幕府は京都内外の掃討を行い、天龍寺等を焼き二十一日會津・桑名・彦根・郡山諸藩兵は天王山を攻囲した。
天王山の悲劇
是より先真木和泉は天王山に引き揚げるや、同志に向って今や下関には外艦來襲の報あれば、諸君は速かに長州に赴いて外艦と戦い攘夷の功を奏し、今日の恥辱を雪ぐべし。
予は此の地に死して、禁闕をけがし、且つ三條公及び長州侯父子の罪を累ねたるを謝する所あらんと説き、退去を肯んじない同志池尻茂四郎・加藤常吉・松浦八郎・松田五六郎・西島亀太郎・宮部春藏・小坂小次郎・中津彦太郎・加屋四郎・酒井庄之助・千屋菊次郎・松山深藏・安藤真之助・能勢達太郎・横田精一・岸上弘等と共に天王社殿に、天朝及び幕府に上る書を遺し、且つ「申子秋七月、師を出し会賊を討つ、利せず引還し、我輩徒に京師を去るを忍びざる、之れ天王山の営む所に賭腹す、至尊を護らんと陰に欲す也」と貼紙して其の志を留め、遥かに天闕を拝し、陣営に火を放って自刃したのであった。
和泉の辞世に曰く、
大山の峰の岩根に埋めにけり
わか年月の大和魂
と。
時に和泉は知命を越ゆること二歳(二年)、国学に精通し、熱烈なる尊攘思想を懐き、文久以來攘夷倒幕の為に画策奔走すること多年、其の熱情は能く他を動かし、尊攘志士の推重(すいちょう/尊び重んずる)を得たのであった。
また鷹司邸に死した久坂義助・人江九一等は皆長州藩傑出の士で弱冠吉田松陰の薫陶を受け、深く尊攘の大義に徹底し、終始其の実現に心血を注いだのであった。
平野二郎等の死
幕府は兵火の将に六角の獄に及ばんとするや、二十日禁獄中の丹羽止雄・河村季興・平野二郎・乾十郎・古高俊太郎等の大和・生野の乱、足利将軍木像梟首事件、池田屋事変等に因って捕えた志士三十三人を斬った。
平野二郎は筑前藩士であって国学に通じ夙に身を尊攘運動に投じて士気壮烈、有志を率いて生野に兵を挙げ、事成らずして此の厄に遭ったのである。
その辞世に
龍鋏(きょう/ハサミ)虎口斯の身を寄せ
る
半世功名一夢中
他日九原骨を埋む処
刑余誰ぞ又孤忠を認む
と、また
ことなくてはつるこの身はいとはねと
心にかかる大君の御代
と。
変後の処分
斯くて京都に敗れた長州藩兵は、山崎に滞陣していた益田右衛門介を始め三家老以下は藩地に走り、東上の途上変報を聞いた毛利定廣及ぴ五卿等は、悉く舟を藩地に旋(ほどこ)したのである。
其の後朝廷では兵燹に罹った摂家・堂上以下に御内帑(ないど/倉)金を賜うて之を救恤せられ、二十七日中務卿幟仁(たかひと)親王・太宰帥熾仁(たるひと)親王・前關白鷹司輔煕・権大納言大炊御門家信・正親町実徳(さねあつ)・日野資宗(すけむね)・鷹司輔政・前権大納言中山忠能・権中納言橋本實麗等の、参朝を停めて謹慎を命じ幟仁親王・熾仁親王及び輔政の国事御用掛を罷め、資宗の議奏加勢を免ぜられた。
尋いで二十九日闕下擾乱に際して防戦警備に努めた諸藩兵を賞し、九月五日一橋慶喜・稲葉正邦・松平定敬・松平容保及び津・松代・膳所・小田原・福井・彦根・薩州・大垣諸藩を賞せられた。
特に容保に対しては征長の役の終るまで、仍お御花畑に在って禁闕を守衛せしめ、短刀一口を賜うて其の忠勤を賞し、七月以來の労を慰め
給うた。
幕府も亦会津・芸州諸藩に対し、京都擾乱鎮定の功を賞したのである。
禁門の変と長州藩
斯くの如くにして、長州藩を中心とする尊攘志士等の大勢挽回の計画は遂に破れた。
曩に天王山に自刃した志士の一人廣田精一は其の遺書に「因(*因州)の手筈齟齬より味方の事、唯粗暴のみに陥り、名義を失い、あまつさえ拙劣の戦死も残念千万の至り」と記している。
熟々当時の情勢を考えるに、長州藩等は久坂義助・宍戸左馬之介等の提議に従って、なお暫く後退待機して、素志の貫徹を計る余地は存していたのである。
又桂小五郎等と因州藩士河田左久馬等との間に行われた、有栖川宮を奉じて大勢を挽回しようとした計画が、果して充分に熱していたかは、なお研究を要するとするも、斯かる裏面の工作及び加州藩との黙契には、多大の希望が繋げられ、また長州藩に同情せる堂上・雄藩の後援の恃み得るものもあったのである。
されば彼等は洛外の三要地に拠って、徐に後続の部隊の到着を待ち、また持久の態勢を取って、機の乗ずべきを窺うのが上策であった。
然るに彼等は、退去待命の朝旨に従わず、衆寡の勢、戦前既に輸嬴(ゆえい/勝敗)の決は明らかである鐵壁敵陣に自ら突誰した。
而して其の衷情は洵(まこと)に諒恕(りょうじょ/認める)すべきものがあり、其の動機が尊攘大義貫徹にあったのであるけれども、一たび
禁闕に向って発砲することとなっては、万事は既に去ったと言わざるを得ない。
抑長州藩に敢て其の人なしとはしない。当初から挙兵上洛に、不同意であった藩要路も少くはなかった。
また上京した益田・国司・福原の三家老等が、
外患の将に目睫(もくしょう/真近)に迫っている際、内憂を新たにするを省みない筈はないのである。
然るに彼等が壮士等の猪突を制馭し得なかったのは何故であったか。
史上成敗の述を顧みて、往々人事の解すべからざるものがあるのは、其の例に乏しくない。
而して勢いの激する所往々利害得喪を忘れ、騎虎の勢、其の進退を制すること能わざる場合も決して少なしとしない。
蓋し長州藩士をして終に茲に至らしめたものも、亦勢の然らしめた所という外はないのである。
之に加えて長州藩に在っては、夙く尊王の大義を藩士民に鼓吹し、尊攘派の中堅として四方
志士の大気を鼓舞した結果、独り藩士と言わず、農・商・社家・僧侶に至るまで意気旺盛にして、是等から成った諸隊士及び諸方來投の志士等が、実に此の際に於ける中心的原動力であった事は、勢の激発を大いに煽り、遂に制すべから
ざるに至らしめたのであった。
斯くして戦意顕然の故を以て、長州藩征討の
勅命は下るに至ったのである。
四 筑波山の挙兵
水戸藩は尊王攘夷論の首唱及び名節を尚ぶ藩風を以て、天下を風靡し、嘉永・安政の交、前藩主徳川斉昭の聲望と、名臣の輩出とによって、天下に重きを為したのである。
然るに賢良相踵いで世を去り、しかも朋党の争いは年と共に激化し兄弟鬩(せめ)ぎて其の羽翼を殺ぎ、其の正気を滅し、終に先人の功を没して回天大業を翼賛する能わず、藩勢の頓に凋落したのは、寔に同藩の為に悲しまざるを得ないのである。
而して筑波挙兵の事たるや、惨劇の極であって、事は尊攘の大義を決行するに発し、結果は血を以て血を洗う内紛乱闘に終り、同藩をして殆んど起つ能わざるに至らしめたのである。
筑波山挙兵の原由
抑(そもそも)水戸藩は尊攘論の唱道者、長州藩は其の實行者である。
されば早くより両藩の間には聲息が通ぜられたことは怪しむに足りない。
万延元年七月の成破盟約(丙辰丸盟約)を始めとして、文久三年八月の政変後に於いて、水戸・因州・備前三藩は頻りに攘夷を唱導し、密かに七卿及び長州藩と互に気脈を通じて謀る所があった。
茲に藤田小四郎は東湖の第四子、父及び祖父幽谷の尊攘精神を承け、少壮頗る気節に富み、また出でて広く天下の志士と交った。
長州藩の蹉跌後尊攘派の気勢は振わず、幕府が因循して横浜鎖港を断行せざるを見て大いに憤慨し、密かに同志と結んで藩地に帰り、頻りに常野を遊説して画策する所あり、終に藩内に重望ある田丸稲之衛門を首領に推し、元治元年三月二十七日を以て兵を筑波山に挙げたのであった。
筑波山挙兵
即ち先君の遺志を体して日光廟に参籠(さんろう/籠って祈願する)し、或いは下野太平山に拠って大いに気勢を挙げた。
是に於いて四方の志士・浪士は風を望んで馳せ参ずる者数百に及んだ。
同藩の執政武田耕雲齋・岡田徳至(のりよし/水戸藩家老)等は陰に之を聲援したので、筑波勢は常野地方に威を振って、侮るべからざるものとなった。
是に於いて藩庁は屡々鎮撫を加えたが及ばず、幕府も亦常野の諸藩に命じて巖戒せしめたのであった。
藩内の分裂
是の時に方って、久しく雌伏していた結城寅寿の残党市川三左衛門靱・朝比奈彌太郎等等は、此の状勢を見て耕雲齋等の態度を非議し、其の従党数百人を率いて起ったので、藩内の紛争は激発し、鎮派と称する者も亦分裂して、藩内は
騒然たる闘争の坩塙(るつぼ)と化した。
藩主慶篤は筑波勢を鎮静せしめるにば、速か
に横演鎖港の実を挙げて、小四郎等の主張を緩和するに如かすと為し、會々、攘夷尽瘁の勅命を拝したので、横濱鎖港の断行を幕府に迫った。
然るに幕府は鎖港實施の意がないので却って慶篤は其の反感を買ったのみで、筑波勢は益々其の勢を張るのみであった。
幕府は屡々関東の緒藩に出兵を命じ、大兵を以て筑波勢の討伐に当らしめたが、容易に鎮定する能わず、七月八日遂に若年寄田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意尊(おきたか)を派して追討軍を総括せしめた。
是より先、市川三左衛門(水戸藩執政)は江戸の藩兵三百余を率いて筑波勢と戦ったが捷(か)たず、激派六百余名が、三左衛門等の排撃に起ち、武田耕雲齋も亦之に合したので、三左衛門は七月二十三日水戸城に入って之を占め、幕軍を後援に頼んで筑波勢及び激派に拮抗した。
此の時に當り宍戸藩主松平大炊頭(おおいのかみ)頼徳(よりのり)が藩主慶篤の目代として慰撫の為に江万から下向したが、激派に属する士民が多数随従し、武田耕雲齋等も亦陰に之に
従っていた。
因って三左衛門は是等を敵視し、遂に其の水戸入城を拒否した。
頼徳は己むを得ず、城下を去って、筑波勢と行動を與にするに至った。
攘夷戦は内訌となる
斯くて藩内は幕軍・市川勢に対するに筑波勢、頼徳の軍勢、耕雲齋の手勢等が互に入り乱れて鎬(しのぎ)を削り、各地に激戦を繰返したのである。
是に於いて同藩の攘夷挙兵は一転して、私闘内訌となったのである。
されば諸方より來集した有志の徒は、此の形勢を屑(いさぎよ)しとせず、漸く離散する者を生じた。
松平頼徳の切腹
頼徳も亦事の志と違い、叛名を負うに至ったのを遺憾とし、事情を辮明せんとして、九月二十六日幕軍に投降したので、筑波勢は其の勢が蹙(よわ)まり、逮捕斬殺せられる者が相踵ぐに至った。
十月朔日幕府は頼徳に対して、公儀の為に不届の所業ありとの理由を以て、其の官位を褫(うば/褫奪)って切腹を命じ、頼徳は同五日自刃したのである。
武田耕雲斎等の西上
筑波勢は形勢が次第に不利と為り、人心もまた漸く離反して來たので、其の為すべからざるを悟り、今に及んで志の滅せん事を慨し、京都に出でて之を一橋慶喜に訴え、天闕に達した後、生死を朝命に委(ゆだ)ねんと決意した。
即ち田丸稻之衛門(いなのえもん/徳川斉昭の使番)・山国兵部(徳川斉昭の手元)・藤田小四郎等は、武田耕雲齋を首領に仰ぎ、十月二十三日常陸館山の陣営を発して上國に向った。
同勢凡そ八百余、道を中山道(中仙道)に取り、或は沿道の諸藩兵と戦い或は巖塞積雪に悩んで、漸くにして、鵜沼(美濃・岐阜)に達したが前路が塞がれているので、之より右折して這法師峠を越えて越前に向い、十二月十一日漸く越前国新保駅(*永平寺所在地)に達したのである。
然るに京都に於いては、一橋慶喜等は既に之を追討するに決し、慶喜が諸兵を指揮して來討せんとしているので、彼等は頗る其の進退に窮したが、遂に之と衝突して汚名を胎すよりは、
寧ろ降伏して衷情を訴うべしと為し、同十七日葉原駅に出陣していた加州藩の軍門に降ったのであった。
耕雲斎等の降伏
其の後幕府は之を目するに賊を以てして、敦賀に移し、同所の鯟蔵に禁固して、虐待至らざる所なき措置に出でた。
而して其の処分に就いては同情を寄する者が多かったが、翌慶応元年二月四日に至って、幕府は之に擬する(はかる)に、鎮撫に赴いた松平頼徳を歎いて徒党に引き入れ、常野の諸所を横行して、追討軍及び主家に敵対し、更に軍装して上国に赴いて、諸国を動乱せしめたのは、公儀を恐れざる不届き至極の行為であるとの罪案を以て、先づ耕雲斎等二十四人を斬り、耕雲斎・稲之衛門・兵部・小四郎の首級を水戸に梟(さら)した。
之に続いて幕府は三百五十余人を斬り、其の与党四百五十余人を流罪或は追放に処し、更に那珂湊の降人榊原新左衛門等四十余人を古河・佐賀等に斬った。
而して其の罪案は耕雲齋・兵部等の家族にも及び敦賀幽囚中の取扱は惨絶刻薄を極め、病を発して斃れたもの百余人に及び、殊に刑の執行の如きは頗る残忍を極めたのであった。
水戸藩は安政戊午の大獄以降、藩士民の難に倒れた者が実に千五百余に上ると称せられ、犠牲者の多き事は他藩に其の比を見ぬ所である。
而して其の半は此の一行の者である。
噫、斯かる尊き犠牲を払うて得たるものは果たして何ぞ。
思うて此処に到れば誰か暗然として萬斛(ばんこく/大量)の涙を注がぬものがあろうか。
(p581)
第二十八回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 九月十六日(土)
午後一時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 26 回テーマ 朝権の確立 八月十八日後の政局 山陵補修の恩賞
日時: 令和5年7月22日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十六回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年七月二十二日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p542‐p563を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第五章 朝権の確立
第一節 八月十八日政変後の政局
山陵補修の恩賞
二十九日(元治元年正月)朝廷は将軍の山陵の修理、就中神武天皇陵修理の功を嘉賞あらせられて、特に従一位に叙せられ、宇都宮藩主戸田忠恕(ただゆき)及び山陵奉行戸田忠至(ただゆき/溜間)をも賞せられた。
将軍の奉答
越えて二月十四日將軍家茂は参内して、前日の勅諭に奉答した。
其の要旨は、皇国の災禍を悉く聖躬の御上に反求し給えるに恐懼感泣し、幕府從來の失政を陳謝し奉り朝旨を奉戴して、自今諸般の舊弊を改め、諸侯と協心戮力し、臣子の道を尽くし、勉めて冗費を省き、武備を厳にし、内政を整え、生民を蘇息せしめ、摂海防禦は勿論、諸国の兵備を充実し、洋夷の軽侮を絶ち、砲艦を整備して遂に應懲の大典を興起し、国威を海外に発揚せんが為に彌々勉励し、以て宸襟を安んじ奉るべし。妄りに應懲の挙に出づべからずとの叡慮の趣は、堅く遵奉し、必勝の大策を立つべし。
横濱鎖港に就いては、既に使節を外国に派遣したれば、其の成功を冀望(きぼう)するも、実情は測り難ければ、益々沿海の武備を厳にし、武臣の職掌を守り、国家の大計大策を定め、以て宸断を仰ぎ奉るべしというにあった。
即ち将軍は朝旨を体して綱紀を振起し、舊弊を釐革(りかい/改革)し、国防を厳修し、以て人和を維持し、叡慮を安んじ奉るべきを奉答したのであった。
攘夷問題の現局
此の奉答書に於いて横濱鎖港に就いては単に遣使の事を述べて、其の成功を必するの決意は明記してなかった。
十五日朝議あり、宮・関白以下参内、朝議に参与する列侯も之に陪列した。
其の席上鎖港の疑議に就いて御垂問あり、久光・宗城は無謀の攘夷を好ませ給わぬに、急に横浜を鎖すは難事なりと答え、彼等の間にも所見が互に対立することが暴露して、朝議の紛糾を見たのである。
後日此の件に関して、鎖港論に豹変していた慶喜と、開国論を持している慶永・久光・宗城との間に論争が行はれたが、漸く横濱鎖港の成功を期すべきを奉答したので、朝廷は重ねて横濱鎖港の成功を期し、先づ摂海の防備を急にす
べき旨を諭示せられて、事は落着した。
二十日、朝廷は嚢に將軍に下された勅諭、将軍の奉答書及び横濱鎖港に関する御沙汰書を朝臣に公示せられ、幕府も亦之を列侯に布告した。
斯くて多年朝幕間の難件であった攘夷の問題は、横浜の鎖港に局限せられ、長崎・箱館の閉鎖及び外船撃攘は問題外とせられ、また国防に関する朝旨は、摂海防備を當面の急務とせられるに至った。
一橋慶喜の転職
されば三月二十五日幕府は朝裁を仰いで、新に禁裏御守衛総督・摂海防備指揮の職を設け、慶喜の将軍後見職を罷めて之に補したのである。
長州藩征討の議
三條賛美等及び長州藩の処分に就いては、将軍上洛前、既に朝議・幕政に参与せる諸侯の間に於いて種々論議せられ、略々實美等及び長州藩の責任者を召致するの命を発し、若し之を肯んぜざれば、幕府は追討の軍を発すべきことを決していたが、是等雄藩間の意見は必ずしも一致していなかった。
将軍が入洛して、実美及び長州藩の暴臣を応懲すべき旨の勅論を拝するに及び、長州藩の処罰は避くべからざる問題となったのである。
松平容保は初めより追討の議を唱え、山内豊信は此の処分を朝廷より幕府に御委任あらん事を冀い、島津久光・伊達宗城は征討軍を発し、毛利慶親父子を大坂に召致すべしと主張し、一橋慶喜は慶親父子に隠居を命じ、命を拒めば之を討つべしと主張した。
斯くて長州藩の罪状を挙げて、七卿の誘引帰藩、幕使の暗殺、薩州藩船の砲撃等と為し、長州藩の末家並びに長州藩の家老を大坂に上らしめ、勅使及び老中より処分を達すべく、若し之を拒めば征討軍を発すべしと定めた。
二月十三日勅裁を請うて、征討軍の部署を定め、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)を将軍の名代とし、京都守護職松平容保を副将とし、老中有馬遠江守道純(みちずみ)を差添とし、阿州・薩州・加州・熊本・松江・因州・備前・小倉・福山・龍野・芸州の諸藩に出師の準備を命じた。
京都守護職の更迭
容保を改めて軍事総裁職とし、其の京都守護職を罷めて松平慶永を之に補した。
是より先、容保の京都守護職として來任して以來、天皇の御信頼は日に厚きを加え、屡々内勅を賜ったが、今其の職を去るに及び、深く之を惜しませ結い、事を畢えなば復職すべしと仰せ出されたのであった。
長州藩末家家老等の招致
斯くて二月二十五日、朝廷及び幕府は長州藩に令して、末家一人、支族吉川経幹、家老一人の上坂を命じ、其の処分に着手した。
然るに此の際に於ける幕府及び在京諸藩の実情は、衷心出兵を欲せず、天皇にも先づ人事を尽くして後、干戈に及ぶべしとの叡慮に在わした。
之に加え、備前・筑前・熊本・芸州諸藩の如きは、征討尚早論を唱え、黒田慶贊(よしすけ)・秋元但馬守志朝(ゆきとも)等は各々、藩士を長州藩に遣して、其の悔悟謝罪を勧告し、居中調停に立ったのである。
蓋し幕府及び諸藩は、長州藩の自ら來って罪を天朝及び幕府に謝するを俟って、平和裡に処分を了ろうとしたのであるから、重ねて三月五日、勅裁を請うて前令(上段「斯くて長州藩の罪状を挙げて」の節)を長州藩に下し、又四月幕府は朝廷より庶政の御委任を蒙り、長州藩の処分をも委ねられたにも拘らず、其の後の態度はなお暖昧を極め、其の処置は捗々(はかばか)しくなかったのである。
幕府の朝廷尊崇
将軍家茂は公武合体の朝旨と御待遇の特に厚きとに威激し自らも朝廷尊崇の敬意を表し奉り、泉涌寺(せんにゅうじ/四條天皇以後歴代天皇の陵がある)歴代御陵の参拝、寺領増献、宮・朝臣に対する敬礼等に、其の実を示した。
四月十六日幕府は毎歳米十五萬俵を増献せんことを請い奉り、且つ朝廷尊崇の目十八ヵ條を奏して、允許を請い奉って、新に神宮(伊勢)御供米二千俵の増加、春秋両度の諸社行幸、御誕辰及び朝廷忌日に於いての処刑中止、皇子・皇女の帰佛停止、将軍の宣下及び諸侯の襲封・官位御礼の朝覲(ちょうきん/入京)、西国諸侯自由入覲等の事を制定して、公家諸法度の制規に変更を加えた。
庶政の再度御委任
幕府は既に前年(文久三年)三月将軍上洛の際、朝廷に奏請して庶政御委任の御沙汰を拝したが、爾後政令帰一の実がなかったので、再び此の事を奏請し、四月二十日を以て勅許を得たのである。
其の際に於ける勅旨は、政令一途に出でて、人心の疑惑を生ぜしめぬ為に、之を許し給うも、国家の大政・大議は必ず奏聞すべきことを命じ
給い、且つ横濱鎖港の成功、無謀攘夷の行うべからざる事、長州藩処置の御一任、人心の融和を図るべき事の四條に就き、其の責に任ずべきことを命ぜられた。将軍は二十九日参内して聖旨に奉答した。
是に於いて衰余の幕府は漸く其の余喘(よぜん/絶え絶えの呼吸)に若千の生気を恢復したのである。
堂上の中には之を見て「一昨年(文久二年)来朝威の復古、今や全く水泡に帰せり」と憤慨の情を漏したものもあった。
将軍の東帰
尋いで将軍は東帰の允許を奏請し五月二日参内天顔を拝して、優詔を賜り、七日闕下を辞し、摂海の防備を巡視した後、海路二十日江戸に帰ったのである。
公武合体派諸侯の解体
将軍今次の上洛は上來記した如く、公武の一和を望ませ給う叡慮の広大なる御庇護と、公武合体を冀望せる堂上・諸侯の周旋とに由り、前年に見ざる恩遇に浴して面目を施し、少々其の頽勢を挽回して東帰することを得たのであった。
然るに公武合体の爲に尽瘁し、朝議に列し、幕政にも参与した有力者間には、既に将軍の入洛直後、意見の扞格、威信の衝突を生じ、或は慶喜対久光の軋轢、或は慶喜に対する慶永・久光・宗城・豊信等の論難、或は幕権の恢復に盲目なる幕府要路者の久光を始め雄藩諸候に対する邪推、或は在府老中等の慶喜に対する猜疑等が漸く表面化して、政治の円満なる進行を阻碍(阻害)するに至った。
即ち慶永・久光等の、意図した幕政の革新は、少しも進捗せずして、諸事は徒らに因循姑息に陥った。斯くして彼等は漸く政治に対して倦怠の情を生じ、失望の念を抱くに至った。
諸侯の離散
山内豊信は先づ朝議に参与するを辞して二月二十八日帰藩の途に就き、三月九日慶喜は久光・慶永・宗城等に議って、また之を辞したので、僅かに二ヶ月余で、列侯が朝議に参与する制は廃絶を見た。
而して上京中の諸候も踵を接して退京し、黒田慶贊(よしすけ)は四月四日、伊達宗城は十一日、池田茂政(もちまさ)は十二日、島津久光は十八日各々帰藩の途に就いた。
京都守護職松平慶永も亦職を辞して退京し、雄藩の間に成立した公武合体派の連衡は再び解体し、政局は沈滞し、国政は不振に陥ったのである。
是に於いて有志は孰れも其の前途を悲観し、近衛忠房は「時々刻々国事は切迫して朝権は衰頽せり、此末如何になるべきか心痛に堪へず」と慨き、薩州藩士は「此気運は長州に取りてこそ幸なれ、一橋公始め脚下一寸の光明を貧りて、終に自ら夏虫たるを免れず」と評した。
知らず、此の時に方って嚢に尊攘派の中堅として、中央に活躍した元堂上・長州藩及び之に來投せる志土の動静は、果して如何。之は次節に於いて述べるであろう。
第二節 禁門の変
一 長州藩の情勢と 毛利定廣上京の議
八月十八日の政変と尊攘派
堺町御門一夜の風に吹き捲(めく)られて、一敗地に塗れたものは独り長州藩のみではない。
心を尊攘に寄せて其の貫徹に志した諸藩及び志士も、之に因って失脚した事であった。
公武合体派が中央に勢力を掌握することは、明かに尊王討幕派の運動を阻碍することとならざるを得ない。
然るに嘉永・安政以降、幾転変して來た政局の推移に考え、また尊攘討幕運動が既に砲火を所在に開き、流血の惨事を演じて、其の氣勢が愈々高まった状態から見ても、政変後の時局が、此の儘永く平静を持続し得るものとは、何人も思惟しなかった所であった。殊に流浪の身を以て遠く思いを天闕の上に馳せる元堂上の七卿、また失意憂憤の念に駆られながら、言路の壅塞(ようそく/ふさがる)せるを痛恨している長州藩士及び志士等の間には、速かに妖雲を払って、天日を仰ごうとする冀望が燃えいた。
けれども仔細に長州藩内の諸情勢を観察するに、藩主毛利慶親を始め藩要路の態度と、三條實美等の堂上及び之に随従する志土等の態度とには自ら緩急の差があり、同じく形勢挽回の手段を画策するに就いても若干の相違があった。
七卿及び志士等の態度
嚢に七卿以下長州藩士等が京都妙法院に於いて、其の去就を議した際、志士等の間には兵力を以て、直ちに形勢の挽回を図るべしと主張した者もあったが、長州藩首脳の人々によって隠忍自重の意見が開陳せられて、遂に西下に決
したのである。
而して七卿等は其の途上、早くも檄を諸方に飛ばして天下正義の士を募り、有志の長州に來投することを勧誘したのである。
尋いで三田尻に客となった七卿随従の士等は、勤王の精神豈に金鐵を貫かざらんやと再起意氣極めて旺盛、また之に共鳴する長州藩少壮氣鋭の士は、仮令防長二州を焦土と為すも、必勝の日は必ず來るべく、其の至誠は千載の後に輝くであろうと、頗る士気の軒昂たるものがあった。
斯くて是等の士は内外から長州藩の要路に迫って、即時挙兵上洛の議を定め、之を決行せしめんとしたのであった。
然るに長州藩の要路に在っては、初め京都政変の報に接して、恐惶色を失ったが、其の詳報が至るに及び暫く形勢を静観するに決し、七卿の進退に就いても、之を藩地に迎えるのは却って朝旨に違い、尊攘の大義貫徹に害あり、且つ七卿の罪状を加重せしめるものとして、之を大坂に留め、或は支族吉川氏に託し、芸州藩に頼って其の帰洛を奏請するに決したのであったが、共に其の機を失して七卿を三田尻の客館、後の招賢閣に寓せしめたのである。
而して挙兵上洛の急進論に対しては、藩要路少々之と、所見を異にし、先ず天朝に対して哀
訴歎願の誠を致し、有志諸藩へは使を派し、衷情を陳べて其の同情を求め、また藩の内部を強化し人事を尽くして徐に形勢が有利に転換するのを待つべしとしたのである。
而も長州藩は従來尊攘派の中堅として立ったのである。
然るに今俄に七卿及び之を圍繞(いじょう/とりまく)する志土等の急進論に耳を仮さず、徒らに之を失望・離散せしめることは固より欲しない所である。
されば大勢に順応して之に善処する為には、要路の苦心は寔に容易ならぬものがあったのである。
長州藩の内訌
是より先文久三年四月、長州藩は居城萩が長門の一隅に偏在する故を以て、政庁を周防山口に移し、藩主以下も其の居所を転じたので、萩は非役保守派の巣窟となって、藩政府を占める進歩派諸有司と対立することとなった。
會々八月十八日の政変の報が至るや、萩在住の保守派は、続々山口に押懸けて、藩要路の政策を無謀にして一藩を誤るものとし、其の罪を鳴して政務員の黜陟を迫り、九月朔日遂に要路の更迭を見るに至った。
然るに幾ばくもなく、高杉晋作を総管とする奇兵隊及び其の他の壮士等が奮起して回復を謀ったので、局面はまた一変し、保守派は罪に問われ麻田公輔(初周布政之助)・毛利登人・前田孫右衛門等が再び要路に任ぜられると共に、高杉晋作・楢崎彌八郎・久坂義助・大和彌八郎等の新進気鋭の士が登庸せられて、藩廰の基礎は固められたのである。
七卿等の急進論
斯かる際に方って三田尻に在る七卿及び諸藩亡命の志士等は、長州藩に頼って義兵を挙げ、諸藩の応援を得て一日も速かに京都の形勢を回復しようとし、会議所を招賢閣に設けて真木和泉(元久留米藩士)・宮部鼎藏(元熊本藩士)・轟武兵衛(元熊本藩士)・山田十郎(元熊本藩士)・土方楠左衛門(元土佐藩士)・水野丹後(元久留米藩士)・河村季興(すえおき/三條家家士及び後には中村圓太(元筑前藩士)・田所壮助(元土州藩士)・中岡慎太郎(元土州藩士)を以て其の所員に列し、画策謀議に寧日(ねいじつ/安らかな日)なき状態であった。
是に於いて和泉等は七卿の意を承け、し切りに長州藩に迫って其の蹶起を促し、長州藩要路が容易に態度を決せぬのを見て、若し長州藩にして起たざれば、七卿等は率先上京、為す所あらんとて、奇兵隊を借らんことを求めるに至った。
而して當昨年齢僅かに二十有七、輿望の高かった三條実美を始め七卿の唱道する挙兵上京論には、長州藩血氣の藩士等の附和する者が多く、また藩の有司中にも之に賛意を表して策応する者もあった。
毛利藩世子上京の内議
藩主毛利慶親は屡、重臣を七卿の許に遣し、己れも亦之と會晤して略々其の方針を定め、九月十六日上京の事を重臣に附議し、遂に世子定廣上京の内議を決して、之を七卿に報ぜしめた。
七郷等は大いに喜び、書を慶親に寄せて「全く皇運御回復の期会と、国家の為一同大慶存候」と之を謝した。
是に於いて十月朔日、慶親は諭書一篇を闔藩に下して、勤王の大義を明かにしていう。
今や京都の形勢は一変して、吾等の正義は将に泯滅(みんめつ/亡ぶ)せんとしている。是れ吾等の精神の足らざる所にして敢て人を恨むべきでない。然るに若し此の上にも無事を冀い、因循に流れ、幕府の暴威に畏縮して、天朝の御為を思わず、防長二州の安泰をのみ冀う如き事あれば、二州の維持は愚か、皇国の前途は外夷の蹂躙する所となるのみである。二州は宣しく一團(団)の正義となり、偏に君臣の大義を明かにし、凛然として天朝への忠節を確守し、先づ君側の姦を除き、国内の賊を滅し、竟に攘夷の大功を遂げて、宸襟を安んじ奉るべし
とて藩是の大本を告げて、士民の向う所を示したのである。
而して此の間、前節に述べた如く、家老根來上総を上國に赴かしめて陳弁歎訴を朝廷に致さしめると共に、藩士を京坂に遣し、因州・対州等諸藩の有志と交驩(歓)して京情を探らしめ、また藩内の戒厳、藩士民の動静に意を用いた。
此の頃七卿の一人澤宣嘉(さわ・のぶよし)が長州藩の抑止したにも拘らず、平野二郎等及び奇兵隊総管河上彌一郎等数十人と三田尻を脱走して生野の変に加わったので、長州藩の要路は大いに之を憂え、堂上諸卿の三田尻に在るを不可とし、三條實美の為に山口湯田に宿所(高田御殿)を設けて之に居らしめ、尋いで他の五卿をも山口氷上眞光院に移して、浪士等の濫(みだ)りに面接するを止めた。
また力めて五卿・有志及び藩士等の急激論を慰撫し、十月十日藩内に定廣上京の事を布告し、特に來島叉兵衛・久坂義助に世子の随従を命じ、定廣の護衛に當てる為に少壮藩士等の中より遊撃隊を組織せしめ、後日又兵衛を同隊(後遊撃軍)の総督とし、三田尻に駐屯せしめたのである。
真木和泉の出師三策
長州藩が一たび世子上京の事を決するや、三條以下の諸卿に随従している志士等は、其の実行の一日も速かならんことを冀望し眞木和泉の如きは、嚢に「三事草案」を草して、兵を近畿に進め、京都の廓清(粛清)、朝政の挽回、七卿の復職等の方略を薦めたが、十月二十二日更に「出師三策」を三條以下の諸卿に献じて、其の進発を促した。
その論旨は勤王の師を京畿に出して幕兵と抗争し大勢を一転せんというのであって、上・中・下三策の中、其の上策に言う。
毛利侯は居守し、支藩諸侯等は藩の東西北海を戌り、世子侯は堂上諸卿と俱に軍を帥いて東上し、其の兵五萬と號(さけば)せしめ、乃ち海路直ちに浪華城を屠って、敵の糧道を絶ち、別隊は陰かに京に入って、二条城以下幕吏の屯する所を火き、出没隠見、力(つと)めて之を擾乱せしめ、進んで膳所・彦根両城を焼いて湖東に依り、以て東山・北陸の道を梗ぎ、又有有栖川熾仁親王を報じて越・羽の地に依って、会津の虚を衝かしめ、幕軍をして西下するを得ざらしむ。而して世子侯は馬を馳せて京に入り、嵯峨の勝地に依って礙然(がぜん)動かず、奏して、中川宮の罪を糺さん事を請い、叉竊(ひそか)に鷹司公に秘策を授けて、万里小路・烏丸両卿及び他の諸侯に内応せしめなば、敵の死命を制して我が掌握の中にあらしむるを得べし。
と、此の「出師三策」は其の言う所は壮快を極むと難も、蓋し容易に行われる論ではない。
故に當時長州藩の枢機に与っていた麻田公輔及び桂小五郎・高杉晋作等は、内心世子進発を不可とする意見であった。
また支族吉川経幹は世子の上洛が到底平穏に行われず、必ず違勅の大事を惹起すべきことを慮り、其の不可を慶親に諫止した。
斯く長州藩要路が隠忍持重して、其の鋭気を養い、以て其の機の至るを待てる際に、藩士民鬱結の情は結ばれて解けず、また風を望んで諸方よリ來投する志士も漸次其の数を加えた。
是等は意氣頗る昂まり、動(やや)もすれば急激の挙に出でんとし、屡々、藩庁に迫って危言を発し、また少壮藩士の中には、眞未和泉の所説に傾倒する者も少くなかった。
京都情勢の変化と長州藩の態度
嚢に奉勅始末書を携えて上國に赴いた井原主計は、必死の歎願を試みたにも拘らず、言路は全く壅閉せられた。
而も幕府は将軍の上洛と共に、公武合体派の堂上・諸候と長州藩の処分を議し、追討の事を策する状が長州藩に達したので、長州藩内の動揺は益々甚だしきを致した。
既にして京都に於いては、薩州・福井等開国を主張した諸侯は相踵いで帰藩し、将軍亦横浜鎖港を約して東帰し、公武合体派の連衡は再び破れ、攘夷派の党上・諸侯等がまた羽翼を伸ばす機會は到來せんとした。
また関東に於いては水戸藩内が頗る動揺し、藩士田丸稻之衛門(天狗党の首領)・藤田小四郎等は攘夷の義を唱えて筑波山に兵を挙げ、尋いで日光・太平山に依るに至った。
是に於いて在京の長州藩士等は好機逸すべからずとしていたが京都池田屋の変報が達するに及び、定廣及び堂上五卿上京の事は遂に決行せられるに至ったのである。
池田屋の変と長州藩三家老の上京
将軍東帰後の京都
元治元年五月、將軍家茂は闕下を辞して東帰し、島津久光・伊達宗城・松平慶永等は概ね既に藩地に帰り、京都の政局は俄然寂寞(じゃくばく)を告げた。
幕府要路で京都に留まる者は禁裏御守衛総督一橋慶喜・老中水野忠精(ただきよ)の外に、所司代稻葉正邦は老中に転じてなお京に留まり、桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)は其の後を承けて所司代と為り、嚢に軍事総裁職に転じた松平容保は、幾ばくもなく京都守護職に復し、以上の五侯が京都に在って事を執ったのである。
而して将軍東帰後の京都の状勢は、尊攘派に有利に転換せんとしていたにも拘らず、幕府は此の大勢を如何ともすること能わず、專ら摂海の防備、洛中洛外の警備に力を用いていたのであった。
長州藩士及び志士等の京都潜伏
幕府が特に京都に戒厳を加え、各藩の在京藩士を制限し、其の堂上諸家に出入するを抑制して警戒を怠らなかったにも拘らず、長州藩士及び之と氣脈を通ずる尊攘志土の京郎に潜伏し、世上の動静を窺う者が多かった。
長州藩志士等は或は藩地との間を來往し、筑前・因州・備前・対州・水戸・津和野等諸藩の志士と密かに聲息を通じ、或は有栖川宮・正親町三條・柳原等長州藩へ同情する堂上に周旋し、形勢の転換を図り、或は洛中に流言を放ち、京都の攪乱を試みたのであった。
池田屋の変
六月五日の眛爽(まいそう/早朝)、幕府は他の密告によって四條小橋に古物商を営む桝屋喜右衛門なる者を逮捕し、之を糾問した結果、志士古高俊太郎(近江の人)なるを知り、押収した同志間の往復書簡によって、同志数十人と牒(しめ)し合せ、烈風の日、火を御所及ぴ中川宮家に放ち、宮及び松平容保の参内を途中に要撃して、世局を前年の政変前に復し、假令事が敗れても、言路洞開の途ともなるべしとの恐るべき陰謀を発見した。
是に於いて幕府は桑名・會津の藩兵及び京都町奉行の麾下新撰組等を動員して洛中を固め、市中を偵察して長州藩及び諸藩の志土が三條小橋の旅宿池田屋に集會するを知り、之を包囲して新撰組近藤勇・藤堂平助等数人は之を襲撃した。
此の時會するもの長州・土州・因州・熊本・久留米の藩士凡そ二十余名、或は不意の闖入者に応戦し、或は屋外に遁れる者あり、旅宿の内外は倏(たちま)ち修羅の巷と化した。
少時にして土方歳三の率いる新撰組も亦之に加わり、血戦乱闘は時余に及んだが、志士側が如何に勇なりとも衆寡敵せず、宮部鼎藏(元熊本藩士)・松田重助(元熊本藩士)・北添佶摩(きつま/元土州藩士)・望月亀彌太(元土州藩士)・野老山吾吉郎(ところやま・あきちろう/元土州藩士)・石川潤次郎(元土州藩士)・藤崎八郎(元土州藩士)・吉田稔麿(としまろ/長州藩士)・杉山松助(長州藩士)は闘死し、或は傷ついて屠腹し、捕えられた者は前後二十余人に及んだ。
新撰組其の他の死傷も亦十人に垂(たら)んとした。近藤勇が當夜の激闘を報じた書中に、戦闘は時余に及び、同志の刀は折れ、或は其の刀サ々ラの如く、実に是迄度々之戦致し候得共、二合せと戦い候者は稀に覚え候得共、今度の敵多勢とは申し乍ら、何れとも萬夫の勇者、誠に危急の命を助り申し候」とあるのを見れば、志士側の奮闘の状が窺われるのである。
因州藩士河田左久馬及び久留米藩士淵上郁太郎は身を以て難を遁れ、桂小五郎も亦辛うじて其の厄を免れた。
是れ即ち世に言ふ池田屋の変である。
長州藩京都留守居能美織江は変を聞いて直ちに藩邸に警戒を加え、また事の顛末を勧修寺家及び所司代・京都守護職に訴えて、加害者を糺弾せんことを求めたが、固より容れられる事もなく、幕府は益々、市中の警邏・偵察を嚴にして、なお市中各所に於いて殺傷又は逮捕等が行われた。
斯くて洛中にはただならぬ風雲が漲(みなぎ)り、投書・貼り紙の類は前にも増して行われ、一橋慶喜が叡慮を偽り、勤王正義の士を捕縛するに於いては、其の宿所を焼くべしと言い、十六日水戸藩士は慶喜の腹心平岡圓四郎(一橋家側用人)等を殺傷するが如き事件を生ずるに至った。
長州藩三家老の卒兵上京
池田屋の変報に接した長州藩主毛利慶親は、十四日家老益田右衛門介に諸隊の上京を命じた。
因って翌十五日木島又兵衛、十六日家老福原越後、尋いで真木和泉・久坂義幼・入江九一・寺島忠三郎等の一團、二十六日家老国司信濃、
越えて七月六日益田右衛門介は各々兵を率いて上京した。
越後・信濃・右衛門介の三家老には毛利慶親父子から黒印の軍令状が授けられた。
福原は六月二十二日大坂に着し、二十四日伏見に屯し、また真木・久坂の部隊は同日淀川を遡って山崎に留り、諸兵を天王山及び山麓の宝寺に分屯せしめた。
二十六日京都潜伏の長州藩及び諸藩の志士百余人は脱出して嵯峨天龍寺に依り、翌二十七日來島叉兵衛は遊撃軍を率いて之に赴いた。
尋いで七月八日国司信濃は兵八百を指揮して兵庫に着船し、翌九日自ら大坂を経て山崎に抵(いた)って福原越後と會見し、十一日に天龍寺に屯した。
同十三日益田有衛門介は兵六百余を率いて大坂に着し、十五日男山に屯営した。
斯くして長州藩兵及び諸藩尊攘の志土等は伏見・嵯峨・山崎三方面の要衝に分屯するに至った。
毛利定廣・五卿等の出発
而して長州藩世子毛利定廣は五卿及び士族毛利元純と共に中軍を率い、支族吉川経幹の兵を殿軍として、七月十四日相継いで海路上国に向かったのである。(p563)
第二十七回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 八月二十六日(土)
午後一時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 25 回テーマ 朝権の確立 八月十八日後の政局 変後の政情
日時:令和5年6月24日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十五回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年六月二十四日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内「p523‐p542」を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第五章 朝権の確立
第一節 八月十八日政変後の政局
変後の政情
文久二年に入り、頓に熾烈となった尊攘の運動は翌三年に至り益々其の気勢が高まり尊攘派の堂上・志士等の画策する所は着々として実現を見、或いは攘夷御祈願の行幸を拝し、或いは将軍上洛となり、或いは攘夷期日の公布となり、遂に攘夷親征の建議に伴って倒幕の密計すら画策せられようとして、時局は急転王政復古への一途に進めのではないかとさえ思われた。されど二百有余年間の覇権を維持してきた幕府は、如何に衰えたとはいえ、尚其の余威のあなどり難きものがあり、大小諸候の中には旧来の恩顧を思って之れに畏憚(いたん/畏れ憚る)する者が少なくなかった。
特に畏れくも叡慮は始終公武合体で在わしますので、幕府にとっては何者よりも大いなる頼みの綱であった。
尊攘志士等の倒幕計画の如きは其の実現を期するには時期尚早と為すべきである。況や尊攘の気勢が昻まるにしたがって、尊攘派堂上・志士等の行動は日に益々矯激に流れて、遂に叡慮に副い奉らざるものがあるに至り、公武合体派の堂上・諸候らは固より尊攘に志しあるものをして少なからず危惧せしめたのであった。斯かる情勢の究極する所、終に八月十八日の政変を見たのであって尊攘の気勢は一朝にして挫折し、時勢は再び公武合体に逆転するに至った。
政変後の処分
されば政変後に於いて尊攘派堂上に対して黜陟が行われ、長州藩其の他藩士・志士等の行動が厳重に監視せられたことは言を俟たない。三條實美等が聴許を経ないで京都を離れた事は、固より朝規に違反した行為であって、茲に朝譴を蒙るべき罪科が明白に発生したのである。
三條實美等の官位剥奪
朝臣の中には實美等追討の議を建てた者もあったが、池田慶徳・蜂須賀茂韶(もちあき)の反対で其の議は止み、八月二十四日、西季知(すえとも/権中納言)・三條實美(権中納言)・東久世通禧(みちとみ/左近衛権少将)・壬生基修(もとなが/修理権大夫)・四條隆謌(たかうた/侍従)・錦小路頼徳(よりのり/右馬頭)・澤宣嘉(のぶよし/主水正)の官位を剥奪し、外に元国事参政豊岡隋資(あやすけ)・萬里小路博房(ひろふさ)・烏丸光徳・橋本實麗(さねあきら)・元国事寄人滋野井實在(さねあり)・東園基敬(もとゆき)に差控えを命ぜられた。
関白鷹司輔煕は責を引いて辞表を上ったが、
慰諭して聴し給わず、再び辞表を上るに及び之れを留めて差控えを命ぜられた。
中川宮の元服
一方、中川宮は曩に還俗の命を蒙ったが、茲に至って元服し名を朝彦と賜い、二品・弼正尹に任ぜられた。八月二十六日、松平容保・池田敬徳等在京の諸候等を小御所に召し、連日宿営の労を慰めて物を賜い、且つ各藩兵にも賞賜あらせられた。
諸藩士・志士の取締
又今春以来尊攘派策源地の如き観があった
学習院に於いては国事参政・国事寄人の廃止と共に陳情建白受理を止められた。また都下の廓清を期する為に、市中止宿者の調査を厳にし、諸藩士・志士等の濫りに堂上諸家に出入りすることを禁じ、各藩に命じて予め在京諸役の員数姓名を傅奏に上申せしめ、浮説を以て人心を惑乱することを禁ぜられた。
御親兵の廃止
尋いで九月、曩に長州藩の建議によって設置
せられた御親兵は、薩・土二藩の意見により、乱に益なく治に害ありとの理由で遂に廃止された。
同十九日、右大臣二條齊敬に内覧の宣を賜い、
十二月二十三日に至って関白鷹司輔煕を罷め、二條齊敬を関白と為し給うた。
斯くて政変後の京都は朝廷内外を問わず其の情勢は全く一変して、曩に朝議を左右するが如き勢力を占めた三條実美等の堂上も尊攘派の中堅として諸方の志士を其の傘下に集めた長州藩も悉く政局の中心から一掃せられ、其の計画は破壊せられて、幕府排撃の機運は一たび去ってしまったのである。
微妙なる政局の動向
然れども此の時堂上・諸候の間には政変が果たして叡慮に出でたものか、或いは中間の策動に基づくものかに就いてなお疑惑を抱く者があり、且つ三條實美の誠忠、長州藩及び尊攘志士の憂国勤皇の志に対して同情を寄せ尊攘の大義貫徹の為には彼等を失脚せしめて遺棄を阻喪せしめたなら天下の正気は地を払うべしと憂慮した諸候もあった。
政変の直後、鷹司輔煕・近衛忠房・池田慶徳は今一応三條実美等を参内せしめて所見を尋すべしと陳べ、また池田慶徳・池田茂政・上杉齊憲らは建白して實美等及び長州藩の為に弁疎し庇護する事を呑(おし)まなかった。
有栖川宮及び慶徳はまた密かに使者を西走途上にある長州藩士に遣わして之れを慰問激励したのである。
斯くて八月二十二日政変の顛末を列藩に告示せられた文中には實美等が大和行幸を要請し奉って屡々叡慮を矯め、且つ聴許を経ないで他国に走った事を責められ、實美等が速やかに帰京するよう長州藩に命ぜられる旨が記され、また長州藩に対しては、「長州藩に於いても正義壮烈に過ぎ候より粗暴論の輩も之れある可き哉計り難く」とて、禁門の守衛を免ぜられた旨が載せられている。
然るに此の正義壮烈云々の字句は薩州藩士の抗議で士気壮烈と改められ、又實美等帰京云々の一條は削除せられて二十四日更めて仰せ出されたのである。
叡慮を示し給う
尋いで二十六日松平容保・池田慶徳等在京の諸候等を小御所に召し、二條齊敬を以て八月十八日以後の勅旨が真実なる叡慮である旨を伝達し、宸翰を拝見せしめられた。宸翰の文は実に「是迄は彼是真偽不分明の儀之れ有り候得共、去る十八日以後申出は真実の朕存意候間、此辺諸藩一同心得違い之れ無き様の事」とあった。蓋し政変に対する堂上・諸候等の疑惑を一掃して人心を安定し、其の適従する所を示し給うたのである。
また別に宸翰を中川宮・近衛忠煕・二條齊敬に賜うて過激の堂上及び長州藩士等の黜(しりぞ)けられたるに御満足在らさせられる旨を仰せ出され、「兎角末々見留め無く暴烈にては後患之れ有る可く、深く々々心配りの事に候」と深く軽挙妄動を戒め給うたのであった。
政局の暗流
されど公武合体を喜ばぬ堂上の間には中川宮に対して宮が近頃長・土二藩を疎んぜられて薩州藩にのみ依頼せられるを難じ、実意測り難し、恐らくは魔王の所為か恐るべし、危ぶむべしとさえ評論する者があった。
攘夷の督促
斯かる政情の下に於いて攘夷の叡慮は依然変わらせ給わず、また堂上・諸候等の攘夷熱は政変があった為に敢えて減退を見なかったのである。
即ち八月十八日政変の当日、大和行幸の延期を列藩に布告せられた御沙汰書の中には「尤も攘夷に於いては少しも替えなされず候」と仰せ出されたのみならず、翌十九日幕府に攘夷実行の遅延を責めさせられて、「今以て因順に打ち過ぎ、如何の儀思召し候、迅速攘夷の成功奏す可く厳重御沙汰候」と、之れを督促在らせられ、且つ列藩にも令して攘夷の成功を遂ぐべきは累年の叡慮なれば、勤皇の諸藩は幕府の指揮を待たず速やかに掃攘すべし」と命ぜられた。
攘夷観察使
尋いで池田慶徳・蜂須賀茂詔に東下して幕府を督励すべしと命ぜられ、九月朔日在京諸候の建議に依って別勅使を江戸に遣し、幕府に対して攘夷を督促し、以て叡慮を安じ奉るべしとの議が決せられ、太宰帥熾仁(たるひと)親王を勅使に、入道大原重徳を副使として、松平容保・池田茂政等に随行を命ぜられたのであった。
政情の不安
以上は政変後の政局の微妙なる動向を語るものであるが、更に之れに加えるに涙を呑んで西下した長州藩及び尊攘志士等が必ず形勢の挽回を図るであろうと一般に予想せられた。
而して変後の政局に於いては解決を要する三つの案件が横たわっていた。即ち其の一は公武合体の確立であり、其の二は開鎖の国是決定であり、其の三は七卿及び長州藩に対する処置である。
公武合体の体制
文久三年八月十九日、勅して加州(加賀藩)世子前田筑前守守慶寧(よしやす)・筑前藩世子黒田下野守慶贊(よしすけ)・久留米藩主有馬慶頼・熊本藩支族長岡良之助を召し、尋いで二十八日鍋島齊正・山内豊信・伊達宗城・島津久光を召させられ。「今度召し候諸藩上著の上は朕の叡旨貫徹祈り入れ候」と仰せ出され公武合体の実を挙げる事を望ませられたのである。
長岡良之助が先づ召命を奉じて、九月二十八日上京したのを始めとして、島津久光・伊達宗城・山内豊信は孰れも相踵いで入京した。中川宮は尊攘運動極勢の頃を回顧して会津は奸賊、此の方は陰謀、越前は朝敵といわれたるに、此の三人が今日同席するは真に奇遇というべしと、世運が公武合体に立ち返ったのを祝されたが、他方には中山忠能は諸候を召して何を仰せ付けられるか、扨々歎息に堪えずとさえ言うているのであった。
島津久光の周旋
而して是等諸候の間に在って断然勢力を振るったものは島津久光である。久光は是の歳の春失意の中に藩地に帰り常に上国の風雲を望んでいたが、政変の後召命を拝し、また近衛忠煕父子からも廟議徒らに紛々たるは却って国難を増すべければ、政変後の時局収拾に尽瘁する為に、速やかに卒兵上京せんことを屡々懇請せられるに及んで予て抱懐する所見を再び中央に実現せしめようとして、前年に優る大兵を率い、十月三日に上京した。其の兵力は府士六隊・郷兵六隊、一万五千と言われ、其の威勢は京洛の地を圧したのである。久光は先づ上書して朝令暮改の幣を除き、諸候を召して天下の公議を採り、以て遠大不抜の大本を定められんことを建議し、天皇は内勅を賜うて急激なる改革、無謀の策略、公武合体の確立、七卿の処分等二十一ヶ条に就いて諮詢し給うた。
久光は此の御信頼に感激して水火を辞せず公武一和の実を上げる為尽瘁すべき旨を答え、攘夷に就いては鎖国よりも武備充実の急務なること、方今俄に王政復古の行われ難きこと、鷹司関白は此の際退職せざれば、列藩の疑惑が少なからざること等を伏湊した。斯くて久光は藩士大久保一蔵、尋いで吉井中助等を江戸に遣り、一橋慶喜に上京を勧め、且つ将軍の上洛を説かしめた。
また幕府の実権が弱小な譜代諸候の掌中に在るが如き現状では、列候並びに天下の信望を繋ぐ所以ではないから、有力なる諸候をして政治に関与せしめる新政を創(はじ)めざるべからず。是が為には幕府の機構の改造を行わしむべきであるとし、先づ之れを松平慶永に議(はか)った。
松平慶永の上京
慶永は曩に無断帰藩して咎を受けたが赦され、且つ十月六日勅免の御沙汰を拝し、十八日召命に応じて上京した。慶永はまた広く列候中から其の器を選んで枢機に参与せしむべしとの意見を抱いていたので、久光の提言に同意し、協力してその実現に周旋することとなった。
是に於いて京都の政局は薩州及び福井藩を中心として在京諸候等が屡々会合し、公武合体の確立、七卿・長州藩の処分等を議して慶喜の入京を待った。
一橋慶喜の上京と島津久光との提携
是より先、公武合体派の諸候が召命に応じて陸続入京したので、朝廷は将軍家茂及び一橋慶喜を召し、是等諸候と和衷協力して国是を定めしめようとの思召しで、十月七日先づ慶喜に上京を命ぜられ、更に将軍をも召させられた。
慶喜は十月二十六日江戸を発して漸く十一月二十六日に入京したが、将軍の上洛前に当面の問題を議して務めて其の準備を為そうととし、慶永・久光等の議に賛して二條城に此の二人及び松平容保・黒田慶賛(よしすけ)・伊達宗城・長岡良之助並びに其の藩士の主な者を会して時事を議し以て定例の会合の如くにした。斯くて在京中の有力諸侯によって一つの新しき議政機関が生じたのであった。
諸雄藩の朝議参与
尋いで朝廷に於いても慶喜・慶永・久光等の建議を容れて、雄藩諸候をして朝議に参与せしめられる事となり、十二月晦日、慶喜・慶永・容保・豊信・宗城に朝議に参与すべきことを命じ、簾前に伺候せしめて国事に與らしめられた。是は元来久光の提案に出でたものであって、小松帯刀・高崎猪太郎及び福井藩士中根雪江等が朝彦親王らに入説斡旋したもので、初め朝議は賛否区々に岐れ、名称も朝議参謀と為す議があり、其の勤仕方も簾前の朝議に参加せしめると、単に御下問に奉答するとの二者に就いても議論があったが、遂に簾前の朝議に参与せしめられることとなったのである。
慶喜等は翌元治元年正月八日から始めて朝議に与かったが、同十三日久光も亦之れを命ぜられ、従四位下左近衛権少将に任じ、尋いで大隈守と称せしめられた。
山階宮(やましなのみや)の創立
久光は猶此の外に朝彦親王の御兄元勧修寺門跡入道清範が下情に通じ、時務に就いても意見を有らせられるに嘱目して其の還俗並びに新たに親王家御創立の議を立て、慶喜・慶永等の賛意を得て、朝彦親王並びに近衛忠煕等に頼り、十二月二十八日慶永・宗城等と共に連署して之れを朝廷に奏請した。天皇は始め先帝の叡慮を憚らせられて御難色を御示しになったが、元治元年正月九日宮を御生家伏見宮家に復帰せしめて還俗を命ぜられた同十七日、山階宮の称えを賜り、二十七日元服、晃親王と・常陸太守の宣下あり、茲に山階宮家が創立せられて幕府は家料千石を上ったのである。
斯くして松平慶永・島津久光・山内豊信・伊達宗城は公武合体派の雄藩として屡々二條城(後には将軍後見職慶喜の宿所)に会して幕政に関与し、また慶喜・容保の幕府首脳と共に参内して朝議に参与するに到り、少なくとも京都に於いては慶喜・久光等の戮力によって朝幕間の連絡疎通に資する所があり、公武合体の態勢は一先づ茲に成立したのである。
横浜鎖港の議と長州藩処分問題
幕府は攘夷実行の公約に対し、何とかして当面を糊塗し、違勅の責を免れんものと苦慮した結果、漸く文久三年八月の初め、三港の中せめて横浜一港を閉鎖せんとの議を決した。固より幕府は其の実現を信じたのではなく、且つ之れを貫徹する本心でもなかったが、万一諸外国が之れに同意すれば、当然要求せらるべき莫大な賠償金を支払うも亦已むを得ないと覚悟していたのである。
幕府は八月二十五日、老中酒井雅楽守忠績(ただしげ)に上京を命じて政変後の天機を奉伺し、併せて攘夷遅延の事情を奏聞せしめた。九月十四日忠績が参内して委曲奏上し、更に御督促の勅旨を拝したが、是と同日に江戸に於いては老中水野忠精・板倉勝静(かつきよ)・井上河内守正直等は築地の軍艦操練所に於いて先づ米・蘭二国使臣と横浜港の談判を開始した。この会商に於いて忠精等は先方から強硬なる反対を受け、刻に猪の紛糾を鎮撫するに努めず、却って締盟国に斯かる談判を為すは幕府の弱体を示すもので、国辱に類せずやとさえ難詰され、英・仏二国に対しては引き続き談判の開始を躊躇した程であった。
併し幕府は之れを以て兎に角、勅旨奉承の端緒を開いたものとして、旨を在京中の酒井忠績に急報し之れを奏聞せしめ、又曩に朝議で決した攘夷監察の別勅使熾仁(たるひと)親王の東下を止めようとした。而して此の書の京都に到着した際には、忠績はすでに退京後であったので、松平容保から之れを奏聞し、徳川慶勝も上書して暫く幕府の措置に一任せられんことを奏請した。
当事朝廷に於いても無謀の攘夷を行い、発端を啓くことは、固より叡慮に副い奉る所以ではなくまた別勅使の派遣にも支障が生じたので、十月七日熾仁(たるひと)親王に勅して幕府に於いて横浜鎖港談判中であるから、暫く其の東下を猶予せしめ給うた。
攘夷監察使派遣の中止
尋いで十二日、諸候に令して攘夷の挙は総て幕府の指揮を待ち、軽挙妄動することを戒飭(かいちょく/戒める)され、著しく攘夷の督促を緩和されたのである。
開鎖の国策は未決
尋いで幕府は列国公使と交渉を進めることを断念し、仏国公使書記官ブッキマンの甘言に乗ぜられて、横浜鎖港談判使節を欧 州に派遣するに決し、使節池田筑後守長発(ながおき)等は十二月二十七日を以て仏国に向け渡航の途に就いたのである。蓋し幕府は之れに因って使節の在外中は朝廷から鎖港の督責を免れ得ると考えたのであった。しかし開鎖の国策に就いては、何等決定せられたのでなく、将軍が再度上洛するに及び、再び当面の問題となったのである。
政変後の長州藩・七卿の態度
初め長州藩士の七卿を護って京都を退去するや中川宮・松平容保及び会・薩両藩士の間には長州藩兵追討の議があった。然るに三條實美等は西下の途上で使者を阿州・芸州に遣わして中興の大業達成の為に加わらんことを説かしめ、尋いで長州藩領三田尻に滞留するに及び、此の所に着たり投じた諸方の尊攘志士と共に長州藩の再起を促し、以て尊攘の大義に邁進せんことを計画した。
長州藩に於いても因州・備前・芸州・津和野等の諸藩に徴して、八月十八日以後の京都の形勢は因循姑息の節が朝野に爛浸し、恐れながら聖徳の汚隆、皇威の盛衰にも関する一大危機に瀕しているとて、威勢の挽回に戮力を求めたので、款を實美等及び長州藩に通ずる諸藩及び志士等も少なくはなかったのである。
長州藩の弁疎
長州藩は政変直後、家老根来上総に上坂を命じ多年尊攘に尽瘁し、国事に周旋した顛末と其の赤誠とを闕下に披露し、且つ不義不忠の故を以て勅勘を蒙りたる冤枉を歎訴せしめようとした。然るに上総は入京を許されず、却って毛利元純(もとずみ)・吉川経幹らを始め藩士曩日の行動について糺問して上申すべき命を下された。正親町三條実愛は上総の入京を止められたのを不快とし、「朝議全く幕臭になりかけたり」と評し、病と称して出仕せず、また池田慶徳は長州藩主父子の赤心を聞し召されて公正なる御処置ありたしと建議したが省みられなかった。
幕府は此の機に乗じ、長州藩主父子を江戸に召致せんと欲し、彦根藩主井伊掃部頭直憲を上使に、佐賀藩主鍋島肥前守茂実を副使とし、小倉・熊本・柳川諸藩主をも長州に向かわせようとしたが、諸藩の異議で中止せられた。
長州藩再度の弁疎
その後長州藩に於いては、藩内の異議を抑え、また三條実美及び諸藩志士と共に藩世子定廣の卒兵上京の議を決したが、十月下旬更に家老井原主計をして、奉勅始末及び取調書を携えて上京せしめた。
奉勅始末書は同藩が嘉永六年以降、国事に周旋した顛末を陳べ、勅命を奉じて奔走せる所以
を明らかにし、罪を得るの理なきを弁疎し、朝廷の御疑いが猶齊(晴)れなければ、藩主父子親しく上京して赤心を伏奏せんことを請うたものであり、また取調書は長州藩兵引上げの事由を弁明したものである。
長州藩家老井原主計の入京歎願
十月二十七日、主計は伏見に至り、執拗に入京の許可を請うたたので、其の拒否如何は再び廟堂並びに在京幕吏及び諸候間に論議を起さしめた。
即ち一橋慶喜・松平慶永等は敢えてその入京に反対しなかったが、会津・薩州二藩士等は強硬に之れを不可とし、朝議は遂に列候等の議を容れて毛利氏の執奏勧修寺家の雑嘗を伏見に遣わして書面を受理せしめられた。主計は猶入京の歎願四回に及ぶも遂に許されず、十二月二十一日、漸く藤森に於いて勧修寺経理の勅旨を奉じて来るに謁して空しく帰藩した。
斯くて京都に於ける雰囲気は益々長州藩及び尊攘志士を憤激せしめ、幕府の長州藩に対する処置は当面処断を要する難問題となった。偶々外国船に対して下関海峡を遮断していた長州藩は、通航の薩州藩船を砲撃消失せしめたので、益々問題を紛糾せしめるに至ったのである。遮莫(さもあればあれ)、曩に朝召を蒙った将軍は公武合体の態勢漸く成り、横浜鎖港談判使節も既に発途したので、十二月二十七日海路江戸を発して上京の途に就いたのである。
将軍家茂の再度上洛
将軍家茂は元治元年正月十五日を以て上京、二條城に入った。将軍今回の上京に際しては、予め公武合体派の諸候が将軍の御優遇につき周旋したので、翌十六日特に伝奏を二條城に遣されて板輿を賜はり、また將重の山行に馨蹕(けいひつ/さきがけ)を許される等、恩看(おんけん/手厚いもてなし)の渥きことは前年の比ではなかった。
正月二十一日の宸翰
二十一日将軍を右大臣に陞(昇)任せられ、家茂は即日在京諸侯を率いて参内、天恩を謝し奉った。天皇は之を小御所に召し宸翰を賜うて、畏れくも將軍に対し、「汝ハ朕が赤子、朕汝を愛すること子の如し」と仰せられて「汝朕を親むこと父の如くせよ、其の親睦の厚薄、天下挽回のノ成否に關係す、豈重きに非ずや」と公武一和を望ませられる旨を論さしめられ、又攘夷に就いては、「夫れ醜夷征服は国家の大典、遂に応懲の師を興さずんばあるべからず、然りと難も無謀の征夷は朕が好む所に非ず、然る所以の策略を議して以て朕に奏せよ、朕其の可否を論ずる詳悉(しょうしつ/慎重に判断する)、以て一定不抜の国是を定むべし」と宣わせられ、又松平容保・松平慶永・伊達宗城・山内豊信・島津久光は「忠實純厚、思慮宏遠、以て国家の枢機を任ずるに足る」を以て、彼等と親睦し戮力すべしと仰せられたのである。
將軍は之を拝し、謹みて諸侯の衆議を尽くして国是を定め、以て奏聞すべき旨を奉答し、種々優遇を賜った。
東坊城任長朝臣記には「総て昨年とは大相違、鳴呼武威又興振乎」と記して、形勢の一変に驚歎している。
正月二十七日の勅諭
尋いで二十七日、將軍は再び参内し、重ねて勅諭を賜うた。其の勅諭には「藤原實美等、鄙野の匹夫の暴説を信用し、宇内の形勢を察せず、国家の危殆を思はず、朕が命を矯(ため)て軽率に攘夷の令を布告し、妄に討幕の師を興さんとし、長門宰相の暴臣の如き、其の主を愚弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し、私に實美等を本国に誘引す、此の如き狂暴の輩、必罰せずんばあるべからず」とて、實美等及び長州藩の処罰を仰せ出され、更に閉鎖に就いては「我の所謂砲艦は彼が所謂砲艦に比すれば、未だ慢夷の膽を呑に足らず、国威を海外に輝かすに足らず、却て洋
夷の軽侮を受ん歟、故に頻りに願う、入ては天下の全力を以て摂海の要津に備え、上は山陵を安じ奉り、下は生民を保ち、又列藩の力を以て各其の要港に備え、出ては数隻の軍艦を整え、無□の醜夷を征討し、先皇応懲の典を大にせよ」と宣せられて、先づ国防の充實を先にすべきことを垂示あらせられ、従来の勅諚とは頗る其の御趣旨を異にし、攘夷御緩和の思召に拝せられたのである。
されば堂上及び志士等の中には、此の勅諚を拝して私かに疑惑を抱く者あり、畏れ多くも宸翰にはあらざるべしと言い、或いは勅諭の草案が薩州藩士の手に成ったものと伝え、一橋慶喜・山内豊信及び幕府老中等は世の物議を慮り、之を天下に公布するを躊躇したのである。
後日長州藩は幕府に上疏して、本勅諭に就いて^朝旨の在る所を候ったのであった。(p542)
第二十六回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 七月二十二日(土)
午後一時時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 24 回テーマ 尊皇攘夷 八月十八日の政変 攘夷親征の議
日時: 令和5年4月22日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十四回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年五月二十七日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p500‐p521を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第四章 尊皇攘夷
八月十八日の政変
二 攘夷親征の議
真木和泉に対する救解
抑々(そもそも)倒幕論は既に安政末年の頃から真木和泉・吉田松陰・有馬新七・平野二郎等西国志士の間に唱導せられていたのであるが、就中(なかんずく)和泉の所論は最も剴切(がいせつ/実践的)且つ詳密なもので、松陰・新七等の没後、識者中和泉の論策に傾倒する者が漸次多くなった。
彼の自論は倒幕の兵力を雄藩に求めようとするのであって、文久二、三年の交(みぎり)、専ら之を薩州藩に試み、再三其の決起を促す為に奔走したが、曩に寺田屋の変に挫折して、暫く幽囚の厄(やく/わざわい)に在った。
然るに文久三年二月赦免せられるや、再び薩州・久留米二藩の連合を策し、佐幕派の為に再び下獄せしめられたのである。
和泉の同志は上京して、彼が為に救解を長州藩に依頼したので、長州藩家老清水清太郎及び桂小五郎・寺島忠三郎等は三條・姉小路両卿に斡旋し、関白の内旨を得て久留米侯を説き、遂に其の釈放を見るに至った。
是に於いて和泉は長州藩に頼って、其の持論を実現せしめようと志し、久留米藩貢進の御親兵として同志と共に上京の途次、五月晦日山口に立ち寄り、長州藩主毛利慶親に謁して攘夷親征論を説き、六月八日を以て入京したのである。
真木和泉の五事献策
此の時京都の形勢は前述の如く、将軍は東帰の途に就こうとし、公武合体派は全く屏息の状態であり、尊攘派のみが独り気勢を揚げていたのであった。
和泉は堂上の間に京都・江戸御手切れの論を入説して、其の信望を博すると共に、頻りに長・土二州及び諸藩の志士と往来して攘夷親征を議したが、六月十七日長州藩桂小五郎等の招に応じて、東山翠紅館に長州藩志士と和会し、親征の策を議するに至った。
席上和泉は其の宿論である倒幕意見を要約した五事の献策を示して、小五郎等の同意を得たので、後日之を天朝に上った。
其の要旨は親征の典を挙げて、攘夷の権を攬(と)る事、親征の部署を定め、錦旗を作り、攘夷使・諌官を置き、在京の兵を閲する事、天下の耳目を新たにするが為に、暦本(れきほん)の制を改め、幣制を定める事、土地人民の権を収め、税租を軽減して民心の帰向を計る事、鞸(ひつ/行幸の先払)を浪華に移して、舊套(きゅうとう/古い形式)を脱却する事の五條から成り、其の説く所は総て攘夷親征・王政維新の具体策であった。
就中(なかん)ずく土地人民の権を収める條を見るに、親征行幸の途次、二三の諸侯をして、
「夷狄猖獗(しょうけつ/猛り狂う)呑噬(どんぜい/侵略)にあり、今にして之を斥けざれば、制すべからざらん。尾張以西は即ち朕躬(みずか)ら之に当り、参(三)河以東は朕之を汝に委(ゆだ)ねん。今畿内五国収め、以て其の資に供せん云々」
の趣旨を宣する勅書を将軍に授け給はば、御請の有無は論ずる所でないという類である。
攘夷親征の建議
之と略(ほぼ)時を同じくして長州藩主毛利慶親父子は重臣益田弾正(上京後右衛門介と改名)に上京して、攘夷親征、立太子、違勅の幕吏並びに諸侯を討伐するの三事を奏請すべきことを命じ、弾正は七月中旬を以て入京した。
斯くて京都に於いては長州・土州・熊本藩士等の親征建議は益々熾烈となり、尊攘派の堂上等も幕府の因循を責め、攘夷親征の議をすすめて、親征に際しても鑾輿(らんよ/天子の車)を進めさせられるに及ばず、唯親征の大策を天下に公布せしめられなば、人心一定、却って鎮静に帰すべし。
然らざれば有志の輩悲憤に堪えず、掃攘紛乱の極、遂に収拾すべからざるに至らんと言い、また長州藩支族吉川経幹及び家老益田弾正等は鷹司関白邸に詣って、此の際一歩鳳輦を進め給えば、叡慮は貫徹し、人心は一致すべしとて親征の聖断を仰いだのである。
親征建議に対する反対
然るに親征の事は素より国家の大事であるばかりでなく、尊攘志士の懐抱している底意は、親征を仰いで倒幕・王政復古の契機を捉えようというのであるから、此の議に反対する者も多かった。
畏れくも叡慮も此の議を好ませ給わず、痛く宸襟をなやませられ、中川宮を始め、公武合体派の公卿・堂上は悉く之を危惧したのである。
当事在京中の因州藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政(もちまさ)・阿州藩世子蜂須賀茂詔(もちあき)・米澤藩主上杉齊憲等は攘夷するも、親征には齊しく反対であった。
慶徳は七月十一日、方今の形勢切迫すると雖も、公卿あり、幕府・列藩ある以上、先づ之をして事に当たらしむべきで、親征は早計に失すると陳べ、此の趣旨を以て茂政等と共に、頻りに朝廷に周旋したのである。
よって、益田弾正・真木和泉等は各々部署を定め、慶徳等及び柳原・徳大寺等の堂上(国事御用掛)に謁して遊説頗る努めた。
而も此の頃に至って尊攘派浪士等の暴行は再び頻発して、親征に反対し、或いは幕府に攘夷を委任せよと唱える者を奸賊・朝敵と罵り、近衛・二條・徳大寺諸家に脅迫状を投じ、また松平慶永が上京し、開国説を以て朝議の変更を計るとの説が伝わるや、慶永を罵る文を諸所に掲げて、彼をして一歩も京地を踏ましめずと言い、遂に其の宿所に予定せられていた高臺寺を焼き払うに至った。
斯くて尊攘派の運動は表裏ともに熾烈を極めたが、親征の事は国家の重大事であるから、朝議は容易に決せずして八月となった。
攘夷親征の大詔渙発
八月長州藩士並びに尊攘派志士等の朝野に対する周旋及び運動は日を遂うて益々活発となり、真木和泉の建白に基づいて、親征反対の中枢であると見られた中川宮を鎮西鎮撫使となして、離京西下せしめようとする秘計も行われ、遂に其の内命を見るまでに至ったが、之が宮の御辞退によって、不成功に終わるや、和泉等の間には宮の厳譴論さえ生ずるに至り、危機は将に勃発せんかと思われるに至った瞬間、俄かに大和行幸の詔は下った。
之は実に八月十八日の事である。
其の詔に言う。
此の度攘夷御祈願の為、大和国行幸、神武帝山稜春日大社等御拝、暫く御逗留、御親征軍議在らせられ、其の上神宮(伊勢神宮)行幸事
と。
是の日鷹司関白は吉川経幹・益田右衛門介等を召して証書を示し毛利慶親父子の内一人に上京を命じた。
池田慶徳等の四候は、是日大詔将に下らんとするを聞いて、急遽参内し、東下の御暇賜って幕府に攘夷を督促し、若し因循決する所がなければ、四藩戮力して掃攘の実を挙げるべき旨を奏し、姑(しばら)く親征の議を停められん事を請うたが、遂に及ばなかったのである。
斯くて親征の準備は着々進められ、十四日、益田右衛門介・桂小五郎・久坂義介・真木和泉・平野二郎・宮部鼎蔵・土方楠左衛門・福羽文三郎等に学習院出仕を命じて、行幸鹵簿(ろぼ/行列順序)の調査に当たらしめ、尋いで因州・備前・阿州・米澤・久留米・加州等十余藩主に行幸供奉を命じ、また長州・加州(加賀)・熊本・久留米・土州(土佐)諸藩に行幸親征軍議御用途として、金十万両の献納を命ぜられ、関白以下公卿・堂上等供奉の列も決し、今や行幸の日を俟つばかりであった。
然るに廟議は猝(にわ)かに一変し、京都の形勢は一夜にして逆転するに至った。
三 八月十八日の政変
中川宮以下の急参内
文久三年八月一八日未明、中川宮は急に参内し、踵(つ)いで召しに依り前関白近衛忠煕父子・右大臣二條齊敬・内大臣徳大寺公純及び京都守護職松平容保・所司代稲葉正邦等もまた相前後して参内した。
此の時既に會津・薩州両藩兵は宮の内旨に依って参入し、禁裏の守備に当った。
幾ばくもなく當直葉室長順(ながとし/左大弁)は勅命を伝えて直ちに九門を鎖し、鷹司関白を始め、宮・堂上たりとも召命なき者は儘く参内を停め、因州・備前・阿州・米澤其の他在京諸侯に卒兵して急に参内すべき旨が命ぜられた。
突然の朝命に驚いた諸侯は曉を冒して、會・薩・淀諸藩兵が警固する諸門から相踵いで参内した。
土州侯の名代山内兵之助(豊信の弟)が最も早く馳せ参じ、因州侯松平慶徳は前夜假館内に尊攘派の藩士河田左久馬等が藩の要路黒部権之介等を襲殺した事故の爲、また阿州(阿波)藩世子蜂須賀茂詔は鷹司邸に屯集した長州藩土に抑留せられた為に軌れも遅参した。
朝議一変
斯くて宮中に於いて、中川宮は叡旨を伝宣して、
今度行幸御親征等之儀、長州藩士内願に付、
議奏参政国事掛・寄人等切迫言上、據無く叡
慮矯(た)め御治定仰せ出され然る處未だ其の
機会非ざる之間、叡慮安からず、仍りて行幸
延引仰せ出され也
とて大和行幸の延期を命じ、更に執次鳥山三河介を以て朝命を議奏・傳奏及び国事御用掛三條西季知(すえとも)・三條實美(さねとみ)・東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)、国事寄人壬生基修(もとおさ)・四條隆謌(たかうた)・錦小路頼徳・澤宣嘉(のぶよし)等二十一卿に傳えて其の参朝・他人面會を停め、中山忠能(ただやす)・正親町三候實愛(さねなる)・阿野公誠(きんみ)を議奏格となし、柳原光愛(みつなる)・葉室長順(ながとし)等を議奏加勢となし、また国事参政・国事寄人の職を廃し、長州藩の堺町門警衛を罷め、薩州藩をして之に代らしめられた。是より先寅の刻(午前四時頃)會・薩二藩兵の警備が全く成ったので、豫て凝華洞(ぎょうかどう)に備附の大砲一發を以て警衛を戒めた。
暁天の砲聲と人馬のただならぬ往来とに驚異した尊攘派の堂上等が急ぎ宮門に馳せつけた時は、もはや朝廷の形勢は全く一変した後で、彼等は孰れも参入を阻まれて、空しく引返さねばならなかったのである。
三條實美・長州藩士等の鷹司邸参集
三條河原町の藩邸に在る長州藩士及び小松谷正林寺に館していた吉川経幹の手兵等は、全く此の変を豫知せず、昧爽(まいそう/未明)堺町御門警衛の藩士飯田竹次郎が将に入門せんとして、同門内には既に會・薩両藩兵が戒装して之を固め、禁中非常の戒厳あるを見て、急を藩邸に告げたので、漸く之を知ったのであった。
既にして堺町御門を隔てて會・薩両藩兵と対峙していた長州兵は、執次鳥山三河介を以て
堺町警衛の儀、思召しを以て只今従り免ぜられ候。尚追て御沙汰在らせられ候迄、屋敷へ引退く可く勅諚候事
との御沙汰を伝えられたが、長州藩兵は容易に撤退を肯んじなかった。
一方朝議を蒙った東久世・錦小路・三條西・四條・壬生の諸卿は前後して長州藩邸に來曾したので、曩に上京した清末藩主毛利讃岐守元純(もとずみ)及び益田右衛門介等は相議し、鷹司関白に謁して朝旨の在る所を候(うかが)うに決し、藩兵四百許りで五卿を警固して堺町御門内の鷹司邸に赴いた。
彼等は會・薩二藩兵に阻まれて、表門より入ることを得ず、同邸の裏門から入り、関白に謁して事情を開かんとしたるも、関白は未だ参内しないので、更に判明する所がなかった。
斯かる内に関白は召命に依って参内したので、同邸に来集した堂上・長州藩士は只管関白の帰邸を待つ間に、清末藩兵五十及び吉川経幹の率いる岩国兵四百計りは相踵いで関白邸に入り、邸内は雑鬧(ざっとう)した。
尋いで御親兵御用掛の三條實美は自邸に馳参した親兵千余人を率いて來邸したので、鷹司邸内は一層の喧騒を増し、形勢は漸次不穏となった。
嚢に参内した鷹司関白は廷中に於いて三條實美等の為に救解に努め、實美等を召して之を糺問あらせられんことを提議したが、朝議は賛否両論に岐れて決せず、終に勅使柳原光愛を鷹司邸に遣して長州藩士を慰諭するに決した。
勅使の齊らした朝旨は、攘夷親征の事は豫てからの叡慮に在らせられるも、行幸等の儀は粗暴の處置であるので、御取調あらせられる。
攘夷に就いては何処までも確固不動であらせられ、其の藩従来の報效、人心の振興については、向後彌々御依頼思召しで在らせられるから、忠節を尽すよう。
藩中多人数屯集の事故、粗暴の事なきよう鎮撫し、益々王事に竭(つ)くすべしというのである。
益田右衛門介・真木和泉等は勅旨を奉載する旨を陳べ、三條實美等の復職等を奏請する書を上った。
朝廷は重ねて勅書を下して更に慰諭せられたが、長州藩士等の激昂は容易に鎮静しなかった。
やがて長州藩士及び親兵の間には関白を宮中より迎えようとして、強いて堺町御門に入ろうとする者あり。会津・薩州二藩の兵は之を阻止しようとして、両者相対峙して譲らず、互いに眦(まなじり)を決して起ち、殺気横溢、何時不虞(ふぐ/思いがけない)の変が起こるやも測られぬ状態であった。
七卿及び長州藩士等の妙法院退去
尋いで勅命が更に下って、長州藩士等に引退を命ぜられたので、三條實美及び其の後鷹司邸に来会した澤宣嘉(のぶよし)等の七卿、眞木和泉・土方楠左衛門・宮部鼎藏等と、益田右衛門介・久坂義助・桂小五郎・來島叉兵衛・佐々木男也(おとや)・寺島忠三郎等とは相議して、闕下に事を生ずるを慮り、遂に朝旨を奉ずるに決し、薄暮、三條等は親兵を従え、毛利元純・吉川経幹等は長州藩兵を率いて鷹司邸を出で、隊伍を整えて洛東大佛に向い、妙法院を以て本陣とした。
夜に入るや、秋雨粛々として冷氣は一入加わったが、武装した兵は篝火を焚いて各門を警備し、堂内では徹宵今後の進退に就いて商議が行はれた。
遂に一たび長州に退いて再圖するに決し、三條西・三條等七卿も亦共に西走の意を決した。
但し豊岡・東園・滋野井・烏丸の四卿は妙法院まで随って来たが、敦れも家に帰り、親兵等も三條卿に随従することを請うたが、之を慰留して、僅かに眞木和泉・水野丹後・宮部鼎藏・土方楠左衛門等の有志のみが従う事となった。
七卿及び長州藩士の西下
八月十九日、夜來の雨はなほ歇(やす)まず、冷氣人を襲ふ。平旦三條等の七卿は軽装を簑笠草履に固め、長州藩士に護られ、昨日までは内裏に朝暮殿居した身を、今日よりは浮草の定めなき旅路に委せ、朝夕聞き慣れし妙法院の鐘の音を後に、伏見街道を南に下って、芥川の宿に假寝の一夜を過し、やがて兵庫より海上を一路長州に向った。是ぞ世にいう七卿の都落である。
実に有爲転変は世の常とはいいながら、此の悲憤な光景に誰か一掬の涙を注がぬものがあらう。長州藩土中の首脳であった益田・桂・久坂等は、なお事後を策するために兵庫から再び京都に引返したのであった。
攘夷の由来 攘夷親征と叡慮
今熟、此の政変の出來を考えるに、孝明天皇の叡慮は廣大無辺にましまして、仍お脆弱(るいじゃく)な幕府に恩眷(おんけん/反省)を垂れさせ結い、只管其の弊政を革(新)め其の因循を戒めて、公武合体の實を挙げ、以て御宿願である攘夷の功を奏し、国体を毀(きずつ)けず、萬民を救はんと、常に宸襟を悩まし給うたのであった。
されば無謀の攘夷、又は之に名を假って幕府を討伐するが如き事は、固より其の大御心ではなかったものと拝察するのである。
而して親征論が漸く實現せられようとする形勢に入った石清水行幸以後に於いては、三條實美を始め国事参政・国事寄人等の少壮急進の堂上及び長州藩傘下の志土・浪士等の矯激な言動を痛く厭わせ給うた。
即ち四月二十二日、密かに宸翰を中川宮に賜いて、血氣の堂上の我意に募るを憂えさせ給い、攘夷親征の如きは叡慮に叶はぬことを告げざせられ、速かに島津久光を召して一挙に激論の輩を退けるよう考慮すべき旨御沙汰在らせられた。
尋いで近衛忠照にも宸翰を賜い、同様の思召を仰出されたのである。
政変の端緒は茲に胚胎するのである。斯くて天皇は薩州藩に封して御倚頼を新にし給うた外に、京都守護職松平容保を厚く御信任遊ばされたのである。
会薩二藩の連合
而して薩州藩は既述の如く、前年末以來中央の政局に聲望を失い、涙を呑んで長州藩の全盛を傍観している状態にあったので、薩州藩士高崎猪太郎・同左太郎・本田彌右衛門等は、密かに之が恢復を期し、中川宮・近衛邸に出入して、其の機の至るを待った。
姉小路公知の暗殺
されば久光に召命が下った事は、同藩にとっては恰も暗夜に一縷の燈光を望むが如くであったが、會々、五月二十日夜、尊攘派堂上の重鎮として、三條實美と並称された姉小路公知が退朝の途中、朔平門(さくぺいもん)外に於いて何者にか暗殺された珍事が起こり、現場に遺棄した佩刀(はいとう)が薩州藩士田中新兵衛の所持品であった所から、犯行の疑惑が同藩にかかり、之が為に薩州藩は乾(いぬい)御門の警衛を免ぜられたのみならず、藩士の九門出入が禁止せられたのであった。
姉小路の暗殺下手人は結局今に不明であって、必ずしも之を薩州藩土の所為とは断じ難いのであるから、同藩士の悲憤は甚しかったのである。
而も此の間長州藩は藩地に於いて攘夷を決行し、京都に於いては其の宿志である親征の計画を着々進捗せしめているのであるから、薩州藩としては遂に忍ぶ能わざるの状態となった。
是に於いて在京の藩士等は久光の意を承け、切迫せる政局を転換して、叡慮を安んじ奉ろうとし、死力を尽して長州藩の親征建議を阻止せんとした。
即ち彼等は中川宮・近衛忠煕等在廷の公武合体派と氣脈を通ずると共に、會津藩士廣澤富次郎・秋月悌次郎等を介して二藩の連合を結成するに成功した。
斯くて一方には攘夷親征の下に討幕が計画せられ、また他方には之を阻止しようとする密謀が、薩・會二藩並びに公武合体派の有力者間に画策せられ、此の両派の争が宮廷を中心に一進一退している際、八月十三日尊攘派が遂に親征の大詔換発に成功を得たのである。
中川宮の密奏
事茲に至って中川宮を中心とする會・薩側は一刻も躊躇するを許さず、宮は密かに参内して詳かに親征建議の内情及び其の不可を伏奏し、勅裁を得て、近衛・二條の諸卿及び松平容保等と謀り、薩州藩土の考案に成る實施の計画に基づき、遂に突如此の政変が行はれるに至ったのであった。
斯くて尊攘派は政局の中心から斥けられて、公武合体派の勢力は恢復したが、之が為に幕府の権威には遂に多くの増減を見ず、依然として衰亡の一路を辿るに過ぎなかった。
何となれば、此の政変の過程を見ても明かな如く、其の原動力とも見るべきは、中川宮・近衛前関白父子を始めとして、大名では幕府に宿縁ある東北の雄藩會津の松平容保と、前年来長州藩と政見感情二つながら疎隔せる西南の雄藩薩の島津茂久父子とが、茲に小異を捨てて、大同に就く決心を以て、協心戮力して長州藩を撃退したのである。
或は之が為に京都守護職の権威の増加と共に、幕威が回復せられたが如き観がないでもなかったが、それは一つの幻影に過ぎず、幕府は既に其の頥使(いし/指図)を肯んぜぬ薩州藩等を迎へ、政局の枢機は依然として雄藩の握る所となったのである。
四 大和及び但馬の乱
長州藩を盟主とする尊攘派志士・浪士の多くは大和行幸の一事に、積年の念願達成の望をかけていた事とて、其の延期に憤激遣る方なく、遂に大和・但馬に相踵いで兵を上ぐるに至った。
大和天誅組の乱
大和の乱は世に謂う天誅組の一挙である。今其の由來を考えるに、文久三年春以來、長州藩が尊攘論を以て京都に覇を唱えるや、諸藩の志土は之に頼って宿望を達しようとして來り投ずる者が多かった。
特に初め長州藩と同一行動を取り、中途藩論の変更になって之と分離した土州藩の尊攘志士は望みを失い、長州藩に投じ、或は外部から之と協力する者が多かった。
大和の乱に加わった吉村寅太郎等十余名の同藩士は、実に其の中堅をなすものであった。
嚢に大和行幸の大詔が発せられるや寅太郎及び備前の藤本鐵石、参河の松本奎堂等の志土は其の前駆として大和に赴き、附近の諸侯を説き、義兵を徴して、鳳輦を奉迎しようと計り、主将に当時長州より帰洛して中山邸に蟄居中の元侍從中山忠光を擁立した。
斯くて大詔換発の翌日八月十四日の薄暮、同志三十余名は秘かに京都を脱して翌朝大坂に出で、海に航して堺に上陸、河内に入り、狭山藩及び下館藩の陣屋に使を派して、発向の趣旨を告げ、兵員・武器類を徴募し、甲田村の同志水郡(にごり)善之祐(ぜんのすけ)父子等河内勢十数名を加えて大和に向った。
十七日一行は観心寺に詣り、後村上天皇山陵並びに楠公の首塚を拝し、金剛山・千早峠の舊跡に勤王義軍の決意を新にし、大和の幕領七万石の治所たる五條に馳せ下り、不意に代官所を襲い、代官鈴木源内に挙兵の趣旨を告げて、治領の引渡を要求し、其の肯んぜざるや、源内を始め五人の幕吏を斬って代官所を焼払い、同地の櫻井寺に陣し、附近に檄して義兵を募り、武器兵糧を徴発し、又管内に今秋の年貢半減を令達した。
平野二郎等の慰撫
大和一挙の報が京都に傳わるや、三條實美・真木和泉等は寧ろ之を以て其の計画に益なしと爲し、同志平野二郎・安積五郎を派遣して忠光等の行動を制止せしめんとした。
二郎等は十九日五條に赴いたが、時既に遅く、代官を軍陣の血祭に挙げた忠光等は、彼等の言に耳を籍さなかった。
恰も此の時京都の変報が達したので、一同は愕然として色を失った。
二郎は為に急遽京都に引返し、忠光等は騎虎の勢、独往して宿志の貫徹に邁進するに決意し、陣を天ノ川辻に移し、使を高野山に派して其の決起を促し、叉朝命と称して十津川に郷士を募り、兵凡そ千余を得た。
されど朝延は忠光等の鎮撫を令し、幕府は奈良奉行及び大和諸藩に令して追討を命じたので、忠光等の兵威は振わず、二十六日高取城を攻めて却って城兵の為に反撃せられ、大敗を蒙って、吉村寅太郎が先づ傷ついた。
尋いで彦根・郡山・津・紀州四藩が朝命を奉じて追討の兵を進めるに及び、忠光等は死守防戦し、時に奇襲が功を奏した事もあったが、衆寡敵せずして漸次敗退し、水郡等河内勢及び十津川郷士の離散となり、九月中旬に及んでは、忠光等三十余名は山中に孤立するに至った。
鷲家口の乱闘と壊滅
依って忠光等は退陣を決意し、吉野山中の難嶮を迂回潜行して、九月二十五日夜小川村鷲家口(わしかぐち)に突出し、讐備中の彦根・紀州・津藩兵と闘戦数次、主將忠光以下七名は僅かに死地を脱して大坂の長州藩邸に遁入し、後長州に奔ったが、寅太郎・鐵石・奎堂及び那須信吾等十六名は相次いで闘死し、安積五郎等十余名は捕えられ、茲に敢なくも大和の乱は全く鎮定せられたのである。
但馬の乱
嚢に大和に赴き十八日の政変を聞いて急遽京都に帰還した平野二郎は、大勢の逆転に憤慨禁ずること能ばず、進んで忠光等の挙に応援する決意を固めるに至り、今は同じ悲憤の念に駆られている長州藩の野村和作、因州藩の松田正人・但馬の北垣晋太郎等と謀り、但馬に挙兵を策するに至った。
農兵の編成
是より先但馬の志士太郎兵衛・北垣晋太郎等は農兵を結成して、尊攘の素志を達しょうとし、屡、幕府の許可を請うたが意の如くならなかった。
會々、薩州藩の美玉三平(本名高橋祐次郎)は寺田屋の変後但馬に遁入し、彼等と相識るに至って其の挙に賛同し、同志平野二郎に頼って、農兵の採用を學習院に出願して許可せられ、三平は但馬農兵組織の朝命を得た。
三平は京都に政変が行はれたにも拘らず、素志の貫徹を期して但馬に入り、大郎兵衛等と合議して頻りに農兵の徴募に奔走したのであつた。
是に於いて二郎・和作等は之に着眼して但馬の地を選んで兵を挙げ、一つには大和の同志に聲援を送ると共に、他方には恨を呑んで西走した長州藩土の為に東上の機会を作らうとしたのである。
平野二郎等の入但
斯くて二郎は九月中旬但馬に潜入し、三平・太郎兵衛等と會して挙兵の策を決し、自ら長州に赴いて七卿の一人を主將に推戴しようと計り、終に澤宣嘉を説いて脱出せしめ、他に長州藩士河上彌一郎(騎兵隊総管)等十名及び長州に流寓中の浪士筑前の戸原卯橘等二十数名の参加を得て、十月二日一行は私かに三田尻より乗船但馬に向った。
黙るに此の時既に大和の同志は全く潰滅したので、京都に在った和作・正人等、は姑く挙兵を断念するに決し、使を派して之を播磨に上陸した宣嘉等の一行及び但馬の同志に報じた。
生野の挙兵と其の潰走
されど彌一郎・卯橘等は之を肯んぜず、挙兵論を執って但馬に入ることを主張したので、二郎等も亦巳むを得ず之に從い、十二日急に代官不在中の生野代官所を占拠して之を本営と爲し、檄を近隣の有志に飛ばして兵を募った。
有志並びに來り属する土民が敷千人の多きに達し、一時は土気が大いに振ったが、其の大多数は
所謂烏合の衆に過ぎなかったのみならず、此の挙兵は事前に於いて既に首脳者間に意見の一致を欠いていたので、出石・豊岡・姫路諸藩が幕命によって出兵するに先だち、営中に再び議論を生じ、遂に十三日の夜主將澤宣嘉等が先づ潜かに脱走した爲に、一軍の志気は頓に沮喪し、二郎・三平等も亦相踵いで四散し、残るは妙見山に拠守した彌一郎・卯橘等僅かに十数名の主戦派のみとなった。折しも志士と称する者は皆草賊の類であるとの流言が放たれ、烏合の土民は之を信じて背き去り、戈を倒にして志士を追撃するに至った。
斯くて彌一郎等は妙見山に於いて、三平・太郎兵衛等は逃走の途上、敦れも土民に要撃せられて自刃し、二郎も亦豊岡藩兵に捕えられ、追討の諸藩は干戈を用いないで鎮圧の功を奏した。
後宣嘉は一たび四国に逃れ、尋いで長州に入り、其の他難を遁れた者は概ね長州に投じた。
平野二郎等捕われた者は京都に護送せられ、六角の獄に繋がれたのである。
倒幕戦の前駆
斯くの如くにして大和・但馬の挙兵は、共に悲惨な失敗に帰したが、僅々四五十名の志土に依って幕領の要地は二箇所まで占拠せられ、大和に於いては之を鎮定するに一萬の大兵が月余に亙って出動し、但馬に於いてもなほ諸藩の兵を派出するもの数千に達した。
以て幕領防備の力の脆弱にして、一に附近諸藩の兵力に依頼している事実を天下に暴露するに至った。
之に加え同志の悲壮な最期は、齊しく尊攘志士を憤激せしめ、干戈を執って討幕の拠に出でる決意を固めしめた効果は、尠少(せんしょう)ではなかった。
されば此の両挙兵はやがて大局を王政復古に導く討幕戦の烽火と見るべく、之に魁けて鋒刃に殪れた志士は、実に幕末の陳勝・呉廣(んしょう・ごこう/中国秦末に兵士が起こした反乱)として、以て瞑すべきであるというも、敢て失當の言ではないのである。
第二十五回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 六月二十四日(土)
午後一時時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 23 回テーマ 尊皇攘夷 尊皇攘夷運動の極勢
日時: 令和5年4月22日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十三回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年四月二十二日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p479‐p500を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第四章 尊皇攘夷
第二節 尊攘運動の極勢
在京諸大名の参内
尋いで十八日(文久三年二月)国事参政・国事寄人の建議に因って、在京中の前尾州藩主徳川慶勝・一橋慶喜・松平慶永・山内豊信・黒田齊溥(ながひろ/福岡藩主)・伊達宗城(宇和島藩主)等二十一人は参内し、小御所に於いて謁を賜わり、鷹司関白より攘夷期限決定の上は深遠の叡慮を奉載し、速やかに掃攘の功を建つべきを諭し、別に神宮の警衛、辺島の防禦に関する方略を諮詢せられたのである。
斯くて国事参政・国事寄人の新置は、更に廟堂の上に尊攘派の勢力を扶植したものであって、廟議は殆んど是等急進堂上の為に左右せられ、関白以下の重臣の権威は少なからず殺がれたのである。
而も是等少壮堂上の背後には、尊攘の大義を唱え、飽くまで幕威を抑制して朝権の伸張を冀い、進んで幕府を倒して王政を復古しようとする尊攘志士が在るのであって、事態は到底常規を以て律すべからざる異常な時局を現出するに至ったのである。
四 将軍の上洛
将軍の江戸発程
将軍家茂は寛永以降二百年の廃典を興して、文久三年二月十三日、江戸城を発して朝覲(ちょうきん/京都御所参内)の途についた。
老中水野忠精(ただきよ)板倉勝静(かつきよ)以下の有司は駕に従い、高田藩主榊原式部大輔政敬・小倉藩主小笠原大膳大夫忠幹(ただよし)・伊予松山藩主久松隠岐守勝成はその前後を衛り、総員約三千、幕威は既に陵夷(りょうい/衰える)したとは言え、なお其の余威を示して東海道を上ったのである。
元来将軍上洛の議は長州藩の建議に基づき、政事総裁職松平慶永が幕閣内の異論を排して、漸く決定を見るに至ったもので、既に文久二年九月にに於いて、翌年二月を以て発途すべき旨が天下に布告せられたのである。
将軍上洛と薩州藩
然るに島津久光は之に異見を立て、「将軍が卒爾(そつじ/軽々しく)に上洛せば浪士激徒等の暴論に累(わずら)わされて、不測の禍に陥るべし」と做(な)し、文久二年十二月大久保一蔵を京都に遣し、青蓮院宮・近衛関白等に入説して、上洛延期の朝命を幕府に下されるよう周旋せしめたが、之は遂に成功しなかったのであった。
其の後文久三年正月、幕府は更めて将軍上洛の期を二月二十一日発途と定め、軍艦に搭じて海路西上すべきことを布告した。
然るに二月九日に至り、幕府は急に此の予定を変更し、陸路東海道を上ることとし、且つ発途の期を早めて十三日としたのである。
将軍上洛と生麦賠償問題
之は蓋(けだ/つまり)し前年八月薩州藩士によって惹起された生麦英人殺傷事件に伴う対英交渉が、俄然重大問題となったからである。
此の頃英国政府は本事件の下手人検挙すら容易に行われぬに由り、過重な賠償を我に要求しょうとして、キューパー提督指揮の艦隊を横浜港に集合せしめるに至ったのである。
されば幕府は将軍の海路上京を危険視し、且つ此の折衝の為に上洛の期を失することを慮り、英国公使より賠償要求の提出せられる以前に、倉皇(そうこう/あわてて)として江戸を出発したのである。
斯くて英国政府の幕府に提出した文書は、後日江戸留守居の老中より将軍の旅先に追送せられたが、英国は幕府に対して謝罪及び賠償金十万磅(ポンド)を要求し、廿日の期限を付して回答を求め、薩州藩に対しては、直接交渉するが為に、軍艦を派遣する旨を通告して来たのである。
今や将軍は斯かる重大な外交難件を後に残して、攘夷・抑覇の気勢の熾烈極まる京都に赴いて、国交の大本を定め、公武の一和を計ろうとするのであるから、其の苦衷は寔(まこと)に同情すべきである。
将軍の入洛
将軍家茂は三月三日大津駅に着したが、朝命によって発遣さられる外夷祈祷の神宮勅使の駕と遭遇せぬために、纔かに予定を変じて、翌四日未明大津を発して五ッ時(午前八時)入京、二条城に入ったのである。
茲に将軍の駕を迎えた一橋慶喜を始め幕府の首脳は、曩に局面打開の為に必死の周旋を試みていた政令帰一の事が、中川宮・鷹司関白の斡旋に頼っても容易に朝命が下らなかったので、深く苦慮していたのであった。
松平慶永は既に大津に於いて将軍に謁して、方今の形勢では将軍は其の職を辞する外、他に途なく、己れも斯かる時世重責を曠(むな)しうすべきでないから、辞任する覚悟であると進言したのであった。
是に於いて将軍入京の当日、慶喜・慶永・老中板倉勝静及び山内豊信・伊達宗城は二条城に会し、速やかに幕府へ庶政御委任の朝命を拝して、政令二途に出でる幣を除く事を疑義した結果、即夜水野・板倉・小笠原三老中は鷹司関白邸に詣(いた)って、明日一橋慶喜に参内伏奏の御沙汰を賜らんことを請い、関白の応諾を得た。
五日夜慶喜は将軍の名代として参内し、三更(午後十一時から午前一時)小御所に於いて天顔を拝し、旧来の失政を謝し奉り、謹んで従前の如く政務御委任の御沙汰を賜り、以て天下に号令して外夷を掃攘仕らんと願い奉った。
天皇之を許し給い、関白より、
征夷将軍の儀、総て此れ迄通り御委任遊ばさ
れ可く候。攘夷の儀精々忠節尽す可く事
の御沙汰が授けられたのである。
将軍の参内
七日将軍家茂は慶喜以下在京諸侯を率いて参内し、物を献じて天機を奉伺し、政務御委任の恩命を謝し、小御所に於いて龍顔を拝し、攘夷の功を奏するよう勅語を賜ったのである。
然るに此の日関白より将軍に授けられた御沙汰書は、
征夷将軍儀是迄通り御委任遊ばされ候上は、弥以て叡慮尊奉、君臣の名分相正し、闔国一致攘夷之成功を奏し、人心帰服の所置之れ有る可く候。国事の儀に付きて事柄に寄り、直に諸藩へ御沙汰有り為され候間、兼ねて御沙汰成し置かれ候事
と記されてあった。
既に庶政御委任ありながら、時に事柄に依っては直接朝命を諸侯に下されようというのであるから、政令は依然二途に出でることとなるのである。
翌日慶喜は関白を訪い、更めて朝旨の在る所を候(うかが)ったが、遂に要領を得なかった。
斯くて幕府が権威衰退の余り、事新しくも政務御委任の朝旨を奏請して、纔かに覇者の地位を保持しようとした意図も、一応は勅書の降下に由って達せられた如くで、実は却って将来に掣肘(せいちゅう/束縛)を受ける因ともなったのである。
蓋し勅書が斯く変更せられたのは、国事参政・国事寄人等朝権恢復を冀う朝臣の意見に基づいたものであろう。
公武合体派の離散
将軍は自ら駕を進めて闕下に詣(いた)り、其の重職・重臣等を挙げて、公武の一和、幕政更新の為に努力したが、大勢の趨く所其の否運は奈何ともし難く、益々窮地に陥ったのである。
将軍が上洛して後旬日出でず、公武合体派が最も渇望し、屡々上京を促されていた島津久光は、十四日入京し、即日前関白近衛忠煕の邸に赴き、中川宮・鷹司関白・慶喜・豊信等と会した。
席上久光は攘夷暴断の避くべき事、暴説を信用する堂上の罷免、中川宮・近衛前関白・中山・正親町三條等の登用、無用の諸侯・藩士に帰藩を命ずる等十余條の時務策を陳べた。
然るに其の議論の趣旨は、列席者の既に其の必要を痛感し、只其の実施し難きに苦慮している所であったので、此の所見披露も大きな反響が無かった。
久光は到底事の行われ難いのを察し、滞京すること僅かに五日で、大坂藩邸に退き、尋いで帰藩するに至った。
尋いで中川宮は、二十日大政輔翼の辞任を奏請し(却下せらる)、近衛忠煕は二十五日内覧(天皇の秘書官/政務を代行)を辞したのであった。
また政事総裁職松平慶永は時局非なるを見て、将軍が其の職に戀々(れんれん/執着)として僥倖(ぎょうこう/期待)を万一に期する如きを不可と為し、将軍の辞職説を主張し、其の容れざるや、辞表を提出して、慶喜等の百方慰留するをも聴かず、終に三月二十一日許可を待たずして無断で帰藩した。之が為に幕譴を蒙り、総裁職を免ぜられ、逼塞(幽閉)に処せられた。
尋いで山内豊信は二十六日、伊達宗城は二十七日、相踵(つ)いで帰藩したので、ここに公武合体派の陣営は寂として聲なき状態となった。
是に於いて慶喜等は将軍の永く滞京するを不利とし、曩に滞京の延期を奏請して勅許を得ていたのにも拘わらず、今は反対にその東帰を奏請するに至った。
即ち三月十七日、慶喜及び水野・板倉両閣老は参内して、将軍の辞京を奏請したが、勅許がなかったので、二條城に退き徹宵疑義し、翌早朝参朝して更に前請を重ね、翌十九日将軍家茂は慶喜以下を随えて参朝し、三たび帰東の暇を賜わらんことを奏請したが、優渥(ゆうあく/手厚い)な聖旨を賜り、仍(な)お滞京を命ぜられたのであった。
よって幕府の要路は密かに議して、二十三日を以て将軍を帰途に就かしめようとしたが、其の前夜深更、家茂は急に参内を命ぜられて、更に滞京の勅命を賜ったので、終に将軍東帰の苦心は水泡に帰し、水戸藩主徳川慶篤は、更めて将軍の目代として帰府し、対英折衝を董督(とうとく/監督)し、江戸の守備に任ずることとなり、三月二十五日京都を発途し、老中格小笠原長行も同日退京帰府の途に就いた。
五 攘夷の機運
長州藩の加茂石清水行幸建議
曩に東山翠紅館に諸藩の尊攘志士を糾合した長州藩に於いては、加茂・石清水両社行幸の建議をなすに至った。
即ち二月二十日毛利定廣は関白鷹司輔煕に謁して攘夷期限が決定せば、天皇親しく加茂上下社に攘夷の御祈願あらせられ、又泉涌寺皇陵に詣で給うて、列聖の神霊に御報告あって、攘夷御親征、地方行幸の基本を立てさせられるべきことを建白した。
尋いで同二十八日、定廣は更に男山石清水社行幸の議を学習院に上ったのであった。三月二日朝廷に於いては先ず加茂社行幸の議を採納あらせられ、将軍家茂及び在京諸侯に鳳輦(ほうれん/天皇)に供奉すべき旨を命ぜられたのであった。
加茂社行幸
文久三年三月十一日、車駕加茂下上社に幸(参詣)し、親しく攘夷を祷らせ給うた。
関白・大臣以下百官供奉し、先駆を承る諸侯は備前藩主池田備前守茂政等の十一藩、将軍家茂・後見職慶喜以下諸有司等は後陣に扈従(こじゅう/従う)し、御道筋の警衛また厳重を極め、其の儀衛の盛観は近世に見ざる所であった。
按ずるに天皇の行幸は寛永三年、後水尾天皇の二條城行幸嘗て其の事なく、実に二百年余の廃典が再興せられたものである。
鹵簿(ろぼ/天皇の行列)を拝した尊攘派堂上・志士の感激は言うまでもなく、遠近より来集した数万の士民は等しく其の盛儀に感泣せぬ者はなかったという。
石清水社行幸
加茂社行幸の盛典を拝して意気益々揚がった尊攘派の堂上・志士等は、更に石清水社行幸の事を鷹司関白に迫り、中川宮・関白・一條左大臣・二條右大臣等の反対を抑圧して、朝議を決し、来月四日を以て石清水社に行幸あらせられるべき旨三月十九日に令せられた。
初め長州藩建議の趣旨は、社前に於いて、攘夷親征の宸断あらせられて、天下の士気を鼓舞し給わんことを請願したものであったが、朝議は加茂社行幸と同じく、攘夷の御祈願あせらられることに決したのである。
偶々此の頃国事寄人中で最も激論を唱えていた侍従中山忠光は、密かに京都を脱して長州藩士入江九一と共に長州に奔ったが、幾ばくもなく洛中に流言が行われ、忠光が浪士と共に石清水社行幸の当日、聖駕を要し奉って将軍を害せんとする企(くわだて)ありといい、其の他之に類する浮説が乱れ飛んだ。
一橋慶喜は此の流言を利用して行幸の御中止を請い奉らんとして、中川宮及び関白に切に其の諌奏を請うた。
毛利定廣は、斯かる流言を信じて盛挙を廃せば朝威は立ち難く、幕威も亦地に墜ちるであろうとて、其の決行を上言し、茲に更めて十一日行幸と決したのであった。
慶喜は頗る、将軍が供奉の間に如何なる朝命を拝するやも測り難いと疑惧し、百方将軍の供奉を免ぜられんことを周旋したが、意の如くならず、終に行幸の前夜に至って、将軍家茂は病に託して供奉辞退を奏請したのである。
四月十一日、畏れくも天皇は前日来御眩暈(おめまい)の御気味にて聖体安からずおわせしも、推して御予定の如く行幸あらせられた。
是日天気晴朗、新緑に風薫る都大路を、百官・諸侯の供奉しまつる鹵簿は、沿道厳重な警衛の裡を粛々として南下あらせられ、伏見稲荷旅所にて御休憩、城南宮にて御中食・鳥羽・淀にて御小休、やがて薄暮鳳輦は八幡の下院に着御、尋いで板輿に召されて御登山、豊蔵坊にて供御をきこしめされ、御束帯に改めさせられて、二更(午後十一時)過ぎ庭燎(ていりょう/かがり火)が四方の闇を照らす社前着御、親しく外患を祈祷し給うた。
攘夷節刀授与の計画
此の時三條実美の建言によって、攘夷の節刀(出征命令の印/叛した時此の刀で自刃する)を将軍名代として供奉せる慶喜に授けられる筈で、四更(午前三時)を過ぎた深夜に慶喜を社頭に召されたが、會々(たまたま)慶喜は腹痛の為に山下に臥床して之を拝辞したので、遂に此の事は行われなかったのである。
天明の頃豊蔵坊に還御、十二日辰刻(午前八時)御発駕還幸あり、申下刻(午後五時)禁裏へ還御あらせられたのであった。
親兵の設置
攘夷の実行に当って、禁闕の守護を一層厳重にする為に親兵を設置すべしとは、前年勅使三條實美が幕府に伝宣した所であったが、幕府は婉曲に之を謝絶したのであった。
然るに此の設置は日を遂って益々要望せられた為に、一橋慶喜は更に朝旨の下らぬ前に、之に善処しようとし、二月上書して、京都守護職の支配下に、近畿の大名をして半年交代に勤務せしめ、之を以て親兵に充てようと建議したが、元来親兵の設置は兵権を朝廷に回復するの手段であったから、斯かる方策が容れられる筈はなかった。
二月二十八日長州藩世子毛利定廣は、浦靭負を学習院に遣わして親兵を貢献する事を請願し、尋いで朝議は之を聴許になり、幕府に令して親兵設置を命ぜられた。
幕府は遂に之を奉唱し、十万石以上の諸大名に命じて、万石につき一人の親兵を守衛として京都に出さしめた。
四月三日三條實美を以て京都御守衛御用掛とし、親兵を統率せしめられたのである。
是に於いて實美の威勢は益々、加わり、尊攘派の気勢も一段と揚ったのである。
尋いで朝廷は先日の慶喜の建議を容れさせられ、諸侯の京都交代守衛の制を剏(はじ/創)むべきことを幕府に命ぜられた。
幕府は四月十七日、十万石以上の諸侯をして、三藩一番、各藩三箇月毎に交代して京都の守衛を為すを命じ、尋いで十万石以下の諸侯に対しては、家督相続の際に朝覲せしめ、十年一覲と定めて、諸侯朝覲の礼を確立したのである。
朝権恢復の状は当(まさ)に刮目(かつもく/注視)に値するものがあったのである。
攘夷期日の布告
是より先幕府は攘夷期限を四月中旬と奉答し、更に朝旨によって其の期日を明らかに四月二十三日と確定したのである。
然るに幕府に於いては、将軍上洛の形勢が全く其の意図に反して尊攘派の為に圧倒せられ、殆んど策の施す所がない状態であったから、攘夷実施の意旨なきも、漸く期日が迫るに及び、延期を奏請して一時を糊塗する必要があった。
是を以て四月十八日将軍は慶喜・老中等を率いて参内し、摂海警備巡視の為、暫時の退京を奏請し、また鎖港攘夷の実效を挙げる為に一橋慶喜の東帰を奏請したのであった。
朝廷では孰れも之を聴許あらせられたが、曩に攘夷期日を上奏すべしと命ぜられた。因って二十日慶喜は将軍の名を以て、五月十日を攘夷期日と奉答した。
固より之は一時の方便にすぎなかったもので、之を諸侯に布告するに当っては、彼より襲来せば、之を掃攘すべしと令して、我より進んで戦端を開くを予防せしめたのであった。
生麦賠償の支払い
斯くて将軍家茂は二十一日京都を辞して大坂に向い、翌日慶喜も江戸に向かって出発し、五月八日に着府した。
此の頃生麦事件の賠償問題は、益々紛糾し、日・英の国交は将に危殆に瀕していた。
抑々英国の賠償要求に対しては幕閣の意見は硬軟区々に岐れて、其の態度も確定せず、当初から将軍上洛中を理由として、其の決答の遷延をこれ勗(つと)めていたが、兵威を挟む英国の強硬要求により、将軍目代(大目付)として帰府した徳川慶篤(四月十一日帰府)及び其の頃京都より帰府した老中格小笠原長行等が凝議して、遂に支払と決し、長行は慶喜と黙契の下に事態を修飾して、自ら独断専横の責を負う態に作為し、五月九日横浜に赴いて四十四万弗を支払い、英国と幕府との紛議は一応解決した。
即ち幕府は西に於いては攘夷実行を誓約し奉り、東に於いては賞金を支払うの矛盾撞着の方策に出たのである。
斯かる際に長州藩世子毛利定廣は、攘夷期日が決定せられたので、四月二十一日将軍の大坂に下ったと同日に帰藩の途に就いた。
長州藩攘夷の烽火(のろし)
長州藩士久坂玄瑞・瀧弥太郎・入江九一・山縣小輔及び諸藩尊攘の志士等も、攘夷の先鋒を志して、前後西下して長州に赴き、五月十日下関に於いて先づ米国商船ペムブロークに炮火を浴びせて攘夷の火蓋を切り、尊攘の大旆(おおはた/大将の立てるもの)翳(かざ)す雄藩の面目にかけて、期日を愆(あや)またず外船砲撃の挙に出たのである。
幕府が依然内外の重圧に対して首鼠両端(曖昧な態度)を持し、英国の強圧に屈して、過重不当な償金を支払ったその優柔不断に対しては、時論は自ら区々であったろうが、時局の大勢は幕府をして益々窮地に陷(おとしい)らしめるばかりであった。
之に反して、長州藩の声望は愈々加わり、尊攘の気勢は彌(いや)が上にも昻楊せられて、遂に名を攘夷親征に假って倒幕の端を開こうとし、政局は幾ばくもなく意外の変転を見るに至ったのである。(P493)
第三節 八月十八日の政変
1 将軍の東帰
下関攘夷と朝廷及び幕府
文久三年五月十日、長州藩が朝廷・幕府の布告に基づき攘夷期日を愆(おこた)らず、下関に於いて実行した外船砲撃の挙は、長州藩から言えば勅命を奉公したものであろうが、幕府から見れば、我より釁端(きんたん/戦端)を啓(ひら)くことを禁止した幕府の布告を無視した無謀過激な所業であった。
従って、之に対する朝幕の処置に自ら相違を生じた。
攘夷の褒詞長州藩に下る
即ち朝廷に於いては長州藩の外船砲撃の奏聞に対して、之を嘉賞あらせられ、「期日を誤らず、外船掃攘に及んだ段、叡感斜めならず、彌々以て勉励し、皇国の武威を海外に輝かすべし」との御沙汰を下し給い、更に此の攘夷の戦闘を対岸から拱手観望していた小倉藩を詰問あらせられて、斯かる際には宜しく応援すべきことを命ぜられた。
また列藩に対しても協心戮力攘夷の功を奏して叡慮の貫徹を期すべきことを諭示せられた。
尋いで少将正親町公董(正親町實徳の養子/中山忠能の次男)を攘夷監察使となして長州藩に差遣し、毛利慶親父子に褒詞を賜ったのである。
然るに幕府は猥りに兵端を開いたのを詰問し、爾後は幕府の指揮を俟って行動すべきことを命じ、併せて支族吉川経幹及び家老一人を江戸に召喚した。
長州藩は幕府の詰問が朝廷の御趣旨と齟齬することを反問し、闔国の正気を振起して、叡慮を尊奉するよう措置せんことを求め、経幹は朝命によって上京、藩主に代わって禁闕守護中であり、家老等は攘夷の為に繁忙であるというを理由として、之を拒否したのである。
此の間に米艦及び仏国艦隊の報復来寇の為に、下関に於いて戦闘は屢(しばしば)行われ、彼我兵器優劣の差異は奈何とも為し難く、長州藩は遂に其の三艦を喪い、砲台は破壊せられたが、士気は毫(すこし)も沮喪(そそう/くじける)せず、高杉晋作・木島又兵衛等は士庶を糾合して新たに奇兵隊を編成し、砲台を改修して戦備を整え、また頻りに使者を諸藩に派遣して協力を求めた。
而して下関の対岸なる田ノ浦(豊前)は小倉藩領であるが、長州藩士等は小倉藩が幕令に藉口(しゃこう/口実)して、敢えて長州藩に応援せぬのに憤激し、此の地に砲台を構築しようとして占領するに至った。
七月幕府は使番中根一之丞等を派遣して長州藩を詰問せしむるや、同藩の壮士等は其の乗艦朝陽丸を奪い、尋いで一之丞の帰航を追跡して之を殺した。
幕府長州藩の手切れ
長州藩は既に久しく幕府とは両立し難い関係に在ったのであるが、是に至って攘夷を標榜して幕府に抵抗し、両者の関係は全く手切れの形となったのである。
斯くの如く朝幕の長州藩並びに攘夷に対する措置態度は全く相反し、長州藩は茲に幕府と抗争することとなったので、諸侯の多くは其の帰趨に迷い、密かに長州藩の攘夷に好感を抱くものも、進んで応援を申出るに至らず、徒に左顧右眄(さこうべん/様子を見る)するのみであった。
是に於いて尊攘派は断然非常の挙に出で、天下の人心を糾合して形勢を有利に導こうとし、鋭意画策したのであった。
即ち其の方策は攘夷親征論を実行に移すに在ったのである。
将軍の東帰問題
攘夷親征の実現を企図する尊攘派の堂上・志士等は専ら朝廷及び京都の状態を其の目的遂行に更なるよう導こうと努力した。
之が為には将軍の東帰及び京都に於ける幕府勢力の駆逐は、最も必要とする所であった。
将軍の東帰奏請は既に屡朝議に上り、尊攘・諸侯及び藩士・志士等の間に於いて紛争を惹起した問題であった。
即ち此の事件に就いては、畏れくも天皇を始め奉り、公武合体派の人々は、永く将軍を闕下に留めて公武一和の實を挙げようとし、尊攘派の人々は、初めは将軍の在京に乗じて幕府を窮地に陥れようと図ったが、今や王政復古の機会を捉える為に、将軍を東帰せしめようとし、又幕府有司の一部は、唯将軍を危地から脱出せしめようとして、只管其の東帰を冀ったのであった。
是より先、将軍家茂は摂海警備の巡視を畢って、五月十一日帰洛し、十八日参内して巡視の顛末を上奏した。
一橋慶喜の後見職辞表
偶々翌十九日江戸より生麦賞金の支払を了した報告及び将軍後見職一橋慶喜の辞表が京都に到達して、之が奏聞せられた。
慶喜辞職の趣旨は、幕府の有司のうち一人も攘夷に同意する者なく、到底勅旨を貫徹し難いというのであって、同時に将軍目代徳川慶篤も非才微力、其の任に堪えずとて辞表を捧呈したのであった。
なお慶喜の辞職願は前後三回に及んで提出せられたが、是は攘夷実行の責任を回避する底意が含まれていたのである。
即ち幕府は人心の不一致を口実として此の責任を免れようとし、慶喜は後見職辞任によって更めて攘夷期限御委任の朝裁を得て、徐(おもむろ)に時運の推移を待とうというのであった。
将軍東帰の内許
生麦償金支払の報は京都の上下を驚愕せしめ、其の前後措置を講ぜしめる為に、将軍東帰の事が朝議に上ることとなった。
京都守護職松平容保は将軍東帰して奸吏を罰し、攘夷成功の方略を議せしめんと上奏し、三條實美等は大樹の帰府を許して、攘夷延引事由を糺し、奸吏を罰せしむべしといい、国事参政・国事寄人等は将軍東帰に際し、攘夷の節刀を賜い、且つ容保及び会津藩兵を将軍に付随せしめて東下せしむべしと議した。
蓋し京都に於ける幕府兵力の中枢である会津藩を退けんとの意図であった。
斯くて将軍に対しては五月二十四日賜暇の内旨を賜ったが、京都守護職に対する御倚頼が非常に渥かったので、容保の東帰は実現しなかったのである。
小笠原長行の卒兵上坂
然るに将軍が未だ離京せぬ六月朔日、一橋慶喜から生麦賞金支払に関する弁疎の命を承けた老中格小笠原長行は、井上清直(外国奉行)・水野痴雲(忠徳/函館奉行)・向山(むこうやま)一履(黄村/外国奉行支配組頭)等を率いて、密かに英艦を借り、歩騎兵凡そ千四五百の幕兵を従えて西上し、大坂に上陸し、将(まさ)に卒兵上京しようとした。
長行の行動に関する真意については、確説はないが、或いは兵威を以て尊攘派を抑圧し、攘夷の朝議を一変せしめようとするに在りといい、或いは単に将軍を迎えるが為であるとも言っている。
併し此の時慶喜は別に水戸藩士梅澤孫太郎等をして上京せしめ、書を関白鷹司輔煕に致して、婉曲に攘夷の非なるを説き、己れの辞職の御裁可を促すと共に、江戸の風説書を呈して、其の中に長行が武威を以て朝臣を取締り、攘夷説を破って開国説を立てようと企て、若し其の事が妨碍(害)せられるならば、暴断に出づるであろうという巷説を記して、特に関白に示した事実から推察すれば、長行の卒兵上京には、尊攘派抑圧の意図も含まれたものであると断じ得るのである。
長行の卒兵上京の報は独り朝廷を驚動せしめたのみならず、京都守護職等をも惶惑せしめた。
大坂より上京の途に就いた長行は幕吏の制止を肯んぜず、強いて入京しようとしたが、将軍が直書を以て入京を止めるに及んで、遂に淀に到って留まった。
九日長行は朝廷の厳命により、幕府から職を罷められ、大坂城代に預けられたので、彼の行動は単に一時京津間を動揺せしめたに過ぎなかったのである。
将軍の東帰
将軍の東帰を急いでいた幕府の有司は、長行尋問を名として将軍の大坂下向を奏請し、将軍は六月三日参内して東下の御暇を賜り、速やかに外夷掃攘の功を奏し、武威を海外に輝かすべしとの勅旨を拝し、六月九日退京して大坂に赴いた。
尋いで容保等がなお其の滞京を周旋したが、終に成らず、同十三日将軍は大坂を発し、海路十六日江戸城に帰還した。
将軍は二月江戸発駕以来実に約四ヶ月振りで帰府したのである。然れども当初庶幾した公武合体の策は終に成らず、纔かに切迫せる時局を多少緩和し得たに過ぎなかった。偶々将軍退京の前日、攘夷親征論の巨頭真木泉は大坂より京都に入った。
親征の計画が此の後愈々進捗した事は言を俟(ま)たぬ。(P500)
第二十四回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 五月二十七日(土)
午後一時時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 22 回テーマ 尊皇攘夷 攘夷勅使の東下 山内豊信の周旋
日時:令和5年3月25日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十二回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年三月二十五日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p454‐479を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第四章 尊皇攘夷
第一節 攘夷勅使の東下
山内豊信等の周旋
斯くて幕議は何時決着すべしとも見えず、事態は益々、紛雑し、幕閣の動揺は底止するところが知れぬ有様となった。
此の事態を憂慮した山内豊信は、「今度は過般大原卿の下られし時に同じからず、萬一開国の趣意などを申出られなば、勅使は議論に及ばず其のまま帰京せられ、さて其のまま帰京せらるれば、関西は忽ち大乱に至るべき形勢のよしなり。されば幕府が之を奉承せられざるかたなれば、予め其の覚悟なかるべからず」と進言し、叉所司代牧野備前守忠恭(ただゆき/越後長岡藩)・京都町奉行永井尚志(なおゆき)等は、京都の形勢の険悪なるを憂慮し、「若し幕府が朝旨奉承を躊躇するが如き事あれば、徳川氏滅亡の端緒ともなるべし」と報じて來た。
是に於いて慶喜も其の持説を固持し難いのを悟り、慶永に書を贈って叡慮を奉承すべき意を伝えたが、幾ばくもなく十月二十二日(文久二年)攘夷の實行に就いては何等定見なしとて、辞表を提出した。
一橋慶喜の翻意
斯くて勅使の駕が旬日を出ずして江戸に到らうとしているのに、幕府の中枢たる後見・政事総裁の二重職が辞表を提出するに至ったので、幕閣の動揺は其の極に達した。
豊信等は頻りに周旋に努め、横井小楠(しょうなん)も亦切に慶永の出仕を説いた。二十三日松平容保は、閣老其の他を代表して慶永を訪い、永々登営せられず、人心危機を懐けるに、今また橋公にも引篭られ、内閣は殆んど暗夜の如し、閣老始め大いに当惑し、終に前非を悟り、叡旨を尊奉し、且つ勅使をも舊制に拘らず敬待するに一決せりとて、切に登営を促した。
是に於いて慶永は漸く辞意を翻し、翌日慶喜を訪ねて登営する事を説いた。
慶喜はなお攘夷の實挙ぐるに由なしとて應じなかったが、遂に二十六日勅使の品川に到着する前日、両人は相前後して登営し、勅使待遇を議して、「君臣の分を明かにし、百年の舊套に拘らざる事」に決した。
尋いで十一月二日、幕議は愈(いよいよ)攘夷の勅旨を奉承するに決した。
然るに慶喜は、なおも攘夷の實行を奉承するは、一日の愉安に百年の悔いを胎すものなりとし、十五日再び鮮表を提出して登営しなかった。
慶永以下老中諸有司は交々其の邸に詣(いた)って、百方之を説いて其の翻意を促し、漸(ようや)く勅使の初めて城中に臨む前日、即ち二十六日其の登営を承諾せしめる事を得たのであった。
是より先、勅使着府の際、將軍家茂は偶々、湿疹を患い、勅使に謁するのを辞していたが、是に至って病が癒えたので、勅使を城中に迎えたのであった。
勅旨待遇の改善
十一月二十七日、勅使三條實美・副使姉小路公知は初めて江戸城に臨んだ。從來幕府の勅使を迎えるに方って、其の待遇は君臣の分を紊すものが多かったが、今次は朝旨によって全く改められたのであった。
是日勅使は玄關前第二門外にて下乗する前例に依らず、乗輿の儘玄闘に到れば、將軍家茂は後見識・政事総裁職以下老中を随えて玄関式墓に之を迎え、勅使を先導して大広間に到り、勅使を上段に招じ、己れは後見職を随えて中段に坐を占め、総裁職・老中以下をして其の下段叉は二ノ間に陪席せしめた。
從來己れ先づ上段茵(しとね)の上に座して、勅使大広間に人りて下段に跪拝するに答え、勅使は勅旨を宣達する時のみ膝行(しっこう)して上段に進み、勅旨を述べ畢(おわ)れば、再び膝行下段に就く例を改め、將軍は勅使の会釈によって上段に進み、勅書を拝受し、中段に下って之を拝読し、畏みて御請の儀は追って上申すべしと答え、茲に其の儀礼を畢り、両勅使は初めの如く將軍以下の見送りを受けて退出したのである。
なお從來勅使は退城後一たび傅奏屋敷に帰り、直ちに三家・老中・若年寄を歴訪して謝詞を述べる例であったのが、今は全く之を廃止したのである。
斯くて勅使待遇の事は二百年来の舊慣を破り、君臣の分、主客の礼が正されて、時勢変転の大勢は此所に於いても見られたのである。
幕府の攘夷奉承
是の日勅使が家茂に授けた勅書の中に記された御趣旨を拝するに、攘夷は先年來の叡慮にて今に渝(かわ)らせられぬ。因って幕府は速かに其の籌策(ちゅうさく/方策)を定めて、之を諸大名に布告し、且つ外夷拒絶の期限をも奏聞するようにとあり、叉別に愈々、攘夷の策を天下に布告すれば、何時外寇あるやも測られず、禁闕(きんけつ)の守護を一層厳重にする必要がある。
依って幕府は諸侯に令して強健忠勇の藩士を簡抜せしめ、之を御親兵として京都守護の任に當らしめ、其の武器兵糧は石高に應じて、諸侯に賦課せよとの御沙汰書が下されたのであった。
既に叡慮奉承に内決した幕府は、十二月四日勅使を城中に招じて饗宴を張り、翌五日三たび入城を請うて、家茂躬ら臣家茂と署名した左記の奉答書を捧げた。
奉答書の文にいう。
勅書謹みて拝見仕り候。勅諚の畏れ奉り候。
策略等の儀は、御委任成し下され候條衆議を
尽くし上京の上委細申し上げ奉る可く候 誠
惶謹言
文久二壬戌年十二月五日
臣家茂 華押
即ち攘夷の叡旨を尊奉し、其の籌策に就いては衆議を尽したる上、朝覲、委曲を闕下に伏奏すべしと奉答したのである。
親兵設置に就いては、さすがに幕府の立場を没却するものであるので、京都の守衛は、征夷の重任に在る家茂の職掌であれば、堅く其の任を尽すべし。是亦明春早々上洛して、其の方略等を具さに奏聞に及ぶべしとて、力めて婉曲に謝絶し奉ったのであった。
島津久光を京都守護職と為す朝議
是より先、攘夷勅使東下の事が決するや、関白近衛忠煕等を中心とする公武合体派の公卿は、島津久光を再び上京せしめて、尊攘派の氣勢を抑えんと計った。
十月朔日忠煕は勅裁を仰いで、久光に速かに上洛すべきを命じ、尊融法親王・正親町三候實愛・中山忠能等も亦前後書を久光に致して之を促した。
時に朝廷に於いては、松平容保の京都守護職就職に就いて、不安を感ぜられていたので、忠煕等は久光を容保と同じく京都守護職に任命すべしとの議を建て、十一月十二日此の朝命が傅奏坊城俊克・野宮定功から幕府に伝えられるに至った。
幕府は既に朝命を奉じて、故薩州藩主島津齊彬の国事周旋の功を賞して、権中納言從三位を追贈したが、久光を京都守護職とすることに就いては、容保を始め、幕府有司、尾州・長州等内外に反対があった。
然るに松平慶永は公武合体政策の上から之に賛意を表し、周旋するところがあり、幕府は十二月十七日、慶永以下老中連署して書を傅奏に呈し、久光の任命に就いて異存なき旨を上奏したが、諸般の情勢によって、事は遂に實現しなかったのである。
勅使三條實美・姉小路公知は、將軍の攘夷奉承の請書を受領したので、十二月七日江戸を発し帰洛の途に就き、二十三日入京、尋いで参内して復奏するところがあった。山内豊範・毛利定廣等も亦勅使に前後して入京したのである。
府下に於ける尊攘の烽火
幕府は'十二月十三日諸侯に総出仕を命じ、攘夷の勅書を示して、之に対する所見を徴した。
而して勅使滞府中の前後江戸に於いても攘夷の氣勢が大いに揚り、或は志士の間に老中板倉勝静襲撃の計画があるとの風説が行われ、或は国學者塙次郎は廃帝の事蹟を調査したとの理由で暗殺せられ、又長州藩士久坂玄瑞・高杉晋作・品川彌二郎等は横濱に外国人を襲うて、直接攘夷の挙に出ようとし、土州藩士の内報によって、毛利定廣自ら蒲田梅屋敷に出馬して之を制したが、之が爲に長・土両藩士間に一時紛擾を醸すに至った。
又十二月十二日玄瑞・晋作は同志大和彌八郎・伊藤俊輔・志道聞多等十人と共に、品川御殿山に建築中の英国公使館を焼いた。
斯く將軍の御膝元が騒擾すると共に、常野(常陸・上野)地方も亦物情穏かならぬものがあった。
斯くて文久二年は長州藩の公武周旋に次ぐに薩州藩島津久光の卒兵上洛となり、更に勅使大原重徳の東下となって、幕閣の改造、幕政の改革は当に刮目に値するものがあり、安政戊午以降の幕府の枇政は、殆んど此の際に覆えされ、尊王憂国の志士等の胸裡に多年欝積して来た憤怒は、一時に雲散霧消した観があった。
而も国家の前途は益々、多事にして、人心の趨向は帰一するところがない。
而して勢の赴くところ、風は雲を呼び、雲は嵐を孕んで、尊攘の気勢は靡然として朝野を席捲し、凄惨たる天誅の腥風(しょうふう)が京洛の地に吹き飛べば、別勅使三條實美等は長・土二藩の護衛の下に、江戸城に臨んで、遂に幕府をして其の最も難題とした攘夷決行を誓約せしめたのであった。
知らず、幕府は果して之に対して成算があったか。幕閣の陣容新に成ったとは言え、閣内が動もすれば統一を欠き、纔かに唯一の活路を將軍が上洛して陳奏するに求めていた。幕府の前途は愈々、困難になったと云うべきである。
而して維新史上最も意義深き一大転換を画した文久二年は、斯かる波欄重畳の中に暮れたのであった。
第二節 尊攘運動の極勢
政局の中心京都に移る
文久二年秋頃から政局転機の枢軸となったのは、尊皇攘夷の大義であり、王政復古への翹望(ぎょうぼう/期待)であった。
時代の大勢を動かした推進力は、朝権の伸長を祈念する少壮気鋭の朝臣であり、この貫徹を期した熱烈な志士の活躍であった。尊攘運動は、幕末史上その極盛期を現出するに至った。
この期において注目すべきは政局の中心が京都に移ったことである。
諸大名の入洛
幕府の諸侯に対する入洛の禁は既に文久二年島津久光の卒兵入京によって破られ、幕府はこれに対して何等制裁を加えることはできず、これについで長州藩主父子及び土佐藩主の入洛に対して国事に周旋するに及んで、この禁は全く空文と化し、先に朝旨を蒙った諸侯は命を畏みて今や続々京都に集った。
諸藩主朝覲
文久二年十月、 筑前藩主黒田齊溥(なりひろ)・因州藩主池田慶徳が朝命を拝して国事周旋に当ったのを始め、同月久留米藩主有馬中務大輔慶頼、十一月には藝州藩浅野安藝守茂長・岡藩主中川修理大夫久昭・津藩主藤堂高猷(たかゆき)・前佐賀藩主鍋島齊正・阿州藩世子蜂須賀淡路守茂韶(しげつぐ)、十二月には、熊本藩主細川越中守慶順の弟長岡良之助・因州藩支藩主池田伊勢守仲立(なかたつ)・宇和島藩主伊達宗城・備前藩支藩主池田信濃守政詮(まさのり)・大洲藩主加藤出羽守泰祉(やすとみ)が孰れも入洛した。
このように、諸藩主が幕府の忌憚を憚らず、朝覲して、直接国事周旋・闕下経営の朝命を拝するに至った。
国事御用掛の任命
朝廷は幕府がすでに攘夷の叡慮を奉承し、攘夷の方針が一決したので、諸大名の意見を聞召され、かつ、これを朝臣に下して討議せしめ、以て聖断を下し給わんとの思召し(文久二年十二月九日)、新たに国事御用掛を設け、有為の朝臣を以てこれ補(任命)された。
即ち、尊融法親王・関白近衛忠煕・左大臣一条忠香・右大臣二条齊敬・前右大臣鷹司輔煕・内大臣徳大寺公純(きんいと)・議奏中山忠能・正親町三條実愛・三條実美を始めとし、伝奏坊城俊克及び権中納言三條西季知・参議橋本実麗・左衛門督(さえもんのかみ)大原重徳・右衛門督柳原光愛・左近衛権少将東久世通禧(みちとみ)等二十九人がこれに任命され、後、右近衛権少将姉小路公知が加えられた。
御用掛の会議所は禁中の小御所をこれに充て、毎月十箇日の執務と定められた。
これと同時に言路洞開の聖旨を廷臣に伝え、国事に関して所見ある者は御用掛に上申すべきことを命ぜられた。
従来朝臣の官名はその実を失って朝政の枢機に与る者は、関白及び議奏・伝奏のみであったが、安政の末頃から外交その他の重大に関しては、大臣・納言等にしばしば勅問を下されるに至った。
然るに今や門閥・官位を問わず、志操堅固な人材を抜擢せられて、国事御用掛に列し、一般に対しても言路が開かれたのである。
国事御用掛の性格
旧例古格を尚び伝統を重んずる事は独り幕府のみでなく、むしろ朝廷に於いていっそう甚だしいものがあったようである。さればこの改革は朝廷が新しき時局に善処せられようとして、行われた一大英断と言うべく、また廷臣の間に溌剌たる意気が躍動している状が想見せられるのである。
斯かる朝廷内外の情勢に動かされて、関白・大臣の重職にある門閥の守旧の人々の懐抱する緩和論又は公武合体論を、因循又は佐幕としてこれを排撃し、朝議の実験握るに至った者は、実に少壮気鋭の廷臣であって、その意見は急進論又は幕府排撃論であった。
これら急進派の中心人物として廷臣間の與望を担い、尊攘志士から最も嘱目せられた者は先に攘夷勅使を命ぜられて東下三條実美・姉小路公知の二人であり、その勢威は遂に国事御用掛の議を左右するに至ったのである。
一橋慶喜の上京
京都に於いて尊攘派の廷臣・諸侯・志士等の勢いが朝廷を圧せんとする際に、将軍後見職一橋慶喜は将軍の上洛に先立ってしばしば上京することとなった。
初め、慶喜は大兵を率いてまず大坂に至り、しばらくその地に駐まる予定であったが、政事総裁職松平慶永の議を容れて薩州藩と結んで公武合体派の頽勢を挽回し、以て尊攘派の勢力に当るに決し、予定を変更して文久二年十二月十五日、江戸を発し、文久三年正月五日京都に入り、東本願寺に館した。
この時、水戸藩家老武田耕雲斎は随従の幕命を受け、梅澤孫太郎等と共に慶喜の後を追って西上した。
松平容保・山内豊信・松平慶永等の入京
また、京都守護職松平容保は、慶喜に先立ち、すでに文久二年十二月二十四日着任して黒谷金戒(こんかい)光明寺に館した。ついで、老中格小笠原図書頭長行は、正月十三日入京し、前土州藩主山内豊信は海路西上して同二十五日入京し、東山の知積院(ちしゃくいん)に館した。
また政事総裁職松平慶永も海路を二月四日京都に登り、堀川の藩邸に入った。
その他、前尾州藩主徳川慶勝正月八日、同藩主茂徳は同二十五日、熊本藩主細川慶順(よしゆき)は同十七日、久保田藩主佐竹右京大夫義堯(よしたか)は同二十七日、各々入京し、その他入京する諸侯が踵を接した。
毛利慶親の帰藩
時に長州藩主毛利慶親父子は孰れも在京していたが、慶親は攘夷実行の期が近かるべきを予想し、藩地に於ける海防の方略を定め、且つこれを指揮するがために、父子の帰藩を奏請した。朝廷では慶親のみ帰藩を許されて、世子定廣にはなお滞京を命ぜられた。
正月十七日慶親は召しによって参内し、皇国のために丹誠を抽んで周旋の功績少なからずとの優詔を拝し、特に参議昇任の恩命を下された。慶親は幕府を経由せずして直ちにこの恩命を拝するを辞退申し上げたが、拝受の後これを一橋慶喜に通報すれば、可なりとの朝旨が下って辞退は許されなかったのである。
禁中条目の破壊
斯く毛利氏がその家格に拘わらず、参議に栄進した事、並びに幕府の推任に由らず、直接朝廷から拝命した事は、明らかに禁中並公家諸法度の蹂躙であって、幕府の諸法は前年来益々敗れ去ったのである。
慶親は正月二十二日京都を発し、摂海沿岸の警備地を巡視して西下し、途次岩国を過り、支族吉川経幹と会して爾後私には支藩同様の礼を以て遇することを約し、領内の一致戮力に資するところがあった。
世子定廣はその後旅館を妙満寺から天龍寺に移して、広く尊攘志士をその傘下に集め、王事に尽瘁する所があった。
斯くて文久三年の初頭、将軍の上洛に先立ち、幕閣の首脳は固より諸雄藩の藩主等は概ね京都に集り、政局の中心は全く此所に移ったのである。
尊攘派の矯激
京攝間の情勢を見るに、尊攘志士等の過激なる行動は、前年以来未だ止まず、所謂天誅は所在に行われ、公武合体派に対する威嚇行動は、一層甚だしきを加えて、終にこの派の団結活動を制圧し、尊攘派独り勢威を振い、その言動は益々過激に流れるに至った。
天誅と威嚇
正月二十二日の夜、儒者池内大学を殺して大坂難波橋畔に梟首し、二十四日書を青蓮院宮及び近衛前関白・鷹司関白の邸に投じてその態度の軟弱なるを責め、また大学の耳朶を添えて脅迫状を議奏中山忠能・正親町三條実愛の邸に投じて、三日を限ってその辞職を迫った。
忠能・実愛はこれがために病と称して二十七日終に職を辞するに至った。
翌二十八日、千種(ちぐさ)家の家士賀川肇を襲殺し、越えて二月朔日その首級を白木の三宝に載せて、一橋慶喜の宿所東本願寺門前に置き、攘夷の血祭りとしてこれを献ずと記し、またその両腕を千種・岩倉両家に投じて更に脅威する所があった。
尋いで千種家(ちぐさけ)に出入りしていた洛南唐橋村の農惣助を斬り、その首級を山内豊信の宿所門前に置き、速やかに攘夷の期限を決し、人身の帰向を定め、醜夷退治の策を施され度くの所願い、この首血祭りの験(しるし)、轅門(えんもん/陣屋)に備え奉るとの榜(たてふだ)を建てた者があった。
豊信はこれを見て「今朝僕が門下へ、首一つ献じこれ有り候。酒の肴にもならず、無益の殺生憐れむ可く々々」と慶永に贈った書状に記したのであった。
激徒取締策
これ等の威嚇行動は、朝臣等の進退を左右し、親王・関白以下の言動を控制するに至り、ひいては京都の秩序も維持し難い状態であったので、朝廷及び幕府の要路はその取締りに苦心した。
こに於いて二月朔日、朝廷は在京十六藩の重職を学習院に召され、頃日無名の投書を為す者が多いが、其の志は兎も角、かかる行為は人心騒擾の基であるから、何人の所為なるか調査すべしと命ぜられた。
また京都守護職の任にある松平容保は、輦轂下の秩序がかくも紊乱するは、言路が壅蔽(ようへい)して、下情が上達しない事によると為し、入京以来努めて諸藩士・浪士と会して意思の疎通を計っていた。
その後、慶喜・慶永等がこれら激徒を逮捕せんと議したが、容保はこれに反対してかくの如きは畢竟戊午大獄の失敗を繰り返すものであると論じ、終にこの議は行われなかった。
かくて漸く二月十一日から夜中巡邏(じゅんら)の制を設けて、都下の警戒に任ずることとなり、尋いで二十一日、朝廷では更めて言路洞開の聖旨を宣達せられ、仮令草莽微賎の者の言であっても叡聞に達するから、各々学習院に出でて建言すべしと令せられた。容保も亦洛中洛外に令し、
「近来輦轂(れんこく)の下、私に殺害等の儀これ有り。畢竟言路壅蔽(ようへい)、諸有司不行届の致す所と深く恐れ入り次第に付き、上下の情意貫通致し、皇国の御為め、御不為に係り候儀は勿論、内外大小事と無く、善悪共隠匿いたし候事共、聊か憚り無く筋々へ早々申し出らる可く候」
と、朝旨の奉載に努めたのである。
足利将軍木像の梟首
然るに志士等の行動は容易に止むべくもなく、二月二十二日の夜、浪士三輪田鋼一郎(元伊予松山藩)・師岡(もろおか)節斎(江戸の人)・千石佐多雄(元因州支藩士)・長尾郁三郎(京都の商人)等は、洛西等持院に闖入して、足利尊氏・同義詮(よしのり)・同義満三代の将軍木像の首を引き抜いて、之を加茂河原に臬(さら)し、其の罪状を榜示して、方今名分を正す時に方って、鎌倉以来の逆臣を吟味し、先づ巨魁である此の三賊の醜像に天誅を加えると記し、別に三條橋畔の制札場に、足利将軍十五代の罪悪を責める一文を貼り、其の末文に
今世に至り、此の奸賊に猶超過し候者あり、其の党許(巨)大にして、其の罪悪足利等の右に出づ、若し夫れ等の輩直に舊悪を悔い、忠節を抽きて、鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を補佐奉り、古昔に復し、積罪を購(あがな)うの所置なくんば、満天下の有志追々大挙して罪科を糺す可きもの也。
と掲示したのである。
前年来志士等の手によって行われた天誅は、初め幕府の走狗となって、志士・浪士等の怨恨を買った者が専ら其の犠牲となっていたに過ぎなかったが、既に本年に入り回を重ねる毎に、其の政治的意図が益々明瞭となって来た。
今や将軍の上洛を前にして行われた足利将軍木像の梟首事件は、其の貼紙にある如く、明らかに足利氏に仮託して倒幕の意を寓したもので、将軍家茂以下幕府の当路及び之を支持する者を脅嚇したものであった。
慶喜・慶永・容保等は、幕府の権威保持上仮借すべきではないとし、犯行者の探索を厳にし、数日間に鋼一郎等九人を逮捕した。
従来の犯行者が殆ど検挙せられなかったのに、斯く迅速に捕え得たのは、会津藩士大場恭平なる者が詐(いつわ)って此の與中(仲間)に加わっていたが為という。
幕府は、鋼一郎等を朝廷の官位を冒瀆し、天朝を蔑如するものとして、之を厳科に処せんとした。
然るに尊攘志士間に、彼等は誠忠の士なり、罰するべからずとの議が起こり、長州藩士入江九一・山縣小輔、土州藩士吉村寅太郎は学習院に詣(まい)り、書を上って其の赦免を請願した。
是が為に朝議を動かし、武家伝奏から釈放すべしとの旨が政事総裁職松平慶永に伝えられた。
慶永並びに容保等は之を聴かず、会津藩士廣澤富次郎・秋月悌次郎等多数の藩士は、学習院に出でて之に抗議したので、赦免の事は行われなかったが、なお之が為に鋼一郎等は寛典に処せられ、諸藩へ御預となったのである。
当時尊攘派の勢が如何に朝廷内に瀰漫(びまん)し、草莽志士の言動が朝野を動かしたかが想見せられるのである。
浪士組及び其の西上
此の時に方って浪士の処分は、幕府が最も苦心した所であった。
浪士らの跋扈は独り京都のみならず、江戸に於いても諸方から麇集(きんしゅう/寄り集まる)していたので、幕府は京都の轍を踏むことを慮り、文久二年十二月浪士等を懐柔統制する議が起こり、講武所剣術教授方松平忠敏に浪士取扱いを命じ、講武所剣術世話心得山岡鐵太郎・小普請支配鵜殿鳩翁等に浪士取締役を命じ、府下の浪士を募集し、浪士組を組織した。
文久三年二月幕府は将軍上洛に際し、此の浪士組を以て京都の志士・浪士等を牽制せしめようとし、将軍の列外警衛として西上せしめた。
取締役鵜殿鳩翁に率いられた浪士組一隊は、二十三日京都に入り、洛西壬生村に屯集し、壬生浪人の称が茲(ここ)に起こった。
然るに同隊壮士の牛耳を執っていた清川八郎等は、上京を機会に尊攘の志望を貫徹しようとして、同志の隊士百余人を糾合して書を学習院に上り、闕下守護・尊攘遂行の志願を陳述し、幕府の企図する所と齟齬する行動に出た。
之に加えその言動が漸く粗暴となり、他の尊攘志士と気脈を通ずる形跡が生じたので、対の其の大部分を東帰せしめることとなり、三月十三日鳩翁は、八郎以下二百余名を率いて江戸に向かった。
然るに隊士近藤勇・芹澤鴨・土方歳三等二十余人は、八郎等と意見を異にしたので、依然滞京し、京都守護職の麾下(きか)に属した。
後日勇等が浪士組を糾合した一隊は新撰組と称せられ、京洛の巷を横行して暴威を振るい、幾多勤皇志士を犠牲に供したのであった。
因に江戸に帰った浪士組の中、清川八郎は刺客の為に斃れ、後隊名を新徴組と改め、庄内藩の手に属して幕府の瓦解期に及んだのである。
斯くて幕府の浪人を以て浪人を制しようとする策も、一時失敗に帰し、尊攘志士等の気勢を殺いで、之を制圧するが如きは、容易に行われそうもなかったのである。
尊攘派の実権掌握
幕府當路の対京対策
将軍家茂を京都に迎えるに先立ち将軍後見職一橋慶喜・政事総裁職松平慶永・京都守護職松平容保等が将軍の為に画策した対京都策は何であったか。
其の一は、公武合体派を糾合して、その頽勢を挽回し、尊攘派の牙営を覆(くつがえ)そうというのである。
其の二は、政令一途に出ずる舊態に戻そうというのである。
到底実行し得られぬ攘夷問題の如きは、此れ等の工作の行われた後に於いて徐に処理するも、未だ遅しとしないと考えたのである。
而して公武合体派の勢力挽回策は、松平慶永が横井小楠の建策を容れて、幕閣に於いて主唱し、慶喜らの同意を得たもので、薩州藩を起こし、島津久光に上洛を求め、公武合体派の朝臣を頼り、長州藩を始め尊譲志士を京都から遠ざけて、三條実美等を始め少壮堂上の後援を絶とうというのである。
山内豊信・伊達宗城等も略之に近い意見を有っていた。
小楠及び薩州藩士岩下佐次右衛門・吉井中助(後幸助)・高橋猪太郎・藤井良節らの間には種々計画が議せられていたのである。
次に政令帰一の議は在京中の慶喜・慶永・容保・豊信等が京都の形勢に鑑み、将軍上洛に備えて公武合体の途を開くが為に其の実現に苦慮した所であった。
以上二重大案件の成否は、実に幕府が此の難局を打開し得るか否かの岐(わか)れる所であった。
公武合体派公卿の失意
然るに幕府當路が倚頼(いらい)しようとした青蓮院宮・関白近衛忠煕・前右大臣鷹司輔煕等の公武合体派は、当時既に廷中の大勢を如何ともする能わず、正月十二日少壮堂上の進出に慊(あきた)らず思った輔煕は国事御用掛の辞職を奏請し、相踵(つ)いで青蓮院宮・左大臣一条忠香(だだか)・右大臣二條齊敬(なりたか)・内大臣徳大寺公純(きんいと)・権大納言近衛忠房・一條実良(さねよし)も国事御用掛を辞せんことを願い出たのであったが、孰れも聴許あせられなかったのである。
尋いで薩州藩が後援と頼んでいた関白近衛忠煕は、その辞職を聴(ゆる)されて、鷹司輔煕が之に代わった。
天皇は特に忠煕に内覧故(もと)の如しとの宣旨を賜った。
尋いで議奏中山忠能・正親町三條実愛も既述の如く職を辞したので、公武合体派の勢力は全く不振となった。
従って幕府當路の計画した二策は、朝廷内に有力な後援を得るに由なく、容易に実現せられなかったのである。
尊攘志士の翠紅館会合
然るに一方、意気衝天の慨(いきどお)りある尊攘派の諸藩有志は、文久三年正月二十七日東山翠紅館に会した。
会する者は孰れも諸藩尊攘派の錚々(そうそう)たる士で、長州藩士久坂玄瑞・寺島忠三郎・中村九郎・佐々木男也・松島剛蔵・土州藩士武市瑞山・平井収二郎・熊本藩士宮部鼎蔵・河上彦齊・津和野藩士福羽文三郎・水戸藩士梶清次右衛門(かじ・せいじうえもん/水戸藩馬廻役・慶喜に随従し上京)・下野隼次郎・住谷七之允(しちのじょう)・対州藩士多田荘蔵等数十人であって、長州藩世子毛利定廣も亦席に臨んだ。
是等の人々は互いに胸襟を披(ひら)いて時事を論じ、将軍上洛に対する方策を議し、大いに気勢を揚げたのである。
然るに其の後幾ばくもなく、土州藩の平井収次郎等は豊信の怒りに触れて藩地に送還せられ、瑞山等を始め尊攘派の藩士は、悉くその行動を拘束せられたので、尊攘派間に於ける同藩の声望は頓に落ち、独り長州藩がその牛耳を執るに至ったのである。
攘夷期限決定の要請
尊攘派は既に入洛した幕府の當路に迫って、将軍の上洛前に攘夷期限を決定せしめようと企図した。
長州藩士久坂玄瑞・寺島忠三郎・熊本藩士轟武兵衛等は既に早く正月十一日慶喜の宿所に至って、攘夷期限決定の急務なるを論じた。
尋いで二月八日、権大納言正親町(三條)實徳・権中納言三條西季知(すえとも)・参議橋本實麗(さねあきら)・右近衛(うこのえ)権少将姉小路公知(きんとも)・侍従四條隆謌(たかうた)・右馬頭(みぎうまのかみ)錦小路頼徳・主水正(もんどのしょう)澤宣嘉(のぶよし)等尊攘派の堂上十余人は連署して書を中川宮(初め青蓮院宮、正月二十九日還俗の内勅を賜い、尋いで中川宮の称を賜った)・鷹司関白・近衛前関白及び議奏・傅奏に呈し、将軍が近く上洛せんとするを以て、速やかに庶政を刷新し、攘夷の国策を決定すべきを諭されんことを建議した。
鷹司関白は乃ち旨を慶喜に伝えたので、翌二月九日慶喜は慶永・容保・豊信等と会して、攘夷期限について協議し、将軍が入覲を終わって、江戸に帰着後、速やかに攘夷の談判を開始すべしと関白に答申した。
然るに朝廷に於いては、斯かる漠然たる答申で満足あらせられる筈はなく、十日関白は朝議により、将軍は未だ上洛せずとも、後見・総裁両職が在京しているのであるから、速やかに意見のある所を内奏すべしとの御沙汰を下されたのであった。
十一日、此の情勢を聞き知った久坂玄瑞・寺島忠三郎・轟武兵衛の三人は、関白邸に詣(まい)り、攘夷期限の決定、言路洞開及び人材登用の三事を請い、且つ関白に告げて、同志の者三百余名あり、若し此の意見の採納なきに於いては、何時騒擾に及ぶやも測られずと暗に脅威したのであった。
また之と呼応して、曩に攘夷期限決定を要請した正親町(三條)實徳等十余人も関白邸に到り、直ちに参内伏奏するよう迫った。
関白は容易に肯んじなかったが、此の強要にたまりかねて、終に参内し、尋いで朝議か行われ、議奏三條實美・傅奏野宮定功等は勅旨を奉じて慶喜の宿所に臨み、速やかに攘夷の期日を決定すべきを命じた。
攘夷期限の決定
慶喜・慶永・容保・豊信等は急遽参内して、鳩首之が対策を疑義して夜を徹し、遂に将軍滞京の期間を十日と予定し、将軍帰府の後二十日を期して攘夷を實行すべしと奉答するに決し、之を勅使三條実美に告げ、勅使の退出したのは翌二月十二日の暁天(早朝)であった。
尋いで二月十四日慶喜等は関白邸に赴き、攘夷期日を推算して四月中旬と定める旨を上申した。
国事参政・国事寄人の任命
斯くて幕府當路は漸(ようや)く攘夷期日を奉答し、之が一応解決せられたので、人材精選の事が行われる事となった。
即ち朝廷では、二月十三日、国事御用掛の外に国事参政・国事寄人の二職を置かれ、参政には橋本實麗・大蔵卿豊岡隋資(あやすけ)・左近衛権少将東久世通禧(みちとみ)・姉小路公知の四人が、寄人には正親町實徳・三條西季知・修理権大夫(だいぶ)壬生基修(もとなが)・侍従中山忠光・四條隆謌・錦小路頼徳・澤宣嘉等十人が任命させられた。
是等は孰れも少壮気鋭の人物で、概ね去る二月十一日関白邸に群集した人々である。 (p479)
第二十三回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 四月二十二日(土)
午後一時時から三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 21 回テーマ 尊皇攘夷 攘夷勅使の東下 京都における尊攘論の高潮
日時: 令和5年2月25日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十一回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年二月二十五日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p433‐p454を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第四章 尊皇攘夷
第一節 攘夷勅使の東下
一 京都に於ける尊攘論の高潮
尊攘論と倒幕論の結合
江戸時代二百余年の昇平を齋した原因は種々あるべきも、幕府が厳重な鎖国政策を採り、外部との接触を遮断した事は、其の主因の一と見るべきである。併しやがて、北邊・南海に外警を伝えるに及んで、之が対策は上下の重大関心事となって、開鎖和戦の議論が喧囂(けんごう)を極め、幕府の措置が因循姑息に流れて、輿論の紛糾を招いたことは既述の如くである。
初め攘夷論は水戸藩を中心として唱道せられ、之と皇室の尊崇、滅私奉公の精神とが結び付けられて、尊王攘夷論を構成し、之が時代を動かす一大勢力となった。
而して嘉永・安政年間に於ける水戸藩其の他の諸藩及び草莽志士の尊攘運動は、専ら幕府を鞭撻(べんたつ/激励)し、廃頽せる土気を振興して、外侮を禦ぎ、国体を擁護しようとするにあった。
時代が梢々、下って其の運動は、幕閣の改造、幕政の匡正から進んで、幕府との大衝突を惹起し、幕府の大弾圧に対する反動は、遂に幕府の執政を襲撃するに至ったが、未だ倒幕の氣運には立ち至らなかった。
然るに文久年間に及んで、尊攘志士の多数は王政の復古を志して、倒幕を計り、其の気勢が大いに昂揚するに至った。
而して夙く尊攘志士間の理想であり、恰も其の標語であった「尊王・攘夷」の語は、今や曩日(のうじつ/以前)の尊王攘夷論とは同じ言葉であっても、之に含蓄せられる内容は、漸次に相違するを見るに至ったのである。
孝明天皇の叡慮
畏くも孝明天皇の叡慮は、公武合体に在わして、終始渝(か)わらせなかったが、外交に就いては深く国体の擁護と萬民の上とを思召され、夙に攘夷の叡慮を示させられて、幕府の因循を戒め、士庶の発憤を促し給うた。
即ち之が爲には、常に三公(関白・傅奏・議奏)以下朝臣を御督励になり、將軍を始め幕府の要路に対しては、絶えず大事を怠らぬよう御鞭撻になったのである。
斯くて幕府の立場は益々、窮境に陥り、攘夷を實行する事の不可能なるは言はずもがな、外国側からの要求圧迫に対して、固より事端を開くことを避けねばならず、上は朝廷からの御督促を受け、下は尊攘気勢に圧せられ、徒らに内外の重圧に畏縮し、纔かに當面を彌縫するのみで、愈々、天下の信望を失うに至ったのであった。
是に於いて尊攘志士が、幕府の失政を責めるに方って、攘夷の實行を迫るは、また當然の手段であり、朝廷の御思召が攘夷で在わすことは、彼等にとって百萬の声援に等しいものであった。
斯くて尊王倒幕論は攘夷運動と緊密に結合し、攘夷論が倒幕運動に利用されて來たとも言ひ得る事となった。
以上述ぶるが如き趨勢は、文久二年五月島津久光が勅使大原重徳を護衛して江戸に下り、また其の前後長州藩主毛利慶親父子が入京した頃から、俄然京都を中心として顯著となった。
而して斯く尊攘論が頓に勢力を得て、其の運動が熾烈となった事は、主として少壮有爲の朝臣間に溌剌たる朝権恢復熱の昂まったことと、伏見寺田屋で其の出鼻を挫かれた尊攘志士の間に、再び鬱勃たる気勢が燃え上ったことに困り、また長州藩の藩論が、公武合体派の周旋から攘夷即実行論に進み、更に土州藩が国事周旋に乗出して来たこと等に因るのである。長・土二藩の事を叙するに先だち、京都に於いて攘夷氣勢が昂まった事に就いて先づ語るであらう。
四奸二賓の排斥運動
尊穣論の旺盛に件って、微温的なる公武合体論が排撃せられる氣運となるのは當然の勢であった。
即ち曩に和宮の御降嫁に際し、朝幕の間に立って周旋した岩倉具視・千種有文の二人は、佐幕の臣と罵られ、君側の奸と目せられ、之に久我建通・富小路敬直の二人及び今城重子・堀川紀子の二女官を加えて、四好二賓と称し、一部の朝臣及び在京の志士から排斥を受けるに至った。
よって文久二年七月、具視・有文・敬直は近習を辞し、重子・紀子は宮中より退出せしめられたが、八月具視等三人は更に辞官落飾
を命ぜられた。
同じく八月、権大納言廣幡忠礼・右近衛権少将三條実美・侍従姉小路公知・修理権大夫壬生基修等十三人は連署して、建通弾劾の書を関白近衛忠煕に呈し、建通は罷められて蟄居落飾を命ぜられたのであった。
尋いで永く幕府を支持して来たと見られた前関白九條尚忠は、落飾重慎に処せられ、九月嚢に戊午大獄に連坐した青蓮院門主尊融法親王は、勅旨によって大政の輔翼を命ぜられたのである。
また此の頃尊攘の志士は、建通・具視・敬直等の邸に、威嚇の文書を投じたので、遂に朝命を以て尚忠・建通・具視及び重子・紀子に対して洛中の居住を禁ぜられるに至った。
天誅
茲に洛中洛外に於いては、所謂天訣と称して嘗て戊午大獄其の他幕府の為に活躍し、尊攘志士等に怨を買った者は、暗殺の危険に遭遇するに至った。
既に早く七月二十日の夜、九條家家士島田左近は、薩州藩士田中新兵衛等の為に殺されて、四條河原に梟首せられた。
傍示の罪案にいう、「此嶋田左兵衛権大尉事、逆賊長野主膳と同腹致し謂わず曲相巧み、天地入れべからざる大奸賊也、之に従り誅戮を加え梟首せしめべく也」と。
之が京都に於ける暗殺の手始であった。爾後天誅は積出して、京洛の地は暫く腥風(しょうふう)の吹き荒び、人心恟々たる巷と化したのであった。
尋いで関八月処士本間精一郎は同志の爲に殺され、九條家家士宇郷重国は、松原河原に鳥首された。翌九月元土州藩土清岡治之助・岡田以藏等は、幕府の目明し文吉を絞殺して、屍を三條河原に曝し、同月また京都町奉行与力渡邊金三郎等四人は、激徒の爲に殺されて粟田口に鳥首せられた。
十月に入り、萬里小路家家士小西直記も襲殺せられ、十一月長野主膳の妾村山可壽恵は、二條河原に生曝となり、また主膳の股肱であった多田帯刀も栗田口に梟首せられた。
以上天誅を加えられた者は、概ね曩に幕府を佐けて、朝臣及び志士を迫害したものであって、畢竟戊午大獄の反動とも言うべきである。
然るに是等の世態に乗じて、近畿各地方に幕府の吏員・両替店・米穀商・貿易商を脅迫し、或は名を勤王に假って富商を劫掠する者が多くなった。
土州藩士千屋菊次郎・長州藩士福原乙之進等は、斯くては忠奸殆んど辮じ難いのに憤慨し、相議して傍(たてふだ)を三條橋畔に建てて、民衆が正邪を甄別(けんべつ/見分ける)して斯かる偽勤王の草賊を剪滅する事を翼望する旨を表示したのである。
而して斯かる尊攘の氣勢は、獨り京都地方のみならず、水戸・尾州・岡其の他西国諸藩にも影響し、諸藩の要路にして佐幕主義の藩士は屏(しりぞ)けられて勤王の士と更迭するに至った。
特に彦根藩に於いては、前藩主井伊直弼の謀臣長野主膳(八月)・側用人宇津木六之丞(十月)を斬り、家老木俣清左衛門・庵原助右衛門を蟄居せしめ、岡本半助(尊攘派)を任用したので、同藩の藩論は漸次尊攘に傾くに至ったのである。
島津久光京都を去る
関八月島津久光は勅使大原重徳を輔佐して、公武合体策の実現に成功して帰洛したが、京都の情勢が激変して、大勢は嚢に己れが周旋した所と背馳し、且つ其の政見と和容れないものがあるのに憤慨した。
之れに加え、其の東下の間に、朝廷より諸雄藩に対して内旨を伝え、各々、上洛して国事に周旋すべきを命ぜられた事に就いても、久光は心中平かならざるものがあった。
斯くて久光は帰洛早々、書を議奏・傅奏に呈し、今や勅使関東に下向し、幕府は漸く勅命を奉じた際であるから、朝廷に於いては確乎不動の朝議を立てさせられ、匹夫の激論を採用せられずして、須らく幕府の爲すところを静観在らせらるべきである。
叉諸藩をして朝覲して国事に周旋せしめられる事は、薩・長・土三藩のみに限られて、他は暫く猶豫せしめ、以て幕府が疑惑を挟むを避けさせられる事を建議した。
尋いで久光は更に近衛関白に書を呈し、十二箇條の時事意見を陳べて、前意を重ね、なお青蓮院門主尊融法親王の蓄髪還俗を請願し、また対外意見を披露して、攘夷論の危険なる所以を論じていう。
「攘夷は方今の一大重事で、公武間隔意の根源である。横濱・長崎に在留する外人を放逐するが如きは、薩州藩一手の力を以てするも、実に易々たる事であるが、既に條約を締結せる今日、理由なく我より兵端を聞けば、列強が聯盟して攻め來ることは必然である。其の際の処置に就いては、輒(すなわ)ち御請に及び難い。即ち我が軍備、士氣の現状に鑑み、殊に水戦は我が短所であるから、必勝の目算なく、皇国の屈辱に帰することは必然であらう。朝廷が武備の充實を促さうとの思召から攘夷を仰出されるのは、然るべき事ではあるが、今直ちに攘夷の實行を仰出される事は不測の禍害を醸す所以であるから、先づ幕府をして舊弊を一洗し、武備を充實するよう督励せらるべきである」と。
併し京都の情勢は既に斯かる議論が容れられる余地がなかったので、久光は暫く望を時勢の挽回に絶って、関八月二十三日帰藩の途に就いたのである。
斯くて久光の退京後、京都に於いては、公武合体の周旋に任ずる者がなく、尊攘派の勢が獨り旺盛となり、中にも長州藩の熱望が益々、増大して行ったのである。
二 長州藩の藩論一変と土州藩の国事周旋
曩に長州藩は航海遠略策を提げて、公武間の周旋に膺っていたが、其の運動は漸く時運と背馳し、志士等に嫌忌せられ、遂に蹉跌したので、同藩の藩論は茲に一変するに至った。
偶、専ら此の周旋に当った藩士長井雅樂が、嘗(かつ)て朝廷に上った趣意書中に、上古朝廷隆盛の時代と今日とを比較して、朝廷を誹謗し奉るが如き文意があったと称せられるに至り、所謂謗詞一件を惹起したのである。
是に於いて之が辮疏と、京都に於ける同藩勢力の挽回の爲に、七月二日入京した藩主毛利慶親は、六日同藩世子定廣・支藩主毛利淡路守元蕃・家老毛利筑前・浦靭負・益田弾正以下中村九郎兵衛・周布政之助・桂小五郎等在京重臣を集め、藩是を僉議(せんぎ)し、一意叡慮の向わせられるところを翼賛し奉って、天朝への忠節を全うするに決した。
因って先づ書を議奏中山忠能に呈して、謗詞一件の救解を求め、更に議奏正親町三候實愛に頼って、嚢に雅楽の奉呈した建言書の下附を請い、且つ勅命を賜って王事に勤めたいと請願した。
十六日忠能・實愛等は、勅旨を奉じて慶親を學習院に召見し、謗詞一件は御氷解遊ばされた旨を告げ、自今之に顧慮するところなく益々、国事に周旋すべしと諭示せられたのであった。
二十七日忠能等は再び慶親を學習院に召見して、更め
て王事に尽瘁すべき旨の内勅を伝宣し、父子の中一人は滞京し、一人は江戸に赴き、勅使大原重徳を輔けて、叡慮の貫徹に尽瘁すべき旨を命ぜられた。
翌日慶親は書を上り、己れは滞京し、定廣を東下せしめ、共に匪躬(ひきゅう)の忱(まこと/身を捨てて忠節に尽くすこと)を致すべきを奉答した。
長州藩の破約攘夷奉請
既に公武合体論を放棄した長州藩主毛利慶親は、其の後屡々、書を朝廷に上り、また藩士を朝臣の間に遣して、攘夷に関し叡慮の向わせられる所を候(うかが)い、既存の二條約(神奈川条約<修好>及び安政仮条約<通商>)は孰れも勅許在らせられず一切之を拒絶せらるべきに治定あったことを伺い知った。
是に於いて慶親は関八月十四日、益田弾正等を近衛関白邸に遣し、忠煕に謁して、「從來屡々渙発せられた勅諚並びに御沙汰書の御趣意を拝するに、全く破約攘夷の、叡慮に在りと窺い奉る。皇国擁護の良策も亦此の外に非ずと思惟し奉るのである。よって断然独力を以て、叡慮の貫徹に尽瘁し、皇国の正氣を維持すべき」旨を上申して、朝裁を奏請せしめた。
十八日朝廷は攘夷の叡慮は先年以來聊かも渝(か)わらせ給わぬ旨を朝臣に諭示して、腹藏なき意見を上らしめられた。
有栖川宮幟仁(たかひと)親王は「速に外夷掃攘、皇国平穏の様征夷府へ勅賜り然る可くと存じ候」と答申せられ、有栖川宮熾仁(たるひと)親王・尊融法親王・一條忠香・九條道孝・三條實美・橋本実麗・長谷信篤等は、悉く叡慮の通り早々攘夷を實行せらるべき旨を奉答した。
よって二十七日中山忠能は勅旨を慶親に伝えて、先日言上の趣は叡慮と符合し、御感悦の御事なり、宣しく丹誠を抽んでて周旋に膺り、公武を始め萬人を一和し、速かに幕府をして外夷の拒絶を奉承せしめるよう尽瘁すべしと命ぜられた。
斯くして長州藩は朝旨を奉じて破約攘夷を藩是と定め、時勢の変転に投合して、尊攘論の木鐸(もくたく/指導者)となるに至った。而して土州藩亦中央に進出して、長州藩と歩調を合するに及んで、尊攘論は更に其の気勢を昂めたのである。
土州藩の藩情
南海の雄藩土州藩は、薩長二藩と同じく外様大名ではあったが、藩祖山内一豊以來幕府との情誼が深かった。
前藩主山内豊信は、文久二年十月国事周旋の幕命を受け、「用談所」に出入して、意見を開陳する事を命ぜられた。
斯くて豊信の朝幕に対する態度は尊王佐幕であって、其の意見は穏和な公武合体論であったから、藩士中の尊攘説を奉ずる者とは、相容れぬものがあった。
蓋し之は同藩の藩情が、稍々(やや)、薩・長二藩と異るものがあったからでもある。同藩尊攘党の重鎮武市瑞山・坂本竜馬・中岡愼太郎等は、下士中郷士出身であって、山内氏に随従して土佐に入国したのでなく、所謂多数の郷士の中には、前領主長曾我部の遺臣も多かったので、藩内に於ける上士対下士・郷士、勤王党対佐慕派の対立は、初めから顕著なるものがあった。
文久元年八月瑞山等は同志を糾合して土佐勤王党を組織し、尊攘の大義貫徹を誓った。
土佐勤皇党の決起
其の血誓書に名を列ねた人々は、爾後漸次に増加して二百名に近く、瑞山を始めとし、龍馬・愼太郎及び島村衛吉・平井収二郎・間崎哲馬・土方楠左衛門等が其の錚々たるものであった。
時に藩主土佐守豊範を援けて、藩政を執っていた者は吉田東洋であった。
東洋は博學高論の材を以て、深く前藩主豊信の信頼を受けていたが、其の所見は佐幕開国であって、尊攘派と相容れぬものであった。
文久二年薩、長二藩が国事周旋の為に動くに至って、藩士吉村寅太郎・坂本龍馬等は脱藩して之と提携を試みたが、瑞山も亦密かに之れと気脈を通じて、一藩を尊攘論に導こうと志した。
されど東洋が藩政を左右しているので、瑞山等の運動は容易に其の曙光を見るに至らなかった。
是に於いて瑞山等は相議って四月八日同志那須信吾・安岡嘉助・大石團藏に旨を含めて東洋を暗殺せしめたのであった。
斯くて藩庁要路の大更迭が行はれ、東洋の一派は悉く黜けられたが、而も之に代った者は、東洋の行った改革をすら喜ばなかった守舊派が多く、勤王党の推輓した者は、僅かに大目付小南五郎右衛門・参政大目付平井善之丞の二人であって未だ藩論は容易に帰一しなかったのである。
土佐藩主を召すの内勅下る
時に薩・長二藩は朝命を奉じて専ら公武間の周旋に當っていたが、両雄並立して互に確執を生ずる情勢があった。
朝廷では之を憂慮あらせられ、他に有力な一藩を加えて、其の間を調和せしめられようとの議が起った。
偶々、瑞山等が藩主に召致の内勅を仰がんとの運動も其の機に投じたのであらう。
六月十一日、議奏中山忠能は、山内氏と姻戚の関係に在る三條實美に嘱して、豊範に其の参府の期を問い、且つ国事周旋の勅命降下の内旨あるを告げしめたのである。
豊範は之に答え、一先づ江戸に赴いて父豊信と協議すべきことを告げ、六月二十八日豊範は藩地を発して東上の途に就いたが大坂に至って病み、滞在月余に渉った。
此の間小南五郎右衛門は、藩主の駕を京都に入らしめようとしたが、守舊派の反対に遭い、容易に行われなかったので、急馳江戸に赴き、豊信に謁して具さに上国の形勢を述べて、藩主入洛の承諾を求めた。
豊信は、畏みて勅命を奉承すべきを諭したので、五郎右衛門は勇躍して、昼夜兼行大坂に還りて復命した。
豊範は病を養ひ、八月二十三日大坂を発して、二十五日京都に入り、即日「非常臨時の別儀を以て暫く滞京之れ有り、御警衛御依頼叡慮安じたく」との内旨を拝したのである。
斯くて土州藩の威望も、亦京洛の間に重きをなすに至った。尋いで関八月十四日五郎右衛門・瑞山等は豊範より他藩鷹接掛を命ぜられ、諸藩尊攘の志士と互に結束して活躍するに至ったのである。
此の頃瑞山は時務策一篇を草し、之を藩主の名を以て朝廷に建白しようと計った。
其の要旨にいう、「方今国事周旋というも、要は攘夷の一策を決するにある。而して之を断行するには、先づ根本を整えねばならぬから、五畿内一圓を御料とし、親王以下を之に配置せられ、諸国勇の士を召されて、京師の防禦を巌にすべきである。又政令は凡べて朝廷より発せられ、諸大名は直ちに京都に朝覲するよう改正せらるべきである」と。
似て瑞山等の意図する所が、朝権の恢復即ち王政の復古に在ったことを想見すべきである。
斯くて長州藩を中心に、土州藩の尊攘派並びに薩州藩の急進派を加えて、尊攘の意気は益々揚り、遂に攘夷督促の爲に別勅使を関東に派遣すべしとの議が台頭するに至ったのである。
三 援夷勅使の東下
攘夷勅使派遣の建議
勅使の再東下を奏請して、幕府に攘夷の決行を督促しようという計画は、漸く諸藩志士の間に於いて議せられるに至った。
而して土州藩士小南五郎右衛門・武市瑞山・長州藩士宍戸九郎兵衛・前田孫右衛門・佐々木男也・久坂玄瑞・薩州藩士藤井良節・本田彌右衛門・高崎左太郎等が専ら此の事に周旋し、九月十八日薩・長・土三藩主の連署を以て、速かに勅使を関東に派遣せられて、攘夷の勅命を幕府に下し、攘夷決行に関する方策を上申せしめられん事を奏請した。
此の建議書に薩州藩主の名を見ることは、當時の薩州藩の態度、島津久光の意見より考えて、奇異に感ぜられるも、恐らく在京藩士が大勢に順應して、他日の地歩を失わぬやう考慮し、独断専行したものに外ならないのであらう。
勅使副使の任命
二十一日朝議は此の建議を採用あらせられるに決し、左近衛中將三條實美に別勅使を、侍從姉小路公知に副使を命ぜられた。實美は疾を以て之を辞したが、二十八日重ねて實美に朝命を下し、特に権中納言に昇らせ、公知は右近衛権少将に任ぜられた。
同日また土州藩主山内豊範に、勅使に随從して東下し、叡旨の貫徹に努力するよう命ぜられ、尋いで長州藩主毛利慶親に命じて、在府中の世子定廣をして勅使を輔佐せしめられたのである。
親兵設置の建議
勅使東下の事が決するや、尊攘志士の間には、朝権恢復の良策として、兵権を朝廷に収めるが爲に、禁闕守衛の新兵を設置する議が行われたが、十月二日薩・長・土三藩土は連署して、諸藩より身体強健、忠勇義烈の者を選んで、新兵を貢進するよう幕府に御沙汰あらんことを建議した。
朝議は之を嘉納あらせられ、實美等を以て幕府に仰出されることに決し、茲に勅使の使命は決定せられたのである。
勅使の発途
十月十日勅使三條實美・副使姉小路公知は、参内して東下の暇を賜わり、幕府に宣諭すべき攘夷督促、親兵設置の勅書を授けられた。
翌日豊範は藩兵五百余人を率い、勅使に先だって京を発し、勅使は十二日を以て下向の途に就いた。
土州藩士武市瑞山、長州藩士楢崎彌八郎・佐久間佐兵衛、久留米藩士松浦八郎等は、特に勅使に随従したのである。
勅使発向の後、十五日内勅を薩州・長州・土州・仙台・熊本・筑前・藝州・佐賀・備前・津・阿川・久留米・因州・岡十四藩主に下して、攘夷勅使差遣に就いて叡旨の在る所を諭示し、益々力を王事に尽すべきを命ぜられた。
筑前藩主黒田齊溥・因州藩主池田慶徳等は前後召に應じて朝観したので、各々東下して叡慮の貫徹に周旋するよう命ぜられたのである。
勅使江戸に入る
既にして十月二十七日、勅使三條實美・副使姉小路公知は東海道を下って品川に到り、山内豊範は同日を以て江戸に入った。
勅使が品川に到るや、將軍は特に老中松平信義を派して、之を迎えしめ、政事総裁職松平慶永・長州藩世子毛利定廣等も亦赴いて天機を奉伺した。
翌日勅使は江戸に入り、龍ノロ傅奏屋敷に館した。将軍は更に老中水野忠精・高家(こうけ)土岐頼永を遣して遺して、着府を賀せしめ、慶永及び京都守護職松平容保以下老中等は、相前後して伺候し、翌二十九日、三家以下在府の大名は、各々参候して天機を奉伺し其の安着を祝した。
勅使三條實美の従者丹羽正雄は此の状態を見て「幕府の高官も三家三卿大小名も、皆天威に畏縮し、勅使の門前に馬を羈(つな)ぎ市を為した。王政復古も近きに在るべし、愉快々々」と其の日記に誌している。
蓋し勅使の入府に際して、幕府が斯くも敬礼を尽した事は、未だ曾て無い事であるが、是は既に勅使の着府以前から、其の待遇改善に就いて、予め朝命が幕府に下っていたからである。
幕閣に於ける開鎖の論
翻って攘夷勅使の東下に方って、幕府の之に対する対策並びに幕閣内の諸情勢が、果して如何であったであらうか。
攘夷實行の勅諚を奉承するか否かは、幕府の重大問題であったことは言を侯たない。されば閣内の意見は紛々として、容易に一決しなかった。
初め九月中旬、勅使東下の報が江戸に伝わったので、其の十九日政事総裁職松平慶永は、予め閉鎖の幕議を決して、勅旨遵奉如何を一定しようと提議した。
元來慶永は開国意見を持っていたが、勅旨は奉承せざるべからずと爲し、説を立てて、從來の條約は愉安姑息の権道を以て締結せられ、且つ勅許を経ないものであるから、此の際断然之を破棄し、天下を挙げて必戦の覚悟を定め、然る後徐(おもむろ)に將來の国是を議定し、国家の総意を以て眞の開国を行うべしと主張した。
京都守護職松平容保も亦叡慮を遵奉し、江戸・大坂・兵庫等に外人を居住せしめること及び御殿山に外国公使館を置くことを断然謝絶すべしと幕府に建議した。
將軍後見職一橋慶喜はなお熟考を要すと言い、また板倉勝静以下老中・若年寄等は、概ね之に反対の意見を持した。町奉行兼勘定奉行小粟忠順(ただまさ)の如きは、「政権を幕府に委任せられるは、鎌倉幕府以降の定制なるに、既定の政務を朝廷・諸侯の容喙に由って、たやすく変更すれば、幕府は遂に諸侯に頤使(いし/あごで使われる)せられるに至ろう」と主張し、紛議が連日繰返されて、幕議は容易に決しなかった。
一橋慶喜の意見
斯かる中にも山内豊信・毛利定廣等は慶永を訪い、叡慮尊奉を説き、慶永も営中に於いて論議頗る努めたのであった。
然るに一橋慶喜は固く破約攘夷の不合理と其の實行不可能なるを信じ、九月晦日始めて其の所信を披露し、「既に天地の公道に基づいて盟約を締した今日、鎖国の舊制に因循して信義を萬国に失うべきではない。既結の條約を正しくないとするは固より国内の問題である。若し強いて之を破棄しようとするならば、戦争は忽ち起るべし。而して戦の曲直が彼我執れに在るかは容易に断じ難く、よし戦って勝利を勝ち得るも名誉と云うべからず。況んや一敗地に塗れるに於いてをや。されば我が見る所は、我より進んで交際を諸外国と結ぶべき事由を上洛して具さに叡聞に達するを至当とする。
斯くの如きは、幕府の利害得喪を離れ、国家の福祉の上に立脚して熟慮した余の結論である」と論じた。
慶永も亦前説を翻して慶喜の説に賛意を表し、幕議は開国策に決するよう見えた。
然るに攘夷勅使の東下に決したる今日、將軍後見職が上洛して、氷炭相容れない意見を闕下に伏奏すれば、其の結果は果して如何なる事態を惹起するであろうか。公武間の正面衝突を激成し、延いて天下の擾乱の基とならなければ幸である。
慶永以下幕府の心ある有司等の苦慮は当にここに存していたのである。
斯くて慶永は懊悩の末慶喜に若し朝廷が開国策を容れさせられぬ際には、政権返上の決意ありやとさへ問い質した程であったが、叡慮を尊奉することの難きに悩み、遂に、辞職を決意するに至った。
即ち慶永は十月十二日以後登営せず、十三日長文の書を幕閣に致して、「畢竟只今と相成り候ては開鎖の論判には之れ無く、只管叡慮御尊奉の一途に止り候事に候得ば、今般天使御参向の上は、是迄の罪過を謝し奉られ、勅命の趣き速やかに御尊奉の御請けに相成り候儀、君臣の分に於ては、義理の至當と存じ奉り候」と只管朝命を奉承すべきことを力説し、慶喜の開国論に対しては再び反対の意を表明したのであった。
勅使待遇改善問題
幕府に於いて、叡慮の尊奉をめぐって絶って開鎖の論議が紛糾したのに、更に勅使待遇の改善に関する是非の論争が之に加わって、一層事態を紛混せしめた。
是より先、勅使三條實美は其の東下に先だち、勅使の江戸に於ける待遇に関する改善案を京都守護職松平容保の家臣野村左兵衛・柴太一郎に授け、江戸に赴いて其の主容保に周旋すべき旨を命じた。
容保は朝旨に從って、舊格を改めて勅使を待つべしと幕府に建議したが、慶喜並びに老中等に異議があった。
即ち慶喜は京都の指示によって之を改めるは、幕府の体面上穏やかならずと爲し、板倉勝静の如きは、東照宮以來の定例なるに、朝廷が浮浪輩の説を容れて仰出された事を、一々奉承しては際限なかるべしと強硬に反対し、幕議は容易に決しなかった。
(p454)
※研究会の会員を全国を対象に募集します。また研究会では幕末維新史に関わる研究論文発表を歓迎いたします。
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第二十二回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 三月二十五日(土)
午後一時時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 20 回テーマ 公武合体 勅使大原重徳の東下と幕政の改革
日時: 令和5年1月28日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第二十回テーマ]
日時 令和五(二〇二三)年一月二十八日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p413‐p432を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第三章 公武合体
第五節 勅使大原重徳の東下と幕政の改革
二 幕府の勅使遵奉
文久二年六月七日勅使大原重徳は江戸に着し龍ノロの傳奏屋敷に入った。
將軍家茂は老中板倉勝静等を遣わして之を迎えしめた。
同日島津久光も亦高輪の藩邸に入った。
是より先、久光は藩士堀小太郎をして、周旋の素地を作(な)さしめていたが、翌日自ら松平慶永を訪い、一橋慶喜を幕府に推輓することを議した。
勅使江戸城に臨む
尋いで十日、勅使は江戸城に臨み、将軍は之を白書院に迎えた。
從來勅使は斯かる際、佩刀を撤する例であったが、重徳は之を拒否した。
幕府の有司は重徳が武官であるというので之に承服した。
重徳は松平容保・松平慶永及び老中・若年寄の侍坐するところで、勅旨を傳宣して、先年以來外夷一條に就いては、畏くも宸襟を悩まさせられ、種々廟算も在らせられる事ながら、中にも賢良を選んで登庸する事が、最も緊急事と思召されるとて、御沙汰書を將軍に授けた。
将軍は之を拝読して、容保・慶永等にも拝読せしめた。重徳は更に語を継いで、一橋慶喜をして、名目は將軍の輔佐とするも、其の実は後見識として、政務を視せしめ、また松平慶永は家柄であるから、名目は政事総裁職として、其の実は大老の職を執らしむべしとの叡慮である。是は徳川家中興の事を思召されるが故に、仰せ出されたのであるから、仮(も)し差支(さしつかえ)の事があるとも、速かに奉承するように傳えた。
將軍は謹んで、篤と勘考の上、後日御請けに及ぶべき旨を奉答した。
幕府徳川慶喜の登庸を難ず
此の勅諚を拝した幕府の當路は、他の容喙にて其の重職を登庸することを厭い、特に慶喜の登庸を難じて、容易に奉承する意を表さなかった。
十三日、勅使は再び柳営に臨み、決答を促したが、老中等は依違(いい/態度があいまい)、奉承するに至らなかった。翌月久光は其の姻戚である老中脇坂安宅(やすおり)を訪うて説く所があり、十八日勅使は三度江戸城に到り老中等と會した。
此の日老中は漸く慶永を起用すべき旨を答えたが、慶喜の登庸に就いては頗る難色を示した。
蓋し此の時重徳の岩倉具視に与えた書状にも見える如く、幕府は慶喜を全く排斥しているのではないが、其の後見職就任に因って、幕府の権威が慶喜の一身に帰し、将軍は有って無きが如くに成り行き、延いて譜代の者共を失望せしめ、慶喜に囑望している外藩との間に自ら阻隔を激成することを憂虞したと共に、慶喜の威望が高まるに從って、再び外藩が朝命を候(うかが)って、彼を將軍に擁立する事を惧(おそ)れたのであった。
而して松平容保及び譜代の有司等が、此の反対の急先鋒であった。
幕閣の情勢が斯かる際に、幕政参与に就任して以來、鋭意庶政の刷新を志していた松平慶永は、勅旨の奉行を老中等に説き、極力慶喜の登庸を主張した。
而も老中等は容易に之に聴従しなかったので、慶永は其の因循なる態度に憤慨して、暫く登城しなかったが、終に二十三日、幕政参与の辞意を老中に申し出た。
斯くて幕閣は動揺し、閣内の意見は容易に一致せず、勅命奉承の曙光は未だ見えなかった。
勅使大原重徳は此の情勢に封して憂慮措く能わず、二十二日老中脇坂安宅・板倉勝静を宿所に招いて、勅旨の奉行を督促し、二十五日再び二人を招いて決答を求めたが、安宅等は依然幕府の内情を愬(うった)えて、決答の猶豫を請うた。
此に至って久光に随従して江戸に下った薩州藩士は、幕府の態度に憤激遣る方なく、勅使に迫って、断乎幕府をして勅旨を奉行せしめるよう決意せんことを求めた
二十六日勅使は三度安宅・勝静二人を招き、厳然たる態度を以て其の奉命如何を問い、若し御請に及ばぬ時は、禍害は立所に足下等の身邊に及ぶべしと告げて、其の覚悟を促した。
是に於いて二人は、漸く奉承するよう努力すべき旨を答えるに至った。
大久保一藏の日記に拠れば、此の日一藏は勅使に謁して、若し両閣老が奉命せぬ際には、薩州藩士は其の場で二人を刺殺する決意であることを告げた。
また會見の席上で、此の事を勅使から告げられた閣老は、忽ち面色を変じて、御請に及んだと見えている。
之に加え、其の後薩州藩の壮士十余名は、閣老の退城を観ると称して、桔梗門(ききょうもん)外に徘徊して之を威嚇する態度を示し、以て幕府の議を勅旨遵奉に導かうとしたのであった。
勅使の決死登城
斯くて六月二十九日は、勅使が閣老等の決答を聞くべき最終の日であった。
此の日重徳は從士岡本重堅に文書一筺(いっきょう/文書箱)を授けて言う、今日柳営に莅(のぞ)むは予の死生の決する所である。
幕府がなお勅命を奉じなければ、自分の白髪頭を投げ出す決心である。
汝若し予の死を聞いたならば、此の文筐(ぶんきょう)と共に、遺骸を京都に護送すべしと。
此の悲壮な決意を以て江戸城に到った勅使は、松平容保・脇坂安宅・板倉勝静等と會したが、幕議は既に内決していたので、異議なく一橋慶喜登庸の勅旨を遵奉する旨を答えた。
勅使は漸く勅命が達成せんとするを歓び、翌日書を岩倉具視に致して「昨日の処、何程私氣張候ても、一人の微力にては成り難く、大盤石を上に釣り(薩州藩を指す)応対致し候にて自然と向(さき)の納得致す次第も之れ有り候、併し何程薩が強くとも、小子不気張りにては左様に参り申さず、都合致し候故難無くに参り、誠に天下の為め恐悦」とて、薩州藩後援の力が与って大であった事を告げている。
幕府の勅使奉行
文久二年七月朔日勅使は改めて江戸城に臨んだ。將軍家茂は之を白書院に迎え、謹みて勅旨を奉じ、慶喜を後見職に、慶永を政事総裁職とし、諸政萬端を協議すべき旨を以て奏聞せられんことを請い、茲に幕府は全く勅旨を奉承したのである。
尋いで六日、慶喜は一橋家の再相続を命ぜられて、将軍後見職と成り、九日慶永は政事総裁職を命ぜられた。
此の時幕府は特に此の補職が、叡慮を以て仰せ出された旨を天下に公表した。
蓋し從來幕吏の任免は、絶対に他の容喙を許さなかったたものであるが、今回は外ならぬ朝旨を遵奉するのであるとして、自己を弁護し、且つ予(かね)て懸念していた譜代等の思惑にも意を払ったのであらう。
さて又往年の将軍継嗣の紛糾よりなお其の後の政局に至大な関係を有っていた慶喜・慶永の幕政関与の事が、茲に漸く解決せられ、從來之に周旋奔走した諸侯・有司・志士等をして、等しく欣喜せしめ、更に多大の希望を抱かしめるに至ったのである。
併し嘗て慶喜が故将軍家定の世子に推された當時とは、時勢は既に大いに変化しているから、彼等は従来に比して一層困難な政局を担当して、幾多の難題を突破する重責を担ったのであった。
勅旨の政治諮問
其の後勅使大原重徳は帰洛の途に就かず、なお江戸に留まった。
島津久光はまた己れの政治改革意見を勅使によって、幕府に入説しようと考えた。
それで七月二十三日、勅使は慶喜・慶永を宿所に招いて會見し、久光も亦其の席に列した。
久光の同席は慶喜及び老中等が頗る之を忌避したのであったが、勅使の斡旋と慶永の勧説で、遂に實現したのである。
此の日勅使は慶喜等に、酒井忠義が所司代を罷免せられて、なお滞京しているのを速かに退京せしめる事、新所司代本荘宗秀(元大坂城代)及び新大坂城代松平伊豆守信古(のぶひさ/間部詮勝の次男/福井・越前鯖江藩)は孰れも不適任なれば他に転任せしむべき事、和宮の御爲に御守殿を造営する事、山陵修補の事、京都窮民の賑恤の事等十一箇條を挙げて、其の實行を命じた。
慶喜等は其の大部分を奉承すべきを答え、後日に實現せられたものが多かったのである。
また此の時薩摩藩では、久光を藩主に擁立しようとする運動があって、同藩の支藩佐土原藩主島津淡路守忠寛から幕府に申請したが、幕府の容れる所とならなかった。
因って更に久光に官位叙任の運動が計画され、近衛家家士進藤長義は朝旨を帯びて江戸に至り、之を勅使に傳え、勅使は屡々之を幕府に諮り周旋頗る努めたが、幕府は久光の幕府を度外見視する行動を憎悪していたので、八月廿日之を謝絶して、遂に成功を見るに至らなかった。
之に加え、幕府は薩州藩士堀小太郎が久光の謀臣として種々画策する所あるを知って、頗る之を悪んでいたが、彼が前年十二月江戸藩邸自焼の首謀者である事を知るや、之を摘発して処罰を薩州藩に命じ、遂に同藩をして小太郎を藩地に檻送せしめるに至った。
斯くして幕府と久光及び薩州藩との関係は、大原勅使の江戸滞在を廻って、益々反目疾視の状態を増大せしめたのである。
薩長二藩の疎隔
茲にまた時局推移の上から看過するを許さぬ事は、薩・長二藩の間が漸次疎隔する情勢を生じたことである。
是より先五月、長州藩主毛利慶親は、入京して自ら朝旨を候(うかが)い、以て国事周旋に対する態度を決しようとして、既に幕府に請うて退府入京の許可を得ていた。
會、勅使並びに久光が江戸に着した前日即ち六月六日、慶親は道を中山道に取って西上の途に就いたのである。
慶親の此の行動は、長州藩では豫定の行動に過ぎないと言っているが、世上の疑惑を招いたものの如くであった。
松平慶永の股肱である中根雪江の如きは、之を見て「二侯互に躱避(たひ/避ける)して其の面を封するを好まざるが如し。勅使を奉じて三郎(久光)の東下する、実に千歳の一遇ななり。長州侯之を待って、勅使と共に幕府に會議し、曾て建言する所の国是を切瑳討論して、皇州の大策を建つべきなるを」と評した。
薩州藩士はまた之に由って痛く感情を害し、両藩疎隔の勢が茲に始まったのである。
其の後、両藩士中相會して融和を図ろうとした者もあったが、遂に其の目的が達せられなかったのである。
勅諚改竄問題
斯かる際に、長州藩世子毛利長門守定廣は国事周旋の朝命を受け、安政戊午以降の国事犯人の赦免・収葬を命ぜられた勅諚を奉じて、之を幕府に傳宣する爲に、京を発して東下の途に就いた。
然るに其の勅諚の文中には「近くは伏見一挙等にて死失致し候者共」の十六字があって、寺田屋に於いて久光の命に抗して、斬殺された者にも浴恩の命が及んでいたのである。
此の事を聞き知った久光以下薩州藩士は、心外に堪えず、久光は人を京都に遣わして、此の字句の削除を朝廷に周旋せしめ、叉勅使に勅諚の改竄を迫った。
一方、長州藩士桂小五郎は定廣に先だって江戸に來り、勅使に謁して定廣の使命達成に奔走した。
斯くて勅使は薩・長二藩の間に介在して、二藩の軋櫟を激化する事を憂慮し、頗る苦境に立ったが、遂に定廣の着府前、独断にて勅諚を改竄するに決意し、八月十八日小五郎を招いて、京信が到着して勅諚中の伏見一挙云々の字句は削除に決せられたと告げ、改竄した勅諚を授けようとしたが、小五郎は果して然らば、同一の朝命が別に藩主にも下されるべきであらうとて、之を受けなかった。
斯かる間に、定廣は翌十九日を以て品川に着し、先づ重徳及び久光を訪問しようとしたが、隻方から辞退せられたので、其の日は藩邸に入った。
翌日定廣は重徳を訪うて長州藩周旋の趣旨を陳べ、又薩州藩に交渉して其の日久光を訪うたが、両藩の意見は既に齟齬していた際であるから、単に會見したのみで、意思の疎通は固より達せられなかった。
其の後幾ばくもなく、久光は勅使を護衛して江戸を去ったので、両藩の融和は図るに由なく、其の疎隔軋櫟は愈々甚しきを致すこととなったのである。
但し勅諚の事は、長州藩に於いても早く奉行する事を欲したので、同日京都に於いて授けられた勅諚を大原勅使に返還し、改めて改竄せられた勅諚を請け取ったのである。
斯くて勅使の退去後、定廣は此の勅諚を幕府に傳宣して朝旨の貫徹に周旋したのであった。また京都に於いても大原勅使の内申によって、更めて長州藩主に同一の勅諚が授けられた。
勅使及び島津久光の帰洛
斯くて勅使大原重徳は其の使命を果したので、帰洛の途に就く事となり、島津久光は勅使に先だって八月二十一日江戸を発した。
其の途中武藏国生麦村に於いて、其の從士は横濱在留の英国商人等四名の騎行するに遭い、其の非礼を咎めて之を殺傷し、所謂生麦事件を惹起し、英国との間に一大紛糾を醸して、幕府をして其の措置に困憊(こんぱい)せしめた。(第五章参照)
勅使は翌二十二日西上の途に就いたが、此の事変の為に品川に駐まること二日、二十四日発程して閨八月六日帰洛し、即日参内復命した。
翌日久光も亦京に入り、直ちに近衛邸に赴き嚢に六月二十三日、九條尚忠に代って関白に任ぜられた忠煕父子及び議奏中山忠能・正親町三條實愛・野宮定功(参議)に謁し、周旋の顛末を報告した。
尋いで九日久光は召に依って参内し、勅使輔佐の労を賞せられて御剣一口を賜った。
蓋し異数の恩遇に浴したものと謂うべきである。
三 幕政の改革
二百有余年來の傳統を有し、例規格式の恪守(かくしゅ/忠実に守る)を旨とした幕府の制度及び施政の大本を変革する事は、幕閣にとって至難事であるは言うを侯(ま)たない。
新に幕閣に列した将軍後見職一橋慶喜・政事総裁職松平慶永は、互に力を協せ、幕府有志の偏見を斥けて、朝旨の遵奉に努めたので、頗る見るに足る改革が行われたのである。
幕府諸政改革を令す
幕府に於いても政情の変化に鑑み、時勢の大なる力には抗し難しと見てか、或は朝廷及び雄藩等の指示容喙に先んじて、自主先鞭の態を取り繕おうとしたものか、既に五月二十二日、即ち大原勅使の下向に先だって、時宜に應じた変革を行い、制度を簡易にし、武備を充實すべきことを諸侯有司に布告し、六月朔日重ねて庶政改革の台慮を告げて、意見を徴した。
尋いで七月に及んで、慶喜・慶永は幕府の枢機を掌ったが、特に慶永は鋭意庶政の改革を志し、家士中根雪江及び嘗て熊本藩より招聘した横井小楠を股肱として大いに画策する所があった。
幕府改めて勅旨奉行を奏す
八月七日慶喜・慶永は老中等と議して、連署の奏状を上って、専ら叡慮を奉戴し、心力を尽して偏に公武一和・上下一致・萬民安堵の計を講じ、以て叡慮を安んじ奉るべき旨を奏聞し、なほ從來深く宸襟を悩まし奉ったのは、畢竟久世・安藤両人の失政に基づくもので、寔(まこと)に恐惧(きょうく)に堪えず、今後は益々、粉骨砕身、報效の忱を尽すべきを言上した。
幕議の因循
然るに幕閣内にはなお因循の吏員が多く、革新の意見は容易に容れられず、為に慶永の苦心は一方ならぬものがあって、屡々病と称して登営しなかった。
併し時勢は既に幕府が苟安を希い、徒らに舊典に膠着するを許さず、天下の公論に從って政綱が更張せらるべきであったので、終に「此上は愈々創業の心得を以て刑法を除くの外は、如阿なる舊章をも改革するに躊躇せず」という老中の誓約の下に、愈々、其の實行を期する事となり、関八月以降慶喜・慶永の戮力に依って、各種の改革が行われたのである。
以下其の主なものに就いて述べるであらう。
朝廷の尊崇
先づ朝廷尊崇に関する改革に就いて言えば、九月幕府は從來の例によって将軍夫人親子内親王(和宮)を御台所と称せしを改めて、宮號を以て称すべき旨を奏上した。
尋いで十月、幕府は朝命を奉承して、江戸時代初期より行はれた武家傳奏任命の際に、誓詞を幕府に提出する慣例を廃止し、十二月、関白・大臣及び武家傳奏の任免を予め幕府に諮問せられる舊制を辞し、爾後は宣下の後承命せんことを奏請した。
また同月、朝命によって、かの櫻田門外の変以來、實施し來った彦根・小濱・郡山等諸藩の九門の警衛を撤した。
尋いで公家中、特に幕府に從属するが如き関係に在った昵近(十斤/昵懇)衆十七家の称呼を廃した。
山稜修補
而して御歴代山陵の修補に就いては、幕府は宇都宮藩主戸田越前守忠恕(ただくみ/下野・宇都宮藩主)の建議を容れて、関八月、同藩家老間瀬和三郎をして之を担当せしめ、從來に見ざる大規模の修補に着手し、以て朝廷尊崇の誠意を表し奉ったのである。
諸有司の追罰
嚢に幕府は從來の失政を天朝に謝し奉ったが、其の實を表する為に追罰を行い、八月十六日、先づ久世・安藤二人を隠居・急度慎に処し、尋いで元所司代酒井忠義に隠居を命じて、加増の一萬石を削った。
而して諸有司の追罰は之に止まらず、遂に安政戊午の大獄及び條約の無断調印に関係した有司及び、十一月二十日、井伊直弼の遺領の内十萬石を削ったが、同日、また元老中内藤信親の溜間詰格を免じて帝鑑間詰に貶(おと)し、曩に付替した一萬石を舊地に復し、同じく間部詮勝(元老中)に隠居・急度愼を命じて、所領の内一萬石を没収し、酒井忠義・堀田見山(元老中正睦)に蟄居を、久世廣周・安藤信正に永蟄居を命じ、廣周の所領の内一萬石、信正の所領の内二萬石を削った。
尋いで同二十三日、幕府は更に前高松藩主・松平頼胤を蟄居に、元老中脇坂安宅を急度愼に、同松平乗全を隠居に処し、乗全の付替地一萬石を舊地に復せしめ、、宮津藩主本荘宗秀(元寺社奉行)・前沼津藩主水野左京大夫忠寛(元側用人)・麾下士久貝正典(元大目付)等に差控を命じ、其の他有司十余名に、隠居・差控・御役御免等を命ずる等、各々差があったのである。
戊午国事犯人の赦免
上述の追罰と対照して、安政戊午以降国事の為に刑辟に触れた志士等の特赦が行はれた。
此の事に就いては、夙に朝旨が幕府に下されていて、八月長州藩世子毛利定廣が勅諚を奉じて東下、幕府に之を傳宣して奉行せしめようとしたのであった。
此の際朝廷では、戊午大獄に連坐した者のみならず、勅諚返還問題で長岡駅に於いて仆(たお)れた水戸藩士、櫻田門外の変・東禅寺襲撃・坂下門外の変、其の他国事に関係して殉難した志土等の礼装葬祭祀及び現存者の赦免等を仰せ出されたのであった。
然るに幕閣では斯くの如き廣範囲の大赦を行う事には異論があったので、容易に奉承しなかった。
九月に至って、幕府は漸く和宮御入輿の祝賀を名として、戊午大獄の關係者池内大學等三十一人の赦罪と、故安島帯刀等九人の収葬建碑の許可とを奏上した。
然るに朝廷では、右は從來吉凶の大礼に際して行はれた大赦とは、全く其の趣旨を異にするものであって、朝廷におかせられては、彼等の所業を罪とは思召されぬのであるから、特に此の意を体して処置し、戊午大獄以外の者をも、遺漏なく詮議するようにと仰せ出された。
是に於いて幕府は、十一月二十八日、「今度京都より厚き御趣意を以て、大赦仰せ出され候儀も之れ有り候に付」とて、大赦令を布き、先づ戊午大獄に斃れた安島帯刀・鵜飼吉左衛門父子・茅根伊豫之介・橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎等の改葬建碑を許し、諸藩に令して国事に殉じた者及び刑に服する者の姓名を録上せしめ、叉池内大學・小林良典・丹羽正庸等数十人を逐次釈放した。
尋いで櫻田門外の変に關係した水戸浪士等の赦免建碑を許し、梅田雲濱等をも赦免したが、未だ長岡駅及び坂下・東禅寺関係者には及ばなかった。
徳川斉昭に官位追贈と勅諚問題の解決
幕府は勅旨を奉じて関八月五日、老中水野忠精を水戸藩邸に遣し、故徳川齊昭に從二位権大納言を追贈せられる旨を宣達し、藩主慶篤に諭して、聖旨を体し、父の遺志を紹いで報效の枕を尽すべきを命じた。
尋いで十二月十五日、幕府は、安政戊午の歳、水戸藩に賜った勅諚の返納に就いても、從來の彊硬な態度を全く改めて、勅諚を天下に公表し、慶篤に命じて聖旨を奉承せしめたのであった。
将軍官位の降等を奏請す
以上述べ來つたが如く、幕府は専ら前代以来の失政を上下に謝して、有司の追罰、尊攘志士の恩赦を行い、以て朝旨を奉戴するに努めたが、將軍獨り責を有司に嫁して晏如たることを許さないので、十一月二十三日に至り、將軍家茂は三家溜間詰以下有司を召見し、上表して官位降等を奏請する内意を告げ、尋いで曩に將軍後見職であった田安慶頼も輔翼宜しきを得なかったのを謝して、隠退及び官位一等を降されん事を幕府に請うた。
十二月二日、幕府は高家土岐出羽守頼永をして、闕下に之を伏奏せしめたが、朝廷では將軍の奏請を卻(しりぞ)けられ、田安慶頼の官位一等を降し、且つ其の隠退を聴許在らせられたのである。
更に幕府は曩に公表した將車上洛の期日を、明年二月と確定し、九月七日之を奏聞し、且つ天下に布告した。
将軍上洛期日決定
当事幕府の有司は、将軍上洛に巨額の費用を要するを厭い、之が中止を主張する者が多かったが、政事総裁職松平慶永が、極力将軍が闕下に伏して、從來の枇政を陳謝し奉り、以て眞に公武一和の實を示すの要を説き、行装の如きは極めて之を簡易にして、速かに之を實行すべきことを主張した結果、遂に幕議の決定を見たのであった。
参勤交代制の改革
次に幕府の庶政改革の中で、最も重要なものは、参勤制度の変更である。
参勤交代の制が、幕府の諸候制馭に、最も重要な政策であったことは、呶々(どど/強調する)を要しないが、諸侯が数百里の道を遠しとせず、多数の從者を随えて江戸に上下し、叉妻子を同地に留めたことは、諸侯並びに其の藩士等にとっては、相當に苦痛な課役であったのみならず、諸藩の財政に甚大な影響を与えたものであるから、早くより其の改革が要望されていたのであった。併しそれが重要な政策であればある程、変改は極めて困難で、嘗て八代將軍吉宗の時に、少しく在府の期間を短縮したが、幾ばくもなく奮制に復せられたのであった。
嘉永六年国防の充実が叫ばれるに及んで、
松平慶永は夙に此の制度改革の必要を唱えたが、今や幕閣に列するに至って、愈々抱負を實現しようと志した。
老中を始めとして幕権擁護者は、素より之に賛意を表しなかったが、若し諸侯が實力を以て自ら其の制規を破るような事が起っても、幕府は既に之を如何とも制裁し難い実情にあったので、此の事実の前には屈伏しなければならなかったのである。
斯くて閏八月十五日、幕府は諸侯に参勤交代制を緩くすることを告げて、專心武備の充實に力を用いるべきことを命じ、なお文武の振興、富強の方策に就いて意見があれば腹蔵なく上申すべきことを令した。
尋いで二十二日、其の変革に関する実施條項を示した。
即ち諸侯は三年一勤とし、在府日数は溜間詰・
同格は一箇年、其の他は大凡そ百日とし、且つ妻子の藩地に帰ることを許したのである。
なお之と同時に、諸侯の幕府への進献を軽減し、從來余沢に与っていた老中・若年寄等への進物を廃止したのである。
此の変改は幕府政治本来の機構から見て重大な改革であって、駐剳外国使臣等も幕府の権威に死命を制するものだと評した。
在府期間の短縮と、妻子の帰藩に伴って、江戸に祇役(しえき)在番する藩士並びに仲間・小者の数も、激減するに至った上に、其の数が四萬人に達すると言はれた藩邸雇役の奉公人・労役者の失業を招き、江戸の繁華は一朝にして凋落したかの観を呈するに至ったのである。
京都守護職の設置
幕府は其の創設以來、京都に所司代を置いて、禁裏の守護を始め洛中洛外及び近畿・西國諸大名の監察に任ぜしめたのであったが、其の権威は既に地に墜ち、久光の卒兵上京に際しても、只拱手傍観する無力無能を暴露したのであった。
是に於いて幕府は、所司代の上に京都守護職を設けて、宮闕の守衛に當らしめることとなった。
関八月朔日、家門にして奥羽の重鎮である曾津藩主松平容保を以て之に任じ、役料年五萬石を給した。
朝廷では此の新職の設置に由り、幕府が武威を以て朝廷を威圧しようとするのではないかと憂慮在らせられ、其の設置理由を幕府に尋問あらせられた。
幕府は朝廷尊崇、京郡守衛を充分に行はしめる為に、輦轂の下に重職を置くに外ならない事を辮疏した。
併し其の眞意は姑く措くも、其の實際の行動が、京師に於ける尊攘志士の抑圧、外藩勢力との対抗、幕権の擁護となって現れたことは、次章以下に述べるであらう。
軍制其の他の改革
此の外幕府は軍政の改革を行い、閏八月、鐵砲組を編成し、十二月、洋式に則って歩・騎・砲の三兵を設け、新に陸軍奉行を置いて之を総轄せしめ、兵制の改正をも行った。
叉海軍の振興にも意を用い、軍艦購入等をも行ったのであった。
叉學制を改革し、十一月始めて学問所奉行を置いて、儒役林大學頭の上位に班し、勧學に關する事務を掌らしめ、洋書調所をも之に付属せしめた。其の他職制・服制等にも変革する所が多かったのである。
以上位べ來った如く、勅使の東下によって、幕閣内に捲き起された動揺は意外に大なるものがあり、また其の変改実施せられた所は、當に刮目に値するものであった。
今幕府が行った実績を一言にして言えば、安政戊午以來の幕府失政の清算であり、また嚢に大老井伊直弼執政時代に排除抑圧せられた世論の一部が實行せられたのに外ならながった。
此の間、朝権の伸張が顕著であった事は言う迄もなく、雄藩の活躍も実に目醒しいものであった。
顧みて幕権隆盛の時代を思えば、寔に隔世の感なきを得ないのである。
新に幕府の枢機を掌握した將軍後見職一橋慶喜・政事総裁職松平慶永は、一意朝旨の奉戴に努め、幕府の秕政(ひせい)を矯(た)め、有司の因循を破って、鋭意改革の事に從い、之に寄与した力は頗る大なるものであって、此の後の幕政は実に此の二人の双肩に懸ったのである。
されど時代は安政を去る既に五星霜、変転極まりなき時勢は、既に一大旋回をなした。
江戸に於いて公武合体は漸く其の實現の曙光を認めたが、京都を中心として尊攘志士の間には、王政復古、幕府討伐運動が熾烈となって、之が為に忽ち圧倒し尽されたのである。 (P432)
※研究会の会員を全国を対象に募集します。また研究会では幕末維新史に関わる研究論文発表を歓迎いたします。
連絡先
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TEL/FAX:042-794-6249
Website/ 「脇村正夫著 幕末維新史
研究論文・史料集」
◇ ◇ ◇
第二十一回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わず全国どなたでも参加できます
日時 二月二十五日(土)
午後一時時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 19 回テーマ 公武合体 雄藩の国事周旋
日時: 令和4 年12月24日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
全国幕末維新史研究会
[第十九回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年十二月二十四日
午後六時より八時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p367‐p412を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第三章 公武合体
第四節 雄藩の国事周旋
三 薩州藩の活躍
薩摩・大隅・日向の三箇国を領して、其の表高は七十七萬石、其の禄高の大なることは三百諸侯中の第二位を占め、兼ねて琉球を管轄した薩州藩は、関ヶ原役に大坂方に与したが、幸にして舊領を安堵せられ、爾来酉陲の重鎮として士風の剛健を以て聞え、幕府に対して隠然一敵国たるの観があった。
幕末に及び、同藩も亦他の例に漏れずして財政の破綻に陥ったが、天保年間藩政の枢機に与った調所笑左衛門は、五百萬石と称せられた負債の整理を断行し、力を殖産興業に注ぎ、また琉球を通じて密かに支那賀易を行い、大いに藩の財力を富裕ならしめた。
嶋津斉彬
藩主島津齊興(なりおき)は嘉永四年二月漸く退隠して、世子齊彬は年四十三にして封を襲いだ。
齊彬は當時諸侯中英明第一と称せられ、内治の刷新、士風の振興に努め、集成館の設立を始め、西欧文化の移入を計って富国強兵の策を講じ、夙に皇室の輔翼、幕政の匡正に力を致そうと志した。
嘉永・安政の交、齊彬は海防の充實、時弊の救済に意を用い、屡々、老中阿部正弘や幕政参与の徳川齊昭と意見を交換して、之を輔翼し、或は將軍継嗣に一橋慶喜を推して、松平慶永・
伊達宗城等と協力尽瘁した事は既述の如くであった。
齊彬はまた幕府との闘係を密にすることを怠らず、曾(かつ)て祖父重豪(しげひで)の女が、近衛経煕の養女として、十一代将軍家齋の御臺所(廣大院)となった例を趁(お)って、己れの養女敬子を近衛忠煕の養女と爲して、将軍家定の御臺所(天璋院)とし、新に幕府との縁故を深くした。
近衛家と嶋津氏
島津氏が斯く二回に亙って近衛家に頼って其の女を將軍に配したのは、同家との関係がまた深かったからである。
抑も此の近衛家と島津家との縁故は、古く嶋津氏の始租忠久が日向国島津荘(近衛家家領)の地頭職となったのに姶まり、近くは齊興の養女(郁姫)が忠煕の夫人となっていたのである。
從って島津氏は朝廷に接近し、または国事に周旋するにも、甚だ有力な後援者を持っていたのであった。
されば齋彬は、尊王の志に厚く、皇威の伸張を翼賛し奉ろうとして、屡、近衛家を経て微衷(真意)を内奏して来たのであったが、安政四年四月江戸より帰藩の途次、入京して近衛忠煕父子及び三候實萬・中山忠能と會し、忠煕より一朝外患ある際には、速かに兵を率いて禁闘守護に當るべしとの内旨を伝えられたと言う。
翌五年齊彬は藩地に在ったが、井伊直弼が大老と爲り、將軍後嗣は与望に反して紀州侯に決定せられたのみならず、幕府は俄に弾圧手段を以て天下に臨み、將に朝廷をも威圧しようとする状あるを聞いて、深く之を憂え、形勢を挽回して、皇威の更張、幕政の匡正を計らうとし、列侯・志士の中にも亦竊(ひそ)かに薩州藩の力と齊彬の熱望とに期待したものがあった。
然るに惜しいかな、同年七月十六日俄に疾んで歿し、其の股肱の臣西郷吉兵衛の如きは、我が事終われりとて殉死しようとした程であった。
是より先、齊彬の子女は概ね夭折して、僅かに哲丸があっただけであったが、未だ幼少の故に、遺命によって弟久光長子叉次郎(茂久・修理大夫)が後を承けた。
齊彬は其の死に臨み、久光に後事を託して、皇室の補翼、幕府の匡済、海防の嚴修に力を效(つく)さんことを委嘱した。
薩州藩状
齊彬歿後の藩情を述べるに方って、少しく既往に遡って其の情勢を見るに、同藩に於いても他と異らず、藩内の事情は錯雑粉乱し、既に文化年間に於いて朋党の禍があったのであった。
齊彬が齢不惑(四十歳)を超えて、なお襲封し得なかったのも畢竟此の藩情に累されたのである。
嘉永二年藩の當路を弾劾して、齊彬を擁立しようとした近藤隆左衛門・高崎五郎右衛門・大久保次右衛門等数十人に封する當獄が起り、是等は切腹・遠島等の極刑に処せられたのである。
而して此の悲惨事は少壮有爲の子弟等を刺戟し、上士対下士、保守派対急進派の抗争を激成せしめたのであった。
齋彬の歿した時、前藩主齊興は未だ生存して藩政を監し(握る)、国老島津備後等が枢機に与って、其の施政は専ら保守退嬰を事としたが爲に、一藩の土氣は頗る消沈した。
西郷吉兵衛が幕吏の追捕を逃れ、僧月照を伴って京都から鹿見島に帰り、相抱いて薩摩潟に投じたのは此の時の事であつた。
また堀仲左衛門・有馬新七等の急進派が、藩庁の態度に慊らず、脱藩して義挙を企てたのも亦此の時の事であった。
斯くて一藩の動向は容易に決着しなかったが、齋興が安政六年九月没するに及んで、藩情も亦自ら変じ、久光は藩主茂久の生父として藩政を後見するに至り、尊王憂国の士も漸く駿足を伸ばすことを得るに至ったのであった。
嶋津久光の後見
安政六年十一月、藩主茂久は手書を是等小姓有爲の士に与えて、誠忠士の面々と呼び、挙藩勤王の趣旨を諭して、其の忠勤と自重とを望んだ。
其の文中に
「萬一時変到來の節、第一順聖院様(斉彬の法号)御深意を貫き、国家以て天朝を護り奉り、忠勤抽きんず可く心得に候、各有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、我等の不肖を輔け、国名を汚さず誠忠尽し呉れ様偏に頼み存じ候云々」とあって、藩士等を感激させたのであった。
茲に誠忠士と言はれた面々は西郷を始め、大久保一藏・堀仲左衛門・岩下佐次右衛門・有村俊斎・吉井仁左衛門・高橋新八・有馬新七等四十余人であって、恰(あたか)も薩州藩の正氣(尊王の気風)を代表し、また同藩勤王党の中枢を為す有爲の士であった。
尋いで文久元年十月に至り、藩の要路が更迭して、喜入(きいれ)摂津(久高)が家老首席となり、側役小松帯刀・小納戸中山尚之介が専ら藩政を執るに及んで誠忠組の大久保一蔵・堀仲左衛門は新に小納戸に列し、有村俊斎・吉井仁左衛門は徒目付と為り、尋いで西郷吉兵衛(菊池源吾/配流中の名)は配流を赦されたのであった。
斯く藩情が変する頃には、海内の情勢も混乱紛糾して、尊攘志士の運動は頓に活発となり、危機が朝に夕を測られぬ程であったので、久光は茲に意を決して、公武の間に周旋するに至った。
四 島津久光の入京
久光の京都手入
文久元年十月、久光は堀次郎(大久保利通と並ぶ側近)を江戸に遺して、幕府に一橋慶喜・松平慶永を起用するよう建言せしめたが、幕府の省みる所とならなかった。
尋いで中山尚之介は久光の意を承け、十二月入京して近衛忠煕父子に謁し、齊彬の遺志を紹述して王事に勤めようとする事を告げ、内奏を請うた。
尋いで久光は大久保一藏を京都に遺し、己れの上洛に對して斡旋する所あらしめた。
一藏は翌文久二年正月、近衛家に詣(いた)り、久光上洛の趣旨を手記して之を呈した。
其の大意は、朝権恢復の大策を立てさせらるべきを請い、之が爲には京都の警衛が鞏(強)固でなければ、再び安政戊午の轍を覆む虞(おそれ)があるから、近日久光は兵を率いて朝覲し、闘下の守護に當るべきを告げ、今日の急務は、勅使を關東に下して、幕府に要路の黜陟を行うべきを命じ、又雄藩に勅して皇国の為に忠勤を抽(ぬきん/鮮明にする)づべきを促し、宣しく干戈を動かさず、公武合体の叡慮を以て、幕政を匤正せらるべきであると言うに在った。
即ち久光の意図する所は、幕府の改造を計り、公武合体に依って政局を収拾しようというのであって、幕府を否認し、天下に義旗を翻そうという急激論は、其の採らぬ所てあった。
されば常時京畿に蝟集(いしゅう/群集)した諸国志士の間に、横溢していた挙兵討幕の意見とは、大なる径庭(けいてい/へだたり)を認めなければならぬものであった。
偶、此の時、藩主参勤の期が來たのであったが、藩の要路は参府延期の辞柄(口実)を得ようとして、前年十二月七日江戸の三田藩邸を焼かしめて、其の許可を得たのであった。
斯くて久光は三月十六日小松帯刀・中山尚之介・大久保一藏以下千余の兵を率い、愈、鹿児島を発して東上の途に就いた。
久光と過激派
久光は其の出発に先だって随従する藩士等に諭旨して、尊王攘夷を名として慷慨激越の誠を唱え、四方に交(まじわり)を結んで不穏の企(たくらみ)をなす輩と私に交はる事を禁止し、浪人等の軽忽(けいこう/そそのかし)なる所業に加われば、必ず藩に難事を起すは勿論、延いて国家の擾乱を醸す倶(おそ)れがあると深く之を戒飾(かいちょく/戒め)した。
而して久光は陸路小倉に至り、夫より四月十日海路大坂に着したのであった。
此の時西郷吉兵衛は久光に先行して下関に至り、久光の駕を待つことを命ぜられていた。
然るに当時、東西諸方の志士が既に京坂地方に集って、事態容易ならずと伝え聞き、吉兵衛は是等志土を鎮めんとし、命を待たずして下関より急速上坂したので、大いに久光の怒に触れて鹿児島に送還され、やがて配流の厄(やく/わざわい)に遭ったのであった。
久光の入京と建議
久光は大坂に入って再び藩士に諭し、私に諸藩士・浪人等に面曾し、命を受け名いで猥りに諸方に奔走するを禁じた。
尋いで久光は十六日京都に入り、即日近衛邸を訪(と)うて忠房に面謁し、同席の議奏中山忠能・正親町三候實愛に周旋の趣旨を述べ、皇威振興公武合体、幕政変革の三眼目の外に、青蓮院宮(後中川宮朝彦親王)・近衛忠煕・鷹司政通父子及び一橋慶喜・徳川慶勝・松平慶永等の解慎、並びに慶喜等の登用、田安慶頼の将軍後見及び安藤信正(初信行)の老中罷年、老中久世廣周の召致、二三の雄藩に国事周旋の勅命を下される事及び浪士取締に就いて縷述(るじゅつ/詳述)する所があった。
久光勅諚を拝す
久光建白の趣は直ちに叡聞に達せられ、滞京して浪士鎮撫に當るべしとの勅諚を下された。
また久世閣老に上洛すべき召命が、所司代酒
井忠義に授けられたのであった。
斯くて久光は大兵を擁して輦轂の下に至り、其の勢威は当に京洛を圧し、其の献言する所は忽ち叡感を蒙って、即日滞京して国事に任ずべき恩命を拝し、無上の榮光を勝ち得たのであった。
されど久光は薩州藩主(茂久)の生父として、藩内に於いては国父を以て称せられたが、当事未だ無位無官の一武士であったに過ぎない。
然るに久光は幕府を憚らず、堂々入京して国事を闕下に伏奏し、直接朝命を拝するに至っては、誰か時勢の大変したるに喫驚(きっきょう)せぬ者があらう。王政維新の歴史は、文久二年に至って再び一転機を画したと言うも、毫(すこし)も異議を挟むべきではないのである。
而して久光の東上を聞き、風雲を望んで京坂
の間に来集した尊攘志士は、将に久光に頼って事を爲そうとしたが、前述の如く久光の意衷は、必ずしも志士等の意圖と合するものではなかった。
されば茲に測らずも伏見寺田屋に於ける悲劇を生むに至ったのであるが、是れ蓋し避け難き勢であったのである。
五 志士の暗躍と寺田屋の変
倒幕論の醞醸(うんじょう/醸成)
安政戊午の大獄は、表面尊攘志士を圧伏して、余す所が無かったかの観があるが、鬱勃たる氣勢は、決して一時の彊圧に屈するものでなく、却って大獄の反動として從來の朝権恢復並びに奸者排斥の運動は漸次王政復古より討幕論にまで発展するに至った。
併し東国に於ける水戸藩士等の運動は、未だ討幕というには至らず、幕府倒すべし、討つべしと主唱して決起した志士は、概ね西国地方から輩出したのであった。
真木和泉と平野二郎
九州諸藩の尊攘志士の中で鐸々(そうそう)たるものは、久留米藩の眞太和泉(元久留米水天宮祠官)・筑前藩の平野二郎・熊本藩の松村大成父子・宮部鼎藏・秋月藩の海賀宮門・岡藩(豊後・大分県)の小河彌右衛門等と薩州藩の誠忠組の士等であった。
中にも眞木和泉は嘉永五年藩獄に連坐して水田村に幽居していたが、夙に勤王の志が厚く、安政五年『大夢記』一篇を草して討幕の策を述べている。
また平野二郎は早く藩を去って京に上り、西郷吉兵衛等と共に国事に奔走し、後眞木和泉を始め西国志士と來往して時事を論じ『尊攘英断録(論)』を著して尊王討幕の大義を説いた。
また其の他の志士も草莽に在って高論危言、尊攘の説を鼓吹していた。
偶々文久元年正月、元中山家の家士田中河内介が其の子瑳磨介・姪(おい)千葉郁太郎を随えて太宰府に来り、諸国を歴遊して小河彌右衛門・眞木和泉・平野二郎・松村大成及び熊本藩士河上彦齋等と會して、尊攘の大義を談じ、固く今後の提携を約した。
同年十二月平野二郎は遂に意を決して、王政復古の説を薩州藩主に説いて、其の決起を促そうとし、『尊攘英断録』及び眞木和泉より託せられた策論上書を携えて薩摩に向った。
會々、二郎は肥後高瀬の松村大成の家に於いて、庄内の志士清川八郎・元薩州藩士伊牟田尚平・処士安積(あさか)五郎と邂逅した。
清川八郎の遊説
八郎は少壮郷里を出でて江戸に遊び、東條一堂に師事して同門の五郎と兄弟の義を結び、かの外人を江戸の赤羽根に於いて斬った尚平(伊牟田)等と志を合せて、尊攘の義挙を画策していた。
其の後幕吏に追われて、水戸・仙臺・出羽・越後等の間を転々としたが、十一月京都に入って田中河内介を訪い、密議を擬して、西国志士の決起を促すに決し、前右中将(うちゅうじょう)中山忠愛(ただなる)の書及び河内介の添書を齋(もたら)して西下し、松村家を訪うたのであった。
平野二郎の入薩
是に於いて松村大成・平野二郎・清川八郎等
は、挙兵勤王の事を議し、二郎は尚平と共に鹿児島に向った。
二郎は姓名を変じて福岡藩の使者と偽って鹿児島城下に入り、小松帯刀・大久保一藏と會談することを得たが、薩州藩に於いては藩論の一定に勗(努)めていた際であったので、遂に要領を得なかった。
併(しか)し略々同藩の情勢を明かにする事を得て、鹿児島を去って肥後に還り、再び八郎等と會して、同志を糾合する事に決したのであった。
久光上洛の報と西国志士
斯くて酉国志士の運動は益々活発となったが、島津久光の卒兵上京の報を得て、愈、時機の到来した事と考え、久留米藩士大鳥居理兵衛・淵上郁太郎等は、脱藩して上国に走り、長州藩士久坂玄瑞等は藩士堀眞五郎等を鹿児島に派して形勢を窺わしめ、土州藩士吉村寅太郎も亦長州藩に至って提携を試みようとして、諸方志士の奔走を見るに至った。
既にして文久二年三月、久光は東上の途に就いたが、之と時を同じうして、平野二郎を始め小河彌右衛門は同志を伴うて上国に向い、風を聞いて土州藩士坂本龍馬等も亦脱藩して吉村寅太郎の跡を追い、また久光の東上に随従し得なかった薩州藩士も亦亡命し、長州藩士久坂玄瑞・福原乙之進(おとのしん)・寺島忠三郎・入江九一・品川彌二郎・山縣小輔等も、相踵いで京攝の間に走り、今や東西の志士は京坂の間に雲集するに至った。
幕府は爲に其の取締を巖重にしたので、薩州藩士堀次郎は之を憂えて、田中河内介・清川八郎等数十人を大坂藩邸に収容し、彼等の激発するのを防止しようとした。
是より先、眞木和泉は二月、其の幽居を脱して薩摩に入り、久光東上の列に加わらうとしたが、却って同藩の為に抑留された。
また上京した平野二郎は『回天三策』を朝廷に上って、時務三策を建言したが、會々(たまたま)、藩主(筑前)黒田齊溥(なりひろ)の東上を聞き、伊牟田尚平と共に之を播磨国大蔵谷に迎えて、意見を薦めようとして、遂に福岡に送還せられたのであった。
志士等の密謀
島津久光の上洛前に於ける京坂間の情勢は上述の如くで、浪士決起の説が行われ、人心恟々
として、輦轂下の騒擾が何時突発するやも測り難かった。
近衛忠房は之を憂え、暫く久光の入洛を延期せしめようと試みたが及ばず、また長州藩家老浦靱負も兵百余を率いて四月廿一日入京した。
是より先、大坂薩州藩邸其の他に集った志士等は、予て聞きしに違って、久光が義挙に出でる形跡がないのに憂憤し、遂に田中河内介・小河彌右衛門等は薩州藩の有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮助等と謀り、今は猶豫すべきにあらずとて先づ闘白九條尚忠・所司代酒井忠義を斬って、義挙の端を開かうと決意した。
此の情を知った久光は、四月十八日待士奈良原喜左衛門・海江田武次を大坂に派し、翌日叉大久保一藏を派して、志士等を鎮撫せしめたが、河内介等は陽に之に聴従して、なお其の計画を棄てなかった。
尋いで二十一日、眞木和泉も大坂に來って、此の計画に参加し、長州藩士久坂玄瑞等も京都藩邸に在って、竊(ひそ)かに之と呼應し、彼等の入京を待った。
斯くて愈々、二十三日の夜を以て兵を挙げることに決した。
此の日未明、新七・壮助・愛次郎等の薩州藩士は、同志西郷信吾(縦道)・大山彌助(巌)・篠原冬一郎(国幹)・三島彌兵衛(通庸/みちつね)等二十除名と共に、四艘の船に分乗し、兵器・火薬を積込んで大坂を発し、淀川を遡って伏見に向った。
少しく之に後れて、田中河内介・眞木和泉等十余名も船で其の後を追い、一行は薄暮、伏見の旅舎寺田屋伊助方に入った。
小河彌右衛門等の岡藩士二十余名は、一行に後れて同日午後(未刻/午後二時)大坂を発し、同じく遡江して伏見へ向った。
寺田屋の惨劇
薩州藩士及び諸藩同志の大坂薩藩邸脱出の報は、漸く同日の夕京都薩藩邸に達した。
久光は自ら新七等を説諭しようとして、先づ新七等と親交ある奈良原喜八郎・大山格之助等九人の剣客を選んで、伏見に赴き、新七等を鎮撫して之を伴い帰らしめんとし、若し命に從はぬ時は臨機の虜置を行ふべき事を命じた。
四月二十三日の夜、一行は、下弦の月が未だ東天に登らぬ闇路を、京より伏見に急ぎ、かの三十石船の船着所に近い寺田屋に到着した。
夜も早や三更(午後十一から午前一時)、折しも旋舎の階上階下に陣取った薩州及び久留米藩士は、既に着到の記載を了り、部署を定め、各々、結束を整えて、将に打出でようとして、雑沓を極めていた。
此の時、奈良原喜八郎等は宿の主人を以て、新七に対面を求め、階下で新七及び田中謙助・柴山愛次郎・橋口壮助の四人と對坐し、君命を伝えて切に京の藩邸に來ることを勧めた。
新七等は固く執って動かず、問答再三にして、道島五郎兵衛今は是迄なりとて、「上意」と大聲一呼、抜打に謙助の眉間に斬り付けた。
茲に乱闘が始って、白刃相撃って閃光を発し、四面はたちまち碧血を以て染められた。
大山格之助等は大刀を提げて階段の側に伏し、階上より下る者三人を断った。
楼下別室に在った真木和泉等は、初め伏見奉行手の者の來襲かと疑ったが、薩州藩士同志の争闘と知っては、之を制すべくもなかった。
和泉は其の日記に死闘の状を記していう。「巳に夕飯を喫し、糧餉を整え、草鞋を着けて立つ。前堂忽ち擾がしく、聲有って、啼くが如し。予等以爲らく幕吏來るかと。聲愈々高し。之を窺う。皆白刃を挺して相闘う。刃相撃って火を発す。其れ光電の如し」と、以て其の乱闘の激烈なりしを知る。
既にして闘がやみ、鮮血を全身に帯びた喜八郎は、河内介・和泉を促して、其の楼上に赴き、君命を伝え、丹誠を披瀝して衆を説いた。衆議或は割腹せんといい、或は斬死せんと云い、紛々
として決しなかったが、既に首領新七等を失い、謀主河内介・和泉等も一時義撃を中止することを説き、議は終に京都の薩州藩邸に赴くに決したのであった。
此の争闘で鎮撫使側の道島五郎兵衛が死し、志士側では有馬新七・柴山愛次郎・弟子九龍助・橋口傳藏・西田直五郎・橋口壮助が闘死し、田中謙助及び森山新五左衛門は重傷を負い、翌日伏見藩邸に於いて死を賜った。
世に之を寺田屋騒動という。
尋いで薩州藩では西郷信吾等二十余名を藩地に還し、眞木和泉等諸藩の志士をそれぞれ、其の藩に引き渡した。
小河彌右衛門等は変後伏見に到着して、薩州藩邸に入り、尋いで入京した。
而して是等志士は孰れも帰藩後、罪を獲たが、決して其の行藏(こうぞう/行動)を誤らなかったのである。
就中最も憫れむべきは、悲惨な最期を遂げた田中河内介父子等である。
河内介父子・干葉郁太郎・中村主計(河内介の義弟)・海賀宮門(かいが・みやと/筑前秋月藩士)は一身を寄せる処がなかったので、鹿児島に送られることとなったが、五月朔日播磨灘を航行中、河内介父子は薩州藩士の為に斬殺せられ、郁太郎等は日向国網島港で、同じく薩州藩士に殺された。
此の悲惨事は薩州藩の要路が河内介等の薩州藩士を煽動したのを悪んで、此の挙に及んだのであるとも言う。
また其の後、薩州藩土は他から河内介等の行方を問われても、其の実を秘していたところから見れば、曩に寺田屋に於いて斬る者も斬られる者も、義理明白、友誼は溢れるばかりであったにも拘らず、此の一事のみは、世人より疑惑の眼を向けられ、懐に入った窮鳥を殺したという非難を受けたのであった。
此の事件は維新史上の悲劇の一齣(こま)として、有馬新七を始め、惜しみても余りある幾多の勤王有爲の士を失ったのであって、是亦変転極まりない時代が生んだ尊い犠牲と、言わざるを得ないのである。
斯くして西国志土の運動は、久光の制圧によって一先づ鎮静し、討幕計画は挫折したのであった。
而して此の騒擾に際して、所司代及び大坂城代は、敦れも其の手兵を擁しながら、何等爲す所なく一に之を久光の手に委ねていた。
其の後久光は浪士鎮撫の功に依って、畏れくも短刀下賜の恩命を拝したのに反して、所司代等は痛く其の面目を失墜し、幕権の衰微を白日の下に暴露したのであった。
斯くて浪士鎮撫に成功した久光は、輦轂の下に留まって公武合体の議を進め、勅使を警衛して江戸に下り柳営に臨むに至った。
第五節 勅使大原重徳の東下と幕政の改革
一 勅使の東下
曩に千種(ちぐさ)有文・岩倉具視は、皇妹和宮の御東下に扈従(こじゅう)して江戸に至り、叡旨を奉じて営中に於いて閣老等に諭旨し、遂に将軍自筆の誓書を得て帰洛した事は、朝権の著しい伸張を示すものであった。
而も有文等は正式な勅使でなく、また幕府の機構や政治の運用に就いて叡慮の在る所を傳宣せしめられる爲に、特に勅使を派遣せられた事は、未だ曾てなかった。
然るに今や勅使大原重徳は島津久光の率いる兵に護衛せられて、柳営に臨むに至った。
斯くの如く厳然として其の本來の面目を発揮して來た朝威に対して、既に無能無力に陥った幕府は、事毎に其の前に懾伏(しょうふく/従う)し、其の好むと好まざるとに拘らず、先規を破り、例格を棄て、只管朝威に縋(すが)って、纔かに己れの権威を保持する外はなかったのである。
されど幕閣内には猶幕府の盛時を追懐し、其の権威を回復しようとする者が多く、且つ薩州藩が兵力を擁して、公武間の周旋を行おとする事に、大なる反威を懐き、久光の意衷を付度して猜忌の眼を向けるものが多かったのである。
されば勅使は其の使命を貫徹するには、多大の苦心と若干の日子(にっし/日数)とを要したが、其の結果は朝威赫燿(かくよう/輝く)、當に積年の暗雲を払って天日(てんじつ/太陽)を望むの想があらしめたのである。
寺田屋事変後の京都の情勢
伏見寺田屋に於いて激派の志士を鎮圧した久光は、愈々、其の持説たる公武合体の實現に毎應しようとしていた際、略々、時を同じうして、召命によって入京した長州藩世子毛利定廣も、滞京して国事に周旋し、浪士等を鎮撫すべき旨の御沙汰を拝した。
而して嚢に尊攘志士等の忌む所となり、將に襲撃されようとした關白九條尚忠は、自ら反省してか、四月晦日に至り解職を願出でた。
また此の日、幕府の内奏を嘉納在らせられて、戊午大獄に連坐した前闘白鷹司政通・前左大臣近衛忠煕の参朝を許し、尊融(そんゆう)法親王(前青蓮院門主、中川宮)の永蟄居、前右大臣鷹司輔煕の慎を解き、故三候實萬(前内大臣)を追賞在らせられたのであった。
此の幕府の内奏は、薩州藩の周旋に先手を打って行われたものであって、薩州藩士等は之を以て「叡慮に先じて其の功を奪い奉り全く幕府の所置に出で候意を相示し、人心を安堵せしめ、
愈々、幕府の威権を失わず候様にとの趣意」なりと評している。
嶋津久光の勅旨派遣の建議
老中久世廣周に上洛を命ずる朝命は、既に久光の建議によって下されたのであるが、幕府は頗る之を難じ、依違して奉承しなかった。
久光は之が爲に徒らに時日を遷延するを憂え、更めて勅使を関東に遣わさるべきことを建議した。
五月六日朝議は久光の建言を採用せられるに決し、旨を所司代酒井忠義に下された。
勅使大原重徳
是に於いて忠義は速かに廣周の奉命上京すべきことを上申したが、朝廷では終に之を省みられず、八日正三位大原重徳に勅使を命じ、特に左衛門督に任ぜられた。
重徳は時に年六十二。公卿中稀に見る誠忠鯁直(こうちょく)の人物で、夙に朝権の恢復に任じていた。
先年堀田正睦上京の際には、徳川齊昭と国事
を議そうとして、大坂に潜行し、土浦藩士大久保要を訪い、濫(みだ)りに京都を離れたが、特旨を以て朝譴を釈された。
又傳奏東坊城聰長(ときなが)が幕府に阿党するを疑い、之を除こうとして途(と)に其の駕を要したが、人違の為に果さなかった事もあったと言う。
五月十一日朝議あり、勅使をして幕府に宣示せしめらるべき三箇條の叡旨を朝臣に諮詢在らせられ、且つ嘉永癸丑(六年)以来の幕府の失政、国威の陵遅(衰え)を御軫念(しんねん/心配する)在らせられる旨を告げて、上下一致、攘夷の叡旨を貫徹するよう諭し給うた。茲に三箇條の叡慮、即ち所謂三事の策と言うは、(一)將軍が諸大名を率いて朝覲(ちょうきん/天皇に拝謁する)し、闕下に於いて国家治平の大策を建て、国是を討議すべき事、(二)豊臣氏の故事に倣って沿海五大藩の主を以て五大老とし、国政に参与し、また攘夷の功を挙げる爲には武備を充實すべき事、(三)一橋慶喜をして将軍を輔佐せしめ、松平慶永を以て大老とし、以て幕政を扶けしめる事である。
然るに後日、愈々、勅使の出発に際して、此の三箇條の中で、專ら最後の一箇條の實現に努力するよう、特に朝命が下された。
蓋し當時の情勢から見て、之が最も幕府をして奉承せしめ易かったからである。
五月十二日久光に勅して、勅使を輔佐し、叡旨の貫徹に尽力するよう命ぜられ、更に在江戸の長州藩主毛利慶親にも勅使を輔佐すべきよう御沙汰が下された。
勅使発途
二十一日重徳は参内して東下の御暇を請い、翌日京を発し、久光は手兵を率いて之を護衛し、東海道を下ったのであった。思ふに從來、関東への勅使は、年賀答礼使、日光例幣使として、及び臨時の大礼に際して差遣わさせられたのであるが、其の從者は僅(わず)かに家司・侍等の外は臨時雇傭の雑色・人足等で、小諸侯参勤の行列にも及ばなかった。
然るに今や西国第一の雄藩の兵が勅使に随従
護衛したのであるから、儀衛は當に堂々、威風は沿道を風靡し、士民は驚嘆して之を送迎した事であらう。
幕閣の改造
是より先、幕府に於いては老中安藤信正は職を退き、山形藩主水野和泉守忠精(ただきよ)・備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)が老中と爲り、勝静が主として久世廣周と戮力し、此の二人が幕閣の中心となった。
幕府は既に前年、岩倉具現等に依って伝宣せ
られた和宮御降嫁に因る大赦執行の叡慮を遵奉するに決意していたが、今や島津久光の朝廷建議の趣旨を聞き知るに及んで、予め之に封應する措置に出でようとした。
即ち四月二十五日、先づ徳川慶勝・一橋慶喜・松平慶永・山内豊信の他人面會・書信往復の禁を釈(と)いて、全く宥免した。
尋いで五月の初、會津藩主松平肥後守容保・松平卒慶永に、幕政に参与することを命じ、田安慶頼の將軍後見職を免じた。
されど天下の衆望を負うた慶喜の幕政参与は依然實現しなかったのである。
而して此の間に幕閣は常に動揺し、久世閣老は長井雅樂の公武周旋が失敗に帰したのを見て、従来専ら之に依頼し來ったが爲に、晏如(あんじょ/平穏)たるを得ず、病と称して上洛の朝命を辞していたが、遂に六月二日職を辞し、また老中内藤信親も其の前に罷められ、前龍野藩主脇坂安宅(やすおり)が再び老中と爲った。是に於いて所謂久世・安藤の幕閣は全く倒壊したのであった。
斯かる間に幕府は勅使が京都を出発したとの報を得たので、かの朝旨三事策の一である将軍上洛の事を決定し、六月朔日之を諸侯等に布告して、勅使の東下を待ったのであった。
此の時に方って、幕府は久光の卒兵入京及び公武周旋に対して、頗る之を嫌忌したのであった。
是は蓋し幕閣から言えば、無位無官の久光が勅使を守護し、實力を擁して幕府に臨もうとしたからである。
是にも。拘らず勅使大原重徳は、列藩及び志士等環視の中を、堂々として江戸に入り、やがて柳営に臨むこととなったのである。
(p412)
※研究会の会員を全国を対象に募集します。また研究会では幕末維新史に関わる研究論文発表を歓迎いたします。
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◇ ◇ ◇
第二十回全国幕末維新史研究会
□年齢を問わずどなたでも参加できます
日時 一月二十八日(土)
午後一時時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 18 回テーマ 公武合体 坂下門外の変
日時:令和4年11年26日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十八回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年十一月二十六日
午前十時より正午
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p366‐387を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第三章 公武合体
第三節 坂下門外の変
二 常野志士の連盟
尊攘志士と大橋訥庵
此の頃宇都宮を中心として下野(しもつけ)地方には、尊攘志土が所在に決起するのを見たが、其の中の重鎮というべきは実に大橋訥庵と菊池澹如(たんじょ)の二人であった。訥庵は上野(こうずけ)の人長沼流兵學者清水赤城の男で、壮年宇都宮の豪商大橋淡雅に養われて其の女婿となり、宇都宮藩の士籍に列した。
初め佐藤一齋に學び、後、帷を江戸に垂れて書生に教えたが、其の儒名を聞いて、来り教を請う者が多かった。
訥庵はまた国を憂え、常に尊攘の大義を唱え、名分節義を尚(尊)んだ。
嘉永六年米艦の來航するや、「元寇紀略」を著して人心の興起に力め、叉其の著「闢邪小言」は西洋の學を駁し、異端の説を斥けて、国体の尊厳を説き、華夷の別(尊皇・易姓革命否定)を辮じたもので、広く世に行われて、其の盛名は尊攘志士の間に喧伝されたが、終に其の門下及び常野志士等に推されて、坂下事変の総帥となった。
また訥庵の義弟菊池澹如は、商売であるにも似ず文雅の嗜み深く、憂国の念に厚く、常に私財を散じて志士を庇護したので、聲望自ら同志の間に高く、能く訥庵と志を併せて国事に尽瘁したのであった。
堀利熙の自殺と訥庵
萬延元年十一月、外国奉行堀利煕が突如自殺して世間を騒がせた。
蓋し其の死は普国條約締結の事に関して、老中安藤信行から叱責され、漸恨(ざんこん)して責を引いたものだという説が、眞實に近いものであったが、当時自殺の原因が不明であり、且つ時人が其の死を惜しみ、種々の巷説を伝えるに至った。
茲に利熙の遺書と称し、廃帝説及び幕吏が外人に阿諛(あゆ/へつらう)する状を記して、死を以て信行を苦諌する偽書が、坊間に流布され、後日大いに志土をして悲憤慷慨せしめた。
然るに世上では此の書を以て訥庵門下の筆に成ったものと言い、或は訥庵は利煕と謀って屡々、信行に苦諌したとも称するが、固より確實な説ではない。
叉此の偽書は々、坂下事変後、世に出たもののようであるが、併し是に記された事柄は、夙(つとに/早くから)に志士等が信行に対して非難攻撃していた所であった。
訥庵の王政復古の説
訥庵は此の間に深く天下の大勢の推移に就いて考える所があったが、終に文久元年七月意を決して宇都宮に下り、義弟澹如と會して、王政復古の秘策を草した。其の大意は、海内の輿望を失い、府庫の窮乏を告げている幕府は、外面はなお盛んなようであるが、内實は既に衰微の極に達し、毫しも恃み難く、纔(わず)かに祖先の余澤で諸侯を指揮するのみである。
其の滅亡は決して遠きことでなく、近く十年の間に在る事は明白である。
即ち今こそ朝権恢復の機運は到来したのであるから、幕府を恃(たの)ませられて、公武一和に叡慮を労し給ふの要は毫しもない。
されば天朝から速かに攘夷の勅命を海内に布かれて、勤王の士を感奮興起せしめられ、以て租宗御歴代に御報答在らせらるべきである。
幕府が若し之に対して、不逞不臣の挙に出でようとしても、諸侯のうち一人として之に応ずるものがなく、假(も)し幕府に味方して弓を朝廷に攣くものがあっても、勤王の軍は所在に競い起こって之れを討伐するであらう。
斯くて今まで微弱にましました天朝の御威光を、古に復そうといふのである。
仍りて訥庵は同年九月此の上書を門人椋木八太郎郎に授け上京して宇都宮藩主戸田氏の姻戚
である正親町三條家に頼って之を上覧に供へようとしたのであった。
訥庵はまた之と同時に、既記の如く門下児島彊介を水戸に遣わして同藩から攘夷実行の壮士を求めしめた。
黙るに水戸藩士野村彝之介は外人を斬るよりも、安藤閣老を斃す事を主張し、訥庵は斬奸には準備を要して、容易に行はれぬとしたので、未だ常野志士の合同の機會が熟しなかったのである。
輪王寺宮擁立策
是の頃澹如の同志多賀谷勇(長州藩毛利筑前の家士)・尾高長七郎は、輸王寺宮(慈性法親王)を奉じて、日光山若しくは筑波山に拠って攘夷の魁をしようと企て、先づ水戸に赴き原市之進を説いたが、其の應諾が得られなかったので、十一月訥庵を請うて出馬を求めた。
訥庵も軽挙を戒めて容易に応じなかった。
既にして訥庵が密かに待望していた攘夷の勅勅諚渙発の事は、時機が未だ早くて結局失敗に終ったので、訥庵はは失望禁ずる能わず、更に澹如・勇等に策を授けて、輸王寺宮を擁立すると同時に、再び人を京都に遣して、攘夷の大號令の公布を奏請し、朝命を以て幕府に臨み、幕府がそれを奉ぜぬ時には、断然倒幕の挙に出ようと企てた。
常野志士の斬奸計画
併し此の策も亦機が熟せず、中止のの己むなきに至ったので、訥庵は遂に水戸藩士の計画に合流して斬好の挙に戮力するに至った。
諦港が澹如に与えた書によれば、彼が斯く決意するに至ったのは同年の十一月上旬であって、略、十二月十五日を以て決行の期としたが、水戸の同志は全く禁圧せられて、容易に決死の士を集めることを得ず、且つ一挙を薩・長二藩に通じて事後の措置を依頼依頼し、斬奸の效果を大ならしめようと苦心、其の交渉の為に決行の
期を更に十二月廿八日に延期するの己むなきに至った。
此の頃水戸藩の西九帯刀・岩間金平二人は、書を長州藩の桂小五郎に贈って、一挙の陣容未だ整はず、なお同盟志士の助力を待つの要はあるが、時勢は既に切迫し、若し遼巡して此の機を失えば、士氣沮喪して再挙は期し難い状情に在る事を告げて、丙辰丸盟約を果すやう斡旋を求めたのであった。
けれども小五郎は尚早を唱えて自重を求めたに過ぎなかった。
訥庵等の逮捕
斯くて遷延に遷延を重ねた一幕も文久二年に入り、謄如等は切りに事を急ぎ、正月六日同志を宇都宮に會して別離の宴を張り、尋いで決死の士を江戸に潜行せしめた。訥庵はなお「開店は十五日ならでは、此の方の手筈間に合わず、
開店を急ぐは尤ものようなれど、無理な算段にて業を開けば、成功は覚束なし」と報じたのであった。
然るに事の将に決行されようとする数日前、訥庵は突如幕吏の為に捕えられるに至った。
此の頃宇都宮藩士岡田眞吾は妻の兄松本鉄太郎と共に、別に一橋慶喜を擁して日光山に拠り、檄を諸侯に伝え、奸臣を斬り、尊攘の大義を尽くそうと策し、指揮を訥庵に請うた。
訥庵は是亦一策なりとして、其の建白書に加筆筆し、正月八日自ら門下生で一橋家近侍番の山木繁三郎を訪ねて秘かに慶喜の奮起を促す上書の執次を依頼した。
黙るに繁三郎は怯儒で、疑倶の念に堪えず之を用人に告げたので、遂に幕府の知る所となった。
また訥庵の門人宇野八郎(後に長州藩士に刺殺された)も亦変心して、幕府に之を密告したので、同十二日訥庵は幕吏の為に捕えられるに至ったのである。
翌日誌港の子燾次(とうじ)、尋いで十四日錤太郎等も亦捕縛された。
訥庵が捕えられて後三日にして坂下門外の変は起ったのである。
三 閣老安藤信行の要撃
坂下門外の襲撃
文久二年正月十五日、此の日は上元の佳節であるので、在府諸侯の登営するものが引きもきらぬうちに、老中安藤信行は行列を正して、将に坂下門に近づかんとした刹那、一発の銃聲は響き亙って、六人の壮士は自刃を振りかざして
信行の乗輿目掛けて切って懸かった。
是は言う迄もなく常野志士の一味であった。壮士六人は水戸浪士平山兵介・小田彦三郎・黒澤五郎・高畑総次郎・下野の河野顯三・越後の川本社太郎であった。
既に前年の櫻田事変によって閣老等は大いに戒心し、信行の行列も屈強の従者者三十余名を随へて、充分に警戒を加えていた。
それが為に壮士は信行の従士の為に阻まれ、僅かに兵介が乗輿に薄って、一刀を信行に溶びせたのみで、衆寡敵せず、尽く乱刃の下に枕を並べて闘死した。
信行は背後に一創を負うたが、辛くも門内に遁れて、生命には別條が無かった。
斬奸趣意書
弦に水戸浪士川邊左吹衛門(内田万之助)も亦要撃の一員であったが、期に遅れたので、直ちに外櫻田の長州藩邸に到って桂小五郎に面会し、同志の後を逐うて見事に割腹した。
此の時左次衛門の懐中していた斬好趣意書は、天下に喧伝されるに至った。
其の起筆者は或は訥庵なりといい、或は原市之進なりともいい、軌れが眞であるかは不明であるが、其の趣旨は、井伊大老要撃の動機から説き起して、安藤閣老の好謀は井伊にも過ぎるものありと爲し、其の罪状を列挙していう。
即ち先づ皇妹和宮御降嫁の事は、表面朝命を以て仰せ下されたが如くに装うて、公武合体の姿を示すも、実は好謀威力を以て強奪し奉るも
同様なれば、此の後ば皇妹を擁して交易の勅許を要請するに至るは必然である。
また若し此の事が行はれなければ、竊かに譲位を迫らうとする底意で、既に和学者に命じて、廃帝の古例を調査せしめた始末である。
是は責に將軍家を不義に陥れ、萬世の後まで悪逆の汚名を流さしめるもので、其の謀逆は北條・足利にも超過し切歯痛憤の至りである。
更に其の外夷取扱の状を見るに、外人に封しては慇懃丁寧を極め、何事も其の求める所に随い、或は沿海の測量を許して、皇国の形勢を教え、或いは江月第一の要地(御殿山を公使館敷地に貸与する事をいう)を外人に貸渡す類は、彼等を導いて我が園を奪わしめるも同様である。
しかのみならず外人と封坐して密談数刻に及び、骨肉同様に親睦して、却って園内忠義憂憤の者を仇敵視するは、国賊というも猶余りある事である。
既に「シーボルト」なるものを政務の顧問とした風評もあり、信行をしてなお存命せしめれば、数年を出でずして我が国榊聖の道を廃し、耶蘇教を奉じて、君臣父子の大倫を忘れ、利欲のみを尊び、外人同様禽獣の群となる事疑いなしと述べ、斬奸の動機に論及して、是を以て微臣等は痛哭流悌大息の余り、余儀なく奸那の小人を殺戮して、上は天朝幕府を安んじ奉り、下は国中万民の禍害を防ぐのみである。
夫れ皇国の美風は、君臣上下の大義を辮じ、忠孝節義の道を守るに在る。
仰ぎ翼くは井伊・安藤二奸の遺轍を改革し、傲慢無礼の外夷を疎外し、上下一心合体、尊王攘夷の大典を正し、名分を明らかにする措置あるよう望む。
是れ身命を抛ち、奸邪を誅する所以の微忠に外ならないと結んでみる。
此の斬奸趣意書は同志皆懐中していたが、幕府は之を没収して、その流布を阻んだが、長州藩土に伝ったものが天下に流布し、當時の志士を鼓舞するに至ったのである。
安藤信行の罷免
熟々此の趣意書に記された所を考えるに、和宮の御降嫁が如何に常時の志士の眼中に映じたかは想見するに足るものがある。
而して廃す帝調査の説は、当時の志士等が專ら之を信じ、畏れも叡聞にも達し、宸襟を憎まし奉った程であった。
和學所の塙次郎は後日廃帝の事例を調査した嫌疑で暗殺せられ、また園學者鈴木重胤も疑いを受けて非命に仆れたのである。
また幕府の軟弱外交に封する非難攻撃は、尊攘志士の間のみならず、多藪士民の齊しく憤慨していた所であったが、一方に幕末の閣老中で、尤も樽爼折衝の才幹があったと構せられた安藤閣老をして言はしめれば、固より辮疏反駁する所も多かったであらう。
併し衆怨を一身に負うた彼は、遂に之を辮ずる機會もなく、後日創が癒えて再び登営するに及び、誹謗攻撃が幕府の内外から百出し、遂に同年四月其の職を罷められて、爲に幕閣の一角は崩壊したのであった。
志士の就縛
幕府は事変後、其の余党の検索を行い、宇郡宮の菊池澹如・岡田眞吾・児島彊介・下野の小山春山・横田藤太郎・肥前の中野方藏・伊豫の得能淡雲等を捕えた。
其の後勅使大原三位の東下があって、天下の形勢が更に一変したので、幕府は訥庵以下の訊問を中止し、既に獄死した彊介・藤太郎・方藏・淡雪を除いて、他は悉く釈放したが、訥庵は出獄後数日で死し、澹如も尋いで病没した。
或は言う獄吏が密かに毒を盛ったのであると。
思うに萬延・文久に亙り、時勢が将に一変しようとする時に方って、所在に決起した尊攘志士の幕府の内外諸政に封する鬱憤と、其の権臣排斥の氣勢とは、遂に発して此の事変を生んだのであった。
然るに攻防忽ち地を易えて、事は終に博浪の一撃に絶つたが、しかも此の事あったが爲に、幕閣中堅の執政をして失脚せしめ、天下の志士をして徒手なお事を爲すべしの思いを深からしめ、殉国報報效の念を旺んならしめたのであった。
此の事変に先だって、既に庄内の志士清川八郎は天下を周遊して九州に入り、眞木和泉・平野二郎等勤王の士と氣脈を通じ、海南の志土武市瑞山・薩の有馬新七等も亦既に起ち、今や公
武合体・幕閣改造の見地を超越して、倒幕王政復古の一途に邁進しようとするに至った。
而して堅忍自重、密かに機會の到來を待っていた薩・長其の他の雄藩の国事周旋も、漸く顯著なる動きを示し、時勢は更に錯雑紛糾を極めるに至ったのである。
第四節 雄藩の国事周旋
一 長州藩の活躍
政局の複雑化
幕末多事の際に於ける諮候及び藩士等の動向を稽(かんが)えるに、天下大小の諸藩は悉く時代の趨勢に従って、藩論は勤王佐幕、開国攘夷に分れ、藩内には守奮・進取の二派があって、互に対立抗争するを例とした。
其の内訌が水戸藩の如くに激烈であったのは稀であるが、孰れも多少の抗争は免れ難く、同じく進取即ち革新を主とするものでも、各自の立場環境其の他の相違によって、或は急激なる改革を図るものと、叉は徐に之を行おうとするものとがあって、急準漸進の二派を生じたのである。
しかも之は単に諸藩に於けるのみでなく、朝臣等に於いても同様であった。
斯く一藩の動向が必ずしも一定しないばかりか、国事周旋に乗り出した雄藩相互の歩調が、必ずしも合致せず、動もすれば封主の勢を爲して、容易に連衡の気運に至らなかったが爲に、政局は事態の進展と相俟って錯雑紛糾を極めるに至ったのである。
而して雄藩は幕府を顧慮せず、専ら朝旨を奉戴し、且つ己れの實力を恃んで、公然幕府に対抗するに至ったのである。
茲に朝幕の開係は主客全く其の地を易えて、政治の中心は遂に将軍の居所を離れて、輦轂の下に移ることと為ったのは、必然の結果と謂うべきである。
而して是等雄藩のうち、早く公武の間の周旋に進出したのは薩・長二藩であった。
長州藩
元亀・大正の往時、山陰・山陽両遣に亙って、百十余萬石の地を領した毛利氏は関ケ原役に蹉跌して、防・長二州に削封せられ、其の采邑は漸く三十六萬九千余石に止まったが、二州の實収は幕末に於いて八・九十萬石に上り、天下屈指の大藩と比肩して、敢て遜色なき實力を有っていたのである。
而して毛利氏の朝廷に封する関係は、戦国の世に其の祖元就が正親町天皇に即位の資を献じ、其の孫輝元に至る三代の間に、石見銀山の銀を御用度の資に充て奉った古い由緒によって、自ら他とは異るものがあった。
即ち江戸時代を通じて歳首・歳末には特に太刀・馬代を貢献し、恒例臨時の貢献等、総べて執奏の事は、一に勧修寺家(藤原北家)に由るを定例としたのであった。
天保八年藩主敬親(慶親)が襲封するや、村田
清風を挙げて、財政の整理、民政の刷新、文武の奨励、兵制の拡張に努めしめ、以て他日雄飛の素地を作ったのであった。
而して清風の薫陶威化によって人材は輩出し、尋いで吉田松陰は忠君愛国の至誠を以て子弟を教え、其の鼓舞作興の力は、松下村塾に於いて幾多俊秀の士を生んだのであった。
長州藩の活動
安政五年、時局は益々、紛糾し、朝幕の間は漸次乖離の勢を増して、京都の情勢は将に不穏ならうとするに及び、八月議奏中山忠能・正親町三候實愛は、密旨を甲谷岩熊(長州藩家老も売り筑前家士)に授けて、之れを長州に齎らしめた。
其の密旨は当時長州藩が幕命によつて兵庫警備の任に應っていたので、萬一京都に不慮の変起こった際には、同藩をして禁闘を警衛し、王事に尽瘁することを依頼せられたものである。
尋いで右大臣鷹司輔煕を以て水戸藩に賜った勅旨を傳達せしめられたので、藩主慶親は周布政之助を京に上せて、實愛並びに輔煕両卿に就き、皇城の守護に奮励すべきことを内奏し、且つ外患切迫の際に方り、国内が反目乖離して内憂を生ずることがあれば、皇国の一大事であるから、海内一和して、公武の間の合体することが急務である旨を陳述させた。
此の時に方って、少壮有爲の藩士等は京都・江戸に出でて、水・薩其の他の諸藩有志と交り、国事に奔走するものもあったが、藩としては未だ進んで国事を周旋するには至らず、專ら藩治に意を用い特に軍制の改革を断行して、洋式兵制を整え、以て他日の用に備える所があった。
二 長州藩の国事周旋
其の後天下の形勢は依然として紛糾し、勤王志士の抑覇穣夷の運動が漸く活発となって、海内分裂の危機にも到らうとする情勢となった。仍って文久元年の夏より長州藩は、航海遠略策を提げて、朝幕の間に周旋を試みるに至った。
航海遠略策
茲に航海遠略策というは、藩の直目付長井雅樂の建議に基づいて、當路の老臣等で議決したものである。
其の主眼とする所は、公武一和して内を治め、開国進取の大策を樹てて、皇威を海外に振おうというのである。
即ち現下の朝幕間の乖離、国内人心の不和の根源は、開鎖和戦の国是が一決せられぬのに帰すべきである。
然るに方今第一の急務は、航海の術を開き、五大洲の形勢を熟察して、我が神州の国威を立てるに在る。
畏れくも叡慮の程を伺い奉るに、只管国威の立つ事を望ませられるにあって、必ずしも鎖国の奮慣に拘泥在らせられるのではない。
されば我が国威が立って、彼の圧迫に屈するのでなければ、宣しく国を聞き海に航して、五大洲を澗歩するとも、聊かも叡慮に違う所はあ
るまいと拝察する。
然れば幕府は断然国威挽回の策を立てて、列藩に諮り、叡慮を何い奉って、速かに航海遠路の策を行い、皇化を五大洲に施すべき大計を
定め、改めて勅諚を以て此の国是を天下に発令せられ、幕府が之を尊奉して台命を列藩に下し、列藩之を遵守蓮守するに至れば、人心一和上下一致し、偸安忌戦の陋習は忽ち改って、富国彊兵の実が挙がるのである。
夫れ鎖国は今日の定法となり、島原乱後特に巖重となったが、其の以前は外人の居住をも許容した。また王朝の盛時には京都に鴻臚館(こうりょかん)を鐘でて外客を遇せられ、祓年祭の税調には往古朝廷の雄図遠路が歴々として見れている。
黙れば天日の照臨する処は、遠近となく、量化を布くことは皇租皇宗の神慮にも叶うべきものであるから、當今の機會に乗じて、港を開き、航海の術を興し、神州固有の遠略を継述すべきであるというのであった。
長井雅楽の朝廷入説
長州藩主毛利慶親は此の議を容れて、先づ雅楽に命じて京都・江戸の情勢を窺い、公武周旋の素地を作らしめようとした。雅楽は長州藩の名門に出で、人と為りが鋭敏で、挙止端嚴、威容を備えて、最も辮舌に長じていた。
穂井藩士中根雪江は彼を評して、防・長二州の内にて智辮第一と呼ばれた程あって、其の陳
述は理路整然、委曲を尽して才辮流れる計りであると言った。
雅楽は先づ長州藩の支藩長府・清末・徳山の諸侯及び支族吉川氏に各々慶親の意を伝えて、其の同意を得た後、文久元年五月京郡に入り、十五日議奏正魏町三條實愛に謁して、建白の趣旨を陳述した。
尋いで實愛の需に辞し難くして、私に其の主旨を記述して之を呈した。
實愛はなお其の書に就いて疑義を質した上、之を天聴に達したところ、叡戚嘉尚在らせられ、周旋すべき内命を下し給ったので、六月二日實愛は雅楽を招いて、此の旨を伝達したのであった。
雅楽の幕府入説
仍って雅築は更に幕府に入説を試みる爲に、同日京都を発して江戸に赴き、先づ幕府奥鮎筆組頭早川庄次郎を頼って入説の素地を作り、七月二日老中久世廣周に面謁して建白の趣旨を陳べ、八月三日更に廣周の意を承けて、老中安藤信行に之を誘いた。廣周等は雅楽の説に傾聴し、毛利氏が進んで公武周旋に尽瘁することを望む
意を漏らすに至った。
思うに、当事幕府は内憂外患に悩み、公武合体の確立に苦心していた際であるから、圖らずも此の建策に接して、有力なる助勢を得たが如くに考え、而も共の説く所が公武の一和、開国航海の策であったので、頗る之を歓迎し、終に外様大名である毛利氏に其の周旋を依頼することを辞さなかったのであらう。
雅樂は之に対して周旋の任は他に其の人があらうから、仮令幕府の命が下らうとも、藩主慶親は之を固辞するであらうと、他日の為に余地を存したのであった。
斯くて雅楽は京都・江戸に於ける遊説が、其の緒に就いたので、江戸を発して、帰藩の程に上り、途中京都に立寄って、江戸に於ける経過を實愛に報じ、八月末帰藩して具さに東西の情勢を復命したのであった。
毛利慶親の幕府建議
是に於いて毛利慶親は雅楽を随えて藩地を発し、十一月江戸に入り、十二月八日幕府の需(もとめ)に応じて、初めて建白書を提出した。
建白の趣旨は固より雅楽の建言と相違はないが、其の中には、特に此の際天朝尊崇の實を挙げて、大義の存する所を明かにし、武傭を張り、航海の術を起して、天下の人心を一新し、厳然
として国体の立つよう措置を講ずべきことを進言している。
同月晦日廣周は雅樂を引見して、幕府の議は慶親の建議を以て、時務に剴切(かいせつ)にして、之を措いて他に良策なしと認め、將軍も亦大いに威悦して、周旋の事を慶親に委ぬべき内旨を下したと告げた。
雅楽の京都再遊説
慶親は之を謝して、斯かる大事の負託に任ずるには、なお準備を要するを以て、暫く猶豫あらんことを請い、翌文久二年正月雅楽を特に中老雇と為し、京都及び藩地に遺して、奔走せしめようとした。
偶々、坂下門外の変が起ったので、雅楽の入京も後れて、漸く三月に至って入洛し、正親町三候實愛に謁して、江戸の状を述べ、更に中山忠能・岩倉具視・大原重徳等を歴訪して、雄辮滔々藩論の在る所を説いたのであった。
長州藩周旋の蹉跌
然るに雅楽の周旋は此の頃に至って蹉跌の兆が、歴然として蓋ふべからざるものがあるに至った。
今其の由來を考えるに、長州藩士の中にも、當初から雅楽建議の趣旨及び彼の周旋を悦ばぬ者が少なくなかった。
桂小五郎・久坂玄瑞・楢崎彌八郎等の如き当時江戸に在って、水・薩藩兵の他の諸藩志士と幕府匡済を謀っていた所謂急進派が、其の主なものであった。
玄瑞は既に早く文久元年三月、航海遠略策は其の説く所愉快に聞えるも、大義の頽廃せる今日、なお他に爲すべき大急務があらうとて、藩庁に熟圖するよう建議している。
小五郎も亦屡々周布政之助等に、諸方志士の動静を告げて、長州藩の周旋が時勢に背馳する所以を説いた。
尋いで皇妹和宮御東下の事が決するや、玄瑞等は憤激の極み、宮の御下向を阻止しようとし、政之助は之を慰諭するに悩んでいた。其の時、藩主慶親が参府して公武周旋に應らうとしたので、政之助は深く慮る所があり、九月玄瑞を伴い、藩府の許を経ずして任地を去り、途に藩主の駕を迎え、關東の情實を訴えて、其の善処を渤説しようとしたが、却って藩譴を蒙ったのであった。
既にして坂下門外の変が起り、東西の志土は京都に雲集して風雲の機を窺い、時勢は討幕攘夷の氣勢を昂め來ったのであった。
されば雅樂が京都に入るや、誹謗攻撃の聾は彼の一身に蝟集(いしゅう/集中)するに至った。
西郷吉兵衛は彼を以て大奸物といい、村井修理少進政礼(まさのり)は彼の建議の趣旨を評して、勅命を以て航海を開く事は、幕府從來の和交説を潤色し、一層之を増長せしめるものであると非難した。
雅樂はまた京坂に在る藩士及び諸藩の志士等に、周旋の眞意を辮明するに努めたが、形勢は日に非にして、自ら其の書状に、「薩州人其の外浪士、私を奸物と名目仕り、刺すの突くのと申す評判誠に高し」と記している状態であった。
所司代酒井忠義が、彼の周旋を評して、惜しいかな、時機既に遅れたりと言ったが如く、彼の失脚は免れぬ勢いとなったので、四月遂に藩命を以て江戸に召還された。
而して長州藩の公武周旋は、薩州藩主茂久の生父島津久光の上洛によって、更に大頓挫を招いたのであった。
(p387)
第十九回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢問わずどなたでも参加できます
日時 十二月二十四日(土)
午後六時から八時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 17 回テーマ 公武合体 開港とその影響
日時:令和4年10月22日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十七回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年十月二十二日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p344‐366を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第三章 公武合体
第二節 開港とその影響
二 貿易の趨勢と其の影響
貿易の趨勢
安政六年五月、幕府は一般商人に布告して、六月より神奈川・長崎・函館三港を開き、米・英等五カ国商人と自由に貿易を営むことを許可する旨を令し、茲に列国待望の貿易を開始した。
然るに貿易の開始と共に、その実施方法及び施設に就いて俄然紛議が百出し、列国使臣の抗議、外商等の愁訴、内外商人間の争議が絶えないで、幕府は之が爲に悩殺せられたのである。
外国側抗議の最も主要なものは、條約に明記されている内外人間の自由勝手の貿易が、幕吏の仲介検閲を経るを要し、また邦人貿易業者は特定の免許人に限定され、或は貿易の品種数量に制限が行はれて、實際には少しも自由売買が行われなかった事であった。
殊に萬延元年閨三月、幕府が江戸問屋の歎願を容れて、横濱から輸出する生糸・呉服・蠟・水油・雑穀の五品は、必ず江戸問屋の手を経由すべきことを令したが爲に、横濱市場への出荷は澁滞し、価格の騰貴を來して、外人の抗議を惹起した。
其の他税関制度の不備、吏員の不熟練、官尊民卑・繁文褥礼等に因る事務の渋滞、荷船・労役夫の不足、僕婢雇傭に対する幕吏の干渉等に就いても、外国領事等は絶えず不平を鳴した。
外国領事等は常に之が改善を要求し、特に英国総領事の如きは是等を以て条約の違反であると爲して彊硬に抗議し、屡、支那の覆轍を覆む勿れと恫喝を弄したのである。
横浜の貿易
貿易の前途に斯かる障碍(害)が横たわり、且つ国内には攘夷の氣勢が日に昂(高)っていたにも拘わらず、三港の貿易は意想外の発展を示し特に横濱港の商況急速な進展振りは、開港当初の上海にも遥かに勝るものとして外国等から多大の期待を持たれたのである。試みに同港の貿易額を瞥見するに、
年次 輸入額 輸出額
蔓延元年 925.010 3,957,643
文久二年 2,144,800 6,317,086
元治元年 5,536,490 9,357,218
慶応元年 13,031,867 16,867,925
明治元年 15,006,875 18,763,425
(単位:㌦)
と累次躍進の趨勢を示している。
而して輸入品の主なものは、呉呂服(毛織物)・キャラコ(織地が細かく薄い平織綿布、強い糊付け仕上げをし、光沢がある)・金巾(かなきん/細めの単糸で密に織られた軽くてしなやかな生地)・更紗(模様付けした綿布)・麻布等で、主なる輸出品は生糸・茶・油・銅・雑穀・海草類である。
就中糸は当時欧州の主要産地伊・仏両国が不作で、支那産生糸が代用されていたが、新に出現した我が国産生糸の品質が、遥かに良好であるが爲に異常な歓迎をうけ、百斤の価格は五百ドルを唱え、輸出外商の利潤は四割に及んだ。
後年前橋産の上質は八百ドルに高騰した。
英国貿易の優勢
列国中の英国の貿易額は三港を通じて最初から一頭地を抜き、此の趨勢は年々変わらなかった。
例えば元治元年五月の報告書に依れば、横濱貿易総額の十三分の十一は同国の占める所で、米・蘭二国之に次ぎ、佛国は遥かに下位に在り、
露・普(スペイン)・端西(スイス)等は殆んど言うに足らぬ状態であった。
長崎・函館二港の貿易に就いて見るに、前者には和蘭との出島貿易、清國との俵物貿易が依然勢力を有っていた爲に、新来の英米も容易に之を凌駕し得なかったが、後には英国が牛耳を執る事となった。
貿易の影響
翻って我が経済界は、斯かる急激な貿易の発展に件うて當然起こるべき物資の不足に対して、生産拡充、需給調節等の根本策が殆んど講ぜられていなかったので、俄然一大変動を受けて物価は騰貴し、国民の経済生活はいたく圧迫されるに至った。
物価騰貴と士民の困窮
幕府も固より全然之に無関心であったのではなく、日常生活の必需品である米麦の輸出制限を条約上に規定しているが、かかる局部的対策では何等の実績も挙がらず、主要輸出品である生糸・茶・水油等が輸出又は買占等に依って、市場に拂底(ふってい/品切れ)し価格の騰貴を見るや、一般物価も亦之に伴って高騰する始末であった。
之に加え、各生産地から物資を自由に開港地に搬入する結果は、従来の問屋、諸組合制度に由る配給組織を攪乱し、彼此相侯って物価の暴騰は底止する所を知らず、物によっては実に三倍乃至五倍以上に上った。
而して貿易に依って利潤を得る者は、言う迄もなく少数の貿易關係者のみで、士民の大多数は徒らに生活苦に悩み、特に城下都市に在って、常に財計の窮迫を喞(かこ)っている最大の消費階級である一般武士の蒙った苦痛は甚だしいものであった。
されば彼等の怨嗟の声は日に盛んとなり、当初から貿易を以て我が雄用品を搬出して彼の贅物を移入するように解する者が多かったのであ
るから、果ては一切の禍源を外国貿易に帰して、貿易を呪詛し、外人を疾視し、幕府当局者を怨むに至った。
例えば万延元年三月、外国掛・大目付等の「産物方御取建並商法御試之儀」という建議書の一節には、開港後は日毎に物価が騰貴し、金銀貨の引換は渋滞し、銭相場は上り、上下の困窮は実に前代未聞の事である、とある。
而してその原因が貿易の開始にある事は言うを侯たない。
此の間に在って上下は皆幕府が独り貿易の利益を占めていると考えて、幕府の処置を怨んだ
が、内実は幕府も開港に件う失費が莫大で、其の償却の方法さえ立たぬ始末である。
蓋し貿易開始後の幕府の関税・居留地借地料其の他の収入額は詳かでないが、慶応三年四月勘定奉行小粟忠順(ただまさ)等の建白には、横濱のみにて一箇年凡そ百万両余と見えているから、略、其の概数は想像せられる。
此の収入は開港場施設、外国に対する賠償金支出等の財源となった以外に、涸渇し切った幕
府の財政を救ったものである。
江戸士民の窮乏
更に当時の士民中で最も打激を蒙ったものは、貿易の殷賑(いんしん/盛況)であった。
江戸の武家・諸職人等は日常生活に難渋する者が夥しく、府内の場末には三度の食事にも事欠く町家も多数あり、また近在には飯米を日毎に買って暮らす百姓も多数に上ったと記してある。
また生糸盛んに輸出された結果は、上毛(上野・こうずけ/群馬県)或いは京都等の各機業地に原料不足、品高を告げて、機屋以下諸職人等を難渋せしめた。
特に京都西陣の受けた打撃は甚だしく、萬延の末頃には、諸職人が大坂・江州(近江/滋賀県)其の他の地方に離散し、また洛中洛外に失職した者も多かったと言う。
窮民救恤の叡慮
斯かる物価騰貴、細民の急迫の状が、畏れくも天聴に達したのであらう、萬延元年八月関白九條尚忠に勅して窮民救助の事を幕府に諭さしめられたが、翌文久元年二月十一日更に御内帑(ないど/金庫)の資金大判五拾枚を所司代酒井忠義に下して、特に山城国内の窮民救済の資(もと)に充てしめられ、幕府が聖旨を奉じて、遍く賑恤(しんじゅつ/救う)を行うように御沙汰が在らせられた。
然るに幕府は恩賜を拝辞して、撫恤の方法は別に企画すべき事を奏上し、尋いで再び恩賜の勅旨を下されたが、猶之をも辞し奉ったのである。
外人に対する反感
外国貿易が斯くも士氏の生活を脅し、怨嗟の聲を大ならしめた外に、三港に渡來移住した外人等は、概ね我が国情民習を解せず、動(やや)もすれば傲慢不遜の態度に出でて、我が土民の感情を害した事が多かった。
即ち列国使臣等は自国の護率を随え、江戸市中を騎乗闊歩して、時に士民と衝突する事があり、横濱に入港した外船の船員等には、酔狂して暴行を働く者が少くなかった。
金貨の乱出
特に最も邦人の怨みを買ったのは、奸悪な外商等が我が金銀貨比率の平衡を得ていないのに乗じて、盛んに金貨を買収して上海に輸出し、一攫千金の暴利を貧った不法行爲であった。
此の所業は只に条約明文の悪用であるのみならず、通貨の流通を阻碍(害)して、貿易の健全なる発達を阻止するものである事は勿論で、獨り無頼射利(悪徳利権)の徒のみに止まらず、或は領事の公職を兼ねた商人、來航した軍艦の乗組員までが之に狂奔し、甚しきは之が爲に辞職して下船した乗組員さえあるに至った。
さすがに英・米使臣等も之を憂へ、幕府と戮力して其の取締対策に腐心したが、終に停止するに至らなかった。
萬延元年四月幕府は遂に小判の改鋳を断行して、金銀貨の比率を外国並の標準にしたので、漸く此の弊は防止されたのである。
斯かる外人の我が金貨を搬出する事は、邦人から見れば実に掌中の壁(陣地)を奪われる事で、之が爲に外人を憎悪する念が一層高まったのである。
三 外人殺傷の頻発
上来述べた外人の来住、貿易の開始に基づく我が士民の外人に対する反感憎悪の念は、他方に幕政に対する不平不満の情と結合して、一層攘夷の氣勢を激化させ、両々相俟って士民のうち、特に武士・浪人の間に日々険悪の度を増さしめ、終に公憤を実際行動に移し、身を挺して外人を殺傷する者が頻発するに至った。
外人殺傷相次ぐ
横浜開港直後、安政六年七月二十七日、露国使節ムラビィヨフの率いる軍艦乗員の一士官と一水兵とが横浜で殺害されたのを最初に、同十月仏国神奈川領事館の傭僕(清国人)の横浜に於ける遭難、翌万延元年正月高輪に於ける英国公使館雇通詞伝吉の殺害、同二月横浜に上陸した和蘭商船長デ・ボス及び同デッケルの斬殺、同九月江戸に於ける仏国公使館旗番ナタール(イタリア人)の殺害と相次いで不祥事件が起こった。
初め露国士官等が殺害せられるやムラヴィヨフは其の率いる有力な艦隊で報復行動に出るのではないかと危惧されたが、彼は露国は其の国民の血を売らずと称して、調停を英・米公使に委ね、賠償条件を幕府の謝罪、神奈川奉行の罷免、犯人の処罰等に止めたので、幸い大事に至らなかった。
然るに其の後殺傷事件は頻出し、しかも犯行は不良盗賊輩の所業でなく、明らかに外人を敵視する武士の行為であり、且つ下手人が嘗て逮捕されぬので、痛く外交団を惶惑させた。
即ち和蘭船長遭難の際に至り、遂に英・仏・蘭三国使臣は、共同決議を以て過大な償金(被害者一人に付二万五千㌦)を要求し、且つ其の葬儀は特に示威の意味で、各国の水兵を参列させて、儀衛を盛大にした。
而して其の後幾ばくもなくして起こった桜田事変は、外人間にも異常な衝動を与えて、開港が如何に深刻に影響していたかを覚らしめた。
幕府は其の後各國公使館の警備、外人の出入取締りを一層厳重にしたが、同年十二月五日の夜、またも江戸市中で米国公使館通辮官ヒュースケンが浪士清川八郎一派の尊攘志士に暗殺された。
ヒュースケンの暗殺
此の際も下手人は捕縛されず、剰へ警固の幕吏が逸早く逃走した事が外交團を極度に憤激させ、遂に英・仏両国公使をして自衛策を行使せしめ、両国公使は連袂(れんぺい/共に)江戸退去を決行するに至った。
併し此の英・仏公使の示威行動は、却って当事国たる米国公使ハリスが斯くては我との国交を害し、禍患を大ならしめるものと為し、幕府の立場に同情を寄せて、江戸に留まったので、著しく其の効果を減じた上に、幕府は寧ろ彼等の横浜在留を勿怪の幸いとした。
為に英・仏公使は単に外人保護の強化を幕府に承認させたのみで、五週間後には江戸に帰還するの止むなきに至った。
東禅寺の襲撃
外人に対する反感脅威の手は既に一米国外交官に加へられたが、終に行使以下全員を鏖殺(応札/皆殺し)しようとして、公使館襲撃を決行するに至った。
曩に霊峰富士登山を試みた英国行使オールコックは、文久元年五月香港に赴いた帰途、幕府の制止するを聴かず、条約上の特権を楯に、陸路江戸帰還を決行し、長崎から小倉に陸行し、下關から海路兵庫に至り、陸路大坂・奈良・桑名を経て、東海道を下って公使館東禅寺に入った。
予(あらかじ/前もって)め此の一行の行動を以て神州の霊域を汚すものとして憤激していた水戸浪士有賀半弥・前木新八郎等十四人は、公使帰着の翌日、即ち五月二十八日の深更に同所を襲撃し、書記官オリファント・長崎領事モリソン二人を傷つけ、公使寝室にまで殺到したが、幕府の警吏別手組及び郡山藩兵等の必死に防戦するに会い、同志の半数を犠牲にして退散した。
当時米国公使は、本事件を以て水戸候の支族に出たのではないかと疑い、英国公使は恰も本年三月から露艦ボサッドニックが対馬芋崎浦に兵営を構築して、同島占拠の勢いを示したので、之に対する邦人報復の一手段かと疑惑したが、幕府が浪士等の懐中書を示して、鎖港の旧習に基づくものであると説明して、其の誤解を解いた。
襲撃趣旨書
有賀等の懐中書には、臣等草莽徴賎の身なれども、神国が夷狄に汚されるを見るに忍びす、尊攘の大義に基づき、身命を投げ打ち、区々の微衷(びちゅう/誠の心)を以て聊か国恩の萬一に報いんとす、若し此の一挙が他日外人掃攘の端緒ともなり、叡慮を始め奉り、台慮をも安んじ得れば、無上の光榮であると記してあった。
人或は今日を以て往時を律し、彼等を見るに其の固陋無智、憐れむべしとするものもあろうが、外力の圧迫と外人の跋扈とに対して、此の烈々(れつれつ/武威が盛んな様)たる敵愾の意氣と耿々(こうこう/輝く)たる尽忠報国の精神とが、斯くも国民の間に躍動していたので、外人等も我を見る事が清国人を見るとは同一でなく、また漸次我が国に対する態度をも改めるに至ったのであった。
幕府の苦心
斯くの如く外人に対する非常手段は、一事ある毎に攘夷の気勢を煽り、尊攘の運動益々熾烈ならしめたのである。
其の間幕府が、志士と我が国内事情、特に幕府の地位に対して認識を欠いた外人との中間に介在して、国際的危機の発生を回避しようとした苦心と努力とは、充分に諒察すべきであった。
伝えて言う、安藤閣老は寧ろ老中を殺し、将軍を殪して内乱を醸すとも、外人を殺して外難を構える事を休めよと言って長嘆息したと。
之は実否必ずしも明らかでないにしても、當路者の苦心を充分に表しているものと謂うべきであろう。
四 幕府の対外対策
姑息弥縫の外交
(姑息弥縫/こそくびほう/一時の取繕い)
攘夷気勢の熾烈と外人殺傷の頻発とに由って益々苦境に陥った幕府は努めて内外庶政の矛盾衝突を緩和して、時艱を誘発助長させる諸原因を除去しようと苦心し、前節に述べた如く、公武合体を策して皇妹和宮の御降嫁を奏請したが、之が為に却って攘夷実行の期限を公約するに至って、自ら進退両難の窮境に陥ったのであった。
されば、其の外政に於いても到底自主邁往することが出来ず、列国使臣の強圧に遭っては、左顧右眄(うこさべん/人の目を気にしてためらう)徒(いだす)らに当面を糊塗するに日もまた足らぬ有様であった。
之に加え、茲に注目すべきは貿易についても幕府と諸侯・商人との間に利害の衝突があった事である。
貿易と国内商業との衝突
幕府は貿易開始の初に方って、一般商人に対して自由勝手に貿易を営む事を許可したが、之は寧ろ条約の文面に拘束された結果に過ぎないのであって、幕府の眞意は、幕府及び武士階級に利益を与えようとして考慮したのであった。
然るに愈、貿易が開始せられるに及んで、諸国在方商人は幕府の布令に基づき、盛んに諸物資を直接開港場に出荷したので、從來の配給關係に大変調を来たし、特に江戸の問屋・仲買商は頗る不利な立場となった。
是に於いて、幕府は是等問屋等を保護して、在方商人を抑制し、また物価の高騰を制限する爲にも、貿易を放任して、無制限に発展させる事を許さないこととなった。
之と同時に、幕府は安政以降商人の利益壟断(ろうだん/独占)と其の金権掌握とを抑制しようとして、各地に国産の統制を考量していたが、之は種々な支障の爲遂に行われなかった。
然るに文久以後、専ら自己の利益を擁護しようとして、一部の国産統制並びに貿易の制限を行うに至ったが、之は一方に外国側からは条約の違反であるとして、猛烈な反対抗議を受けたと共に、他方諸雄藩の中には、各地在方商人と合体して、他領の産物をも買い集め、之を内外に販売して藩財政を補い、又之を希望していた者も多かったので、茲にも幕府と利害の衝突を来たし、開鎖の国策以外に、幕府対諸侯の間に対立関係を生ずるに至ったのである。
使節の海外派遣
幕府は内外の難局に処する一方策として、間近に迫った江戸・大坂両都の開市、兵庫・新潟両港の開港を延期する事を、万延元年六月の頃から各国に交捗し始めたが、其の折衝が容易でないのを看取するや、終に欧州締盟各国に延期交渉の使節を派遣する事となった。
是より先、幕府は米国との間に條約本書批准交渉の交換を華盛頓(ワシントン)府で行うべき約を覆んで、安政六年九月正使新見豊前守正興(まさおき/外国奉行兼神奈川奉行・函館奉行)・副使村垣淡路守範正(外国奉行兼神奈川奉行・箱根奉行)・目付小粟豊後守忠順(ただまさ)以下八十余名を米国に派遣した。
一行は翌萬延元年正月米艦ポーハタンに搭じて、布哇(ハワイ)を経由して華府(ワシントン)に赴き、使命を果し、米国政府から国賓の礼遇を受け、香港・フィラデルフィア・紐育(ニューヨーク)等に於いても非常な歓迎をうけて、同九月帰朝した。
更に一行と同時に軍艦奉行木村摂津守喜毅(よしたけ)・軍艦操練教授方勝義邦等は、軍艦咸臨丸(かんりん)まるを操縦して桑港に航し、邦人の進取的氣象を中外に宣揚したのであった。
開市開港延期談判使節の欧州派遣
米国に対して既に使節が派遣された事とて、欧州の締盟諸国も亦使節の派遣を冀望(きぼう/希望)した。
文久元年八月幕府は使節を始め一行の選考を終り、正使竹内保徳(勘定奉行兼外国奉行)・副使松平石見守廉直(神奈川奉行兼外国奉行)・目付京極能登守高朗を命じ、一行総員三十六名は、翌文久二年の元旦英艦オーヂンに搭じて渡欧州し、仏・英・蘭・普・露・葡諸国を歴訪、各国の元首に謁見し、使命を果して同十二月帰朝した。
彼等が各国と締結した新約定の基準をなすものは、所謂倫敦(ロンドン)覚書であって、幕末の外交上には重要なものの一である。
此の約定によって
一、新潟・兵庫の開港、江戸、大坂の開市を向う五箇年(一八六七年十二月)延期する事。
一、延期承認の代償として左の諸件を速かに実行する事。
(イ) 貿易品の種目数量に関する各種制限の撤廃
(ロ) 大名領産物の開港場搬入及び其の代理者との直接取引の認許
(ハ) 開港場に於ける邦商の身分に関する制限の撤廃
(ニ)内外人間の自由交際を阻止する制規の撤廃
(ホ) 外人の邦人職人労役者雇用に官憲の干渉撤廃
(ヘ) 酒類・ガラス器の輸入税軽減
等が定められたのである。
幕府は此の約定の結果、国情世論に背反する開港場の新設増加を延期して、国内人心への刺激と貿易の拡大とを軽減し得た如くに見えたが、契約の不実行から、却って将来に外国権益の拡大と、貿易の発展を我に強要する口実を与えることとなった。
斯くて既に内憂外患に直面した幕府が、窮余一歩を外国に譲れば、彼は数歩を追求し来る状態で、幕府の外に対する態度は益々畏縮退嬰(たいえい/気概のない様)に陥り、国内の情勢とは全く相背馳(はいち/反して)して、内治外政衝突の余勢は駆って第二の櫻田事変を生もうとし、世態は益々険悪に赴く一方であった。
第三節 坂下門外の愛
一 丙辰丸盟約
嚢(さき)に水・薩両藩士によって決行された櫻田事変の當初の計画は、濁り大老井伊直弼を除くのみでなく、其の政策の幇助者たる老中間部詮勝・安藤信睦にも及ぼそうとしたのであったが、事が意の如くに進捗せず、漸く大老一人を僵(たお/斃)したに遇ぎなかった。
其の後詮勝は職を退き信睦は幕閣の中堅となり、公武合体を策して、故大老の威圧政策の緩和に努めたが、皇妹和宮御降嫁の奏請といい、外交措置といい、益々信望を失う因を爲し、共に尊王攘夷志士等を憤激せしめて、打倒安藤の聲は漸次志・浪人の間に喧しく、遂に第二の櫻田事変とも言うべき坂下門外の変を見るに至った。
水戸・長州両藩士の接近
熟(つらつら)、坂下門外の変の由來を繹(尋)ねるに、此の事件は実に水戸・長州両藩藩士間の義盟に胚胎するものである。
長州藩は天下の雄藩として重きを成し、既に朝幕の間に周旋しようとする気勢に在ったのであるが、常時同藩土の中には時弊を概して、其の匡済に志し、諸方の志士と往来して国事を議する者が漸く多く、彼等はやがて水戸藩有志と提携するに至ったのである。
即ち万延元年六月、長州藩士松島剛藏の指揮する同藩軍艦丙辰丸は、江戸湾に入って品川沖
に投錨した。
偶、同藩士桂小五郎は、外櫻田の長州藩邸内の有備館用掛として在府中であったので、剛藏・小五郎の二人は密議して、當世進んで事を成さうとするには、水戸藩志土と結ぶに如かすと為し、二人は互に約する所があった。
尋いで七月剛藏は昌平学に学ぶ肥前の人草場叉三と親交があるので、又三の斡旋で水戸藩士西丸帯刀と下谷鳥八十楼に會して、互に志を語って意気相投ずるものがあった。
そこで二人は各々其の盟友小五郎及び水戸藩
士岩間金平・園部源吉、結城藩士越総太郎を伴い、再び同所に會見して時事を論じた。
丙辰丸盟約
尋いで彼等は屡、諸所に會合して時事匡救の策を議したが、幕府を匡正するには、尋常一様の手段では成功し難いというので、決死の士を放って、或は幕府の営路者を刺し、或は外人を屠って事端を醸し、以て幕府に恐怖を起さしめ、之を機會に、雄藩が起って幕府に賢良を薦め、奸佞(かんねい/へつらい)を黜け、改革を行うように説くならば、幕府も亦之に聴従するであらう。
即ち今日の策は一方では舊弊を破り、他方では後図を成し、両々相待って幕府を強要しなければならぬとした。
此の成破二策の担当を定めて水戸藩土は破に、長州藩士は成に應えるに決した。
此の盟約は七月二十二日丙辰丸で成立したので、世に之を丙辰丸の盟約又は成破の盟約とも言う。
尋いで八月小五郎・帯刀等は議定書を作り、血判して違約せぬことを誓った。
今議定書を見るに彼等の間には未だ倒幕の意旨はなく、専ら幕閣の改造と其の秕政(役に立たない政治)の釐革(りかい/改革)とに志したものであった。
両藩要路の連衡
黙るに此の盟約は未だ両藩有志数名の間の私約に止まるので、小五郎・帯刀等は各々、其の藩で輿望を擔(にな)う有為の人物を動かして、此の計画に引き入れ、以て両藩の間に意思の疏通を計り、其の協力を得て大事を遂行しようとした。
即ち彼等は先づ当時長州藩の要路に在る長井雅楽と水戸藩執政武田耕雲齋とを接近せしめようと計ったが、耕雲齋は他に慮る所があって、容易に應ぜず、雅樂もまた幾ばくもなく帰藩したので、暫く其の機會が熟しなかった。
其の後、小五郎・帯刀・金平等の間には画策が大いに進捗し、翌文久元年三月長州藩の、砂村別邸(葛飾郡)に於いて、水戸藩側用人美濃部叉五郎は初めて小五郎と會見し、席上長州藩士宍戸九郎兵衛・小幡彦七・水戸藩士尼子長三郎も同座して互に時事を談じ款を結んだ。
尋いで雅楽が上府するに及んで、八月三日雅楽及び同藩士周布政之助等は、叉五郎と櫻田藩邸に會晤した。
時に雅樂は藩命を承けて、公武合体の為に朝幕の間に周旋し、東奔西走していた際でもあり、また其の所見も是等諸士の抱懐する意見とは径庭(けいてい/へだたり)があり、且つ幾ばくもなく帰藩したので、固より両藩は提携するには至らなかった。
されど政之助はなお江戸に在って藩務に任じていたので、小五郎等と共に屡又五郎・長三郎等と会合して、互に交誼を密にし、久坂玄瑞・入江九一・時山直八等及び薩州藩士樺山三圓も之に参加するに至った。
連盟の挫折
然るに九月政之助は思う所あって江戸を去り、尋いで藩譴を蒙って蟄居したので、水戸藩との聯盟は茲に一頓挫を來した。
水戸藩の状態
翻って水戸藩の状態を見るに、文久元年五月、同藩脱走の士が東禅寺英国公使館襲撃の挙に出でるや、幕府は再び同藩の藩政に干渉を行い、翌六月同藩は執政大場一眞齋・武田耕雲齋等を黜け、所謂激派に弾圧を加え、此の歳から翌年
に亙って、党獄を起すに至ったので、叉五郎・長三郎等も要路を離れ、尊攘派は屏息して駿足を延ばす事が出來ぬ事となった。
是より先萬延元年十二月、同藩士平山兵介・住谷悌之介・中島久藏は、亡命して上国に赴き、為す所あらうとしたが、悌之介・久藏二人は翌文久元年二月上国で捕えられ、兵介の漸く遁れて藩に帰り、潜伏して機會の到るを待った。
偶々同年十月又五郎・金平が帰藩し、長州藩有志との盟約を告げるに及び、兵介は同志野村彜之介・下野隼次郎・住谷寅之介等と謀り、長州藩有志に檄して成破盟約の実行を促した。
此の時隼次郎・寅之介の二人より政之助・小五郎二人に致した書状には、幕府が此の度公武合体の名を設けて、和宮の御下向を促し奉り、更に甚しきは、天皇の御英明を忌み奉って、譲位の調査に着手したというが如きは、言語同断の所業である。
夫れ内に秦檜[i](しんかい)の徒があって権を弄しては、岳飛以精忠も貫くに由なく、大業も建ち難いから之を除かねばならぬ。今の秦檜は則ち安藤封州であるとし、滋に斬奸の相手を安藤閣老と明言し、斬奸と同時に勅使が東下して勅諚を下し給われば、天下の人心は威奮興起して、頽勢を挽回する基本も立つべし。
今や水戸藩は党禍の為に挙藩一致の業を成し難いからとて、京都に於いての周旋戮力を長州に求めたのであった。
然るに此の際長州藩の情勢も既述の如く動揺し比の需に應ずる事が出來なかったが適、下野の人児島強介が宇都宮藩儒大橋訥庵の旨を含んで水戸に遊説するに及んで、除奸計画は忽ち展開を見るに至った。
(p366)
[註]
[1] 秦檜 南宋の政治家、高宗の時の宰相、金国との和議を主張し、主戦論者を殺した。
第十八回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢問わずどなたでも参加できます
日時 十一月二十六日(土)
午前十時から正午
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 16 回テーマ 公武合体 桜田事変後の幕府
日時: 令和4年9月24 日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十六回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年九月二十四日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p323‐344を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第三章 公武合体
第一節 桜田事変後の幕府
二 久世・安藤の執政と局面収拾
徳川斉昭の薨去
然るに幕府は此の勅書を拝しておきながら、容易に之を水戸藩に下さぬのみか、却って勅諚返納を督促する手を緩めるに至った。
蓋し是は後に述べるように幕府の方針が一変して、公武合体を策するに至ったからである。
偶々、八月十五日(万延元年/櫻田門外の変[三月三日]のあった年)、水戸城内に蟄居謹慎中の齊昭は、俄(にわか)に疾(や)んで薨(こう)じた。
此の訃報が十七日、江戸藩邸に達したので、藩主慶篤は書を幕府に呈して、父の病篤きを告げ、其の愼を釋(解き)、弟松平九郎麿(後茂政)を伴って帰省看護に當ることの許可を請うた。
翌日幕府は慶篤のみに就藩を聴(ちょう)し、且つ齊昭の護愼をゆるめ、養生の爲に城外に出ることを許した。
尋いで二十六日老中久世廣周・本多忠民を上使として、小石川邸に赴いて齋昭の永蟄居を解く旨を達せしめた。
よって二十八日水戸藩は齊昭の喪を発したが、闔藩(こうはん/全藩)の土庶は哀惜し、恰も怙侍(こじ/父母)を喪ったが如くであったという。
齊昭の箆ずる時齢六十一、私に謚(おくりな)して烈公と称した。
齋昭は文政十二年兄齊脩(なりのぶ)の後を襲ぎ、剛毅英明の資を以て夙に藩内に文武を奨め、倹素を行って庶政を釐革(りかく/改革)し、また親藩の重寄(期待)に膺(応/したが)って幕府の爲に大計を建てると共に、慨然(敢然)国難の匡濟(きょさい/救済)を志し、尊攘の大義を首唱して国防の充實と人心の作興とに揮身の力を效(つく)した。
晩年股肱の謀臣を失い[i]、且つ時事が素志と違うに及んで、其の聲望(せいぼう)も漸(しばら)く昔日の如くでなかったとは言え、海内悼惜(とうせき/死を悼む)のうちに一世の木鐸(指導者)、尊攘の首唱者として其の生涯を終わったのである(文久二年閏八月、従二位権大納言を贈られ、明治三十六年六月、正一位を追贈された)。
而して斉昭の薨去が水戸の藩情に関わる事は頗る大なるものがあった。
即ち藩論は数派に分れて抗争を続け、纔(わず)かに斉昭の威令で事態の収拾が行われていたのであるが、今や其の薨去に由って益々、藩内分裂の勢を助長し、爾後党禍は愈々、激烈を加え、遂に他藩にも稀有の惨毒を逞(たくま)しゅうするに至った。
為に常野(じょうや)の地方には常に浪士等が屯集して騒擾熄(や)む時なく、尊攘の士は或は横浜外人居留地の襲撃を計画し、或は高輪東禅寺の英国假公使館を襲う等、江戸の附近に於いて事端を頻発せしめ、延いて政局の上にも影響を及すことが少くなかったのである。
三 皇妹和宮の御降嫁
幕府は櫻田事変後、從來の施政方針を変じて、諸候懐柔の手段を用いるに至った。
即ち六月四日(万延元年)先づ紀州藩附家老水野忠央(ただなか)に帰藩して隠居謹慎すべきを命じ、嘗て一橋派に属した人々の歓心を求め、九月四日に至って前尾州藩主徳川慶勝(初慶恕/よしくみ)・一橋慶喜・前福井藩主松平慶永・前土州藩主山内豊信の慎を宥免し、更に前掛川藩主太田道醇(みちあつ/遠江国掛川藩主元老中)・元川成島藩主本郷丹後守泰固(やすかた/元若年寄)等の慎を解き、嚢(さき)に京都に於いて志士の逮捕に辣腕を振った京郡町奉行小笠原長常を大目付に転ぜしめた。
また水戸藩に対しても、齋昭の薨後に於いて勅諚返納猶豫の請(こい)を聴(ゆる)し(十月十九日)、藩主慶篤の登城禁止を解き、前年九月命じて執政を革職(辞職)せしめた同藩三老の称ある岡田徳至(のりよし)・大場一真齋・武田耕雲齋の復職を許したのである。
此の間久世・安藤の両閣老が最も力を注いだ
のは皇妹和宮を将軍家茂の夫人として御降嫁を奏請したことであった。
和宮(和宮親子内親王/当時十四歳)と申すは仁孝天皇の第八皇女に在(お)わし、弘化三年閨五月降誕あらせられた。天皇は宮の御生誕に先立つ数箇月前に崩ぜられたので、御兄孝明天皇には宮を御子の如くに愛しみ給い、宮も亦御親の如くに事えさせられた。
宮御六歳の時、有栖川宮熾仁親王(太宰師)に御降嫁の事が内定せられていたのであった。
幕府の奏請
萬延元年四月幕府は所司代酒井忠義に令して、關白九條尚忠に就いて皇妹和宮の御降嫁を奏請せしめ、宮は既に有栖川宮との御婚約あって斟酌申すべき筋ではあるが、和富の御降嫁にして勅許が得られるならば、公武一和の実を中外に示し得て国家の御爲と存ずる。なお宮が今上の御養女に定まるよう望ましき次第であると言上せしめた。
天皇は尚忠の奏上を聞召されて議奏・傳奏に諮詢し給い、五月四日聖断を尚忠に下して、和宮は巳に有栖川宮に内約あれば今更違約に及ぶも如何であらうか、且つ先帝の皇女にて御義理も在わし、未だ宮も幼年にて、當時江戸は蛮夷が来集すると聞き、心中恐怖の状もあれば、此の縁談は見合せすべし。但し一昨年來幕府にては外国一件の行き違から、何か朝廷に異心があるよう考え、屡、公武合体を申立てているから、其の思惑も如何であろうが、朕に於いては関東に対して、何等隔心はない事である。
併し外国一件は全然不同意である。
此の旨を穏便に幕府に諭すようにと仰出され
た。
其の後忠義は屡、前請を重ね、且つ幕府も決して外国貿易を好むものではない旨を陳べて懇願する所があったが、天皇は遂に許し給わなかった。
幕府は勅許の下らないのは和宮の御生母観行院(かんぎょういん/和宮の生母))及び其の兄橋本實麗(さねあきら)の異議に基づくものと猜(さい)し(疑い)、覲行院の叔母で将軍家慶の上藹(じょうろう/御殿女中の高位者)であった勝光院(初姉小路局)をして書を實麗に寄せて、其の斡旋を求め「御諸向にて御承知の處、御手前様のみにて御差支となり候ては、仰せ上げの處は御尤も様ながら御爲めにも宜しからぬ御事と存じ候まゝ、是非是非御承知のようにと存じ候」と威嚇の意をさえ申し送らしめた。
また幕府は議奏徳大寺公純(きんいと/権大納言)・中山忠能(ただやす/権大納言)両卿には如何の風聞もあって、此の儘勤仕しては公武一和の妨げともなるからという理由で、其の退役を迫り、六月十八日公純は議奏を辞するに至った。蓋し公純は御降嫁に不同意であるという嫌疑を受けたからであった。
岩倉具視の建議
茲(ここ)に侍従岩倉具現は御諮問に対して所見を上奏した。
其の要(かなめ)にいう、既に覇権の地に堕ちた幕府に、内憂外患を防遏(あつ/圧)して皇威の更張を望むは、恰も俚諺にいう長竿で天上の星を敲(たた)き落すが如きものである。
されば関東御委任の政権を隠然恢復せらるべきであるが、之が爲に干戈を動かすとあっては、天下の大乱が一時に起るであろうから、今は名を棄てて実を取る方略が肝要である。
幸に今幕府の懇願もあるから、和宮の御降嫁を許し、公武一和を天下に示し、漸次に條約の引戻は勿論、国政の大事は奏聞を経て後執行するよう仰せ出されるならば、幕府は必ず奉承するであらう。
然れば和宮の御一身は実に九鼎(きゅうてい/天子伝国の宝物)よりも重く、御降嫁の有無は皇威の消長にも係わる大事と言うべきである。
因って先づ條約の引戻を速やかに實行するよう幕府に命ぜられ、幕府が之を誠實に奉承するに於いては、和宮に御勧説の上で勅許在らせらるぺきであるというに在った。
天皇は之を加納し給い、六月二十日宸翰を関白に賜うて、和宮の降嫁が公武一和の基本となる事なれば、之を許さぬでもないが、外夷拒絶は年來の念願であるから、せめて嘉永初年頃の状態に引戻すことともなれば、和宮にも申諭して納得せしめ給う旨仰せ出された。
幕府は此の叡慮に封して奉答書を上った。
然るに其の奉答書は単に内願の旨趣を反覆し、稍々(しょうしょう)、敷演(ふえん/付け加え)したのみであったので、叡慮に叶わずして却下せしめられた。
幕府の攘夷期限誓約
それで幕府は窮余、奉答蕃に種々潤飾を加えると共に、攘夷の叡慮に対して心にもない奉答をなして言う、即今無法に外夷を打ち攘っては、條約を締結した後であれば、名節を失い、実に神国の信義も立ち難く、却って国威を損する次第である、
且つ国内が十分に一致せぬ内に外患が起これば内乱も生じ、外夷も亦其の隙に乗ずべく、内外一時の擾乱となっては収拾の途が立ち難い。
然れば今は干戈を動かすべき時期でないので、幕府に於いても肝膽(かんたん)を砕き毫(すこし)も懈怠することなく、目下專ら軍艦・銃砲の製造の真最中である。因って衆議を尽し、計策を講じた結果、今後七八箇年乃至十箇年の中(内)には、必ず交渉して条約を引戻すか、或いは干戈を振るって征討を加えるか二途の中何れかに出るであろう。
但し其の方略如何は種々籌策(ちゅうさく/対策)を回らす必要もあり、予定し難い事ながら、必ず叡慮を貫徹し、宸襟を安んじ奉る処置をとるべし、と、即ち幕府は大胆且つ無謀にも攘夷の実行を誓約して、和宮御降嫁を要請し奉ったのである。
知らず、幕府は果たして此の誓約を実行し、敢て朝廷を欺罔し奉る罪を犯さず、且つ国民を欺瞞し、自己を欺かぬ決意と籌略とを有(も)っていたのであろうか。
和宮の固辞
天皇は幕府の奉答を聞し召し、八月六日忠尚に勅して、関東よりの申越し、誠に已むを得ず余儀なき次第なれば、外夷掃攘の後の降嫁なれば許容し給うべしとて、橋本実麗並びに覲行院に諭して、和宮を説得するよう命じ給うた。
然るに八日和宮は「何とぞ此の儀は恐入候へ共、幾重にも御断り申し上げ度く願いまいらせ候。御上御そば御はなれ申上げ、遥々まいり候事、まことに心細く、御察し載(いただ)き度(たく)云々」と固辞せられ、覲行院も亦宮の意を承けて辞退の意を申して「此の御事は余程々々御無理なる御事故、幾重にも御断り事御勘考遊ばし進ぜられ候はねば、実に歎かわしく恐れ入り候」と答申した。
天皇は畏れくも震襟を悩まさせられ、権大納言久我建通の献策を納れ給うて、十三日尚忠に勅して、幕府が攘夷期限を定めて奉答したのは朕の大いに満足する所である。
因って和宮を説諭せしめたが、固辞に及んだ。宮は先朝の遺腹にて義理合もあれば、火急理不尽に之を強いて、萬一不慮の事があってはと苦慮少からぬ故、緩々説得するより外なければ、幼少ながら壽萬宮(安政六年三月降誕、御二歳、御母堀川康親女紀子)を降嫁せしめては如何あるべきか。
宮も唯一の皇女にて哀憐の情深きも公武一和の楔(せつ)、天下の為には代え難ければ、此の旨を以て幕府へ内談すべし。
若し幕府が之を承引せず、和宮も固辞するならば、幕府に対して信義を失する訳柄ともなれば、朕は位を遜(ゆず)れるより外なしと仰せ出された。
叡慮の程を拝察するも畏き極みではあるまいか。
尚忠は此の叡旨を拝し、壽萬宮にては幕府は奉承を躊躇することを豫想して大いに憂苦した。
島田左近の権謀
茲に九條家の家士島田左近は同家諸大夫宇郷玄蕃頭重国と謀り、桂御所の侍をして和宮の御乳人(乳母/めのと)絵島を威嚇し、同人から実麗兄妹に、飽くまで御降嫁に不同意を唱え、宮に勧めて辞退せしめ参らずに於いては、実麗には落飾を、観行院には蟄居を命じようとの内議がある旨を告げしめた。
是は全く左近の偽計であったと言う。
和宮の御納得
斯くて宮は前日の勅諚を拝して恐擢(きょうく/畏れ多い)に堪えさせられぬ上に、実麗よりも勧説したので、終に「御上の御爲」なれぱと、降嫁の命を奉承せられた。
明後年(文久二年)の先帝十七回御忌(いみ)後に御発輿(よ)の事、柳営にては萬事御所風であるべきこと等総べて五箇條の希望を言上、幕府が之を実行するよう朝命を下されることを願い出でられたのである。
もと(はじめ)宮は父帝の天顔を拝せられぬことを遺憾とせられ、剃髪して御陵に奉仕しょうとの素志に在わしたので、固く御辞退遊ばされたのであったが、終に一女子の身で国難匡済の御用に立つならば、水火の中をも辞せずとて御請けになったのである。
天皇は益々、其の衷情を憐み、杖とも柱ともなって扶持し給わんとの慈誨を垂れざせられ、宮も大いに感喜されたとの御事である。
勅許内定
因って十八日天皇は勅書を尚忠に賜ひて、降嫁勅許の旨を幕府に内達せしあ、且つ宮の御希望を総べて幕府にて遵奉する事、外夷掃攘の誓約は今後執政が更迭するも違変なかるべき事等を幕府に命ぜしめられた。
尚忠は乃ち此の叡慮を幕府に伝えると共に、有栖川宮家との婚約解除に就いては、予め島田左近をして、幕府にて摂家又は三家の女を將軍の養女として御縁組あるよう周旋すべく、宮家の御経濟も豊かにし参らすべき旨を諸大夫に内談せしめ、尚忠躬(みずか)ら宮家に参候して事情を具陳し、宮家よりは宮邸の狭隘(きょうあい/狭い)等を理由に、和宮の御降嫁を辞せられたのである。
関東下向の期日
尋いで幕府は曩に仰せ下された朝命を奉承すべき事を奉答したが、只宮の東下の期を本年十一月と定められるよう奏請し、且つ宮が一旦他家へ御婚約があった事とて、将軍より御降嫁を奏請するのは彼是(かれこれ)斟酌の廉(かど)もあれば、朝廷より御降嫁の命を賜わり、幕府が之を奉承する順序と爲す事をも奏請した。
天皇は之を許し給はなかったが、東下の期に就いては其の後幕府は酒井忠義をして之を請わしめ、特に上京した勝光院及び島田左近等は裏面に周旋する所があって、漸く明年三月の頃を以て東下あるべきに内定あらせられた。
勅許
是に於いて十月九日將軍家茂の使酒井忠義・天璋院(故将軍家定夫人近衛篤子)の使横瀬山城守貞固は、参内して正式に和宮の御降嫁を奏請し、十八日天皇は両使を召して之を勅許在らせられた。
尋いで十一月朔日幕府は之を天下に公布し、十二月二十一日、忠義・貞固は参内して勅許の恩を謝して金品を献じ、同二十五日両人は桂御所に詣って納采の礼を行い、金壱万五千両を廷臣一同に贈って祝意を表した。
斯くて半歳余に亙って紆余曲折を経た和宮関東御降嫁の事も漸く決着したのである。
御降嫁の延期
初め和宮御降嫁奏請の事は極めて内密の間に議せられていたが、勅許内定の事が外聞に漏れるや、先づ廷臣の間に頗る動揺の色があったので、天皇は関白に勅諭を賜って之を鎮撫遊ばさせられた。
尋いで十一月末幕府は普魯西(プロシア/ドイツ)・瑞西(スイス・)白耳義(ベルギー)三国と新に条約を締結せんとし、其の理由を強弁して、今や和宮の御降嫁に由り、公武一和の基が定まろうとするに、普国(スペイン)等の請を斥け、戦端を開くに至れば、当初の大策は忽ち書餅に帰し、清国の覆轍を履むは明瞭であるから、暫く其の請を許し、武備の充実を待って一時に拒絶する計画であると陳疎した。
天皇は之を聞召され、幕府は朕を欺けり、和宮降嫁の事は速やかに破談せよと逆鱗あらせられた。
関白以下議奏・伝奏は皆恐惶(きょうこう/恐れ)色を失ったが、破談の事は何時にてもなし得ることとて、先づ宮の関東下向を延期あらせらるべきを奏議し、朝議は遂に之に決した、
幕府はなお弁疎これ努め、翠文久元年正月重ねて七八箇年乃至十箇年の内には必ず攘夷を行うべき大本には違変なかるべき旨を上奏した。
然るに此の頃、列国公使駐箚(ちゅうさつ/駐留)後の情勢、或は外国貿易開始に件う国内不安の激増、または普国との新条約締結等に刺激せられて、尊攘志士の行動は益々、激越となり、常野及び江戸付近の物情は殊に不穏であった。
而して和宮の御降嫁は幕府が厚賄を以て関白以下廷臣を欺瞞し之を要請したものと憤慨して宮を東下の輿中に奪って、京都に還し申さんと計画する者ありとの風説が行はれるに至った。
幕府は之を偵知して大いに憂懼(ゆうく)し、三月二日自ら進んで東海道諸川の増水に因る道中の困難と浪士不穏の情勢とを理由として、東下の延期を奏請して勅許を得たのである。
御発輿と御婚儀
其の後幕府は江戸附近に於ける浪士の取締も一段落を告げたので、七月所司代を以て宮の御東下を請い、数次の交渉が重ねられた結果、今年十月御発輿(はつよ)と決定せられた。
是より先四月十九日、宮は内親王の宣下があって御名を親子(ちかこ)と賜った。
十月三日御首途の儀が行われ、やがて二十日目出度御発輿、権大納言中山忠能・左近衛権少将岩倉具視の廷臣・宮女及び御迎えとして上京した若年寄り加納遠江守久徴(ひさあきら/一宮藩主)等が共奉して宮の御輿を警固するもの十二藩、沿道の警備に当るもの前後二十九藩に及んだ。
斯くて宮は中仙道を一路恙無く、十一月十五日(文久元年)江戸清水邸に入り、翌二年(文久)二月十一日将軍家茂と華燭の典を挙げさせられた。
千種・岩倉両卿の老中推問
宮の御発輿に先立ち、天皇は千種(ちぐさ)有文・岩倉具視二人に宸翰を授け、江戸に、江戸に至って御不審の條々及び攘夷・貿易等に關する数項に就いて、老中に推問して協議すべきことを命ぜられた。
仍(よ)って有文・具視二人は営中に廣周・信行(安藤信睦)両閣老と会して、幕府に廃立の企あると聞く、果たして如何と詰問した。
蓋し廃帝の浮説は既に安政年間にも行われ、此の頃また盛んに流布せられたのである。廣周等は惶懼(こうく/恐れ)色を失い陳謝していう、斯かる説は草莽過激の徒の捏造に出で、幕府は固より夢想だにせぬ所である。
されど斯かる流言が行われて宸襟を悩まし奉るは、不取締りの致す所で己等の罪であると弁明甚だ力めた。
将軍直筆の請書を上る
有文等は果たして然らば宸怒を齎(はら)し奉る処置を構ずべきを指摘し、其の後将軍が自ら誓書を上って、異心なきを証すべきだと指示した。
廣周等は家康以来未だ甞(かつ)て斯かる先蹤(せんしょう/前例)がないとて、頗る同意を難じたが、十二月十三日有文等が帰洛を告げる爲に営中に至った際、将軍は遂に自筆を以て
先年來度々容易ならざる讒説(さんせつ)叡聞に達し、今度御譲位等重き内勅の趣、老中より具承驚愕せしめ候。家茂を始め諸臣に至る迄決して右様の心底之無き條、聖慮安んじらる可く候。委細は老中より千種・岩倉へ申し入れ可く候。誠惶謹言。
の誓書を上り、また廣周等よりも別に誓書を捧呈した。
更に有文等は攘夷の期限、其の方略、貿易の利弊等に就いて、廣周等との間に問答を行い、且つ和宮御入輿後の取扱等に就いての叡慮を奉承せしめ、帰洛復秦して御感(思い)を賜ったのである。
幕府の権謀
上來述べた如く、幕府は其の宿願である和宮の御降嫁を実現せしめようとして、啻(ただ)に其の要請を重ねて宸襟を悩まし奉ったのみならず、或は宮の側近者に対して威嚇術策を弄し、目的を達成するに急なる余り、遂に到底実行すべく
もない攘夷の期限を公約して、自他を欺き、将来に禍根を胎(のこ)すことをも辞しなかった。
しかのみならず、和宮の御内願の件を全部奉承しながら、御婚儀が畢るや、忽ち言を左右して殆ど之を履行しなかったのである。
今忌憚なく之を言えば、井伊大老の遺策を継いだ久世・安藤の政策は、畢竟宮の御降嫁によって、公武の御合体を天下に示し、朝威を仮りて幕権を張ろうとする権謀に外ならないもので、其の間朝廷に対する誠意は認め難いと言わざるを得ない。
幕権の失墜と時局の紛糾
またその結果よりすれば、内は櫻田事変後の人心離反と権威失墜とに対して、幕府が如何に其の快復に苦心焦慮しているかは、早くも天下の識者・志士等の看取する所となったのみならず、将軍自ら前例なき誓書を上った事実は、朝幕関係の一変、即ち其の実権の将に大いに移動せられようとする事を示すものであった。
また、朝廷に対しては、幕府が心ならずも攘夷の実行を誓約し、求めて自縄自縛に陥ったので、爾後列国との折衝に益々窮窘(きゅうきん)し、常に首鼠両端を持して(日和見にして)、信を内外に失することが多かった。
斯かる内外の情勢に於いて尊上の志士は愈々勢を得て所在に蹶起(けっき)活躍し、雄藩は決起して中央に進出するに至った。
而して、攘夷の論は益々志士の間に気勢を昮(高)め、尊王抑覇の勢は幕閣の改造より漸く倒幕の運動に進んだ。
第二節 開港と其の影響
一 五箇国条約と開港
内治外交の衝突
安政五年六月十九日、幕府は嚢に奏請した日米条約調印の勅許を待たずして之に調印し、辛うじて其の最も憂惧した外国との事端を啓く事を免かれ得たと考えた。
然るに幕府の此の専断は内政を極度に紛糾せしめて、爾後政局は波乱重畳、終に史上曾て見ざる幾多の壮烈悲愴な事態を惹起し、其の結果
は啻(唯)に幕府が天下衆怨の府と化したのみでなく、其の實力は到底諸侯・志士等を制御し得ぬ事を暴露した。
それのみならず、国内に際会(結合)して喚起された尊王の精神及び独立自尊の意気に燃える攘夷思想を激化し、両者は固く結合して尊王即攘夷の運動滔々(とうとう)として決河(洪水)の勢を示すに至った。
斯かる情勢の下で、新條約に基づいて列国使臣は來任し、貿易も開始せられ、外国の圧迫が漸次加重して、外交と内政との衝突は益々激化し、幕府の立場は愈々、困難となるに至った。
五カ国条約の締結
日米修好通商條約の調印に次いで、露・蘭・英・仏四国の使節も亦踵を接して來たので、幕府は全権委員を挙げて、日米条約を基準として、修好通商條約を締結せしめた。
即ち同年七月露国使節プチャーチン及び和蘭領事官クルチウスの請を容れて、各条約及び貿易章程を締結した。
尋いで英・仏両国使節は、清国との間に暫(ようや)く戦雲が収まったので、豫報せられた如く、七月先づ英国全権印度総督エルヂンが軍艦ヒューリアス外二艦と同国王から我が将軍に寄贈する蒸氣快遊船エムペラーとを率い、上海から長崎・下田を経て品川に來た。
幕府は之と條約及び貿易章程を議定調印した。
稍々、之に後れて八月仏国全権グローがラプラス外二艦を率いて江戸に來たので、幕府は初めて同国と締盟の事を議し、翌九月條約及び貿易章程に調印した。
以上の四箇国に米国を加えて、之を五箇国条約、又は安政仮条約と称し、東洋の島帝国が国を開いて、欧米諸国の伍伴(仲間)に入った画期的条約である。
列国使臣の駐剳(駐剳)
五箇国条約に因って神奈川・長崎・函館の三港がまず貿易港として開かれるべき期日は翌安政六年六月からであった。
よって締盟列国は各々外交官を任命し、彼等は陸続としてわが国に渡来した。
幕府は世論を憚って、外国使臣の江戸駐剳(駐剳/駐留)を猶三年間延期せしめようとしたが、さすがに其の不可能なるを悟って、遂に提議しなかったので、各国の外交代表は江戸にその居館を設けた。
即ち米国総領事ハリスは弁理行使に昇任して、下田玉泉寺から麻布善福寺に移り、之を仮公館とした。
和蘭理事官クルチウスは新たに外交代表として芝長応寺に館し、尋いで着任した総領事兼外交代表デビィットと更迭した。
但し和蘭の本拠は依然として長崎に在ったので、使臣は多く同地に駐って、江戸に往来したのであった。
英国政府は安政五年十一月、広東領事オールコックを駐日総領事兼外交代表とし、彼は翌六年五月、ヴィス・ユースデン等の館員と共に江戸に來り、高輪東禅寺に仮公使館を設けた。
仏国政府は同六年四月、デ・ペルクールを以て総領事兼外交代表とし、彼は赴任の途次琉球にいた宣教師ヂラール及び長く支那に在った宣教師デ・カション等を伴い、八月江戸に来たり、三田済海寺に館した。
また露国政府はゴシケビッチを領事兼外国代表に任命し、彼は函館に駐在して、江戸に使臣
館を設けなかった。
尋いで神奈川の開港に伴い、米国は青木町本覚寺に、英国は同浄瀧(じょうりゅう)寺に、仏国は飯田町慶雲寺に、蘭国は新町長延寺に各々領事館を置いたのである。
幕府の開港準備
幕府も亦明年に迫る開港の準備として安政五年六月外国事務主管の老中二名を定め、七月外国奉行を新設して、俊秀の幕吏水野忠徳(田安家老)・永井尚志(なおゆき/勘定奉行)・堀利熙・井上清直(下田奉行)・岩瀬忠震(目付)を以て之に充て、外交事務を掌らしめ並びに神奈川開港に関する準備調査を命じた。
横浜開港の紛議
既述の如く、外国の圧迫に対して萎縮していた幕府が、開港後の情勢に就いて最も憂惧した事は、外国と事端を啓く事であった。
されば幕府は條約に定められた神奈川開港場が、東海道の要衝に当り、遂に神奈川に代えて横浜を開港するに決し、横浜も神奈川の一部であると藉口(しゃこう/口実)して外国使臣の抗議に当ることに定めた。
既に早く米国総領事ハリスの抗議があったにも拘わらず、幕府は一漁村である横浜村に波止場・運上所(関税)・店舗・奉行所を築造し、着々其の準備を整えた。
併(しか)し、幕府の斯かる一方的条約の改変に対して、外国使臣特にハリス・オールコックは条約の違背であると為し、且つ既得の譲歩は禍を将来に胎(のこ)すものと考えて、強硬に抗議して横浜開港の撤回を要求した。
幕府は国内の情勢が到底之を容れることを許さないので、頑として応ぜず、為に係争は年余に亙って解けなかった。
然るに横浜の地勢が自然の良港であったので、幕府の主張にしたがって、渡来する外船は概ね横浜に入港し、外商等は使臣の干渉圧迫があったにも拘わらず、漸次其の地に移住して商館・倉庫を建設し、日に殷賑(いんしん/盛況)見るに至った。
そこで遂に列国使臣も我が主張の前に屈服するに至り、万延元年十二月、和蘭が領事館を横浜に移転したのを始めとして、各国も漸次之に倣(なら)う事となった。但しハリスは独り之を肯んせず、その辞任帰国まで本覚寺の領事館を徹しなかった。(p344)
第十七回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢問わずどなたでも参加できます
日時 十月二十二日(土)
午後一時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
[i] 謀臣を失い 藤田東湖 幕末の水戸学派の儒者で、父幽谷の跡を継ぎ文政十(一八二七/二十一歳)年彰考館編修(『大日本史』)となり、二年後総裁代理となった。藩主継嗣問題で下士改革派の中心として活躍し、徳川斉昭の擁立に成功する。以後常に斉昭の側にあって藩政の中枢を握り、藩政改革を推進した。しかし、保守派との対立が激化し、弘化元(一八四四)年斉昭が幕府から謹慎を命じられると、藤田東湖も蟄居を命じられた。後斉昭が許されて幕政に参与するようになると、側用人として活躍し、特に海防策に尽力した。一方では橋本左内・横井小楠・西郷隆盛等と交わり、朱子学的名分論を中心とする尊王攘夷論によって、尊王派志士の指導的地位を占めたが、安政の大地震の際、江戸自宅で圧死した。著書に後期水戸学の代表的文献である「弘道館記術義」があり、また「正気歌」、「回天詩史」など、志士等の愛唱した詩文がある。
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 15 回テーマ 櫻田門外の変
日時:令和4年8月27日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十五回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年八月二十七日午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p303‐322]を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第二章 朝権の伸張
第六節 櫻田門外の変
二 勅諚返納の紛議
勅諚返納の命
幕府は戊午大獄の重大な原因となった勅諚が猶水戸藩に存する事は、爾後の政局に禍根を胎すものと爲し、朝命を請うて返納せしめんと企てた。
即ち安政六年正月、滞京中の老中間部詮勝をして之を奏請せしめ、翌二月勅書返納の御沙汰を拝した。
然るに幕府は御沙汰書の文意に就いて修正を奏請し、漸く十二月に至り、改めて御沙汰書を賜った。
水戸藩に於いては早くも此の事あるを豫想し、今にして勅諚を幕府に返納すれば、一藩が志氣を失い、再び藩内の動揺を激発して、収拾する能はざるに至るを危倶し、同年十月に至り、遽(すみや)かに之を水戸に移し、城内の祖廟に納めたのである。
十二月十五日藩主慶篤登営するや、井伊大老は三日を限って之を幕府に致すべきを厳命し、翌日水戸藩取締の任に在る若年寄安藤対馬守信睦(のぶちか/後信行・信正)は水戸邸に赴き、改めて之を厳達し、若し之を拒まば違勅たるべしと威嚇した。
其の後幕府は慶篤の歎願を容れて其の期を延ばしたが、毎に日を刻して厳重に之を督促した。
慶篤は斉昭と議して、遂に朝廷へ直接返納し奉る事に内定するに至った。
水戸藩士民の長岡屯集
是より先、勅諚返納の幕命が水戸に傳わるや、士民は忽ち動揺し、殊に激派に属する士民は決死之を阻止せんとして、三たび南上して長岡駅[i]に屯集(数百人)した。
其の衆は日を逐うて数を増し、或は駅路を塞いで行人・飛脚を誰何(すいか)し、夜は篝火を焚いて、藩府が密かに勅諚を江戸に上すに備へ、或は丈(十尺・三メートル)余の木標を立てて「大日本至大至忠楠公招魂表」と墨書し、暗に楠公の忠烈に擬して、大いに氣勢を揚げた。
斯くて萬延元年の春となり、齊昭が屡、諭旨しても遵わず、「勅諚の返納は、威(水戸藩初代藩主徳川頼房)・義(徳川光圀)両公以來の忠節を水泡に帰するもの」と称して動かなかった。
幕府は會津・土浦・笠間・宇都宮四藩に命じて、其の暴起に備えしめた。
二月に入り、形勢は愈々急迫を告げ、壮士は鎮派の首領久木直次郎を水戸城外に刺し、或いは藩兵と衝突するに至った。
是に於いて會澤正志齋を始め、弘道館[ii](水戸藩校)の諸生は断然追討を主張し、藩府も遂に兵力を以て激派を鎮定するに決意し、激派の領袖高橋多一郎[iii]・住谷寅之介・關鐵之介等を処罰せんとした。
金子孫二郎等の脱走
多一郎及び金子孫二郎(郡奉行)・野村彝之介[iv](つねのすけ)等は、早くも藩を脱して江戸に潜伏した。孫二郎等は既に形勢の不利なるを感じ、嚢に薩藩有志と議した計画を実行するに決意し、同志の中より死士を選び、一は井伊大老を斃(たお)し、一は横濱の外人商館を焼き、以て薩藩兵の上京する者と東西呼応せんとし、之に応ずる志土は陸続として江戸に走った。
斯くて長岡の屯集は頓に其の勢を失い、やがて解散するに至ったのである。
三 大老襲撃
井伊大老襲撃の方略
藩の訊問を遁れて、江戸に潜伏した水戸の志士は、徒らに遅疑して機を失はんことを惧れ、三月朔日金子孫二郎等は日本橋の旗亭(きてい/酒楼)に會合して、要撃の方略を議した。
即ち三月三日を以て櫻田門外に事を挙げることを定め、當日同志は手に大名武鑑を携えて登城諸侯の儀衛を観る態を装い、四五人を一伍とし、大老の行列の近づくを要して、先づ其の前衛を襲い、輿側の薄れるに乗じて、急に迫って大老を討ち、必ず其の首級を揚ぐべきことを誓った。
また其の際傷いて遁走すること能はぬ者は自刃し、或は閣老邸に自訴することとし、他は悉く京都に潜行して、彼地に於ける義挙に加はるべしと定めた。
翌二日の夜、関鐵之介・佐野竹之介等十数人(金子・有村兄弟は来会せず)は品川の一酒棲に會して訣別の宴を張った。
衆皆明日の壮挙を思い、慷慨淋漓(こうがい・りんり/憤り)満を引いて痛飲し、再び他日の会宴を期せず、翼う所は明日の成功のみであった。
桜田門外の死闘
明くれば萬延元年三月三日、朝来凍雲は天をを鎖し、春雪は霏々(ひひ/しきりに降る)として降り、上巳(じょうし/陰暦三月の第一の巳の日)の佳辰(かしん/めでたい日)を祝うか、八百八街は、四望皚々(がいがい/一面白い様)として樹上に時ならぬ花を着けた。
是日の払暁(ふつぎょう/夜明け)、結盟の壮士は各々脱藩離籍の書を藩邸に致し、約を履んで芝の愛宕山上に集合した。會する者総べて十八名、曰く関鐡之介・岡部三十郎・斉藤監物・佐野竹之介・黒沢忠三郎・大関和七郎・蓮田市五郎・森五六郎・山口辰之介・廣岡子之次郎(ねのじろう)・稲田重蔵・森山繁之介・杉山弥市郎・鯉淵要人(かなめ)・廣木松之介・海後磋磯之介(かいご・さきのすけ)・増子金八(ましこ・きんぱち)及び薩州藩有村次左衛門(じざえもん)。
時に早天積雪、他に憚る人影もなく、亙に本日の吉兆を祝し合って徐に結束した。
即ち三々五々山を下って櫻田門外に向う。
やがて五ッ時(午前八時)一同は外櫻田の杵築・米沢二藩邸の前に到り、或は壕(ほり)に沿いて徘徊して行人を装い、或は葭(芦あし)掛茶屋に憩うて雪景を賞するに擬し、或いは路傍に踞(うずくま)って諸侯の登営を観る態を爲して、大老の駕の來るを待った。
既にして城中辰の刻(午前九時)を報ずる太鼓の音は、四隣に饗き渡った。
更に待つこと少時、彦根藩邸(今は参謀本部)の赤門を出た行列は、上下六十人ばかり、儀衛粛々として此方に進み来たった。
壮士等は息を潜め、一行を凝視して、徐に機の到る一を待つ。
今や前衛が将に左折して、櫻田門に向おうと
した時、銃聲一発高く城池に響き渡った。
こはこれ當日の指揮に當った関鐡之介が放たしめたもの。間髪を容れず、傘を抛ち、合羽を捨てた一團(団)の壮士は、雪を蹴って驀地(ばくち/まっしぐら)に前衛を衝き、刀を揮(ふる)って縦横に斬り込んだ。
雨衣重装、刀の柄に羅紗(らしゃ/毛織物)袋を掛けていた彦根藩警固の士は、不意を襲われて周章狼狽、鞘を払うに暇もなく、刀室のまま支え闘うあり、或は徒らに怒號狂奔するあり、衆多く前衛に氣を奪はれ、輿側を顧みるに遑(いとま)あらず、乱闘死傷相次ぎ、白雪は倏(たちま)ち鮮血に染(そま)んで淋漓(りんり/したたる)華の如し。
此の時、稻田重藏・藤岡子之次郎・海後磋磯之介・有村次左衛門は、輿側を目がけて突進乱斫(切)り、重蔵先づ一刀を以て輿中を貫けば、衆之に踵いで左右より乱刺し、次左衛門は戸を壊って大老を引出し、首級を挙げて、之を刀尖に貫き、大聲を発して歓呼し、衆皆之に和す。
斯くて此の乱闘は殆んど一瞬時にして終り、一挙の目的は見事に達成せられた。
変を聞いて彦根藩邸より藩士が奔(はし)り來たが、時は既に晩くして、遂に及ばなかったのである。
彦根藩士及び浪士の死傷
此の死闘に於いて大老の従士、即死する者河西忠左衛門・加田九郎太等四人、傷者供頭日下部三郎右衛門以下十五人、志土側に於いて稻田重藏は闘死し、重傷を負うて途に自刃する者四人に及んだ。
當時従駕の士の佩刀(はいとう)を観たが、中には咄嗟敵の一撃を刀柄にて禦いだ爲に、柄は柄袋と共に斜に切られたのがあり、特に加田九郎太の佩刀の如きは刀身血翳(おお)うに黝(あおぐろ)く、全刀毀けて鋸の如く、一瞥鬼氣の人に迫るものがあった。
以て彼我當日の決戦死闘の状を想見すべきである。
(因に彦根藩士の佩刀は、先年本会[史談会]が史料展覧会を開いた際、井伊伯爵家に請うて展観したのである)
茲に有村次左衛門は大老の首級を提げて去ろうとしたが、身に数創を負へるに、大老の従士小河原秀之丞の為に背後より斬り着けられて重傷を負い、漸く三上藩の辻番所に至り、首級を己れの傍に置いて潔よく屠腹した。
其の他廣岡・山口・鰹淵の三人は孰れも重傷の為に途に自刃し、齋藤・佐野・黒澤・蓮田は老中脇坂安宅(やすおり)の邸に、森・大関・森山・杉山は熊本藩邸に自首し、関・海後・増子・岡部・廣木は後図に加わる爲に遁走した。
また此の一挙の総帥格であった金子孫二郎は、是の日の朝薩州藩邸を出でて、品川鮫洲に潜んで吉報を待ったが、同志佐藤鐵三等の現場から馳せ來って一挙の成功を報ずるを聞いて鐵三郎及び薩州藩士有村雄助と共に上国に向ったのである。
斬奸の主意
齋藤監物等が老中脇坂安宅に差出して、素志を表明した斬奸主意書の要旨は、
幕府の當路が、偸安畏戦の情より、外夷の虚喝に怖れて、許容すべからざるものを許したのは、神州古来の武威を穢し、国体を辱め、祖宗の明訓に悖るばかりでなく、勅許を経ずして條約に調印したのは、天朝を蔑如し奉るの甚しきものである。
而して大老井伊掃部頭の爲す所を察するに、将軍の幼少なるに乗じ、己れの権威を振はんが爲に、公論正議を忌み憚り、天朝幕府に深く心を致す親藩を始め、公卿・諸侯・幕臣の別なく、之を讒誣(ざんぷ/陥れる)し、或は致仕(辞職)せしめ、或は禁錮した事は、内憂外患の急迫する現下の時局を思はざる処置なるに、畏れくも深く宸襟を悩まさせられ、特に勅書を下して公武の合体、外患の掃攘に力を致すべき旨を諭し給うたたにも拘らず、大老は聖諭に違背するのみか、堂上家の家臣を始め有志の士を捕え、無辜(むこ/無実)を羅網(らもう/捕える)して、之を厳科に処し、剰え三公を落飾せしめ、青蓮院宮を幽閉し、勿体無くも御譲位を仰せ出されるが如き、奸曲至らざる所なき専擅横肆(せんせん・おうし/ほしいままにする)の振舞いに出たのである。豈天下の巨賊にあらずして何ぞや。
斯かる暴横の奸賊を許し置かば、益々幕府の政治を紊(みだ)し夷狄の大害を招くは必然にして、天下の安危存亡にも係らむ。
痛憤争でか黙止し得べき。
是れ天朝に奏聞し、天に代わって之を誅する所以である。
吾等の素志は毫も幕府に敵対するものではなく、唯仰ぎ翼う所は、聖明の勅旨を畏み奉り、幕府の政治を正道に復し、尊王攘夷の大義を明かにし、以て天下万民をして富嶽(ふがく/富士山)の安に處(お)らしめん事を。
とて、殉国報恩の赤誠を表したものであった。
幾ばくもなく、齋藤監物・佐野竹之介は重傷の為に死したが監物は死に臨み、左の一首を揮灑(きさい/記す)した。
国の為め積る思いも天津日に
隔て嬉しき今朝の淡雪
また竹之介は其の襯衣(はだぎ)の背面に、朱を以て左の二首の辞世を記していた。
敷島のにしきの御旗もちささけ
皇御軍の魁やせん
さくら田に花とかはね(屍)はさらすとも
なにたゆむへき大和魂
佐野竹之介藤原光明
計画の齟齬
嚢に一挙の成功を見届けて上京の途に就いた金子孫二郎・有村雄助・佐藤鐵三郎は、東海道を上って三月九日勢州四日市に至った。
是の夜雄助・孫次郎・鐵三郎三人は薩州藩の捕吏の爲に捕えられ、伏見の薩州藩邸に護送された。
伏見に至れば、京都の形勢は、孫二郎等の豫期したところとは大いに相違し、同志の薩州藩士の上京する者一人もなく、目算は既に齟齬していた。
蓋し江戸の薩州藩邸吏は、雄助の出奔するを知って、其の幕吏の爲に捕らわれることを惧れ、急に之を捕えしめたのであった。
而して曩に江戸に於いて義挙の事が決するや、雄助は同志を藩地に帰らしめて、同志の東上と京郡守衛を名として藩兵の派遣とを促さしめたが、薩州の藩情は輒(ことごと)く志士等の意の如くならず、藩は却って藩士の行動を抑制したので、茲に東西の事情は大いに齟齬を生じ、孫二郎等の意図した京都に薩州兵を迎え、天朝を擁して幕府に臨む策は失敗に帰し、孫二郎等同志は各々、悲惨な末路を告げるに至った。
金子・高橋等の末路
即ち孫二郎・鐵三郎は後日、伏見奉行の手に移されて江戸に送られ、孫二郎は斬に処せられた。また有村雄助は藩地に帰り、自刃を命ぜられた。其の絶命詞にいう。
性來綺羅(きら/着飾る)巧みを好まず/何ぞ思う後世天穹に入るを/唯願うは君のため国賊を誅すを/
千生万死皇宮を護る
茲にまた高橋多一郎は櫻田の一挙に先だち、其の子庄左衛門・同志黒澤覚蔵・小室治作・大貫多介等と共に江戸を発して木曽路を大坂に上り、同地の同志川崎孫四郎・佐久良東雄(あずまお)等と共に。空しく薩州兵の東上を待った。
既にして櫻田門外の変報が伝ったので、密かに人を京に遺して、斬奸義挙の趣旨を天朝に達したが、遂に幕府偵吏の知る所となり、三月二十三日、捕吏数十人は其の潜居せる島男也(しま・おなり)の家を囲むや、多一郎父子は一方の血路を開いて四天王寺に入り、捕吏の追襵(ついじょう/追従)を睥睨(へいげい)して近寄らしめず、寺役人小川欣司兵衛の承諾を得て、其の家に入り、
鳥か啼くあつま武男か眞心は
鹿島の里のあなたとを知れ
と一首の和歌を血書朗吟し従容として屠腹し庄左衛門(時に十九歳)は父の死後・端座自ら刀を引き、絶命詞を紙障に血書して壮烈な最期を遂げた。
川崎孫四郎亦自刃し、大貫多介・佐久良東雄・山崎獵蔵(りょうぞう)は捕えられて獄中に死し、小室治作は後に自殺し、黒澤覚蔵は遁れた。
而して時人は多一郎父子の壮烈に感じないものはなかったという。
その他志士の最後
嚢に櫻田を脱した関鐵之介及び同志木村権之衛門・野村彛之介は潜行して大坂に來ったが、高橋父子既に死し、薩州兵も來らず、幕吏の警戒は巖重であったので、難を避けて四方に散じ、鐵之介は越後に潜伏したが、文久二年に捕えられて斬られた。
脇坂邸及び熊本藩邸に自訴した者は、評定所の吟味を受け、翌文久元年七月悉く死罪に処せられ、また嚢に遁走した廣木松之介は後日鎌倉に自刃し、岡部三十郎は水戸領内に捕えられて斬られ、海後磋磯介・増子金八の二人のみ難を免れたのであった。黒澤忠三郎に詩あり。曰く
狂と呼び賊と呼ぶは他評に任す/幾歳愁心今日晴れる/是の方桜花好む時節/桜田門外の血桜の如し
と。
関鐵之介縛に就くに方って吟じていう。
仰いで天に愧じず/寧ぞ世に愧じざる/丹心火の如し復誰ぞ明らかにせん/満山風雪懐豁(かつ/ひらける)を吟ず/正に是に従容として義に就く時
勤王の儒者大橋訥庵は此の一挙を詠じて、
電発已に看る讐(あだ)忽ち斃(たお)す/淋漓として血滴雪花の如し/子房(張良)博浪(地名)眞に迂拙/徒に他人の倩(せん/雇人)副車(秦の始皇帝の副車)を椎(たた)く
(*秦の始皇帝の暗殺失敗談に対比したもの)
と歌い、櫻田志士が雪を踏み花を蹴って、白昼大臣の首級を挙げた壮烈な行動を称揚した。寔(まこと)に此の一挙は、多数の志士が尽忠の至誠を以て、邦家の為に殉じたものであって、世上若し之を私怨に基づくものとしたなら、大なる誤謬である。
而して斯の如き事変は、実に江戸幕府創始以来の珍事であって、変報一たび四方に伝わるや、海内震駭(しんがい/おどろく)せざるものはなかった。
是が為に幕府は一朝にして鼎(かなえ)の軽重を問われて、愈々、其の権威を失墜し、皇室の御稜威は益々、億兆の上に輝き渡って、限りなき朝権の伸張を見た。
また他方には大いに尊攘志士の意氣を鼓舞して、天下の形勢は茲に急変し、幕末史上に重大な一転機を画するに至ったのである。
第三章 公武合体
第一節 櫻田事変後の幕府
一 政局の推移と朝威幕権の隆替
熟(つらつら)、嘉永・安政以降、幕府政治の推移を按ずるに、初め老中阿部正弘を首班とした幕府が、米艦の渡來に際して、之を京都に奏聞し、徳川齊昭を起こして幕政に参与せしめ、また諸侯に令して和戦の議を徴したのは、幕府が自ら其の祖法・例格を破り、政治御委任の独裁権を棄てたもので、之に由って朝廷及び諸侯等が内治外交に対して容喙する端緒を開き、延いて処士横議の風を助長せしめたと共に、朝権は此の間に大いに伸張したのである。
蓋し幕府が斯かる措置に出たのは、其の好むと好まざるとに拘らず、既に衰頽に傾いた幕府の余力を以てしては、到底此の難局を打開し難いと自覚した結果に外ならなかったのである。
論者或は幕府の此の退譲的態度を以て、却って其の衰亡を早からしめた禍源であると爲すのであるが、内外に於ける当時の情勢を熟察すれば、朝廷及び諸侯・有志の幕政容喙は早晩起こるべき命数(めいすう/天命)に在ったもので、隅々(たまたま)、幕府の譲歩は若干其の機運を早からしめたというに過ぎないのである。
挙国一致の態勢
斯くて阿部正弘が苦心の余り、兎も角も朝威を假りて国論の統一を計ろうとし、重大有力なる諸侯との協調を失わず、遍く耳を輿論に假して非常時意識を国民の間に抱かしめ、以て挙国一致の態勢を整えて、外国の強圧に当ろうとした政策は、施政に機宜を失するもの多く、豫期の如き効果を挙げ得なかったにせよ、少くとも国内政争の激化と政局破綻の招來とを緩和するに、相當効果があったのであった。
公武合体の趨勢
而して此の幕府の態度は、正弘が幕閣の首班を堀田正睦に譲った後に於いても猶継承せられた。
但し時勢は内外に亙って益々、多事多難に赴くに従い、朝威は政局の上に益々、重きを加え、御稜威は日に月に国民の前に尊厳を増し、天下の雄藩、尊攘の志士は、朝廷によって幕府の庶政を匡正(きょうせい/正す)しょうとし、朝廷も亦之に覚醒せられて、自ら皇威の伸張を見るに至った。
茲に朝廷は政治上に於ける一大勢力となり、公武の間に衝突をさえ見るに至り、幕府專制の時代は既に過去の夢と化し去ったのである。
時運が斯くなり來っては、幕府が新に採るべ
き政治体制は、所謂公武合体の外にはない。
即ち公武間の親和を図り、朝威に依恃(いじ/依拠)して幕権を保持し、国策を遂行するにある。
阿部・堀田時代の幕府政治は、未だ公武合体とまでは言い得ないにしても、公武間の協調を主眼とし、やがては公武合体に至るべき趨勢に在ったと見るべきである。
幕政の大勢逆行
斯くの如く幕権の実権は既に業(すで)に昔日と異り、また尊攘の気勢は、到底堰堤(せきてい/防波堤)の能く防ぎ得べきものではなかった。
然るに井伊大老が出て、幕府の政柄を執るや、大勢の趨く所に逆行して妄りに弾圧を事とし、以て幕権を将来に維持しようとしたのであった。
よし其の断行は一時反対者を慴伏(しょうふく)せしめたとは言え、却って幕府の威信を失墜せしめ、王政復古史上に重要な転機を為すに至った。
斯くて朝廷は盆々、政治の表面に現れることとなり、諸雄藩は政局の上に台頭し來って、朝幕の間を周旋するに至った。
是に反して、幕府の存在は益々、薄弱になり行くのであった。
二 久世・安藤の執政と局面収拾
井伊大老没後の幕閣
井伊大老没後、幕閣に列した者は酉尾藩主松平乗全(のりやす)・村上藩主内藤紀伊守信親(のぶちか)・龍野藩主脇坂安宅(やすおり)・磐城平藩主安藤信睦の四人であった。
乗全・信親・安宅の三人は共に此の難局を担当する器材でなく、新参者たる信睦が嶄然(さんぜん)頭角を抽んでていたので、閣内の権勢は自ら此の人に帰した。
是に於いて信睦は曩に一橋派の処罰に關して、大老と意見が合わずして辞職した関宿藩主久世廣周(ひろちか)を再び起こして天下の信望を繋ごうとした。
斯くて萬延元年閨三月朔日廣周は老中となり、勝手掛を担当したが、四月二十八日乗全が辞職するに及んで老中首座となり、信睦は依然外国事務を担当して、二人が專ら内外の事務に鞅掌
し、茲に久世-安藤の執政時代を現出した。
其の後岡崎藩主本多忠民(元所司代)・亀山(丹波)藩主松平豊前守信義は老中を命ぜられ、安宅は辞職して、幕閣の改造が行われた。
時人(じじん)は廣周の入閣によって或は局面が一変するであらうと期待したが、累年尩弱(おうじゃく/動きがにぶい)の幕府に何とて大革新が行われよう。施政は徒らに當面を糊塗するに過ぎなかった。
彦根藩に対する措置
井伊大老の遭難に驚倒した幕府は、変後の人心が戦々競々として、彦根藩士は主君の讎(仇)を報じようとして動揺し、之を放置すれば、水戸藩との間に衝突を惹起し、延いて天下の禍乱を激成することを憂え、百方之を慰撫し、彦根藩家老岡本半助等の兇行者下附の願を斥け、同藩に命じて、直弼の死を秘して、傷を負うた態に届出でしめ、将軍より侍醤を遣し、医薬を賜って其の存命を装わしめた。
尋いで三月晦日に至って、幕府は直弼の大老職を免ずると共に、水戸藩主徳川慶篤に登城を禁じ、閨三月晦日始めて直弼の病没を公表せしめ、四月二十八日遺子愛磨(よしまろ)の襲封を許し、遂に両家に対して断固たる処置を取らず、纔かに其の間を弥縫(びほう)して事なきを得たのである。
由來幕府の制規に遵えば、当然改易に処せられらるべき井伊家に対し、其の祖先以來の由緒勤労を忍び、且つ一藩の動揺を恐れて、かくも糊塗の策を取ったのであらうが、白昼路上の事
変であったから、誰か斯かる事で瞞着(まんちゃく/だます)せらるべき。
事実は霹靂(へきれき/雷鳴)の如くに津々浦々に響き渡って、心あるも心なきも皆時世の変易を感じ、幕府の姑息を嗤(わら)わぬ者はなかった。
水戸藩に対する措置
櫻田門外の変報が水戸に達したのは事変の翌四日であった。
當時謹慎中の徳川齊昭は、藩士を戒飾(かいちょく/戒める)して妄りに江戸に赴く事を禁止し、また在江戸の藩主慶篤に書を致して、井伊家は家康以来の家柄であるから、速かに遺領安堵の事を聞いて安心したい。
其の事が早く実現するよう老中等に周旋し、其の相続決定後は両家共に懇親して宗家の爲に尽力すべきである。
そうでなく両家が相鬩(せめ)ぐようでは、天下を外様大名や夷狄に渡す事になるであらうと警告した。
勅諚返納の督促
また齊昭等は、櫻田事変激発の重大原因となった勅諚返納問題が更に紛糾することを慮り、豫め同藩家老興津藏人を老中松平乗全に、尾崎豊後を老中内藤信親に遣して、返納の猶予を請わしめた。
幕府は始め従來の態度を改めないで、閏三月十八日命を下して、曩に勅諚返納を阻止した者及び櫻田事件関係の亡命者を逮捕し、悉く之を差出すやうに厳命した。
尋いで四月二十五日幕府は更に朝命を請うて勅諚返納を水戸藩に迫らうとし、老中連署の書を所司代酒井忠義に送って、返納督促の勅諚下附(かふ)を奏請せしめた。
是に対し、孝明天皇には、
水戸へ遣候書付取戻催促之事、甚不容易儀にて當三月三日外櫻田之一條も此儀より起り候事と風聞に候得ば(中略)此の儀は暫く此の儘見合せ、猶勘考す可く
との叡慮を關白九條尚忠に下し給うて勅許あらせられなかった。
越えて五月二十九日忠義は更に幕府の意を承けて前請を重ね、若し水戸藩で朝命に違背する所なく返上するならば、爾後同藩を待つ(*待遇)に総べて寛大にすべきことを奏上したので、六月十三日朝廷では其の請を許して、勅書を忠義に授けられた。勅書は禁裡附大久保大隅守忠良が之を奉じて東下し、七月朔日江戸に着した。
以上
第十六回東京町田「幕末紬新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢問わずどなたでも参加できます
日時 九月二十四日(土)
午後一時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター
資料代 三百円
[i] 長岡駅 (常陸長岡駅/茨城県東茨城郡茨城町) 千住宿から水戸城下につながる水戸街道最後の宿場町。
[ii] 弘道館 江戸時代末期、水戸藩主徳川斉昭によって創設された。水戸城内に文武二館を設け、十五歳から四十歳までの藩士の子弟を教育した。洋学も取り入れ、後期水戸学の尊皇攘夷思想を鼓吹した。肥前(佐賀)・福山(広島)・矢田部(茨城筑波郡)・彦根(滋賀県彦根)の各藩校も弘道館と称した。
[iii] 高橋多一郎 後期水戸学の中心人物である藤田幽谷に学ぶ。天保十二年藩主側近、奥祐筆に任命される。
[iv] 野村彝之介 奥祐筆頭取・大目付・側用人など歴任し、藩主斉昭のもとで安政の改革をすすめる。勅書問題では、勅旨奉行として勅書返納に反対して奔走する。そのため小普請組に降格となる。安政六年三月、薩摩藩高橋五六らと提携を模索する。万延元年七月、水戸藩西丸帯刀等
と長州藩桂小五郎等との丙辰丸盟約(「成破盟約」・「水長の盟約」)締結に参加する。
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 14 回テーマ 安政の大獄
日時: 令和4年7月23日 (土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十四回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年七月二十三日午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史(全881 頁)』の内p283‐302]を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第二章 朝権の伸張
第五節 安政の大獄
三 宮・堂上の処分
在京幕吏の軋轢
嚢に間部詮勝は己れの使者を以て、天下分目の御奉公と言い、新に公家諸法度をも布いて幕権の回復をも敢て行おうとの意氣込で入京したのであったが、上洛以來必死の努力を試みたにも拘らず、勅裁が容易に下らないのに倦み、且つ志士の逮捕、堂上及び其の家司等の糺問に就いても、在京幕府有司、井伊大老の威を藉る長野主膳及び同類島田左近等の間に、意児の扞格を生じて、所謂寛厳二派に分れ、互に軋轢したのに苦心し、万事意の如くにならぬところから意気阻喪して、早くも帰府を志し、略、辮疏の任を了るを機會に、東帰を奏請して既に御暇を賜うたのであった。
されども是も亦詮勝の欲するが如くにはならず、大老井伊直弼の激励によって猶在京して、遂に宮・堂上の処分に及ぶこととなったのである。
是より先幕府は志士等の逮捕に着手するや、青蓮院宮・近衛忠熙・三條実萬等の諸公卿等に対して、深く自戒して浮浪輩策動の渦中に入らぬよ注意するところがあった。
其の後幕府は志士・堂上家家司等の訊問を進めるに從って、終に飽くまで其の根源を糺明し、堂上等をも嚴に抑圧して、再び水戸及び忠士・説客等の之に策動する余地なからしめる事に決したのであった。
所司代酒井忠義の如きは、罪累の堂上諸家に及ぶを憚って、斡旋頗る努めたのであつたが、長野主膳等の意見が遂に大老を動かしたのであった。
是に於いて詮勝は翌安政六年正月、特に前関白鷹司政道・右大臣同輔熙・左大臣近衛忠煕・前内大臣三候実萬に厳譴を加えようとするに至った。
政通等四人は之を豫知し、其の遁れ難きを如って、正月十日各々、辞官落飾を奏請した。
天皇は痛く之を憂えさせられ、且つ四公の落飾を憫み給い、九條関白に勅して、之が救解を命じ給うた。
然るに詮勝は堂上家家司の口供書を上って、鷹司政通父子は水戸の姻戚で、年來齋昭と親しく、水戸家臣の内請を容れて、勅諚の降下に周旋し、近衛忠煕は薩州・水戸両藩士の妄説に惑はされて、其の内請に周旋し、三條實萬は水戸・福井両藩士及び浮浪輩の内請に依って、勅諚の草案を起草する等、正邪を弁えずして、其の陰謀に加担したことは明白であるとて、辞官落飾の聴許を奏請したのであった。
既にして幕府は宮・堂上の処分を決し、其の擬律(罰則)の次第を在京幕役に通達したので、二月五日、酒井忠義は、青蓮院宮を慎に、政通・實萬を各々、隠居・落飾・慎に、忠煕を辞官・落飾に、輔煕を辞官・落飾・慎に処し、なお内大臣一條忠香・権大納言二條齊敬・近衛忠房・久我建通・中山忠能・権中納言正親町三條実愛等十二人の処罰を奏請した。
天皇は其の峻厳過當なるに驚かせられ、九條関白に諭旨して、寛宥の処置を議らしめ給うたが、詮勝は「夫々願の通り仰せ付けられ候方、猶更御憐愍の廉に相当り仕る可く」と更に厳科を以て臨む意あるやに諷奏して、敢て叡慮を奉承しなかった。
青蓮院宮等の処罰
是に於いて、同十六日天皇は遂に政通等四人の処分を後日御勘考の上と保留し給い、其の他の処罰は許し給うたので、翌十七日青蓮院宮を始め一條忠香以下は各々慎を命ぜられた。
然るに幕府は青蓮院宮を嫌忌すること甚だしく、後日其の処罰を重くすることを要請し奉ったので、隠居・永蟄居に処せられたのであった。
斯くて四公落飾以外の朝臣処分も一段落が着いたので、間部詮勝は井伊大老の同意を得て、漸く二月二十日京を発して帰東の途に就いたのである。
四公落飾
天皇は深く政通等四人を憐み給い、其の落飾を止められんとして、重ねて勅を九條関白に賜い、政通は前朝以来の耆宿にして多年の勤労があり、且つ齢が古稀に及んで重く罪するに忍びず、忠煕等は皆積年の勤功あり、假令外夷の事に就いて異見があっても、決して幕府に対して異心を挟むものでないと仰せられ、其の落飾を止める事を議らしめ給うた。
然るに幕府は猶も四公の落節を迫り奉り、九條関白も亦聴許あらせられるよう諌奏申上げた。
天皇は遂に已むを得させられず、之を許し給い、二月二十八日忠煕・輔煕の辞官を聴許し、尋いで四月二十二日政道・忠煕・輔煕・実萬の落飾を勅許あらせられ、四人に各々、勅書及び物を賜って、国事に勤労したのを賞し、且つ其の憂鬱の情を慰め給うたのである。
翌二十三日酒井忠義は朝臣の処分が終了したので、「公武御一和、上下御一致の御政道と実に以て有り難く存じ奉り候」と奏上したのであった。
斯くて幕府が京都に於いて庶幾した目的は略々、達せられたのであらう。
されど若し之を以て朝廷を圧伏し了り幕権を昔日に復するが爲に、抜本塞源の処置を行い得たと考えた者が、幕閣内に在ったとしたならば、其の誤謬錯覚は、実に之より大なるはない。
四 大獄の処断
幕府は未曾有の大獄を起し、之が処断を行うに方り、陰微(*確証のないもの)を摘発して、事件の徹底的糾明を期する為に、安政五年十二月から翌年の春にかけて京都に禁囚した者を悉く江戸に監送したのである。
今や幕府の忌諱に触れて、囹圄(れいこ/囚われ)の身と爲り、皇城の地を離れて、遠く関東に下る彼等の心中は、如何であったらう。生還或は期し難い今日の門出に、遥かに天闕(てんけつ/御所)を仰いで、叡慮の程をしのび奉って
雲の上も数なき憂さのありときけは
かすならぬ身のうさはうさかは
と詠じ、纔(わず)かに自ら慰めた志士は三国大學であった。
抜身の槍、切火縄を携えた数百人に警固された軍雞寵(シャモかご)は、折しも吹き荒ぶ風雪の中を京都六角の獄を発して、東海道に向い、五十三駅を過ぎて、やがて江戸に着いた。
五手掛の組織
是に於いて幕府は之が断獄を行おうとして、寺杜奉行板倉周防守勝静(かつきよ)・町奉行石谷因幡守穆清(あつきよ)・勘定牽行佐々水信濃守顕発(あきのぶ)・大目付久貝因幡守正典・目付松平康正を似て五手掛(*老中任命の審判員)を組織した。
幾ばくもなく掛員間に寛厳両様の意見が対立したので、寛典を主張する勝静・顕発を罷めて、更に町奉行兼勘定奉行池田播磨守(世上首斬り池田と言うた)・寺社奉行本荘宗秀を任命し、陣容を新にして、京都・江戸其の他で逮捕した者の訊問を開始した。
志士等の尋問
而して幕府は其の糺す糺問に當り、一橋慶喜の擁立及び勅諚の降下に策動した事情を摘発するに最もカを尽くし、殊に水戸藩との関係を追究して止まなかった。
是より先、幕府は再び水戸藩に対して圧迫を加え、同藩の三連枝をして藩政を後見せしめ、剰え尾州藩附家老竹腰兵部少輔正富・紀州藩附家老水野忠央(ただなか)に命じて、前藩主斉昭の謹慎を監視せしめたので、同藩は大いに動揺し、士庶は大挙して各所に屯集したのであったが、遂に安政六年四月二十四日当時藩主慶篤の両翼と称せられた安島帯刀(たてわき)・茅根伊豫之介(ちのね・いよのすけ)及び鮎澤伊太夫(いだゆう)を喚問禁錮するに至った。
蓋し幕府の期する所は、齋昭の罪案を決定せんが爲であって、帯刀等が評定所で追究尋問せられた所は、嚢(さき)に彼等が奔走した一橋慶喜の擁立及び勅諚降下の策動が、孰れも齊昭の発意に出でたものか否かの点であった。
尋いで長野主膳等が「悪謀の働きも抜群、力
量も之れ有り」と称した長州藩士吉田松陰も、幕府に召致せられて、江戸傳馬町の獄に繋がれた。
第一回の断罪
斯くて幕府は昨年九月以來禁獄した者の審問を終るや、苛酷峻烈なる態度を以て其の断罪を行ったのである。
八月二十七日其の第一次判決の申渡があった。
即ち徳川齊昭に対しては、屡、幕府を天朝に讒誣(ざんぷ/*嘘を言い立てる)して、公武の確執(かくしつ/対立)を醸(かもし/助長)し、公儀に対して後闇(くら)き処置(*不信な動き)ありとの理由を以て、水戸に於いて永蟄居すべきを命じた。
藩主慶篤には差控を命じ、また慶喜を隠居・
慎に処し、なお水戸藩の三連枝松平頼胤(よりたね/高松藩主)・松平大學頭頼誠(よりのぶ/守山藩主)・松平播磨守頼縄(常陸府中藩主)を宗家藩政の取締不行届の故を以て譴責した。
而して安島帯刀を切腹に、茅根伊豫之介・鵜飼吉左衛門を各、死罪に、鵜飼幸吉を獄門に処した。
孰れも相通謀して慶喜(よしのぶ/よしひさ)の擁立、勅諚の降下に策動し、為に公武間の阻隔を招来したと言う罪案であった。
帯刀は藤田東湖と併び称せられた戸田蓬軒の弟であって、當時執政の要職に居た。獄中に在って既に死を覚悟し、
強ひて吹く嵐の風のはけしきに
なにたまるへき草の上の露
と述懐したが、其の死に臨むや、顔色常の如く、泰然として屠腹したのである。また伊豫之介は刑場に抵(いた)るや、天を仰いで再拝し、従容端坐して刃を受けたと言い、吉左衛門は刑死の瞬前、猶其の主齊昭の安危を憂え、其の恙なきを聞くや、莞爾(かんじ/笑みを浮かべる)として斬られたたと傅う。
彼等は孰れも東湖・蓬軒の歿後、益々苦境に陥った水戸藩の爲には、有用の人物であった。
尋いで十月七日第二次の断罪が行はれ、飯泉喜内(きない)・橋本左内・頼三樹三郎が各、死罪を申渡されて、刑場の露と消えた。左内の罪案は、藩主松平慶永の命を以て上京し、慶喜擁立の事に奔走した事にあった。
左内は評定所に於いて訊問を受けるや、毅然として之に応答し、將軍の世子に年長賢明を擁立せんとするは、国家の福祉を糞うが故であり、また外交の事に勅裁を請うは天朝を重んずる所以であると堅く信ずるから、即ち主命を承けて奔走したのであると陣べて、敢て屈する所がなかった。
其の囹圄に在るの日、獄窓に倚って文天祥[i]の忠烈を偲び、一詩を賦していう。
二十六年夢の如く過ぎる。平昔(旧古)を顧思し感滋多し。天祥大節心折を嘗める。土室猶正気歌を吟ずる
と。また頼三樹三郎の罪状は、梁川星巖・梅田雲濱等と猥りに国政を論じ、容易ならぎる説を唱えて堂上に入説し、人心を惑乱したのは、公儀を恐れぬ所業不届であると言うのであった。
其の罪科が定まって斬られるに方り左の一詩
を遺して、従容として死に就いた。
雲を排さんと欲して妖熒(ようけい/怪しい営み)を掃く 失脚墜ちて江戸城に来る 井底痴蛙(あ)憂 慮過(至)り 天辺大月高明欠く 身湯鑊(とうかく/釜)に臨み家信ずる無く 夢鯨鯢(げいげい/*巨頭)を斬る、剣に聲有り(支持がある) 風雨他年石面に苔(む)す(時代が下って) 誰か題す(評価する)日本古の狂生(崇高な生き方)
飯泉喜内は堂上家の家司等と往復して時事を評し、巷説を伝播し、或は露国使節の宿舎を訪うた如きは不届であると言うのであった。
第三回の断罪
尋いで同二十七日(十月)第三次の判決が申渡された。
此の日吉田松陰は死罪に処せられ、傳馬町の
獄に於いて斬られた。
其の罪案は、安政以來幕譴を蒙った身でありながら、屡、国事を論じ、間部閣老の要撃を企てたのは、公儀を憚らず不敬の至りであり、殊に蟄居中梅田雲濱と会晤したのは、不届きであると言うのであった。
松陰はかねてこの日のある事を覚悟し『留魂録』一篇を草して門人等に遺し、其の刑場に抵るや、聲高らかに時世の詩を吟誦して同囚に訣別し、従容白刃の下に仆(たお)れた。
其の辞世に曰く、
吾今国の為に死す 死君親に負けず
悠々天地事 鑑照明神に在り
.親思ふこころにまさる親こころ
けふの音つれ何ときくらん
と、寔に偉丈夫の最期、神州の正氣当に凛然たるを覚えるのである。
以上は、三回に亙って行われた断獄中の極刑であって、其の擬律は頗る酷に過ぎたものであった。
傳え言う、井伊大老は五手掛の断案に対して、罪一等を加えたと。
その他の連累者
其の他鮎澤伊太夫・小林良典は遠島に処せられ、池内大学・三国大学・伊丹蔵人の三人は各々中追放に、近衛家の老女村岡は押込に処せられたのを始めとして、諸家の家司・藩士・浪士・庶民・僧侶・婦女・幼児等の連座する者は百人に垂れんとした。
而も其の擬律は秋霜烈日の如く、惨忍酷簿を極めたものであった。
例えば父の科を以て、年齢僅かに三歳の茅根熊太郎が遠島に処せられ、同じく鮎澤力之介が四歳、其の弟大藏が二歳にして中追放を命ぜられたが如き(孰れも幼少の故を以て十五歳まで親類に預けられる)、或いは側衆石河政平は前年既に自刃したるも暫く其の埋葬を許さず、為に屍臭は四隣に及んだことさえあったのに、此の時に至って重ねて減禄・隠居・慎を命じ、死屍鞭打つが如き措置に出たのであった。
而して幕府の処置は之に止まらず、曩に一橋慶喜擁立に周旋した土州藩主山内豊信を、二月二十六日先づ致仕(罷免)せしめ、薄いで之に慎を命じた。
幕府有司の処罰
幕府の有司に対して、作事奉行岩瀬忠震・軍艦奉行永井尚志・西丸留守居川路聖謨が各々隠居・慎を命ぜられたのを始め、幕府有司十数人の処罰も行われた。
敦れも一橋慶喜の擁立に荷担奔走したという罪案であった。
断獄をまぬがれたる志士等
また此の断獄に於いて、當然極刑に処せらるべき日下部伊三次は五年十二月十七日、梅田雲濱は六年九月十四日、孰れも獄死したのであった。
雲濱の如きは尋問の席に於いて一も、常に侃々諤々(かんかんがくがく)の論を立てて、大義名分を説き、敢て幕吏の糺問に屈せず、闇齋學者としての面目を発揮して遺憾がなかったのである。
なお此の大獄に関連して、幕府の検挙を脱れた者も数名あった。
即ち長州藩の山縣半藏・大楽源太郎・入江九一・野村和作・薩州藩の有馬新七・有村俊斎・西郷吉兵衛、筑前藩の平野二郎・福井藩の近藤了介、常陸の人櫻任藏等である。
彼等は孰れも或は深く身を潜めて其の踪跡(しょうせき)を晦し、或は幕府の検挙着手と共に、其の藩府に於いて連累することを恐れたが為に、逸早く其の者を禁錮し、他との交渉を絶たしめたので、纔かに其の厄を脱れたのであった。
西郷吉兵衛と月照
またかの月照を伴って帰藩した西郷吉兵衛は、既に藩情が一変して月照を匿う事が出來ないばかりか、却って藩府から月照を日向に追放すべしと命ぜられた。
吉兵衛は、今は其の脱れがたき運命を悟り、十一月十五日の夜半、月照及び同じく難を鹿児島に避けた平野二郎を促して一葉の軽船に搭じ、月魄(げっぱく/月)中天に冴える錦江湾に乗り出した。舟中に酒を置いて静かに語るは、そも何事であったか。徒らに江山の月を賞し、詩興に耽けるものではなかったであらう。やがて舳(へさき)に立った月照は、竊かに吉兵衛を顧みて懐紙を示した。
懐紙には
曇りなき心の月も薩摩湾
沖の波間にやかて入りぬる
大君のためには何かをしからん
薩摩の迫門に身は沈むとも
.の二首が配されていた。吉兵衛も直ちに筆を執って
ふたつなき道にこの身を拾小舟
波たたはとて風ふかはとて
と書き遺し、忽ち両人は相擁して海中に身を躍らした。
時に十六日の未明、月も已に西に傾いていた。
二郎等は驚いて直ちに舟を廻らし、漸く両人を救い上げて介抱したが、吉兵衛のみ纔かに蘇生し、月照は終に事切れてしまったのであった。
之も大獄が齎した大なる悲劇の一つである。後、西郷隆盛は、月照の墓に展(てん/墓参)し、往時を追想して、左の一首を賦した。
相約す淵に投ずるを後先無く
豈図らん波上再生の縁
廻らす十有余年の夢
空しく幽明を隔つ墓前に哭す
幕府の献金
斯く幕府は京都を威圧するに毫(すこし)も憚る所なく苛酷な措置に出たが、他方には八月十二日将軍襲職の祝意を表して、朝廷に金五干両を献じ、摂家以下堂上等に金二万両を贈った。
斯くの如きは往時幕府極盛の時代に於いて、幕府が屡、朝廷に用いた寛猛二様の常套手段を、今また茲にも之を弄して、殊更に恩を売ったのである。
大獄の結果
以上述べ來った所は、所謂安政戊午の大獄の大要である。
其の連累する所は上は宮・堂上・諸侯を始めとして、下は藩士・処士・庶民・婦女・幼児に及び、いやしくも苟くも水戸に荷擔し、一橋派若しくは幕府に反対する者と目指された者、及び之と連絡關係ありと認めたものは、網羅して遺す所がなかった。
また之を訊問するに方っては、微を発(ひら)き、伏を摘み、年余の日子を費やして爬羅剔挟(はらてきけつ/余すところなく)、至らぬ隈もなかった。
而して之を断ずるには毫(すこし)も假借する所なく、畏れくも屡、聖諭を下して之を宥め給うたにも拘らず、遂に最も御信頼の厚かった朝臣を御側より黜(しりぞ)け申して、宸衷の程をも省み奉らず、幾多忠誠憂国の士、天下有用の材を無惨にも刑場の露となし、或は囹圄(れいご/牢獄)の中に永く血涙を絞らしめたのであった。
斯くして幕府が、条約調印・将軍継嗣の二問題を専断した事によって、捲き起された政局の
紛糾、延いて激成された朝幕乖離の原因を、却って徳川齋昭の陰謀に因る教唆に在ると疑い、一意之を摘発しようとしたのであるが、果して其の証跡が分明に挙げられたか。
志士等が此の二問題に周旋奔走した心事の公明正大にして、毫も義理に違はぬ事は、橋本左内が堂々と審制廷に於いて抗弁した処である。
畢竟、幕府は時局の趨勢に対して目を掩い、幻影を追い、党争心に囚はれて、遂に未曾有の大獄を起こし、許すべからざる暴威を振ったのである。
而して斯かる幕府の暴断に対する必然の結果は、益々、天朝の御信頼を失い、雄藩の離反を
一層大ならしめ、尊攘志士をして切歯扼腕措く能はざらしめた。
幕府の弾圧に対する恐るべき反動は、斯くして遂に避くべからざるものとなったのである。
第六節 櫻田門外の変
一 水薩両藩士の密謀
桜田事変の由来
大老井伊直弼が就職以来、専横を事としたことは、巳に業(はじめ)に之を述べた。
今之を要約すれば、直弼は徳川家康以來の譜代重鎮の家より出で、幕府の政柄を握るや、一意自己の立場と既往の経緯とに執着し、広く眼を政局の推移、民心の向背に注ぐことなく、恐れ多くも上は天朝を蔑視し奉り、幕府の勢威を元和・寛永の昔に復して、再び朝廷を控制し奉らんとし、下は朝臣・諸侯より士庶に至るまで、悉く之を威圧して其の権威の前に懾伏(しょうふく/服従)せしめんとし、之が為に幾多国家の忠良を迫害し、純忠義烈の士を犠牲にして、敢て憚る所がなかった。
斯の如きは眞に千古の一大痛恨事で、天人共に許さぬ所である。
之に対して争でか反動の起らぬ事があらうか。
憂国の士が決然起って之を殪(たお)すに至ったのは、勢の当に然るべき所である。
面して之は実に櫻田門外の変の主因を爲すも
のであるが、此の挙が水戸の浪士を中堅として、行はれた所以は果して如何。之を明かにするには、少しく水戸の藩情を語る必要がある。
勅詫伝達問題
當時水戸藩の状態を見るに、井伊大老就職以來、常に幕府の抑圧の下に立って頗る苦境に陥った。
殊に幕府が曩に水戸藩に降下せられた勅諚を諸藩に回達するを阻止すると共.に、同藩に対する圧迫は一層甚しきを加えた。
藩の要路は支族高松藩主松平頼胤の掣肘を受けて、一意幕旨に迎合し、無事を翼うて尊攘志士の義心を抑制するにカめた。
是に於いて有志等は憤慨に堪へず安政五年八月末以降、屡、大挙して下総国小金駅(水戸街道宿場町)に屯集して、藩論の反正を志した。
志士の内には、兒島高徳[ii]の後を逐うて義氣を天閽(てんこん/宮門)に達すべしと唱え、或は密かに身を脱して雄藩に遊説する者、或は憤激の余り自刃する者さへあった。蓋し此等有志の期する所は、唯勅諚の遵奉と前藩主齋昭の冤枉を雪ぐとにあった。
而して之を率いる者は、高橋多一郎・金子孫二郎・住谷寅之介・関鐵之介・野村彜之介(つねのすけ)等であって、東湖・蓬軒の流を汲み、之と志を同じうする者は、少壮気鋭の士にして、所謂天狗党と称せられた一派である。
然るに同じく藤田幽谷門下にして一藩の硯学と称せられた會澤正志斎は、少壮の士が氣節を
負い、過激に流れて社稷(しゃしょく/藩体制)を危くすることを慮り、藩の議を支持して、專ら恭順の説を唱えたので、藩内の尊王派は激派・鎮派に岐れて相争い、之に策応して自派の権勢を張らうとする奸派の介在するあり、藩情は常に紛糾して、徒らに内紛を繰返し、尊攘志士の憂憤は益々鬱結するのみであった。
諸藩有志の除奸計画
此の時に方って、幕府は手を大獄に着け、益々、暴政を行はんとし、為に天下の志士の憤激を買い、除奸の計画は志士の間に行われた。
藤州藩士有馬新七・西郷吉兵衛、福井藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰・山縣半藏等は、或は朝廷を擁して幕閣改造を企て、或は井伊大老・間部閣老の襲撃を図り、或は筑前・薩州・長州諸藩主の参府の駕を京都に要して事を挙げんと策し、幕府反対の氣勢は到る處に澎湃たるものがあった。
黙るに幕府の弾圧は、此等志土の行動を一時屏息せしめて、其の計画は未だ具題化するに至らなかった。
薩州藩有志の奮起と水戸藩士の提携
是より先、薩州藩に在っては藩主齊彬の没後、急進派は卻(しりぞ)けられ、保守派が勢力を得たので、気鋭の士は此の頽勢の挽回を企てるに至った。
抑(そもそも)水・薩両藩有間の連絡は既に久しいものがあったが安政六年秋の頃、薩州藩士大久保正助・堀仲左衛門・有村俊斎・有村次左衛門兄弟等は竊かに同志数十人を糾合して水戸藩士高橋多一郎・木村権之衛門等の有志と結び、多一郎等をして井伊大老を殪(たお)さしめ、其の機に乗じて同志は脱藩上国に赴き天朝を擁して幕府に臨み、攘夷を決行して叡慮を安んじ奉る事を計った。
是に於いて水戸藩士関鐡之介・薩州藩士高崎猪太郎の二人は上京して青蓮院宮・近衛忠煕に
頼り、朝廷の内旨賜らん事に奔走したが、当時宮・堂上等は孰れも既に謹慎中であり、且つ幕府の警戒が厳重であったので、空しく江戸に帰った。
偶々、水戸藩に於いても、高橋多一郎・金子孫二郎等は藩譴を蒙って水戸に帰り、高崎猪太
郎も相踵いで藩地に帰ったので、容易に其の機が熟さなかった。
然るに、幕府が大獄を断じて斉昭等を厳科に処した後、水戸藩に対する圧迫を強め、勅諚返納問題を起こすに及んで、同藩志士の義気は遂に爆発して、大老襲撃の挙を決せしめたのである。 (p302)
以上
第十五回東京町田「幕末紬新史を学
ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢問わずどなたでも参加できます
日時 八月二十七日(土)
午後一時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター
資料代 三百円
[i] 文天祥(ぶん・てんしょう) 中国、南宋末の宰相。当時増大しつつあった元の圧力に対して終始強行策を唱え、そのために免官されたが、その後復職。兵を率いて抗戦に努めたが敗れ、講和のために元軍に派遣された際に逆らったため拘留され、其の間に宋は滅亡、後脱走して宋朝回復に努めたが、敗残の身となって再び捕らえられ三年間入獄、元に下ることを拒否して刑死した。獄中で「正気の歌」を作詩した。
[ii] 児島高徳(こじま・たかのり) 元弘の乱(一三三一年)に後醍醐天皇に応じて挙兵。天皇が隠岐国へ流されるとき、途中で天皇を迎えようとしたが、天皇はすでに院庄(いんのしょう)に入り、事ならなかった。建武中興崩壊後も南朝方として戦った。『太平記』作者小島法師が児島高徳ではとの説もある。
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 13 回テーマ 水戸藩へ降勅
日時: 令和4年6月25日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十三回テーマ]
日時 令和四(二〇二二一年六月二十五日午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史』[p206-283]を準現代語に編纂し直し、解説を加えている)
第二章 朝権の伸張
第四節 朝幕の乖離
三 水戸藩へ降勅
是に於いて翌八日(安政五年八月)、伝奏萬里小路正房は、水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門を召して勅諚を授け、道中鄭重に護衛し、以て主人に伝達すべきを命じ、吉左衛門は直ちに其の子幸吉をして江戸に捧持せしめたのである。
然るに、同夜九條関白は俄に水戸藩への降勅を暫時停止しようとしたが、既に幸吉が出発した後であったので、密かに伝奏に命じ、勅諚に副書を附して、勅諚を水戸藩に下された事情を老中に報告せしめた。
諸藩への勅旨伝達
蓋し関白は嚢に老中から水戸陰謀の内報を受けていたので、事態の紛糾する事を慮った為である。
また一方忠煕・実萬等は、萬一幕府及び水戸
藩が勅旨を諸藩に伝達しない事を慮り、密かに
諾卿と議して、其の写本を縁故ある雄藩即ち尾
州・薩州・津・加州・阿川・長州・熊本・備前・福井・字和島・土州・四州・筑前の諸藩(十三
藩)に伝達したのである。
之を拝聞した諸州の志士は孰れも狂喜した。
福井藩士村田巳三郎は、「此般の降勅、実に彼
の義時[i]が鳥威(きゅうい)を挫き、狂暴を制するに足れり。今日の否塞を開通し、他日之中興を啓発致候鴻基とも相成る可く、旁不測を以て之に至る。此の道未だ地に墜ちざる之慮、彌以て天下の為大賀奉り候」と称し、梅田雲濱は放浪の身を顧みず、猶旧主の危険を思い、「五六日の間に江戸は勿論、天下不日に大震動いたすべく候」とて、小濱藩の善処を促したのである。
而して幕府に対しての勅諚は、同十日、之れを禁裏附に授けられた。
勅旨伝達に関する幕府・水戸藩の折衝
勅諚を捧持して東行した鵜飼幸吉は、途中の
異変を慮り、大坂蔵屋敷の小吏が江戸に下ると
聲言し、名を小瀬傳左衛門と変じて、東海道を
潜行し、同十六日の深更江戸藩邸に着し、翌日
藩主徳川慶篤に呈上した。
慶篤は慎みて勅諚を拝し、直ちに重臣を会し
て議を遂げ、また藩地に伝達し、十八日、先づ御請書を草して、「不肖の身、右の鳳詔を受け奉候儀、誠に以て一二家の面目、感涙存じ奉り候、及ばず乍ら幾重にも尽力仕る」旨を奉答し、翌十九日、慶篤は勅諚の写本を尾張・紀伊の両家及び田安・一橋の両卿に伝達すると共に、老中を招いて之を示した。
恰も是日幕府へも勅諚が至ったので、幕府は
水戸藩に令して勅旨の伝達を抑え、翌二十日大
老以下の評議を開いて、朝廷へは將軍の忌明後、
老中間部詮勝を上京せしむる旨復奏した。
其の後、慶篤(水戸藩主)は勅旨の重さに鑑み、
屡(しばしば)、幕府に迫って伝達の勅命の違背
すべからざる所以を説いたが、幕府は間部老中
が上京して伏奏すればとて之を阻止した。
既にして幕府は京都の情勢に鑑み、速かに詮
勝に上京を命じ、また所司代をして、勅諚を水
戸藩に降された前例は未だない事で、斯くの如
きは騒乱の基となるから、水戸藩へは伝達を差止めた。委曲は間部老中を以て言上し奉る旨
を奏聞せしめようとしたのであった。
四 九條関白の排斥
朝臣の九條関白攻撃
関白九條忠尚は、安政三年鷹司政通の後を承けて関白・内覧の要職に就き、輔弼の重責に任じて来た。
是の歳の春、老中堀田正睦の条約勅許奏請に
際し、頗る其の処置を失ったとて大いに非議せ
られたが、更に幕府が無断調印の暴暴に出でて、
益々、朝幕乖離の趨勢が著しくなるや、斯かる
幕府の処置は、職として関白が誠・忠を欠くの
致すところなりとて、非難は関白の一身に集り、
鷹司輔煕の如きは進んで辞職を勧告するに至
った。
九条関白と幕府
當時の九條関白は恰も廟堂に於ける幕府の擁護者であり、井伊大老の有力なる支持者たる観があった。
されば幕府としては九條関白が其の地位を去る事は、由々しき大事であるから、飽く迄之れを擁護しなければならなかった。
九月朔日、井伊大老は赴任途中の酒井忠義に
令して、間部老中の上京する迄、如何にもして
関白の辞職を阻止するやうに努めさせたのである。
九条関白の弾劾
然るに恰も此の時、嚢に関白が伝奏に命じて
幕府の致せる水戸陰謀の風聞書を秘した事及
び嚢に幕府に下された勅諚に私に添書せしめ
た事等が露顕し、遂に之が叡聞にも達した。
近衛忠煕・一條忠香・三候実萬・二條齋敬・
鷹司輔煕・中山忠能等は之を知って大いに驚き、
斯かる風聞書が来ていたならば、水戸藩に勅諚を降される手続きの如きは、最も注意しなけれ
ばならなかったのであるとて、関白を詰問すべ
きに決した。
内覧の更迭
仍りて九月二日、尚忠の姻戚である二條齊敬は内旨を奉じて関白を誘い、其の離職を論じたので、関白も遂に健忘症に罹ったと称して、関
白・内覧及び氏長者・随身・兵杖等を辞するに
至った。
酒井忠義の京都威圧
同四日、乃ち其の内覧を罷めて、忠煕に内覧
の宣を賜い、直ちに関白更迭の御内慮を、恰も
前日着任した所司代酒井忠義に御沙汰あらせられた。
忠義は之を拝して大いに愕き、此の際関白が更迭すれば、間部老中上京後の辮疏の途が途絶する事を憂え、長野主膳の入説に從い、硬派の公卿の気勢を殺ぐに決意し、先づ公家の間に出入遊説する志土の検察を嚴にし、朝廷へは暫く幕府奉答の御猶予在らん事を奏請した。
尋いで幕府は奉答の遅延する事情を陳べて、
間部老中の使命は九條関白及び廣橋・萬里小路
の両伝奏を以て上聞に達すべしとの前将軍の遺命であると言上し、直ちに九條関白の更迭を
否認する意を表した。
また井伊大老も関白辞職の報に接し、直ちに
旅中の詮勝及び忠義に命じて、九條関白の排斥
に策動した者を糺明し、尚忠の関白退職を阻止
せしめようとした。
詮勝も亦此の陰謀を以て徳川齋昭の使嗾(しそう\そそのかす)に出づるものと為し、水戸藩間諜の上京を取締り、且つ齊昭を迫罰する事を幕府に請うた。
斯くて幕府の九條関白擁護の方途が略(ほぼ)立つのを待って、着任後永らく参内を見合せていた酒井忠義は、十月二日、初めて参内し、尋いで幕府の旨を承けて、九條関白の辞職を抑留するよう奏請したのである。
内覧の再更迭
天皇は忠煕・実萬等に御諮詢あらせられ、遂
に此の奏請を勅許あらせられて、同十九日、忠
煕の内覧を罷め、再び尚忠を内覧と為し給うた
のである。
中山忠能は「朝議淺浮、歎く可く、歎く可く」
と歎息したが、幕府が暴威を逞しうして敢て朝
威を憚らぬ際には、叡慮も亦如何ともなし給う
事が出來なかったのは、寔(まこと)に憤概に堪えぬ次第である。
斯くて幕府は条約調印後は徹頭徹尾、朝旨を
抑えて我意を通し、畏れ多くも屡(しばしば)仰せ出された叡慮を奉承せず、全く朝権を蔑視する態度に出た。
されば年来次第に欝結し來った朝幕間の乖離の情勢は、是に至って最高潮に達し、到底無
事平穏に落着すべくもなくなったのである。
第五節 安政の大獄
一 間部詮勝の入京
大獄の由来
幕府が老中間部詮勝に上京を命じたのは、日
米條約調印の後七日を経た安政五年六月二十六日であった。
此の際に於ける詮勝の使命は、固より勅許を
経ないで、條約に調印した事情を委曲弁疏し、
更めて勅裁を請い奉る外に他意があったので
はない。
然るに其の後将軍家定の薨去で、其の出発が
遷延している間に、朝幕睽離(けいり)の情勢は日々に甚しくなり行き、剰え其の間に乗じて一橋派の必死の挽回運動と、儒者・浪士等の朝臣間への入説とが猛烈に行われ、京都に於ける幕府反対の気勢は益々熾烈となり、三家大老の中一人に対して召命があり、尋いで水戸藩への勅諚降下、九條関白の排斥となって、形勢は頗る険悪となった。
幕府としては水戸藩へ直接勅諚を賜わるようでは、自己の存立を危殆ならしめるものであ
ると危慎し、また幕府の支持者である九條関白
が、其の地位を失おうとしている事を聞いては、
其の憂虞は一方ならず、斯くては條約調印の辮
疏は愚か、将軍宣下すら如何なる故障が起ろう
も測られずと爲し、頗る周章して、形勢の打開
に必死となるに至った。
由来徳川齋昭と井伊直弼とは早くから政見・感情二つながら互に疎隔を生じていたが、
特に直弼の執政以来は全く之が表面に見れるに至った。
斯くて京都の形勢が頓に幕府に不利となったのを見て、直弼は頗る齋昭を疑い、此の禍源
は水戸藩に在りとの念を抱くに至った。
初め井伊大老の京都に封する政策は、志士の
運動を拘束して、強硬な朝臣の羽翼を殺ぎ、以
て水戸の陰謀を挫こうとしたのであって、必ず
しも累を朝臣に及ぼすことを欲しなかったことは、文献にも見えているところである。
黙るに九條家家土島田左近と直弼の腹臣長野主膳とが通謀して、一橘派に傾いた宮・堂上
の動静、処士・浪士等の行動を偵察し、之を誇
張澗飾した報道と、紀州侯の附家老水野忠央・
徒頭薬師寺元眞等南紀派の放った密偵の探索書とが、悉く大老の耳目に入り、大老は遂に
之を確信するに至った。
尋いて鵜飼吉左衛門等の密書が幕府の手に入るに及んで、大老は水戸・薩州・福井等諸藩
の志土の中には、大老暗殺・挙兵等の計画ある
を知った。
また間部閣老の辮疏にも拘らず、朝議は条約
に対して、容易に勅許が下らなかったので、主
膳の「此の機會に一洗せざれは、又々水府の煽
動あらんも計られず」と主張せるに誘われて、
大老は其の態度を一変し、遂に上は宮・堂上より、下は諸侯・藩士・志士及び、苟も建議ありと認めた婦女子に至る迄、之を検察逮捕し、所謂爬羅剔抉(はらてきけつ\暴く)遺(のこ)すところなき未曾有の大獄を起こすに至ったのである。
元来問部詮勝は井伊大老の推輓によって老中に再任し、今また大老の信頼を受けて上京し、
此の難局に当たる事となったのである。
彼も亦当初より獄の拡大するを欲しなかったが、傍に主膳等が在って種々進言するあり。
また井伊大老の遥かに江戸より督励するあり。己れも亦堀田正睦の前轍を践まざらんと欲したので、遂に強圧手段を弄するに至ったのであ
る。
所司代酒井忠義は此の三人中も穏和な態度に出で、公武一和の為には五摂家等を寛假すべ
きことを主張し、屡(しばしば)、主膳よりは迂
遠の策と誹られ、臆病者と罵られるに至り、頗
る窮境に苦悩したのである。
而して長野主膳に至っては、恰も幕府の私設
大監察の如く、また大老特派の隠密頭目の如く、
大老の威を籍り、最も強硬方針を持し、水戸及
び一橋派を目して陰謀方、悪謀方又は好賊と称
し、在京幕府有司を鼓舞し、時には其の態度が
軟弱であるとて、之を大老に弾劾することさえ
あった。
かの禍源が水戸に在りというは、初め島田左
近の諜報に出たが、後には彼が専ら大老に鼓吹
し、遂に大老をして牢乎として抜くべからざる
疑念を懐かしめるに至ったのである。
長野主膳の使嚇
京都に於ける形勢は、前節に述べた如く、次
第に険悪となり、九條関白の地位を動かそうと
するに至った。
八月十六日、江戸を発して赴任の途に就いた
所司代酒井忠義は、途中大老よりの命によって
旅程を急ぎ、八月二十八日、桑名に達し、長野
主膳の京より來り迎えるに遭うた。
是より先、主膳及び島田左近は、斯く朝臣の
硬化する背後には、必ず志士・論客があると爲
し、水戸藩士等が頻りに梁川星巌の家に出入す
るを偵知し、また嚢に梅田雲濱が旧主酒井忠義
に所司代就任を諌止した書を入手すると共に、
此の頃堂上数家に投入せられた主膳及び左近の奸謀を訐(あば)いた落文も亦雲濱等の所為と睨み、斯くも悪謀方の奸計が著々行われる上
は先づ雲濱・星巌等を捕縛して、朝臣等との連
絡を絶ち、其の気勢を殺がねばならぬと議し、
之を忠義に説こうとして、彼を迎えたのであっ
た。
乃(すなわ)ち主膳は忠義に対し、入京を機と
して朝臣・志土の気勢を奪う爲に、先づ雲濱等
を逮捕すべしと説いた。
志士の逮捕
九月三日、忠義は京に着任したが、其の翌日
九條忠尚の関白を罷めて近衛忠煕を以て之に代える旨の御内慮が、忠義に授けられて之を幕
府に伝達すべきことが命ぜられたのである。
是に於いて忠義は遂に主膳の説を容れて、同
七日、先ず梅田雲濱を捕縛した。時に雲濱は病床に在ったが、捕吏の來って家を囲むや、豫期せるものの如く從容として床を払い、髪を理(おさ)め、衣服を更めて後、縛に就いたのである。
此の時梁川星巌も捕わるべきであったが、同
月二日、流行病に罹って没し、纔(わず)かに縲紲(るいせつ)の辱を免れた。時人は彼を死に上手と称した。蓋し死は詩に通じ、彼が夙く詩を以て著われたからである。時に星巌は齢既に古稀に達し、其の風骨一世に高くして、同志に推重せられていた。
長野主膳は彼を評して、悪謀の問屋と言ったのである。後日幕吏來って家宅を捜索するや、其の妻紅蘭は巧に書類を焼いて、累を他に及さなかったという。
是れが実に空前の大獄が起された発端であるが、雲濱逮捕の報が一たび伝わるや、在京諸
藩の志士は暫く難を避けて四散した。
即ち薩州藩士西郷吉兵衛が再挙を図ろうとして、有村俊斎・成就院月照と共に藩地に走り、池内大學・世古恪太郎は伊勢松坂に遁れた。
然るに長野主膳は単に雲濱の捕縛のみでは、
九條関白の地位を確実に擁護し得ずと見て、更
に三條家に出入して勅諚の降下に努めた鵜飼吉左衛門父子及び九條関白と対立の姿にある鷹司家の諸大夫小林良典(りょうすけ)・同侍講
三国大學等を捕えて、鷹司・三條を牽制し、近
衛忠煕をして自ら内覧を辞退せしめるに如かずと爲し、上京の途上に在る間部詮勝を、近江
醒ヶ井(さめがい)の宿に迎えて之に入説したのであった。
間部詮勝の入京
嚢に詮勝は上京の命を受けるや、此の度は天
下分け目の御奉公、必ず一命をかけても成就せ
んと豪語し、悪謀の者一呑に仕可く勇氣十分に
御座候」と揚言して、九月十七日、嵐を含む京
都へ乗込んで妙満寺に入った。
翌日、既に長野主膳の密策を容れて、其の準
傭を為さしめた詮勝は、疾風迅雷耳を掩うに遑
あらず、鵜飼吉左衛門・同幸吉を逮捕した。
越えて二十日吉左衛門父子が在京有志の大老要撃計画を藩地に報ずる書状を手に入れ、二十二日、大老の要撃を教唆(きょうさ)した嫌疑で小林良典を捕えた。
幕府の志士検挙は独り京都のみでなく、江戸
に於いても九月十七日、先づ町医某の養父で三
條家の家來飯泉喜内が捕縛せられ、尋いで薩州
藩土日下部伊三次・処士藤森大雅(たいが)等が
捕われた。
朝臣の動揺
是より先、間部詮勝上京の報が伝わるや、朝
廷は如何に之を応待すべきやに就いて、朝臣等
は屡、苦慮の色があったが、九月徳大寺公純(き
んいと)・久我建通・萬里小路正房・正親町三
候実愛・大原重徳・岩倉具視等を以て、詮勝の
応接に當らしめることとした。
然るに詮勝は入京後、病と称して参内せざる
こと月余、宿所に籠居し所司代酒井忠義及び京
都町奉行小笠原長門守長常等に命じて、志土の
検察を巖にし、漸次逮捕の手を宮・堂上諸家の
家司等に及ぼし、また青蓮院宮、近衛・三條諸
家に人を遺して、浮浪の姦計に迷わされること
なく、幕府の嫌疑を受けぬよう、各自注意すべ
き旨を言わしめ、以て之を威圧するに努めしめ
た。
されば嚢に決定せられた詮勝応接掛の堂上等は、手を空しうして志士等の就縛を傍観する
のみで、不安の祖に詮勝の参内を待っていた。
確乎不動の叡慮
畏くも孝明天皇は斯くて検挙の手が次第に堂上に及ぶようになっては、朝威も廃れ、国内
の大混乱ともなるであらうと、御軫念あらせら
れ、近衛忠煕に深く自戒して、嫌疑を避くべき
ことを諭し給い、また薩州藩等に謀って姦賊を
斥ける方法はないかとさえ仰せ出されるに至
った。
斯くて三公以下堂上等の意気が、志士逮捕の
威嚇によって、頓に消沈したのに乗じ、詮勝等
は強硬に九條関白の解職抑留を奏請し、遂に既
述の如く朝裁を得て、近衛忠煕の内覧辞退、更
めて関白に内覧の宣下を見るに至ったのである。
之に加え、詮勝は其の使命の一つである将軍
宣下に就いても勅裁を得たのである。
将軍宣下
是より先九月五日、幕府は所司代を以て、国
事多事の際であるから、速かに家茂に将軍の宣
旨を賜はるよう奏請し、天明・嘉永の例によっ
て、関東より御願に及ばずとも、禁裏より仰せ
進ぜられる儀と老中共は相心得罷り在るとて、
暗に将軍宣下が遅延した責を、朝廷に帰し奉る
が如き態度を示した。
併し当時朝臣の間には、幕府が屡、勅命を奉
ぜぬのに憤慨する者が多く、或は将軍宣下を延
期して、再び三家・大老の中召さるべしと言い、
或は将軍宣下の際には、當代の時勢に就いて、
朝旨の在る所を垂命あらせらるべしと説く者
もあった。
また薩州藩士堀仲左衛門・有馬新七・福井藩
士橋本佐内・三岡石五郎・長州藩土山縣半蔵(宍
戸環)・土州藩士橋詰明平[ii](めいへい)等は、将
軍宣下のなきに一纏の希望を繋いで、密かに井
伊大老を刺殺して、形勢の挽回を企図していた
のであった。
然るに朝議は、此度は無難に宣下然るべしと
決定せられ、十月二十四日、徳川家茂を正二位
に叙し、権大納言に任じ、翌日更に内大臣に陞
(のぼら)せ、征夷大将軍に補せられたのである。
斯くて前記の諸藩士中には、之が爲に望を失
し、四方に離散するものが多かった。
老中間部詮勝は陰約の間に、時局に重大関係
のある此の事を解決し得て、茲に初めて参内し、
條約調印に就いて伏奏辮疏するに至ったので
ある。
二 間部詮勝の弁疏
第一次の弁疏
十月二十四日、老中間部詮勝は入京後月余に
して、始めて参内した。
是日天皇は御徴恙(びよう\病)の為め、出御在らせられず、詮勝は小御所に於いて、関白九條尚忠・武家伝奏廣橋光成・萬里小路正房に謁して疏状六通を上り、未刻過ぎ(午後三時)より乗燭(夜半)に及んで、條約調印の始末を委曲上申した。
其の陳述の要旨は、宇内の形勢は今日列国と
戦を決しようとするも、必勝を期し難いから、
先づ條約を結んで、暫く平和を保ち、彼の事情
に通ずるのを俟って、和戦の孰れかに決すべき
である。
今若し無謀に釁端(きんだん)を開いて、清国の覆轍を践めば、其の憂患は今に十倍し、汚辱を後代に胎して、終に雪ぐ術がないであらうと、条約調印の巳むを得ない事出を述べた。
兵庫開港に就いては、此の外患に乗じて、国
内に容易ならぬ陰謀を企てる者があり、勅命に
背いて調印を断行せしめて、幕府を非分に陥れ
ようとする陰謀顕然たるものがあって、堂上に
も之に荷担する者もあれば、先づ内憂を鎮めて後、如何ようにも近畿を開港する事は処置すべしと辮じ、更に其の陰謀の張本人は実に徳川齊昭であるとて、條約調印の不始末を全然齋昭及び其の与党の奸謀に出たと讒誣(ざんぶ)した。
其の疏(弁疏)言う、水戸老卿は嚢に(弘化元
年)寺塔破壊・梵鐘鋳潰に困って罪を獲たのに
遺恨を含み、其の後一橋殿(慶喜)を西の丸に入れて、我意悪計を仕遂げんと志し、外交の事に関しては、安部正弘に入説して、幕政に参与するに至ったが、元來夷人に内通していたのであるから、平常の議論は和戦孰れとも一貫する所なく、始終表裏反覆している。
條約調印に就いても、大老井伊直弼は、誓え
幾萬の軍艦が一時に押寄せ、忽ち戦争に及ぼう
とも勅許を得た上でなけれぱと堅く決心していたのに、老中堀田正睦・松平忠固の両人が、
大老の病気不参に乗じて、独断にて調印を下し
たものである。併し其の根元は幕府を違勅に陥れようとする水戸老卿の姦許に基づくものである。
之に加え、前将軍(家定)の薙去も、水戸の毒
手にかかった嫌疑があり、當将軍も紀州邸に在
った際、危急の場合に及んだ事が両三度あると。
間部詮勝の妄語
詮勝の奏聞した辮疏は、其のいう所、支離滅
裂、首尾全く一貫しないのみか、條約調印の責
任を堀田・松平両老中に転嫁するが為に、井伊
大老の養痾(ようあ)不在に藉口(しゃこう\口
実)して憚る所なく、其の政敵視せる徳川斉昭
を陥れる爲に、虚妄讒誣到らざる所なく、実に
吾人(われひと)をして唖然たらしめるものが
あった。
斯かる誣言を弄して天聴を岡(あざむ)き奉ろうとしたことは、断じて許すべからざる不義
不臣の言行である。而も斯かる妄言虚説を以て、いかで聖明を蔽い奉ることを得べき。
天皇の御炯眼は直ちに之を観破あらせられ
て、「全く水府ニガブセ候企ト存候」と近衛忠
煕に仰せられたのは、実に畏き極みと仰ぎ奉る
べきである。
此の後、詮勝は前後三回に亙って辮疏し奉り、
條約調印・兵庫開港の件に就いて聖断を仰ぎ奉
ったが、天皇は毅然として動き給わず、九條関
白に仰せて、幕府の外交措置は如何に考うるも、
我が国の瑕疵であるから、朕は断じて之を承引
せぬ所存である。若し詮勝の陳辮に泥(なじ)んで、一度之を許せば、国辱は遂に雪ぎ難く、神宮を始め皇祖に対し奉って申訳なく、既に去る六月公卿勅使を以て神官に祈願した趣意にも違い、彌、以て恐れ多い次第である。且つ天下の士庶が志望を失い、延いて柳営(幕府)の安否にも拘る事であるから、一日或は半日たりとも許容し難いと諭させられ、堅き御覚悟の程を示し給うたのである。
第二次以下の弁疏
然るに詮勝は如何なる手段を用いても、條約
に勅許を得ようとして、或は幕府は政務御委任
の責を負うて調印したものであると辮疏し、或
は武備が充実せば必ず鎖港の制に復せんも、今
日開戦に及ぶが如き措置は、飽くまで採らざる
所であると奏上した。
更に関白を以て曩日逮捕した志士等の口供書を天覧に供し、また斯く條約に御許容なぎは、
海外の事情を知り食さず、他から妄説を以て天
朝を汚し奉る者があるからであらう。
されば此の上なお正邪の御会得在らせられ
ねば、国内の治平、公武合体の厚ぎ叡慮にも違
い、益々、禁裏を悩ませ給う事となり、恐懼に
堪えぬ次第であるから、厳重に陰謀の輩を検挙
糾明して、更に叡聞に達すべしと奏上するに至
った。
斯かる中にも詮勝等は頼三樹三郎及び丹羽豊前守正庸(まさつね\三條家家司大夫)・森寺
常安(つねやす\同上)父子・飯田左馬(有栖川宮
候人)・伊丹蔵人(青蓮院宮侍)・山田勘解由(同
上)・高橋兵部権大輔俊璹(としひさ\鷹司家家司[けいし])・春日潜庵(せんあん\久我家家司)・老女村岡(近衛家)等多数の宮・堂上家の家司・候人(こうにん)及び曩に逮捕した者の姻戚・家族等を併せて数十人を捕縛或は喚問して、益々検挙の手を延ばし、遂に堂上をも江戸に召致して糺問に及ぶべしと奏し、専ら朝廷を威圧する態度を示すに至った。
是に於いて朝臣間の恐怖動揺は愈、甚しくな
り、三條実萬は病と称して、洛外の別墅(べつしょ/別荘)堂に引寵って、幕府の鋭鋒を避け、堂上諸卿の意氣は全く銷沈するに至ったのである。
御氷解の御沙汰
斯くて累禍が漸く朝臣に波及せんとするに至って、天皇は痛く公武の睽離と、延いて国内
相剋の為に外国に乗ぜられるに至ることを憂慮し給い、十二月二十四日、遂に九條関白に勅
書を賜うて、
「間部詮勝の辮疏を熟議するに、畢竟幕府の眞意も外人を遠ざけるに在って、大老・老中等の意向も前々の国法に復するに在る事が分明して、先づ以て安心した。是れ神国の大幸であり、先帝の叡慮、朕が春以来祈願の主意にも副うて満足の事である。曩に疑念を挾んだ外交措置に就いては、今は全く会得し氷解した。此の上は益々、公武合体して、良策を廻らし、鎖国の舊制に復するよう詮勝に篤と諭すべき」旨を命ぜられた。
又別に徳川家に対し、悪謀を企てる者に同意
の堂上あるよう詮勝等は疑惑しているが、斯か
る事は従来一切開召されず、また臣下の申し條にのみ惑溺するが如き事はこれなし。されば一日も速かに国内を平穏ならしめることが肝要であると仰せ出され、柾(ま\真意を隠して)げて萬事御氷解の旨の痕翰を下し給うたのであった。
仍(より)て二十七日、詮勝は武備の充実次第、
叡慮を奉じて、鎖国の良法に復するやう努力す
る旨を奉答した。
是に於いて晦日(安政五年十二月)天皇は詮勝を召させちれて、帰東の暇を賜い、勅書を下して、
「蛮夷和親貿易己下の條件、皇国の蝦疵神州
の汚職(おわい)、既に先朝にも甚だ叡慮悩ま
され、仰せ出されの御儀も在り為され、當御
代より始めて行われ候ては、実に皇大神宮始
め、御代々に対し成され、恐れ多く仰せ譯ら
れ無く、深く歎き思召され候に付、日夜叡慮
悩ませられ候御趣意は春来度々仰せ出され
候御事に候処、今般間部下総守、酒井若狭守
上京後、彼是言上の趣は、大樹公已下大老老
中役々にも、何れ蛮夷に於いては叡慮の如く
相遠ざけ、前々御国法通り鎖国の良法に引き
戻さる可く段、一致の儀聞し食され、誠に以
て御安心の御事に候。然る上は彌、公武御合
体にて、何分早く良策を廻らされ、先件の通
り引き戻さる可く候。止得ざる事情に於いて
審に御氷解在らせられ、方今の処御猶予の御
事に候。殊に神宮井京師近海之儀は、先日申
し達し候通り、全て御伝国の神器相重んぜら
れ候事に候間、宣しく御勘考在るを仰せ出さ
れ候事」
と宣示し結い、茲に條約調印の事情は御氷解在
らせられ、鎖国の措置は武備の充実するまで、
暫く御猶予在らせられたのである。
間部詮勝は其の使命を果す爲に、入京の當初より朝廷を圧迫し奉る態度に出で、後には専ら威嚇手段を弄して、辛うじて御猶予の勅裁を得たのである。
畏れくも天皇は其の股肱と頼ませ給う三公(関白・左右大臣)以下の堂上が、不甲斐なくも
幕府の勢威に畏縮して、漸次其の氣カを喪った
中に立たせ給うて、飽くまで外人を近づくべか
らずとの終始楡(かわ)らせられぬ御信念を以て、詮勝の辮疏に対し、屡、御不審の点を質さ
れ、国体擁護の方策を訊ねさせられ、其の鎖国
の旧制に復すべき旨を誓約し奉るに及んで、纔(わず)かに其の辮疏を容れさせ結い、また幕府の強請不遜の態度に対しても、公武合体の叡慮を以て萬民保全の大道を樹てんとの大御心より、之を忍ばせ給うたのであった。御震憂の程、拝察し奉るだに恐催の極みである。
而して幕府の外交措置に対して御猶予の勅裁は、決して幕府の苦慮する條約調印の問題を
根本から解決したものではなかった。
翌年三月、詮勝が此の勅書を捧持して帰府し
たが、之が布告に就いて幕閣内に異論が起り、
終に九條関白に意見を求めて、其の同意に依っ
て之を私することとなった。是によって幕府は
叡慮が飽くまで攘夷にあらせられる事を隠蔽し得たが、同時に條約調印に御氷解在らせられ
た叡慮の程を公表する事が出來ず、白象撞着に
陥ったのは真に笑止の至りである。(p283)
以上
古文書解読
長州藩家老浦靭負日記
[元治二年五十月]
将軍家茂より孝明天皇への上書(将軍職譲位奏問書)の写し
長州藩家老・浦靭負日記
元治二乙丑日記
[掲載のまとめ]
丑十月
一 風説書左の通り、誤字多く不分りなり
臣家茂幼弱不才の身を以て是迄始めて征夷の大任を蒙り、及ばずながら日夜勉励罷り在り候処、内外多変の時に應(あた)り、上宸襟を安んじ奉り下万民を鎮める事能わず。之に加え国を富し兵を強して皇威を海外に輝し候力之れ無く、竟(つい)に職分を汚し申すべくと心痛の余り、狗痛鬱悶致し罷りあり候。
然る処臣家族の内慶喜儀も年末闕下に罷りあり候。事務も通達仕り大任に堪え申すべくと存じ奉り候に付、臣家茂退位慶喜に相譲り政務仕らせ諸事の儀に付いては別紙を以て奏問仕り候間、右御沙汰御座候様願い上げ奉り候。
臣家茂謹みて宇内の形勢を愚考仕り候処、近来追々変遷致し和親を結び有無を通じ、互いに富強を計り風習に押し移り候。上は天地自然の気形止むを得ずの勢いに之れ有るべく存じ奉り候。
ついては皇国に限り一向御外交あらせられず候ては卑怯退縮の姿に相なり御国体御国威共に却って相立ち申す間敷、既に先年下田において亜墨利加使節と和親条約取り替わし相なるも、右等御斟酌の上奏聞を遂げ御許容相なり侯儀にて、其れ巳来追々鎖国の旧格を変じ富強の基漸く相聞き候処、其の後外夷拒絶の儀仰せ出され候に付いては、なる丈べく聖諾は遵奉仕り度き志願に御座候へ共、無謀の掃攘致す間敷
旨尚仰せ出され候趣も之れあり候間、何れも富国強兵の気相立ち上げならでは應懲の典も行われ難く、ついては彼の処置を採り貿易の利を以て多く船砲設け備え、以来制夷の術を構え候事当今第一の急務と存じ奉り候。
是迄種々苦心罷りあり候折柄、防長の事
件相発し終いに大坂城迄出張り仕り候処、計らずや夷船兵庫港へ渡来、条約の廉々改めて勅許之れ有り候様申し立て、若し臣家茂において取計らい兼ね候へば彼闕下へ罷り出、直に申立つべく旨申す縄(条)、種々論談を尽くし応接仕り候へ共、何分承諾仕らずては迚も無謀の儀干戈を動かすには国勝の利覚束無く、たとえ一時は勝算之れ有る共、四方環海御国栖東西南北、旦暮改掠を受け候ては、戦争止む無しの時は皇国生民の廃輝此の時より相始り申すべし。
不仁不惑此の上は之れ有る間敷誠に以て歎かわしく、臣一家の存亡は姑く差し置き、宝祚(ほうそ/皇位)の御安危にも関係仕り実に以て容易ならざる儀に付き、陛下万民を覆育(天地が万物を育てること)遊ばされ候御仁徳に御障り申すべきや。
臣家茂においても職掌相立ち申さず候間、右等の処篤と思召しなされ分恐れ乍ら衆議に御動揺之れ無く、断然御卓識をあらせられ何卒改めて条約に付き、太霊実存に至当の談判仕り候儀、断然の勅許下され候様仕り度、左候へば御同様にも尽力仕り外夷制劔の実備を、玄内は防長追討の功を奏し、上は宸襟安んじ奉り下は民を安堵せしめ臣家茂祖先の志に報い申すべく志願御座候。
皇国如何様英武の御国に候共、万一内乱外冠一時に差し湊(そう/向かう)し西洋万国を敵に引受け候ては、聖体の御安危にも拘り万民塗炭の苦しみに陥り候は本然の儀、誠に通哭慨歎の極み仮にも御国安民の任を荷い候職掌において如何様御沙汰御
[i] 鼻威(きゅうい) 北条義時は、承久の乱(一
二二四年)において後鳥羽上皇方を破り、北条執権の基を築いた。
[ii] 橋詰明平(はしづめ・めいへい) 薩摩の志
士有馬新七の「都日記」に安政五年九月、薩
摩・長州・越後の有志と大老井伊直弼の専断を怒り、大老襲撃の謀議に参加したことが伝えられる。
第十四回東京町田「幕末紬新史を学
ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢問わずどなたでも参加できます
日時 七月二十三日(土)
午後一時から三時
会場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 12 回テーマ 条約の無断調印と将軍継嗣の決定
日時: 令和4年5月28(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十二回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年五月二十八日
午後一時より三時
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史』[p237―262] を準現代語に
編纂し直し、解説を加えている)
第二章 朝権の伸張
第三節 条約の無断調印と将軍継嗣の決定
幕府将軍継嗣に就いて朝旨を請う
斯かるうちに五月(安政五年)の末には、諸侯の答申書も出揃い、未提出のものは慶永(よしなが)等二三に過ぎなかったので、井伊大老等は時期が至ったと見做し、將軍継嗣の確定に進んだ。
即ち六月朔日、幕府は三家以下溜間話の諸侯に、将軍の継嗣を血統の内から定めらるべき事を内示し、翌二日宿継奉書を以て之を朝廷に奏して勅許を請うた。
当時坊間には将軍の継嗣は慶喜に決したととの噂が飛んで、一橋邸には賀客があった程てあった。是は全く南紀派の放った術策であったという。
慶永(松平)等は既に前月末、正睦(堀田)から慶福(徳川/紀州藩主)に決定したことを聞き知ったが、六月朔日の幕府内意も京都への御伺も継嗣其の人を指名せず、朝廷からは「目出度思召」と計り御返答がある先格(先例)なることを知って、事は已に決したが如くで、あっても、敢て動かし難いとは言えぬから、此の上にも人事を尽すべきだと努力したが、竟(つい)に狂瀾(異常事態)を既倒(鎮静)に回らすことは出来なかった。
斯くて幕府は京都からの御返答を待って、紀州侯慶福(よしとみ)の將軍継嗣決定を公布する豫定であったが、ここに不測の大難件が湧き起って少からず周章狼狽しなければならなかった。
それは外ならぬ條約調印の事が全く豫期に反して切迫して来た事である。
三 日米條約の調印
英仏艦隊来航の報
六月十三日(安政五年)、米国軍艦ミシシッピは下田に入港し、東亜の状勢の変化をハリスに報じた。
即ち清国と英・佛両国との間の葛藤は、連合軍の大捷(しょう/勝)に帰し大沽(たいこ/北京天津)砲台(一八五八年五月二十日)、継いで天津の占拠の占拠(同月三十日)、北京の攻撃となり、清国は遂に屈して天津條約[i]を結び、漸次(ぜんじ/次第に)欧米列強の欲するままに所謂半植氏地化するを余儀なくされるに至った。
而して英・佛両国が此の戦捷の余威を藉(か)って(乗じて)我が国に来り、不充分な和親條約を破棄して通商条約の締結を求めることは火を見るよりも瞭(あきら)かである。
事実、両国艦隊数十艘の来航説と天津條約成立の報とは、米艦に依(よ)っていち早くハリスの許に伝えられたのである。
尋(つ/継)いで十五日(六月)米艦ポーハタン、翌日、露国使節プゥチャーチンの搭乗する軍艦アスコリドが相踵いで、下田に入港し、愈々(いよいよ)、此の事は確実となった。
かくてハリスは下田に晏如(あんじょ/安穏)としていることが出来ず、既に十四日(六月)書を堀田正睦に致し、英・佛両国艦隊が渡来すれば、曩(さき)に協定した日米條約の條款(安政元年二月晦日締結/修好条約・「神奈川条約」)では、両国は満足せず、過大の要求をするであろうから、速かに條約(通商条約)に調印を終り、之に備えるべきであると勧告した。
尋いで十七日(六月)、ハリスはボーハタンに搭じて小柴沖に来り、事態の切迫を告げて、応接委員との会見を求めた。
蓋(けだ)し(この事については)、ハリスとしては、若し此の際條約締結の功を英・仏両国の使節に奪われる事があれば、既往三箇年間の折衝の苦心も水泡に帰し、且つ其の使命を辱めると同様の結果となるのであるから、幕府と約束の期日(七月二十七日)を早め其の功をいそいだのは勿論であるが、同時に英・佛艦隊数十艘が舳艫(じくろ/列を成して)相銜(ふく)んで我に押し寄せ、兵威を挟んで(持って)難きを迫るであらうという風説を巧に利用し、之を強調して自家の交渉を有利ならしめようとしたことも亦否み難いのである。
幕府の対策
此の警報に接した幕府當路及び諸有司の意見は、概ね米国の申出を容れる外に策なしというに傾いていたが、果して勅許を経ないで調印を断行するや否やに就いては容易に態度が決せられなかった。
よって幕府は十八日先ず下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震(ただなり)をして神奈川沖の米艦に赴かしめ、別に目付永井尚志・箱館奉行堀利煕(時に在府)・目付津田正路に命じて、予め清直・忠震と共に露・英・佛三国使節との応接を準備せしめた。
清直(井上)・忠震(岩瀬)の二人は汽船観光丸に搭じて米艦に赴いてハリスと会談した。
神奈川沖米艦上の談判
清直等は国内人心の不折合を避ける為に、約定の期日まで調印を延期することを談じたが、固より彼の肯んずる所でなく、また我が応接員にも飽くまで先期調印を拒否しようとする確乎たる決意があったのではなかった。
忠震(岩瀬)の如きは神奈川へ出発する当日、松平慶永に贈った書中に明かに、米官吏が調印を懇請するは勿怪(もっけ)の幸であるから、其の願意に基づいて、英仏軍艦四十余艘の入津(入港)前に調印するのは最も好機會であって、優柔不断、英・仏の武力に屈するが如きことあれば、大辱(おおはじ)之に過ぎるものはない、然るに閣中猶区々の論があって、応接者として殆んど困却していると記している。
されば其の折衝が頗る軟弱であったことも想像せられるのである。
かくて此の場に臨んでは米国と急ぎ條約の調印を行う外に策がないというハリスの勧説に耳を假し、纔(わず)かに日米條約を基準として、他日英・仏の要求を抑制するに居中(身を置いて協力する)調停の労を取らうという言質を得たのみで、調印に就いては即答を留保して一たび艦を辞し、二人は急遽帰府(江戸に帰る)し、十九日登営(登城)して具さに状を報じた。
条約調印に就いての幕議
幕府は二人の復命によって、営中(江戸城中)に諸有司を会し、勅許を俟たないで調印するの可否を議した。
海防掛諸員は、今や議論を須(もち)いる時ではない。米官吏の要求に応じて調印するは、英・仏の兵威に屈して国威を失うに勝る(優先する)事万々であると論じ、老中松平忠固[ii]の如きは、京都長袖者流(堂上人)の議論に迎合して、其の希望に副うことは至難の事である。若し機宜に応じて専決しなければ、覇府の権を失い、却って天下の大事を誤るであらうと極論して、調印の断行を望んだ。
井伊大老は兼ねて胸中には、若し七月末の調印期日に及ぶも、なお朝廷に異議があって、大事を誤る處ある際には、巳むを得ず之を専断しようとの意向を抱き、既に旨を在京の長野主膳に伝えて周旋せしめていたが、此の機に臨み、勅許を経ざる中は、仮令(たとえ)幕府に如何なる迷惑を来すとも、調印を行うべからずと主張した。
然るに之に左袒(さたん/同意する)したものは若年寄本多忠徳のみであって、衆議は即時調印に在ったが、大老は猶も清直等二人に成るべく朝命を得るまでは調印を延ばすよう談判すべきことを命じた。
併し清直が萬巳むを得ぬ場合には調印する
も可なるぺき乎と反問して指揮を請うたので、大老は終に拒み得ず之を容認したのであった。
かくて再び米艦に赴いた清直・忠震の二人は、終にハリスを説得するに至らず、十九日(六月)の午後日米修好通商條約十四箇條・貿易章程七則に調印を了した。
此の時米艦の放った廿一発の祝砲は殷々として本牧・富岡の丘に響き渡ったのであった。
茲に使命を達成した米国総領事ハリスの得意や想うべきである。
幕府も亦其の専決によって当面の難件を一先づ処置したが、終に勅許を俟たずして無断の調印を行ったのである。
幕府が之によって外来の強圧を緩和し得ると信じ、かかる措置に出でた苦衷は之を諒とするも、之が為に一層国内に紛糾が起ることを充分に豫想しながら、其の措置対策を誤ったことは寔(まこと)に遺憾の極みである。
条約調印の奏聞
幕府は修好通商條約の調印(六月十九日)を了るや、二十一日堀田正睦等五人の老中は、連署の奉書を宿継便に托して、廣橋光成・萬里小路正房の両傳奏に致し、已むを得ぬ事情で調印した旨を奏し、別書に、若し機宜(きぎ/好機)を失えば、英・佛諸国の軍艦が渡来して、隣国の覆轍(ふくてつ/失敗)を践む(繰り返す)虞(おそれ)があるので、勅許を経ないで臨機の処置に出た旨を辮疏(べんんそ/言訳)した。
幕府の此の措置は、無断調印の事が既に朝命に違背(いはい)している上に、嚢(先)には老中を上洛せしめて特に勅許を奏請したものを、事の処理が一先づ了(終わ)ったからとて、纔(わず)かに老中の奉書を宿継飛脚に托して事情を陳疏した事は何としても其の態度の不遜で、朝廷尊崇の実を欠いたものと言わなければならない。
此の朝旨蔑如と不臣の態度とが京都で如何なる結果を生じたかは、之を次節に譲ることとする。
四 将軍継嗣の決定と水・尾・越三侯の処
分
老中の更迭
幕府が勅許を俟(待)たないで条約に調印したことは、早くも其の翌日の六月二十日には世上に伝わった。
それで之を聞き知った諸候及び有志の間には、論議が沸騰したが、特に一橋派の諸候は、将軍継嗣も近く紀州侯慶福に決定を見ようとする情勢に対する不満失望に絡んで、幕府の専断に対して、一層激烈に非難攻撃を加えた。
幕府も調印後速やかに之を諸侯に告げる要を認め、二十二日を以て在府諸侯に登城を命じたが、井伊大老は之に先だちて幕閣を改造して
内部を固める必要を認め、二十一日老中堀田正睦・松平忠固の登営を停め、越えて二十三日二人を罷免し、前掛川藩主太田備後守資始(すけもと)・鯖江藩主間部下総守詮勝(あきかつ)・西尾藩主松平乗全(のりやす)に各々、老中の再勤を命じた。
蓋し正睦は一橋派に傾いた為に忌憚に触れた上に、條約調印の責任を負わせられて罷(や)められ(罷免せられ)、忠固は幕権を張るに急な為に、諸侯を軽んずる風があるのみならず、漸(ようや)く(次第に)大老と権勢を争うに至ったので罷免せられたのであると伝える。
然るに之に代った太田資始等三人は嘗て老中を勤めたことはあるが、孰も昇平無事の世の宰相で、到底現下の離局に処し得る器ではないとの世評があって、敢て幕閣の信望を繋ぐ所以(ゆえん/処置)ではなかった。
幕府はまた二十一日(六月)英・佛艦隊の来航に備え京都及び摂津沿岸・江戸湾の警備を嚴にする為に、新に高松・桑名・松江・津諸藩に京都の警備を、長州・因州・備前・土州・柳河諸藩に大坂・兵庫・堺の警備を、福井・二本松二藩に江戸湾の警備を命じた。
然るに神奈川・横浜の警備を命ぜられた松平慶永は幕命に応じ難い所以(ゆえん/理由)を陳べて之を受諾せず、大坂の讐傭を命ぜられた山内豊信も亦受諾を難じ、幕府へ提出しようとした建白書の末尾に、所論が忌憚に触れるならば「斧鉞(ふえつ)の誅車裂の刑は閣下(天皇)の処分に御座候と存じ奉り候」(*この事は天皇の意志を背景としている事柄である)と激語さえ用いて顧みる所がなかった。
如何に是等の雄藩主が幕府殊に井伊大老に対して慊焉(けんえん/不満に思う)たるものがあったかが察せられる。
されば幕府が二十二日在府の諸候に條約調印の顛末を告げ、且つ今後の処置について意見を徴するや、之に対する非難は猛然として起った。
是より先、徳川斉昭は二十一日書を直弼等に寄せて、条約調印の事を知らぬ真似して、調印は必ず勅裁を経て行うべきを切言し、大老・老中の中にて京都に赴いて朝旨を候(うかがう)すべきを勧告し、若し幕府にて専断するが如き事あれば、祖宗以来朝廷尊崇の大義を没却するであらうと忠言し、且つ慶永に書を致して、幕府當路の措置を難じ、其の責任を問おうとする意を告げた。
また一橘慶喜は二十三日田安慶頼を誘って共に登営し、直弼に対し、違勅の罪を犯したにも拘らず、老中奉書を以て奏聞した不法を面責し、更に老中を招いて、当将軍の時代に至って、黠虜(かつりょ/外国)の虚喝に辟易(へきえき/尻込みする)して違勅ともなるべき措置に出たのは、台慮(将軍の意志)に出たものか、將又其方共の取計いかと詰り、速かに京都に遣使あるべきを促した。
伊達宗城(むねなり)・松平慶永も亦前後して井伊大老を訪い、條約調印の不都合を詰(なじ)る所があったが、齋昭は井伊大老を始め條約調印に関係ある有司を黜(しりぞ/退)け、以て罪を天朝に謝する道を講ぜしめ、又慶水をして幕政を総轄せしめようとし、宗城も亦岩瀬忠震等と内外策応して慶永の幕政参与を企図した。
斉昭等の不時登城
幕府の継嗣公表は二十五日(六月)と定まったが、之に先立ち二十四日朝、慶永は直弼を其の邸に訪い、先ず違勅調印の不都合を責め、継嗣決定の事に言及して、調印一條にて逆鱗の程も量り難い時節に臨み、将軍家の私事である継嗣の発表によって、益々天意に逆うことがあっては寔に畏ろしとて、其の公表延期を勘説した。
直弼は談の此の事に及ぶや頗る不興氣(ふきょうき/不機嫌)であったが、果ては登城の刻限が迫ったとて怫然(ふつぜん/怒って)袂(たもと)を払って退坐して復た出でなかった。
慶永は已む無く此所を辞し、齋昭との約に從い直ちに登城した。
當日の螢中は、恰も過ぐる三月十二日朝臣八十八人が列参して、條約調印に関する朝議の変改を奏請した當時の禁中にも比すべき異常な光景を呈した。
即ち是日、前年に幕政参与を辞して以来遂に登営しなかった齋昭は、尾州(尾張藩)侯慶恕(慶勝)・水戸侯慶篤と共に不時登城し、井伊大老の違勅を面責したのである。
斯かる事は平時に見られ珍事で、営中にては閣老諸有司は何事が起ったかと驚動し、世上にては三家の押懸登城といって耳目を聳動(しょうどう/驚かせた)したのである。
井伊邸から登営した慶永は、「上の部屋」で齋昭等に会して「今日の計議」如何を問いたるに、齊昭は先づ第一に違勅調印の罪を責め次に推賢の議(慶永を以て将軍補佐とする議)を建て継嗣の事にも触れ、時宜によっては大老をも排斥すべく、若し其の席にて論議が決せぬ際には、将軍の前で論議にも及ぶであらうと答え、高談怒張の裡に直弼の出で来るを待った。
然るに直弼は容易に出でず、午の刻を過ぎても供饌(昼食)を止め、漸(ようや)く未の半刻(午後二時過ぎ)に及んで老中等と共に齊昭等に 面晤したのである。
さて愈々(いよいよ)、論戦に臨んで齋昭の最も力と頼んだ慶永は家格の上から同席を拒まれ、大老・老中等は巧に応接して、斉昭等の鋭鋒を避け、論戦は到底三家側に勝目がなく、松平慶永の重用、一橋慶喜の継嗣推挙、継嗣公表延期及び将軍への謁見の強談も、悉く斥けられたのであった。
一方慶永は別室で老中久世廣周と會して、継嗣発表の延期を説いたが、是れ亦要領を得ず、尚例日登営の慶喜も亦是日直弼と會して京都遣使の事を厳重に督促したが、不日老中間部詮勝を上洛せしめる旨の答を得たに過ぎなかった。
かくて是の日の斉昭以下の努力も遂に酬いられないで失敗に帰したのであった。
将軍の継嗣公表
翌二十五日(六月)、幕府は諸侯に登城を命じ、将軍の世子に紀州侯慶福が決定せられた旨を正式に発表した。
是より先直弼等は、京都の御返答(条約調印[六月十九日]の宿継奉書への)の到着を予測して、本(六)月十八日頃之を公表する豫定であったが、御返答到着の事が秘してあったので、是の日に延びたのであった。
これは条約問題を憂慮した堀田正睦の内命で、奥右筆志賀金八郎が未着と称して暫く隠匿したものだという。
果して然らば将軍継嗣と條約問題とが如何に絡み合い、当時の政情を複雑ならしめたものであるかを語るものと謂うべきである。
かくて将軍継嗣問題は全然一橋派の失敗に帰した。
是の日、松平慶永は悶々の情に堪えぬものか、遂に疾と称して登城しなかった。
一橋派の諸雄藩及び天下の志士の之に対する失望不満は、蓋し大なるものがあったであろう。
水尾越侯の処分
斯くて井伊大老は既に條約の調印を了し、また将軍継嗣の発表を行ったので、嚢に此の二 問題に関連して種々策動を試み、時に目に余る不遜越爼(えっそ/他人の権限を侵す)の言動があったと見傲した者を糾弾し、幕府の権威を回復しようと試みるに至った。
此の頃、将軍家定は脚氣症を病み、七月三日から病勢が頓に進んだ。
同日急に蘭法医戸塚静海・伊東玄朴等四人を召出して診察せしめたが、六日の夕刻に及んで終に薨じた(発表は八月八日)。
将軍薨去の前日、直弼は老中久世広周の反対論を抑え(広周は為に十月二十七日職を辞した)、将軍の命を以て、徳川齋昭に「駒込屋敷へ居住。慎」を命じ、書信の往復を止め、徳川慶恕に「隠居、外屋敷へ慎」を、また松平慶永(福井藩・越前藩主)に「隠居、急度愼」を命じ、一橋慶喜の登城を停め、徳川慶篤(水戸藩主)も父齊昭に心添せぬ廉(説得しない)によって同じく登城を停められた。
蓋し、此の処罰が果して井伊家の記録に記されたが如く、將軍の意に出たものか、将又水戸側その他の記録にあるが如く、直弼が将軍の意を矯めてその専断に出たものか、特に将軍の病状に関する文献に乏しく、之を断ずることは困難である。
されど久世廣周が主張したが如く、將軍大病の際であるから、天下の人々が之を老中の私意に出たものと言おうとの疑惑は、慥(たし)かに
遺(のこ)されている。
かくて井伊大老は違勅調印の非難の上に、一橋派諸侯、特に水戸藩の深刻な怨恨を買うに至ったのみならず、幕府の懿親(いしん/三家[水戸・尾張・紀井]・三卿[田安・一橋・清水]宗家を継承する資格を有する)を斥けて、其の羽翼(中心勢力)を殺ぎ、凡(すべ)て是等を敵とするに至ったのである。
第四節 朝幕の乖離
一 三家大老の召命
堀田正睦退京後の宸憂
老中堀田正睦の帰東(江戸に帰る)後、孝明天皇は幕府の外交措置如阿に就いて、いたく宸襟を悩まさせられ、或は宮中の諸費を節約して寓一の変に備えしめ給い、或は左大臣近衛忠煕をして高野山に秘法を修せしめ、更にまた伊勢神宮、賀茂・右清水両社に各々、公卿勅使を遣わして外患を祈祷あらせられた。
殊に幕府の奉答が、遅延するのを御憂慮あらせられ、また井伊直弼の大老就職を聞召されて、或は条約調印を専断して事後に之を奏聞するのではないかと思召され、関白九條尚忠以下に朝議の確乎不動たるべきことを諭し給うた。
然るに幕府は宸鑒(しんかん/天皇の予測)に違はず、勅許を俟たずして條約の調印を下し、而も事情言上の為に特使を上洛せしめず、数日を経て、一篇の老中奉書を上り、之を奏聞したのであった。
此の奉書は六月二十七日朝廷に達したが、天皇は之を聞召して宸怒あらせられ、即日三公以下議奏・傳奏両役を召して朝議を開かしめられ、また宸翰を所労不参の九條関白に賜い、「扨々存外の事、実に心配歎痛、絶対絶命、此の一大事、仲々うか々々致し居る時にあらず」とて、翌日の出仕を命じ給うた。
翌二十八日関白・三公(右大臣・左大臣・内大臣)・両役(傳奏・議奏)の簾前に候するや、天皇は殊の外逆鱗の御気色にて内勅を賜い、幕府の條約調印は神州(我が国)の瑕疵、天下危亡の基なれば、如何にしても許し難し、さりとて公武の確執を招来するも容易ならず。是れ全く朕が菲(ひ/薄)徳の致す所にして、皇祖の聖跡を穢(けが)すは恐懼(きょうく)に堪えずとて、御位を親王の中に譲らせ給う旨を仰せ出された。
関白等は此の聖諭を拝して、恐惶措く所を知らず(畏れ困惑する)、只管御猶予あらん事を奏請し、直ちに三家・大老の中を召して、事情を尋問するに決し、二十九日(六月)召命を幕府に下し給うたのである。
七月六日、幕府は此の御沙汰を拝し、八日先づ慶恕及び齊昭父子の処分を奏聞し、翌九日尾張・水戸両家は謹慎中であり、其の他(慶福)は幼弱で事に堪えず、また大老は露・米・英軍艦来航して公務多端であると申して、暫時の御猶予を奏請し、不日上京する老中間部詮勝(まなべ・あきかつ)及び新任の所司代酒井忠義に垂問を賜わりたい旨を言上して、奉命しないばかりか、更に露国と条約を締結し、且つ英・仏とも追って条約を結ぶであらうと奏上したのであった。
幕府の斯かる態度は畏れくも益々、宸襟を悩まし奉った。
また幕府の意外なる奉答を聞知した朝臣等は、其の不臣無礼に憤慨する者多く、朝幕阻隔の情は一層甚だしくなり、其の間に乗じて一橋派の志士・浪士等の必死の運動が行われるに至ったのであった。
二 一橋派の回復運動
幕府の無断調印は朝幕間に紛議を起し、其の衝突睽離(けいり/対立)は到底免れ難い情勢に在った。
此の際将軍継嗣に敗れた一橋派の挽回運動は、更に此の状態を紛糾せしめた。『昨夢紀事』[iii]に據(よ)れば、一橋家家士平岡圓四郎は將軍継嗣の決定を聞いて、「今更何とか爲さん。唯天下の爲に怨み、忌むべきは大老にこそあれ、彼を圧倒し、賢を挙げて、天下の大勢を挽回せん事、此上の一大事なり。いかで其の籌策(ちゅうさく/策略)を廻らさではおくべき」と切歯扼腕(せっしやくわん/悔しがる)し、同志の橋本左内・薩州藩士堀仲左衛門等と戮力(りくりょく/協力)して、必死に回復運動を行う事となった。
而して彼等が此の期に臨んで恃む所は、実に朝威に憑(たよ)り奉る外はなかったのである。
近藤了介(福井藩士)の運動
仍(より)て福井藩士近藤了介は橋本左内等と謀り、密かに京に上り、青蓮院宮[iv]を動かさんとして、同宮家の侍伊丹藏人(くらんど/重賢・しげかた)を説き、更に鷹司家の侍講三国大學・三條家諸大夫森寺常安等に入説する所があったが、愈々、継嗣の内定を聞くや、藏人等に対して、国家危急の際に幼者(徳川慶福・家茂)を継嗣と為すは、叡慮に惇(もと)ると説き、再び勅諚を下されて、将軍継嗣の再議を命ぜられるやう周旋を依頼した。
江戸の有志の運動
また(堀)仲左衛門等薩州・福井両藩の有志は、青蓮院宮・近衛父子を動かし、勅諚を以て一橋慶喜を継嗣と爲し、若し其の策にして行われ難ければ、諸候の議を以て慶喜を将軍の後見と爲し、松平慶永をして之を輔佐せしめ、以て叡慮を安んじ奉るよう建策上奏せしめんとし、若しまた勅諚が降下せば、其の彦根(彦根藩主井伊直弼)・上田(信濃国上田藩主松平忠固)の両侯を却(しりぞ)けて、政治を正路に復さしむべしと議した。
日下部伊三次の活動
斯くて是等一橋派の有志は相謀って、同志の薩州藩士日下部伊三次(いそうじ)を上京せしめ、前内大臣三候実萬に頼って、井伊大老の辞任、朝命に依る徳川慶恕・徳川齊昭・松平慶永等の謹憧を解くことなどを策せしめんとし、間部閣老の上京に先立って発足せしめた。
伊三次は上京して実萬(三條)に謁し、具さに江戸の近況を報じ、幕府の條約調印及び将軍継嗣の決定は違勅であり、また慶恕・齊昭等の謹慎は其の理由が不明であるばかりでなく、台命(将軍家定の意志)とも考えられぬと説いた。
また天下斯くの如く多事の際に、英明なる慶恕等を処罰するは国家の安危にも係わるから、勅諚を以て其の謹慎を解き、また將軍家茂(弘化三年生/当時十三歳)は幼少であるから、先づ一橋慶喜(天保八年生/当時二十一歳)を本丸に入れ、家茂を西丸に移すべく、若し其の事が成らなければ、齋昭を副将軍として、後見せしめる事を説いた。また信濃の人山本貞一郎[v]も入京して勅使の東下を願って斉昭等赦免の勅諚を伝宣せられん事を実萬に入説した。
斯くの如く一橋派は朝権の発動に依って初志を貫かんとし、必死の運動をつゞけたのであるが、之と相呼応した者は、実に京都に於ける処士・浪士・儒者等であった。
京都の儒者・浪士等の活動
京都は皇城の地であり、学問の淵叢(中心)であるから、古くから志を有する者は孰も来って業を修め、或は帳を垂れて書生に授け、或は宮・堂上諸家に出入して、其の家司等に昵近(じっきん/懇意にする)する者も少なくなかった。
其の當時、梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎・池内大学等の名が最も聞えていた。
而して彼等は夙くから尊王の大義を唱え、鎖国攘夷を説いていたのであるから、幕府が朝權を軽んじて、暴威を振うを座するに忍びず、自然一橋派の主張に共鳴して互に氣脈を通じ、堂上諸卿等の間に遊説して之を動かす事となり、京都の雰囲気は益々、幕府と背馳(はいち/対立)するに至ったのである。
然るに、幕府は斯かる京都の形勢を以て、孰れも徳川齊昭の謀略に出ずると為し、之に與(くみ/協力)する朝臣等は継嗣の議に失敗した余憤を含んで天聴(天皇)を惑わし、朝命を以て慶喜擁立の素志を遂げんと企てるものと観て、先づ其の密計を朝廷に所えて、其の禍源を塞(防)ごうとした。即ち七月二十一日、幕府は水戸前中納言(徳川斉昭)の言行が一致せず、容易ならざる企があったので、巳むを得ず謹愼を命じたのである。
併(しか)し遠隔の地では如何ように御聞込みあらんも図り難い。関東の政務に就いては京都より御容喙は決してない筈だが、萬一誤聞等に基づいて何等かの御沙汰があるようでは、両地の御間柄にも拘るであらうと奏聞し、且つ其の風聞書をも上って、予め齊昭等に解慎の朝命が下らぬやうに努めた。
同(七月)二十五日、傳奏廣橋光成・萬里小路正房は之に封(対)して、斯かる風評は未だ耳にせざる旨を答えたが、九條関白は光成等に命じて、此の文書を秘し、遂に之を奏上しなかった。
京都の形勢が漸く険悪となって来たので、速かに所司代酒井忠義を赴任せしめ、特に伏見奉行内藤豊後守正縄(まさつな/信濃国岩村田藩主/水野忠邦の実弟)を抜擢して御所向き取締を兼掌せしめ、更に長野主膳を上京せしめて、九條関白に頼って周旋せしめた。
是に於いて幕府及び志士の両者は互に暗躍し、流言も亦其の間に行われて、京都の物情は
頗る騒然たるものがあった。
梅田雲浜の如きは旧主酒井忠義の所司代就任を憂え、「御国の殿様、彦根侯(井伊直弼)に御同意成され候ては、朝敵と申す者にて、万世逆臣の罪名を御蒙り成られ可く候」と極諌した程であった。
三 水戸藩へ降勅
彦根御遷座の議
畏(怖れ)くも天皇は上述の如き情勢と幕府の專横なる態度とを聞召される毎に、斯くては国家の前途も如何あらんかと痛く宸襟を悩まさせられた。
而して彦根(井伊家)へ御遷座申すとの風説も何時しか叡聞に達したので、九條関白を召させられ、井伊大老が入京して遷座を申出づるやも計られないが、京都は桓武天皇以来皇城の地であるから、軽々しく立ち退き難い。若し関白も之に同意であれば、速やかに譲位の儀を執り計うべく、朕在位の間は断じて遷座を許さない。又間部老中の入京も間近いから、予め之に封する衆議を尽くして置くようにと仰せ下された。
関白は大いに恐懼し、必ず御遷座の事なきように取計うべきを奏上した。
関白は予(かね)て鷹司政道の態度に疑念を抱いていたのであるが、今斯かる浮説が上聞に達したのを見て、之は政道が内奏したのではないかと思惟し、また曩に政道が内覧を辞したのも、己れを道伴れとしようと謀ったものだと考え、竊(ひそ)かに隔意を持つに至った。
また兎角幕府側に傾いた九條関白の態度に慊(あきた)らぬ朝臣等の反目も著しくなり、関白の地位も亦頗る危くなって来た。
此の間に在って井伊家の家士長野主膳は、九條家の家土島田左近と謀って、頻りに策動する所があったが、形勢が益々不利となって来たので、遂に事態の急迫を江戸に報じて、間部老中の上京を促した。
また禁裡附大久保忠寛も新任所司代の急遽着任を求めた。
再び譲位の勅を賜う
斯かる際に、天皇は依然として譲位の叡慮を捨てさせ給わず、八月五日、関白・議奏・傳奏両役を召して、宸翰を賜うた。其の御趣旨を拝するに、
仮條約の調印は、実に神国の瑕疵であって、神宮(伊勢・天照大御神)を始め、皇祖に対して申し譯がない。和親するも拒絶するも孰れも共に天下の大患であるから、再応衆議を徴するやうに申し諭したのに、未だ奉答しないで條約に調印し、之を届け棄て同様に奏上したのは、如何なる所存であるか、厳重に申せば違勅、実意にて申さば不信の至りではないか。
而も是等の事情を問わんとして三家大老の中を召したのに、之をも奉承せず、朝議が不同意である事を知りながら、更に英・露両国とも調印し、猶佛国とも條約を締結する旨を届け棄てに奏して来たが、斯かる次第を捨て置いては朝威が立たない。
如何に政務を幕府に委任してあるとは申せ、天下国家の危急に係る大事を幕府の暴断に任せて置いては、却って如何あるべきや、国家萬民の爲にと考えて命じた事の一つも貫徹しないのは朕が薄徳の致す所である。仍て比の事を以て幕府を詰問し、重ねて御譲位の叡慮を、衆議の上、速やかに幕府に達するやうに
と仰せられたのであった。
九條関白は此の勅旨を拝して大いに恐懼(きょうく)し、直ちに議奏・傳奏両役を會して商議した。
両役の多数は勅旨を幕府に示して戒飭(かいちょく/戒める)すべしとした。
是に於いて尚忠(関白・九条)は更に国事諮問に与(当)れる左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕・内大臣一條忠香・前内大臣三条実萬等の意見を徴した。
忠煕等は当時水戸藩士鵜飼吉左衛門及び薩州藩士日下部伊三次等より勅諚の水戸藩に降下あらんことを入説せられていたので、勅諚を徳川齋昭に賜うて幕吏を詰責し、内政を釐革(りかく/改革)して、外侮を禦ぐ策を講ぜしめ、且つ二三の大藩に勅して、齋昭を輔佐せしめぱ、叡旨の貫徹も難くはあるまいと議し、七日参朝して暫く御譲位の叡慮を止まらせ給い、幕府に勅して諸大藩と商議し、以て国家安全の長計を建つべきを命ぜらるべしと奏した。
天皇は之を御嘉納遊ばされたが、九條関白は忠煕等が私に謀る所あるを探知し、此の日疾と称して参内しなかったので、議奏久我建通・傳奏萬里小路正房は旨を奉じて関白を訪い、勅諚を示して其の奉行を促した。
関白(九条忠尚)は勅諚を水戸藩に降すは未だ其の先蹤(せんしょう/前例)あるを聞かず、幕府も亦不承知であらうとて容易に同意しなかった。
建通等は頻りに其の変更し難き事情を説いて、遂に之を奉承せしめ、斯くて水戸及び幕府
に勅諚を下さるべき朝議が決定したのである。
水戸藩に降勅
降下ありし勅諚は、
先般墨夷(米国との)仮條約余義無き次第にて神奈川に於いて調印、使節へ渡され候儀、猶亦委細間部下総守上京言上の趣候得共、先達て勅答諸大名衆議聞食され度く仰せ出され候詮(せん/効果)も之無く、誠に皇国重大の儀、調印の後言上、大樹公(将軍家定)叡慮御伺の御趣意も相立たず、尤も勅答の御次第に相背き、軽率の取計い、大樹賢明の處、有司心得如何と御不審思召され候
右様の次第にては蛮夷の儀は暫く差置き、方今御国内の治乱如何と更に深く叡慮悩まされ候、何卒公武御実情を尽くされ、御合體永久安全の様にと偏に思召され候、
三家或いは大老上京御せ出され候処、水戸・尾張両家慎中の趣聞食され、且又其の余宗室(徳川家)の向にも同様御沙汰の趣も聞召し及ばれ候、右は何等の罪状に候哉、計られ難く候得共、柳営羽翼(幕閣)の面々當今外夷追々入津(来航)容易ならざるの時節、既に人心の帰向にも相拘る可く、旁宸襟悩まされ候、兼て三家以下諸大名衆議間食され度く仰せ出され候旨、全く永世安全公武御合体にて叡慮安んぜられ候様思召なされ候儀、外虜計りの儀にも之無く、内憂之有り候ては殊更深く宸襟悩まされ候、彼是国家の大事に候間、大老・閣老其の他三家・三卿・家門・列藩・外様・普代共一群議評定之有り、誠忠の心を以て得と相正し、国内治平公武御合体弥(いよいよ)御長久の様徳川御家を扶助之有り、内を整え、外夷の侮りを受けず様にと思召され候、早々商議致す可く勅諚の事
と拝するのである。
(p262)
以上
第十三回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢を問わずどなたでも参加できます
日 時 令和四年六月二十五日(土)
午後一時から三時
会 場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
[i] 天津條約 一八五六(安政三)年、イギリス船籍のアロー号の中国人船員を清朝官兵が逮捕したことに端を発した清国とイギリス・フランスとの戦争(第二次アヘン戦争とも言う)によって、敗北した清朝が両国等と結んだ条約。南京条約以後のイギリスの綿布の中国輸出は急増したが、その量はイギリスが期待していたほどではなく、伸び悩みを見せていた。このためイギリスはさらに大きな通商上の権利を獲得して華北・華中への進出を図ろうとして、広西省で宣教師を殺害されたフランスと共同して出兵した。英仏軍は一八五七(安政四)年に広東を占領し、翌五八年に天津に迫ったので、太平天国の乱鎮圧に苦しんでいた清朝は天津条約を結んだ。翌年の批准使砲撃事件で戦闘が再開され、一八六〇(万延元)年、英仏連合軍は北京を占領する。同年の北京条約で英仏の要求を認め、さらに和議の仲介をしたロシアとも条約を結んで落着した。天津条約はロシア、アメリカ、イギリス、フランスとそれぞれ別個に天津で結ばれた。これらの条約では、清は外交官の北京駐在、南京等十港の開港。外国人の内地旅行権、外国船舶の内河航行権、イギリス、フランスへの賠償金の支払い、キリスト教布教の自由等を認めた。
[ii] 松平忠固(まつだいら・ただかた) 父は姫路城主雅楽頭忠実。天保元年四月二十日信濃国上田藩の家督を相続した。天保五年四月奏者番、同九年四月寺社奉行加役。弘化二年大坂城代となり、従四位下に叙せられた。嘉永元年十月、老中職を命じられ、十二月侍従に任ぜられた。幕府はこの時まで、海防掛は安部正弘・牧野忠雅の二人であったが、松平忠固および松平乗全を加えて四名とした。当時多く攘夷論に傾いており、開国論を主持したのは閣老首班安部正弘および末席松平忠固のみであったが、ついに修好条約を締結するに至った。この時徳川斉昭の容喙を退け、幕府の意見を貫いたのは、主として忠固の力に基づいたとされる。安政二年八月職を免ぜられた。安政四年九月、忠固は再び老中の次席に列せられ、名を忠優(ただます)から忠固と改めた。忠固は外国交易の如きは家康以来一にみな幕府専断に出で、朝裁を奏請したことはなかったことに準拠すべきであると考えていた。安政五年四月井伊直弼が大老となり、六月十九日、ハリスよりの調印要請に対する会議の席上忠固は即時調印を主張。閣老皆これに賛成する。幕議はここに一決。神奈川にてハリスと修好通商の仮条約に調印した。ついでに十三日忠固は老中職を免ぜられた。
[iii] 『昨夢紀事』 越前(福井)藩士中根雪江が藩主松平慶永の国事奔走事歴を擁護した幕末の史書(十五巻)。藩主が安政の大獄で謹慎を命じられた後、執筆が開始され、万延元年に完成する。『日本史籍協会叢書』所収。中根は江戸で国学を学ぶ。天保九(一八三〇)年に田安慶永が越前松平家を継ぎ、やがて守旧派重臣に替えて進歩派重臣に藩政を担当させると、中根もその一人として執政に挙用された。在職二十一年にわたって藩政改革、藩主を補佐して一橋慶喜擁立、公武合体の運動を推進した。
[iv] 青蓮院宮(しょうれんいんのみや)朝彦親王伏見宮邦家第四王子。天保七年八月、仁孝天皇の養子となる。天保八年十二月、親王宣下。天保五年三月勅旨によって青蓮院門跡を相続。嘉永五(一八五二)年、青蓮院に移り尊融と改名。天台座主となり栗田口宮といわれた。宮廷内読(時事に関して勅問に与る)に参与。安政五年の条約勅許問題、将軍職継嗣問題では、朝臣、志士らの入説を受けて国事に尽力、条約勅許に反対し、一橋慶喜の擁立に賛同した。安政の大獄により永蟄居。文久二(一八六二)年、青蓮院に還住。翌年還俗して中川宮朝彦親王と称した。長州藩を中心とする尊攘運動の紛糾抑制のため、文久三年八月十八日の政変に指導的役割を果たした。
[v] 山本貞一郎 松本の名主。酒造薬種業・飛脚問屋に生れ、伊那山本村の旗本近藤家代官久保田弘忠の養子となる。生家の縁で水戸徳川家にも出入し、斉昭にも知られた。安政五年戊午の密勅が水戸藩に降る際にはについては、貞一郎は使者等となって奔走し、安政の大獄の直前、累を他に及ぼすことを恐れて自殺した。年五十六。辞世「散ることはかねてならひしものなれば何か怨みん春の山風」
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第 11 回テーマ 将軍継嗣問題の展開
日時: 令和4年4月30日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十一回テーマ]
日時 令和四(二〇二二)年四月三十日
午前十時より正午
会場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
(『概観維新史』[p215-237] を準現代語に
編纂し直し、解説を加えている)
第二章 朝権の伸張
第二節 将軍継嗣問題の展開
三 南紀派の策動
水野忠央の運動
紀州侯徳川慶福(よしとみ)を将軍の継嗣に擁立しようとした有力者の一人は、紀州藩附家老水野土佐守忠央(ただなか/新宮藩三万五千石)である。忠央は、吉田松陰の言を假りれば、「水野奸にして才あり。世頗る之を恐る。その丹鶴叢書を輯め、以て国学者を欺く銑陣を練り、製薬局を開き、測量器を具え、以て洋學者を収む。又蝦夷を開墾し、以て雄略を示す。又一時の豪なり」とあるが如く、当時に在っては傑出した人物であった。
忠央は夙くから独立の大名とならうと企て、為に慶福の擁立を計ったとも言う。
幕府の要路に賄路を贈り、側衆平岡丹波守道弘・夏目左近將監信明等と結び、また其の妹が前將軍家慶の嬖幸(へいこう/お廣の方)で、大奥に勢力があったのを利用して、將軍の身邊及び大奥の有力者を自派に傾かしめたと称せられた。
幕府の大奥と将軍継嗣
江戸城の大奥は、由来幕府政治の一つの癌であった。
因襲と情実とによって固められた其の勢力は、閣老等も之を懼れて一目措いた程であった。
當時大奥で最も権力を揮った将軍家定の褓母であった老女歌橋は、熱心に慶福を支持して慶喜の排撃を計り、將軍の生母本壽院を動かし、終に本壽院をして若し慶喜が西城に入れば自殺をもしかねないと言はしめるに至った。
蓋し彼等は婦女子の情として、老中すら畏憚する徳川齊昭の勢力が後宮に波及し、かの水戸流の質素剛健を以て萬事が律せられることを痛く恐れた。
また齊昭に対する不評悪説は、延いて年長英明の聞えある慶喜を忌憚せしめたのである。
されば嶋津齋彬の内意を含んで入輿(にゅうよ)したと言われる将軍夫人(*篤姫)も、大勢奈何ともなし難い状態で、大奥の雰囲気は年少可憐の慶福に傾き、一橋派には全く策の施すべき余地がないのであった。
井伊直弼の意見
南紀派には斯かる上に尚お溜間詰譜代の巨頭である彦根藩主井伊直弼によって絶大の支持を愛けた。
直弼(文化十二年生*四十二歳)も夙に將軍の後嗣を決定する必要を認め、安政元(一八五四)年五月老中松平乗全に書を致して此の意を述べ、翌二年正月更に其の意を重ねたのであったが、未だ継嗣に何人を擬すべきかは洩らしていなかった。直弼の所見は、其の師であり謀臣である長野主膳(直弼と同生年/嘉永五年四月、彦根藩弘道館国学方として二十人扶持で召抱えられる/国学・言語学・歌学)に寄せた書束に「此の節柄に付、明君を立て申す可しと下より上を撰み候は全く唐風と申す者、況や我身の爲に勝手ケ
間敷、御撰出し申す可く訳曾て之れ無き事、不忠の至りに候」と明記するが如く、また主膳も
関白九條尚忠に「天下之治平は大將軍家の御威徳に之有る事にて、賢愚に而已之有る儀にては御座無く」(中略)今御血脈近き御方をおきて発明のにと申し候はゞ、外国流(*妥当ではない)にして正統を尊信す可く皇国の風儀には之無き事に御座候間、主人には何國(どこ)迄も御血脈近き御方に天下の人望は之れ有る可しと思召され候」と述べているが如く、血統尊崇論であった。
されば直弼の意見は、将軍の後嗣としては當然慶福であって、飽くまで将軍家の相続に、他の私議を挾むを許さず、其の尊厳を保持しょうという幕権維持論者であった。
幕閣有司の態度
幕閣の中枢たる譜代の重臣等の意向も、多くは直弼と略、相似たものであり、外間の議によって継嗣を定め、将軍の意旨を矯(た/偽る)めるやうな事には与(くみ)し得なかったらしい。
しかのみならず、慶喜の背後に在る齋昭の勢力が、幕閣に影響するをも大いに警戒していたに相違ない。
されば表面には一橋派の慶永等に対して露骨に反対の意を示さなかったが、堀田正睦・松平忠固・久世廣周等を始め、多数有司は、慶喜推挙を喜ばなかったものと思考する。
かくて安政四年の末に至る間の情勢は、略々、南紀振に布利に展開したのであった。
四 一橋・南紀両派の暗闘
松平慶永の努力
安政四年十二月二十七日、松平慶永は米国との條約改訂の事に言寄せ、継嗣問題説得の為に老中堀田正睦を訪い、外交の多忙且つ重大なる際であれば、慶喜を参謀として之を処置せしめたら、尾州・水戸は言うに及ばず、薩州・阿川・因州の外、仙台・筑前・佐賀・土州・柳河等屈指の雄藩は、悉く之に帰服するであらうから、天下安全の策は之に如くものはないと力説した。
正睦は貴説一々然るべく思われるから、明春ともならぱ取計うであらうと答えたのみで、更に其の眞意は漏らさなかった。
嶋津斉彬の建議
また従來幕府の忌諱を憚って表面に立たなかった島津齋彬も同じき頃(二十五日)、外交措置に関する答申の中に、堂々と継嗣の必要を論じて、明白に慶喜推戴の意を述べ、茲に外様大名の冀望(きぼう/希望)を言明した。
慶永等の幕吏誘致
是の頃また慶永・齋裕等は、同志の助力を得て、漸次に幕府有司のうち大目付土岐丹波守頼旨・勘定泰行川路聖謨・目付永井尚志・鵜殿長鋭(ながとし)・岩瀬忠震・箱館奉行堀利熙・田安家老水野忠徳等、主として海防掛の諸員を説いた。
彼等は深く時局の重大性を感じているので、慶喜擁立の理あるを悟り、慶永等と気脈を通じて専ら事の成就を図るに至った。
一橋派の苦肉策
尋いで安政五年正月、條約勅許奏請の爲、正睦の上京の事が決するや、慶永等は其の上京に先だって一挙に問題を解決しようと謀り、先づ同志なる土州藩主山内豊信をして正睦を訪うて継嗣の事を説かしめ、己れも正睦を訪い、豊信入説の事を捉えて、外様大名の容喙は、幕府にとって一大事である。若し彼等の私議によって継嗣が決せられるが如きことともなれば、将軍の威光も閣老の権威も地に堕ちるであらう。
しかのみならず、斯くの如きは濁(ひと)り豊信のみでなく、他にも同様の意見を有つものが多藪あるのであるから、或は貴下の上洛を機會に朝延に入説する者があったら、寔(誠)に由々しき大事であらうと早急の決定を迫ったのであった。
慶永等の此の苦肉策が效を奏したものか、正睦は上京前一応問題の解決を図ろうと企て、他の閣老とも議って将軍に之を建言した。
将軍と老中間の対談の機微は、外間から容易に察知するを許さないが、後日慶永の質問に正睦の応えた所では継嗣の事は已に台慮を候(そうろう/承けて)し、其の人柄に就いては全く将軍の英断に属することであって、其の発表は正睦の京都より帰府後であるべきことが、わずかに漏されたのみで、慶永等をして依然不安の裡に焦慮せしめたに過ぎなかった。
かくて將軍継嗣問題は正睦の上京と共に京都にも波及し、外交問題と絡んで益々、紛糾するに至った。
嶋津斉彬の京都手入れ
京都に於ける運動は、専ら一橋派の内勅降下によって縫嗣問題の頽勢を有利に導こうとしたものである。
而して此の事を先づ公卿の間に入説したのは島津齋彬であって、正月六同、齋彬は書を近衛忠煕及び三條實萬(さねつむ)に呈し、将軍の継嗣を定める必要を述べて、年長英明の一橘慶喜を立つべしとの内勅を幕府に下される事の斡旋を請い、閣老を始め諸侯のみならず、將軍夫人も亦同意
である旨を記している。
三候実萬は直ちに之に賛し、近衛忠照に後嗣の急務なるを告げて、堀田正睦の上京を機會に其の御沙汰あることの望ましい旨を説き、忠熙も之を容れて内勅の降下を奏請する上奏案を草し、實萬に似(しめ)して添刪(てんさん)せしめた。
橋本佐内及び長野主膳の上京
之に加え、正睦の上洛に當り、慶永も亦山内豊信と胥(しょ/相)議して、家士橋本左内を同じく上京せしめて京都に於ける周旋を命じた。
但し左内が承けた本来の使命は、條約改訂の避け難い事由を有力な公卿の間に説いて傍から堀田正睦の周旋を幇助(ほうじょ)し、其の帰府の期を早からしめ、以て継嗣問題の解決に資(し/役立)しようというのであった。
然るに南紀派も之に対抗して井伊直弼は其の腹心長野主膳を上京せしめたので、両派の策士は京洛の地で互に活躍暗闘するに至った。
橋本左内の運動
既述の如く条約調印勅許に関する朝廷の態度は、空前の強硬であったので、左内も之には一驚を喫したが、一方に主膳等が関白九尚忠に入説して慶福の擁立に奔走するを偵知したので、姑(しはら)く外交問題擱(置)いて、専ら継嗣問題に没頭尽瘁するに至った。
左内は先づ三條家諸大夫森寺因幡守常安と志を合せ、豊信の舅である実萬に入説した。
彼の機略雄弁も、「偖(さて)、此の地の情状も干難百灘」と自白したように、容易に進捗しなかった。
左内はまた鷹司家の侍講三國大學に接近して、前関白の政通に入説した。
主膳の暗躍
一方に長野主膳は、井伊家と九條家との縁故を辿って関白尚忠を動かす事に努め、同家の侍島田左近と深く結んで、策動と偵察とに努めた。
主膳が諸藩の京都手入に就いて偵知し、其の主家に内報した所は、悉く其の眞實を伝えたもののみでなく、例えぼ前水戸藩主徳川齋昭の攘夷主唱は、天下の為に計るのではなく、全く其の子を將軍継嗣となそうとする私心に出づると言った如きは、全然猜疑に駆られた妄言である。
而して酉國の某大名が将軍夫人の思召しとて、慶喜擁立を近衛忠煕に入説し、勅命降下の斡旋を請願したというが如きは、真相を得たものであった。
彼(主膳)は自ら他の嫌疑を避ける為に、常に京都・彦根の間を往来しながら、直弼及び同藩士宇津木六之丞と緊密な連絡を保ち、継嗣に関しては血脈尊重論を以て専ら九條関白を動かし、其の朝廷に於ける権勢に依頼して、敵派の計画を破ろうと翼ったのである。
朝廷と継嗣問題
斯かる裡に慶永・斉彬等の手入は、九條関白と鷹司前関白近衛左府(忠熙)・三條内府(実万)との間の反目を助長し、延いて公卿間に反響して、遂に継嗣問題も外交問題と共に朝議に上ることとなった。
政通・忠煕は之を叡聞に達すると共に、尚忠に迫って内勅降下の斡旋を求めるに至った。
二月下旬尚忠は密かに慶喜が継嗣の可否及び幕府の内情を主膳に質し、其の所説を容れて、忠煕等の要求を拒んだので、内勅の事は外交問題と同じく一時停頓するに至った。
継嗣に関する朝旨
然るに三月、公卿列参の事があって以降は、九條関白は孤立に陥り、内勅降下の議は益々優勢となり、年長英明にして輿望ある者が將軍の継嗣に定まるを望ませられる旨の勅諚を正睦に下されるよう計画せられたが、関白は独断にて此の三資格を削り、同二十二日国事多事の折柄、速かに養君を治定し、将軍を輔けしむべしとの内旨が正睦に達せられたのであった。
かくて左内等を始め、一橋派の苦心は画餅に帰し、幕府は却って朝旨に依って其の欲する者を継嗣と為し得る結果となった。
けれども斯かる将軍家の内事に朝旨の下ったのは、全く室前の異例であったのである。
江戸における一橋派その後の運動
斯くの如く京都での一橘派の運動が失敗に帰したと共に、此の間江戸に於ける運動も亦充分な効果を挙げ得なかった。
松卒慶永は左内を上京せしめた翌日(正月二十八日)島津齊彬から近衛・三條両家に内勅降下を入説した旨を報ずる密書を受取ったので、二月朔日老中松平忠固を訪い、此の書を示して継嗣を速決すべきことを進言した。
併し其の結果は徒らに忠固の巧言に翻弄されたと共に、幕閣及び南紀派に一橋派の運動の容易ならぬことを知らしめ、一層の警戒を爲さしめたに過ぎなかった。
更に幕府大奥に於ける西郷吉兵衛等の策動も終に何等効果を改め得ないばかりか、将軍夫人は他から強要せられて、養父近衛忠煕に内勅降下の事なきよう依頼する手書を贈った状態であった。とまれ両派の抗争はなお益々熾烈に継続されたが、今や堀田閣老の帰府を前にして、其の成敗は将に決せられようとしていたのであった。
此の間に在りて一橋慶喜はその擁立派とは全然没交渉であったのみならず、また切りに継嗣たる事を辞退していたと傳えられた。
朝威幕権の隆替
斯くて継嗣問題は、外交問題と絡んで當時の政局の重大案件であったが、將軍の相続問題に幕府が内旨を拝した事、及び一橋派が朝旨を乞うて、其の解決を有利に導こうとした事は、朝威の著しき伸張、幕権の甚だしき失墜を如實に示すものであるは勿論、外様大各の幕政への容喙、処士横議の氣勢を更に助長せしめるに至った。
黙るに南紀派の巨頭井伊直弼の大老就職は、やがて一橋派に最後の鉄槌を下したものと言うべく、果然大老の就職後、竟に紀州侯慶福は
迎えられて将軍継嗣となった。
此の大老の処断は痛く輿論に逆らい、條約無断調印と共に、幕府と有力諸侯との関係を悪化せしめたのみならず、延いて朝廷との間に乖離の情勢を激成するに至ったのである。
第三節 條約の無断調印と將軍継嗣の決定
一 井伊直弼の大老就職
堀田正睦の帰府
老中堀田正睦が京都の使命に蹉跌して江戸に帰着したのは、安政五年四月二十日であった。
新緑にはゆる木曽路の村情山趣も、正睦の心を怡(よろこ)ばすものなく、其の胸中に去來したものは、恐らく條約の調印を如何に解決するか、将軍継嗣問題をどうするかという二事であったろう。
また実に江戸で彼の帰るを待ち受けていたものも、此の二事の解決に外ならなかった。
米国総領事ハリスは既に前月(正月)五日から上府し、鶴首して彼の帰りを待ち佗び、また松平慶永は十九日正睦の宿泊した蕨駅に向け、一書を贈って継嗣の事は帰府の後直ちに決定発表しなければ、大奥の奸人どもの策謀に恐るべきものがあり、其の他非望を抱く者も隙を穿って策動するであらうし、また京都の不首尾もあることであるから、速かに禍を転じて福と為す英断が、焦眉の急であると説いたのであった。
正睦、慶喜擁立に傾く
ここに堀田正睦は、京都で意想外の苦杯を嘗め、また時勢の変転の甚しいのに一驚を喫したので、帰府後の彼の意向・態度は自ら上洛前に比して相當な変化を示すに至ったのであった。
即ち正睦としては條約の調印は折衝によって其の期日を延ばし得るも、調印の公約は早晩之を履行しなけれぱならないのであるから、益々之に依って生ずる朝幕の睽離(けいり)を防ぎ、輿論の緩和を計ることの急務なるを痛感し、之が爲には、諸政の革新を企図する雄藩や、また之に同心する朝臣等の意向を容れて、將軍の継嗣には一橋慶喜を推すのみならず、猶一部
の有志が冀望している松平慶永の大老就職を認める事も亦己むを得ないと考えるに至ったのであった。
斯くて正睦の帰府は今や継嗣問題に内旨の降下すると共に、一橋派に対して有利に転回するがごとく見られた。
併し此の希望の光も瞬息の間に消え失せて、南紀派の井伊直弼が突如として大老に就任したのであった。
即ち正睦が帰府して僅かに三日後の同(四月)二十三日、世人の驚異の中に此の事が発表せられたのであって、爾後の政局は全く一変するに至った。
井伊大老の登場
井伊直弼の大老就任に就いて、閣老中最も之に力を效(いた/尽くす)した者は松平忠固であるという。忠固は故姫路藩主酒井忠實(ただみつ)の二男に生れ、出でて上田藩(信濃国・長野県)五萬三千石を襲いだもので、当時閣中で幕権擁護の急先鋒であって、外様大名等が幕政に容喙するを喜ばず、且つ彼等が朝臣と結んで幕府に強要しようとするに痛憤していた。
而して將軍継嗣問題では陽(そと/外)に慶喜の擁立に賛意を表していたが、其の真意は井伊直弼と同じく慶福の擁護者であった。
即ち忠固は直弼を大老に起たたしめ、以て幕閣内に権威を振わんと志し、密かに幕府奥向の南紀派与党の有志等と策謀し、将軍を動かして其の実現に努めた。
また幕府の大奥も一橋派の京都手入及び内勅の降下等によって、形勢が将に一変しようと
したのに痛く恐惶(きょうこう)を来し、直弼に頼って一橋派の猛運動に対抗しようとするに至った。
かくて四月二十二日直弼登庸の事が決せられたが、恰も是日、徒頭薬師寺筑前守元真(もとざね/水野忠央[ただなか]の姻戚)は、彦根藩邸に赴いて直弼に面晤を求め、人を退けて、水府老侯は現将軍を幽閉して一橋慶喜を其の後に立て、己れの権威を振はんとの陰謀を企つる旨、老中へ密訴する者があったが、老中等は力及ばず、如何とも為し難いから、貴家の力に縋(すが)る外に途がないと、其の蹶起を促したので、直弼も事の容易ならぬを感じ、一書を裁して老中松平忠固に何事かを告げ、元真の辞去後、時余ならぬに早くも直弼に明日登城すべき旨の老中奉書が到來したのであった。
此の時直弼が忠固に贈った書翰の内容、また元眞が果して自己の意旨で直弼を訪うたのであるか、将又何人かの意を承けたものであるかは共に不明である。
併し元真の入説が予め直弼をして大老就職を受諾せしめる為の素地を作るに在ったことは、略々、推察せられる。
而して元眞の口外した齋昭の異図と称するものが、動もすれば水戸の君臣を以て幕府に不利を謀るものと疑い、一橋派の諸侯を齋昭の朋党の如くに誤認するに傾いた幕府擁護論者には、斯かる、竄構(ざんこう/嘘)も浸潤の極、終には信ぜられるに至り、やがては井伊大老を首班とする幕閣をして、戊午(安政五年)の大獄を起さしめる主因の一となったのであった。
井伊大老就職に対する世評
井伊直弼の大老任命は、突如として行われ、且つ時人の意表に出でたのみならず、直弼は従来溜間詰諸侯の間に在って、其の牛耳を執り隠密に幕閣と連絡を有っていながら、表面に立たなかったので、未だ其の人物に就いては知る者
が少かった。
永井尚志(なおゆき)・鵜殿長鋭(ながとし)・岩瀬忠震(ただおき)の如きは、到底大老の器でないと見做し、銓衡(せんこう/人材)の失當を憤慨し、水野忠徳の如きは是迄英名も聞き及ばずとさえいった。
思うに當時の政局は既に幾変転を経來って、徳川氏懿親(いしん)の三家(水戸・尾張・和歌山)、溜間詰大名及び小中大名の中から任ぜられる老中等のみでは到底処理し難い程に紛糾錯雑を極め、大廊下・大廣間席等の譜代・外様の大大名も亦政界の表面に立ち現れ、天下の識者・有志等は国家の前途を憂へて幕政を是非するに至ったのみならず、政治の舞台も独り江戸に限られないで、京都にまで推し廣められ、即決を要する内外の難問が眼前に山積したのであった。
堀田閣老は嘗て直弼等が之を推輓し、また密かに援助し來ったものであるが、今や其の失敗の後を承けて、直弼は進んで此の難局を拾牧する重責を担当したのである。
今より之を顧みれば、何人も直弼が熱烈な幕権擁護者で、其の爲には所信に邁進したということに異議を挾む者はあるまいが、直弼の業績に就いて最も遺憾とする所は啻(ただ)に政局の機微を明察せず、世態の変転を熟思せざるのみか、只管自己の立場と既往の行き懸りとに捉われ、幕権を恃んで独断専行、遂に天下を敵とするに至ったのである。
二 條約及び継嗣問題の経過
条約問題に関する勅諚の公表
井伊大老は任命せられた当日、早くも御用部屋に入って政務に與かった。当時幕府に於いて決定を要する当面の急務は、先に堀田老中が京都で拝した勅諚に対する措置であった。
老中松平忠固等は之を公表する要なしと主張したが、直弼は之を斥け、四月二十五日三家以下の諸侯に登営を命じて勅書を示し、之に対する異見を徴し、特に堀田老中から戦争の叡慮は在らさせられざる旨、及び幕府としては先般奏請した以外には取扱方も無いが、勅命であるから再応所見を徴する旨を諭示せしめ、豫め幕府の方針に齟齬する答申書の出ることを防いだ。
条約調印延期の談判
之と同時に條約調印延期の談判は堀田老中が專ら之に當り、同二十四日、ハリスと会して三たび調印の延期を求めた。
爾後折衝数回、ハリスも漸く我が国情を諒し、我が六ヶ月猶豫の要求に対して、三ヶ月の延期を承諾し、五月二日、其の期日を七月二十七日と協定し、幕府は其の要求に応じて日米條約調印後三十日を経過しなければ、他国との條約に調印せぬ旨の老中連著の覚書及び調印延期を弁明する将軍の大統領に与える親書を交付したのであった。
斯くて幕府は此の三箇月の猶豫期間に諸侯の答申を整え、之を具して條約調印の勅許を得ようという目算であった。
諸侯の答申書は概ね六月の初に出揃ったのであったが、中に尾州(尾張藩)侯徳川慶恕(よしたみ)は勅旨に畏みて叡慮を安んじ奉り、朝廷尊崇・公武合体の実を挙ぐべきを答え、水戸侯徳川慶篤は條約調印の不可を対(こた)え、徳川斉昭は夷狄の願望のままに租法を変更するは忠孝の道に反すると答えた。
以上の答申は孰れも幕府が予め諭告した趣旨に齟齬するもので、幕府は之を訂正せしめる要を認め、密かに其の工作を回らしたのである。
将軍継嗣問題の経過
斯かる間に將軍継嗣問題は、直弼の大老就任によって急速に紀州侯慶福に決定する経過を辿ったのである。
即ち五月朔日大老を始め老中は、将軍に召され、慶福を以て後嗣と為すに決意した旨を親しく申渡され、茲に後嗣は内定したのである。
併し斯くては松平慶永等を始め、一橋派が容易に納得せぬのを慮って、直弼は老中等の請を容れ、予め之を慰諭しようとして、四月二十七日先づ伊達宗城と、尋いで五月二日慶永と會した。
宗城・慶永の二人は直弼に一橋慶喜の英明で輿望あるを称え、他に其の人なしと極言したに対し、直弼は血脈の近い慶福が至當であると明言し、且つ萬一紀州(和歌山藩)侯に定った際には、宿論を抛(なげうち)ち、今に渝(か)わらず忠誠を尽されるやう願はしいと先手を打った。
宗城は台慮で定められれば致し方なきも、天下の為を念えば失望禁ずる能わず、誓って貳心は抱かぬも、望を失はぬとは申し難いと答え、慶永は休戚(きゅうせき/立派な親族・水戸藩)を幕府と同じうするは固よりの事で、敢て貳心(ふたごころ)あるべきではないが、かくまでに思い込んだ事の本意に違(たが)ったら、其の折の心は如何であらうか、今より思い定め難く、独り予のみならず、然る人も多からうと推量せられると対(こた)えたのである。
一橋派有司の黜陟(左遷人事)
将軍の継嗣は既に慶福に内定したが、幕府は猶一橋派の諸候・有司等の憤懣を買い、延いて條約問題に悪影饗を及ぼすことを慮って、之を厳秘に附して発表しなかった。
之と同時に直弼は先づ幕府有司の一橋派と目された者の黜陟に着手した。
直弼は一橋派の主張及び其の運動を以て一種の陰謀と考え、老中松平忠固も亦一橋派の有司を不忠者とまで極言する状態であったから、
此の両者の手によって左遷せられた者は次の人々で、孰れも有司中の逸材であった。
即ち五月六日最も忠固に忌まれた大目付土岐衡旨(よりむね/幕臣・一橋派)は大番頭に貶められ、勘定奉行川聖謨は京都に於いて事を誤ったとの理由で、西ノ丸留守居の閑職に黜けられた。
蓋し聖謨は直弼等から奸物とされていたが、帰府後年長英明の人物を將軍後嗣とされたき旨の封事を老中に呈したので、更に直弼の忌諱に触れたのであった。
尋いで同二十日目付鵜殿長鋭は駿府町奉行に遷され、六月五日京都町奉行浅野和泉守長祚(ながよし/幕臣・一橋派)は小普請奉行に転ぜしめられた。
直弼の側役宇津木六之丞は此の黜陟を在京の長野主膳に報じて、聖謨・頼旨等の左遷で其の同志の者は色を失い、忠義の徒は雀躍し、営中は静粛に帰した、尚残党も苅尽さるべきも用務に欠けるので、徐々に一掃せられる筈であると述べ、一橋派の有司を逆賊と称し、其の行動を奸計・悪計と見做し、自派を忠義の徒と云っている。
之に対して一橋派は聖謨等の転役を以て正論の党排斥の端緒、叉は忠直排斥の兆と称した。
一橋・南紀両派対立の勢の激化と、井伊大老就職後の幕閣の情勢の変化とは之によっても察知すべく、他に一橋派に傾いた堀田正睦及び岩瀬忠震等の上にも、やがて聖謨等と同一の運命が廻り來るべきことは、敢て知者を待って知るを要しない。
唯外交の折衝に彼等が未だ必要であるから、其の期が延ぱざれているに過ぎなかったのである。
松平慶永等の形勢挽回運動
然るに松平慶永等の一橋派は未だ将軍継嗣の内定したことを知らず、深き疑惑の裡に形勢の不利を挽回しようとするに必死の運動を続けた。
時に島津斉彬は藩地にいたので、直接其の謀議に與らず、西郷吉兵衛を江戸に留めて周旋せしめると共に、屡、書を近衛忠煕に呈して慶喜の擁立に朝旨を得ようと努めた。
江戸に在っては松平慶永・伊達宗城・山内豊信は相会して謀議を擬(こら)し、幕府が大廣間詰諸候の條約問題に関する意向如何を懸念しているので、先づ是等大名の答申書提出を成るべく延ばさしめ、また徳川斉昭父子及び徳川慶恕(よしたみ・慶勝)の曩(さき)に提出した答議を、幕旨に遵(したが)って訂正するに時日を遷延せしめ、慶永自身も暫く答申書の提出を見合せた。
即ちかくすれば幕府は之に狐疑逡巡して後嗣の事をも決し得ぬであらうから、其の隙に挽回の策を施そうというのであった。
然るに在府大廣間詰諸侯(十一人)連署の答申書は慶永等の計画の未だ熱しないうちに五月十五日幕府に提出せられた。
其の趣旨は條約調印を巳むを得ぬと為し、大いに當強の策を樹てて叡慮を安んじ奉るべしというに在ったので、茲に早くも齟齬を生じた。
慶永の堀田老中の激励
よって是日慶永は堀田老中を訪い、幕閣の形勢は一変して昔日の如くにも見えず、足下の先途も程遠からぬよう覚えるから、坐して罷免に遭うよりも、大勇猛心を発して抗論説破、井伊大老も松平忠固をも圧倒して継嗣の大策を定められるよう望ましい。是も実に必死を極めて閣中にては刺し違え、将軍の御前にては割腹もせらるべき覚悟がなくては行はれぬことである。又断固として天下の為に大義を立てられ、不朽の勲労を徳川の宗社に残されることは、首座の老中として本懐ではあるまいかと、此の際死を賭して大策を決するよう激励した。
正睦は之に対して既に自己の力では何事も出來ないし、それのみか閣老の中に於いて松平忠固は井伊大老に迎合して予を排斥しようとし、久世廣周は勢を観て嚮背を決しようとしているので、己れの地位さへも危ないと答えて、懊悩を訴えたのであった。
慶永は斯くては事態は独り継嗣問題のみならず、天下の大乱にも及ぶであらうと憂慮し、水戸・尾州両候の家士を説いて其の主齊昭・慶恕の蹶起周旋を促し、己れは不断の努力を傾けたのであった。
伊達宗城・山内豊信等の周旋
伊蓮宗城も亦慶永等と志を合せ、井伊氏とは旧縁があるので、五月十三日直弼及び正睦と會し、慶永を京都に使せしめて勅問に奉答せしめるよう勧説し、更に同二十二日また直弼を誘うて之を促した。
蓋し一橋派が慶永を幕府の特使として上洛せしめようと希望したのは、曩に堀田老中に賜うた内旨によっても、将軍後嗣に就いて朝旨の在る所は昭々として明かであるから、慶永をして廟堂の間に周旋せしめ、年長・英明・輿望の三条件を明示する朝命を得て、一橋慶喜の将軍継嗣たる事を一挙に決しようとしたのに外ならなかった。
また山内豊信は其の姻戚三條前内府(三条実万/本年三月実萬は内大臣を辞した)と書信を往復して周旋する所あり、五月三篠家の家士富田織部は密かに江戸に來って豊信と謀議したのである。
三條前内府は夙に慶喜の賢を聞いて之に嘱目し、また齊昭の副将軍説を唱えていた程であるから、一橋派は專ら三條実萬及び近衛忠煕に頼って其の最後の手段とする朝威を藉(か)りる(口実にする)ことに大いに努めた。
其の他一橋派には直弼叉は忠固を京都に赴かしめ、其の不在に乗じて形勢の挽回を計らうとする策、或は慶永を幕閣に列せしめて、大老の上位に据えようとする策等、頻りに秘策が回らされたが、機會は未だ到来せず、孰れも實現を見なかった。
此の時既に水戸藩士其の他有志の中には直弼・忠固の排斥を主唱する者を生ずるに至ったのである。(p237)
以上
第十二回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢を問わずどなたでも参加できます
日 時 令和四年五月二十八日(土)
午後一時から三時
会 場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」(和室)
資料代 三百円
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第10 回テーマ 修好通商条約調印の奏請
日時:令和4(2022)年3月26日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第十回テーマ]
令和四(二〇二二)年三月二十六日(土)
午前十時より正午
東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
第二章 朝権の伸張
(『概観維新史』(P191-214)を準現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
第一節 修交通商条約調印の奏請
徳川斉昭の京都手当て
由来、徳川齊昭(水戸藩主)の姉は前関白鷹司政通の夫人であり、齊昭は夙に政通に頼って屡(しばしば)、[統仁(おさひと)親王に]珍什及び著書類を進献し、また時事に関して書信の贈答を行っていた。即ち弘化三年孝明天皇の御践祚に方(当)っては、万機輔導の議を建てて、其の臣節を尽くすべきを言い、之に藩士會澤正志齋の編述した『迪彝(てきい)篇』(尊王攘夷論)を添え、編中に記した水戸学の真髄に由って其の趣旨を補った。
尋(つ)いで嘉永五年、新たに刻の成った『大日本史記伝』を上り、自ら跋文(あとがき)を草して、正閏(皇統の正否)を明かにする所以を述べ、また藩士鱸(すずき)半兵衛の作った地球儀(経三尺六寸余り)の伝献(代理献上)を依頼し、上表(天皇に文書を贈る)して宇内(国内)の大局を洞察して皇威を八紘(世界)に溌(発)揚せられん事を翼(こいねが)い、自ら大君の御楯となるべき旨を奏し、両つながら深く叡感在らせられた。
安政元年また自製の琵琶一面を進獻し、其の胎中に、行宮(こうえい/御所)寶器の闕(欠)を補って宸憂を慰め奉らんとの微衷を表し、且つ外夷の猖獗(しょうけつ/横暴)を慨歎(がいたん/なげく)する意を寓(託す)する一文を刻したのである。
三年九月、齊昭は、ハリスの下田駐紮及び英艦隊の来航説に就いて憂慮し、在京の藩士石河徳五郎に命じて、内憂外患の状を政通(鷹司)に内報せしめ、また別に書を政通に致して、外患の状を訴えた。
政通は事の容易ならぬを知り、武家伝奏三條實萬(さねつむ)に内示して意見を問い、且つ密かに之を叡覧に供した。
此の書がやがて公卿間に漏れたので、幕府も齊昭入説の事を知り、益々、齋昭に封する嫌疑を深め、幕府の大奥に於いては、「亜墨利加(アメリカ)人の一條にて水老公より京都へ色々御内訴ありし故に禁廷の御首尾宜しからず云々」との取沙汰が行はれた。
尋いで堀田閣老上京の事が決するや、齋昭は若し朝議が時局切迫の情勢に顧慮せられる所なく、専ら幕命を下されて、萬一公武の間に扞格(対立)を生ずることがあってはと憂慮し、書を政通に贈って、暴(にわ)かに外交拒絶の断に出づることなく、姑(しばら)く国防の整備を俟(待)つべしとの意見を陳べたのである。
これ或は正睦の奏請に対し、政通が其の當初
軟論を唱えて他より指弾を受けた一因であったとも推測せられるのである。
志士の入説
所謂草莽の志士、即ち禄仕せず(官に仕えず)、帷(とばり)を垂れて(隠れて)諸生を教えた処士(民間学者)、或は薄情に慊(あきた)らざる(不満に思う)浪士等は、幕府の優柔不断なるに憂憤し、望を皇室に囑(しょく・ゆだねる)して尊王の思想を高唱し、攘夷の素志を實行に移さんと欲し、潛かに公家の間に出入して所信を入説した。
斯くて彼等の遊説は冥々の間に朝廷を動かす政治上の一勢力となる端が啓かれた。
当時京都に於ける主なる処士に梁川星巌[1](やながわ・せいがん)・梅田雲濱(うんぴん)[2]・頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)[3]等があったが、諸藩の少壮気鋭の士が私かに彼等と氣脈を通ずるものもあり、所謂志士の活躍は政局の推移と共に益々熾烈となった。
堀田閣老の上京当時の京都は、当(まさ)に斯くの如くにして反幕・攘夷の気勢が日に月に昂(たか)められたのである。
堀田の入京
二月五日(安政五年)、閣老堀田正睦等は入京して本能寺に館した。世上では「堀田侯も十萬両程も御内々御用意御登り之由」と噂された。
九日、正睦は参内し、小御所に於いて龍顔を拝し、天盃を賜った。十一日武家伝奏廣橋光成・東坊城聰長・議奏久我建通(こが・たてみち)等は本能寺に赴き、正睦等と會したが、正睦は所司代本多美濃守忠民(岡崎藩主)・随員聖謨(川路)・忠震(岩瀬)等と共に、宇内の形勢を詳述し、條約草案を示して朝旨を請い、其の述べた所を筆記して、参考に供した。
しかし、正睦等の陳辮(弁)は未だ朝廷を動かすに至らず、十三日光成(傳奏廣橋)等は命を奉じて再び本能寺に正睦等と會して質疑する所があった。
是の時に方って廷臣.の多数は外人の京畿に近づくを喜ばず、幕府の奏請を拒否すべしと爲せるうちに、特に内大臣三候實萬[4]は屈摩的外交を非として強硬論を唱え、左大臣近衛忠煕等も亦之に賛し、青蓮院宮(しょうれいいんのみや)尊融(そんゆう)法親王[5]は特に勅命によって朝議に参せられたが、主戦論を持せられ、志土の与望を負い給うた。
斯かる裡(うち)に在って、廷臣の耆宿(徳の高い)たる鷹司政通は、嘉永六年以降和親の説を持して来たが、依然此の時も他と異る説を建て、篠約は宣しく勅許あり、唯互市に基づいて人心の離反を招かぬよう留意すべきであるとして、其の男(むすこ)右大臣鷹司輔煕及び傳奏東坊城聰長等は之を支持した。
政通等は幕府に阿黨(あとう/おもねる)ものとして、満廷の誹謗を受け、洛中に
世の中は欲と忠義の堺町東はあづま西は九重
との落首が行はれた。
実際堺町御門の東側には鷹司家、西側には九條家があったのである。
天皇は宸翰を関白九條尚忠及び左大臣近衛忠煕に賜い、政通等に異見があるを憂えざせられ、且つ諸侯等が叡慮次第と申して一に朝裁を
仰望する状あるに鑑み、叡慮安からぬ旨を告げ給うて、両入に輔弼の忱(まこと)を著すべきを諭さしめられた。
かくて二月二十一日、朝議があって、條約に閲する朝裁は猶諸侯の衆議に徴して決せられるべきに定まった。
第一回の勅答
然るに権大納言中山忠能(ただやす)の「老公(政通)春来所労の処、今日出仕、嘆息々々」と記す如く、鷹司政通は翌日卒然参内し、二百年来長崎にて清・蘭両国との通商が無難であるから、下田・箱館両港にても同様であらうとの理由で條約に勅許あるべきを言上したが、天皇は之を嘉納し給わず、二十三日武家傳奏等は本能寺に到り、正睦に左の叡旨を宣示した。
今度之一條容易ならず、神宮始め奉り御代々様へ対し為され候而も如何有る可き哉、深く叡虜悩まされ候。此の期に到りては人心之居合(おりあい)家之重事に候間、三家以下諸大名の赤心聞食されたき思召しに候。今一応台命(将軍の命)下され、各所存書取り為し叡覧入らせ候様(以下略)
且つ兵庫開港の除外、京都の厳備方法、開港其の他の要求を容れて後患なきやに就いて、更めて諮問を下された。
二十五日、武家伝奏(*幕担当)・議奏(*議担当)は正睦等と会見して、右三箇條に封する正睦等の説明を聴取したが、朝議は遂に幕府の奏請に許否の明答を下されずして、再議を命ぜられたのである。
かくて正睦等は事の意想外なるに惶惑(こうわく/おそれまどう)し、朝議の転換に努力した。
斯かる際に江戸の老中よりハリスの來月(三月)二日海路上府せん事を要請し来ったことを報じ、それは條約調印を督促する爲であれば、帰府延引の事情を直接彼方に通告することを求めて来て、彼等は益々、焦慮したのであった。
関白九條尚忠の態度
然るに曩(とき)に正論と言はれた関白九條尚忠の態度が漸く(ようやく/しだいに)一変するに至って、局面は幕府にとって有利に傾きかけた。即ち三月に入って、曩(さき)に内覧の辞退を奏請した鷹司政通の辞表は主上の御手許に留め置かれたが、政通の発意で、外交の事には爾後内覧として携らぬ事となり、忠尚が之を専決する事となったが、正睦等の必死の努力と、また之と相並んで正睦の後援者と見るべき彦根藩主井伊直弼の腹心長野主膳が九條家家士島田左近に接近して、幕府の為に斡旋した結果であらう。忠尚は外国事件は之を幕府に委任すべしとの意見を持するに至った。
伝奏東坊城聰長も亦此の説に傾いたので、忠尚は聰長と共に廷臣中の硬論者を抑えて朝議を自説に転換せしめようとするに至った。
関白の専断
因って忠尚は先っ青蓮院宮の参朝を抑制し、また左大臣近衛忠煕・内大臣三候實萬の直奏することを止め、正睦より天下人心の帰向を一にすることは、將軍が力めて之に當るべき旨の將軍奉答書を提出し、且つ時日が遷延すれば、紛争は測り難いから、速かに勅許を下されん事を請うに及んで、忠尚は人心の折合を將軍が引請けるとある上は、條約に就いて強いて御異論も、また御聴許の旨をも仰せられず、先づ天聴に達し置いたと計り御返答あって、正睦を帰府せしめては如何と奏聞して叡慮を候(うかが)った。
之に対して天皇は、其の辺り至極尤もではあらうが、それが為に関東に於いて早速條約を許容するに至っては、人心にも関わり、一大事であるとて御嘉納にならず、三公・議奏・傳奏以下に諮問せよと仰せられた。
かくて三月九日、尚忠の起草した左の勅答案について朝議が行はれた。即ち、
人心居合之儀は、如何様とも関東にて御引請け遊ばされ可くとの事言上に及び候処、人心居合の処は先づ以て御安心遊ばされ候得ども、神宮始め御代々へ対し為され候ては何共恐れ多く東照宮己来の御制度を御変革在らせられ候儀は、天下の人望如何と思召し、再応叡虜悩まされ候間、何とも御返答の遊ばれ方之無く候、此上は関東に於いて御勘考有る可く様、御頼み遊ばされ候事
とて、勅許とは明示せられぬまでも、其の實は幕府に萬事措置を委任せられるとの叡慮を示し給うたものであった。
此の日の朝議に當って、左大臣近衛忠煕・内大臣三候實萬は関白の措置に憤慨して、疾と称して参朝せず、右大臣鷹司輔煕・権大納言二條齊敬は、朝命を以て各々、忠煕・實萬の邸を訪れて参朝を促し、實萬は後参朝したが、朝議は議論紛々として容易に決しなかった。
其の後関白は自説を固持して止まなかったので、十一日遂に関白の案は御裁可あらせられ、十四日を以て正睦に参内を命じ、之を宣達せしめられんとするに至った。
関白の孤立
此の関白の態度は、いたく廷臣の憤慨する所となったが、中にも三條實萬は禁廷中に於いて関白を面責し、また議奏久我建通の如きは、退休して安逸を欲するのではなく、假令(たとえ)閑散(落飾)となっても、赤心報国の精神は金鐵よりも堅しと称して離職を請う有様であり、鷹司政通父子も九條関白とは反対に、幕請拒絶の意見に一変した。
蓋し政通父子の豹変は同家侍講三国大學・諸大夫小林民部大輔(たいほ)等の苦諌の結果であったらしい。
かくて九條関白並びに武家傳奏東坊城聰長は人々の指弾の的となり、聰長は非難に堪えずして其の職を離し、今や関白は孤立の姿となったが、遂に廷臣間に関白の措置に封する反感反対の気勢が熾烈となって、未曾有の事態を生ずる至った。
公卿の参列
畏れくも天皇には九條関白の作成した勅裁案を御心ならずも御裁可になったが、猶宸憂に堪えさせ給わず三月十一日の夜(午後十時過ぎ)近侍富小路敬直を権大納言久我建通の許に遣わされて、内々勅書を賜はり、今度の勅裁の事は国家の安危に係はり宸襟を悩ませ給うので、何とか書改められる事にはならぬかとの御推問があった。
折柄所労引籠中であった建通は、聖旨を拝し、恐懼して、早連中山忠能・正親町三候實愛・大原重徳・岩倉具視等を招集し、勅裁案の末文、即ち幕府へ御委任の條に就いて協議の末、終に同志の堂上が多敷にて傳奏並びに関白邸へ参入して、右書改めの事を歎願すれば、定めて多人数に恐れて承服せられるであらう、宣しく今晩中に夫々手配して、誰彼を選ばず、知るも知らざるも、成るべく多数を糾合しようというに決し、天明を俟たず重徳・具視両人は、各方面を勧説した。
かくて十二日参内した忠能・實愛・重徳・具視・権大納言大炊御門(おおいのみかど)家信(いえさと)等八十八人は連署の書を作り、関白の参内を待ったが、忠尚は疾と称して参内しないので、列参堂上の首席たる忠能から、武家伝奏廣橋光成に就いて披露を依頼し、薄暮彼等は関白邸に至って要請し、遂に「明日宮中に於いて何分の沙汰に及ぶ可し」との答を得て、亥刻(午後十時)始めて退散した。
廷臣の結束
更に非藏人五十除人も亦連著して同じき意を上陳し、十七日地下官人九十七人も亦連署して外交拒否の意見書を上申した。
因(ちなみ)に是等列蓼の堂上等は其の後和議して益々誠忠を抽(ぬき)んで、軽挙を慎む可きことを約し、若し事態悪化して幕府より関東下向糺問の事あるも、決して素心を変ぜぬことを誓って結束を固めたのである。
思うに斯くも多数の堂上等が一致結束して決然たる態度を示したことは、実に前古未曾有
であって、事の隠當か否かは姑く措き、公家の意気が斯くも強く幕府に対して示されたことは未だ嘗てないのである。
第二回の勅答
形勢が茲に至っては、堀田正睦の努力も、聖謨・忠震の雄弁も関白の支持も遂に大勢を挽回することが出来ず、此の結果改めて再び勅答案が審議せられる事となって、十八日略、議定せられ、二十日(安政五年三月)老中堀田正睦・所司代本多忠民は小御所に参内、天皇出御、関白三公以下列座の上、近衛忠煕(左大臣)から朝旨
を授けられた。
其の文に曰く、
墨夷の事、神州の大患国家の安危に係り、誠に容易ならず神宮始め奉り御代々へ対し爲され、恐れ多く思召され、東照宮己來の良法を変革の儀は、闔国人心の帰向にも相拘り、永世安全量り難く、深く叡慮悩まされ候。尤も往年下田開港の條約容易ならざるの上、今度條約の趣にては、御国威立ち難く思召され候。且つ諸臣群議にも、今度の條約殊に御国体に拘り、後患測り難きの由言上候。猶三家已下諸大名へ台命下され、再応議の上、言上有る可く、仰せ出され候事
とある。
堀田の最後の努力
この勅答を拝した正睦の苦衷は、誠に察するに余りある。
既に江戸を発してより二箇月を経て、しかも容易に得られると思った條約の勅許は、意外に強硬な京都の情勢の為に自己の目的とは全く相容れない朝旨の下附となり、更に江戸に於いてはハリスは出府して調印を待ち、国際状勢は益々切迫を告げていたのである。
正睦を始め一行は何とかして活路を得ようとし、二十二日武家伝奏及び議奏の来訪を求め、米国との條約に関する談到の変更し難い実状
を陳疏し、若し不慮の変が起った際は、幕府に於いて寛猛孰れの処置を取るも差支なかるべきかと朝旨の在る所を伺うた。
朝旨益々強硬
二十四日、武家伝奏及び議奏は再び正睦の旅館に至って、伺書に対する朝旨を宣達した。
朝旨は益々、強硬で、今度の條約は迚も御許容なされ難い。若し諸侯の衆議中に事態が自然差しもつれるに於いては、朝旨を体して精々取り鎮め、若し彼より異変に及べば已むを得ぬ事なれば、之に応じて一戦交えよと言うのであった。
尚此の際諸侯の衆議に附すべき三箇條を示して其の方略を議することを命ぜられた。
即ち一、永世安全に叡慮を安んずべき事、二、国体を損せず、後患を胎さぬ計略の事、三、下
田條約以外は御許容遊ばされ難い故、万一異変を生じた場合の防禦方法を定める事の三つである。
敦も幕府にとっては重大且つ難問であった。かくて條約調印に対する朝旨は戦を賭しても拒否すべしとの御趣旨の如くになり了ったが、叡慮は決して斯かる事を好ませられたのではない。
これは此の時伝奏より正睦等へ此の旨を内示しているのでも明かに拝察し得るのである。
堀田の退京
是に於いて正睦等は最早策の施しようもなく、岩瀬忠震は先づ状を幕府に報ずる爲一行に先だち帰府の途に就いた。
尋いで二十九日正睦は帰府聴許を請い、四月三日参内して暇を賜った。
此の間廷臣は連署して京都附近及び近海の警備を嚴にし、以て不慮に備うべき事を幕府に令せんことを奏請したので、是の日正睦に「蛮夷覬覦(きゆ/非望をいだくこと)の時節に付、神宮並京師殊更に警衛の儀、就中武備相整い候然る可く国持の大藩、早々仰せ付けられ候様遊ばされ度」と命ぜられた。
正睦は此の命を拝して退朝、五日随員を具して京都を発して帰府の途に就いた。
翻って堀田正睦等が滞京二箇月間の努力の跡を顧みるに、彼等は充分の成算を胸裏に蓄え来って、奔走弁疏に努め、死力を尽くして使命の貫徹に努めた。しかも時運は頗る非なるものがあり、老中の首座で外国事務を專掌した正睦
は、脆くも公家及び草莽の志士等の環視の中に惨敗したのである。
此の痛手は濁り正睦一人のみの負うべきものでなく、幕府の権威に関する所が頗る大き
かった。
寛政の昔、尊號事件[6]の起った際には、松平定信が遂に朝旨を仰え奉って其の実現を阻止し、且つ専ら此の議を翼賛し奉った中山・正親町両卿を江戸に召致して処罰さえ行ったのであったが、今や首席老中が自ら京に赴き、堂上間を遊説して終に此の爲体であった。
思うて茲に至れば、世の幕府に好威を寄せる者でも、鼎の軽重を問わざるを得なかったであらう。
幕府の當路者も亦時勢が斯くも変転したことに一驚を喫したであらう。
此の情勢は、必ずや幕府の権威保持の上からも、將又朝幕睽離(けいり)を防ぐ爲にも深甚なる考量を促すものがあり、又一方には、勃興し来る尊王攘夷の運動に氣勢を添えて、時局は益々紛糾するに至った。
而して是と並行して政局の中心題目でったものは、実に將軍の継嗣問題である。
次に此の問題を詳説するであらう。
第二節 將軍縫嗣問題の展開
一 将軍継嗣問題の由來
将軍徳川家定
嘉永六年十一月、父家慶の後を承けて将軍の宣下を蒙った家定は、時に齢三十であった。
然るに家定は未だ一人の子女を有たなかった。しかのみならず其の兄弟は皆早世して、成人したのは家定の外に僅かに故一橋慶昌(天保九年没)のみで、今は殆んど肉親の血統がなかった。
しかも米国使節ペリー渡来後の非常時極に際し、家定は自ら臣僚を統率して政務を総攬し、武家の棟梁として諸侯に號令する才能は無く、政治は殆んど閣老の手によって行われ、将軍は手を拱いて成るを俟つに過ぎなかった。
されば有志の諸侯及び志土等は、夙に才幹与望兼ね備わる人物を得て、將軍を補佐せしめ、此の人に頼って人心を収攬し、国是を定めて外国の圧迫に當らうと冀望(きぼう)した。
初め天下の諸侯・有志は、望を幕政参与の徳川斉昭に嘱したが、齊昭は漸次幕閣から疎隔せられたので、之に失望して、英明な後嗣を得て將箪の名代ともならしめようとし、茲に將軍継嗣問題が、幕府の内外に於いて議せられることとなった。
将軍継嗣の候補者
此の問題は安政四年公然と衆議に上り、漸く政治問題にまで展開し始めた。而して将軍の継嗣候補者と目された人物は、先づ紀州藩主徳川慶福(よしとみ)であった。慶福は前将軍家慶の弟前紀州藩主齊順(なりゆき)の子で、家定の從弟(いとこ)に当たり、血縁は最も近いのであるが、併し年齢は僅かに十二であった。
次に刑部卿一橋慶喜は、齊昭(水戸藩主徳川斉昭)の第七子で曩(弘化四年九月)に一橋家を嗣いだが、幼時より聰明の聞えがあり、夙に前將軍家慶が之に嘱目(期待)いたと称せられた程であって、時に年二十一であった。
一橋・南紀両派の対立
斯くて此の二人を繞(めぐ)って一橘派・南紀派の激烈な擁立運動が起った。
蓋し泰平無事の世であれば、将軍の継嗣は當然血統の最も近い慶福に異議なく決定すべき筈であるが、多難な時代とて、年長にして英明な慶喜が、幕府の失政を憂える有志者から支持を受けたのである。
換言すれば、此の問題は格例常規を主張する保守派と、時艱の克服を志して改革を企図する革新派とが、互に秘策を尽くし合ったのである。
しかも問題は紛糾を極めて、政局の上に大きな波紋を描いたのである。
思うに幕威が未だ衰えなかった時代には、将軍は己れの子女を有力な藩侯の跡目又は夫人に押付け、それが為に藩主の家督相続に紛糾を起さしめ、或は將軍の女(むすめ)を迦える爲に、巨額の費用を支出して藩庫を窮乏せしめた例が枚挙に遑がない。
然るに今や却って自家の継嗣が他から憚るる所もなく私議せちれ、波潤を捲き起こすに至ったのであるから、誰が時勢の急転と幕威の衰退の甚だしいのとに驚かぬものがあらうか。
二 一橋派の運動
松平慶永の首唱
嘉永六年八月、福井藩主松平慶永は、老中阿部正弘に将軍継嗣決定の急務を内説した。
正弘は固より之に同意を表したが、事は頗る重大で、軽々に発言すべきではないから、己れも之を心に秘め置き、慶永からも決して他言せぬよう注意せられたのであった。
然るに安政三年、米国総領事ハリスの下田駐紮や、英国使節来訪の予報等によって、我が対外関係は一層緊迫を告げるに至ったので、延いて本問題も之を等閑に附することを許さなくなった。
慶永は同年(安政三年)十月先づ書を尾州藩主徳川慶恕(よしくみ・慶勝)に致して、時局多灘の際、第一の憂患は将軍世子の決定せぬことである。
其の確定は實に「治乱の急務、天下嘱望の基本」であるが、幸い一橋慶喜は英明の噂が高いから之を後嗣に迎えるよう周旋せられたいと冀望した。
また慶永は前将軍軍家齋の男で阿州(徳島)藩主である蜂須賀斉裕へも将軍後嗣決定の急務なるを述べて、時節柄年少の後嗣にては不適當であると為し、暗に慶喜の擁立に盡力することを求めて、齊裕の賛意を得た。
板倉勝明の周旋
恰も之と時を同じうして安中藩主板倉伊賀守勝明は、学識に富んで、小藩の主でありながら有志諸侯に知己があり、夙に継嗣の事を憂えて、老中阿部正弘・若年寄本多忠徳に一橋慶喜の擁立を力説し、且つ密かに慶永とも志を通じた。
島津斉彬の態度
また、薩州藩主嶋津斉彬は、慶永と同聲相応ずの間柄であったが、当時斉彬は其の養女敬子(篤姫、天璋院、一門嶋津忠剛の女)を近衛忠煕の養女として将軍家定の夫人に配そうとして尽力し、漸く安政三年十二月に其の事が実現したのであった。
是れが家定の三度目の夫人である。幕府の大奥では之を迎えたことによって、密かに一縷の望みをかけないでもなかったが、仮(も)し幸に家定が世嗣を挙げ得ても、実に間だるい事であったのである。
齊彬の意図も、密かに御台所から将軍を説き、内部から慶喜擁立を助けしめようとするに在ったたと称せられ、事実また此の方面に斡旋したのであった。但し彼は外様大名であるので、幕府の嫌疑を憚り、慶永の如く表面に立つことを避けたのであった。
一橋派の諸侯
其の他宇和島藩圭伊達宗城(むねなり)土州藩主山内豊信も亦慶喜に望を嘱(しょく・託し)し、慶永と聲息を通じたのである。
独り徳川慶恕は慶永から再三の勧説があったにも拘らず、「親族結党の筋等に汲取られては、外寇内憂の両難を醸す恐れ少からず」との見解を持して、容易に動かなかった。
本問題(将軍職継嗣問題)と水戸藩
然らば水戸藩上下の本件に封する動静は如何というに、前藩主齊昭の意衷に就いては軽忽(けいこつ/軽々しく)に之を揣摩(しま・推論)臆測することを許さないが、少くとも其の幕閣から忌諱せられていたことと大奥に於ける不評とは、慶喜の擁立運動に不利を招いても、決して利益を齎(もたら)すものではなかった。
されば島津斉彬の如きは屡、慶永に警告して、成るべく齊昭と遠ざかることの利であるを注意した程であった。
水戸の家士等が慶喜の為に其の実現を希望した事は言うを侯たない。安政四年八月、水戸藩側用人安島帯刀は、慶永の腹心中根雪江と會して、我が佛尊しの諺の如くであるが、一橋刑部卿は英明抜群の資であるから、天下の頽勢を挽回し、徳川家の安泰を図るには、此の卿を措いては他に人もなからうと説いて、相倶(とも)に協力して継嗣問題に奔走することを約し、また一橋家の小姓平岡圓四郎とも結んで尽力することとなった。
一橋派の不利
黙るに此の頃、老中阿部正弘は病没し、上田藩主松平忠固が再び老中となった。
慶永は正弘の訃報に驚き、外国の事も、天下の事も、西城(さいじょう/京都)の件も総て此の仁に依頼していたのに今や其の人が亡い、今後は誰に議るべきと言って歎じたのであった。
また忠固は齋昭と善くないので、正弘の死と忠固の復職とは、一橋派にとっては不利でなければならなかった。
慶永は之を憂慮し、己れの腹心をして密かに上田藩の家中に連絡を求めしめ、また越前家の老女本立院(故藩主斉善の侍女)が将軍の生母本寿院の姉である関係を辿って、幕府の大奥に
入説せしめる等、隠密の裡(うち)に運動を怠らなかったのであった。
慶永等の周旋
會(たまたま)、米国総領事ハリスの上府・将軍謁見の事が決せられるや、坊間(巷/ちまた)には外国使臣の謁見に際して、将軍は疳癖(かんへき/激しやすい)が強く、眸子(ぼうし/)も正しくない(目が不自由)から、恐らく名代を立てられるであらうとの風説が専ら行われた(因みにハリスの日記には謁見の際、将軍は明晰且つ快活に挨拶したとある)。
之と共にハリスの上府は頗る与望に反したので、慶永等は益々継嗣決定の急務なるを痛感し、専ら蜂須賀齋裕と謀り、公然と幕閣當路を説いて之を動かそうと試みるに至った。
安政四年九月十六日、慶永は先づ老中堀田正睦を訪(おとな)い、始めて継嗣の事を議したが、正睦は専ら台慮によるべきで、私に計ろうべき筋合ではないが、紀伊殿は最も近き血縁であれば、先づ此の仁でもあらうが、之を措いては
田安殿・一橋殿の外にはあるまいと答えて、要領を得させなかった。
翌十月、慶永は老中久世廣周にも入説し、更に再び正睦を説いた。
此の時慶永が将軍後嗣の事は天朝に御伺いに成るものかと尋ねたに対し、正睦は此の儀は
台慮次第にて決すべく、只一応の奏上を経るまでで、叡慮を候ひ奉る事はない例であると答えたのである。
けれども後日此の問題が朝廷に関係して来るとに勘考すれば、慶永には、既に勅綻降下を願って、自派を有利に導かうとする底意があったのではあるまいか。
慶永・蜂須賀斉裕の建白
かくて同月十六日、慶永及び斉裕の二人は遂に連著して幕府に將軍継嗣の事は諸侯伯は言う迄もなく、庶民に至るまで皆希っている事であるが、年長英明で差當り將軍の名代とも成り得る人物を迎えられるやう切望する、それには一橘慶喜を措いては他に人はないと、明白に慶喜擁立の事を建議した。尋いで翌十一月二十七日慶永は老中松平忠固を訪れ、慶喜の英明善行を誌した「橋公略行状」を提示して、前記の書に封する幕府の内情を質したが、忠固は閣内の評議は米国総領事との応接に追われて、心ならずも未だ之に及んでいないと答えて、何等要領を得させなかった。
橋本佐内・西郷吉兵衛の戮力
是の歳八月、慶永は藩士橋本左向を江戸に呼び寄せて、侍講兼内用掛に擢用し、命じて意見書・建白書類を草せしめ、また諸方に向って遊説を試みしめた。十二月に至り薩州藩士西郷吉兵衛(後吉之助・隆盛)も亦藩主斉彬の命を受けて江戸に来り、密かに幕府の大奥に対して慶喜を後嗣とする事に尽力するに及んで、此の両者は互に提携して目的達成の事に当った。
後嗣問題の政治問題化
斯くて将軍継嗣問題は、時艱が加重するに伴って、遂に幕府対諸侯有志間の公然たる政治問題と化し去ったのである。
而して慶永等の熱心な周旋があるにも拘らず、世説は何時しか将軍の継嗣は紀州侯慶福に内定したと伝えるに至った。
蓋し慶永等一橋派の斡旋が漸く白熱化するに従って敵主である南紀派も警戒を怠らず、幕閣の一部と結託し、殊に情実が猜忌嫉妬の府である大奥に向かって隠微な工作を試み、一橋派の攻勢に対して牢乎として抜くべからざる堅陣を張ったのである。
以下紀州派を擁立しようとした人物と其の動静とを概説するであろう。(P214)
以上
第十一回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢を問わずど
なたでも参加できます
日 時 令和四年四月三十日(土)
午前十時から正午
会 場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
古文書解読
長州藩家老浦靭負日記
[元治二年丑十月]将軍家茂より孝明天皇への上書(将軍職辞表届)
[1] 梁川星巌(やなかわ・せいがん) 江戸時代後期の漢詩人。各地を遊歴して頼山陽らと詩文を交わし、「文の山陽、詩の星巖」とうたわれた。弘化二年、京都で勤王の志士たちと倒幕運動に従事するが安政の大獄の直前に急死する。
[2] 梅田雲濱(うめだ・うんぴん) 江戸時代末期の尊王家。若狭小浜の藩士。山崎安斎学派に学ぶ。藩政や海防策について藩主にしばしば建言したため士籍を除かれる。ペリー来航の時、攘夷の立場に立ち、在京の浪士と提携し、また長州藩の尊攘派に奮起を促した。安政五年の条約勅許問題では、勅命を大名に下して攘夷を実行する計画を立て、また大老井伊直弼を失脚させて一橋慶喜を将軍にして攘夷を実行できる幕府体制をつくるために運動した。安政の大獄で捕えられ、江戸の小倉藩主小笠原忠嘉邸に預け置かれそこで病死(安政六年 四十四歳)する。
[3] 頼三樹三郎(らい・みきさぶろう) 江戸時代末期の尊王家、志士。頼山陽の第三子。昌平坂学問所に入るが、幕府への反感から事を起こして退寮を命じられる。京都に家塾を開く。米軍艦渡来にあたり幕府の措置を非難し、尊王攘夷の説を唱え、梁川星巖らと往来し、宮家・公卿の間を遊説する。安政の大獄に連座し、江戸小塚原で斬首された(三十四歳)。
頼山陽(らい・さんよう) 安芸藩の儒者の長子、十八歳の時に江戸に遊学。病気のため廃嫡(相続権の喪失)の身となり、文化八年京都に塾を開き、詩を教えた。『日本外史』(二十二巻)、『日本政記』(十六巻)などの通俗的な史書を書いた。その力強く生気の躍動する文章は広く国民の間に愛読され、後世の人々に大きな影響を与えた。
[4] 三條實萬(さんじょう・さねつむ) 嘉永元年武家伝奏となり、開国問題以後の朝幕交渉に携わり、朝権回復に努めた。将軍継嗣問題では一橋派と結び、佐幕派の関白九条尚忠を排斥する。安政の大獄で引退。三條実美の父。
[5] 尊融(そんゆう)法親王 天保七年に仁孝天皇の猶子(養子)となり、八年親王宣下、成憲の名を下賜される。天保九年に得度する。嘉永五年青蓮院門跡の第四十七世門主に就き、法諱を尊融と改める。その後第二百二十八世天台座主にも就いている。親王は、日米修好条約の勅許に反対し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持たことなどから、安政六年の大獄で永蟄居を命じられた。井伊大老が万延元年、桜田門外の変で暗殺され、復帰した親王は国事御用掛として朝政に参画する。
[6] 尊號事件(尊号一件)
寛政元(一七八九)年光格天皇が父典仁親王に太政天皇の尊号を贈りたい旨を幕府に希望した際、老中松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私するものして拒否した一連の事件。朝廷では一時このことを見合せたが、再び参議以上の公卿三五名の意見を求めたところ、大部分が賛成てあったため、幕府にその旨を伝えた。ところが定信は強硬な態度に出て、武家伝奏正親町公明、議奏中山愛親を追罰し、武家伝奏万里小路政房の役を免じた。光格天皇は痛憤したがついにあきめ、幕府の力に屈服した。この事件は朝幕関係に重大なしこりを残した。
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第9 回テーマ 修好通商条約調印の奏請
日時:令和4(2022)年2月26日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第九回テーマ]
令和四(二〇二二)年二月二十六日
午後一時より三時
東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
第二章 朝権の伸張
(『概観維新史』(P176-191)を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
第一節 修交通商条約調印の奏請
一 米国総領事ハリスの駐紮(ちゅうさつ/
駐留)
米国総領事ハリスの着任
欧米列強の圧迫に対して、我が開鎖の論は未だ帰一せず、国策の大本は既に決定せられたが如くで、実は曖昧模糊を極め、幕府の施設(策)は概ね倫安姑息に流れ、政局の情勢は不安疑懼に覆われて、其の動揺の兆しは益々著しくなって来た裡(内)に、歳は改って安政三(一八五六)年を迎え、神奈川条約締結後早くも二ヵ年を経過した。
是年の初秋、七月二十一日朝来たり、南伊豆の空は晴れて、天城の山領は遥かに白雲の揺曳するを見たが、午下り天候曇り、將に雨を呼ばんとする午後一時頃、星条旗を掲げた一軍艦が、突如として下田港に入った。これが米国提督ゼームス・アームストロング(James Armstrong)の坐乗する軍艦サン・ゼシントで、新駐日総領事たるタウンゼント・ハリス (Harris, Townsend) [i]を我が国に護送して来たのである。
先に米・英・露・蘭四国に条約の締結を認容して、纔(わず)かに当面の難局を彌縫(びほう/とりつくろう)し、双肩にかかる重荷の少々軽きを覚えた幕府は、茲(ここ)にハリスの渡来によって、再び苦悩の渦中に陥ることとなった。即ち幕府が先に条約の締結は国防の充実するまでの一時の権宜の策であると公表し、営々として其の強化を図っていたが、未だ其の施設が緒に就くか就かぬかの間に、早くも第二のペリーとも見るべき此の外客を迎えるのであった。
併し此の遠来の老客は、前年浦賀・神奈川沖
に来て我が方を脾睨(へいげい/威圧)したかの武勲の誉れ高きペリー提督とは異り、永く東洋貿易に従事して、東亜の事情に通暁(精通)した紐育 (New York)出身の一外交官であった。
彼(ペリー)が背後に堂々たる戦艦を列ね、多数の將卒に衛られて、終始威嚇胴喝を事としたに反して、此(ハリス)は僅かに一通辮(弁)官の蘭人ヘンリー・シー・ゼー・ヒュースケンと、外に数名の清国人従僕と共に下田港の一隅なる精舎(しょうじゃ/寺院)に駐まり、二ヵ年に亙(わた)る無援孤獨(孤独)の困難と闘い、日米国交に一段の進展を画したのである。
而してハリスは之を我に迫るに方っても、時に張硬な論陣を張って威嚇の言辞を弄しないでもなかったが、其の円熱せる才能と老巧なる機略と及び諄々(じゅんじゅん)条理を説いて他を説破しなければ止まぬ熱意と弁舌とを以て、其の使命の貫徹に努めた。
先に米・露・英三国の使節はしばしば、其の乗艦を江戸に進め、直接将軍と交渉すべしと言い張って、我が応接掛を脅したのであったが、ハリスは直ちに京都に赴き、御門(御所・朝廷)の御意を伺うべしと喝破して、幕府の最も懸念する急所を衝いた。
彼の駐紮と其の強要とによって、我が国は遂に国際場裡(関係の場)に進出して、列強と班を伍する(列強の一員となる)こととなったが、永く和戦・閉鎖の両端を持していた幕府は、外国の強圧に屈して、租法(鎖国[ii])を放棄し、国威を段損したものとして、熾烈な非難を招き、時局の艱難は一段の激化を加えるに至ったのである。
神奈川条約の不備
神奈川に於いて締結した日米和親条約は、単なる修交条約であって、通商関係を規定し想定したものでなかった。随って米国人の我が国に於いて貿易を営む権利を認めず、居住権もなく、且つ条文が頗る不備で、疑義が多く生じたのであった。
米国政府は条約改訂の必要に迫られ、安政二年六月二十二日(西暦一八五五年八月四日)、ハリスは、大統領フランク・ピアースから初代の駐日総領事兼外交代表に任命せられた。其の任務は通商関係の設定の外に、居住権其の他の既得権の確保にあったのである。
駐紮許否の議
幕府は米国政府が駐紮官吏を派遣したのに驚き、之が対策に就いて凝議し、ハリスの提出した信任状及び着任を報ずる書を受理しない事に決し、茲に両者の間に論争が起った。蓋(けだ/つまり)し幕府は神奈川条約の第十一条に「両国政府に於て據無き儀之有り候時は模様に寄り合衆国官吏の者下田に差置き候儀も之有る可し」とあるに依り、今別に急に官吏の駐紮を必要とする事情がないと言い、ハリスは条約英文には「若し両国の一方が斯かる手配を必要と認めた場合に之を置く」とあるのを指摘して譲らなかったのである。
斯くて交渉数日の後、幕府は遂にハリスの強硬な態度に屈し、姑(しばらく)柿崎村玉泉寺に上陸止宿せしめる事としたので、翌月(安政三年八月)五日ハリスは通弁官以下を随えて上陸し、翌日星条旗を下田港の一角に掲揚した。其の後幕府は、下田奉行等の議を容れて八月二十四日、ハリスの駐紮を認容する事に決し、旨を下田奉行に下し、九月七日之を朝廷に奏聞した。
二 幕閣情勢の変転
幕閣の開国的傾向
米国総領事「ハリス」の下田来着に先立つ十数日、蘭国軍艦メヂュサは長崎に入港して、我が朝野をして警戒せしむべき一警報を齋(もたら)し、長崎駐在の同国理事官グルチウスより之を幕府に報じた。其の要旨は、近く英国香港総督ジョン・ボーリソグが我が国に通商条約の締結を要請する為に来朝すべきを予告したもので、之に関して蘭国政府の見解を述べて、今や列強は我が国との通商開始を切実に希望している。若し強いて之を拒絶する時は、必ず多数の強国を敵として戦わなければならぬ悲運に陥るべきを断言し、先づ蘭国と通商条約を締結することを慫慂(しょうよう/勧める)したものであった。
当時幕府は、ハリスの駐紮強要に封する措置に悩んでいた際であるのに加えて、兼ねて最も警戒する英国より使節来朝の報に接して、列強の圧迫の更に加はり来るべきことを予想したのであった。
斯くて八月四日、幕府は急に評定所一座以下の有司に令して、交易の大本を如何にすべきやを審議せしめた。之に対して長崎在勤目付永井尚志・岡部駿河守長常は、英断を以て貿易の開始を決定し、以て国策の樹立と人心の安定とを図り、且つ速かに其の大綱を考究し、外使来れば我より進んで之を許可すべしと答申し、また大目付・目付は、方今の時勢、旧制を改めざれば、富国強兵の基本は立ち難しと論じた。
かかる事実は開国以来既に三年の歳月を経て、幕府吏員の中に漸く海外の情勢に目覚めた考えが増加し、また幕閣の動向も漸次変転したことを示すものである。
堀田正睦の外交事務選任
斯かる情勢の下に安政三(一八五六)年十月十七日、老中堀田正睦は外国事務取扱を命ぜられ、海防月番の専任と為り、外交事務を掌理することとなった。此の際の幕府申渡書に「近来外国の事情も之有り、此の上貿易の御差許し相成る可く儀も之有る可く候に付、外国事務取扱仰せ付けられ候」とあるを見れば、幕閣に於いて貿易の開始を已(や)み難しと為す論者が、漸次勢力を占め来ったことを証するものである。
尋いで二十日、正睦以下若年寄本多忠徳・勘定奉行川路聖謨・水野忠徳・目付岩瀬忠震・大
久保忠寛等の幕吏中の逸才を挙げて、外国貿易取調掛と爲し貿易開始に関する措置の調査を命じた。
かくて正睦を首脳とする幕府の外交陣は整備せられた。正睦は既述の如く当時蘭癖と称せられた程の人物で、其の意見は後段に述べるが如く、開国論であったので、島津斉彬の如きは松平慶永に与えた書翰に、外交の件は堀田の受持となったからには、いづれ交易開始となるべしと述べて、早晩幕府の対外策の変更せられることを予言している。
老中安部正弘の死と徳川斉昭の辞職
幕閣の状態が斯く変化したので、幕政に参与した徳川斉昭の所見と幕府当路の措置とは益々背馳し、阿部正弘の調和も亦昔日の如く効果を挙げ得ず、斉昭は不平不満の余り、遂に翌(安政)四年正月より登城しなかった。
尋いで正弘は同五月の頃から病臥して、終に同六月十七日、三十九歳で歿した。斉昭は其の訃を聞き、天下の事己みぬ、我また何をかなさむと浩歎し、松平慶永は、是より後誰に頼り、誰をか恃まむと痛惜した。
是に於いて幕府と斉昭との連絡は全く絶え七月二十三日、斉昭に其の辞意を容れられて、海防・軍制改革参与を免ぜられたのである。
斯くて九月、嘗て斉昭等に排斥せられて幕閣を退いた上田侯松平忠固(まつだいら・ただたか)[iii]は、再び老中に復職し、勝手掛として内政を專掌し、正睦の次席に列し、茲に堀田・松平を首脳とする幕閣が成立した。
而して此の幕閣は従来の例とは異り、徳川三家及び大廊下詰等の幕府の懿親(いしん/親族)諸候の後援を恃(頼)み得るものでなく、寧ろ其の殆んど全部から好感を寄せられぬものであって、其の背景は実に溜間詰諸侯であった。かかる情勢は内外庶政の遂行上、招来益々紛糾を醸さしめることとなったのである。
幕府の貿易開始内定
上述の如く、幕閣の情勢が漸次通商開始に傾こうとした際に、更に此の機運を促進せしめたものは、隣邦支那に勃発したアロー号事件[iv]の警報であった。即ち安政四年二月、蘭船によって、英軍が広東を焼払ったとの報が斉(もたら)されたが、長崎奉行は危倶の念に打たれて、蘭国理事官に就いて其の事由を質問した所、清国政府が外人を嫌悪し、条約を履行せぬ為に起ったものであるから、貴国に於いても、些細の事から釁端(きんたん/戦端)を開かぬやう注意すべきだと忠告せられた。
奉行は之を幕府に具状し、幕府も大いに省察して、外国事務専任の堀田閣老より手書を海防掛・貿易取調掛等に下して、「外国御処置之大本旨趣、隣国に交わる道を以て致さる可き哉、夷狄を処する道を以て致さる可き哉」と述べて、先づ外国を待つ(に対応する)の根本主義を審議すべきことを命じた。
又英国の動静に拘らず、貿易の開始を内外に
公表するの可否、貿易の利権を商人に委ねずして、幕府が積年の疲弊救済に充てる方法の考究等を命じた。
斯くて幕府は遂に世界の大勢に制せられ、且つ外国との衝突を回避するを希(こいねが)う余り、内治に紛擾の起るを顧みる遑(いとま)がなくて、通商の開始を決意したのであった。
日蘭追加条約
尋いで(安政四年四月十五日)幕府は、勘定奉行兼長崎奉行水野忠徳・目付岩瀬忠震を長崎に特派して、貿易事項の取調に從事せしめ、且つ蘭国政府の要求に応じて先に(安政二年十二月二十三日)調印を了し、批准交換未了の儘であった和親条約に対する追加条約の締結を行はしめた。蓋し幕府の底意は、忠徳等をして和蘭貿易の実績を参考して、先づ同国との間に通商条約を定め、將来諸外国の通商要請に備えようとしたのであった。
斯くて八月二十九日、忠徳等と蘭国理事官クルチウスとの間に折衝の結果、追加条約四十款及び添書二款が調印せられ、長崎の外に新に箱館に於いて貿易を許容し、貿易額及び入港船数の制限を撤廃し、船舶入港税・関税・禁制品目等を定めた。
但し其の主眼とすべき貿易の方法は、依然会所の直営とし、内外人間の直接取引き即ち勝手(民間自由)貿易は許さなかったのである。
日露追加条約
尋いで九月七日、忠徳等は更に露国全権プウチヤーチンの要求を容れ蘭国に均霑(きんてん/等しくする)せしめて追加条約二十八箇条に調印した。
三 日米通商条約の談判
先に下田に駐紮した米国領事ハリスの使命は、通商条約の設定と条約既得権の拡充とであった。而して米国政府の期待する通商規定は、米国とシャム国(タイ王国)との条約を基準としようとしたのである。
ハリスは、使命達成には江戸に赴いて直接幕府と交渉するを捷径(しょうけい/近道)であると看破し、着任の當初から江戸に赴くことを要請した。彼は此の目的を遂げる為に、我が国の為に重大事(其実は通商開始の切要なるを説くに過ぎなかった)を告げるであらうと称して、幕府の懇請したにも拘らず、容易に之を語らず、巧に自国の願望を秘して我が方を誘ふ好餌(こうじ)とした。
のみならず、英国総督の来朝説、またはアロー号時件等の勢力を假りて、我を脅威し、折衝実に一年余を費やした。
幕府は世論の反対を慮り、能ふ限り其の上府を避けようとしたのであった。
日米条約
ハリスは下田に在って、江戸訪問の交渉を重ねる間に、其の使命に就いての折衝を下田奉行との間に進めた。
彼は徒らに神奈川条約の不備・疑義に就いて論議を上下する迂(う/誤り)を避け、日蘭和親条約(安政二年十二月調印)に己れに利用すべき条款の存するを奇貨(*好機)として、最恵国条款によって之に均霑(平等)すベしとし、安政四年二月より下田奉行井上清直・岡田備後守忠養(ただやす)との間に交渉を重ねて、漸く五月二十六日、九ヶ条より成る条約書に調印した。
条約の要旨は、長崎の開港、米人の下田・箱館居住権、副領事の箱館駐紮、日・米通貨の同種同量の交換、治外法権・領事旅行権其の他領事及び領事館員の物品直接購入等であって、翌(安政四年)閨五月批准交換を了した。かくてハリスは、江戸に赴き、通商条約に関する折衝を行う前に、此等の権利を獲得したのであった。
ハリス江戸訪問の折衝
幕府は、ハリスの江戸訪問の要請が強硬且つ執拗なのに困却し、到底之を拒否し難きを予想したのであろう。既に安政四年正月、予め上府の際の諸準備を審議せしめたが、猶其の下田駐紮にすら非難多きに鑑み、其の上府によって
惹起すべき紛議を痛く憂えて、然るべき時機の到るまで之を延期せしめようとし、下田奉行井上清直等に命じて、極力折衝に努めしめた。
黙るに其の折衝が容易に進捗せぬ中に、七月二十日、米国軍艦ポーツマスが下田に入港した。
清直等はハリスが之に搭じて恣(ほしいまま)に上府するを慮り、速かに上府の期日を決定
することを請うたので、幕府は遂に其の期日を九月下旬と定め、接遇の儀礼等は簡素を旨として協議するよう指令した。
抑(そもそも)、外国使臣の上府・将軍謁見は、和蘭(オランダ)甲比丹(カピタン/長崎の出島オランダ商館の館長)の上府を除いては、二百年来曾(かつ)てない事であり、況んや他の強要で之を許すのであるから、幕府は諸侯の反対を緩和しようと試み、先づ三家・溜間詰諸侯に之を内達したが、水戸の斉昭父子・尾州侯慶恕(徳川・よしかつ)を始め、溜間詰諸侯は悉く其の不可であることを答申した。
幕府は此等の反対に顧みる遑(いとま)なく、八月十四日、諸侯以下に「寛永以前英人等を屡引見した先蹤(せんしょう/前例)に従い、また万国普通の常規に従い、米国官吏を上府登城せしめる」旨を公布した。
ハリスの上府
前年七月下田に着任して以来一年余の間、不撓(ふとう/困難に屈しない)の努力を以て使命の達成に努めたハリスは、今や漸く江戸訪問の機会を得て、十月七日の早朝、星条旗を先頭に立てて駕籠に乗り、幕吏及び多数の護卒に護られて下田を発し、天城の峰を越えて東海道を江戸に着し、九段下蕃書調所の仮館に入ったのは同十四日であった。
ハリスは、此の日の日記に「是れ余の生涯に最も記念すべき好日なるのみならず、日本の開国史上更に重要な記念日と言はねばならぬ。思うに、将軍が江戸に於いて外国使臣を引見するは、余を以て嚆矢(こうし/その起源)となすべく、而して余が企画しつつある通商条約の成否如何は、日本の国運に至大の影響を及ぼすであらう。余は将軍及び幕府の意向が万一鎖港に傾く事あれば、大使たるの威力を示して其の迷夢を一掃する決意を有す」と記している。彼の得意と決意がまさに躍如たるものあるを覚える。
ハリスの堀田邸訪問
尋いで同月(安政四年)二十一日、ハリスは江戸城に到り、將軍家定に謁し、国書を呈出し、二十六日、老中堀田正睦を其の邸に訪い、二時間余に渉って滔々教千言、宇内の大勢を論じて、鎖国孤立を墨守するの不可能なるを説き、英・仏の將に来り迫ろうとするを警告し、米国の東洋方面に領土的野心なきを強調し、米国の提唱に同意して、速かに条約を改訂せんことを勧告した。
其の新条約の主要条件として、公使の江戸駐紮と日・米両国人間の勝手貿易開始の二事を挙げた。
其の後、堀田正睦は、「今外国措置の諸意見に就いて考うるに、概ね苟安(こうあん/一時のがれ)の策か、或は粗暴の説で孰れも採るべきでない。宣しく万国と交際して、我が国を世界に冠たらしめる方策を樹つべきである」との添書と共に、ハリスの演述書を有司に下して意見を徴した。
儒役及び海防掛の大・小目付等はハリスの要求を承諾し、諸侯の異論は之を説得すべしと答え、評定所一座・海防掛の勘定奉行等は、諸候
に諮問し、且つ決定の趣旨は叡聞に達すべしと答申した。
幕府は更に諸侯にも米国「国書」、ハリスの「演述書」を示して意見を求め、また之を朝廷に奏聞したが、之に対する朝旨並びに諸侯の動向に就いては、之を後に述べる。
通商条約談判
十二月二日、堀田閣老は、其の邸を訪問したハリスに対して、公使の駐紮、貿易の開始を許容するも、開港場の増加には応じ難い旨を告げた。又談判の開始を約し、翌日下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震を、米国条約改訂談判委員に任命してハリスと折衝せしめることとなった。
かくて井上清直等は、ハリスと蕃書調所に会し、全権委任状の交換を行い、同十一日、第一回の協商を開き、爾後年内に十回の審議を行い、翌安政五年正月十二日に至り、第十三回の審議によって、条約及び貿易章程両案を議了した。
此の間清直・忠震の両入は、国際事情及び法規慣例に習熟しないにも拘らず、将来に不利を胎さない爲に、心力を傾倒して事に当り、しばしば、相手を驚歎せしめた程であった。
ハリスも自己の主張を貫徹する爲には、時に激語恫喝を用い、両者の論争は往々舌端火を吐くの光景を呈した。
初め清直等は蘭・露両国との追加条約を基準として商議しようと提言したが、彼が応ぜぬために、彼の提出した草案に基づいて審議を進めることとなった。審議条項中の難問は公使の駐紮地と開市・開港場の地点であった。幕府は公
使の江戸駐紮を避けようとしたが、ハリスは斯くの如きは、外人を侮蔑せよと国民に誨(教)えるものであるとて、強硬に江戸説を主張したので、我が方で漸く譲歩し、三年後に於いて駐紮することを許した。
開港・開市場に就いては、ハリスも条約中第一の難関であると言い、また勝手貿易は新条約の大眼目であるに、港を開かずして貿易を論ずるのは空談であると爲し、其の増加を翼い、条約革案には下田並びに箱館の外に、新たに大坂・長崎・平戸・京都・江戸・品川及び日本海方面に二港の開港・開市を要求した。
我(方)は之を減少しようと苦心し、特に京都の開市は朝廷との関係を考慮して、拒否に努め、彼の強要に対して、我も亦極力論弁し、遂に新に神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し、神奈川開港後六箇月で下田港を閉鎖し、江戸・大坂に開市して外人の商用の為に逗留し、家屋を賃借する事を許し、各開港・開市場は各、期日を定めて開放することに決した。
此の外に勝手貿易の規定・税則・禁制品目・遊歩区域・通貨問題等も多少修正の上、容易に議定された。
斯くて該(当該)条約は朝裁を経る必要から、其の調印を同(安政五年)年三月五日と協定した。
四 通商問題と世論
外交問題と世論の趨向
幕府は安政四年七月、將にハリスの上府を容認しようとして三家・溜間詰諸侯に内達し、其の反対に逢って、一般諸侯への諮問を中止した。尋いで発令によって、此の事を知った大廊下詰諸侯(阿州・津山・因州・明石)は、松平慶永の邸に会して、其の不可なる所以を老中堀田正睦に建白した。
また大広間詰諸候(仙台・藝州・弘前・土州・柳河・川越・濱田・久保田)も之に賛意を表せず、且つ米使の捧げた書翰に対する我が回答の趣旨を予め聞くことを請うて、国家の大事に深き関心を有する態度を示した。
更に十一月、幕府は、米国大統領の親書、ハリスの「口上書」及び同人の堀田閣老邸に於ける演述書を、諸侯に回示して所見を徴し、十二月ハリスとの応接書及び条約草案を内示して、貿易開始の可否を諮問し、特に歳末の両日諸侯に登営を命じ、老中堀田正睦は台慮を承けて、条約改訂の止むを得ざる所以を諭示し、且つ忌憚なく意見を開陳すべきを伝達して、海防掛諸員をして諸侯の質疑に答えしめた。
福井藩士中根雪江は、此の光景に、「廟堂殊の外御混雑にて、年の終の今日明日迄、諸大名を召集め給いて意見を尋ねさせ給えるなんどいへる事、建国以来聞も及ばぬ珍事」と目を瞠(みは)った。また以て幕府が如何に諸侯の意向に留意し、其の反対を緩和しようと努めたかが窺われる。
諸侯の群議
以上前後二回の諮問に対する諸侯の答申を通覧するに、其の所論は固より拒否・許容の二説に岐れているが、之を嘉永六年(ペリー来港時)に於ける際の諸侯の群議に比すれば、無謀とも評すべき攘夷論は殆んど見られず、米使の要求を許容すべしとする論が少くない。
特に第二回の答申は、正睦等の弁明これ勤め効験が現れたものか、貿易の開始も亦己むを得ぬと爲す者が多かった。併し之を以て直ちに幕府の措置を積極的に支持すると見るのは、固より大早計である。
今答申書の二三を挙げれば、徳川斉昭は幕府の措置が若し征夷の任に反すれば、朝廷・諸候に対して責を負はなければならぬと警告し、前年攘夷意見を答申した松平慶永は、方今の形勢、鎖国の維持し難きは具眼者(識者)に瞭然たる所であると喝破し、強兵の基礎は富国に在りと述べて、今後政策を改め、大いに互市を行うべしと論じた。
井伊直弼を始め溜間詰諾候は連署して、使節の要求は成る可く丈(だけ)減縮して之を許容し、江戸・京都・大坂等の開放を許すべからずと答え、黒田斉薄(なりひろ)は、試みに米使の請ふ所を悉く許し、武備を修め、外人を夷類視する弊風を改め、信義を以て外国と交るべしと言い、島津斉彬は、朝廷を尊崇し、武備を厳重にし、外人と互市を許し、邦人の海外渡航を許すべしと論じた。
また、仙台藩主伊達陸奥守慶邦は、朝旨を仰ぎ、諸侯と議して、米使の請を拒否すべしと言い、阿州藩主蜂須賀斉裕は、朝裁を経て之を許容し、内治の緊急に備える所あるべしと述べ、其の他、困州藩主池田相模守慶徳・備州藩主池田内蔵頭(うちくらのかみ)慶政も、先づ朝裁を仰ぐべき事を提言した。
斯く諸侯の多数が朝裁を仰ぎ、叡慮を候ふべしとしたことは時勢の何時しか変転して、朝権が大いに伸張せられた一面を語るもので、また殆んど全部が自強自衛の要を力説したことは、前年の建白と異る所がなかった。
五 条約勅許の奏請
林大学頭の上京
嚢に幕府はハリスの下田駐紮、其の上府・登城、蘭・露追加条約の調印を、共の都度奏聞したが、十二月六日(安政四年)、更にハリスの「演述書」及び「応接書(*議事録)」を進奏し、同十三日、米国に通商を許可し、其の公使駐紮、開港場増設の要求に就いては、談判の上で決定すべき旨を奏聞した。
而も幕府は世論の趨勢に鑑みて外交措置の経過を具さに奏聞し、且つ御下問に奉答せしめる爲に、林大學頭韑[v](あきら)・目付津田正路に上洛を命じた。
是より先、朝廷では外国勢力の圧迫が年と共に加重し、外交関係が益々、緊迫するを憂へさせられたが、殊にハリスの登城に深く御軫念(しんねん/心を痛める)あらせられて、勅諭を幕府に下し、国体を毀損せぬよう注意し給い、また七社七寺(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日各社・仁和寺・東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺[三井寺]・東寺・広隆寺の七寺)に国安を祈祷せしめられた。
今や通商開始の議あるを聞召されて、韑等の着京(十二月二十六日)前、幕府に勅して畿内及び近傍諸国に外国公使を駐紮せしめ、又は開港場を設ける事なきやう命ぜられた。
二十九日、韑等は、所司代邸で武家伝奏廣橋光成・東坊城聰長と会して、海外形勢の変転を説き、米使ペリー渡來以来の応接経過を縷述(るじゅつ)し、従来世上に説くが如く幕府の態度が必ずしも柔弱でないことを弁明するに努めた。
黙るに当時の京都は既に昔日の京都でなく、其の雰囲気は後段に述べるが如く、決して平穏なものでなかったから、幕府の一儒官で、且つ嚢に神奈川条約調印の首席全権として、世上で兎角の批評を蒙った林大学頭の言説は、到底堂上を動かずに足らず、翌安政五年二月には体よく帰府の暇を賜ったに過ぎなかった。
好事の時人は
東からはやし立られ登りつつ公卿に蹴られて恥を大がく
ごうけつと林たてられ京へ来て
大きなはぢを大学の守
などと落首して之を潮笑した。
堀田閣老上京の決意
是より先、老中堀田正睦は自ら上京して弁疏の衝(折衝)に当り、条約調印の勅許を得て、諸侯等をして幕府の措置に服せしめ、一切の反対を排除しようと決意し、既に安政五年、正月八日将軍家定の命を承け、また随員として川賂聖謨(としあきら)・岩瀬忠震(ただなり)等を伴うことに決した。
此の際正睦等の意気込は、幕府因襲の力を以て、容易に廷臣を威圧し、すぐに朝裁が得られると考へたものの如くである。即ち清直・忠震の二人がハリスに老中の上京、勅許奏講の事を告げて、調印期日の延期を求めた際、ハリスが若し勅許を得られぬ時は如何と反問したのに対して、二人は斯かる事は決して無しと断言している。
徳川斉昭は正睦の上京を、勅書を以て三家始め大名迄も押付けんとの心かと辛辣なる論評を試み、また当時孝明天皇の御信任厚く、材幹堂上中の第一人者と言はれた内大臣三條実万(さねつむ)は、正睦の上京を前にして「今度朝廷の御議論如何と、四方列国大小名以下四民に至る迄、誠に大旱(旱魃)の雲霓(うんげい/雲と虹)仰ぎ居り候」と記して、朝裁の如何が天下の安危に関する実に至重な契機であると述べている。
廷臣へ外交御諮詢
前関白鷹司政通は、正睦の上京に先だち、予め朝議を一定せんとの叡旨を奉じ、正月十四日左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕両大臣、三條実萬・権大納言一条忠香(ただか)・二条斉敬(なりゆき)及び議奏・武家傳奏等に、外交措置に関する意見を諮問し、尋いで現任の納言・参議等に命じて、同じく所見を上陳せしめた。
諸卿の答申は概ね米国を以て禍心を懐くものと疑い、国家未曾有の大事で、天下安危の関わる所と憂え、中には「下田開港は既に国辱なり/墨夷(アメリカ)の要求に従うは神州の屈辱なり」と言って「之を謝絶して戦とならば之を打沸うべし/武家一致、夷族を屈服せしめるよう勅諚あるべし」等硬論もあったが、諸卿答申の要旨は、国難に際して、人心一和の要及び畿内に於ける開港の不可なることを強調し、其の多数は「三家以下請侯の意見を徴して聖断あるべし」というに帰していた。
而して其の文辞は婉曲ではあったが、幕府の奏請を斥くべしとの底意は、充分に之を看取し得られるのであった。
天皇の御憂慮
此の間孝明天皇は痛く外交の事に宸襟を悩まされ、十七日、畏れくも宸翰を関白九条尚忠に賜いて、宸衷(しんちゅう/*天皇の胸の内)を告げ給えるうちに、「日本国中不腹にては、實々大騒動に相成り候間、夷人願い通りに相成り候ては、天下の一大事の上、私代より、加様の義に相成り候ては、後々迄の恥のはじに候半ずや、其れに付ては、伊勢始の処は、恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置き処無きに至り候間、誠に心配り仕り候」と仰せられ、又、「備中守(堀田正睦)今度上京候て、どうか献物の事、過日、尊公(関白九條忠尚)噂候、右に付、先比よりも申入れ候通り、実々右献物以ヶ程(いかほどの)大金に候共、其の眼くらまし候ては、天下の災害の基と存じ候、人欲兎角々々黄白には、心の迷者に候、心迷いも事によりては、其の限りにて斉み候え共、今度の義、実々心迷い候ては、騒動に候半ばす哉、右に付、私を於いてはヶ躰を以てにても受け間敷く存じ候」と仰せられた。
同じく廿六日、重ねて宸翰を、尚忠に賜い、幕府の奏請を斥け、あまねく衆議を尽くして人心を帰服せしめることを主とし、決して幕府の要請に屈せず、言論を悉(つく)すよう再び諭し給うた。
斯くの如く正睦の入京に先だち朝廷に於いては、畏れ多くも天皇を始め奉り、廷臣の間には幕府の奏請に対して反対の氣勢が強かったのである。
京都の情勢
堀田正睦は正月二十一日、聖謨・忠震等を随えて江戸を発して京都に向った。按ずるに徳川氏の覇業が家康以降三代の間に牢乎(確固)たる基礎を築いて以来、家綱及び其の以後の將軍で朝覲(ちょうきん/天子にまみえる)したものはなく、老中すら上京した者は稀有であった。況んや国政の大事に就いて朝裁を仰ぐ爲に首座の老中が自ら属僚を率いて闕下に伏奏するが如きことは之を絶無とする。
幕府創始後二百五十五年の星霜を経て、其のの権威は漸次衰頽し、所謂、「強弩の末魯縞を穿つ能はず(漢書/強者も衰える意)」、未曾有の国難に逢遭し独断専行能く民心を繋ぐを得ないで、朝威を藉(借)って纔かに難局を収拾しようとするに至った。これは幕府が愈、陵夷(りょうい/衰える)して朝権が益々伸張せられたことを示すものである。
宝暦(宝歴[vi]・明和事件[vii])・寛政(尊号事件[viii])以降公家の間に脈々として躍動し来った皇室の尊厳、自己の地位に対する自覚が、何とて將に澎湃(ほうはい/とうとう)として士庶の間に淘湧(きょうよう/湧き上がる)しようとする尊王攘夷論の爲に、一増の刺激を受けぬことがあろうか。固より縉紳(しんしん/*堂上人)のうちには宇内の大勢・時務に通ぜぬ迂遠の人も少くなかったであらうが、従来永らく単に理論に過ぎなか尊皇攘夷論が、今や緊張せる現実に対する実際運動と化しようとする際に、争でか公家のうちに慨然として朝権の復興を以て己れの任とする者が現れないでいようや。
然り、京都は既に決して昔日の京都ではなかった。されば若し堀田閣老が其の出発に際して、松平慶永に滞京旬日で能く使命を果し得るであらうと予言した如くに、往時の京都を夢み、幕府伝統の威力、黄白(金銭)の誘惑及び国家の危急を説く弁舌を以て、廷臣諸卿を圧伏緘黙せしめ得ると考えたならば、それは未だ京都の実相を詳かにしなかったに基づく重大な錯誤であって、彼が実地に臨んで事の意外なのに困惑した所以であった。
而して京都の情勢を斯くも急激に変化せしめた裏面には、三四の雄藩の所謂京都手入と草葬の志士の入説とがあったことは、特に注意すべきである。
諸侯の手入に就いては、之を將軍後嗣問題の条下に説くを便宜とするので、茲には専ら外交問題に関する徳川斉昭の京都手入を概述するに止める。(P191まで)
以上
第十回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢を問わずど
なたでも参加できます
日 時 令和四年三月二十六日(土)
午前十時から正午
会 場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
[i] タウンゼント・ハリス アメリカの外交官。幕末の駐日大使。兄と共に陶磁器輸入商を営む。社会事業に奉仕。ニューヨーク市教育委員長となり、後にニューヨーク市立大学を設立した。次いで清国に渡り、商業活動に従事する。安政元年、寧波(ニンポー)領事となる。ペリーが結んだ日米和親条約(嘉永七{一八五四}年神奈川で調印)を実施・拡大する使命を帯びて駐日総領事として安政三{一八五六}年七月に下田に着任する。幕府に通商条約の調印を迫り、安政五(一八五八)年六月、同条約の締結に成功する。文久二(一八六二)年四月解任されて帰国する。著書『日本滞在記』
[ii] 鎖国 信長・秀吉の時代は、わが国がヨーロッパ人とはじめて交渉を持った点において画期的であった。南蛮貿易が行われ、主として九州地方諸大名に軍事的、経済的に巨大な富をもたらした。当時、新大陸の発見とインド航路の開拓で、スペイン・ポルトガルの海外進出が活発に行われ、とくにポルトガルは十六世紀初頭にゴアを占領し、マラッカからマカオまで到達していた。日本人のヨーロッパ人との出会いは、キリスト教との出会いでもあり、貿易の利益の追求は、九州地方を中心として急速なキリスト教の受容を促した。しかし、徳川幕府は幕藩体制を完成させるためにキリスト教と日本人の海外渡航とを禁止し、貿易を幕府の管理下に独占しなければならなかった。家康の死後、民衆の間にキリスト教が広まり、農民統制の徹底に不安を与えることになる。寛永十四(一六三七)年、農民一揆と結びついて起きた「島原の乱」は、信徒の結束力を示し、これに対する徳川幕府の鎖国体制が「租法」として徹底されることになる。ここには、幕府による九州長崎、畿内諸都市の掌握、禁教を通じて国内の人民を統制するという目的があった。
[iii] 松平忠固(まつだいら・ただたか) 姫路藩主酒井忠実(ただざね)の次男。上田藩(信濃国小県[ちいさがた]郡)藩主(天保元年藩主相続)。天保五年四月奏者蕃、同九年四月寺社奉行、弘化二年大坂城代となり、従四位下に叙せられた。嘉永元年老中職を命ぜられる。幕府はこの時まで海防掛は安部正弘(備後福山藩主)・牧野忠雅(越後長岡藩主)の二人であったが、松平忠固および松平乗全(のりやす/西尾藩主[三河国])を加えて四名とした。当時多くは攘夷論に傾いており、開国論を主張したのは、閣老首班安部正弘および末席松平忠固のみであった。この時、徳川斉昭の容喙を斥け、幕府の意見を貫いたのは、主として松平忠固の力に基づいたと言われる。安政二年八月、職を免ぜられた。同四年九月、再び老中の次席に列せられ、名を忠優(ただやす)から忠固と改める。忠固は外国交易のごときは家康以来、一にみな幕府専断に出で、朝裁を奏請した事はなかったことに準拠すべきであると考えていた。安政五年四月、井伊直弼が大老となり、六月十九日、ハリスよりの調印要請に対する会議の席上、忠固は即時調印を主張し、閣老皆賛成し、神奈川でハリスとの間に通商条約の仮条約に調印した。そして二十三日、忠固は老中職を免ぜられた。安政六年九月、年四十九歳で没。
[iv] アロー号事件 イギリス船籍の『アロー号』の中国人船員を清朝官兵が逮捕したことにより発した清とイギリス・フランスとの戦い。「第二次アヘン戦争」とも言う。「南京条約」以後イギリスは更なる通商上の利権をめざして華北。華中への進出を図ろうとして、江西省で宣教師を殺害されたフランスと共同して出兵した。英・仏軍は一八五六(安政三)年七月、広東を占領。五八(安政五)年、天津に迫ったので、太平天国の乱に苦しんでいた清朝は、天津条約を結ぶ。翌(五九)年の批准使砲撃事件で戦闘が開始され、六〇年、英仏連合軍は、北京を占領し、皇帝の在所、円明園を廃墟と化した。清帝は、熱河に避難し、同年英仏と「北京条約」を結び、さらに和議を仲介したロシアとも条約を結んだ。
[v] 林大學頭韑 林復斎のこと。「韑(あきら)」は「諱」。復斎は「号」。嘉永六年、五十四歳にして本家大学頭家を継ぐ。復斎は、幕府に日本全権の応接掛(特命全権大使)に命ぜられる。復斎は、ペリーの開港要求を前にして、永禄九年から文政八年に至る対外関係史料を国別・年代順に配列した『通行一覧』(三五〇巻)を編纂し、また各藩大名の歴史をまとめた『藩鑑』を編集した。復斎は町奉行井戸覚弘(さとひろ)とともに応接掛として、老中安部正弘から任命され、横浜村で「日米和親条約」(神奈川条約)の交渉に当った。実際の交渉は漢文で行われたため、漢文力を買われ、主な交渉をまかされることとなる。復斎はすでに当時の諸外国の動静を理解しており、鎖国(海禁)体制の現状維持は困難と考え、異国船への薪水食料の給与程度はやむを得ずと判断し、ペリー艦隊との交渉でも柔軟に対応した。ただし、「通商条約」については時期尚早として断固反対した。復斎は、米国艦隊との交渉記録を『墨夷応接録』にまとめている。岩瀬忠震(ただなり)、堀利煕は甥にあたる。
[vi]宝歴事件 竹内式部は、朝廷の尊王論者が幕府に処罰された事件。桃園天皇の近習徳大寺公城、久我敏通ら堂上に日本書紀や儒学を講じた。幕府専制に不満をもっていた少壮公卿は、桃園天皇にも式部に進講させた。これに対し関白一條道香は、公卿の武術稽古禁止を理由に、式部を京都町奉行所告訴する。公卿たちは罷免・蟄居となり、式部は重追放に処せられた。
[vii]明和事件 明和四(一七六七)年、江戸幕府が謀反の疑いで山縣大貳と其の門人ら三十人余を処刑した尊王運動弾圧事件。
[viii]尊号事件 寛政元(一七八九)年、光格天皇が父の典仁親王に太上天皇の尊号を賜りたい旨、江戸幕府に希望した際、老中松平定信が皇統を継がない者に尊号を受けるのは皇位を私するものとして拒否した事件。
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第8回テーマ 幕府の対策と政局の推移(下)
日時:令和4(2022)年1月22日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第八回テーマ]
令和四(二〇二二)年一月二十二日
午後一時より三時
東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
第一章 孝明天皇の初世
(『概観維新史』(P143-175)を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
第五節 幕府の対策と政局の推移
毀鐘鋳造砲の太政官符
国防の充実計画に方(あた)り、鋳砲の急務が論ぜられるのは、当然である。幕政参与である徳川斉昭は、銃砲は攻守第一の利器にして、彼専ら是を以て我を劫(脅)す。時は、我も亦是を以て彼に応じなければならぬと論じ、宇和島藩主伊達宗城[i]も上書して、洋蛮に対しては、実用弁利の大砲を製造し、玉藥等も充分に予備すべきを説いた。
幕府も亦鋭意之を整備しようとして、佐賀藩に大砲五十門の鋳造を依頼し、また湯島桜之馬場に鋳砲場を設けて自らその鋳造に当り、徳川斉昭の天保年間に鋳造した七十四門献納の請を允(許)し、反射炉[ii]建設の資金として、水戸藩に一万両を貸与して之を奨励する等、専ら鉄砲の事を勧奨したのである。
斯くて水戸・薩州・長州・佐賀・松代等を始め、大小諸藩は競って鋳砲を志し、江戸・大坂等に於いては銅鉄等の鋳砲材料の騰貴を来すに至った。茲に安政元年、幕府が(*朝廷に)太政官符(*令)を奏請して、毀鐘鋳砲の令を公布した事は、極めて意義の深いものがある。
徳川斉昭の提唱
此の事の主唱者は、やはり徳川斉昭であった。斉昭は嚢に天保年間領内の梵鐘を毀(やぶ)って銃砲を鋳ることを強行し、僧侶等の反感を受けて、弘化元年の幕譴を蒙る一因となった。然るに今や眼前に鋳砲の必要に迫られて、其の資材の欠乏を憂え、夙に銅製器具の製作禁止を幕府に建議したが、毀鐘鋳砲の令を天下に布くの必要を痛感し、しかも往日の失敗に鑑みて、勅許を請い、朝威に頼って之を断行せしめようとし、此の意を姻戚関白鷹司政通に通ずると共に、その旨を幕府に建議したのである。
此の種の考案は他にもあった。即ち小普請窪田治部右衛門[iii]は、寛永年間大仏を鋳潰(つぶ)して鋳銭した例に傲い、国家の大事に備える所以を諭示して、毀鐘鋳銭を行えば、軍用の一助となって、衆生利益の仏意にも叶い、後世に其の英断が感賞せられるであらうと建白している。
太政官符の発布
幕府は斉昭の建議を容れ、毀鐘鋳砲の議を決し、安政元年十月、老中阿部正弘は、上奏の文案を斉昭に提示した。斉昭は之に朱批を加え、且つ此の事は近来の英断ではあるが、緇徒(しと)/僧侶)等は必ず轟々として反対する処があるから、先づ確乎不動の幕議を定め、中道で動揺する事のないやうにと戒告した。
正弘は更に其の文案を修正し、將軍家定の許可を経て、同月廿九日、所司代脇坂淡路守安宅[iv](やすおり/龍野藩主)に令して、海防の充実を期する上には切実の必要であるから、已むを得ず常時使用していない諸国寺院の梵鐘類を大砲に改鋳する令を、朝命を以て公布したき旨を奏請せしめた。
十一月十二日安宅は、之を闘白鷹司政通に進達するや、政通は之に賛意を表し、仏徒と雖も異邦の産ではないから、衆生済度[v]の仏体同事に取計うても敢て故障を受くべき筋はあるまいと答え、之を奏上して諸卿に意見を徴した。
議奏廣橋光成(前権大納言)は、己むを得ぬ場合であるから、霊物名器の外であれば、公武の沙汰を以て改鋳しても子細はないと答え、前権大納言橋本実久(さねひさ)・権大納言久我(こが)建通(たてみち)等も孰れも之に賛意を表した。
是に於いて朝廷からは勅許の内慮を安宅に伝え、且つ諸国寺院の反対は、幕府からよく説諭すべしと命ぜられた。是に於いて幕府は更めて朝旨を奉承すべきことを奉答して、宣下あらん事を奏請し、ここに同年十二月二十三日、太政官符が発せられたのである。
官符の全文は左の如くである。
太政官符五畿内七道[vi]諸国司
諸国寺院の梵鐘を以て大砲小銃の鋳造に応ずる事
右正二位権大納言藤原朝臣実萬(三條)、勅を奉じて宣を行う。夫れ外寇事情、固より深く宸襟を悩まされ所也。況や緇素(しそ・僧侶)に於いて何ぞ差異有る哉。頃年墨夷(アメリカ)再び相模海岸に乗り入れ、今秋露夷(ロシア)畿内近海に渡来す。[vii]国家急務只海防在るのみ。因りて諸国寺院の梵鐘を以て大砲小銃の鋳造を欲す。海国枢要の地を置くに、速やかに諸国寺院各時勢を存せしめ、不慮に備えんと欲す。本寺(本山)の外、古来名器及び時を報ずる鐘を除き、その他悉く大砲に鋳換え、皇国擁護の器と為すべき。辺海無事の時に及び復又宜しく兵器を銷(と)かし以て鯨鐘と為すべし。異議存すべからざるは、諸国承知、宣により之を行う。符奉行に到(いた)る
権右中辯正五位上兼行左衛門権佐藤原(みなもと)朝臣(あそん)判
修理東大寺大佛長官從四位上行中務権少輔(ごんのしょう)主殿頭兼左大史小槻宿彌(おづきすくね)判
奉
安政元年十二月二十三日
思うに外讐に基づく非常時局に際し、王朝の昔に復(もど)して太政官符の発布を見たのは、実に国家の重大事に朝権が発動したものと為すべきである。中務権少輔壬生輔世(すけよ)は之を許して、「此事眞實施行、諸国年久しく中絶也。今度再興の基と為る哉、幸甚の至り也」と言った。
此の後幕府に於いては官符の施行に就いて有司の意見は区々で、或は官符の文を以てすれば、朝廷が自ら天下に号令せられ、政令あたかも此所から出づるが如き嫌があるから、文意の修正を奏請して、旨を幕府に宣達せられ、幕府より直接諸侯・寺院等に命令するよう改められんことを翼う者があり、或は仮令(たとえ)朝命であっても、若し一概に寺院を厳制して、強硬の措置に及べば、仏法に依って信仰の固結する人心を激動し、政教を害する処があるから、布告文に注意を加えて其の誤解なからしむべしと言い、其の他之を非議する者が少なくなかった。
斯くて本令は猶容易に発布せられなかったが、徳川斉昭は翌安政二年正月書を阿部正弘に寄せて、重き勅命を久しく停頓(滞)せしめることの不可なるを説いて、速かに発布せん事を促した。
其の後猶審議が重ねられた結果、漸く同年(安政元年)三月三日、幕府は官符を海内に布告して、海防のために毀鐘鋳砲の御沙汰を拝したのであるから、よく心得て趣旨の貫徹に力めるよう戒諭した。
然るに本命令発布後、諸国の僧侶等は果して動揺し、或は集会を開き、或は各寺に移牒し、將また天台座主宮輸王寺宮[viii]に歎訴する等、不満愁訴の声は囂然(きょうぜん/騒がしい)として四方に起るに至った。幕府は更に梵鐘の収容に関する施行方法を定めて、幕領に於いては悉く之を幕府に収め、萬石以上の領邑に於いては其の領主に任せて適宜に改鋳すべしと為し、其の実施が将に緒に就こうとしたが、偶々、同年(安政元年)十月二日、江戸に大地震が起り、人心にも大なる変化を来し、幕府も之が善後措置に逐われ、改鋳実施を顧みる遑(いとま)がなかった中に、年月は経過して、本令は遂に其の実施を見ないで止んだのである。
かくて此の令は龍頭蛇尾に終わったのであるが、幕府は世論に順応して機宜(きぎ/順当な)の政策を遂行する爲に、朝威を籍(か)りたことは、頗る注目すべき事でなければならぬ。
四 外交問題を繞る朝幕関係
朝廷と国家重大事
曩に弘化三(一八四六)年八月(*八年前)、朝廷は海防厳修の勅諭を幕府に下し、仮令国政を幕府に御委任に在っても、国家の危機に際しては之を指揮あらせられ、我が国本来の面目を明示し給い、幕府も聖旨を奉承して、外国応接の事情を委曲復奏した。
尋いで嘉永三(一八五〇)年十一月にも亦同じ朝命が幕府に下った。
斯くて国家の非常時に際しては朝命を候(そうろう/従う)すべしとの世論が、自然に涵養せられて来た。同六年六月、ペリーが意外に早く江戸湾を退去した理由の一には、幕府が朝廷に奏聞し、諸侯に諮問する必要ありと称して、談到を延引する策に陥ることを倶れた爲であり、また露国国書に答える幕府の書にも、朝廷に奏聞する必要あれば、回答の遅延すべき旨が記され、海防大号令の発布に就いても、閣中に斯かる大事は朝廷に奏聞すべしとの議を建てる者があった。
以て如何に朝廷が国政運用の上に進出して来られたかを知るべきである。
米艦の来航奏聞
されば嘉永六年六月、米艦の浦賀に来航するや、幕府は之が爲に軫念在らせられん事を慮り、直ちに所司代脇坂安宅に命じて之を奏聞せしめた。
即ち安宅は、「六月十五日来鑑に就いては深く憂慮すべき事態にも立ち到らぬとは予想すれども、近来しばしば外船が来航することであるから、或は国体に拘る事なしとも測り難いので、幕府に於いても充分に防禦の策を講ずる」旨を奏聞し、且つ安宅の気附として「叡慮を以て外患の祈祷を仰出さるべきや否や」を候し奉ったのである。
此の事が天聽(天皇)に達するや、孝明天皇は痛く震襟を悩まさせ給い、直ちに七社七寺[ix]に七箇日間の祈祷[x]を命ぜられ、幕府に対しては、「防禦の事は幕府に於いて格別厳重に措置する趣なれば、別條なき事と御安慮在らせられるも、萬一国体(天皇)に拘るが如き事があっては、誠に御不安に思召されるので、七箇日の祈祷を仰出された」旨を宣達あらせられた。
米艦の退去奏聞
尋いで同月二十日、安宅は幕府の命を承けて米艦の退去を奏聞し、且つ外患の祈祷は異国船調伏の先蹤に依って、其の退去にも拘らず、なお継続して神国の光輝を益々顕(あらは)されたき旨を奏請した。朝廷は之を允(いん/許)させられ、四海の静謐、万民安穏の為に祈祷を継続せらるべきこと、並びに米艦の退去に依って、叡慮を安んぜられた旨を仰出されたのである。
米国書の訳文を上る
然るに七月十二日(安政三年)、幕府は更に所司代をして米国国書の訳文を上り、実に容易ならぬ事で、幕府に於いても種々、評議を重ねているが、誠に国家の一大事であるから、叡聞(天皇)に達する旨を奏し、且つ国書の受理は全く一時の権道(方便/一時しのぎ)であることを奏聞せしめた。
斯かる幕府の奏聞は大いに廷臣を驚愕せしめ、武家伝奏三條実萬は、驚愕極まりなしと言い、前穫大納言東坊城聡長は、米国の書札が不文且つ礼意を失している、然るに幕府は回答をなし得ず、明年の夏を約束したそうであるが、是れ天下政機(政治的基本)を失するものというべしと、幕府の優柔不断を概歎している。
かくて委曲を叡聞に達し、爾後しばしば之に処する事宣(対策)がせられた。
外交に関する朝臣の意見
關白鷹司政道は米国国書の趣旨は平穏で信義あり、決して憎むべきではない。往古諸国と往来通信した先蹤もあれば、今日交易を開くも、敢て子細(しさい/問題)はなかろう。或は斯かる説は寛(ゆるやか)に過ぎるとの衆評もあらうかと述べて、長崎一港を限り、貿易を許容すべき意見を建て、且つ「外交処置は幕府の商量(扱う)する所であるから、米国要求の許否如何に就いて、朝廷から左右する事もなし難かるべきか」と言って、幕府の措置に容喙(ようかい/口出し)せぬ態度を示した。
一代の耆宿(きしゅく/徳望のすぐれた人)たる鷹司関白の此の異数(極端な)の見解は、相当に朝議に影響すべきであったらうが、多数の廷臣は之と反対の意見であった。
三條実萬[xi]は之に対して「此の論是か否か、愚昧にして決し難きも、虜情後代の害恐るべきもの歟」と言って前途を危み、且つ幕府の宰領(しょうりょう/事の処理・判断)に放置するの不可を切論して、「幕府が議事を商量するは、朝廷に於いて奈何ともし難きことながら、国家の大事に至っては公武を論ぜず、国政全般に対して憂国の至誠を抱く者が黙止すべきであらうか」と述べ、権中納言鳥丸光政・議奏久我建通(権大納言)は孰も同様の意見で、建通は其の日記に政道の意見を評して「彼国の金を取り、此国を富さんなどとは、扨々心得方悪しく三歎(さんたん)すべきである。終には此国の蠶食(さんしょく)せられる事を心得ざる歟(か)、歎ずべし云々」と記している。
外交に関する朝議
尋いで鷹司關白は叡慮(天皇の意見)を奉じ、議奏・傳奏を会して「外交の措置に就いて、若し幕府から宸裁を奏請して来た際、両役の議論が区々では不都合であらうから、予め其の所見を一定する要があらう」と諭して、評議を開いた。政通は依然開国説を執り、当時の武士は怠惰怯懦(きょうだ/卑怯)であって、所詮外国に敵し難からうから、それよりも寧ろ交易を許して、利を挙げた方が上策だと主張した。併し参集の諸卿は悉く不同意であって」、三條実萬は、「人々の按ずる所と齟齬の説、其の是なる所以は凡愚の及ぶ所でない。関白の命ずる所悉く以て甘心せぬ。執政の臣が異類(海外勢)の虚偽に沈溺するは悲歎すべきである。併し今所見を開陳するも益なからむ。言う莫れ々々」と其の手記に書している。以て朝議に於ける関白が自説を固執した状が想像せられるであらう。かくて朝議は大体政通の意見通りに決し、七月二十二日、伝奏三候実萬・坊城俊明は所司代邸に至り外国一件を叡聞に達したるに、国政は兼て関東に御委(まか)せの事なれば、特に御措置は在らせられぬが、米国使節再渡の際に於ける取扱如何は、諸社御祈念の叡慮も在せられるので、予め聞召され置かれたき旨の内旨を宣達した。
幕府は其の措置の内定を待って直ちに奏聞すべきを復答したのである。此の間に畏れくも天皇は深く国体が損せられ、禍患が胎される(きざし)ことを宸憂あらせられたが、此の後に於いても時々関白・議奏・傳奏を召されて諮詢あそばされた。
尋いで露艦長崎来航の説が京都に伝はるや、八月十六日、鷹司関白は武家伝奏をして虚実を禁裡付武士に問はしめたので、翌日所司代より其の実事にして、国書を受理する旨を奏聞した。是に於いて叡慮は益々安んぜられず、神宮始め諸社への祈願をしばしば仰せ出されたのである。
勅使東下と外交垂問
是より先、七月二十二日、將軍家慶の喪が発せられたので、二十六日、廃朝[xii]五日を仰せられたが、十月二十三日、権大納言兼右近衛(うこんえ)権大将徳川家祥を征夷大将軍と爲し、内大臣に任ぜられ、名を家定と改めた。尋いで十一月、勅使三條実萬・坊城俊明を江戸に遣して、將軍の宣旨を傳達せしめられるに際し、幕府がなお対米措置を決し得ず、人心動揺する由が伝ったので外交事情を尋問せしめられた。
依って同二十七日、実萬等は城中に於いて老中安部正弘に会し、対米措置について深く軫念在らせられる旨の御沙汰書を授け「外交の事は誠に神州の一大事であるから、益々、衆心を堅固にして国辱後患のないやうに努力すべし」との叡旨を宣達した。
正弘等は恐懼して「將軍は只管叡慮を安んじ奉るを念(精神)とし、有司も亦其の意を体して熟慮対策を決せんとしている。若し朝延に於いて思召の程があれば、御遠慮なく仰出しを願いたい」と答え、一意朝命を遵奉する旨を誓い、詳細に外交事情を陳疏したのであった。
かくて十二月、勅使が帰洛して復命するや、鷹司関白は米使再渡に対する幕府の布達(所謂海防大号令)を朝臣に示し、外患の為に痛く宸襟を労し給い、神州を汚さず、人民を損せぬとの叡願を以て諸社に祈祷を仰出され、明年は月次の和歌御会をも停止し、祈願の諸社に於いては、法楽(法会)の和歌を講じて神慮を慰め給う思召であることを諭告したのである。
尋いで翌安政元年四月、幕府は米国と和親條約を締結した顛末を奏聞するに及んで、天皇は深く之を憂慮あらせられ、朝臣の間には大いなる衝動を惹き起こした。
東坊城聰長は其の日記に之を非議して「統べて米使の要求を許容したのは神国を汚すものである。當初からかく平穏の措置に出る程なれば、何も諸侯国々の兵を動かす要はない。警備々々と称して、徒らに之を疲弊させながら、今に及んで彼の要請を容れ、剰へ二港を開くとは神明に対して何の顔がある。悲嘆々々。皇国の汚辱之に過ぎるものはない。惧るべし。催るべし。徳川家の政事も滋に至って終焉である」と論じた。
閏七月、鷹司関白は、叡旨を奉じ、軍備拡張の勅諭書を幕府に達した。其の大意は、
過般来米艦滞泊中は彼是自儘背制の所業もあったが、武備不充分の爲に余義なく平穏の措置に出たのは、已むを得ぬこととは思召すのである。併し此の上にも外侮を招き、諸夷相踵(つ)いで渡来するに至れば、国家の疲弊、国体の汚損を深く軫念あらせられる。近年災異が荐(しき)りに至るも天譴と深く御慎みあり、厚く神明の冥助を祈願あらせられんとの叡慮である。幕府に於いても警戒に弛みなく、弘化三年八月の勅諭を奉戴し、全国の力を尽して神州の瑕疵とならぬやう指揮すべし。
と、此の頃頻発する天変地殃即ち旱魃、彗星の出現、皇居炎上、近畿・関東の地震等にも、深く御謹慎在らせられると共に、禦侮の籌策に就いて、厳諭を幕府に下されたのである。叡慮の程誠に恐懼に堪えぬ所であるというべきである。
京都及び近畿の警備
外交問題に件って京都並びに近畿の警備が朝幕間の重要な案件となった。
曩に嘉永六年十一月、勅使三條実萬等が、江戸城に於いて老中阿部正弘等と会談した際、京都の警衛を一層厳にするよう内慮を達し、正弘等は之を奉承した。
翌安政元年二月、朝廷は重ねて幕府に之を督促せられ、また鷹司関白は内旨を徳川斉昭に伝えて、幕府を督励することを求めた。幕府は所司代脇坂安宅に之が調査を命じ、安宅は京都町奉行・伏見奉行等に意見を徴して具申する所があった。
四月幕府は先づ彦根藩主井伊直弼の羽田・大森(武蔵)の警備を解いて、専ら京都警衛に当らしめ、尋いで膳所藩主本多隠岐守康融(やすあき)・高槻藩主永井飛騨守直輝(なおてる)に同じく京都を衛らしめた。
九月、露艦ディアナが突如摂海に闖入して京幾を擾がすに及び、幕府は益々、京畿防備の忽(ゆるが)せに出來ぬを覚り、十一月、更に小濱藩主酒井忠義・郡山藩主柳澤時之助を京都警衛に加へ、更めて康融・直輝及び篠山藩主青山下野守忠良・淀藩主稲葉正邦に京都七口[xiii]の警備を命じ、別に紀州藩主徳川慶福(家茂・参議)・徳島藩主蜂須賀斉裕・明石藩主松平兵部大輔(たいふ)慶憲に摂海沼岸の要衝を戍(守)らしめ、宮津藩主本荘伯耆守宗秀・田邊藩主牧野豊前守誠成(たかしげ)・峰山藩主京極備中守高富(たかとみ)に京都北方の各領内沿岸の警備を命じ、且つ加太浦(紀伊)・由良・岩屋(以上淡路)及び明石(播磨)に砲台を造築して大坂湾の防備を厳にした。斯くて京都及び近畿の警備は、江戸及び江戸湾警備と略、均衡を得るに至ったのである。
朝幕関係の一新
以上叙述し来った如く幕府は朝旨を奉じて、外交措置に就いて委曲を奏聞し、また京畿の警備にも力を注いだのである。
尋いで安政二年七月、新に禁裏附に任命された都筑峰重の赴任に際し、老中阿部正弘は米・露・英三国との和親條約書の謄本を授け、特に峰重が曩に下田奉行在任中親しく折衝に当って事情を熟知しているので、関白以下議奏・傳奏に外交事情と開国の已むを得ない所以とを開陳し、之を叡聞(天皇)に達するよう命じた。
依って九月十八日、峰重は所司代と共に参内し、鷹司関白及び議奏廣橋光成(前権大納言)・萬里小路正房(権中納言)・武家傳奏三條実萬・東坊城聰長(ときなが/前権大納言)に見(まみ)え、具さに其の使命を陳述し、質疑に答えた。かくて同二十二日関白は所司代を招き、左の叡旨を伝えた。
幕府段々の処置を具さに聞召され、殊の外叡感あらせられ、先づ以て御安心遊ばさる。容易ならぬ事情が、斯くまでに折り合ったに就いては、千萬苦労であったことと思召さる。尚此の上の取扱は国体に拘らぬやう努めるべき旨を将軍に申し伝えるように。また老中其の他掛員の心労の程も御推察遊ばさる。
と、誠に優渥(ゆうあつ/厚い)なる御沙汰を賜はり、なお爾後の措置を怠らず努力すべきやう依頼し給うたのである。
斯くて嘉永六年末米使渡来以後の朝幕の関係は頓(とみ/急に)に一変し、朝廷は国家の大事に就いて幕府をして一々之を具状せしめ、聖諭を下して其の措置如河を諮問し給うた。幕府も亦慎んで臣節を尽して其の委曲を奏聞し、また叡旨を奉戴したのである。
斯くの如きは之を既往に徴しても其の例がない所であって、非常時局に際会し、朝権が俄然伸張し来ったことを如実に語るものでなくて何であらう。
安政の開国は上述の如く、一応は朝廷の諒解せられる所となったが、益々多事多端の時局の推移と、幕閣首脳の更迭等に依って、之に件う朝幕関係も愈、複雑となり、後日に至っては決して順調に進展するものではなかったのである。
五 開国後の幕閣情勢
神奈川条約調印後の幕閣動揺
曩に幕府の海防参与を命ぜられた徳川斉昭は、閣老阿部正弘の調停に依って時に妥協的態度を示したが、猶対外硬論を主張し、日米條約締結前、既に自説の行はれ難きを察し、病と称して暫く登営しなかった。
尋いで安政元年三月、神奈川條約の締結せられるや、斉昭は米国の強要に因って斯かる結果となったことを慨歎し「最早徳川の天下も霜を履んで堅氷至る」とて、衰微の著しきを憂え、海防の参与を辞退し、病と称して登営しなかった。
安部正弘は大いに当惑し、且つ老中首座として責任の重大なるを痛感し、四月十日、幕閣を更新し、人心を一新するが為に辞表を提出した。老中牧野忠雅も亦責を独り正弘のみに帰するに忍びずとて、病と称して出仕せず、幕閣は頗る動揺した。
偶々皇居炎上(四月六日)の報が江戸に達した。將軍家定は益々前途を憂え、正弘に懇諭して
辞意を翻さしめ、閣僚も亦切に正弘を慰留して止まなかったので、正弘は台命黙し難く、遂に再び出仕して時局の収拾に当ることとなった。
当時猶引寵中の徳川斉昭は、正弘から己れの留任を告げて、助力を求め来ったに対して「内憂外患並び至る御時節、貴兄にて御担当之無く候ては、天下の有志解体、如何様なる世態に成行き候も測り難く候間、何分御勉強之程、偏に渇望いたし候云々」と答えて之を激励した。
幕府は一方斉昭に対しては其の勤めを労(いた)わり、四月晦日一先づ其の登城を免じ、大事があれば登営して其の議に与るべきを命じた。是に於いて斉昭は未だ其の職務を免ぜられぬ迄も、幕府との関係は漸く稀薄となるに至った。
幕閣の改造
斯くて内外益々、多事多難なる時局に際し、再び幕政総理の責に任じた阿部正弘は、今にして徳川斉昭の後援を失うを不利であるとなし、再びその出馬を懇望し、斉昭の勧告を容れて先づ幕閣の改造を断行した。即ち安政二年八月、幕府が老中松平和泉守乗全(西尾藩主)・松平伊賀守忠優(ただます/上田藩主)を罷免したのも其の結果であった。
尋いで幕府は諸政の改革を行うべきを令して、其の大綱を天下に布告し、同十四日には台命を斉昭に下し、防備並びに軍制等の改革を行うに因り、隔日に登営して之に参与すべきことを命じた。
堀田正篤の老中首座
茲に正弘は再び斉昭及び声望を有する松平慶永・島津斉彬等有力なる諸侯の支持によって、諸政の改革、外交の措置に邁往すべきであった。
然るに軍制改革は着手後、著しき成績を挙げ得ず、諸侯及び幕府有司の間には失望の声が起り、また毀鐘鋳砲の太政官符の実施も、熾烈なる反対連動の爲に意の如くに進捗せず、剰へ正弘と斉昭との和諧協調は、一部の諸侯には反感を懐かしめて、彦根藩主井伊直弼・高松藩主松平讃岐守頼胤(よりたね)等溜間詰諸侯及び幕府内の一部より、密かに正弘・斉昭二人を排斥しようとする者すらあったと称せられた。
殊に斉昭の主張する対外硬論及び諸政革新の意見に対しては、幕府の吏僚中之に賛意を表する者が鮮(すくな)いので、正弘は斉昭との協調を失はず、其の間を糊塗するに少からぬ苦心を要したのであった。
之に加え、正弘は弘化以来老中首座として永く幕政に鞅掌(おうしょう/専心)し、特に米使渡来以降の難局に処して、幕府内外の諸勢力を巧に操縦し、政局の破綻を弥縫(びほう)し来ったので、少々困憊して政治に倦(う/疲れる)み、また自家の重責に省みて衷心頗る安んぜぬものがあったことは、爾後二年ならずして世を去った点に徴(照らす)しても推測せられる。
偶々、同二年十月二日、江戸に大地震が起って、城郭を始め諸侯の邸宅等が破壊し、市中五十余箇所より火を発して其の災害甚しく、また斉昭の股肱である水戸藩の偉才藤田東湖・戸田蓬軒二人が、藩邸に於いて圧死したのであった。
而して比の災後の措置は正弘の責務を一層加重せしめたので、同九日、正弘は溜間詰諸侯の推輓(すいばん)による佐倉藩主堀田正篤(まさひろ/正睦・まさよし)を推挙して老中と爲し、勝手掛を命じ、自ら退いて首座の地位を譲った。
堀田正篤
正篤は曩に天保年間老中を勤め、其の功労により溜間詰格に斑せられ、日常西洋の文物に興味を有っていたので、世人から「蘭癖」と称せられていた。彼の起用は徳川氏三家に諮る前例を履まず、全く正弘の英断に出でたと称せられた。
松平慶永は此の際の正弘の意衷を忖度して、「正弘は其の先見の明に依り、自ら威勢の盛大なるを戒懼し、良善にして事に害なき先輩を選んで首座に薦め、大権を分つの智術に出でた」と評し、また正篤とは性格其の他に於いて全然相異り、所謂反りが合う筈のない徳川斉昭は「此度再勤の堀田は、既に蘭癖の称もあり、阿部も好まず、予も好まざる者なるに、何れよりの建白にて任命せられしや、発表後中納言(水戸藩主慶篤)の咄にて初めて之を知った」と言って不満の意を洩らしたのである。
されども幕府内にては正篤の入閣を以て幕閣は強化されたと見たものもある。即ち島津斉彬は松平慶永に「閣中の様子を内偵するに、堀田出でて万事不安薄らぎたりと言う者ありと聞き及んだ」と報じ、柳河藩主立花飛騨守鑑寛(あきとも)は「當今の繁劇なる政務を大小となく阿閣一人が担当するは、心底に任せぬことなるに、此の後如何なる変動の起こり来らうも計り難き時世に、斯くては甚だ心許なければ、堀田を再起せしめたことである。去り乍ら萬事は依然阿閣の方寸に出づべき由に聞き及んだ」と言っている。
以上は幕閣首脳者の更迭に関する幕府内外の情勢を示すものである。
かくて表面安部正弘に代って堀田正篤が其の首班となったが、猶暫くは正弘が機務の中枢を占めていたので、直ちに幕閣の施政方針に顕著な変化を見なかった。
溜間詰諸侯の勢力
併し正篤の背後には溜問詰諸候があることは看過すべきではない。
溜間諸候は時代によって多少の相異があって、安政年間には家門の四松平家(高松・桑名・会津・伊予松山)、譜代の門閥である井伊(彦根)、本多(岡崎)、酒井(姫路)、松平(忍)及び溜間班の堀田(佐倉)、溜間詰格の酒井(小浜)であるが、其の政治上の地位は徳川三家の外に在って、同じく將軍の諮詢に答え、叉自ら意見を進言するの権を有し、三家及び老中に対して隠然たる一勢力であった。當時溜問詰諸侯の中にて牛耳を執れるは井伊直弼であった。
而して是等諸侯の対外意見は、多くは避戦論であり、或は消極的な開国論であって少なくとも主戦を標榜するものは一人もなく、直弼は曩に所謂出貿易を唱え、正篤は試みに通商を開始すべしと建議し、之を徳川斉昭の主張する対外硬論に比すれば、全く相容れぬ所で、彼等より見れば、斉昭の説は不通の論たるに過ぎなかった。
之に加え、米使来航以来露・英使節と折衝を重ねた幕府の当局は、漸次海外の情勢に通暁し、大いに啓発せられた所があり、幕閣の一部には修交通商の到底避け難きを認識する者もあるに至ったのであった。
されば正篤を首班とする幕閣の大勢が益々開国に向う事は想像するに難くない。偶々、安政三年七月、米国総領事タウンゼンド・ハリスは、神奈川條約の條款に基づいて下田に来任して條約の改訂を迫らんとし、叉英国香港総督ボーリングの来朝説及び英船アロー号に因る英軍の広東襲撃の警報が、相次いで至り、再び幕府を戒慎せしめたと共に、朝野を警醒せしめるに力があった。
斯くて幕閣に於いても旧勢力は次第に後退し、名実共に正篤を中心とする幕閣は出現し、幕府内外の情勢は茲に一変するに至った。此の事は次章に於いて詳説するであらう。.
以上
第九回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢を問わずどな
たでも参加できます
日 時 令和四年二月二十六日(土)
午後一時から三時
会 場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
[i] 宇和島藩主伊達宗城 養子・大身旗本山口正勝の次男・大身は三千石以上の旗本。「守」名のりができた。・幕政参与・将軍後嗣運動では一橋派・公武合体の提唱者。
[ii] 反射炉 熱を反射させて不純鉄を精錬し、鋳型に流し込み、大砲・小銃等の部品を製造する設備。始め佐賀藩が製造に成功し、それを他藩・幕府が模倣する。遺構は、静岡県伊豆韮山、鹿児島県旧集成館、山口県萩市椿に残る。
[iii] 小普請窪田治部右衛門 「小普請」は、幕府直参の御家人のこと。治部右衛門(じぶえもん/鎮勝・しげかつ)。窪田鎮勝は、幕府講武所の教授(柔術)の家柄で、幕府浪士組の取締役となる。鎮勝の柔術の弟子に今井信郎がいた。今井は直心影流の師範代であった。今井は幕府浪士組から京都見回り組に入った。今井は見張りをしていたとして、竜馬暗殺の詳細を明治に入ってからの取調で告白している。
[iv] 脇坂淡路守安宅 播磨国(兵庫)龍野藩主(五万三千石)。この後老中時代に万延元年三月の「桜田門外の変」の際に水戸浪士達の趣意を示した「斬奸状」の宛先となる。
[v] 衆生済度 仏法により衆生を悟りへと導くこと。
[vi] 五畿内七道(ごきしちどう) 律令制による行政区画をいう。五畿は、山城・大和など。七道は東海道・中山道など。
[vii] 頃年墨夷(アメリカ)再び相模海岸に乗り入れ 安政元年正月十一日再来。三月三日には、神奈川条約(修好条約)が締結された。
今秋露夷(ロシア)畿内近海に渡来す。 安政元年九月十八日、露艦が突然開国の交渉を求めて、大阪湾天保山沖に投錨する。。同年十二月ニ十一日、幕府は下田においてロシアとの間に「和親条約」に調印した。
[viii] 天台座主宮輸王寺宮 北白川宮能久(よしひさ)親王。孝明天皇の義弟。上野寛永寺貫主・日光輪王寺門主。兄は青蓮院宮・中川親王。
[ix] 七社七寺 七社は伊勢・賀茂・岩清水など。七寺は東大寺・仁名寺・延暦寺など。
[x] 祈祷 天皇による祭祀。神仏習合形式で天皇の祭祀を司る寺社が執行する。
[xi] 三條実萬 当時武家傳奏。安政の大獄で落飾し、片田舎で悲憤のうちに死去する。文久三年「京都八・一八の政変」で長州に亡命する七卿の指導的公卿三條実美は実萬の子である。
[xii] 廃朝 天皇が政務をとらない期間。
[xiii]京都七口 朝廷、幕府、寺社が設ける関所。関銭を徴収した。東寺口、鳥羽口などがある。
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第7回テーマ 幕府の対策と政局の推移(上)
日時:令和3(2021)年12月18日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第七回テーマ]
令和三(二〇二一)年十二月十八日
午後一時より三時
東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」 第一章 孝明天皇の初世
(『概観維新史』(P119-142)を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
第五節 幕府の対策と政局の推移
徳川斉昭の起用
嘉永六年六月、米国使節「ペリー」が来航すると、正弘は同月五日、密かに書を齊昭に寄せてその意見を問い、齊昭もまた自ら進んで幕議に與(くみ)しようとし、将軍家慶は病床に在ったが、正弘を召して外交の事は齊昭に諮って決すべきを命じた。正弘は七日の夕、退営の途次水戸藩邸に赴き、親しく斉昭に面して、將軍の命を伝え、且つ諸有司の意見書を披閲して、対策に就いて諮る所があった。
当時、福井藩主松平越前守慶永及び幕府海防掛戸川中務大輔(なかつかさの・たいふ)安鎮(やすしげ/目付)・鵜殿長鋭(ながとし)・大久保市郎兵衛(信弘・目付)等も非常の国難に當り、斉昭をして幕議に参せしめることを建議している。その後、正弘は斉昭起用の事を決意し、これを當路の有司に議(はか)り、その議が未だ決しない中に將軍家慶は薨じた。したがってその喪は暫く秘していたが、何時しか外間に洩れて兎角隠かでなかった人心を刺激し、天下の有志をして時務を論ぜしめ、斉昭を起して海防の大任に當らしむべしと為す者が多かった。
ここにおいて、幕議は終に斉昭をして海防の大任に当たらしめるに決し、六月晦日、正弘は斉昭を訪(おとの)うて、將軍の薨去に際し、上下の危倶に陥っていることは、実に邦家の安危に関わると説き、出でて海防の大議に参することを請うた。斉昭は再三固辞したが、その否(こば)み難きを察して、ついにこれを承諾した。
しかして七月三日、「海岸防禦筋の儀につき、この節御用もこれある間登城すべし」との台命を承け、越えて五日初めて登営して世子家祥に謁し、閣老等と海防の事を議し、その後、概ね隔日に登営して幕議に参画したのである。
かくて与望を負うて幕閣に列した斉昭は、家士藤田東湖・戸田蓬軒等を海防掛に、安島帯刀等を秘書役として、自己の謀議に与らしめた。
幕吏の抜擢
その他、幕府は吏員中に俊材を擢用した。即ち川路聖謨(としあきら)・永野忠徳を勘定奉行に、筒井政憲・井戸覚弘(さとひろ)を大目付に、大久保右近將監(うこんのじょう)忠寛・岩瀬忠震(ただなり)・永井尚志(なおゆき)・堀利忠を目付に、竹内保徳を箱館奉行に、井上清直を下田奉行に補した。
また韮山代官として令名あり、且つ国防・砲術に一家の識見を有していた、江川太郎左衛門を勘定吟味役格に列し、鉄砲方兼帯を命じた。また、斉昭・太郎左衛門の推挙により、高島流砲術の開祖高島秋帆[i]を岡部藩[ii]に禁固中より赦免して、韮山代官の手附となしたが如きは、如阿に幕府が人材登用に急であったかを察するに足る。
特に土佐の一漁民中濱萬次郎が漂流して、米国にあること十年、彼の地で教育を受けた新知識の所有者であるというので、土州藩に命じて江戸に招き、阿部正弘は家士をして海外の情勢を問はしめ、斉昭もまたしばしば彼を召して外情及び船艦に関して尋問し、聖謨等も彼に就いて問う所があった。既にして蒸気船製造用掛を命ぜられた太郎左衛門が彼を聘用することを請うたので、幕府はこれを許し、萬次郎を普請役格に加えて手附とした。
安政元年、正月米使の再渡に際し、萬次郎を英語の通訳に採用して、重訳の煩を避けようとの議があったが、正弘は物議を慮って許さず、斉昭もまた「米国が幼年の萬次郎に恩を被せて教育を施したのは、計略がないとも言ひ難い、また萬次郎も一命を救けられ、永年恩義を受けた米国のためには、不利に立ち廻る事は好むまい」との理由で反対し、このことは実現しなかった。もって、時人が尚外国に封し疑心暗鬼を抱いていた時代相を知るべきであらう。
ただし一般に海外漂民が帰還後は、その郷里に禁足に等しい取り扱いを受けた當時において、一介の漂客萬次郎がすでに土州藩の士列に加えられた事すら異数であるのに、今や幕吏に登用されたことは刮目に値し、また時勢の変転に驚かざるを得ない。
これを要するに安政前後の政局に活躍した俊敏の聞えある幕吏は、概ね正弘の抜擢・庇護を受けてその駿足を伸ばしたのであった。
二 輿論の趨勢
幕府、対外策を徴す
幕府は、米国使節の再渡に対処するために、言路を洞開して、広く天下の意見を徴してその対策を決せんとした。この一事はその伝統政治から見て、注目すべきものであった。幕府は、米国国書の翻訳が成るや、安政六年六月二十六日、これを評定所一座及び三番頭等に示して、「米国の措置は実に国家の一大事であって、通商を許容すれば、国法が立たず、且つ後患も少くない。ただしこれを拒否すれば、防禦の手當が格別厳重でない限り安心し難い」旨を述べて、その苦慮の実状を告げ、忌諱を憚らず、充分評議を尽くして上申するようにと令し、さらに一般諸侯及び高家以下布衣(官位のない者)以上の有司にも、同じくその対策を徴し、忌憚なき意見を開陳せしめた。
ここにおいて、諸侯以下幕府の有司を始め、陪臣・処士に至るまで、凡そ天下を憂える者は、自ら進んで意見を上申したのである。これらの建白書類で今日に伝わるものは、およそ八百余通に上る。当時幕府の権威は漸く衰頽に赴いたとは言え、二三の例外を除いては、なお幕府を憚った答申が少なくなく、また時局に対する正確な認識を持った者が少く、したがって建白書類を通覧するに、文章が冗漫でその眞意を把握し難いが、概して言へば開国を主張する者よりも、国交拒絶の論者が遥かに多い。したがって、両論とも、我が国防の不備を憂え、国体の尊厳を傷けることを倶れた点において共通しており、何れも自強自衛の籌策(ちゅうさく/対策)を樹てることを強調している。
幕府有司の意見
まず、幕府要路の意見の内、その最も強硬なものは、海防掛目付戸川安鎮(やすしげ)・鵜殿長鋭(ながとし)・大久保信弘・堀利忠であって、「祖法を巖守し、成敗を天に任せ、必戦の決心を以て拒絶する外はあるまじく、危乱の將に萌ざんとする今日、寧ろ格別の果断を以て威厳に過ぐる位の施設がなくては、萬全の策はあるまい」と述べ、また大・小の目付はこれに順じ、我が鎖国の国法を説諭し、もし彼より異変に及べば、身命を拠って忠節を致すだけだ、と言った。其の他は、殆んど軟論に傾き、交渉の衝に當った浦賀奉行は、「今一時の客気に駆られて巖重の処置を執り、手切に及び、清国阿片事件の覆轍を追うのは、却って無謀淺智の策である」と言って、「彼の要求の一部を許すべし」と説いた。他も概ねこれに類する避戦退嬰の論に過ぎなかった。このような自己の情勢に於いて案出されたのが、既述の如き所謂「ぶらかし」策であった。
諸侯の意見
次に、諸侯の対策意見に就いて見ると、桑名藩主松平越中守定猷(さだみち)は、弘安の北條時宗を例に援(ひ)いて、「国辱を忍び、国体を失うてまでも通商通信を許すのは、将軍の職責上決して許さるべきでない」と論じて、最も強硬の意見を述べ、福井藩主松平慶永(よしなが)は貿易を以て国力衰微の原因と爲し、「断然之を拒絶し、大いに防備を充實して往古の武威を輝かすべし」と説き、土浦藩主土屋寅直は、祖法の墨守と貿易・邪教の弊害を説いて、「防備の整ふ迄、暫く通商を許容すべしと爲すが如きは眼前の安さを愉むものである」と痛論し、また佐賀藩主鍋島齋正もまた同様の趣旨を以て「一時の愉安を許さず、彼の倨傲(傲慢)の行動に封しては断然打ち払ふべし」と主張した。
その他、長州藩主毛利大膳大夫慶親・土州藩主山内土佐守豊信・阿州藩主蜂須賀阿波守齊裕等も、これと大同小異の拒絶論を唱えた。但し、これらの所論も、多くは主戦論ではなく、我が国法の説諭に応ぜず、あるいは彼より不法の挙動に出でた場合には、強硬手段を執るべしと説いたに過ぎなかった。
その他戦を避けんとする論に於いては米澤藩主上杉弾正大弼(だんじょうだい)齊憲等のように、通商は許すべからず、されど戦は避くべしと説くのであって、更に、淀藩主稻葉長門守正邦・宇和島藩主伊達宗城等の如きも通商の拒絶は当然だが、武備不十分のために必勝を期し難いから、権(仮に)商を許し、兵備の整うた上で拒絶すべし」と説いた。
また多年江戸湾の警備に当り、米国艦隊の威容に驚いた川越藩主松平大和守典則(つねのり)や忍藩主松平忠国等もこの説であった。
次に、開国論について見ると、中津藩主(豊前国)奥平大膳大夫昌服(まさもと)は「我の士風塵頽、財政困窮、武備薄弱なのに対し、彼は百戦の余であり、富強であって、到底我の敵すべきでない、況んや世界の大勢は、もはや我が鎖国を許さないものである」と説き、佐倉藩主堀田備中守正篤は「姑(しばら)く彼の要求を許し、其の間に武備を塾へると共に、通商の利弊を究め、若し利あらば猶之を継続すへし」と論じ、また彦根藩主井伊直弼の所論は頗る他と異り、「時勢急変の今日に猶鎖国の奮法を固守して、天下の静謐、皇国の安泰を望む事は考えられない。有無相通ずるのは天地の公道であるから、之を祖宗に告げて昔の朱印船を復し、我より海外に進出して交易を行い、若し不利ならば、我より中止するも亦よからう」と言うのであった。
筑前藩(福岡藩)主黒田長溥(ながひろ)の論は更に進んだ意見で、「和蘭貿易に準じ、年限を限り米・露のみに貿易を許し、一面に軍艦・蒸気船を建造して、印度・支那に出貿易を行ふならば、富彊を致して我が武威は世界に輝くであらう」と陳べている。最後に薩州藩主島津齊彬は初め幕府に国交拒絶の意見を答えたが、後に徳川齊昭に入説して、国防の完備を侯(うかが)って、外人の渡来を禁じ、諸侯に出貿易を許し、大いに国威を宣揚すべし、と論じている。
併し他の多くは大体に於いて其の説く所に何等の定見もなく、彼我の情勢に通せず、迂遠の譏(そしり)を免れない言議のみであった。
麾下士・有志の意見
次に、旗本以下有志の意見を見ると、同じく国交拒絶の論を述べた者が頗(すこぶ)る多い。その異彩を放っている開国論の二三を挙げたい。寄合(よりあい/三千石以上の旗本で非役)伊澤政義の男謹吾は、「利害に拘らず清・蘭二国の外は通信通商を禁じ、彼若し不法の行為あらば直ちに開戦の覚悟を以て、諸侯以下挙国の力を尽くして神国剛勁(ごうけい)の氣象(きしょう/気性)を振ひ、十分に防禦すべし」と硬論を建てた。小普請組頭五郎八郎養子依田克之丞等の意見は、ほぼこれに類するものである。
また、儒者安積艮斎(あさか・ごんさい)[iii]は拒絶の意を述べて、「彼の兵力に刧(きょう/脅)制されて租法を破るのは国体を損じ、天下の人心を失う所以である。併し海防が十分に整う迄両三年の間確答を延ばすべき」だと言い、同じく佐藤一齋もこれと大同小異の意見を唱え、仙台藩士大槻磐渓(ばんけい)は、交易は国禁なるが上に清・蘭両国の貿易にさへ物資の不足している事情を述べて通商を拒絶すべし、と説き、且つ使節を江戸に召し、閣老邸或は城中に於いてこのことについて閣老等より回答するのが至当であると論じた。
一方、開国論の中には頗る異色に富むものがあった。儒者古賀謹一郎は、堂々我よりも商船を遺わし、世界を相手にして貿易を営むのが、皇国無窮の繁栄の基である、と説き、小普請向山源太夫は清国の覆轍に鑑み、大英断を以て通商を許し、交易の利潤を以て武備を整へ而して我より航海通商を行うべきだと陳べ、同勝義邦(海舟)もまた同じく出貿易の要を説き、貿易の利益を以て外患に当るべき兵備を整えるべき、と建白した。
更に韮山代官手附高島秋帆(しゅうはん)は、海外諸国の通義に従い、宣しく交易を行うべきで、通商互市を以て国家衰廃の因と爲すものは、商売の仕法を弁まえない者の言であると、堂々と貿易の国家に利あるを説いた。
以上言う所は、対米処置に対する諸侯幕吏有志の議を極めて概括的に述べたのであるが、その多数は硬軟の差はあるとしても総じて拒絶論であった。
その拒絶を主張する根拠は、租法の墨守(厳守)であり、国体(*伝統的国家体制)の擁護である。これらのことは、我が国民が現実に直面して一層旺盛な国家意識を覚醒させたことを示すものである。
幕府はこのような根拠から、これらの世論に基づき国防の強化を図り、社稷(我が国伝統の国家の有り方)の維持に努めようとし、嘉永六年十一月朔日、徳川齊昭の建言を容れ、大号令を天下に布いて、米国の再渡を待つ根本方針を示し、人心の帰一を計るに至ったのである。その詳細は次に説きたい。
三 国防の充實
海防大号令の発布
幕府は非常時局に対する陣容を整えた後、まず対外国策に関する大号令を発布して、人心の帰一を企てた。つまり本令の発布は、初め徳川齊昭の発意に出でたが、幕府の評議が紆余曲折を経て漸く決定されたので、その趣旨は提案者の企図した所とは、少々異なったものとなったのである。
始め齊昭は幕政に参与するや、七月八日、海防に関する「意見十條」を建白した中に、国策の大方針を主戦に決し、天下に号令して四民に帰嚮を知らしめ、挙国の力を以て武備を振張すべきを説き、十日、更に前説を敷衍して「海防愚存」(十條五事)の建議を草し、速やかにこれを採納して号令することを促した。幕府も人心を帰一せしめて挙国一致の態勢を作る必要を痛感したが、その方針を主戦に置くことは頗る難事とした所である。
既にして齊昭は露国使節の長崎に来航(七月十八日)したことを聞いて、事態の益々重大なるを覚り、八月三日、更に「海防愚存」(十三條の建議)を提出して、三たび前説を補足し、大いに幕府を激励する所があった。
幕府内の反対
老中阿部正弘は、これらの建議書を海防掛に下して評議せしめたが、和平を冀い、開戦を忌む有司は、軌れも齊昭の硬論に賛意を表する者なく、就中西九留守居筒井政憲の如きは、「国力の如何を顧みずして、漫然無謀の攘夷を唱えるは、是れ紙上の空論にして邦国を思はざるものと謂うベし」とさえ論じ、ひたすら和親を説いた。
齊昭は之を駁し、一時の偸安は悔い千載に胎し、その禍害は実に戦うよりも甚しいとして、「皇国上下一統はすべて腰抜けと爲り、人気は益々弛び、国力は愈、衰へるであらう。且つ外夷の強訴同様の願意を許容するが如きは、開闢以來絶無のことである。速かに和戦の大本を決し、大号令を発して、大小名等の覚悟を固めしむべきである」と論じ、なおもし幕府が遅疑して、その議を決せぬに於いては、海防参与を辞退すると申し出でた。
徳川斉昭の意見
当時、齊昭と幕府有司との意見がこうも扞格し、紛議を醸した所以は、有司の多数が齊昭の唱える主戦論を以て、無謀の攘夷を断行しようとするものと疑惧したのである。然るに齋昭の意図する所は、一たび国是を戦に決し、これを天下に示して昇平の積弊を破り、人心を振起して国体の擁護を計らうとしたのであって、無謀の攘夷は敢て取らぬ所であった。即ち齊昭の庶幾(しょき/期待)した所は、上下統一の日本魂を振起することが防禦の急務である。内に和を望む心があれば、たとえ戦備を修めても敵愾の気魄なく、号令行われず、国防の充実も心もとない。したがって日本魂をみがき、幕閣中一致して防禦に当たれば国家の慶事、この上もないというのである。斉昭が営中に於いて和の一字は封じて海防掛のみの胸奥に秘め置くべしと語ったところを見ても、その眞意が知られるのである。
阿部正弘の努力
阿部正弘は齋昭の辞意を聞いて大いに驚き、その慰留に努めると共に、大号令の文案の提出を求め、正弘もまた自ら別に文案を草し、齊昭に示して修正を請うた。齊昭の幕府に提出した文案は、今日に伝わらない。正弘の草した文案の大意は、新将軍家定の初政に際して、祖法の変革を避ける爲に、米国の交易開始の請願を許さず、これに封する確答をなるべく遅延せしめ、若し先方より乱暴に及べば、国辱を招かぬやう接戦の覚悟あるべき旨を諭示しようとしたものである。
齊昭は正弘が国体擁護の精神を以て、幕閣の一致を計らうとする熱意を示したのを多(良)とし、その文案に修正を加えて文勢を雄勁(きょう/強)にし、速かに発令することを求めた。
然るに幕府の海防掛とその他の有司は、数度の諮問に対して、或は対外方針が既に平穏を旨とするに決したのに、かくの如きことを発令するのは前後撞着の嫌(うら/無理)みがあり、また表裏反覆するものであると難じ、或は本命の登布は国家の休戚(きゅうさい/根本)にも係はるのであるから、これを京都に奏聞して指揮を仰ぎ、諸侯を会同して将軍親しく告諭し、将軍自ら兵を帥(ひき)いるの決意を示さねばならぬと論じた。
即ち幕吏の多くは、表面には武備を修めるも、内心には決戦の意なく、努めて大号令の発布を阻止しようとしたのであった。齊昭はこの情勢を見て前途に望を絶ち、十月十九日、登営して再び海防参与を辞する事を表明した。
大号令の発布
正弘は極力齋昭を支持し、之を慰撫したが、他の老中等の中には却ってその干渉に苦しんで、むしろその離職を希望する者が多かった。併し正弘は幕閣より輿望を負う齊昭を失うのは、爾後の政務遂行上に及ぼす支障の多きを憂慮し、遂に大号令の登布を決意し、二十五日、台命(将軍の命令)を齋昭に伝えてその登営(城)を促し、大号令に更に修正を加えて齋昭の意見を問うた。齋昭は漸くその辞意を翻し、修正案に朱批判を施して正弘に示した。このようにして十一月朔日、諸侯を営中(城中)に会し、正弘は將軍の旨を以て大号令を演達した。
その大意は、「諸侯及び有司等の衆議は諸説異同あるも、要は和戦の二字に帰着するが、近海の防備も十分在らざるを以て、明春米艦が再航するも其の要求に対しては諾否を明かにせず、努めて平穏に処置すべし。されども彼或いは不法の行動に出づるやも図られず。その時に及んで不覚悟の事ありては、国辱にもなるから、防禦は実用を主眼とし、忠憤を忍び、義勇を蓄へ、彼の動静を熱察し、萬一波より兵端を開かば、一同奮発して毫髪(ごうはつ/少しも)も国体を汚さざるやう、上下一致して忠勤を励むべし」、と言うにあった。
かくて齊昭の登意に出でた海防大号令も、幾回かの修正を経て改竄添制せられ、その文勢の如きは何等迫力を留めぬものとなったのである。齊昭は爾後益々、幕吏を督励し、本命の発布に因る実績を上げる爲に、国防の充實、人心の作興に力を尽くしたのである。
大船建造の要望
顧みるに幕府は寛永年間、耶蘇教禁遏(圧)の手段として、邦人の海外渡航を停止し、大船の建造を禁止した。尋いで島原の乱後に鎖国令を励行すると共に、大船建造の禁制を恪守(厳守)して来た。然るに北邊・西陲に外警を伝へるに及び、天保五年、齊昭は北地開拓の急務を唱へ、和蘭船に模して渡航の為に大船を造る事を幕府に建議し、更に自ら藩士を督励して洋式船舶の模型を作ったが、未だ幕府の容れる所とならなかった。
嘉永六年米艦が来航して、その威容は浦賀湾頭を圧するに至り、幕府を始めとして時人は今更の如く痛切に堅艦巨砲の必要を感じたのである。小普請向山源太夫・勝義邦(海舟)等の建議には、皆兵の緊急事なるを論じ、海国兵備の要は海軍の創設に在ることは天下の通論であると道破している。
特に夙(早)くより造船その他西洋學術に留意していた薩州藩主島津齊彬は、同年七月書を右大臣近衛忠煕に致して、勅諭を幕府に下して軍艦を建造せしめる事を冀望した。また長崎警備の任に在る筑前藩主黒田齊溥は、たとえ諸方の砲臺(台)建築に数千萬金を投じても、洋式艦船の備えがなければ、防禦に必勝は期し難いから、速かに蒸氣船及び軍艦の製造を許可されたいと建議した。
徳川齊昭は「海防愚存」(十條五事)を幕府に建議した中に、軍艦・汽船の建造を和蘭に注文し、造船技師及び高級海員をも招聘すべしと説き、また諸侯には其の分限に応じ、船数を限って建造を許可し、その参勤に海路を取らしめるならば、陸路往来に比して莫大な経費の節約となるのみならず、更にこれ等の船舶を羽田・本牧附近に繋留せしめれぱ、直ちに防戦の用に供し得べしと、幕府に大船建造の解禁を勧告した。幕府内に於いて頓に造艦の論議が喧しくなり、寺社奉行・勘定奉行・町奉行等は、沿海に出没進退する敵艦に封(たい/対)して、その都度兵を動かすは、徒らに奔命に疲れて遂に国内に不慮の変乱を惹起させないとも図りがたいから、堅牢な軍艦を建造して、操練を励行し、以て海上の防備を厳重にせねばならぬと説くに至った。
大船建造の解禁
かくて大船建造の必要なことは朝野の定論となった。されどこの禁制は幕府の伝統政策たる鎖国令の骨子ともいふべきものであるから、幕府は俄にこれを変改するに、聊か躊躇せざるを得なかった。然るに幕府有司の多数は諮問に対して、祖法もまた時勢に応じて変通せしめねばならぬと答申したので、幕府は遂に禁制を解くに決し、改めてその布達案を諮問し、嘉永六年九月十五日令を発して、方今の時勢は大船を必要とするから、その建造の禁を解く。よってすべて幕府の指揮を仰いで建造に着手せよ。このような制度の変通も、畢竟祖宗の遺志を継述する所以であるから、邪宗門その他の禁制は先規の如くに堅く守るべきである、と諭告し、ここに初めて二百年来の禁が解かれたのである。
かくて同年十一月、幕府は勘定奉行石河土佐守政平・松平近直・目付堀利忠・勘定吟味役竹内保徳に造船用掛を命じ、翌安政元年二月、江戸近海警備の諸藩に製艦を促したのである。
幕府および諸藩の造船
大船建造の禁制一たび撤せられてより、幕府を始め諸藩は敦れも大船或は洋式船舶の建造に意を用いることとなった。今その主なものを略説すれば、浦賀奉行は幕府に請うてバルク型軍艦の建造に着手し、安政元年五月、竣成して鳳凰丸(長さ約40㍍・幅約9㍍)と命名した。尋いで同九月、幕府は蒸気艦二艘を和蘭に注文し、翌二年三月、戸田村(静岡県田方郡)滞在の露人に依囑して建造したスクーナー型一艘を備えた。
また幕府より造艦を委嘱せられ水戸藩は、前藩主徳川齋昭の統督の下に石川島に造船所を設け、バルク型一艘を起工し、安政三年五月に至って竣工した。これが「旭日丸」で、船の長さ二十一間(長さ約40㍍)の大船であった。
薩州藩は、すでに琉球大砲船の建造に着手していたが、解禁の令が出ると、大船十二艘、汽船三艦の建造許可を得て、鋭意船艦の建造、蒸気機関の研究に從事し、昇平丸・鳳瑞丸・大元丸・承天丸・萬年丸の諸船を竣工した。
佐賀藩に於いては藩主鍋島齊正が夙に海防に留意し、安政元年八月、蘭艦の購入を企てたが成らず、蒸氣船の建造を決意し、掛員を定め、造船所を設け、後には蘭人を雇傭して、コットル船を起工し、晨風丸を竣工した。
また、土州藩は築地藩邸内に於いて、蒸気船の模型の製作に成功し、宇和島藩は、先に脱獄中の蘭學者高野長英を聘用して、蘭文兵書の翻訳に從事させたが、同じく蘭學に通じた兵學者村田藏六(後大村益次郎)に設計させた洋式軍艦の模型を藩地に於いて試作せしめた。その他、長州藩の丙辰丸、姫路藩の速鳥丸、津藩の神風丸、仙墓藩の開成丸は、いずれもスクーナー型で、安政年間に建造せられたものであった。
日章旗制定
大船の製造に伴って注意すべきは幕府の日章旗制定である。初め嘉永六年十一月、島津齊彬は日の九を以て船印とせんと建議し、尋いで幕府は有司や徳川齊昭の議を斟酌して、安政元年七月九日、遂に日章旗を以て日本の総船印と定めた。斯くて我が国運の発展と共に、日本国の標幟たる国旗として堂々世界に輝く事となったのである。
海軍の創設
大船製造の解禁に伴うて、幕府を始め諸藩が、鋭意造船を計画した結果、航海術の習得練磨が必要となってきた。先に幕府は大船製造の公許と共に、まず和蘭に軍艦・銃砲及び兵書等の購入を依頼したが、安政元年七月、和蘭政府はクリミヤ戦争に因る国際事情上、軍艦譲渡の求めに応じ難いので、別に軍艦を派遣して、海軍諸術を伝える旨を答えた。
長崎に於ける海軍伝習
よって、幕府は海軍伝習を長崎に於いてするに決し、まず長崎在勤目付永井尚志に蒸気船運用伝習方指揮を命じて諸事を主掌せしめた。すでに蘭艦スンビンが長崎に入港し、艦長ファビュスもまた頻りに海軍の創立を我に勧告したので、幕府はその開始を決意し、翌二年八月、和蘭がスンビン号(後の観光丸)を贈与するに及び、同艦を練習用に供し、その乗組員二十二人を雇傭して教官と爲し、長崎に航海練習所を設け、ここに我が国海軍の基礎が作られた。
この練習には矢田堀鴻(こう/幕府海軍総裁)・勝義邦(海舟)・榎本武揚(後海軍中尉)・赤松大三郎(後海軍中将)・肥田濱五郎等の幕吏ばかりでなく、薩摩・熊本・筑前・長州・佐賀・津・福山・掛川等の諸藩有志にも参加を許したのである。
薩州藩士五代才助・川村與十郎(後海軍大尉)・佐賀藩士佐野常民(榮壽左衛門)・中牟田倉之助(後海軍中尉)・笠間藩士小野友五郎等のように、後に聞えた俊傑が多くここから巣立ったのである。
講武所設置
幕府は、海軍創立と共に、軍制刷新、陸軍の創始を企図した。二百余年にわたる泰平が、自然我が尚武の国風を陵夷(弱体)せしめ、とくに外警の起るに及んでは、識者は敦れも講武の要を唱道し、力説したのである。
幕府は、神奈川條約の締結による輿論の紛起に刺激せられ、講武所の建設を決意し、安政元年十二月、鐵砲洲・越中島及び筋違橋・四谷・一ッ橋各門外等に用地を取得し、同三年三月、築地の講武場が先づ竣工し、尋いで諸所に建設せられたものも竣工し、剣槍の技より、洋式調練・砲術等を講習した。これが近代日本陸軍の始まりであり、また我が新軍制の基礎を作したものである。
江戸内海の防備強化
このように、幕府国防充実の見地から、海陸軍の創始に力を注いだと同時に、江戸内海の防備施設に就いても企てる所があった。即ち品川墓場の築造であって、早く、嘉永六年六月、米艦の退去するや、若年寄本多忠徳は勘定奉行川路聖謨等の有司を率いて内海を巡視し、具さに防備施設に就いて考究し、その結果、内海に台場を急設すべきを上申した。
品川薹場の築造
これを受け幕府は、品川沖に十一箇所の台場を築造するに決し、聖謨を始め、勘定奉行松平近直・勘定吟味役竹内保徳・同格江川太郎左衛門等に命じてこれを計画させ、また天下の富豪或は庶民に諭してその経費を献納させた。このように、太郎左衛門の指揮のもとに、その師高島秋帆等がこれを授け、昼夜策行その工事を進め、早くも同年十一月には第一・第二・第三の台場がほぼ竣工し、川越・会津・忍の三藩に各々その警備を命じた。
試みに『続徳川実紀』によって第一台場の設計を示すと、水中を埋立て六稜形とし、坪数二萬六千二百四十七、満水時水面迄の深さが一丈一尺五寸(三㍍三十㌢余)であって、これに要する人足賃は一萬二千四百余両とある。他の台場はこれより少し規模が小さいが、これによって工事の大要を知る事ができる。
翌安政元年第五・第六の台場は少し後れて竣工を告げ、第四台場が七分通り、第七台場が三分通り進捗した時、突如中止の己むなきに至った。それは同年四月、内裏(御所)が炎上したので、幕府は皇居造営の爲に、莫大の経費を支出しなくてはならなくなったからである。よって翌月幕府は近来臨時費の支出が多額である際、皇居の造営は暫時も猶予の出来ない事で、そのために莫大の経費を必要とする。外寇防禦の急務として、台場の築造も肝要ではあるが、やむを得ない場合だから、竣工した五台場を以て警備の方策を樹て、他の台場は四・五年の後に完備する積りだと達したのである。
幕府が米艦の再渡に備え、巨費を投じて、鋭意経営した品川台場も、米艦が極めて平穏裡に内海を去ったため、実用に供する機会を失ったまま、今日なおその残骸をさらし、観者をして「上喜撰たった四杯で夜もねられず」と謡った当時を回顧せしめている。
開港場奉行の設置
次に條約締結に件う施設として見るべきものは、開港地に於ける奉行の設置である。幕府は和親條約の調印を以て、一時の権道だと称してはいるが、それは国内に於ける輿論の沸騰を倶れ、一時を糊塗するための口実に過ぎなかった。
ひとたび締結された條約は、国際的公約であることは幕府有司も心得ているので、安政元年三月、幕府は三たび下田奉行を置き、浦賀奉行伊澤政義をこれに任じ、四月、更に佐渡奉行都筑峰重をも転補(転任させて)して、専ら下田港の管理に当らしめた。
また箱館に対しては、同年六月、まず松前藩に対して箱館及びその傍近の上地を命じ、箱館奉行を再置して勘定吟味役竹内保徳をこれに任じ、尋いで八月、目付堀利煕を奉行に転補して共に北地の事を管轄せしめ、翌年二月松前藩の居城福山附近を除き、蝦夷地の全土を上地させて幕領となし、専ら北地を経営する事になったのである。(P142)
以上
第八回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢を問わずどなたでも参加できます
日 時 令和四年一月二十二日(土)
午後一時から三時
会 場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
[i] 高島秋帆(たかしま・しゅうはん) 長崎町年寄り兼長崎奉行所鉄砲方の父の跡を継ぎ、オランダ式砲術を研究する。荻野流砲術の師範役を勤めた。天保十一年のアヘン戦争に触発され、様式砲術の振興を幕府に進言した。天保十二年五月、伊豆韮山代官江川太郎左衛門の後援で、江戸徳丸ヶ原(板橋区高島平)で様式砲術の公式実演を挙行する。長崎会所調役頭取に栄進する。先覚的行為を非難されて翌年投獄されるが、ペリー来航により許され、安政三年、幕府の講武所砲術指南役、具足奉行格となった。
[ii] 岡部藩 武蔵国榛沢(はんざわ)郡岡部地方(埼玉県)を領有した普請小藩。江戸城菊間詰。
[iii] 安積艮斎(あさか・ごんさい) 昌平学教授。文化十一(一八一四)年、江戸神田駿河台に私塾「見山塾」を開く。艮斎は、朱子学だけでなく、陽明学や他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱え、また外国事情にも詳しく、海防論の論客としても知られた。吉田松陰・岩崎弥太郎・高杉晋作・小栗忠順・清河八郎等が門人として学んだ。
以上
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第6回テーマ 和親条約の締結
日時:令和3(2021)年11月20日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第八回テーマ]
令和四(二〇二二)年一月二十二日
午後一時より三時
東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
第一章 孝明天皇の初世
(『概観維新史』(P143-175)を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
第五節 幕府の対策と政局の推移
毀鐘鋳造砲の太政官符
国防の充実計画に方(あた)り、鋳砲の急務が論ぜられるのは、当然である。幕政参与である徳川斉昭は、銃砲は攻守第一の利器にして、彼専ら是を以て我を劫(脅)す。時は、我も亦是を以て彼に応じなければならぬと論じ、宇和島藩主伊達宗城[1]も上書して、洋蛮に対しては、実用弁利の大砲を製造し、玉藥等も充分に予備すべきを説いた。
幕府も亦鋭意之を整備しようとして、佐賀藩に大砲五十門の鋳造を依頼し、また湯島桜之馬場に鋳砲場を設けて自らその鋳造に当り、徳川斉昭の天保年間に鋳造した七十四門献納の請を允(許)し、反射炉[2]建設の資金として、水戸藩に一万両を貸与して之を奨励する等、専ら鉄砲の事を勧奨したのである。
斯くて水戸・薩州・長州・佐賀・松代等を始め、大小諸藩は競って鋳砲を志し、江戸・大坂等に於いては銅鉄等の鋳砲材料の騰貴を来すに至った。茲に安政元年、幕府が(*朝廷に)太政官符(*令)を奏請して、毀鐘鋳砲の令を公布した事は、極めて意義の深いものがある。
徳川斉昭の提唱
此の事の主唱者は、やはり徳川斉昭であった。斉昭は嚢に天保年間領内の梵鐘を毀(やぶ)って銃砲を鋳ることを強行し、僧侶等の反感を受けて、弘化元年の幕譴を蒙る一因となった。然るに今や眼前に鋳砲の必要に迫られて、其の資材の欠乏を憂え、夙に銅製器具の製作禁止を幕府に建議したが、毀鐘鋳砲の令を天下に布くの必要を痛感し、しかも往日の失敗に鑑みて、勅許を請い、朝威に頼って之を断行せしめようとし、此の意を姻戚関白鷹司政通に通ずると共に、その旨を幕府に建議したのである。
此の種の考案は他にもあった。即ち小普請窪田治部右衛門[3]は、寛永年間大仏を鋳潰(つぶ)して鋳銭した例に傲い、国家の大事に備える所以を諭示して、毀鐘鋳銭を行えば、軍用の一助となって、衆生利益の仏意にも叶い、後世に其の英断が感賞せられるであらうと建白している。
太政官符の発布
幕府は斉昭の建議を容れ、毀鐘鋳砲の議を決し、安政元年十月、老中阿部正弘は、上奏の文案を斉昭に提示した。斉昭は之に朱批を加え、且つ此の事は近来の英断ではあるが、緇徒(しと)/僧侶)等は必ず轟々として反対する処があるから、先づ確乎不動の幕議を定め、中道で動揺する事のないやうにと戒告した。
正弘は更に其の文案を修正し、將軍家定の許可を経て、同月廿九日、所司代脇坂淡路守安宅[4](やすおり/龍野藩主)に令して、海防の充実を期する上には切実の必要であるから、已むを得ず常時使用していない諸国寺院の梵鐘類を大砲に改鋳する令を、朝命を以て公布したき旨を奏請せしめた。
十一月十二日安宅は、之を闘白鷹司政通に進達するや、政通は之に賛意を表し、仏徒と雖も異邦の産ではないから、衆生済度[5]の仏体同事に取計うても敢て故障を受くべき筋はあるまいと答え、之を奏上して諸卿に意見を徴した。
議奏廣橋光成(前権大納言)は、己むを得ぬ場合であるから、霊物名器の外であれば、公武の沙汰を以て改鋳しても子細はないと答え、前権大納言橋本実久(さねひさ)・権大納言久我(こが)建通(たてみち)等も孰れも之に賛意を表した。
是に於いて朝廷からは勅許の内慮を安宅に伝え、且つ諸国寺院の反対は、幕府からよく説諭すべしと命ぜられた。是に於いて幕府は更めて朝旨を奉承すべきことを奉答して、宣下あらん事を奏請し、ここに同年十二月二十三日、太政官符が発せられたのである。
官符の全文は左の如くである。
太政官符五畿内七道[6]諸国司
諸国寺院の梵鐘を以て大砲小銃の鋳造に応ずる事
右正二位権大納言藤原朝臣実萬(三條)、勅を奉じて宣を行う。夫れ外寇事情、固より深く宸襟を悩まされ所也。況や緇素(しそ・僧侶)に於いて何ぞ差異有る哉。頃年墨夷(アメリカ)再び相模海岸に乗り入れ、今秋露夷(ロシア)畿内近海に渡来す。[7]国家急務只海防在るのみ。因りて諸国寺院の梵鐘を以て大砲小銃の鋳造を欲す。海国枢要の地を置くに、速やかに諸国寺院各時勢を存せしめ、不慮に備えんと欲す。本寺(本山)の外、古来名器及び時を報ずる鐘を除き、その他悉く大砲に鋳換え、皇国擁護の器と為すべき。辺海無事の時に及び復又宜しく兵器を銷(と)かし以て鯨鐘と為すべし。異議存すべからざるは、諸国承知、宣により之を行う。符奉行に到(いた)る
権右中辯正五位上兼行左衛門権佐藤原(みなもと)朝臣(あそん)判
修理東大寺大佛長官從四位上行中務権少輔(ごんのしょう)主殿頭兼左大史小槻宿彌(おづきすくね)判
奉
安政元年十二月二十三日
思うに外讐に基づく非常時局に際し、王朝の昔に復(もど)して太政官符の発布を見たのは、実に国家の重大事に朝権が発動したものと為すべきである。中務権少輔壬生輔世(すけよ)は之を許して、「此事眞實施行、諸国年久しく中絶也。今度再興の基と為る哉、幸甚の至り也」と言った。
此の後幕府に於いては官符の施行に就いて有司の意見は区々で、或は官符の文を以てすれば、朝廷が自ら天下に号令せられ、政令あたかも此所から出づるが如き嫌があるから、文意の修正を奏請して、旨を幕府に宣達せられ、幕府より直接諸侯・寺院等に命令するよう改められんことを翼う者があり、或は仮令(たとえ)朝命であっても、若し一概に寺院を厳制して、強硬の措置に及べば、仏法に依って信仰の固結する人心を激動し、政教を害する処があるから、布告文に注意を加えて其の誤解なからしむべしと言い、其の他之を非議する者が少なくなかった。
斯くて本令は猶容易に発布せられなかったが、徳川斉昭は翌安政二年正月書を阿部正弘に寄せて、重き勅命を久しく停頓(滞)せしめることの不可なるを説いて、速かに発布せん事を促した。
其の後猶審議が重ねられた結果、漸く同年(安政元年)三月三日、幕府は官符を海内に布告して、海防のために毀鐘鋳砲の御沙汰を拝したのであるから、よく心得て趣旨の貫徹に力めるよう戒諭した。
然るに本命令発布後、諸国の僧侶等は果して動揺し、或は集会を開き、或は各寺に移牒し、將また天台座主宮輸王寺宮[8]に歎訴する等、不満愁訴の声は囂然(きょうぜん/騒がしい)として四方に起るに至った。幕府は更に梵鐘の収容に関する施行方法を定めて、幕領に於いては悉く之を幕府に収め、萬石以上の領邑に於いては其の領主に任せて適宜に改鋳すべしと為し、其の実施が将に緒に就こうとしたが、偶々、同年(安政元年)十月二日、江戸に大地震が起り、人心にも大なる変化を来し、幕府も之が善後措置に逐われ、改鋳実施を顧みる遑(いとま)がなかった中に、年月は経過して、本令は遂に其の実施を見ないで止んだのである。
かくて此の令は龍頭蛇尾に終わったのであるが、幕府は世論に順応して機宜(きぎ/順当な)の政策を遂行する爲に、朝威を籍(か)りたことは、頗る注目すべき事でなければならぬ。
四 外交問題を繞る朝幕関係
朝廷と国家重大事
曩に弘化三(一八四六)年八月(*八年前)、朝廷は海防厳修の勅諭を幕府に下し、仮令国政を幕府に御委任に在っても、国家の危機に際しては之を指揮あらせられ、我が国本来の面目を明示し給い、幕府も聖旨を奉承して、外国応接の事情を委曲復奏した。
尋いで嘉永三(一八五〇)年十一月にも亦同じ朝命が幕府に下った。
斯くて国家の非常時に際しては朝命を候(そうろう/従う)すべしとの世論が、自然に涵養せられて来た。同六年六月、ペリーが意外に早く江戸湾を退去した理由の一には、幕府が朝廷に奏聞し、諸侯に諮問する必要ありと称して、談到を延引する策に陥ることを倶れた爲であり、また露国国書に答える幕府の書にも、朝廷に奏聞する必要あれば、回答の遅延すべき旨が記され、海防大号令の発布に就いても、閣中に斯かる大事は朝廷に奏聞すべしとの議を建てる者があった。
以て如何に朝廷が国政運用の上に進出して来られたかを知るべきである。
米艦の来航奏聞
されば嘉永六年六月、米艦の浦賀に来航するや、幕府は之が爲に軫念在らせられん事を慮り、直ちに所司代脇坂安宅に命じて之を奏聞せしめた。
即ち安宅は、「六月十五日来鑑に就いては深く憂慮すべき事態にも立ち到らぬとは予想すれども、近来しばしば外船が来航することであるから、或は国体に拘る事なしとも測り難いので、幕府に於いても充分に防禦の策を講ずる」旨を奏聞し、且つ安宅の気附として「叡慮を以て外患の祈祷を仰出さるべきや否や」を候し奉ったのである。
此の事が天聽(天皇)に達するや、孝明天皇は痛く震襟を悩まさせ給い、直ちに七社七寺[9]に七箇日間の祈祷[10]を命ぜられ、幕府に対しては、「防禦の事は幕府に於いて格別厳重に措置する趣なれば、別條なき事と御安慮在らせられるも、萬一国体(天皇)に拘るが如き事があっては、誠に御不安に思召されるので、七箇日の祈祷を仰出された」旨を宣達あらせられた。
米艦の退去奏聞
尋いで同月二十日、安宅は幕府の命を承けて米艦の退去を奏聞し、且つ外患の祈祷は異国船調伏の先蹤に依って、其の退去にも拘らず、なお継続して神国の光輝を益々顕(あらは)されたき旨を奏請した。朝廷は之を允(いん/許)させられ、四海の静謐、万民安穏の為に祈祷を継続せらるべきこと、並びに米艦の退去に依って、叡慮を安んぜられた旨を仰出されたのである。
米国書の訳文を上る
然るに七月十二日(安政三年)、幕府は更に所司代をして米国国書の訳文を上り、実に容易ならぬ事で、幕府に於いても種々、評議を重ねているが、誠に国家の一大事であるから、叡聞(天皇)に達する旨を奏し、且つ国書の受理は全く一時の権道(方便/一時しのぎ)であることを奏聞せしめた。
斯かる幕府の奏聞は大いに廷臣を驚愕せしめ、武家伝奏三條実萬は、驚愕極まりなしと言い、前穫大納言東坊城聡長は、米国の書札が不文且つ礼意を失している、然るに幕府は回答をなし得ず、明年の夏を約束したそうであるが、是れ天下政機(政治的基本)を失するものというべしと、幕府の優柔不断を概歎している。
かくて委曲を叡聞に達し、爾後しばしば之に処する事宣(対策)がせられた。
外交に関する朝臣の意見
關白鷹司政道は米国国書の趣旨は平穏で信義あり、決して憎むべきではない。往古諸国と往来通信した先蹤もあれば、今日交易を開くも、敢て子細(しさい/問題)はなかろう。或は斯かる説は寛(ゆるやか)に過ぎるとの衆評もあらうかと述べて、長崎一港を限り、貿易を許容すべき意見を建て、且つ「外交処置は幕府の商量(扱う)する所であるから、米国要求の許否如何に就いて、朝廷から左右する事もなし難かるべきか」と言って、幕府の措置に容喙(ようかい/口出し)せぬ態度を示した。
一代の耆宿(きしゅく/徳望のすぐれた人)たる鷹司関白の此の異数(極端な)の見解は、相当に朝議に影響すべきであったらうが、多数の廷臣は之と反対の意見であった。
三條実萬[11]は之に対して「此の論是か否か、愚昧にして決し難きも、虜情後代の害恐るべきもの歟」と言って前途を危み、且つ幕府の宰領(しょうりょう/事の処理・判断)に放置するの不可を切論して、「幕府が議事を商量するは、朝廷に於いて奈何ともし難きことながら、国家の大事に至っては公武を論ぜず、国政全般に対して憂国の至誠を抱く者が黙止すべきであらうか」と述べ、権中納言鳥丸光政・議奏久我建通(権大納言)は孰も同様の意見で、建通は其の日記に政道の意見を評して「彼国の金を取り、此国を富さんなどとは、扨々心得方悪しく三歎(さんたん)すべきである。終には此国の蠶食(さんしょく)せられる事を心得ざる歟(か)、歎ずべし云々」と記している。
外交に関する朝議
尋いで鷹司關白は叡慮(天皇の意見)を奉じ、議奏・傳奏を会して「外交の措置に就いて、若し幕府から宸裁を奏請して来た際、両役の議論が区々では不都合であらうから、予め其の所見を一定する要があらう」と諭して、評議を開いた。政通は依然開国説を執り、当時の武士は怠惰怯懦(きょうだ/卑怯)であって、所詮外国に敵し難からうから、それよりも寧ろ交易を許して、利を挙げた方が上策だと主張した。併し参集の諸卿は悉く不同意であって」、三條実萬は、「人々の按ずる所と齟齬の説、其の是なる所以は凡愚の及ぶ所でない。関白の命ずる所悉く以て甘心せぬ。執政の臣が異類(海外勢)の虚偽に沈溺するは悲歎すべきである。併し今所見を開陳するも益なからむ。言う莫れ々々」と其の手記に書している。以て朝議に於ける関白が自説を固執した状が想像せられるであらう。かくて朝議は大体政通の意見通りに決し、七月二十二日、伝奏三候実萬・坊城俊明は所司代邸に至り外国一件を叡聞に達したるに、国政は兼て関東に御委(まか)せの事なれば、特に御措置は在らせられぬが、米国使節再渡の際に於ける取扱如何は、諸社御祈念の叡慮も在せられるので、予め聞召され置かれたき旨の内旨を宣達した。
幕府は其の措置の内定を待って直ちに奏聞すべきを復答したのである。此の間に畏れくも天皇は深く国体が損せられ、禍患が胎される(きざし)ことを宸憂あらせられたが、此の後に於いても時々関白・議奏・傳奏を召されて諮詢あそばされた。
尋いで露艦長崎来航の説が京都に伝はるや、八月十六日、鷹司関白は武家伝奏をして虚実を禁裡付武士に問はしめたので、翌日所司代より其の実事にして、国書を受理する旨を奏聞した。是に於いて叡慮は益々安んぜられず、神宮始め諸社への祈願をしばしば仰せ出されたのである。
勅使東下と外交垂問
是より先、七月二十二日、將軍家慶の喪が発せられたので、二十六日、廃朝[12]五日を仰せられたが、十月二十三日、権大納言兼右近衛(うこんえ)権大将徳川家祥を征夷大将軍と爲し、内大臣に任ぜられ、名を家定と改めた。尋いで十一月、勅使三條実萬・坊城俊明を江戸に遣して、將軍の宣旨を傳達せしめられるに際し、幕府がなお対米措置を決し得ず、人心動揺する由が伝ったので外交事情を尋問せしめられた。
依って同二十七日、実萬等は城中に於いて老中安部正弘に会し、対米措置について深く軫念在らせられる旨の御沙汰書を授け「外交の事は誠に神州の一大事であるから、益々、衆心を堅固にして国辱後患のないやうに努力すべし」との叡旨を宣達した。
正弘等は恐懼して「將軍は只管叡慮を安んじ奉るを念(精神)とし、有司も亦其の意を体して熟慮対策を決せんとしている。若し朝延に於いて思召の程があれば、御遠慮なく仰出しを願いたい」と答え、一意朝命を遵奉する旨を誓い、詳細に外交事情を陳疏したのであった。
かくて十二月、勅使が帰洛して復命するや、鷹司関白は米使再渡に対する幕府の布達(所謂海防大号令)を朝臣に示し、外患の為に痛く宸襟を労し給い、神州を汚さず、人民を損せぬとの叡願を以て諸社に祈祷を仰出され、明年は月次の和歌御会をも停止し、祈願の諸社に於いては、法楽(法会)の和歌を講じて神慮を慰め給う思召であることを諭告したのである。
尋いで翌安政元年四月、幕府は米国と和親條約を締結した顛末を奏聞するに及んで、天皇は深く之を憂慮あらせられ、朝臣の間には大いなる衝動を惹き起こした。
東坊城聰長は其の日記に之を非議して「統べて米使の要求を許容したのは神国を汚すものである。當初からかく平穏の措置に出る程なれば、何も諸侯国々の兵を動かす要はない。警備々々と称して、徒らに之を疲弊させながら、今に及んで彼の要請を容れ、剰へ二港を開くとは神明に対して何の顔がある。悲嘆々々。皇国の汚辱之に過ぎるものはない。惧るべし。催るべし。徳川家の政事も滋に至って終焉である」と論じた。
閏七月、鷹司関白は、叡旨を奉じ、軍備拡張の勅諭書を幕府に達した。其の大意は、
過般来米艦滞泊中は彼是自儘背制の所業もあったが、武備不充分の爲に余義なく平穏の措置に出たのは、已むを得ぬこととは思召すのである。併し此の上にも外侮を招き、諸夷相踵(つ)いで渡来するに至れば、国家の疲弊、国体の汚損を深く軫念あらせられる。近年災異が荐(しき)りに至るも天譴と深く御慎みあり、厚く神明の冥助を祈願あらせられんとの叡慮である。幕府に於いても警戒に弛みなく、弘化三年八月の勅諭を奉戴し、全国の力を尽して神州の瑕疵とならぬやう指揮すべし。
と、此の頃頻発する天変地殃即ち旱魃、彗星の出現、皇居炎上、近畿・関東の地震等にも、深く御謹慎在らせられると共に、禦侮の籌策に就いて、厳諭を幕府に下されたのである。叡慮の程誠に恐懼に堪えぬ所であるというべきである。
京都及び近畿の警備
外交問題に件って京都並びに近畿の警備が朝幕間の重要な案件となった。
曩に嘉永六年十一月、勅使三條実萬等が、江戸城に於いて老中阿部正弘等と会談した際、京都の警衛を一層厳にするよう内慮を達し、正弘等は之を奉承した。
翌安政元年二月、朝廷は重ねて幕府に之を督促せられ、また鷹司関白は内旨を徳川斉昭に伝えて、幕府を督励することを求めた。幕府は所司代脇坂安宅に之が調査を命じ、安宅は京都町奉行・伏見奉行等に意見を徴して具申する所があった。
四月幕府は先づ彦根藩主井伊直弼の羽田・大森(武蔵)の警備を解いて、専ら京都警衛に当らしめ、尋いで膳所藩主本多隠岐守康融(やすあき)・高槻藩主永井飛騨守直輝(なおてる)に同じく京都を衛らしめた。
九月、露艦ディアナが突如摂海に闖入して京幾を擾がすに及び、幕府は益々、京畿防備の忽(ゆるが)せに出來ぬを覚り、十一月、更に小濱藩主酒井忠義・郡山藩主柳澤時之助を京都警衛に加へ、更めて康融・直輝及び篠山藩主青山下野守忠良・淀藩主稲葉正邦に京都七口[13]の警備を命じ、別に紀州藩主徳川慶福(家茂・参議)・徳島藩主蜂須賀斉裕・明石藩主松平兵部大輔(たいふ)慶憲に摂海沼岸の要衝を戍(守)らしめ、宮津藩主本荘伯耆守宗秀・田邊藩主牧野豊前守誠成(たかしげ)・峰山藩主京極備中守高富(たかとみ)に京都北方の各領内沿岸の警備を命じ、且つ加太浦(紀伊)・由良・岩屋(以上淡路)及び明石(播磨)に砲台を造築して大坂湾の防備を厳にした。斯くて京都及び近畿の警備は、江戸及び江戸湾警備と略、均衡を得るに至ったのである。
朝幕関係の一新
以上叙述し来った如く幕府は朝旨を奉じて、外交措置に就いて委曲を奏聞し、また京畿の警備にも力を注いだのである。
尋いで安政二年七月、新に禁裏附に任命された都筑峰重の赴任に際し、老中阿部正弘は米・露・英三国との和親條約書の謄本を授け、特に峰重が曩に下田奉行在任中親しく折衝に当って事情を熟知しているので、関白以下議奏・傳奏に外交事情と開国の已むを得ない所以とを開陳し、之を叡聞(天皇)に達するよう命じた。
依って九月十八日、峰重は所司代と共に参内し、鷹司関白及び議奏廣橋光成(前権大納言)・萬里小路正房(権中納言)・武家傳奏三條実萬・東坊城聰長(ときなが/前権大納言)に見(まみ)え、具さに其の使命を陳述し、質疑に答えた。かくて同二十二日関白は所司代を招き、左の叡旨を伝えた。
幕府段々の処置を具さに聞召され、殊の外叡感あらせられ、先づ以て御安心遊ばさる。容易ならぬ事情が、斯くまでに折り合ったに就いては、千萬苦労であったことと思召さる。尚此の上の取扱は国体に拘らぬやう努めるべき旨を将軍に申し伝えるように。また老中其の他掛員の心労の程も御推察遊ばさる。
と、誠に優渥(ゆうあつ/厚い)なる御沙汰を賜はり、なお爾後の措置を怠らず努力すべきやう依頼し給うたのである。
斯くて嘉永六年末米使渡来以後の朝幕の関係は頓(とみ/急に)に一変し、朝廷は国家の大事に就いて幕府をして一々之を具状せしめ、聖諭を下して其の措置如河を諮問し給うた。幕府も亦慎んで臣節を尽して其の委曲を奏聞し、また叡旨を奉戴したのである。
斯くの如きは之を既往に徴しても其の例がない所であって、非常時局に際会し、朝権が俄然伸張し来ったことを如実に語るものでなくて何であらう。
安政の開国は上述の如く、一応は朝廷の諒解せられる所となったが、益々多事多端の時局の推移と、幕閣首脳の更迭等に依って、之に件う朝幕関係も愈、複雑となり、後日に至っては決して順調に進展するものではなかったのである。
五 開国後の幕閣情勢
神奈川条約調印後の幕閣動揺
曩に幕府の海防参与を命ぜられた徳川斉昭は、閣老阿部正弘の調停に依って時に妥協的態度を示したが、猶対外硬論を主張し、日米條約締結前、既に自説の行はれ難きを察し、病と称して暫く登営しなかった。
尋いで安政元年三月、神奈川條約の締結せられるや、斉昭は米国の強要に因って斯かる結果となったことを慨歎し「最早徳川の天下も霜を履んで堅氷至る」とて、衰微の著しきを憂え、海防の参与を辞退し、病と称して登営しなかった。
安部正弘は大いに当惑し、且つ老中首座として責任の重大なるを痛感し、四月十日、幕閣を更新し、人心を一新するが為に辞表を提出した。老中牧野忠雅も亦責を独り正弘のみに帰するに忍びずとて、病と称して出仕せず、幕閣は頗る動揺した。
偶々皇居炎上(四月六日)の報が江戸に達した。將軍家定は益々前途を憂え、正弘に懇諭して
辞意を翻さしめ、閣僚も亦切に正弘を慰留して止まなかったので、正弘は台命黙し難く、遂に再び出仕して時局の収拾に当ることとなった。
当時猶引寵中の徳川斉昭は、正弘から己れの留任を告げて、助力を求め来ったに対して「内憂外患並び至る御時節、貴兄にて御担当之無く候ては、天下の有志解体、如何様なる世態に成行き候も測り難く候間、何分御勉強之程、偏に渇望いたし候云々」と答えて之を激励した。
幕府は一方斉昭に対しては其の勤めを労(いた)わり、四月晦日一先づ其の登城を免じ、大事があれば登営して其の議に与るべきを命じた。是に於いて斉昭は未だ其の職務を免ぜられぬ迄も、幕府との関係は漸く稀薄となるに至った。
幕閣の改造
斯くて内外益々、多事多難なる時局に際し、再び幕政総理の責に任じた阿部正弘は、今にして徳川斉昭の後援を失うを不利であるとなし、再びその出馬を懇望し、斉昭の勧告を容れて先づ幕閣の改造を断行した。即ち安政二年八月、幕府が老中松平和泉守乗全(西尾藩主)・松平伊賀守忠優(ただます/上田藩主)を罷免したのも其の結果であった。
尋いで幕府は諸政の改革を行うべきを令して、其の大綱を天下に布告し、同十四日には台命を斉昭に下し、防備並びに軍制等の改革を行うに因り、隔日に登営して之に参与すべきことを命じた。
堀田正篤の老中首座
茲に正弘は再び斉昭及び声望を有する松平慶永・島津斉彬等有力なる諸侯の支持によって、諸政の改革、外交の措置に邁往すべきであった。
然るに軍制改革は着手後、著しき成績を挙げ得ず、諸侯及び幕府有司の間には失望の声が起り、また毀鐘鋳砲の太政官符の実施も、熾烈なる反対連動の爲に意の如くに進捗せず、剰へ正弘と斉昭との和諧協調は、一部の諸侯には反感を懐かしめて、彦根藩主井伊直弼・高松藩主松平讃岐守頼胤(よりたね)等溜間詰諸侯及び幕府内の一部より、密かに正弘・斉昭二人を排斥しようとする者すらあったと称せられた。
殊に斉昭の主張する対外硬論及び諸政革新の意見に対しては、幕府の吏僚中之に賛意を表する者が鮮(すくな)いので、正弘は斉昭との協調を失はず、其の間を糊塗するに少からぬ苦心を要したのであった。
之に加え、正弘は弘化以来老中首座として永く幕政に鞅掌(おうしょう/専心)し、特に米使渡来以降の難局に処して、幕府内外の諸勢力を巧に操縦し、政局の破綻を弥縫(びほう)し来ったので、少々困憊して政治に倦(う/疲れる)み、また自家の重責に省みて衷心頗る安んぜぬものがあったことは、爾後二年ならずして世を去った点に徴(照らす)しても推測せられる。
偶々、同二年十月二日、江戸に大地震が起って、城郭を始め諸侯の邸宅等が破壊し、市中五十余箇所より火を発して其の災害甚しく、また斉昭の股肱である水戸藩の偉才藤田東湖・戸田蓬軒二人が、藩邸に於いて圧死したのであった。
而して比の災後の措置は正弘の責務を一層加重せしめたので、同九日、正弘は溜間詰諸侯の推輓(すいばん)による佐倉藩主堀田正篤(まさひろ/正睦・まさよし)を推挙して老中と爲し、勝手掛を命じ、自ら退いて首座の地位を譲った。
堀田正篤
正篤は曩に天保年間老中を勤め、其の功労により溜間詰格に斑せられ、日常西洋の文物に興味を有っていたので、世人から「蘭癖」と称せられていた。彼の起用は徳川氏三家に諮る前例を履まず、全く正弘の英断に出でたと称せられた。
松平慶永は此の際の正弘の意衷を忖度して、「正弘は其の先見の明に依り、自ら威勢の盛大なるを戒懼し、良善にして事に害なき先輩を選んで首座に薦め、大権を分つの智術に出でた」と評し、また正篤とは性格其の他に於いて全然相異り、所謂反りが合う筈のない徳川斉昭は「此度再勤の堀田は、既に蘭癖の称もあり、阿部も好まず、予も好まざる者なるに、何れよりの建白にて任命せられしや、発表後中納言(水戸藩主慶篤)の咄にて初めて之を知った」と言って不満の意を洩らしたのである。
されども幕府内にては正篤の入閣を以て幕閣は強化されたと見たものもある。即ち島津斉彬は松平慶永に「閣中の様子を内偵するに、堀田出でて万事不安薄らぎたりと言う者ありと聞き及んだ」と報じ、柳河藩主立花飛騨守鑑寛(あきとも)は「當今の繁劇なる政務を大小となく阿閣一人が担当するは、心底に任せぬことなるに、此の後如何なる変動の起こり来らうも計り難き時世に、斯くては甚だ心許なければ、堀田を再起せしめたことである。去り乍ら萬事は依然阿閣の方寸に出づべき由に聞き及んだ」と言っている。
以上は幕閣首脳者の更迭に関する幕府内外の情勢を示すものである。
かくて表面安部正弘に代って堀田正篤が其の首班となったが、猶暫くは正弘が機務の中枢を占めていたので、直ちに幕閣の施政方針に顕著な変化を見なかった。
溜間詰諸侯の勢力
併し正篤の背後には溜問詰諸候があることは看過すべきではない。
溜間諸候は時代によって多少の相異があって、安政年間には家門の四松平家(高松・桑名・会津・伊予松山)、譜代の門閥である井伊(彦根)、本多(岡崎)、酒井(姫路)、松平(忍)及び溜間班の堀田(佐倉)、溜間詰格の酒井(小浜)であるが、其の政治上の地位は徳川三家の外に在って、同じく將軍の諮詢に答え、叉自ら意見を進言するの権を有し、三家及び老中に対して隠然たる一勢力であった。當時溜問詰諸侯の中にて牛耳を執れるは井伊直弼であった。
而して是等諸侯の対外意見は、多くは避戦論であり、或は消極的な開国論であって少なくとも主戦を標榜するものは一人もなく、直弼は曩に所謂出貿易を唱え、正篤は試みに通商を開始すべしと建議し、之を徳川斉昭の主張する対外硬論に比すれば、全く相容れぬ所で、彼等より見れば、斉昭の説は不通の論たるに過ぎなかった。
之に加え、米使来航以来露・英使節と折衝を重ねた幕府の当局は、漸次海外の情勢に通暁し、大いに啓発せられた所があり、幕閣の一部には修交通商の到底避け難きを認識する者もあるに至ったのであった。
されば正篤を首班とする幕閣の大勢が益々開国に向う事は想像するに難くない。偶々、安政三年七月、米国総領事タウンゼンド・ハリスは、神奈川條約の條款に基づいて下田に来任して條約の改訂を迫らんとし、叉英国香港総督ボーリングの来朝説及び英船アロー号に因る英軍の広東襲撃の警報が、相次いで至り、再び幕府を戒慎せしめたと共に、朝野を警醒せしめるに力があった。
斯くて幕閣に於いても旧勢力は次第に後退し、名実共に正篤を中心とする幕閣は出現し、幕府内外の情勢は茲に一変するに至った。此の事は次章に於いて詳説するであらう。.
以上
第九回東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
□市内外在住者の方、年齢を問わずどな
たでも参加できます
日 時 令和四年二月二十六日(土)
午後一時から三時
会 場 東京町田「木曽森野コミュニティーセンター」
資料代 三百円
[脚註]
[1] 宇和島藩主伊達宗城 養子・大身旗本山口正勝の次男・大身は三千石以上の旗本。「守」名のりができた。・幕政参与・将軍後嗣運動では一橋派・公武合体の提唱者。
[2] 反射炉 熱を反射させて不純鉄を精錬し、鋳型に流し込み、大砲・小銃等の部品を製造する設備。始め佐賀藩が製造に成功し、それを他藩・幕府が模倣する。遺構は、静岡県伊豆韮山、鹿児島県旧集成館、山口県萩市椿に残る。
[3] 小普請窪田治部右衛門 「小普請」は、幕府直参の御家人のこと。治部右衛門(じぶえもん/鎮勝・しげかつ)。窪田鎮勝は、幕府講武所の教授(柔術)の家柄で、幕府浪士組の取締役となる。鎮勝の柔術の弟子に今井信郎がいた。今井は直心影流の師範代であった。今井は幕府浪士組から京都見回り組に入った。今井は見張りをしていたとして、竜馬暗殺の詳細を明治に入ってからの取調で告白している。
[4] 脇坂淡路守安宅 播磨国(兵庫)龍野藩主(五万三千石)。この後老中時代に万延元年三月の「桜田門外の変」の際に水戸浪士達の趣意を示した「斬奸状」の宛先となる。
[5] 衆生済度 仏法により衆生を悟りへと導くこと。
[6] 五畿内七道(ごきしちどう) 律令制による行政区画をいう。五畿は、山城・大和など。七道は東海道・中山道など。
[7] 頃年墨夷(アメリカ)再び相模海岸に乗り入れ 安政元年正月十一日再来。三月三日には、神奈川条約(修好条約)が締結された。
今秋露夷(ロシア)畿内近海に渡来す。 安政元年九月十八日、露艦が突然開国の交渉を求めて、大阪湾天保山沖に投錨する。。同年十二月ニ十一日、幕府は下田においてロシアとの間に「和親条約」に調印した。
[8] 天台座主宮輸王寺宮 北白川宮能久(よしひさ)親王。孝明天皇の義弟。上野寛永寺貫主・日光輪王寺門主。兄は青蓮院宮・中川親王。
[9] 七社七寺 七社は伊勢・賀茂・岩清水など。七寺は東大寺・仁名寺・延暦寺など。
[10] 祈祷 天皇による祭祀。神仏習合形式で天皇の祭祀を司る寺社が執行する。
[11] 三條実萬 当時武家傳奏。安政の大獄で落飾し、片田舎で悲憤のうちに死去する。文久三年「京都八・一八の政変」で長州に亡命する七卿の指導的公卿三條実美は実萬の子である。
[12] 廃朝 天皇が政務をとらない期間。
[13]京都七口 朝廷、幕府、寺社が設ける関所。関銭を徴収した。東寺口、鳥羽口などがある。
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第5回テーマ 海防勅諭と沿海防備
日時:令和3(2021)年10月23日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
第一章 孝明天皇の初世
(『概観維新史』(P65‐P92)を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
第三節 外警の瀕至と幕府の対策
四 海防勅諭と沿海防備
(六)海防掛の設置
幕府は弘化二(一八四五)年七月、新たに海防掛を設け、老中安部正弘(文政二[一八一九]生/当時二十七歳)・牧野備禅守忠雅・若年寄大岡主膳正忠固・本多越中守忠徳を始め、幕吏中の英傑を抜擢して海防に関する事務を担当させた。
また当時蘭書によって兵学等を研究する方法は、不十分ながらも開かれており、洋式砲術及び調練は、長崎町年寄高島秋帆(しゅうはん)によって、江戸の西郊徳丸ヶ原(板橋区)で公式に試された。このように、幕府が国防計画を立て、西欧諸国に倣ってその充実を図るための機関と基礎とはすでに備わっていた。
しかし、財政窮乏にあった幕府は緊急を要する諸施策を実行することができず、また、昇平の餘弊として、綱紀は弛緩し、士気は頽廃に傾いていたので、国防計画も庶政同様に因循姑息に流れ、その実を失い、いたずらに形式化するに至っていた。
これを実例に見ると、弘化三(一八四六)年末、米国艦隊の浦賀来航に際し、江戸湾常備に当る忍藩(おしはん)主松平下総守忠国は、幕府に具申して警邏(ら・巡)船に貫目玉以上の大砲を登載すべき命を受けたが、このような大砲は警備地に数挺数えるのみで、しかもこれを船上に備えても船体は動揺して、照準も定めることができず、敗北は明らかと防禦の不備を訴えた。
また、八月浦賀奉行大久保忠豊(ただとよ)等も、米艦「コロンバス」(備砲八十門)の威容に驚き、舷(船壁)の厚さ約二尺(約60㌢)余り、大砲を打ち掛けるも物の役に立たず。我が方の防禦力を糾合して当たるも、米艦二艘の戦闘力の九分の一にも及ばずと述べて、速やかに砲台を設け、兵船を造ることの急務なるを幕府に建議した。
また、同年九月忍藩とともに江戸湾の警備に任じていた川越藩が幕府に書き上げた相模沿海警備の兵器・武器・兵員を見ると、貫目玉以上の大砲を備えたのは、観音崎台場(六門)、城ヶ島安房崎台場(二門)・走水の十石崎台場(二門)・同旗山台場(六門)・猿島(一門)、大津陣屋に千五百人余、三崎陣屋に五百人余、外に水夫・人夫等を合わせて総計五千九百五十五人であった。砲台が貧弱に対して兵員が多いのは一般的であった。外船が海上に現れると台場陣屋に幔幕を張り、旗幟(きし)を林立させ、長柄・槍・鉄砲(火縄筒・石打筒・ゲペール銃)を飾って、夜は煌々と篝(かがり)を焚き、その間を戊衛の士が右往左往するという状況であった。
このようにして、幕府は江戸湾警備強化の必要を認め、韮山代官江川太郎左衛門を伊豆七島を巡視させ、目付松平式部少輔近韶(ちかつぐ)等に命じて浦賀付近防備を巡倹させ、その復命にもとづいて評定所一座及び海防掛に審議させた。その結果、翌弘化四(一八四七)年二月に至って、新たに譜代の雄藩彦根藩主井伊掃部頭直亮(弼)・会津藩主松平肥後守容敬(かたもり)を警備に加え、彦根・川越二藩に相模沿岸を担当させ、会津・忍二藩に安房・上総海岸を防衛させることにした。
(七)警備四藩
幕府は以上右の四藩に金を与え、藩主の参勤を緩めて、もっぱら警備に力を尽くさせた。しかし、四藩の中にはその家格・伝統からこのような特殊任務を課されたことに不満を抱いて、幕府に訴え、またこれに加え、これらの藩と浦賀奉行との間には緊密な協調・連絡を欠く所があった。
同年五月、浦賀奉行戸田伊豆守氏榮は、幕府の旨を受けてあらかじめ警備方法を四藩との間に協定し、外船に対する措置は平穏を旨としようとしたが、議は容易に決せず、翌嘉永元(一八四八)年五月に至ってやっと決した状態であった。
また、台場の築造を見ると、弘化四(一八四七)年十一月、千駄崎(相模国三浦郡)に改修を行った外は、他に著しきものなく、同年八月の川越藩稟申(上申)中に見える台場・備砲の数量は、これを六年前に書き上げたものに比して大差ない始末であった。
江戸湾防備の実状について、当時の先覚者佐久間象山は、「諸砲臺を見るに一箇所として実用に適するものなく、江戸湾口を通過せんとする船を撃沈するが如きことは、全く不可能である」と評している。
(八)長崎の警備
長崎は外国船出入の唯一の海口であるが、ここの警備充実についても、幕府の姑息な態度が窺われるのである。長崎港防備の薄弱なことは、すでに文化五年英艦狼藉(フェートン号事件)[1]の際に暴露し、その後筑前・佐賀二藩は、港内の太田尾・女神・神崎・高鉾等の諸台場を補強し、また筑前藩主黒田美濃守・佐賀藩主鍋島肥前守齊正は、西洋の火技に留意し、鉄砲・操練等を奨励する所があった。
弘化三(一八四六)年九月、二藩は同港警備の方略を議して港口の伊王・神(沖ノ島)二島に砲台建設の急務を建議した。幕府は多額の費用を要すること、およびここを防衛するために却って二藩の力を消耗させることを考え、これを採用しないばかりか、二藩が申請を重ねることを嫌って、「建議の趣旨は尤も千万であるが、この上申請を重ねても聴許し難く、強ひて請願に及べば、仮令御為筋を思ふての事なりとも不敬であろう」と二藩の要請を抑え、別に二藩には港内の要所を目立たないよう改修を命じた。
しかし、佐賀藩はこの二島が同藩の領地でもあり、自力で砲台を建設することを決意し、幕府から五万両を借りて設計を様式にし、大砲を鋳造し、嘉永六(一八五三)年にこれを完成させ、筑前藩も港内の防備を強化した。この時この二藩がこのような熱意を示し、努力を払ったのは、その任務の重大性を認識していたこと、文化年度の前例(フェートン号事件)があったからで、とくに佐賀藩はこの点を強く認識していた。
(九)諸藩の武備
長崎港及び江戸湾の防備を除いては、京畿の大阪湾、神宮に近い伊勢・志摩海岸または、蝦夷・對馬のような遠島は所在藩の警備に委ねられただけで、幕府は特に施設する所はなかった。したがって、当時の諸藩の中には、切迫した時勢に覚醒し、非常時意識のもとに、海防の充実を画策するものもあった。
水戸藩は、藩主徳川斉昭の意を受けてもっぱら力を兵備に用い、天保の末年すでに和洋折衷の大極陣を組織し、神発流の鉄砲術を採用して諸藩に率先し、福井藩主松平越前守慶永(よしなが)・薩州藩主嶋津薩摩守斉彬・宇和島藩主伊達遠江守宗城(むねなり)・津藩主藤堂和泉守高猷(たかゆき)等は斉昭に海防意見を聞き、また斉昭・斉彬の間では盛んに所蔵の蘭書を交換して、実践的な研究が行われた。
藝州藩も弘化三(一八四六)年、銃砲鋳製所を創設し、これは後に「集成館」と命名され、領内の要所に砲台を築造し、兵制の改革を断行し、長州・土州・福井・松代等の諸藩においても銃陣の編成、様式砲術の奨励、砲台の築造等に力を用いた。
その他大小の諸藩も幕府の武備奨励によって藩地または江戸藩邸内において頻りに調練を試み、鉄砲の鋳造、砲術の演習を行い、または沿海警備の部署を定めるなどを行った。しかしその内容は、防備の実用に適せず形式に流れるものが多く、到底欧米先進国の堅艦巨砲に立ち向かえるものではなかった。
(十)蘭国再度の忠告
海外の情勢は長崎の蘭(オランダ)商館長が提出する「別段風説書」によって幕府に伝えられた。嘉永三(一八五〇)年には、米国政府内に、我が国に交易開始を求めようとする議が行われたことが報ぜられ、翌四年には北米カリフォルニア地方における金鉱の発見、これに伴う人口の激増とパナマ地峡に横断鉄道が開通したことが報ぜられて、太平洋上の交通が頻繁となり、我が国と米国との関係が一層緊迫していくことが予想された。
翌五年の初め、米国政府は我が国に門戸開放を熱望し、使節を我が国に派遣することを決定した。オランダ政府はこれを関知するとともに、米国政府は使節の任務が平和裏に遂行されることを望んで、オランダ商館にその協力を求め、これが先のオランダによる再度の忠告となった。オランダ東インド総督は、軍艦を派遣することは避け、ドンケル・クルチウスを長崎商館長に任命し、総督の書翰を長崎に持参させた。新商館長は同年六月長崎に着任し、米国使節の渡来と同国の要求条項を記載した「別段風説書」を幕府に提出し、総督公翰の受理を求めた。
幕府は前回の忠告に対する返翰に固く書翰受理を拒否した面目上、その措置に窮したが、「書翰にてはこれ無く、全く筆記にて答書等を望む筋もこれ無く」として、風説書同様の物と見做すと苦しい言い訳をつけて八月、受理した。
オランダ東インド「総督公翰」の要旨は、「鎖国の危険を力説し、米国使節の到着以前に、まず日蘭間に通商条約の締結を望み、相互に委員を任命することを求めた。翌年オランダ館長は、奉行の要求によって、条約草案を提出し、同時に米国要求を一部容れ、また古来葛藤を起こさなかった国々のみに通商を許すことを定義し、条約の細目には、長崎一港の開市、外国官吏の長崎駐留、外人居住権および治外法権の設定、貯炭所の設置などを挙げている。
幕府はこれを海防掛に下して評議させたが、その答申は、「事の内情が審らかならずして判断に苦しむに依りさらに蘭館長に質し、長崎奉行の意見を聞くべし」というに過ぎなかった。さらに帰府した牧志摩守義制(よしのり)[2]は、「元来蘭館長は貪欲の者にて我が国が到底米国、その他に通商を許可せぬものと予断し、却って自国の一手に我が国産を引き受け、これを他国に転売せんとする所存であろう」と具申した。
(十一) 幕府の姑息
このようにして、蘭国再度の忠告も単に米国使節の来訪を予報しただけで、その際に処する當路の覚悟と準備とを啓発するには至らなかった。
幕閣の主席安部正弘は、形勢の切迫を憂慮し、十一月、オランダ商館長「別段風説書」を辺境警備の諸藩に限って内示したが、世論の紛起することを恐れ、オランダ東インド「総督公翰」等は厳秘にして徳川斉昭にさえこれを秘した。幕府はこの重大な警告に接しても、「なほ偸安姑息の因習より脱却し得ず、ついにまた勇断革正の機会を失った」。したがって、「その後半年の間、幕府が拱手してなんら見るべき対策を講じなかったことは不思議ではなく、浦賀湾頭に強力な艦隊の出現に直面して周章狼狽策の施すべきものなく、その前に屈服せざるをえなかったのである。これまた当然のことと言はねばならぬ」。
第一章 孝明天皇の初世
第四節 和親条約の締結
一 ペリーの来航
(一) 米艦浦賀に現る
嘉永六(一八五三)年六月三日の朝五ッ時(午前八時)頃、伊豆沖の濃い霧の中を黒煙を吐く二艘の船が異形の帆船二艘を伴って東航するのが見えた。やがて未の上刻(午後二時)には、十余艘なる我が役船が乗り留めようとするのに目をくれず、これを後に残して快走を続け、未の中刻(午後三時)過ぎには浦賀鴨居村の海上に投錨した。これこそが米国印度艦隊司令長官海軍大将マシュウ・カープレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)が率いる「サイクェハナ」、「ミシシッピ」、「プリマス」、「サラトガ」の四艘からなる米国艦隊であった。
この報を得た浦賀奉行戸田氏榮(うじよし)は、ただちに彦根・会津・川越・忍(おし)の警備四藩の兵に厳戒を命ずると共に、支配組与力中島三郎助・香山榮左衛門等を旗艦「サスクェハナ」に遣わして、その来意を問わしめた。この時米艦は、砲口を開き、哨兵その他の士卒を部署に就け、戦闘準備をなし、万一を警戒していたが、使節は奉行以外には面接せぬと称して、その乗艦をこばみ、かつ我が警避船が艦隊を阻止しようとするのに対して、武装艇を出して威嚇退散させようとした。
三郎助等は百方説得を試み、自ら浦賀副知事と称し、この官職に相当する乗組士官に会見することを求め、これに対して和蘭小通詞堀達之助と二人のみが上艦を許され、副官「コンティ」大尉等と面会し、その来意を尋問することができた。
当時邦人間に黒船と呼んだ汽船の快走振りや使節の傲慢な態度は、「進退自由にして、迅速に出没し」または、「応接のものを寄せ付けず、配下の者と談合するを拒み、泰然自若として、実に容易ならざる軍艦にて、この上の変化は計り難し」と浦賀奉行が幕府に急を報じた届書中にありありと見えている。すなわち、米艦の威容、使節の威嚇は、これと接触した当初から我が出先官憲に異常な衝動を抱かせたと共にこの報告を受け取った幕府當路者にも困惑をもたらした。
そもそも米国が使節に同国海軍の司令官を任命し、一大艦隊を率いさせて我が門戸を叩かせたのはどのような理由があったのであろうか。
第一は、捕鯨船隊のために適当な避難所を我が港湾に求めていたことである。第二は我が国に漂着した米人を扱うのに過酷にしないこと、第三に新領土カリフォルニアと清国との間に新航路を開き、我が国のどこかに貯炭所を設けようとしたことで、要は我が国に開国の実をあげさせようとして、結果米国政府が従来にない決意をもってこの遠征を計画したのである。
(二) ペリーの使命
このようにして、嘉永四(一八五一)年、米大統領フィルモア[3]は、カリフォルニアに救護されていた我が漂流民十七名(摂津国栄力丸乗員)の送還を機会に宿望を実現するために、東印度艦隊司令長官オーリックスに使節を命じた。しかし提督はその航海中事故のために免職され、翌五年閏二月郵便総監の職にあったペリーがその後任を命じられた。
使命遂行の手段として、強力な兵力を備えて示威活動できること、できれば日本の元首(将軍)に謁見して大統領の親書を渡すこと、海難に遇った米国市民に対する人道的待遇について、日本がこれに反する措置をとるならば、米国が強硬な決意を有することを表明して、厳重に将来の保障を要請すること、日本にキリスト教を布教しないことを公約し、また米・英両国人の区別を明示して猜疑を抱かないよう留意すべき事等が指示された。
その使命は平和的なもので、自衛上止むを得ない場合の外は、兵力の行使は許されないが、侮蔑を受ける際には、いささかも仮借することなく、米国の威厳確保に注意し、国力の強勢を誇示する事に努めることと命ぜられ、極めて広範な自由裁量権限が付与された。
このような訓令を受けたペリーは深く前任のビットル提督[4]等の失敗を参考に、熟慮の結果、まず我が国の官憲に接する際に終始毅然たる態度を示し、与し易からぬ事を知らしめ、亦その使命を貫徹するために、懇請に出るのではなく、米国の必要に応じて要求する姿勢を堅持すること、その最悪の場合には、武力を行使することも決意していた。
こうして、嘉永五(一八五二)年十月、軍艦ミシシッピに乗艦して米国を出発し、翌六年二月、清国に達して艦船集合を図ったが、大艦隊を編成することができず、まず琉球に先航して中山王朝を訪問し、那覇付近の測量、さらに小笠原に航し二見浦内に貯炭所要地を買収し、移住者に自治法を与え、殖産の方法を指導し、同島が太平洋横断航路の中継基地として適当であることを確かめて、再び琉球に行き、五月二十六日、旗艦サスクェハナに乗船し、他の三艦を率いて那覇を出発し、一路我が国に来航し、浦賀湾頭折衝の当初から我が国官憲を威圧する態度に出た。
(三) 幕府の態度
当時の我が国の状態は、国民は武陵桃源(*昇平)の夢から覚めず、幕府の権威は既に墜ち、その対外政策は、苟且(こうしょ)偸安(とうあん/*その場しのぎ)に堕して、退嬰を事とし、国防の充実は頻りに叫ばれるにも拘らず、その実はほとんど挙がらず、一たび外力の強圧に遭えば、ひたすら逡巡畏縮する外ない状態だった。
したがって、米国艦隊の来航について予め指示を受けていなかった浦賀奉行等にこれを迎える用意がなかったのは当然であった。よって、米艦の厳戒の中やっと乗船した与力中島三郎助は、常例として長崎回航を諭告したが、大尉コンティに拒否された上、国書受理につき翌日の回答を約して退艦を余儀なくされた。
翌四日、奉行戸田氏栄(うじよし)は、与力香山栄左衛門を米艦に遣わしたが、使節ペリーは自ら会見せず、艦長ピューカナン中佐等をして面会させた。栄左衛門は前日の諭告を反復したが、艦長等は依然としてこれを拒み、「若し貴方にて国書受理を肯んぜざれば、使節は充分なる兵力を備えて上陸し、あくまで達成を図るべし、その結果は如何なる事態を惹起するやも測られず、もし事端発生後交渉の要あれば、白旗を掲げて来たれ、然らばただちに発砲を中止すべし」と言い放った。
栄左衛門は、当日の事をその手記に「かくも断固言い放った際の相貌、将官はもちろん、一座居合した異人一同は、殺気面に顕れ、衷心必ず本願の趣意を貫徹せしめたき心底の程察せられたり」と記し、胸中密に国書の受理は到底避け難きを予想したが、なお幕府に講訓するに必要な期間の猶予を求め、七日を期して決答すべきことを約して会見を終えた。こうして、氏栄は、即刻栄左衛門を江戸に遣わし、現状を報告して指揮を幕府に仰いだ。
(四) 米国国書受理に関する幕議
これより先、米艦来航の警報は、三日の深更江戸に達し、市中の動揺甚だしくして人心恐々たるものがあった。嘉永六年六月四日、幕府はまず浦賀奉行及び江戸湾警備四藩に非常警戒を命ずると共に、固くその軽挙を戒めた。同日夕、与力香山栄左衛門が帰府して、浦賀奉行以下疑義の次第をも併せて報じ、「もし旧典を固守する結果、兵端を開いて彼の武力に屈して国書を受理するに至れば、国体にも拘る大事なり。されば、諸事穏便を主とし、国書を受理して然るべきや」と請訓すると幕府は驚愕し、国書受理如何の決定が焦眉の急務となった。
五日、営中における老中安部正弘以下三奉行、海防掛の集議の大勢は、国難を招く不利を避けるためには租放の改変も止むを得ないとしたが、決定には至らなかった。
(五) 徳川斉昭の意見
安部正弘は、和戦安危の分岐点に立って、この夜一書を前水戸藩主徳川斉昭に致して意見を仰いだ。斉昭は即夜これに答えたが、「拙老兼々憂苦し建白せし事ども採用せられず、今更如何ともする術なく当惑するのみ。今に及んでは打払いをよきと計りは言い難く、さればとて書翰を受け取らば、打払いよりも更に後憂を醸すべし」と定見なきを告げ、「兎角衆評の上決断する外なし」と述べたに過ぎなかった。しかし、斉昭は尚憂慮に堪えないものがあり、翌六日朝さらに書を正弘に与え、自ら進んで幕議に参加することを求めた。この時斉昭が別に家士藤田東湖等に示した手書に、米艦撃攘の不可なる所以を述べて、「従来渡航の外船は、先方に戦意なかりしにより、我が方より打払いの挙に出れば直ちに退散せしも、この度は戦を挑むものなれば、我が方より事端を開くは、彼の術中に陥るものにて、堅艦巨砲の具備せぬ当方に勝利の見込みなし」と説いて、未曾有の国難と事態の切迫とを諭してた。
(六) 米艦の江戸内海進入
この間に浦賀停泊中の米艦は、我が国法をも顧みず、「自家の行動も米国国法の命ずる所である」
と抗弁し、端艇(小型船)を下ろして浦賀湾内を隈なく測量した。嘉永六年六月六日、更にペリーは、「ミシシッピ」を護衛艦として、思うままに端艇を内海に出して付近を測量し、観音崎・猿島を越えて深く小柴沖に達した、これを見た我が戊兵は、変に備えんとして右往左往し、都下騒然、老幼を他に避難させる者あり、老中以下布衣以上の有司も急ぎ登城して非常を告げるなど、米人の傍若無人の行動は、幕府を大いに驚かした。
(七) 幕府国書受理に決す
六月六日に行われた米国の国書の扱いに対する幕議は、「支那の如き大国に阿片の騒乱あり、
蘭国先日の忠告も亦正にこの際のことを警告したもので、還海の我が国にしてもし兵端を啓かば、海岸の防備はいまだ充実せざれば、容易ならぬ国難にも及ぶべし」との理由で、「まず一時の権策により、浦賀において国書を受理し、然る後徐に方策を講ずべし」に決した。
よって、在府の浦賀奉行井戸石見守弘道に対して、まず国書を受理し、国体を汚さず後患なきよう処置すべきことを令し、速やかに任地に赴かせて、別に急使を派遣して旨を戸田氏家に伝達させた。
幕府はかねて、福井・高松・姫路・阿州・熊本・長州・柳河の七藩に、江戸付近の要衝警備のために出兵の用意を内達したが、米艦の内海進入に驚き、さらにその部署を定めて警固に当たらせ、また府内に厳戒を令し、有司に非常出陣の用意を命じ、品川付近に豪邸を構えている仙台・土州・因州諸藩に各藩邸を警固させるなど、不慮の変に備えた。
しかし、これらの警備諸藩の中には、米艦に対する措置について、硬軟の意見が区々に分れて指揮を請うものが多かった。幕府はこれに対して諸事平穏を第一義とし、たとえ米艦が陣営前を通過し、またはその乗員が上陸しても争端をひらかぬよう指令したので、警備諸藩の壮士やこれを伝聞したものの中には、幕府の軟弱な態度に憤慨し、批難の声が起きた。
(八) 九里浜の会見
米国使節への回答の期日である嘉永六年六月七日の朝、戸田氏栄は、幕府の回訓に接したので、ただちに香山栄左衛門を米艦に派遣し、国書を受領することを通告し、その手続きについて協議した。栄左衛門はビューカナン艦長等と会見し、浦賀は外国使節との応接地ではないが、今回に限り枉(曲)げて国書を寺領するが、会見の際は回答はせず、その返翰は国法に従い、長崎において清・蘭両国人の仲介をもって交付する旨を伝えるが、ペリーは第三者から返翰を受けることはできない、再びこの地に戻ってきてこれを受け取ると主張させた。この協議において米側が、国書の謄本を提出し、後に米使が将軍に謁見して正本を提出したいとする要求に対して、栄左衛門は正副二本を同時に受理するとしてこれを拒否した。
六月八日、奉行井戸弘道が浦賀に赴任し、翌九日、氏栄・弘道の二人は久里浜応接所に米国使節と会見し、国書を受理した。この日ペリーは蒸気軍艦二艘を九里浜の前面、艦砲の射撃有効距離に投錨させ、三百余名の武装陸戦隊を上陸させて、新設の埠頭と応接所との間に整列させた。使節は、参謀長アダムス中佐以下の幕僚を従え、旗艦から発射する十三発の礼砲に送られ、威容を整えて上陸し、応接所に入る。
その時、彦根藩兵二千余人、川越藩兵八百余人は陸上を警固し、会津藩船百三十艘、忍藩船五十余艘は海上を警戒し、幕府麾下の士、下曽根金三郎は新訓練兵一隊を率いて応接所の警衛に当った。
式場では、通詞(通訳者)がまず両全権(氏栄・弘道)を紹介し、米国使節は大統領の親書・信任状および将軍への呈書二通を提出し、米人約官は右文書の性質を日本側の通詞に説明し、香山栄左衛門は国書受領の書を全権より受けて、これを米使の前に提出し、日本側使節はその蘭約文を披露した。日本側は数日中に全艦隊を退去させ、翌年春に再渡するよう告げ、国書授受の儀を終えた。
(九) 米国艦隊の内海移動
幕府の當路者および警備諸藩の首脳等は国書を受領して重荷を下ろしたが、米国使節は応接を終えて帰艦すると全艦隊に投錨を命じ、浦賀水道を越えて江戸湾に進み、夕日に映える金沢沖にその威容を現した。浦賀奉行はこれを見て狼狽し、香山栄左衛門を旗艦に派遣して、浦賀に引き返すよう求めたが、相手は近く来着する大型軍艦の投錨地を探しているとして、翌十日、なお深く艦隊を進め、江戸市内を遠望できる海面に達した後、金沢沖に停泊した。
この事態に、浦賀その他の海陸の警備地からの注進が昼夜なく殺到し、市中には流言飛語が百出し、士民は戦が始まるかのように思い、荷物を持ち出して難を避けようとする者、また陣笠火事具に身を固めて兵器を持ち運ぶ者が巷間(こうかん)に満ちるなど、都下騒然たる有様であった。
この夜半、老中・若年寄以下の有司も武装を整えて登城し、出陣の部署を議し、翌暁になって退城した。安部正弘もこのような米人の傲慢な態度に憤慨し、書を岳父松平慶永に寄せて、「余り軽蔑の所行、切歯の事故、直ちに打払いまでと覚悟も決し候」と告白した。
十一日朝、栄左衛門は三度米艦に赴いて、ビューカナン艦長等に会見し、その退去を迫ったので、米使も明暁をもって抜錨する旨を約束した。
(十) 米国使節の退去
米使ペリーが我が国に即時回答を求めず退去を認めたのは次の理由による。もし幕府が内裏に上奏もし、かつ諸侯会議に附議する必要を理由として、回答を遅延すれば、糧食の不足による退去せざるを得ない。幕府への贈品を積む船が未着であり、また清国での長髪賊の擾乱(太平天国の乱)[5]に艦船を派遣する必要も生じたので、一度退去して明春麾下の全艦隊を結集しての再渡来を得策としたからであった。こうして、翌十二日朝、米国艦隊は退去した。
(十一) 米使の自賛
以上米国使節来航以来十日間の折衝で、不甲斐なくも幕府が畏縮退譲したのに反し、米使ペリーは、徹頭徹尾我を威圧してその目的をほぼ達成した。この遠征に同行した旅行家ベイヤード・テイラーは、国書授受がこのように容易に運んだのを見て、「この迅速にして予期せぬ日本側の譲歩は、我等を驚愕させた。私はこれは提督が初めより交渉について毅然たる態度をとったためと確信する」、「私達は過去二世紀の間にどの国もなし得なかったことを僅か四日間でこれをなし得た」と自負している。
この事態は、当時の難局に当面した幾千幾万の先人を切歯扼腕せしめたものであり、その悲憤はやがて幕府の因循姑息を非議する声となり、国論の沸騰は米国使節の再渡来によって、さらに激しさを増していったのは当然のことであった。
第一章 孝明天皇の初世
第四節 和親条約の締結
二 日米和親条約の締結
(一) 幕府の対外措置
幕府が米国国書を受理したのは、必ずしも開国の利益を認めたためではなく、また鎖国政策の維持し難きを認めたためでもなく、主として米人の圧迫によって退譲を余儀なくされた結果であった。しかも幕府はその優柔不断を糊塗して、これは一時的な権宜(便宜)の措置であると説明した。しかし、翌年には米国使節が約束として再渡来し、厳しい談判に及ぶことは幕府だけではなく、諸侯および世の識者等も予期した所であった。
したがって幕府は、この対策を急ぎ、朝威を假り、あるいは徳川斉昭を起用し、広く米国国書に対する意見を集めて、幕府の強化と挙国一致の結成とに苦心し、あるいは事態の急迫に備えるために、急遽自衛自強の策を講じて庶政の刷新に努めた。
嘉永六年十一月朔日、幕府は輿論の帰趨を考慮して米使再来の際における措置の大本を天下に布告し、「米使再来せば、事に託して決答を遷延し、その要求については許否を明示せずして退去せしめ、且つこれを遇するに努めて穏和をもってするも、万一彼より乱暴に及ぶこと無しと言いがたければ、諸侯は宜しく防備を厳にし、忠憤を忍び義勇を蓄へ彼の動静を熟察し、もし兵端が開かれるにおいては、一同奮発して少しも国体を棄損せぬよう上下尽力すべし」と令した。
また、これと関連する一工作として、幕府は長崎在留の和蘭(オランダ)商館長に依頼して、将軍家慶の薨去(この年六月二十二日)、および新将軍家定の襲職(十一月二十三日)を米国政府に告げ、これに伴う礼典その他国政の煩雑な都合により暫く回答ができないとして、使節派遣の延期を求めた。
以上は幕府が米使再渡来前、あらかじめその折衝について衆議を経て決定したものであった。これを吟味すると、その天下に号令した大方針というものは、自分からは確固とした意志を表明せず、ただ決答を先送りして、相手が穏やかに退去するのを待つというものであり、勘定奉行川路左衛門尉聖謨(としあきら)等は、これを「ぶらかし」策と評したように、実現性のない定見のない姑息の術策に過ぎなかった。
したがって、もし相手側から事端を起せば、勇憤力戦、少しも国体を損するなかれと言う。その言う所は立派であるが、米使が退去してその再来まで僅か半年の期間で、窮乏している幕府の財力を傾け、あらゆる機能を動員して武備を整えたとしても到底米国の堅艦巨砲に及ぶべくもなかったのである。
以上の考察からすれば、米使を来春に迎えようとする我が国に、その政情と世態にはもとより相当の推移と変化とを認め得るが、その当面する国難に対応する覚悟と用意とは前回と同様、旧態依然と言う外はなかった。このようにして、米使との再交渉は、第一回の折衝と同様の経過を繰り返し、幕府は租法を厳守し得ずその一部を破ったが、その次には結局その租法の全部を失って、米国との間に新たに条約を締結し、門戸を開放するに至るのであった。(『概観維新史』p92まで)
以上
第六回 東京町田「幕末維新史」を学ぶ会
日 時 十一月二十日(土) 午後一時から三時
会 場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
町田市木曽東一―二 ℡〇四二―七二五―四九三九
小田急町田駅バス乗り場②より「都営住宅前下車」
資料代 三百円
[脚註」
[1] フェートン号事件 文化五(一八〇八)年、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に突如侵入し、オランダ商館員を捕え、薪水・食料などを得て退去した。非交易国の軍艦の不法侵入に対しなすすべのなかった長崎奉行松平康秀は、責任を痛感し、その始終を遺書に残して切腹した。肥前藩主も逼塞を命じられるなと、幕閣に与えた衝撃は大きかった。この後もイギリス船の来航が多く、またロシア軍艦の南下も目立つようになり、幕府は文政八(一八二五)年、「異国船打払い令」を出した。
[2] 牧志摩守義制(まきよしのり)は旗本、長崎奉行時代に薩摩藩から送られてきたジョン(長濱)万次郎を取り調べている。嘉永三(一八五一)年十月三日から十一月二十二日の間に十八回取り調べ、「万次郎すこぶる怜悧にして国家の用となるべき者なり」と幕府に報告している。嘉永六年四月、江戸城西丸留守居となる。
ジョン(長濱)万次郎 万次郎は、天保十二(一八四一)年、十四歳の時に土佐から漁に出て嵐により彼を含め五人が鳥島に漂着する。五ヵ月後アメリカの捕鯨船に救助され、万次郎等はハワイ・ホノルルに上陸する。船長は万次郎に教育を受けさせるために、マサーセッチュ州フェアーヘブンのバートレット学校に入学させた(天保十四[一八四三]年頃)。万次郎は同校を優等の成績で卒業した後、捕鯨船に乗ってアフリカからインド洋を通り、ホノルルに達した。五百頭の鯨を捕獲してアメリカに帰る間に万次郎は一等航海士になっていた。日本に帰るためにカリフォルニアの金山に入って六百ドルを稼ぐ。万次郎は嘉永四(一八五一)年に琉球に着き、万次郎は琉球から鹿児島に送られ、薩摩藩主嶋津斉彬と会って西洋帆船を作り献上した。長崎の奉行所で取調べを受けた後、故郷の土佐に帰った。この時彼は二十四歳であった。万次郎は土佐藩の侍に召しだされ、長濱と性が与えられた。土佐で万次郎から西洋の事情を聞いた人物には、坂本竜馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎等がいる。ペリー後の幕政改革で万次郎は幕府の直参に取り立てられた。その後万次郎は、幕府の天文方和解御用に取り立てられ、アメリカ航海書の翻訳、軍艦教授所の教授となり、咸臨丸に乗り、アメリカに行き、また汽船を買うために後藤象二郎と上海行き、普仏戦争の時には視察団の一員となった。また、東京大学の前身である開成学校の教授となり、住んでいた江東区砂村で英語の教授もした。
[3] 米大統領フィルモア 第十三代アメリカ大統領、太平洋地域へのアメリカの影響力の拡大に関心を向けペリー艦隊を日本に派遣した。
[4] ビットル提督 アメリカ海軍軍人。一八四六(弘化三)年、中国との最初の条約交渉に当り、日本にも寄港し、江戸幕府と門戸開放を折衝するが拒否されて退去する。
[5] 太平天国の乱 「長髪賊の乱」とも言う。アヘン戦争以後の清朝の衰運に乗じ、広東のキリスト教徒洪秀全を中心とした中国革命運動を言う。一八五一(嘉永四)年、洪の率いる上帝会は、思想・宗教・政治・社会全般の改革を要求して広西(カンシー)省に蜂起し、国号を太平天国と定め、土地均分、租税軽減、男女平等などのスローガンを掲げた。この太平軍にはアヘン戦争後の失業者・解散兵・貧農などを多く含み、五三年には南京を占領した。日本のペリー来航の年である。しかし、清朝の軍隊は英・仏などの援助のもとにこれを圧倒し、六四年、南京を奪回、洪は自殺。太平天国革命は壊滅した。この反乱は中国革命の先駆として多くの影響を残した。
① ②
③ ④
① ぺりー来航図
② 長濱(ジョン)万次郎
③ ペリーの横浜上陸
④ 横浜応接所に入るぺりー
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第4回テーマ 幕末期の朝廷と幕府との関係(下)
日時:令和3(2021)年9月18日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第四回テーマ]一 幕末期の朝廷と幕府との関係(下)/二 海防勅諭と沿海防備
/三 和親条約の締結
令和三(二〇二一)年九月十八日
東京・町田木曽森野コミュニティーセンター
一 第一章 孝明天皇の初世
第一節 幕末期の朝廷と幕府との関係(下)
(『概観維新史』(P38‐P82)を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
一 尊王論攘夷論の勃興
(1)国民伝統の信念
我が国は神国であって、皇祖肇(始)めて基を開き皇宗長く統(統治)を伝え給うことは、我が国のみに限る。この考えは国民伝統の信念である。併(しか)し月に盈虧(えいき/満ち欠け)があり、物に顯晦(けんかい/明暗)がある如く、時にこの自覚に消長がないではなかった。然るに徳川時代は昇平が久しく続き、幕府も学芸を奨励したので、諸般の学問と共に、古典の研究も起り、自ら国体観念の自覚を促し、延いて尊王論の台頭を来たして、終(遂)に武家政治の根底を動揺せしめるに至った。
幕府は最初漢学[1]を重んじ、朱子学[2]を採用して、文教政策の基を立てたが、元来朱子学は性理の学を説き、禅譲放伐[3]を是認して、覇道を擁護する学説であるが、我が国にあっては、その大義名分の説[4]を我が国体に合致せしめて解し、尊王思想を助長せしめた点に於いて、我が日本朱子学には独特の面目(功績)があった。
(二)朱子学の名分論
林羅山が幕府に聘(招聘)せられてから、その子鵞峰・孫鳳岡(ほうこう)以下家学を継承し、儒官として幕府に仕え、諸藩も亦幕府に倣ってこれを藩学に採用したので、朱子学は全国に普及し、維新の変革に活動した志士にも、この朱子学の教えを受けた者は少なくはなかった。
特に古学[5]を唱導した山鹿素行は、初め林羅山に学び、我が国を中国と称し、皇統の無窮は皇祖の神勅に於いて既に定まっていると論じ、我が国体の尊厳なる所以を明らかにしたが、その感化は赤穂義士の壮挙となり、幕末には吉田松陰をこの学統から出した。
同じく朱子学から出て最も後代に多くの影響を与えたのは、垂加流の神道[6]を唱えた山崎闇斎である。闇斎は儒仏二教のために歪曲された思想を排撃して、純粋なる国体観を立て、その門人浅見絅斎はさらに熾烈な尊王の志を抱いて、君臣の大義を論じ、終生関東の地を踏まず、また仕官することもなく、清貧に甘んじ、常に赤心報国の四字を鍔(つば)に刻した太刀を帯び、時の当来を待って回天の義挙に出ようと念じていた。その著『靖献遺言』[7]は、憂国の志士の受賛する所となり、その感化は広くかつ大なるものであった。
絅斎の門人若林強斎(きょうさい)もまたよく師の遺風を承け、楠公の忠誠[8]を尚(尊)とんで、その私塾を望楠軒(ぼうなんけん)と称し、多年子弟の薫陶に従った。この学統から夙(早)くは宝歴事件の中心人物、竹内式部や明和事件の山縣大貳を、後には梅田雲浜[9]・有馬新七[10]等の勤皇志士が多く輩出したことからも、その感化の大なる、思い半ばに過ぎる(*想像を絶する)ものがあるであろう。
さらに闇斎の学を汲んだ栗山先鋒[11]は、絅斎の門人三宅觀瀾[12]と共に水戸藩に招聘されて、徳川光圀の修史事業を助けて大功があった。光圀は早くから人倫綱常の道を正し、大義名分を明らかにすることに努め、『大日本史』編纂の業を興して、天下に向う所を知らしめた。安積澹泊・栗山潜鋒・三宅觀瀾等が相継いで史館の総裁となり、所謂水戸学の発達を促し、後に藤田東湖によってその大成を見るに至った。
(三)水戸学の感化
水戸学は、幽谷の子東湖が藩主斉昭の命によって作った「弘道館記」[13]に見えるように、「神州の道(神道)を奉じ、西土の教(仏教)を取り、忠孝二なく、文武岐(分)かたず、学問事業その效(実績)を殊にせず(*執着しない)、神を敬し、儒を崇め、偏党あるなく、衆思を集め、群力(集団の力)を宣べ(示し)、国家無窮(*天照大御神)の恩に報いるならば、祖宗の志墜ちざるのみならんや。神皇在天の霊(*天照大御神)も降鑒(こうかん/評価される)し給はん」と、皇道を発揚し、報效(報恩)の忱(誠)を致す(尽くす)を本領とし、名分を重んじ気節を尚(尊)び、大いに尊王の精神を鼓吹したのであるが、その影響は広く天下に及び、後年の勤王志士の多くは水戸に遊んで、名士を訪ね、その風骨気概の感化を受けたのである。
蒲生君平[14]もその一人で、早くから山陵の荒廃を歎き、自ら御陵地を巡歴し、『山陵志』を著して、尊王の鼓吹に一気運を作った人である。
このようにして、水戸藩の尊王思想は、外警(欧米列強による門戸開放要求)の瀕至するに及んで、攘夷論と結合して尊王攘夷論となり、次第に実践的傾向を帯びていった。
◇ ◇ ◇
徳川光圀は「大日本史」(当時は暫定名称「新撰紀伝」)編纂の意図について、「梅里先生の碑」(元禄四年十月一日建立)に次のように述べている。[第三回「学ぶ会」で掲載]
「蚤(はや)くより史を編むに志有り。然れども書の徴すべきもの罕(まれ)なり。爰に捜(探る)り爰に購ひ、之を求め之を得たり。徴(もと)め遴(えら)ぶに稗官(はいかん)小説(民間の説話・物語などの伝承)を以てす。実を摭(ひろ)ひ疑はしきを闕(除く)き、皇統を正閨し、人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す。(略)初め兄の子を養ひて嗣と為し、遂に之を立てて以て封を襲がしむ。先生の宿志、是に於てか足れり。既にして郷に還り、即日攸(処)を瑞龍山先塋(先祖)の側に相し、歴任の衣冠魚帯(官位の衣服)を瘞(うず)め、載(すなわち)ち封じ載ち碑し、自ら題して梅里先生の墓と日ふ。(略)碑を建て銘を勒(ろく/刻む)する者は誰ぞ、源光圀、字は子龍」。
*梅里(ばいり)先生 梅里は光圀の号 光圀は、水戸黄門・水戸義公・西山公と呼ばれた。
*碑官(はいかん) 民間の説話・物語などの伝承を収拾・記録する専門官
(四)楠公崇拝
また、尊王思想を涵養助長したものとして、吉野朝廷の事蹟を説いた『太平記』の感化を見逃すことはできない。近世に及んで『太平記』[15]は士庶の間に受け入れられ、勤王思想を鼓吹したのみならず、一族が王事に殉じた忠臣、とくに楠公を思慕する国民的感情を盛んにした。
高山彦九郎[16]は、吉野朝廷の中臣新田氏十六騎の後裔と称し、十三歳の時に『太平記』を読んで志を立てと伝えているが、これは、彦九郎が燃えるような勤王心を抱いて四方を歴遊し、鼓吹に努めた動機は、吉野朝廷の回顧にあったのである。
徳川光圀が湊川に楠公の碑を建てたのを始めとし、佐賀・長州・津和野・薩州等の諸雄藩における楠公祭や楠公社造営は、楠公の忠誠を追慕するものであり、諸藩の尊王思想普及にも偉大な感化を与えた。
(五)国学の影響
次に説くのは、国学の勃興による国体観念の発達である。上述のように文教の興隆は、学問の自由討究と批判との機運を促し、国学の研究もまた進捗した。まず、釋契沖[17]が古典の学術研究に先鞭をつけ、荷田春満[18]は神衹道徳の説を立てて、古道を明らかにしようとし、その門人賀茂真淵[19]は、我が古道を以て天地自然の道として、儒仏二教を排撃し、純然たる古代精神を現代に再現することによって、皇道を宣揚しようと企て、いわゆる復古神道の基礎を築いた。
真淵の門人本居宣長[20]は、師説を踏襲して国体の本義を明らかにした。それは、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が創(はじ)められ、天照大御神が完成され、歴代の天皇がこれを継承し、永世不動、万代不易の大礎を立てられた。万世一系の皇室が実にその具現である。したがって、国民は皇祖に崇敬を捧げ、神孫としての天皇に忠誠を致すべきだと力説し、国学の神髄を明確にした。宣長の門人は四百九十余人に及んだ。
門下の平田篤胤[21]は、師宣長の古道を究明するだではなく、儒・仏および西洋の学に関して、独自の識見によって異学として痛切に批判、排斥し、熱烈な信念をもって、我が国の優越と万世一系の天皇を戴く国体とを賛美し、古道の宣揚と尊王思想の強調とによって、幕府の忌諱に触れるに至った。しかし、天保前後の世人に影響を与え、その門人は、五百五十余人を数え、没後の門人は千三百三十余人と言われた。
佐藤信淵・大國隆正・権田直助・鈴木重胤・矢野玄道・三輪田元綱等は、いずれもその門人で、維新の大業に寄与し、とくに王政復古の大本を神武天皇の御創業に則らせられたのは、隆正の門人玉松操[22]の建言が採用されたものであった。
*大化改新 六四六年
*大宝律令 七〇一年
*古事記 七一二年
*日本書紀 七二〇年
(六)国防論の台頭
次に、国家擁護論、つまり攘夷思想の発展を概述したい。由来、我が国国民性は進取・発展の気象に富み、必ずしも排外一辺倒の思想はもってはいない。しかし、徳川幕府が鎖国政策を布き、海外渡航を禁じ、また国内は、安きを求めて永く昇平の惰眠を貪るに及び、次第に進取の気象も鈍り、対外関係についての関心を失うに至った。
(七)攘夷論
こうして、北警が起きることにより、ようやく国民の覚醒を促し、国防論の台頭を見るようになった。これには、天明・寛政の頃、林子平がまず起って国防の急務を説き、世人を警醒する所があり、また工藤球卿(きゅうけい/仙台藩江戸詰め藩医・経世家)・本多利明(浪人/経世家)等は貿易の開始を非とし、論議は一段と高まったが、露船の北地に入寇するに及んで、世論は頓に沸騰して、平山行蔵(こうぞう/幕臣・兵法家)・蒲生君平等は開戦を主張し、攘夷論を唱導した。さらに南方から我が国に迫ってきた西欧諸国の東進にも驚き、文化五年、英艦の長崎狼藉に対しては、大槻玄沢(仙台藩/蘭学者)・犬塚印南(姫路藩/儒者)・平田篤胤等が英国の恐怖を痛論した。幕府は、文政八年、世論を見て、「外国船打払い令」を布いた。
(八)尊王攘夷論
次に強硬な攘夷論を主張して天下の注目を集めたのは、水戸藩であった。藩主斉昭は、尊王の志厚く、深く国防の対策に心を注ぎ、藩士藤田幽谷は攘夷の論を唱導して世人の注目を喚起し、文政年間、会澤正志斎は、『新論』を著して、国内の政治を改革し、国体を明らかにして尊王の実を挙げ、上下必戦の覚悟をもって欧米列強の圧迫を排すべしと論じた。
また藤田東湖は、『弘道館記述義』において、「堂々たる神州は、天津日嗣の世々神器を奉じて萬方に君臨し給ひ、上下内外の分、猶天地の易ふべからざるが如し。然らば則ち尊皇攘夷は実に志士人仁、盡忠報国の大義なり」と論じ、また「それ皇室を尊び、夷狄を攘ふは、文武の最大なるもの」と説いて、尊王即攘夷、攘夷即尊王を強調するに及んで、天下の有志はこの説に傾倒し、これが勤王志士の指導精神となった。
第一章 孝明天皇の初世
第二節 外警の瀕至と幕府の対策
四 海防勅諭と沿海防備
(一) 海防に関する勅諭
弘化三(一八四六)年における英・仏・米三国艦隊の琉球・浦賀・長崎への渡来は、短期間に続いたので、外警は、「独り幕府にとって、益々切実な問題となったのみならず、終に天朝に達して畏れくも宸襟を悩まし奉り、同年八月二十九日、海防を厳修すべき旨の勅諭を幕府に下し給ふに至った」。
勅諭
「近年異国船の時々出没する趣を聞食さる。然りと雖も文道は能く修り、武事は全く整ひ、特に海防は堅固なる旨を兼々兼聞食さるるに依り、叡慮安く思召さるるも、近頃外船渡来の風聞頻りに行われ、彼是軫念遊ばさる。よって、猶、この上とも武門の面々は洋蠻の小寇を侮らず、大賊を畏れず、宜しく籌策(ちゅうさく/対策)を立て、神州の瑕疵とならぬよう、充分指揮に努めて、彌ゝ宸襟を安んじ奉るべし」
この勅諭は、頻発する外患に対する幕府の措置に不安を示すもので、幕府が時勢に応じた適切な対策を講じ、「征夷」の重責を全うするよう求めたものである。これを歴史的に見ると、国政を徳川が委任されて以来、朝廷が国政に関して勅諭を幕府に下されたことは、これが初めての事であった。この事は、朝廷が幕府に意見された初めての出来事だったのである。したがって、この勅諭に対して幕府は、十月三日、所司代酒井若狭守忠義に請書(*返書)を上らせ、同時に禁裏附に英・仏・米三国船渡来の顛末を奏聞させた。
(二) 外艦祈禳(きじょう)と再度の勅諭
朝廷の外患に対する天皇の憂慮は、これに止まらず、翌弘化四年四月、石清水社臨時際には、参議野宮定祥(ののみや・さだよし)を勅使として遣わされ、[また外患を告げて神明の加護を祷らしめ給ひ、尋いで英艦「マリーナー」が浦賀・下田付近を測量するなどに対して、嘉永三(一八五〇)年四月、七社七寺に勅して國安を祈らしめ給ふたが]、同十一月再び幕府に勅して外警に関する近状を奏せしめ、とくに、辺島に外人の居住するものがないかを問い、海防に違算のないことを命じた。
幕末における政治及び社会上の大変革を促した直接の機縁は、言うまでもなく嘉永六年の米国使節、つまり孝明天皇即位の初年において、数百年来、朝廷・幕府間に存在した例格・伝統がついに破られ、ここに朝権伸張の機運が顕れたのである。
(三)海防掛の設置とその不備・江戸湾の警備
幕府は弘化二(一八四五)年七月、新たに海防掛を儲け、老中安部正弘(文政二[一八一九)生]・牧野備禅守忠雅・若年寄大岡主膳正忠固・本多越中守忠徳を始め、幕吏中の英傑を抜擢して海防に関する事務を担当させた。
また当時蘭書によって兵学等を研究する方法は、不十分ながらも開かれており、洋式砲術及び調練は、長崎町年寄高島秋帆(しゅうはん)によって、江戸の西郊徳丸ヶ原で公式に試された。このように、幕府が国防計画を立て、西欧諸国に倣ってその充実を図るには機関と基礎とはすでに備わっていた。
しかし、財政窮乏にあった幕府は緊急を要する諸施策を実行することができず、また、昇平の餘弊として、綱紀は弛緩し、士気は頽廃に傾いていたので、国防計画も庶政同様に因循姑息に流れ、その実を失い、いたずらに形式化するに至っていた。
これを実例に見ると、弘化三(一八四六)年末、米国艦隊の浦賀来航に際し、江戸湾常備に当る忍藩(おしはん)主松平下総守忠国は、幕府に具申して警邏(ら・巡)船に貫目玉以上の大砲を登載すべき命を受けたが、このような大砲は警備地に数挺数えるのみで、しかもこれを船上に備えても船体は動揺して、照準も定めることができず、敗北は明らかと防禦の不備を訴えた。
また、八月浦賀奉行大久保忠豊(ただとよ)等も、米艦「コロンバス」(備砲八十門)の威容に驚き、舷の厚さ約二尺(約60㌢)余り、大砲を打ち掛けるも物の役に立たず。我が方の防禦力を糾合して当たるも、米艦二艘の戦闘力の九分の一にも及ばずと述べて、速やかに砲台を設け、兵船を造ることの急務なるを幕府に建議した。
また、同年九月忍藩とともに江戸湾の警備に任じていた川越藩が幕府に書き上げた相模沿海警備の兵器・武器を見ると、貫目玉以上の大砲を備えたのは、観音崎台場(六門)、城ヶ島安房崎台場(二門)・走水の十石崎台場(二門)・同旗山台場(六門)・猿島(一門)・大津陣屋に千五百人余、三崎陣屋に五百人余、外に水夫・人夫等を合わせて総計五千九百五十五人であった。砲台が貧弱に対して兵員が多いのは一般的であった。外船が海上に現れると台場陣屋に幔幕を張り、旗幟(きし)を林立させ、長柄・槍・鉄砲(火縄筒・石打筒・ゲペール銃)を飾って、夜は煌々と篝(かがり)を焚き、その間を戊衛の士が右往左往するという状況であった。
このようにして、幕府は江戸湾警備強化の必要を認め。韮山代官江川太郎左衛門を伊豆七島を巡視させ、目付松平式部少輔近韶(ちかつぐ)等に命じて浦賀付近防備を巡倹させ、その復命にもとづいて評定所一座及び海防掛に審議させた結果。翼弘化四(一八四七)年二月に至って、新たに譜代の雄藩彦根藩主井伊掃部頭直亮(弼)・会津藩主松平肥後守容敬を警備に加え、彦根・川越二藩に相模沿岸を担当させ、会津・忍二藩に安房・上総海岸を防衛させた。
(四)警備四藩
幕府は以上四藩に金を与え、藩主の参勤を緩めて、もっぱら警備に力を尽くさせた。しかし、四藩の中にはその家格・伝統からこのような特殊任務を課されたことに不満を抱いて、幕府に訴え、またこれらの藩と浦賀奉行との間には緊密な協調・連絡を欠く所があった。
同年五月浦賀奉行戸田伊豆守氏榮は、幕府の旨を受けてあらかじめ警備方法を四藩との間に協定し、外船に対する措置は平穏を旨としようとしたが、議は容易に決せず、翌嘉永元(一八四八)年五月に至ってやっと決した状態であった。
また、台場の築造を見ると、弘化四(一八四七)年十一月、千駄崎(相模国三浦郡)に改修を行った外は、他に著しきものなく、同年八月の川越藩稟申(上申)中に見える台場・備砲の数量は、これを六年前に書き上げたものに比して大差ない始末であった。
江戸湾防備の実状について、当時の先覚者佐久間象山は、「諸砲臺を見るに一箇所として実用に適するものなく、江戸湾口を通過せんとする船を撃沈するが如きことは、全く不可能である」と評している。
(五)長崎の警備
長崎は外国船出入の唯一の海口であるが、ここの警備充実についても、幕府の姑息な態度が窺われるのである。同港防備の薄弱なことは、すでに文化五年英艦狼藉(フェートン号事件)の際に暴露し、その後筑前・佐賀二藩は、港内の大田尾・女神・神崎・高鋒等の諸台場を補強し、また筑前藩主黒田美濃守・佐賀藩主鍋島肥前守齊正は、西洋の火技に留意し、鉄砲・操練等を奨励する所があった。
弘化三(一八四六)年九月、二藩は同港警備の方略を議して港口の伊王・神二島に砲台建設の急務を建議した。幕府は多額の費用を要することと、この防衛および二藩を消耗することを考え、これを採用しないばかりか、二藩が申請を重ねることを嫌って、「建議の趣旨は尤も千万であるが、この上申請を重ねても聴許し難く、強ひて請願に及べば、仮令御為筋を思ふての事なりとも不敬であろう」と二藩の要請を抑え、別に二藩には港内の要所を目立たないよう改修を命じた。
しかし、佐賀藩はこの二島が同藩の領地でもあり、自力で砲台を建設することを決意し、幕府から五万両を借りて設計を様式にし、大砲を鋳造し、嘉永六(一八五三)年に完成させ、筑前藩も港内の防備を強化した。この時この二藩がこのような熱意を示し、努力を払ったのは、その任務の重大性を認識していたこと、文化年度の前例があったからで、とくに佐賀藩はこの点を強く認識していた。
(六)諸藩の武備
長崎港及び江戸湾の防備を除いては、京畿の大阪湾、神宮に近い伊勢・志摩海岸または、蝦夷・對馬のような遠島は所在藩の警備に委ねられただけで、幕府は特に施設する所はなかった。したがって、当時の諸藩の中には、切迫した時勢に覚醒し、非常時意識のもとに、海防の充実を画策するものもあった。
水戸藩は、藩主徳川斉昭の意を受けてもっぱら力を兵備に用い、天保の末年すでに和洋折衷の大極陣を組織し、神発流の鉄砲術を採用して諸藩に率先し、福井藩主松平越前守慶永(よしなが)・薩州藩主嶋津薩摩守斉彬・宇和島藩主伊達遠江守宗城(むねなり)・津藩主藤堂和泉守高猷(たかゆき)等は斉昭に海防意見を聞き、また斉昭・斉彬の間では盛んに所蔵の蘭書を交換して、実践的な研究が行われた。
藝州藩も弘化三(一八四六)年、銃砲鋳製所を創設し、これは後に「集成館」と命名され、領内の要所に砲台を築造し、兵制の改革を断行し、長州・土州・福井・松代等の諸藩においても銃陣の編成、様式砲術の奨励、砲台の築造等に力を用いた。
その他大小の諸藩も幕府の武備奨励によって藩地または江戸藩邸内において頻りに調練を試み、鉄砲の鋳造、砲術の演習を行い、または沿海警備の部署を定めるなどを行った。しかしその内容は、防備の実用に適せず形式に流れるものが多く、到底欧米先進国の堅艦巨砲に立ち向かえるものではなかった。
(七)蘭国再度の忠告
海外の情勢は長崎の蘭(オランダ)館長が提出する「別段風説書」によって幕府に伝えられた。嘉永三(一八五〇)年には、米国政府内に、我が国に交易開始を求めようとする議が行われたことが報ぜられ、翌四年には北米カリフォルニア地方における金鉱の発見、これに伴う人口の激増とパナマ地峡に横断鉄道が開通したことが報ぜられて、太平洋上の交通が頻繁となり、我が国と米国との関係が一層緊迫していくことが予想された。
翌五年の初め、米国政府は我が国に門戸開放を熱望し、使節を我が国に派遣することを決定した。オランダ政府はこれを関知するとともに、米国政府は使節の任務が平和裏に遂行されることを望んで、オランダ商館にその協力を求め、これが先のオランダによる再度の忠告となった。オランダ東インド総督は、軍艦を派遣することは避け、ドンケル・クルチウスを長崎商館長に任命し、総督の書翰を長崎に持参させた。新商館長は同年六月長崎に着任し、米国使節の渡来と同国の要求条項を記載した「別段風説書」を幕府に提出し、総督公翰の受理を求めた。
幕府は前回の忠告に対する返翰に固く書翰受理を拒否した面目上、その措置に窮したが、「書翰にてはこれ無く、全く筆記にて答書等を望む筋もこれ無く」として、風説書同様の物と見做すと苦しい言い訳をつけて八月、受理した。
オランダ東インド「総督公翰」の要旨は、「鎖国の危険を力説し、米国使節の到着以前に、まず日蘭間に通商条約の締結を望み、相互に委員を任命することを求めた。翌年オランダ館長は、奉行の要求によって、条約草案を提出し、同時に米国要求を一部容れ、また古来葛藤を起こさなかった国々のみに通商を許すことを定義し、条約の細目には、長崎一港の開市、外国官吏の長崎駐留、外人居住権および治外法権の設定、貯炭所の設置などを挙げている。
幕府はこれを海防掛に下して評議させたが、その答申は、「事の内情が審らかならずして判断に苦しむに依りさらに蘭館長に質し、長崎奉行の意見を聞くべし」というに過ぎなかった。さらに帰府した牧志摩守義制(よしのり)[23]は、「元来蘭館長は貪欲の者にて我が国が到底米国、その他に通商を許可せぬものと予断し、却って自国の一手に我が国産を引き受け、これを他国に転売せんとする所存であろう」と具申した。このようにして、蘭国再度の忠告も単に米国使節の来訪を予報しただけで、その際に処する當路の覚悟と準備とを啓発するには至らなかった。
幕閣の主席安部正弘は、形勢の切迫を憂慮し、十一月、「別段風説書」を辺境警備の諸藩に限って内示したが、世論の紛起することを恐れ、「総督公翰」等は厳秘にして徳川斉昭にさえこれを秘した。幕府はこの重大な警告に接しても、「なほ偸安姑息の因習より脱却し得ず、ついにまた勇断革正の機会を失った」。したがって、「その後半年の間、幕府が拱手してなんら見るべき対策を講じなかったことは不思議ではなく、浦賀湾頭に強力な艦隊の出現に直面して周章狼狽策の施すべきものなく、その前に屈服せざるをえなかったのである。これまた当然のことと言はねばならぬ」。
第一章 孝明天皇の初世
第三節 和親条約の締結
一 ペリーの来航
嘉永六(一八五三)年六月三日の朝五ッ時(午前八時)頃、伊豆沖の濃い霧の中を黒煙を吐く二艘の船が異形の帆船二艘を伴って東航するのが見えた。やがて未の上刻(午後二時)には、十余艘なる我が役船が乗り留めようとするのに目をくれず、これを後に残して快走を続け、未の中刻(午後三時)過ぎには浦賀鴨居村の海上に投錨した。これこそが米国印度艦隊司令長官海軍大将マシュウ・カープレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)が率いる「サイクェハナ」、「ミシシッピ」、「プリマス」、「サラトガ」の四艘からなる米国艦隊であった。
この報を得た浦賀奉行戸田氏榮(うじよし)は、ただちに彦根・会津・川越・忍(おし)の警備四藩の兵に厳戒を命ずると共に、支配組与力中島三郎助・香山榮左衛門等を旗艦「サスクェハナ」に遣わして、その来意を問わしめた。この時米艦は、砲口を開き、哨兵その他の士卒を部署に就け、戦闘準備をなし、万一を警戒していたが、使節は奉行以外には面接せぬと称して、その乗艦をこばみ、かつ我が警避船が艦隊を阻止しようとするのに対して、武装艇を出して威嚇退散させようとした。
三郎助等は百方説得を試み、自ら浦賀副知事と称し、この官職に相当する乗組士官に会見することを求め、これに対して和蘭小通詞堀達之助と二人のみが上艦を許され、副官「コンティ」大尉等と面会し、その来意を尋問することができた。
当時邦人間に黒船と呼んだ汽船の快走振りや使節の傲慢な態度は、「進退自由にして、迅速に出没し」または、「応接のものを寄せ付けず、配下の者と談合するを拒み、泰然自若として、実に容易ならざる軍艦にて、この上の変化は計り難し」と浦賀奉行が幕府に急を報じた届書中にありありと見えている。すなわち、米艦の威容、使節の威嚇は、これと接触した当初から我が出先官憲に異常な衝動を抱かせたと共にこの報告を受け取った幕府當路者にも困惑をもたらした。
そもそも米国が使節に同国海軍の司令官を任命し、一大艦隊を率いさせて我が門戸を叩かせたのはどのような理由があったのであろうか。
第一は、捕鯨船隊のために適当な避難所を我が港湾に求めていたことである。第二は我が国に漂着した米人を扱うのに過酷にしないこと、第三に新領土カリフォルニアと清国との間に新航路を開き、我が国のどこかに貯炭所を設けようとしたことで、要は我が国に開国の実をあげさせようとして、結果米国政府が従来にない決意をもってこの遠征を計画したのである。
二 ペリーの使命
このようにして、嘉永四(一八五一)年、大統領フィルモアは、カリフォルニアに救護されていた我が漂流民十七名(摂津国栄力丸乗員)の送還を機会に宿望を実現するために、東印度艦隊司令長官オーリックスに使節を命じた。しかし提督はその航海中事故のために免職され、翌五年閏二月郵便総監の職にあったペリーがその後任を命じられた。
使命遂行の手段として、強力な兵力を備えて示威活動できること、できれば日本の元首(将軍)に謁見して大統領の親書を渡すこと、海難に遇った米国市民に対する人道的待遇について、日本がこれに反する措置をとるならば、米国が強硬な決意を有することを表明して、厳重に将来の保障を要請すること、日本にキリスト教を布教しないことを公約し、また米・英両国人の区別を明示して猜疑を抱かないよう留意すべき事等が指示された。
その使命は平和的なもので、自衛上止むを得ない場合の外は、兵力の行使は許されないが、侮蔑を受ける際には、いささかも仮借することなく、米国の威厳確保に注意し、国力の強勢を誇示する事に努めることと命ぜられ、極めて広範な自由裁量権限が付与された。
このような訓令を受けたペリーは深く前任のビットル提督等の失敗を参考に、熟慮の結果、まず我が国の官憲に接する際に終始毅然たる態度を示し、与し易からぬ事を知らしめ、亦その使命を貫徹するために、懇請に出るのではなく、米国の必要に応じて要求する姿勢を堅持すること、その最悪の場合には、武力を行使することも決意していた。
こうして、嘉永五(一八五二)年十月、軍艦ミシシッピに乗艦して米国を出発し、翌六年二月、清国に達して艦船集合を図ったが、大艦隊を編成することができず、まず琉球に先航して中山王朝を訪問し、那覇付近の測量、さらに小笠原に航し二見浦内に貯炭所要地を買収し、移住者に自治法を与え、殖産の方法を指導し、同島が太平洋横断航路の中継基地として適当であることを確かめて、再び琉球に行き、五月二十六日、旗艦サスクェハナに乗船し、他の三艦を率いて那覇を出発し、一路我が国に来航し、浦賀湾頭折衝の当初から我が国官憲を威圧する態度に出た。
三 幕府の態度
当時の我が国の状態は、国民は武陵桃源(*昇平)の夢から覚めず、幕府の権威は既に墜ち、その対外政策は、苟且(こうしょ)偸安(とうあん/*その場しのぎ)に堕して、退嬰を事とし、国防の充実は頻りに叫ばれるにも拘らず、その実はほとんど挙がらず、一たび外力の強圧に遭えば、ひたすら逡巡畏縮する外ない状態だった。
したがって、米国艦隊の来航について予め指示を受けていなかった浦賀奉行等にこれを迎える用意がなかったのは当然であった。よって、米艦の厳戒の中やっと乗船した与力中島三郎助は、常例として長崎回航を諭告したが、大尉コンティに拒否された上、国書受理につき翌日の回答を約して退艦を余儀なくされた。
翌四日、奉行戸田氏栄(うじよし)は、与力香山栄左衛門を米艦に遣わしたが、使節ペリーは自ら会見せず、艦長ピューカナン中佐等をして面会させた。栄左衛門は前日の諭告を反復したが、艦長等は依然としてこれを拒み、「若し貴方にて国書受理を肯んぜざれば、使節は充分なる兵力を備えて上陸し、あくまで達成を図るべし、その結果は如何なる事態を惹起するやも測られず、もし事端発生後交渉の要あれば、白旗を掲げて来たれ、然らばただちに発砲を中止すべし」と言い放った。
栄左衛門は、当日の事をその手記に「かくも断固言い放った際の相貌、将官はもちろん、一座居合した異人一同は、殺気面に顕れ、衷心必ず本願の趣意を貫徹せしめたき心底の程察せられたり」と記し、胸中密に国書の受理は到底避け難きを予想したが、なお幕府に講訓するに必要な期間の猶予を求め、七日を期して決答すべきことを約して会見を終えた。こうして、氏栄は、即刻栄左衛門を江戸に遣わし、現状を報告して指揮を幕府に仰いだ。
四 米国国書受理に関する幕議
これより先、米艦来航の警報は、三日の深更江戸に達し、市中の動揺甚だしくして人心恐々たるものがあった。嘉永六年六月四日、幕府はまず浦賀奉行及び江戸湾警備四藩に非常警戒を命ずると共に、固くその軽挙を戒めた。同日夕、与力香山栄左衛門が帰府して、浦賀奉行以下疑義の次第をも併せて報じ、「もし旧典を固守する結果、兵端を開いて彼の武力に屈して国書を受理するに至れば、国体にも拘る大事なり。されば、諸事穏便を主とし、国書を受理して然るべきや」と請訓すると幕府は驚愕し、国書受理如何の決定が焦眉の急務となった。
五日、営中における老中安部正弘以下三奉行、海防掛の集議の大勢は、国難を招く不利を避けるためには租放の改変も止むを得ないとしたが、決定には至らなかった。
五 徳川斉昭の意見
安部正弘は、和戦安危の分岐点に立って、この夜一書を前水戸藩主徳川斉昭に致して意見を仰いだ。斉昭は即夜これに答えたが、「拙老兼々憂苦し建白せし事ども採用せられず、今更如何ともする術なく当惑するのみ。今に及んでは打払いをよきと計りは言い難く、さればとて書翰を受け取らば、打払いよりも更に後憂を醸すべし」と定見なきを告げ、「兎角衆評の上決断する外なし」と述べたに過ぎなかった。しかし、斉昭は尚憂慮に堪えないものがあり、翌六日朝さらに書を正弘に与え、自ら進んで幕議に参加することを求めた。この時斉昭が別に家士藤田東湖等に示した手書に、米艦撃攘の不可なる所以を述べて、「従来渡航の外船は、先方に戦意なかりしにより、我が方より打払いの挙に出れば直ちに退散せしも、この度は戦を挑むものなれば、我が方より事端を開くは、彼の術中に陥るものにて、堅艦巨砲の具備せぬ当方に勝利の見込みなし」と説いて、未曾有の国難と事態の切迫とを諭してた。(ここまで『概観維新史』P82)
以上
第五回 東京町田「幕末維新史」を学ぶ会
日 時 十月二十三日 午後一時から三時
会 場 東京都町田市「木曽森野コミュニティーセンター」
[脚註」
[1] 漢学 中国漢代の経学、ならびにその学風を継承する学問。経書を復興し、その訓詁(解読)を明らかにすることを主にした。経学は、経書の解釈学をいう。中国戦国時代末期(前三世紀)、儒家の間には中国古代文化の伝承、儒家説の綱領(命題)などを中心とする経書が成立。漢帝国ではこれらの経書を整備し、儒教を国教とした。経書の教養を官吏の必修の資格としたので、経学は中国歴代の正統的学問となった。六朝時代から唐代にかけて漢・魏の注を詳説する「義疏学」が行われた。宗代には朱子学が起り、明代には陽明学が現れた。清代には、経学が復興し、訓詁、考証を精密にして「考証学」となった。
「国学」との関係では、漢土(中国)の学問という意味で、中国文化の修得、研究を「漢学」という。
儒教 孔子の教説を中心とする思想・教学・祭祀の総称。宗代以後は、四書(『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』)を重視する。宋代(十一世紀)以後の「新儒教」の中心課題は、『大学』にある「明徳を明らかにし、民に親しみ、至善に止まる」という三綱領とそれへの道筋としての八階梯(格物・到知・誠意・正心・修身・済家・治国・平天下)によく示されている。すなわち、「修己治人」(自己を磨き、その完成された徳をもって、人を治める)である。日本には四世紀頃に導入されて、聖徳太子制定による「十七条の憲法」、大化の改新による「律令制」に影響を与え、大宝律令制定後の「大学寮」において必修科目とされた。この「教学」は近世初期以降、藤原星巌、林羅山、山鹿素行、伊藤仁斎等によって復興された。
[2] 朱子学 宗学、性理学、程朱学、新儒学などともいう。中国南宗の朱子に代表される人々の学説。仏教や道教に触発されて体系化された思想で、宗以後の中国。朝鮮、日本の中核的思想となった。その思想は万物の構成原質である「気」と万物の理想的なあり方を示す「理」とを中心とする。天地、人性、道徳のすべての事象がこの理と気によって説明される。それは、当時の士大夫(知識階級)の存在意義、そのめざす方向を宇宙論的規模で理論づけに成功したものであり、そのためこの思想は以後の士大夫社会に常に安定した力をもち続けた。朱子学は中国では元以後、日本では江戸時代に官学となった。日本で学派として権威を確立したのは、江戸時代初期の藤原星巌、林羅山からで、朱子学者として山崎闇斎、新井白石などが注目される。一方、朱子学の合理的性格は、実証的精神、合理的思考を育み、幕末維新の西欧文化受容の下地を準備した。
[3] 禅譲放伐 中国古代の王朝交代の二つの型。中国の君主は天帝の命によってその地位にあるものと信じられていた。「禅譲」は、現王が天命の降りた天下の有徳者に平和的に王位を譲るという理想型で、「禅譲」は譲るという意味。「放伐」は、世襲王朝の失徳の王を天下の有徳者が武力で討って代る革命、王朝の性が代るので「易性革命」という。
[4] 大義名分の説(大義名分論) 江戸幕府が設定した「士農工商」の身分制度は、儒教思想を基本とする君臣の支配・服従関係を絶対化する「大義名分論」によって支えられた。朱子学的「名分論」のもとで、幕府の権力は朝廷から委任されたものとして正当化とされた。しかし、その論理は、幕末期には、「幕府は朝廷の命に服すべき」との尊王論・倒幕論の原理ともなった。「尊王論」は、「覇道を退け王道を求める」儒教思想に由来する。*「大義」(君臣関係)、「名分」(身分・主従関係)とは、「本来の身分関係」という意味。
[5] 古学(古学派) 朱子学派、陽明学派に対して、古学派は、教書(孔子など古聖人の教え)を朱子、陽明の解釈によらず、直接経書を理解することによって、独自の思想の確立を試みた。これは山鹿素行の『配所残筆』、伊藤仁斎の『同志会筆記』に見ることができる。荻生徂徠の登場で、古学派は一段と隆盛し、徂徠の学風は「古文学派」と呼ばれ国学にも影響を及ぼした。
[6] 垂下(すいか)神道 寛文十一(一六七一)年、山崎闇斎によって創唱された神道説。「垂下流」、「山崎神道」ともいう。垂下は闇斎の号。伊勢神道、唯一神道、吉川神道を朱子学の居敬窮理の説を根本において集大成したもの。理気一体の大極にして、天地開闢神であるクニノトコタチノカミが人体神である天皇と唯一無二であるとする天人唯一の理を唱える。その教説は、『日本書紀』神代巻におけるアマテラスオオミカミの道とサルタヒコノカミの教えとに基づき、その奥秘は土金の伝にあるとする。土金は天地位し、陰陽行われ、人道立つ所以であり、敬(つつしみ)の徳を示し、人は夫れを学ぶ事によって心身を全うできる説く。門弟に正親町公通(きんみち)、竹内式部、山縣大貳若林強斎等を輩出し、江戸時代の一主流をなした。その内尊外卑(*大義名分)と尊王愛国の論は、幕末の尊王論に多くの影響を与えた。
居敬窮理(きょけいきゅうり) 朱子学が唱える学問修養の根本的方法。頃を慎んで本性を散漫()にしないようにするとともに、物事の本来理を知り尽くして、人間の先天性を修養することとが一体となって円満で統一のある人格を完成しなければならない、と説いた。
[7] 靖献遺言(せいけんいげん) 江戸時代初期の朱子学者、浅見絅斎(けいさい)の主著。八巻、寛延元(一七四八)年刊。楚の屈原から明の方孝孺まで不遇に遭っても臣として君主に対する節義を曲げなかった中国の八人の遺文を集め、その略伝及び論評を記した書。幕末の志士に大きな影響を及ぼした。
[8] 楠公(楠木正成〔くすのき・まさしげ〕)の忠誠 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、河内の土豪。元徳三(一三三一)年、後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し、河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが、落城。翌年千早城を築いて篭城し、幕府勢の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際、その戦功により河内・和泉の守護に任命された。建武二(一三三六)年、足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞等とこれを討ち、一端は撃退する。翌建武三年、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津港川にこれを迎撃して敗死。明治になって港川神社に祀られ、正一位を追贈された。
[9] 梅田雲浜 若狭小浜の藩士。山崎闇斎学派に学ぶ。藩政や海防策について藩主にしばしば建言したため士籍を除かれる。ペリー来航の際、攘夷の立場に立ち、在京の浪士と連携し、また長州藩の尊攘派に奮起を促した。安政五(一八五八)年の日米修好通商条約(五ヶ国条約問題)の際には、勅命を大名に下して攘夷を実行する計画を立て、また大老井伊直弼を失脚させて一橋慶喜を将軍にして、攘夷を実行できる幕府をつくるため運動した。安政の大獄で捕らえられ、江戸の小倉藩主小笠原忠嘉邸に預け置かれ、そこで病没する。
[10] 有馬新七 薩摩藩士。初め郷士であったが、文政十(一八二七)年有馬氏を継ぎ、安政三(一八五六)年上洛して梅田雲浜らと交わり、安政五ヶ国条約調印や将軍職継嗣問題に関して井伊直弼の独断的処分に反対する。文久二(一八六二)年嶋津久光の上洛に際して田中河内介(中山忠能の家臣)らと挙兵を策したが、鎮圧され伏見寺田屋で斬死する。
[11] 栗山先鋒(くりやま・せんぽう) 江戸時代中期の儒者。山崎闇斎の門下桑名松雲に学ぶ。元禄元(一六八八)年、後西天皇の皇子八条宮尚仁親王の侍読となり、著書『保健(ほうけん)大記』を献上する。動五年、徳川光圀の招きで彰考館に入り、『大日本史』の編纂に従事し、同十年、その総裁となる。
『保健大記』 元禄元年成立。八条宮尚仁親王に献上されたもの。享保元(一七一六)年に発刊される。保元年間(一一五六‐五九)から建久年間(一一九〇‐九九)にいたる三十年間を述べて論評したもの。武家政治の起源や皇室衰微の原因などを究めようとし、道義の確立、王政復古への念願を述べている。
平氏政権 平安時代末期、保元・平治の乱を通じて源氏の勢力をしのいだ平氏は、仁安二(一一六七)年、清盛が後白河上皇の信任を得て太政大臣となり、以後かつての藤原摂関家同様に一族こぞって、公卿・殿上人となって、国政に参加するようになった。治承三(一一七九)年十一月、後白河法皇を幽閉し、院政を否定する動きをとり、関白基房など三十九人の公卿を解任し、さらに安徳天皇(娘徳子を高倉天皇の中宮に送る)の外祖父として京都の六波羅に一定の独自政権を樹立してからは、名実ともに政権を確立した。しかし、すでに開始された内乱の中で、清盛が死去し、一一八三年の源義仲の入京で都を追われ、さらに義経等に追撃され、没落する。
[12] 三宅観瀾(みやけ かんらん) 江戸時代中期の朱子学派の儒学者。初め浅見絅斎に後江戸に出て、木下順庵に朱子学を学ぶ。元禄十二(一六九九)年、徳川光圀に招かれ彰考館総裁となり、『大日本史』の編纂に従事する。正徳元(一七一一)年、新井白石の推挙で儒官として江戸幕府に出仕。
[13] 弘道館記 水戸藩弘道館の開校に際し、その教育方針を示すために、藩主徳川斉昭が藤田東湖にその起草を命じ、会澤正志斎等の意見を徴し、天保九(一八三八)年に斉昭の名で公にした趣意書。『弘道館記』は、「神儒一致、文武岐たず、学問事業その効を殊とせず」を主張し、斉昭時代の水戸学の精神を要約的に示している。『弘道館述義』は、『弘道館記』の内容を藩主斉昭の命により敷衍注釈したもの。弘化二(一八四五)年から起草が開始され、嘉永二(一八四九)年に定稿となる。上下二巻から成り、上巻は主として日本の道の淵源と道統を述べ、下巻は現実における道の顕現を意図したもの。この書は水戸藩の尊王攘夷論の代表作として、幕末・明治期の思想に大きな影響を与えた。
[14] 蒲生君平 下野宇都宮の商家福田氏。祖母より蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)の血を引くことを聞かされ、自ら蒲生に氏を改める。国史古典に親しみ、水戸に往来して藤田幽谷と交わった。水戸学の影響の下大義名分を重んじる。寛政十一(一七九九)年、山陵(天皇御陵)の実地調査に赴き、京都近郊、摂津・河内・和泉・大和を訪れ、享和元年、『山陵志』を起草した。これは幕末尊王論の先駆けをなすものであった。また多数の憂国警世の書を残し、高山彦九郎、林子平と並んで寛政三奇人の一人とされた。
[15] 『太平記』 建徳二(一三七一)年頃成立か。五十余年にわたる南北朝の、公武の抗争を描く長編で、内容は三部に分かれる。第一部は鎌倉時代、北条高時の失政、後醍醐天皇倒幕、北条氏の滅亡、建武中興の成立まで。第二部は、中興政治の失敗、足利尊氏の謀反、楠木正成、新田義貞の戦死。天皇崩御まで。第三部は、南北両朝の成立。諸将の向背常ならぬ様を描き、正平二十三(一三六八)年、室町幕府第三代将軍足利義満を補佐する細川頼之の執事就任をもって結ぶ。物語り僧によって語られ、「太平記読み」として講釈された。
[16] 高山彦九郎 上野国(群馬県)新田郡の郷士。江戸時代中期の勤皇家。京都に上って公家と交遊し、諸藩を巡遊して勤王主義を説き、ロシアの南下を聞き伝えて松前に赴いたが、幕府に追われて久留米に逃れ、自刃。京都の三条大橋でひざまづいて遥拝した奇行は有名で、今日でも同所に彦九郎の銅像が残っている。
[17] 釋契沖 江戸時代初期から中期の真言宗僧侶。四十代頃から古典研究を始め、元禄三(一六九〇)年、『万葉代匠記』を完成する。古典の注釈書を著し、多くの古典の校訂をおこない、書入れを残し、近世国学の基礎を築いた。また、歴史的仮名遣いを制定した。
『万葉代匠記』 徳川光圀は万葉集の諸本を集め、校訂する事業に取り組んだ。寛文・延宝年間に下川辺長流が注釈の仕事を依頼されたが、病のため契沖にその事業が託された。『代匠記』(代って記すの意)は天和三(一六八三)年から着手され、元禄三(一六九〇)年に成立した。仏典漢籍の莫大な知識を補助とし、著者の主観・思想を交えないという契沖の注釈と方法がとられているる
[18] 荷田春満 江戸時代中期の国学者。京都伏見稲荷の神官。家学として神道と歌学を修める。元禄十二年以降は江戸にあって研学し、江戸幕府の御用も勤めたが、享保八(一七二三)年以降は、京都に帰り、国学の研究や子弟の教育に専念する。古典本文を批評的注釈的に研究することにより古道を明らかにしようとした。主著『万葉集僻案抄』、『万葉集改訓抄』等がある。門下に賀茂真淵等を輩出した。
[19] 加茂真淵 江戸中期の国学者。近江神職の子。早くから文学に親しみ、和漢の学を修めて荷田派の古学や古文辞学派の影響を受け、とくに漢詩や和歌に才能を発揮した。上京して荷田春満に学び、四十歳の頃、江戸に出て浪々の生活をおくりつつ、学事に努めた。和学をもって田安宗武(徳川宗武/歌人/第八代将軍吉宗の次男)に仕え、古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭、とくに『万葉集』の研究にめざましい業績を示し、万葉調歌人としても特色をみせた。本居宣長など国学、和歌双方にわたり門下が多い。国学の体系を示す論著『歌意考』、『国意考』等著書多数。
[20] 本居宣長 商家に生れる。二十三歳の時、医学修行のため上京。儒学を学び、釈契沖の著作に触れ、古学に開眼。松坂で賀茂真淵に出会い入門。『古事記』の詳細な注釈にとりかかり、三十四年(明和元[一七六四]年―寛政十[一七九六]年)をかて『古事記伝』を完成。巻末の『直見霊』(なおびのみたま)には、著者の古道観の核心が展開されている。書斎を鈴屋と名づけ門人たちへの講義を行った。国学の完成者として多大の影響を及ぼした。
[21] 平田篤胤 江戸時代後期の国学者。秋田佐竹藩士。寛政七(一七九五)年、二十歳で脱藩し江戸に出て学業に努め、寛政十二(一八〇〇)年、備前松山藩士平田家の養子となる。享和三(一八〇三)年、本居宣長の書に啓発されて、本居春庭に入門し、国学を志す。文化九(一八一二)年、『霊能真柱』を著し、その前後に『古道大意』、『俗神道大意』、『古史伝』を著すなど活発な著作活動を行なう。文政六年、京都に旅し、著作を仁孝天皇(孝明天皇の父)に献上した。天保十二(一八四一)年、江戸幕府から著述の禁止と江戸退去命令を受け、不遇の内に死去。彼の思想は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。
[22] 玉松操 幕末期の国学者。公家。国学を大国隆正に学び、明治元(一八六八)年、皇学所の設立に奔走し、その教師となり、同二年九月、東京に大学が設立されると、教師に任命された。維新には岩倉具視の腹心として王政復古の計画に参加。同三年侍読となる。同四年辞任。
[23] 牧志摩守義制(まきよしのり)は旗本、長崎奉行時代に薩摩藩から送られてきたジョン(長濱)万次郎を取り調べている。嘉永三(一八五一)年十月三日から十一月二十二日の間に十八回取り調べ、「万次郎すこぶる怜悧にして国家の用となるべき者なり」と幕府に報告している。嘉永六年四月、江戸城西丸留守居となる。
以上
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第3回テーマ 幕末期の朝廷と幕府との関係(中)
日時:令和3(2021)年8月21日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第三回テーマ資料]
(『概観維新史』を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
令和三(二〇二一)年八月二十一日
幕末期の朝廷と幕府との関係(中)
一 幕府政治の弛張
(一)頼山陽著『日本外史』
頼山陽は、「日本外史」の筆を結ぶに当たって十一代将軍家齊の治世を評し、武家政治百年の歴史を総括して「源氏・足利氏以来、軍職に在って太政官を兼ぬる者、独り公(家齊)のみ、蓋し武門の天下を平治する、是に至って其の盛(さかん)を極むと云ふ」といった。家齊は文政五年、従一位左大臣に昇り、世子家慶も正二位内大臣に進み、将軍夫人・世子夫人共に高位に叙せられ、さらに家齊は同十年太政大臣の極官に昇り、家慶も従一位に叙せられた。(註1頼山陽・註2)
徳川時代の将軍のうち、在職中に従一位に進んだ者は家光のみで、極官を拝したの者は秀忠一人であり、また世子が大臣に任ぜられたのは実に空前の事であった。
これに加えて、江戸城の大奥には将軍の妻妾四十餘人、その子女は五十餘人の多きに及び、豪奢放埓な生活を極めた。山陽が徳川氏「正記」[1]を叙して家齊の極官を拝したるに擱筆(かくひつ/記述)したのは、徳川氏の盛運を頌(ほ)めたのではなく、その僭越驕奢を憤り、朝威の衰えを嘆く意を言外に含蓄したものであろう。実に文化文政を経て天保の初め、家齊が退隠して大御所と称した時代の幕府の政治は、すでに弛緩してその外観は猶覇者の権威を備えたが、その内面はすでに衰退に傾き、その施政は不振渋滞に陥って(*実効性を失った)いるのであった。
(二)幕府政治の消長
徳川氏が覇業創立の初めに当たっては、海内(国内)優良の地方に天領八百万石を領し、全国各地に政治・経済・軍事・交通上の要衝を占め、旗本八萬騎と称して、恩顧直参の家子郎党を抱擁し、内は諸侯を統制するために親藩(徳川家近親が封ぜられる藩、紀州・水戸・尾張)・譜代(元来の家臣)・外様(関ケ原以後臣従した大名)と差別して、己が欲する儘にこれを配置し、常に相牽制せしめ、また参勤交代制を布き、妻子を江戸に留めてこれを人質として監視することを怠らず、巧みに地方分権の勢を制して、あらゆる権力を自己の掌中に収め、厳密な法度(抑圧)の威力を発揮させて、国内制御の実を挙げた。外は鎖国政策を断行して、外来勢力の侵入を排し、信仰・思想の動揺と経済上に及ぼす影響とを防いで、泰平の基礎を作り得たのである。
然るに元和偃武(「関ヶ原の戦い」)以降、昇平打ち続き、且つ文運(学問と芸術)の興隆するに伴い、質実剛健な遺風は消滅して、漸次文弱(*前例・典故主義)の風俗に移り、世態の推移に従って幕府の武断専制の政治は、次第に文治[2]寛裕に転じて、遂に綱紀弛緩(*支配体制のゆらぎ)の素因を作るに至った。
さらに、幕府が権威擁護のために新儀(*朝廷の神衹の復興)停止・租法墨守を標榜して、ひたすら現状維持の政策を執ったことは、半面に因襲の病弊を蔵して、常に溌剌清新の気を欠かしめたので、歳月を経るに従って、偸安姑息(とうあん・こそく/*御都合主義)の風を生じさせた。諸法規は形骸化してその実を失い、庶政は例格に拘泥して渋滞することが多く、且つ幕府が己の威勢を衒耀(げんよう/誇り高ぶる)して他を拘束するために、礼節威儀を尊び、繁文褥礼(はんぶん・じょくれい/無用で形式的な手続きが多い)に流れた末は、諸事その実を忘れて末節に走る弊を生じさせた。それが昇平の餘弊とあいまって、幕政の不振腐敗と社会全般の萎靡(いび/萎縮)沈滞とを招来した。
(三)商人階級の台頭と幕府財政の窮乏
戦国土着の制は変じて士庶を城下に集中させ、急激な都市の膨張を来たし、参勤交代制の結果、著しく交通の発達を促し、また泰平の余沢によって、産業を発展させたので、商業が発展した。いわゆる「日本第一、人の集り所」である江戸と、「天下の台所」である大坂とがもっぱら繁栄して、貨幣経済に立脚する商人が土地経済に依拠する封建領主に対して台頭するに至った。つまり、元来四民階級のうち、その最下級にあった商人が動かすべからざる勢力を有するに至り、その金権は幕府を始め、諸侯・諸武士等の経済に至大な影響を及ぼすこととなった。
幕府の財政は、家康から家光の頃までの初期には、安定状態にあり、その財源に十分余裕があったが、綱吉の元禄時代以降は、増大する歳出に対して計上歳入は殆ど固定し、とくに鉱産物の減少、外国貿易の縮小に伴う収入減は、収支の不均衡をもたらし、昇平の餘幣である奢侈は一層この趨勢を助長し、幕府の財政窮乏は恒常的なものとなった。
(四)士風の廃退
諸侯の窮迫もこの例にもれないものであったが、一般武士階級とくに幕府麾下の士においては、概ね遊惰に流れて、固定の収入だけでは立ち行かず、知行扶持米の前借はもとより、甚だしきは武具を質入して快として恥じず、廉恥を尚(とうと)ぶ風は地を払うに至った。
したがって血統・地位よりも財産の多寡を考えて他家から養子を迎え、家族制度を破って、いわゆる厄介の二三男を駆って、自暴自棄に陥り、市井無頼の徒たらしめるに至った。または、家賃を売買し、御家人の株に相場が立つとさえいわれるに至って、幕府が最も重要な政策とした身分制度を破壊することも行われてもこれを制することができなかった。その他少禄者の手内職は止むを得なかったが、請託・賄賂の公行など、幕吏の私曲不正は武士の権威を損じ、ややもすれば町人達の冷笑侮蔑を招くに至った。
さらに甚だしきは、領主・代官等である。その収入の不足を補填するために、農民に対する苛酷な扱いの結果、農民自身の生活向上からくる困窮を一層増大させ、彼等は土地を手放し、転業して都市に遁入する者が増え、益々農村を疲弊荒廃させた。これらの諸事象は昇平の餘幣というものであって、これらが幕府政治を不振なものとした「深因」であった。
(五)諸改革の失敗
幕府は元禄(一六三八年~)以降財政窮乏に苦しみ、しばしば平価切下げをおこなった。つまり貨幣の質を落として旧価値を保持し、その利潤によって歳入の不足を補った。この策は財政の破綻を救う重要活路であったが、物価を騰貴させ、経済・産業ひいては一般士民の生活に及ぼした弊害はきわめて重大なものであった。幕府が享保(一七一六年~)以降度々行った改革は、この貨幣改鋳による財政立て直しの外に倹約の励行、士風の粛正、生産の増進、商人至富の制限等に関する法令を雨のごとくに下した以外には何一つ出されず、一時は綱紀が振粛され、諸弊も匡正されたように見えても、財政はすべて急場しのぎで、節倹その他の諸令も到底人心を根底から覚醒作興せしめる効果がなく、その画策は概ね失敗に終わって、その抑圧が弛むともに一層甚だしい反動を招いた。
二 幕府政治の不振と諸藩の状態
(一)家齊時代の政教紊乱
寛政(一七八九年~)の初め、松平越中守定信によって行われた改革も、定信が退いて、家齊の時代には再び弛緩して、世の積弊は少しも改められず、政教の不振、士風の廃退、風俗の壊敗は一層甚だしきを加えた。
したがって、外国船の北方、西域への来航は数を増しているのに、国防は不備薄弱で上下偸安(とうあん/*事なかれ主義)を事とし、世を上げて泰平の夢を食っていたのである。
幕府の財政は益々紊乱し、勝安芳(海舟)[3]の『吹塵録』によれば、寛政元(一七八九)年から同五(一七九三)年に至る五ヶ年間には、歳入の剰余は僅少ではあるが、年平均九千六百両を算したものが、幾ばくもなく歳出超過を示した。
天保三(一八三二)年同十三(一八四二)年に至る十一年間の歳入不足の総額は、五百九十六万二千九百九十九両に達し、これを年平均にすれば、五十四万二千九十余両の不足に達していた、幕府はこの不足を補填するために文政元(一八一八)年より天保九(一八三八)年に至る二十一年間に金貨十種、銀貨六種の改鋳もしくは新鋳を行い、その改鋳による利潤を獲て、収支の均衡を維持した。その利潤の総額は、天保三(一八三二)年から十一年間に七百五十七万八千両余で、年平均六十八万八千九百両に当り、これで財政の破綻を回避したのであった。
さらに天保年間には、天変地異が頻り起こり、とくに同四(一八三三)年から連年五穀は実らず、諸国に飢饉があり、奥羽地方の惨状は著しく、全国各地に窮民が蜂起して強訴・騒擾・打毀等が発生した。
(二)大塩平八郎の乱
天保八(一八三七)年二月、元大坂町奉行与力大塩平八郎は、細民(貧民)の窮状を座視するに忍びず、これを救済しようと志して、「天子は足利以来別けて御隠居同様、賞罰の柄を御失いに付き、下民の怨み何処へ告訴とて、つげ訴える方なき様乱れ候に付き、その怨嗟の気が天に通じて、かく災異が頻りに起ったのに、幕吏はこの凶荒に際して、多量の米を将軍御膝下の江戸には廻送するが、聖天子の在らします京都には廻米の世話もしないばかりか、わずか五升一斗のこめを密に持ち込んだ者を召し捕らえ、下民を苦しめるものであるであるから、まずこれを誅伐し、さらに諸大名への貸付金の利得や、田畑新田などの収入で富裕に暮しながら、飢餓に迫る市民を救おうとせず、その身は膏梁(こうりょう/美食)の美味に飽き、紂王(殷の最後の王、暴君)長夜の宴にも比ぶべき享楽に耽(ふけ)る大坂の富豪をも誅戮に及ぶべし」と、同志に檄して、市中に火を放ち、城代屋敷、富豪の邸宅を襲った。この余波として六月、平田篤胤門下の生田万(よろず)は「天命を奉じて国賊を誅す」として、越後柏崎(桑名藩領)に騒擾を起こし、いずれも幾ばくもなく鎮定された。
平八郎が幕府直轄の地に事を擧げ、その一味の中には町与力・同心も加わっていて、城代以下を抗争の相手とした事は、明らかに幕府の専制政治に対して民心の離反を示すものであった。これと同時に天保十一(一八四〇)年、十二年において、庄内藩の領地替えを怨んで起ったこ百姓一揆を鎮撫し得ずして、幕府が転封の命令を撤回した事は、まさに一葉落ちて天下の秋を知るの感を抱かざるを得ないものであった。
(三)天保の改革の失敗
大塩の乱直後、将軍家齊は職を世子家慶に譲って西丸に入り、猶実権を握っていたが、天保十二(一八四一)年の春薨ずるに及んで、老中水野越前守忠邦が将軍の意を受けて、庶政の改革に着手し、享保(一七一六年~)・寛政(一七八九年~)の改革[4]を規範として、さらにその上の効果を上げようとした。そのため将軍はしばしば諭書を発して趣旨の徹底に努め、従来役人等が当座凌ぎを良き事として、踏み込んで自ら責任を取らないことを戒めた。俗吏に痛棒を加えて仮借する所なく、前代に官紀を乱した諸吏を黜陟(ちっちょく/人事異動)し、また奢侈の禁止、風俗の矯正にはとくに力を尽くした。
厳重な取締令と細苛な節倹令とは応接にいとまなきまでに発せられ、士庶の日常生活ならびに、衣食住に煩瑣な干渉をおこない、贅沢高価な品物、または食料の製造・売買を禁じ、初物の賞味を厳禁した。
女髪結・私娼・矢場女等は禁止され、芝居役者の取締り、書籍出版の統制も厳しくなり、為永春水は人情本を著して手鎖に処せられ、七代目市川団十郎は奢侈を咎められて江戸払いを命じられた(京都・大阪で巡業、嘉永二年赦免)。(註4為永春水)
(四)財政の救済法と忠邦の失脚
さらに、財政の救済法として経費の節減に努め、諸物価・賃金・金利の引下げを強行した。例えば、江戸・大坂の菱垣廻船以下二十一種の問屋の株(*出資者による職域独占管理の協同組合)を廃して、仲買者の専売、買占めによる物価吊り上げを抑え、湯屋・髪結等の株に至るまでこれを禁じ、経済界におおきな恐怖をもたらし、取引に円滑を欠かしめることを厭わなかった。
また、生産増進をはかるために、下総国印旛沼の整理開田に着手し、貢租を増徴するために、江戸・大坂の近郊十里四方以内にある大名・旗本領を上知(あげち/返還)させて、幕府の直轄地(天領)とし、他に代地を与えることを令した。元来諸大名の領地は、将軍の思召し次第で変更増減し得るものであるから、各自の利害であれこれ申し立つべきものではない、家康以来の恩顧に対して決して依存はあるまいと申し渡した。これに対して轟々たる反対が起きて、ついに幕府の親藩紀州侯を動かして将軍に入説し、忠邦を失脚させた。
忠邦が時弊の匡正に邁進した権宜の策も、急行に過ぎ、細苛峻厳を極めて、時勢を量らず、人情を察しない憾みがあり、且つその股肱(部下)に人を得ずして、これを誤り世の誹謗怨嗟のうちに葬り去られ、東奥の小藩(奥州・陸奥国の一つ山形五万石に転封となる)に貶めるられ、太平逸楽の弊害は改まらずして、余殃(よおう/災い)は続いて次の時代に現れるに至った。
(五)孝明天皇初世の幕府政治
このようにして、孝明天皇の御宇(時代)に及んで、安部伊勢守正弘が出て老中の首班となり、前代破綻の後を承けてこれを収集することになった。時は外警(欧米諸国からの開国要求)は緊迫が高まり、政局は多事であったので、幕府は国防の充実をはじめ、文武の奨励、検素励行の必要を認めて、麾下の士に令して戒めるところがあると共に切実に人材登用の急務なることを覚り、その推挙を命じた。財政政策についても新味がなく、嘉永・安政年間に金貨二種、銀貨四種の真鋳・改鋳を行い、依然として姑息な手段を事とし、また土木事業の繰り延ばしを令したが、嘉永三年、五年には諸国に天災凶作が続き、江戸・大坂等に大火災があり、嘉永五年に江戸城西丸(将軍職移譲後の隠居所)が炎上して不時の失費を要し、同年十月、幕府が治平の一大事業としてその権威を誇示していた朝鮮通信使の招聘をも延期するに至った。(註5朝鮮通信使)
また幕府は嘉永四年に廃止させた問屋制の再興を許し、その株に対する冥加金を徴して、収入の増加と物価の統制とを図る策に出た。しかし幕府の財政は根本的には立ち直らなかったのである。
幕府はさらに言論・思想の上にも注意を払い、弘化三年、書籍印行の取締を令し、嘉永二年蘭書の新法に赴くを禁じ、翌三年蘭書の翻訳の検閲を厳にし、その他奢侈の抑止、風俗の改良にも留意するところがあった。しかし、天保の改革の際のように徹底した政策と励行の熱意は認め難く、因循姑息のうちに当面を糊塗し、まさに迫り来る外国勢力の圧迫に対応するための用意と準備とに欠いていたのである。
(六)諸藩の状態
諸藩も幕府とほぼ同様な形態をもって同じ封建制度の上に立ち、幕府の統制下にあって、藩政治に当たったのであるが、武士の本領とも言うべき士風の上から見ると、幕府麾下の士は将軍直参という肩身の広さを意識し、他国者の立ち交わる繁華無比の江戸にあって、ともすれば緊張を欠き、驕奢に陥りやすい境遇にあるのに対して、諸藩の武士は、いわゆる御国振りを維持し、江戸に祇役(ていやく/赴任)すれば、陪臣・田舎武士と嘲笑を受ける状態であったので、質実剛健の風が保持せられたのである。
(七)諸藩の改革
諸藩の財政は幕府と同様である上、参勤交代または土木治水の御手伝い等を幕府から命ぜられて、その財力を傾けることが多かったので、藩によっては困窮を極めた者もあった。これに対する救済策としては、一般に倹約の励行、年貢の増徴、新田の開発、国産の奨励と、他方には大坂の蔵元、その他京都・江戸の富商からの借金、家士知行の借上げ、その他に藩札の発行等でかろうじて財政の破綻を防いだ。藩札は嘉永年間に百六十藩、明治四年には二百四十四藩で発行された。幕府が天保の改革を行う前後において、諸藩においても大規模な改革(「天保の改革」)が行われた。
三 尊王論攘夷論の勃興
(1)国民伝統の軫念
我が国は神国であって、皇祖始拝啓徑肇(始)めて基を開き皇宗長く統(統治)を伝え給うことは、我が国のみに限る。この考えは国民伝統の信念である。併(しか)し月に盈虧(えいき/満ち欠け)があり、物に顯晦(けんかい/明暗)がある如く、時にこの自覚に消長がないではなかった。然るに徳川時代は昇平が久しく続き、幕府も学芸を奨励したので、諸般の学問と共に、古典の研究も起り、自ら国体観念の自覚を促し、延いて尊王論の台頭を来たして、終(遂)に武家政治の根柢を動揺せしめるに至った。
幕府は最初漢学を重んじ、朱子学を採用して、文教政策の基を立てたが、元来朱子学は性理の学を説き、禅譲放伐を是認して、覇道を擁護する幕説であるが、我が国にあっては、その大義名分の説を我が国体に合致せしめて解し、尊王思想を助長せしめた点に於いて、我が日本朱子学には独特の面目(様相)があった。
林羅山が幕府に聘(招聘)せられてから、その子鵞峰・孫鳳岡(ほうこう)以下家学を継承し、儒官として幕府に仕え、諸藩も亦幕府に倣ってこれを藩学に採用したので、朱子学は全国に普及し、維新の変革に活動した志士にも、この朱子学の教えを受けた者は少なくはなかった。
特に古学を唱導した山鹿素行は、初め林羅山に学び、我が国を中国と称し、皇統の無窮は皇祖の神勅に於いて既に定まっていると論じ、我が国体の尊厳なる所以を明らかにしたが、その感化は赤穂義士の壮挙となり、幕末には吉田松陰をこの学統から出した。
同じく朱子学から出て最も後代に多くの影響を与えたのは、垂加流の神道を唱えた山崎闇斎である。闇斎は儒仏二教のために歪曲された思想を排撃して、純粋なる国体観を立て、その門人浅見絅斎はさらに熾烈な尊王の志を抱いて、君臣の大義を論じ、終生関東の地を踏まず、また仕官することもなく、清貧に甘んじ、常に赤心報国の四字を鍔(つば)に刻した太刀を帯び、時の当来を待って回天の義挙に出ようと念じていた。その著『靖献遺言』は、憂国の志士の受賛する所となり、その感化は広くかつ大なるものであった。
絅斎の門人若林強斎(きょうさい)もまたよく師の遺風を承け、楠公の忠誠を尚(尊)とんで、その私塾を望楠軒(ぼうなんけん)と称し、多年子弟の薫陶に従った。この学統から夙(早)くは宝歴事件の中心人物、竹内式部や明和事件の山縣大貳を、後には梅田雲浜・有馬新七等の勤皇志士が多く輩出したことからも、その感化の大なる、思い半ばに過ぎる(*想像を絶する)ものがあるであろう。
さらに闇斎の学を汲んだ栗山先鋒は、絅斎の門人三宅觀瀾と共に水戸藩に招聘されて、徳川光圀の修史事業を助けて大功があった。
以上
[註]
1 頼山陽
廣島(安藝藩)の儒者春水の長子。文化八(一八一一)年京都に塾を開き漢詩を教える。彼の著した史書『日本外史』は、文政十(一八二七)年松平定信に献呈された。『日本外史』は、源平二氏から徳川氏に至る「列伝体」によるもので、頼の私見・朱子学的史論を加えた通俗的な史書と評価される。この他、頼は、『日本政記』(神武から後陽成天皇までの編年史)、『通議』(現状の政治の得失から、今後の政治・経済・軍事のあり方について論じている)などを著した。頼の親交には、梁川星巌、大塩平八郎がいた。梁川星巌は、梅田雲浜等尊王派と共に朝廷、中川親王・公卿に水戸藩への戊午の密勅の降下をはたらきかけた。大老井伊直弼体制下に強行された「安政の大獄」の執行老中間部詮勝は星巌の弟子であった。梁川と親しくした人物には、頼山陽の息子、頼三樹三郎・吉田松陰・橋本佐内等がいた。
2 『日本外史』
源平両氏から徳川時代まで武家十三氏の盛衰興亡の跡を漢文で記した。著者の大義名分論が大きな影響をあたえた。二十二巻十二冊。二十余年の歳月を経て文政十(一八二七)年に松平定信に献ぜられた。名分論は、主君と臣下との支配と服従という絶対的な関係を説く。幕府の権力は朝廷から与えられた正統なものと解釈された。一方この思想は、幕府は朝廷の命に服すべきとの尊皇主義の原理となった。
3 大塩平八郎の乱
天保七年の大飢饉で大坂にも餓死者が続出したが、東町奉行跡部山城守良弼(よしすけ/老中水野忠邦〔肥前・佐賀藩主〕の実弟)は、なんら救済策を講じることなく、かえって大量の米を江戸へ廻送したため、米を買い占めた豪商等は暴利を博(得る)した。大塩は、再跡部に救済の歎願を行ったが、聞き入れられなかったので憤慨し、ひそかに門弟の与力や同心、近辺の農民らとはかり、同年二月十九日、挙兵の計画を立てた。大塩は挙兵に先立って蔵書を売り払い金六百二十両を得、これを窮民一万軒に一朱ずつ配分した。挙兵と共に大塩一党は近隣の農民に檄を飛ばして参加を呼びかけ、およそ三百人と共に天満に放火して気勢を挙げ、船場に近い豪商を襲って金穀を奪った。これに対し、大坂城代土井大炊頭(おおいのかみ)利位(としつら)は隣接諸藩に来援を求め、城兵は西町奉行堀伊賀守利堅(としかた)の指揮下に銃をもって応戦し、鎮圧した。この乱で大阪市内の家屋一万戸が焼失した。大塩らは逃れて市内に潜伏したが、間もなく相次いで逮捕され、あるいは自首し、平八郎も隠れ家を襲われて三月に自決した。大塩の乱をきっかけとして、越後の生田万の乱など各地に暴動が起きた。
4 為永春水
寛政二(一七九〇)年~天保十四(一八四三)年。代表作『春色梅児誉美(しゅしょくばいごよみ)』は、江戸深川を背景とする恋愛描写に主眼が置かれている人情本。主人公丹次郎は色男の代名詞となった。「『梅暦』シリーズ」は、二〇編六十巻を形成した。
5 朝鮮通信使
室町時代以降、朝鮮国王が日本に派遣した使節。釜山から対馬を経て大阪に到着し、京都から江戸へ東海道を下った。江戸城において国書・進物が献上され、幕府から返書が返された。文政八(一八二五)年以降は途絶えていた。これは外交関係の優位を示すものであった。
以上
[お知らせ]
東京町田「幕末維新史」を学ぶ会
第四回テーマ「幕末期の朝廷と幕府との関係」
日時 九月十八日(土) 午後一時~三時
会場 東京町田・木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第三回テーマ資料]幕末期の朝廷と幕府との関係(中)
令和三(二〇二一)年八月二十一日
尊王思想の醸成
(一)「大日本史」の編纂と水戸光圀
水戸藩第二代藩主、水戸光圀の発意による「大日本史」編纂の過程は、江戸期を通じて尊王思想を醸成し、その尊王論は、天皇親政を希求する政治的実践思想へとその先鋭度を高め、幕末期においては、尊皇攘夷運動、尊王討幕運動の思想的根拠として機能していった。
光圀は「大日本史」(当時は暫定名称「新撰紀伝」)編纂の意図について、「梅里先生の碑」(元禄四年十月一日建立)に次のように述べている。
「蚤くより史を編むに志有り。然れども書の徴すべきもの罕なり。爰に捜り爰に購ひ、之を求め之を得たり。微遴するに稗官小説を以てす。実を摭ひ疑はしきを闕き、皇統を正閨し、人臣を是非し、輯めて一家の言を成す。(略)初め兄の子を養ひて嗣と為し、遂に之を立てて以て封を襲がしむ。先生の宿志、是に於てか足れり。既にして郷に還り、即日攸を瑞龍山先塋の側に相し、歴任の衣冠魚帯を痤め、載ち封じ載ち碑し、自ら題して梅里先生の墓と日ふ。(略)碑を建て銘を勒する者は誰ぞ、源光圀、字は子龍」。
この「梅里先生の碑」文は、光圀がその前年(元禄三年十月十四日)に藩主の地位を兄の子綱条に譲り、西山荘に隠居した際に、瑞龍山に生前墓碑として、自ら筆に起こした自伝の碑文である[a]。
この碑文には、若い頃から歴史編纂の志があり、全国から史料を収集したが、その史料には正確さを欠くものが多々ある。そこで事実関係を明らかにして、「皇統を正閨し、人臣を是非し、輯めて一家の言を成す」と、紀伝による日本史編纂の目的が述べられている。
「皇統を正閏し、人臣を是非する」の意図については[b]、天和三年に行われた「易稿重修」という編集方針の改訂に明らかである。この改訂は「三大特筆」とも表現され、この史記編纂の最重要特質とされるものである。それは、①神功皇后を本紀伝から后妃伝に移すこと(天皇の系統は長嫡を第一とし正統とする)、②天皇大友紀を立てること(皇統は一系であること)、③南朝を正統とする、ことであった[c]。
これは、光圀が史記編纂の目的を、北畠親房が『神皇正統紀』において主張した、「三種の神器」を所持している朝廷が正統であるという、南朝正統論を認知し、親房の皇統論を実証することに置いたことを意味する[d]。それは、「大日本史」が「神皇正統紀」と同じく天皇の代を追って歴史を記述し、後小松天皇までを記述対象としたことからも明らかである[e]。つまり、大日本史の編纂は、我が国日本は、天照大神の神勅と三種の神器の教えを歴代の天皇が受け継ぎ、天下を治める神国であることの承認とそのことを実証するための学究的事業であったのである。
光圀が史記編纂を思い立った動機を、光圀没後五十年に編集された「史館旧話」(寛延三年)は次のように述べる。
「義公十八歳之時伯夷傳を御読み遊ばされ、深く御心に感じさせ御事有りて、慨然として本朝の史記御編述の事を思ひ立、神武天皇以下人皇百代二千余年の君臣の得失、士庶の賢否、悉御判断遊ばされ日本史を御作り遊ばれ可くとの思召しを卜幽・了的に御相談遊ばされ候」
光圀が十八歳の時に「史記」の「伯夷伝」を読み、そこに記されている家督をめぐる兄弟愛、君臣の大義に関する論纂に感銘を受けるとともに、その「史記」編纂の思想にならって本邦の史記、「大日本史」の編纂を思い立ったとしている。
ここで、光圀が史記編纂を思い立った時代背景、そして光圀の人的なつながり、および彼の事績を見てみたい。
「史館旧話」では、光圀が「日本史」編纂にあたって卜幽・了的に相談したとしている。この二人は、光圀の側近による回想録「桃源遺事」(元禄一四年編纂)によると、「義公若年の時に、源威公より幽・了的を遣わされ、種々御學門御勧め成され候」とあり、初代藩主頼房が光圀のために任命した侍読であった。彼らの手によって光圀は、学問的な知見を覚醒され、「史記」や「神皇正統紀」と出会い、そして日本史編纂への熱情を抱懐するにいたったのである。
卜幽とは、人見卜幽(軒)のことである。卜幽は、菅得庵と林羅山について学を修めた人物である。菅得庵は藤原惺窩の高弟の一人であった。藤原惺窩は、近代朱子学の祖であり定家卿十二世といわれ、歌学の名門、冷泉家の出である。人見卜幽は、光圀の修史事業の発意に従い史料収集を始めるにあたって、藤原惺窩の子、冷泉為景に協力を申し入れ全面的な協力を約束される[f]。
光圀の生きた時代の大半(生誕から五十三歳まで)は、後水尾上皇の院政の時代であった。後水尾上皇は、明正天皇から霊元天皇まで四代の天皇の後見人として院政を行った。当時、朝廷は、徳川幕府の圧迫の下、皇位継承や朝廷の位階授与の権限に干渉を受けていた。寛永四年の紫衣事件等を契機として、後水尾天皇は、秀忠の女、皇后和子が産んだ二女の興子内親王(明正天皇)に譲位し、上皇となっていた。
後水尾上皇は、御所古今伝授の初授者としてその任を果たし、仙洞御所での歌会の開催や「源氏物語」、「伊勢物語」を公家衆に修学させるなど、宮廷の長として宮廷学問の指導に力を尽くした。また、後水尾上皇は、朝廷の儀式の復興を期して、「当時年中行事」を著している[g]。
これと連携するように、光圀は「日本史」の編纂を軸としながら、古文・古史料の発掘蒐集、和歌・和文の注釈研究、神道研究、有識故実の研究などを行っている[h]。それは、契沖の「万葉代匠記」にもとづく「釈万葉集」の編集、准勅撰と認められた「扶桑拾葉集」の編集、朝廷の儀式を掘り起こし編集した「礼儀類典」など多くの業績に結実した。
特徴的な人的交流としては、慶安元年、冷泉為景が江戸に下った際(光圀二十一歳)、光圀が「藤原惺窩先生遺文」の校正を求められたこと、寛文五年(光圀三十八歳)、朱子学の権威、山崎闇斎を招いていることなどが上げられる。
光圀の史記編纂の発願の根底にあるものは、天皇親政の復権であり、その学問的探求であった。そして、その成果を家訓として確立することにあった。その探求と確立の過程には、学問的交流のあった朝廷と廷臣、そして在野の学者等との強い協力関係が存在した。そしてその探求は、幕末維新を経てなお明治三十九年まで続き、約二百五十年の歳月を費やして大日本史編纂の事業が終了するのである[i]。
(二)宝暦事件と明和事件
竹内式部(正徳二年生)は、当初徳大寺家の従僕であったが、山崎闇斎派の学問を窮め、やがてその主人である徳大寺大納言公城をはじめ、多くの諸卿、殿上人が式部の学徳を求めて従学を始める。摂家、清家など堂上公家の三分の一が式部を師父として啓事し、門人も諸国に七八百人を数えた。
宝暦五年、桃園天皇が十五歳となった年、徳大寺等公卿は竹内式部の学説の代講を天皇に申し入れ、大学章句、孟子進註を進講し、宝暦七年六月には、式部の学説にもとづく日本書紀の進講を行うにいたった。
これに対して「式部門下の公卿等が関東を敵視し、承久の古にならって、天下の乱を惹起する恐れがある」として、前関白一條道香と当関白近衛内前が結託し、桃園天皇への進講を促進した二十人余りの堂上方に蟄居、遠慮を申し付け、式部伝授の神学を禁止した。
式部は、所司代の取調べの後、宝暦九年、京都追放の処分となる。処分の罪状には、堂上方に神書(日本書紀)を講じたこと、「靖献遺言」を講書したことが上げられている。これを「宝暦事件」[j]という。
罪状にある「靖献遺言」は、浅見絅斎が貞享四年に発刊した書で、中国の古今の忠臣義士八人の略伝、行状を示して、尊王の大義を明らかにしようとしたものである。絅斎は、山崎闇斎の高弟の一人である。次に、絅斎の思想を示す特徴的な発言を見てみたい。
「夫れ正統は天下節目を以て全く得たるを云、然るに世の末になれば、次第に衰て、天子の子孫は在り乍、國は皆方々へ奪取られ、天子の下知を用いる者之無し、去れども何程衰へたりといへども、其天子の子孫続く間は、是を正統とす」(「靖献遺言講義」上巻三右)。
「吾國正統ノ正シキコト、是等ハ日本ノ萬國ニスグリタルコトマギレ無ク候。(「箚録」二巻・跡部良顯に示して曰く)。
「親房の「神皇正統記」、南方を正統にして、高(尊)氏が罪を正されたる事こそ、卓絶の見、萬世の則といふべし」(同右)。
絅斎は、「神皇正統記」が主張する神国思想にもとづく、天皇親政の正統(南朝)を支持し、ここにこそ君臣の大義が存在することを宣言している[k]。竹内式部の知見は、闇斎学派のこの観点に基づくものであり、式部の学説をとる日本書紀の進講は、朝廷の復権を求める桃園天皇に学問への意欲を促したのであった。
山縣大弐は、宝暦事件のあった年、宝暦九年に「柳子新論」を著した[l]。大弐は「柳子新論」の「第一、正名篇」において、次のように述べる。
「保平の際に至りて朝勢漸く衰へ寿治の乱、遂に東夷に移り、萬機の事一切武断、陪
臣権を専らにして、廢立其私に出づ、此時に當りて先王の禮楽蔑焉として地を拂へり、室町氏繼いで興り、武威益盛にして、名は将相と稱するも、実は南面の位を僭す」。
ここでは、保元・平治の乱、そして、治承・壽永の乱以後、武家政権が台頭し、後醍醐天皇の南朝に対抗して北朝を立て、正統ではない北朝の下で武家が官職を僭称することをはじめた、と述べる。
「柳子新論」の「第二、得一篇」では次のように述べる。
「天は一を以て清く、地は一を以て寧く、王侯は一を以て天下の貞となす。(略)天に二日なし、民に二王なく、忠臣は二君に事へず」。
ここでは、利禄をつかさどる君(幕府)と、爵位をつかさどる君(朝廷)と、一国のなかに二人の君主があることを説き、主君は一人としなければ国としての体裁をなさない、と主張する。
その後の篇では、「正名」論にもとづく世相批判、国家論等を展開し、徳川幕府の刑罰による強権政治を天下の害を増すもの、と弾劾する。そして、「第十二、利害篇」では、天下の利を興すものは、礼楽(尊王)と文物(朝廷文化)であるとして、「王政復古」論を導き出し、「我が東方の政は、壽治の後取るなし」と、武門政治を全面否定するのである。
さらに、「第十三、富強篇」では次のように述べる。
「是時に當って、英雄豪傑或は身を殺して仁を成し、或は民を率ゐて義を徇へ、忠信
智雄の士、誘掖賛導して、以て天下を先導すれば、則ち飢者の食に就き、渇者の職に
就くが如く、奮然として起ち、靡然として從ひ、勢ひ禦ぐべからざるあらん」。
ここでは、天皇親政の復権に向けた討幕決起を扇動し、その楽観的展望を述べている。
山縣大弐は、明和三年八月、幕府より「兵乱を好む」として、死罪の言い渡しを受けた。また、竹内式部も連座して、遠島処分となる。これを「明和事件」[m]という。
(三)後期水戸学・「正名論」と「新論」
明和三年の、明和事件から二十五年後の寛政三年十月、水戸藩士藤田幽谷は、「正名論」を著し、次のように述べる[n]。
「天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下ありて、然る後に礼儀措くところあり。苟も君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑は位を易へ、貴賎は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴して、滅ぶこと日なけん」。
ここでは、前節で見た北畠親房の「神皇正統記」や浅見絅斎の「靖献遺言」、山縣大弐の「柳子新論」で説かれた天皇親政の「正統論」、「正名論」が語られ、「君臣の上下関係(分)が厳格でなければ、世は乱れ、亡国となる」、と述べる。
そして、三十四年後、藤田幽谷の高弟、会澤正志斎は、幕府が、「異国船打払い令」を出した年、文政八年三月、「新論」[o]を著す。その序文には次のようにある。
「謹しんで按ずるに、神州は、太陽の出づる所、元気のはじまる所にして、天日(天子)之嗣、世宸極(天子)を御し、終古易らず。固より大地の厳守にして、万国の綱紀なり。誠によろしく宇大に照臨し皇化の曁ぶ所、遠邇あることなし」。
ここでは、記紀神話および「神皇正統記」で述べられる神国思想を継承し、「天壌無窮の神勅」により、「日本国は天皇が治める国であり、その威光は世界に冠たるものである」、と述べる。
天保九年、水戸藩の「弘道館」の設立にあたり、藤田幽谷の子、藤田東湖によって「弘道館記」が起草され、発表された。そこには、次のようにある。
「恭しく惟みるに上古、神聖極を立て統を垂れたまひ、天地位し、万物育す。(略)寶祚之を以て無窮、国体之を以て尊厳、蒼生(民)之を以て按寧、蛮夷戎狄之を以て率服す」。
「中世以降、異端邪説民を誣ひ世を惑わし、俗儒曲学、此を捨てて彼に従ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵ぎ、大道の世に明かならざるや蓋亦久し」。
「吾が祖威公、実に封を東土に受け、(略)義公継述し、嘗て感を夷齊に発し、更に儒教を尊び、倫を明らかにし名を正し、以て国家に藩塀たり」。
「則ち苟も臣子たるもの、豈斯の道を推弘し、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館の為に設けらるる所以なり」。
ここではまず、神国思想を述べ、南北朝以来の乱世と「皇化陵夷」を嘆いた後、水戸藩
創立の祖、頼房および二代目藩主の光圀の事績に触れる。光圀が「史記」の伯夷伝に感銘
して修史事業にとりくみ、その過程で関連史料を編纂するなど朝権回復の貢献を行ってき
たこと。また、大日本史編纂の過程において、「正名論」の理論的解明をおこない、天皇親
政復権に向けた理論的確立に務めてきたことが述べられる。そして、弘道館は、光圀の発
意のもとにたゆまぬ努力ですすめられてきた学問の蓄積とその意義について学ぶことを目
的としている、とその設立の趣意が述べられている。
水戸光圀は、「梅里先生の碑」において、「皇統を正閏し、人臣を是非し、輯めて一家の家言を成す」と修史事業の目的を述べているが、元禄五年、湊川に楠木正成の墓碑を建て、元禄七年には、幕府に天皇陵修復の建議をおこなうなど、朝廷尊奉の意志を実践に移している。
その光圀の想いは、水戸藩において幕末期まで約二百年間にわたり、「水戸学」としての学問的探求が続けられ、また、浅見絅斎や山縣大弐に見られるように闇斎学派の儒者たちの手も加わって醸成されていった。そして、徳川斉昭の時代に至り、水戸学は実践性を帯び、それまでと一線を画し、「後期水戸学」として全国の尊王派人士たちを鼓舞激励し、さらに「尊王討幕」の思想的確信を与えていくことになるのである[p]。
長州藩の吉田松陰は、安政二年に著した「講孟箚記」の中で、「嗚呼神器は正統の天子の受禅する所なれば、君臣上下死を以て固守すべきこと、其義昭昭なり。(略)是万世帝皇の大法なり」と述べている[q]。この言は、水戸藩の修史編纂員であった栗山潜峰が元禄二年に著した「保建大記」に関してのものである。潜峰は、この書で名分論を展開し、「君を立つるは必ず一種」として天皇親政の正統性を語っている。松陰が「死を以て固守すべきこと」としたこの観点は、松下村塾での教育理念となった。
後期水戸学にみられる思想的特徴は、欧米列強による日本への門戸開放要求という国際情勢が意識されている点にある。会澤正志斎は「新論」の「序」で、「しかるに、今、西荒の蛮夷、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢へて上国を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕るや」と、欧米列強の世界侵略と植民地化行為を憤り、その触手を日本にも及ぼそうとしていることを語る。しかし、その対応策である「長計篇」では、「神武不殺の威もて、殊方絶域に震はば、則ち正に海外の諸蕃をして来たりて徳輝を観せしめんと欲す」と、敵対するのではなく、毅然とした節度ある態度で接すべきことを述べている[r]。
しかし、それから二十五年後の弘化三年八月、孝明天皇の朝廷は「海防勅諭」を幕府に下し、安政五年には、「日米通商条約」調印拒否の表明をおこなった。さらに、同年八月、朝廷は「攘夷の密勅」を水戸藩に下した。これを契機として討幕にいたる幕末維新史の奔流が堰を切って流れ出していくことになるのである。
以上
[註]
[1] 征夷大将軍に任じられた家の歴史。源・新田・足利・徳川。
[2] 家光の長子、家綱の時代(延宝八{一八六〇}年に始まる文治政治。法律・制度の整備と儒学による教化の充実にもとづく政治。
[3] 勝海舟
明治八年以降、野にあって自適すると共に政治・社会を論じ著述に努め、旧幕府の古老を招いて史料の編纂を行った。著書には、『吹塵録』、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』等がある。
[4] 享保・寛政の改革
*既成の伝統・文化の否定と、上からの禁欲的な士民統制を基本とする政策であった。これは今日で言えば、いわゆる「保守」に対する「リベラル」な改革政策と言えるであろう。
[a] 「第一節「大日本史」編纂と水戸光圀」の論述にあたって、水戸・常盤神社主宰の「水戸学講座」の記述を参考としていますが、本論4ページの「梅里先生の碑文」については、(http://www.geocities.jp/sybrma/33bairisensei.html)の「史料33梅里先生碑文」を参考としました。また、「梅里先生の碑文」の由来については、「水戸学講座」(http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/gnenpu.htm)の「義公年譜」9ページの元禄三年、四年の記述にもとづくものです。
[b] 「「皇統を正閨し、人臣を是非する」の意図については」の項の記述については、「水戸学講座」の木下英明『水戸藩の学風―大日本史編纂を通して―』(1992年)の3ページ40行から54行を参考としています。
[c] 「易稿重修という編集方針」については、「水戸学講座」の名越時正『義公修史の目的と構想』(1986年)の5ページ22行から5ページ50行を参考とし、「三大特筆」については、「水戸学講座」の木下英明『水戸藩の学風―大日本史編纂を通して―』(1992年)の92ページ15行から25行目を参考としています。
[d]北畠親房の「神皇正統記」については、「水戸学講座」の安見隆雄『後期水戸学と烈公の改革』(1992年)の5ページ2行から8ページ20行、および下川玲子『北畠親房の儒学』(2001年/ペリカン社)の第二章「三種の神器」と「正直」の「序」を参考にしています。
[e] 「後小松天皇までを記述対象としたことからも明らかである」については、「水戸学講座」の木下英明『水戸藩の学風―大日本史編纂を通して―』(1992年)の1ページ32行から2ページ1行までを参考としています。
[f]本論5ページ15行目の「光圀が史記編纂を思い立った動機」の「史館旧話」に関する記述、および本論5ページ後から7行目の「藤原惺窩の子、冷泉為景に協力を申し入れ全面的な協力を約束される」については、「水戸学講座」の名越時正『義公修史の目的と構想』(1986年)の「一、義公修史の動機について」の1ページから3ページ6行を参考としています。また、光圀の冷泉為景との交流と史記編纂の動機に関しては、「水戸学講座」の名越時正『義公修史の目的と構想』(同)の「二、修史事業の開始と彰考館」3ページ7行から18行および同講座の宮田正彦『義公の立志―英傑への関門』(1993年)の9ページ17行から10ページ22行までを参考としています。
[g] 「後水尾上皇の事蹟」に関する記述は、久保貴子『―千年の坂も踏み分けて―後水尾天皇』(2008年ミネルバ書房)の97ページ「天皇と古典学」の項、および98ページの「天皇と年中行事」を参考としました。
[h] 「これと連携するように、光圀は「日本史」の編纂を軸としながら、古文・古史料の発掘蒐集、和歌・和文の注釈研究、神道研究、有識故実の研究などを行っている」に関しては、「水戸学講座」の丹野正弘『大日本史の完成とその歴史的意義』(1993年)の8ページ「(4)大日本史編纂の意義」から13ページ15行を参考としています。
[i] 「約二百五十年の歳月を費やして大日本史編纂の事業が終了するのである」については、同じく丹野正弘『大日本史の完成とその歴史的意義』(1993年)の7ページ30行から8ページ2行までを参考としています。
[j] 「第ニ節宝暦事件と明和事件」の記述にあたっては、全体として、町田柳塘『山縣大弐』(1910年東京・顯光閣叢行)を参考にしています。同『山縣大貳』の表紙には「公爵久我通久閣下題字、公爵西園寺公望閣下題字、子爵織田信恒閣下題字、陸軍少将浅川敏靖閣下序文」と併記されています。『「宝暦事件」の記述については、町田柳塘『山縣大弐』の第二章宝暦事件(13ページから67ページ)を参考としています。
[k] 浅見絅斎の「靖献遺言」については、全体として、佐藤豊吉『浅見絅斎先生と其の主張』(1933年京都・山本文華堂)の29ページから72ページまでの「四先生の主張」の記述を参考としています。本論6ページ後から7行目から10行の「「夫れ正統は天下節目を以て全く得たるを云、然るに世の末になれば、次第に衰て、天子の子孫は在り乍、國は皆方々へ奪取られ、天子の下知を用いる者之無し、去れども何程衰へたりといへども、其天子の子孫続く間は、是を正統とす」(「靖献遺言講義」上巻三右)」の記述については、同『浅見絅斎先生と其の主張』の57ページ最後の行から58ページ2行目までを、「「吾國正統ノ正シキコト、是等ハ日本ノ萬國ニスグリタルコトマギレ無ク候。(「箚録」二巻・跡部良顯に示して曰く)。」は、同『浅見絅斎先生と其の主張』の61ページ6行目を、「「親房の「神皇正統記」、南方を正統にして、高(尊)氏が罪を正されたる事こそ、卓絶の見、萬世の則といふべし」(同右)。」については、同『浅見絅斎先生と其の主張』の62ページ10行目を引用しています。
[l] 山縣大弐の「柳子新論」の記述に関しては、町田柳塘『山縣大弐』の「第四章本領」の81ページから107ページ6行までを参考としています。
[m] 「明和事件」については町田柳塘『山縣大弐』の「第三章修養及び交際」の68ページから78ページを参考としています。
[n] 藤田東湖の「正名論」については、安見隆雄『後期水戸学と烈公の改革』(1992年)の「三後期水戸学」の(1)藤田幽谷の「正名論」(2ページ16行から39行まで)を、本論8ページ7行目の会澤正志齊の『新論』に関しては、同「三後期水戸学」の(3)会澤正志齊の「新論」(3ページ32行から5ページ1行)を参考としています。
[o] 会澤正志齊の『新論』に関しては、同「三後期水戸学」の(3)会澤正志齊の「新論」(3ページ32行から5ページ1行)を参考としています。
[p] 本論8ページ15行目「天保九年、水戸藩の「弘道館」の設立にあたり、藤田幽谷の子、藤田東湖によって「弘道館記」が起草され、発表された。そこには、次のようにある」以後本論8ページ末行までの記述は、「水戸学講座」の安見隆雄『烈公の名文―「弘道館記」「弘道館学生警鐘の銘」―』の4ページ7行目から32行までの『弘道館記』の記述内容に基づき論究したものです。
[q] 長州藩の吉田松陰は、安政二年に著した「講孟箚記」の中で、「嗚呼神器は正統の天子の受禅する所なれば、君臣上下死を以て固守すべきこと、其義昭昭なり。(略)是万世帝皇の大法なり」と述べている」については、「水戸学講座」の安見隆雄『烈公の名文―「弘道館記」「弘道館学生警鐘の銘」―』の10ページ後から2行目から11ページ7行目までを参考としています。
[r] 「後期水戸学にみられる思想的特徴は」以降の段落の記述は、「水戸学講座」の安見隆雄『後期水戸学と烈公の改革』の3ページ32行から5ページ1行を参考としています。
(脇村正夫著『水戸学と反乱武士集団の言い分― 徳川斉昭の本意 ―』より抜粋)
以上
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第2回テーマ 幕末期の朝廷と幕府との関係(上)
日時:令和3(2021)年7月24日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第二回テーマ資料]
(『概観維新史』を現代語表現し、要約・補足を加えている)
(*は筆者による解説)
令和三(二〇二一)年七月二十四日
幕末期の朝廷と幕府との関係(上)
一 孝明天皇の即位と朝廷の状態
(一)徳川幕府の弱体化
二百四十数年続いた徳川幕府は、文化・文政の熟覧時代を経て、弘化の初年において、大きな変化の兆しを見せた。政治の実権を収めて国内の制御を行い、泰平の世を創り上げ、文化的発展は盛況を示したが、綱紀(規律)の弛みと諸制度の荒廃、財政の窮迫などで幕府の権威は傾き、国内統治の実力は弱体化した。
文化・思想の興隆は、国体ならびに皇室に対する国民の覚醒を促し、尊王思想の勃興により社会の動揺が広がった。(註1 「幕藩体制の動揺」 資料「近世年代表」)
(二)孝明天皇の即位
このような状況の中で、欧米列強の艦船が頻繁に来航し開国を迫るなど国防の危機は高まり、幕府はその対応において無能を露呈、尊王論は「攘夷論」(註2「攘夷論」)と結合してその勢いを増し、この尊王論と幕府との対立関係は我が国の「国家非常事態」を醸し出していった。孝明天皇は、このような状況のもと、十六歳で皇位を継承し、この困難な政局の中心的存在となった。
孝明天皇は、仁孝天皇の第四皇子(母は正親町三條実光[正二位・左大臣]の娘雅子)で、天保二(一八三一)年六月十四日に誕生(熙宮[ひろのみや])、天保十一(一八四〇)年三月、儲君・太子(統仁[おさひと]親王)となった。教育には、近衛忠熙(内大臣)、鷹司輔熙(権大納言)が当った。弘化三年正月、仁孝天皇の崩御により弘化四年九月、即位(第百二十一代)の大礼(十六歳)を紫宸殿に挙げた。
(三)朝廷と幕府との関係 ―「朝廷控制」
「朝廷控制」は、徳川幕府開府以来の政策である。その「例」を次に見てみたい。
[一]天皇の政治関与および行幸の禁止
幕府は天皇の政治への関与を警戒して、天皇にもっぱら和歌の研究を勧めた。しかし、孝明天皇は、波瀾重畳の時に当って、幕府を督励して難局の打開に努めようとし、言路(言論)を洞開(自由)して、広く有志の方策の意見を聴き、国民の安寧のために日夜心を砕いたのであった。しかし、幕府は天皇と国民との接触を拒み、寛永三(一六二六)年の後水尾天皇の二条城行幸以後(約二百年間)、洛中洛外への行幸を禁じていた。
[二]皇室・朝廷人事への干渉
天皇の譲位はじめ、践祚、立太子、立親王、立后、女御入内等の大典から、下は摂政関白等の任免黜陟に至るまで、すべてまず朝廷からを幕府に下して諮詢し、幕府からのその奉答を待ってその事がはじめて宣せられるを例とし、もし幕府が承諾しない場合、その「御内慮」は実施できず、別に案を検討しなければならなかった。
*「譲位」= 皇位を譲ること /「即位の礼」= 皇位に就くことを天下に布告すること / 「踐祚」(せんそ)=三種の神器を受け継ぐこと
[三]孝明天皇践祚の件
これに関する顕著な例は、孝明天皇践祚(せんそ)の際に於ける朝幕の交渉にあった。仁孝天皇崩御の際に、孝明天皇はすでに皇太子であり、ただちに天皇を継ぐべきであった。
関白鷹司政道等は議して孝明天皇の「御内慮(践祚の意思)」を幕府に下し、その奉答が弘化三年二月五日に到来したので、東宮践祚の旨を宣布し、翌六日仁孝天皇の喪(この年正月二十六日崩御)を発表、同十三日に践祚の式が挙げられた。その間、空位十余日に及んだので、臨時に鷹司関白を准摂政に任じてその空白期の代行とされた。この時参議東坊城聰(聡)長(ときなが)等は、幕府に諮詢することはないと主張したが、容れられなかった。その後権大納言三條実萬(さねつむ/實美の父)が武家傳奏となって、このことが朝議に上り、朝廷は、嘉永三年五月幕府に諮詢して、「皇位を空しうせぬ為に、東宮の践祚は直ちに之を行はるべき」旨同意を求めた。
幕府は、林大学守健・筒井肥前守政憲等(幕府の教学機関昌平坂学問所/ペリーの国書受理係者)に命じて例格を調査させ、且つ朝廷との交渉を重ね、翌弘化四年二月に、立太子にあっては、「御余儀無き筋」であればとして同意したが、皇子が皇儲(儲君)に定められた後でも立太子について、譲位・受禅(践祚)と同じく諮問を下されたい旨奉答した。この時の幕府の態度は、「従来御内慮を下された諸事が、この例に準じて中止せられるならば、制規も立たず、幕府の威光にも拘る」と考えたからであった。
さらに、幕府は、摂政・関白の任免についても容喙(ようかい/干渉)し、もっぱら朝廷を「控制」する上で便宜な人物を求めることに努めた。
[四]幕府への贈位の件
鷹司政道は、文政六(一八二三)年、関白内覧を拝命し、老練な重鎮としてその官にあること安政三年に至るまで三十余年に渉ったが安政の末、朝幕の対立(「安政の大獄」)により、幕府は関白の任免に露骨な干渉を行うようになった。又官位栄典の授与は朝廷の大権に属していたが、幕府は武家と公家との官位を切り離し別個のものとする制規を設け、朝廷の干渉を排し、幕府の意のままに諸侯以下の任官叙位を奏請することを始めた。嘉永元年三月は家康の父徳川廣忠(贈従二位権大納官)の三百回忌に当るので、廣忠および将軍家治の嫡子で早世した徳川家基(贈正二位内大臣)のために、それぞれ極官(太政大臣)、極位(正一位)の追贈を奏請した。(註3「官位相当表」「律令官制表」)
朝廷においては、将軍の父に官位を追贈した先例があるので、廣忠については、直ちに允許の意が伝えられたが、家基については、新古にその例がないとして允許されなかった。幕府は窮る余り将軍足利義持の時、その叔父満詮(義満の弟権大納言)に従一位左大臣を追贈された例を援き、家基も現将軍家慶の叔父であることを挙げて奏請を重ねたが、朝廷はこれを許さなかった。
ここにおいて、幕府は、「元来武家の官位は堂上とは別個のものであるから、幕府の取り計らいは敢て堂上方へ差障りを来たすべき筋合いではなかろう」と強弁し、且つ「将軍この度の朝命を拝して不安を感ぜられるやに見受ける」旨を奏して、暗に朝廷を威嚇し、遂に同年十月、廣忠・家基二人の極官極位追贈の希望を達し、且つ廣忠には威列院の勅號までも下賜された。
武家傳奏三條実萬は、光格天皇の叡慮を蹂躙して、閑院宮典仁親王(後に慶光天皇)尊號の事を拒否したことを回想してその横暴を憤慨した。(註4「閑院宮-尊号一件」)
これに加えて幕府は廣忠へ追贈があったことを理由として、嘉永三年十月、家康の遠祖である新田義重(大光院)に従二位、家康の母大子(傳通院廣忠夫人)に従一位の贈位を奏請して勅許を得たにもかかわらず、嘉永五年八月、女御九条夙子(あさこ/後の英照皇太后)を未だ准后宣下なきも、直ちに中宮に立てようとの叡慮で、東福門院(後水尾天皇中宮将軍秀忠女和子)および新清和院(光格天皇中宮欣子内親王)に中宮の宣下があったことを例に挙げて、これを幕府に諮詢した。しかし幕府は臣下の女(むすめ)にこのような例はなく、新清和院は皇胤であり、東福門院は朝廷が徳川氏を尊重された特例であるからとしてこの諮詢を拒否した。(註5「女御九条夙子」)
[五]武家傳奏
朝臣である「武家傳奏」は、幕府との交渉の任に当り、且つ禁中に権威を有し、幕府と縁故の深い昵近(じっきん)衆と呼ばれる堂上十七家から多く選任される例であったが、それは純然とした朝官であるに拘らず、その就職にあたって、血判の誓紙を提出し、粗略なかるべきことを幕府に制約する慣例であった。
したがって、堂上公卿(こうけい・くぎょう)(註6「公卿」)間には、この職に就くことを「武門に随従する不忠」とみなし、とくに大臣家(清華)の家格をもつ公卿等は、この職に就かないことを矜持とした。嘉永元年二月、権大納言三條実萬(實美の父)が議奏(註7「議奏」)からこの職に転じた際、その手記に、自分は精華の家格であって、先人に類例は少なく、且つ議奏に比べて卑職なれども、「公家(こうか・くげ)の御為、且つ堂上の難渋を救うべし」との先考の遺訓に従い、これを決意したとしている。
その他公家等の処罰についても容喙(ようかい/*干渉)し、関白・武家傳奏等を通じて皇家の言動を掣肘(せいちゅう/*抑圧)し、幕府の忌諱に触れる者は流罪という重圧をもって公家を脅威した。
[六]御両敬
幕府はさらに「御両敬」と称して、儀礼および公文書の上において、天皇と将軍とを対等の地位に取扱った。たとえば、勅使を江戸城に迎える際の待遇は、聖旨を宣達する時のみ将軍と同席に扱い、終わると下座に就かせた。また朝廷に上る文書に将軍自ら「思召され」「進め為され」等の語を用いたように、名分を妄り朝威を損するを敢て憚らなかった。したがって、摂関・親王も書信を将軍の名宛とせず、老中に披露を依頼することを慣例とした。
[七]幕府の監視機構
幕府は禁中および公家等を厳重に監視するために、京都に所司代を置いて、禁闕(御所)の守護、公卿の監察、西国諸侯の監視を行った、さらに禁裡附き武士を設け、禁中に宿直して禁門の警衛、出入の監視、禁裡(御所)御賄(財政)の監督等に当たらせ禁裡内の動静、雇入れ人までを監視した。
また所司代の指揮下に京都町奉行を置いて、民生訴訟を管理する傍ら、洛中洛外の情勢を探索させ、幕府麾下の武士を二条城に駐留させ、京都の咽喉を扼(やく/抑える)す伏見奉行と戮力して、洛(京都/中国古代国家都市「洛陽」にならう)の内外を警戒し、別に近畿所在の譜代諸侯に京都七口(平安京[京都]につながる街道の入り口)の警固に当たらせ、南方の要地大坂にある城代および琵琶湖湖畔の譜代重鎮である井伊氏に非常応援を命じ、緊密に洛外との連絡交通を監視し、京都に対する警戒に寸分の隙もつくらなかった。
[八]禁裡の御賄
禁裡の御賄を幕吏の管理下に置き、経常定額以外の支出は幕府の同意を必要としたので、不足していた禁裡の賄はより一層の窮屈となり、諸儀式の挙行、殿舎その他の造営、供御(天皇の食事)にまで不自由を来たす結果となった。禁裡の御料(財政)は、豊臣時代には高七千石と称されたが、慶長・元和・宝永年間からの御料増進によって、孝明天皇の時代には高三万二百六十石に増加し、別に内持所御領、准后・親王家御料、公卿堂上家領、地下官人・女房等の知行、寺院領等を加えて総額十二万五千二百石余を算した。
禁裡の御賄は右の御領からの実収によって経理せられ、別に臨時の収入として朝廷吉凶の大礼、武家の叙任等に際し、将軍以下諸侯等から進献の金銀があったが、もともと常に不足であったため、享保年間から幕府はその不足額を立替金として禁裡に納めた。しかし、幕府の立替金は、年とともに高まり、且つ御賄取扱の地下官人に不正事件があったので、安永三(一七七四)年に幕吏から禁裡賄頭一人、御入用取調役二人を禁裡に置いた。安永六(一七七六)年、禁裡御入用として銀七百四十五貫匁を毎年の定額に限定し、御領収納に対する不足分を幕府から立替えて上納することとし、別に奥御用途して年定額金八百両を進献することに定め、立替上納の分はなるべく禁裡お賄に節約を加えてその剰余を償却に当てることとした。
しかし、その償却金は償却されず、高まる一方なので幕府は寛政四(一七九二)年、先の禁裡御入用銀を立替とせずに年々進献することにし、同時に幕吏を派遣し、厳重に御賄の整理をさせようとしたので、宮廷諸行事にも幕府の干渉は一層甚だしき加え、新規のものは査閲承認が必要とされた。
孝明天皇の時、節会の際朝臣に授与される絹は、一反の絹を授与後回収し反復授与され、恩賜の実を失った。
◇ ◇ ◇ ◇
以上は、孝明天皇の初世における主な朝廷・幕府間の関係交渉の一部であるが、これらは徳川幕府の「朝廷控制」制度の現れであった。当初より幕府は朝廷を敬遠し、これを控制するに急な余り国政運用上の必要限度を越えて抑圧干渉し、僭上不遜の罪をかさねたのである。これは、幕府が二百年余年の久しきに亙り、このような態度を改めず、すこしも反省改善の実がなくて、孝明天皇の御宇(御世)に及んだのは、一つには幕府が事たびに先例旧格に因循し、現状維持をもって権勢保持の要訣としたのに基づくと共に、一つは多年政権に離れて実力をもたぬ朝廷が自ら幕府に対して退譲に過ぎ、そのために幕府を横暴ならしめたのである。
孝明天皇の初世に及んでは宇内(国内)の形勢は大いに一変しようとし、「上に英明な聖天子が在はしまし、下、朝臣等の間には覚醒の気運が漸く起って、幕府に対して反発の態度に出ようとする気魄が、すでに隠微の間に動いているのであった」。
(四)朝臣の覚醒
[一]堂上公家の状態
当時、堂上公家は百三十七家(徳川初期には六十四家)に達し、五摂家・清華・大臣・羽林(うりん)家および名家(めいか)・半家(はんけ)など、家格に伴う役職と官位が区別されていた。彼等は官位は高いが、家禄(収入)は武家に比べて極めて低かった。摂家の近衛家の家料は二千八百石[a]で、他の千石以上を有する者は十指を出ず、大多数の七十余家は、二三百石ないし百石の収入で、とくに徳川時代に成立した新家では、蔵米三十石を給せられる家が二十九軒あった。かつ昇殿を許されない三百余の地下官人はさらに窮迫し、「束脩[b]も調へ難き為に不学文盲の輩が多い」とされ、公家の中には品性を落とし、風紀を乱す者が多くいた。権大納言三條実萬の嘉永元(一八四八)年の手記には、「小禄公家の活計に窮迫する余り、姦計を施して利を漁るもの多し」、「彼等の諸行悉く咎めれば、今日の活計を如何とも為し得ぬ者が多い、勿論志の正しき者には斯かる不都合があるのではない」と記している。
[二]公家の覚醒―竹内式部事件・尊号事件
しかし、昇平久しく文運の興隆に刺激せられ、且つ歴代奨学の皇恩に浴し、篤実な学者、諸芸道に堪能な識者が現れたこと。またその身の由緒古き名門顕門の流れを汲み、常に君側(朝廷)に奉仕する栄誉を誇りながら、武家制御の下に雌伏するを良しとせず、王朝の盛時をしのんで胸奥に武家に反発しようとする気概を持つ者も現れてきた。さらに、儒者・神道家・国学者らの中に「君臣の分」(朝廷と幕府の主従関係)を論じ、「王覇の尊卑」(朝廷と幕府の関係)を弁じ、「復古の思想」(天皇親政・律令国家体制)を唱えて国体に関する反省、武家政治存立について批判をする者が出るに及んで、このような思想学説が公家の中に浸透し、刺激を与え始めた。
それは、桃園天皇の時代、宝歴年間(宝暦八[一七五八]年)における竹内式部事件は最も顕著な例であった。徳大寺公城・正親町三條公積・烏丸光胤・権中納言坊城俊逸等四十余人は、式部の垂加神道の講演に参加し、その「名分論」、「抑覇」の説に共鳴し、さらに侍講から天皇に式部の説が伝えられるに至った。このため関白等により之に関係した徳大寺公城等公卿を免官・落飾・謹慎等に処すという事件に発展した。(註8「武内式部事件-[宝暦事件]」)
寛政年間、光格天皇の時代に起きた尊号事件では、前大納言中山忠親・正親町公明の二人が、幕府に対して朝廷の立場を主張して譲らなかったのに対して処罰された。
[三]「学習院」の設置
孝明天皇の時代には、光格天皇、仁孝天皇の意志を継いで朝臣子弟の学問の場、学習所が建春門外に設置され、弘化四年三月から開講の運びとなり、四十歳以下の堂上及びその子弟に修学を奨めた。
幕府は元禄年間に昌平学を設け、諸藩も多くが藩学を開いたのに対し京都に官学の設置がなかったことは一大欠陥というべく、しかし王朝時代の大学寮の再興は実現不可能であり、五六百坪の敷地に講堂を建てたに過ぎなかった。当初は、「聖人至道」、「皇国の懿風(いふう)」[c]を学ぶことを学問の目的とした。翌年の嘉永二年二月には、「国書(記紀)の講読」を始め、四月には「学習院」と命名された勅額が掲げられた。
また、嘉永二年五月、近侍に国漢書(『記・紀』及び「儒書」)の会読を命じ、辰巳(五・六)両日を定日と定められた。
こうして、公家及び子弟の学問の道が開かれ、数次にわたる風紀戒飭の令と相俟って子弟の品性を向上させその反省と自覚を促すのに貢献したのである。
[四]朝廷と外警―朝廷の外国勢力への対策
このような時、外国勢力の船が日本周辺に押し寄せその対策が急がれた。孝明天皇は、弘化三年八月、幕府に「海防厳修」を命じ、翌弘化四年四月には石清水社に禍を払うことを祈り、嘉永三年四月には七社七寺に国安を祈った。同年十一月には、幕府に再び沿海厳備を「勅諭」した。
[以上]
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」
[第三回テーマ]
幕末期の朝廷と幕府との関係(中)
日時 令和三(二〇二一)年八月二十一日(土)
午後一時から三時
会場 町田市・木曽森野コミュニティーセンター
第二回東京町田「幕末維新を学ぶ会」
[脚注]
別紙資料・「西国諸藩」「近世年代表」
1 幕藩体制の動揺
国学
徳川時代において、封建教学としての朱子学に批判的な国学や洋学が生れた。国学は、儒教・仏教の外来思想に汚されぬ以前の日本固有の神の道を明らかにするという方向を深め、とくに神国思想と皇室中心主義を推し進めた。とくに平田(篤胤)国学は、幕末の水戸学と並んで尊王攘夷運動の思想的根拠を与えた。また安藤昌益は万人が平等に農耕に携わり、搾取者のない社会を描き、幕府・藩体制を否定する見解を著した。
[朱子学]は、中国南宋の朱子に代表される学説で、「新儒学」とも言われる。「士大夫」の存在意義やそのめざす方向を理論づけたもので、中国では元以後、日本では江戸時代に官学とされ、権威を確立した。「士大夫」とは、中国周の時代の階級制度が始まりで、日本では公卿・武士がその階級に当たる。
[平田篤胤]は、嘉永五(一七七六)年秋田藩士の子として生まれる。二十四歳の時、備中松山藩藩士平田篤隠(*あつやす)の養子(旧姓大和田)となる。本居宣長の書に啓発され 本居春庭(はるにわ/宣長の長男)に入門する。『霊能真柱』、『古道大意』、『俗神道大意』、『古史伝』等を著す。
[安藤昌益]は、秋田藩久保田城に生まれる。本草学・儒学を修め八戸で医業。昌益は彼の書で封建社会への徹底批判を行い、万民平等による農耕中心主義を主張した。
[復古国学]は国学系統の神道で古代の純粋な民俗信仰の復古を唱えた。それは賀茂真淵、本居宣長等の国学者によって体系づけられ、平田篤胤によって発展し、明治維新の思想的側面を形成した。
洋学
洋学は、はじめヨーロッパの科学技術を導入して、封建制を補強するために洋書の輸入を許し、杉田玄白等が『解体新書』を翻訳刊行したことがその発展の契機となった。洋学は医学を中心に天文学・地理学など自然科学部門に及んだ。それは平賀源内による摩擦電機や不燃材(アスベスト)の開発や伊能忠敬による精確な日本列島地図の作成など、洋学の知識にもとづく実験やその応用に結びついた。
蛮社の獄
幕末期、欧米諸国の我国への来航や開港要求が強まる中、幕府と諸藩は洋学の技術を軍備の強化に生かそうとした。海外の事情に明るい洋学者たちは鎖国そのものに批判的であり、渡邊崋山・高野長英等は、内外情勢を研究し、政治経済を論じ合う「尚歯会(蛮社)」を結成した。しかし彼等は幕府にヨーロッパの強大な力を説き、異国船打払令の廃止などを論じたため、幕府は、小笠原島渡航計画、大塩平八郎との通謀を理由にして尚歯会メンバーを一斉逮捕し弾圧した(「蛮社の獄」/天保十(一八三九)年)。
天保の大飢饉(天保四[一八三三]年から同十[一八三九]年)
天保四年は天候不順で冷害・大雨に大洪水、関東に大風雨が頻発し、作柄は西国で三分の一作、中部より東北・北陸にかけては三分の一から皆無作という大凶年(「巳年の飢饉」)となった。天保 六(一八三六)年に至って全国平均作柄四分という慢性的な大飢饉の様相を呈し、東北地方のみで死者数十万人に上った。このため諸物価が高騰、農村の荒廃、農民・下層町民の離散困窮がはなはだしく、各藩領内で一揆・打毀しが激発した。
大塩平八郎の乱(天保八[一八三七]年二月十九日)
大坂町奉行所の与力であった大塩平八郎は、天保の大飢饉に対し、再三救民を要請したが入れら
れず、三井・鴻池等豪商に救済費六万両の借金を申し入れたが、これも断られた。大塩は、蔵書五万冊を売却し、千両余を救民一万戸に一朱ずつ配り、無策・無慈悲の汚職幕吏・貪商を誅伐するとして近隣農村に檄を飛ばし挙兵、豪商が軒を連ねる船場など大坂の市街五分の一を焼き払った。直ちに鎮圧されたが、檄文が習字の手本として転写されたり、騒動が芝居、講釈やあほだら経(社会風刺をする門付・大道芸人)に取り入れられて全国に伝わった。
2 「攘夷論」―「海防勅諭」
第一回は、弘化三(一八四六)年八月二十九日、米・英・仏が琉球・浦賀・長崎に来航し開国を求めた事に対するもの。第二回は、嘉永三(一八五〇)年十一月、英艦が浦賀・下田で海域を測量したことに対するもの。朝廷から幕府に対し、「海防」の厳守を命じるものであった。このような朝廷から幕府に対する勅諭(「勅命」)は、数百年来の朝幕関係を破る行為であった。
3 別紙資料「官位相当表」
4 閑院宮-「尊号一件」
閑院宮は四世襲親王家(伏見宮・有栖川宮・桂宮)の一つで、江戸時代中期に直仁(なおひと)親王が創設した宮家。第二代当主典仁(すけひと)親王は、傍系・中御門天皇系である後桃園天皇が崩御 したことにより光格天皇として皇位を継承する。光格天皇は後に、後桃園(ごももぞの)天皇の唯一の子女である欣子内親王を中宮に冊立し、温仁(ますひと)親王と悦仁(としひと)親王をもうけるが何れも幼くして薨去。これにより中御門天皇の皇統は女系も含めて完全に途絶えてしまう。その後光格天皇の典侍(ないしのすけ)である勧修寺靖子がもうけた仁孝(にんこう)天皇が皇位を継承して以来,閑院宮の血統が現在の皇室まで皇統として続いており、仁孝から徳仁(なるひと/今上天皇)までの歴代天皇は全て一等親の直系子孫たる皇太子による皇位の継承が行われている。閑院宮の宮号は平安時代の第五十六代清和天皇の皇子・貞元(さだもと)親王が閑院を号したことに由来するといわれている。光格天皇(一七七一-一八四〇)は、閑院宮典仁親王の第六皇子で、東山天皇(赤穂浪士事件当時の天皇)の孫。寛政元(一七八九)年、父典仁親王に太上天皇の尊号を贈らんとして、時の老中松平定信の反対にあい断念した。(「尊号一件」事件)
5 女御九条夙子-孝明天皇妃
山城国愛宕郡下鴨村(現:京都市左京区下鴨)の南大路家で誕生し、弘化二年(一八四五年)九月十四日、十二歳の時に、三歳年上の東宮・統仁(おさひと)親王(のちの孝明天皇)の妃となる。結婚翌年には孝明天皇が即位し、嘉永元年(一八四八年)十二月七日に従三位に叙され、同月十五日に入内して女御宣下を被る。孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永六年(一八五三年)五月七日、夙子は正三位・准三宮に上る。
嘉永三年(一八五〇年)に第一皇女・順子内親王(一八五〇年 ― 一八五二年)、安政五年(一八五八年)に第二皇女・富貴宮(一八五八年 – 一八五九年)を出産。いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(一八六〇年)七月十日、勅令により中山慶子所生の第二皇子・祐宮睦仁親王(当時九歳、後の明治天皇)を「実子」と称した。
三十三歳で夫孝明天皇の急逝に遭い、明治天皇即位後の慶応四年(一八六八年)三月十八日、皇太后に冊立。皇后を経ずして皇太后(英照皇太后〔えいしょうこうたいごう〕)となった。明治天皇の嫡母(実母ではない)として皇太后に冊立された。
父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山。九条道孝の実姉、貞明皇后の伯母にあたる。
東京奠都(てんと/定める)後、明治五年(一八七二年)、赤坂離宮に遷御、明治七年(一八七四年)に赤坂御用地に移る。
明治三十年(一八九七年)一月十一日、崩御。享年六十四(満六十二歳没)。
御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東北陵(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)で、孝明天皇と同所である。
なお、京都大宮御所(仙洞御所の北西)は、彼女のために慶応三年(一八六七年)造営されたものである。(wiki)
孝明天皇の影響からか能を好み、明治十一年(一八七八年)には青山御所に能舞台が建てられている。 明治十四年(一八八一年)に誕生した日本最初の能楽堂「芝能楽堂」も、皇太后の鑑賞に供することが設立目的の一つだった。
皇太后からの注文は時に本職の能楽師をすらたじろがせるほど「渋い」もので、当時名人と併称された梅若実(うめわか・みのる)と宝生九郎(ほうしょう・くろう)の二人にそれぞれ同じ曲を舞わせ、その芸の違いを楽しんだこともあった。
(出典wiki『孝明天皇陵・英照皇太后陵・後堀河天皇陵参道』京都市)
九条尚忠(ひさただ)
文政七年正月右大臣となり、五月従一位に叙し、弘化四年六月左大臣に転じた。安政三年八月八日鷹司政道に代って関白に任じ、安正期の朝廷・幕府間の対立において幕府に与して活躍し、条約勅許問題、水戸藩降勅問題や皇妹和宮関東降嫁に尽力した。安政六年八月、幕府より家禄一千石、職俸五百俵を増加せられた。
6 公卿(くぎょう/こうけい)
三公=太政官の最高職、(太政大臣)・左大臣・右大臣・内大臣の総称。卿(きょう)=大納言・中納言・
参議・三位以上の人 。関白=天皇を補佐して政務を執り行った重職。元慶(八八四)年、光孝(こう
こう)天皇の時、一切の奏文に対して天皇の御覧に供する前に藤原基経に詔し、関白(諮問と指示)
させたことに始まる。摂政からなるのを例とし、この職を兼ねるものは太政大臣の上に坐した。
7 義奏
幕府が朝廷の意向を間接に統御するため設置したもので。常に天皇に近侍して勅宣を公卿に伝達し、または奏上を天皇に取り次ぎ、また重要政務を合議した。幕府の奏請によって設置され、親幕的な公卿が任じられている。
8 竹内式部事件―「宝暦事件」
竹内式部は請われて.桃園天皇の近習徳大寺公城・久我(こが)敏通・正親町三條公積・烏丸光胤・坊城俊逸(としはや)らに、神書({『日本書紀』)および儒書を講じた。幕府政治に強い不満もっていたこれら少壮公卿は、桃園天皇へも式部に進講させ、その上坊城や徳大寺は等は自ら神学を講じた。これに対して朝廷・幕府間の安定をはかる関白一条道香は、公卿の武術稽古禁止を理由に式部を京都所司代に告訴。宝暦八(一七五八)年、徳大寺は近習職を免じられて所司代に訴えられ、他の公卿八名は罷官・永蟄居、式部は翌年重追放に処せられた。
◇ ◇ ◇
[a] 石高 一石は、当時の価値で金一両に相当、一ヶ月の生活費相当。現代では約十数万‐二十万円前後。
[b] そくしゅう 入学金・学費
[c] いふう うるわしい風格
以上
◎東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第1回テーマ 「幕末維新史を学ぶ会」がめざすもの
日時:令和3(2021)年6月19日(土) 会場:町田市木曽森野コミュニティーセンター
1 「幕末維新史を学ぶ会」がめざすもの
A幕末期から明治政府樹立期に至る「幕末維新史」を学ぶことで、日本の近世・近代の歴史の実相を明らかにする。
Bこの「会」では当面『概観維新史』(「維新史編纂委員会編」を学びの基本教材とし合わせて関連資史料も活用する。
2 『概観維新史』編纂の目的-「維新史編纂局設立のいきさつ」
明治23年 発案
明治42年 彰明会設置
明治43年 維新史料編纂会・事務局設置(文部省管掌)
昭和6年 『大日本維新史稿本』4,800冊脱稿(開局後満20年)
昭和13年 『維新史』編纂について天皇了承
昭和14年 『大日本維新史』(『維新史』)第1巻刊行(全体で5巻附録1巻)
昭和15年 『概観維新史』発刊
3『概観維新史』の構成と内容
A『概観維新史』の目次と歴史事象の解説
*記述範囲:弘化三(1846)年、「孝明天皇の践祚」から明治四年、「廃藩置県」まで
4 今後の「学ぶ会」のテーマ(予定)
第2回テーマ 幕末期の朝廷と幕府との関係
第3回テーマ ペリー来航と幕府
第4回テーマ 「開港」を巡る朝廷と幕府の対立
第5回テーマ 桜田門外の変・坂下門外の変
第6回テーマ 長州藩・薩摩藩による朝幕間周旋の動き
第7回テーマ 八・一八の政変
5 「会」の町田市への団体登録について
・当面町田市を拠点にして「学ぶ会」を開催する
・将来的には多角的なテーマを包含する全国組織化・国際化をめざした
い
・関係諸団体・個人へ参加の呼びかけをおこなう
6 第2回「学ぶ会」
日 時 7月24日(土)午後1時~3時
会 場 町田市木曽森野コミュニティーセンター
以上
東京・町田「幕末維新史を学ぶ会」
第一回 テーマ 資料
一 「維新史編纂局」設立のいきさつ
一 「概観維新史」の「序」
「維新史料編纂事務局」編『概観維新史』が、昭和十五年に発刊された。ここに「序」を寄せているのが同局の発案者であり、当時公爵であった福岡(筑前)藩出身、金子堅太郎である。金子氏はこの著作の「序」とともに、同書のこの後に続く「緒言」も執筆しているものと思われる。「序」には、「維新史料編纂局」が設置されたいきさつが記されて(日付は昭和十五年二月)いる。
「維新史料編纂局」が設置されたいきさつを『概観維新史』の「序」にみてみたい。
金子は、明治憲法が発布されてすぐに欧米に出張し、議会制度の調査をおこない、その際に関係者から憲法についての高い評価を受けたが、維新の大業と憲法制定の由来について関係者が「多くの疑問をもって」いた。これに対して金子は、憲法が発布されたその根底には「国体」、「国史」にその源があることを説明した。そして、彼は帰朝してすぐにそのことを明治天皇に伝え、合わせて山縣内閣総理大臣、土方宮内大臣に「国史編纂局」設置の必要性を建議し、まず、「王政復古の顛末」を編纂叙述することが急務であることを主張した、と書いている。それは、明治二十三年のことであった。
当時すでに『維新史』に関する著作が刊行(先述の島田、福地などの)されてはいたが、多くは私見に止まり、また、当時の関係者が少なくなり、関係文書の散逸が進んでおり、いまこそ史料収集に着手しないと「悔いを残す」として、明治四十二年の半ば、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、大山巌、松方正義、土方久元、田中光顕など諸元勲をはじめ、同志を糾合して維新史料の蒐集に着手すべきことを協議し、このことを明治天皇に伝え、了承され、下賜金を贈与される。この下賜金と旧諸侯有志からの寄付を原資として、会員の手による事蹟調査に着手した。この会が「彰明会」である。
しかし、「維新史料」の収集は大事業であって、「彰明会」の力だけでは所期の目的を達せない、ということで、維新政府は文部省管掌として「維新史料編纂会」を設置(明治四十三年)し、その事務局として「維新史料編纂事務局」を設けた。初代編纂会総裁に井上馨が就任し、後に金子堅太郎が引き継いだ。
途中、関東大震災による史料・原稿の焼失という危機もあったが、維新史料編纂会は、開局後二十年目にあたる昭和六年(一九三一)七月、稿本(『大日本維新史稿本』)四千百八十冊を脱稿した。
しかし、維新の事蹟の範囲は広く、史料も諸処に散在していることから、重要な史料も採録にもれているので、さらに既成稿本全部について史料を増補して訂正を行い、『維新史』綱文を整理統一した。
そして、金子は昭和十三年六月十四日参内して天皇に拝謁し、維新史料の編纂の行程と計画を伝え、これを承認された。そして「私は直ちに編纂官を督励して維新史の稿を開始した」としている。
この書の「凡例」によると、「本書の記述は弘化三年の孝明天皇踐祚にはじまり、明治四年の廃藩置県に終る」とされている。
二 『概観維新史』の「緒言」
『概観維新史』の「緒言」では、『維新』の経過を述べた後、「このようにして、国体の清華は大いに発揮されて、国民精神の高揚はまさにその最高潮に達したのである。この至誠の心こそ実に明治維新の骨子であって、維新史を学ぶことは名分を明らかにし、国体の本義に通暁する基本である」、「時は明治維新からすでに七十余年、志士功臣の精神事蹟は忘れ去られようとしている」、「よって本会は正確な維新史を公刊して、国民精神の作興に資するために、昨年(昭和十四年)、『大日本維新史』第一巻を刊行した」(全五巻附録一巻)としている。
そして、「これは、維新の史実を努めて調査詳述し、学会に提供してもっぱら学者の参考に資せんとするものである。したがって、書物は厖大で通覧するのは容易ではない。そこで、要路一巻を編修して煩雑さを避けて簡明にし、広く国民一般の閲読の便宜をはかって、『概観維新史』とした」と述べている。
また、「いま紀元二千六百年にあたって、皇威は国内に輝き、さらに国民の覚悟を期待すること至大なる秋にあたり、あえてこの書を一般国民に薦めるものである」と、しめくくっている。
二 明治・大正期の『維新史』編纂の性格
一 山口県・毛利家における「編纂作業」
『山口県史 資料編・幕末維新3』(二〇〇七年、山口県)の「解説」では、「毛利家では、明治十七年(一八四四)以降、維新史編纂と贈位申請を目的として、数次にわたる維新功労者の履歴調査と(藩主の)小伝の編纂をおこなっている」とし、その資料収集や編纂作業は「毛利家編輯所」がおこなったことを紹介している。
また、「毛利家文庫のうち通称「箱物」と呼ばれている史料群があった。この『箱物』とは、明治二十一年(一八八八)五月、宮内省が毛利家および島津(薩摩)・山内(土佐)・徳川(水戸)の四家に特命を下して維新史編纂を命じたのを受けて、毛利家編輯所が明治二十二年以降県下から積極的な資料収集を行なった結果成立したものである」と解説している。
この毛利家の編纂事業が維新中央政府による「明治維新史」の編集作業と同時進行的に行なわれたことを示すものとして、「藩臣日記」として分類されている、毛利家・家老「浦靱負(うらゆきえ)」の残した「浦日記」の取り扱いの経過を報告している。「『浦日記』が毛利家の所蔵となった経緯を知る手がかり」として、『浦日記』はまず、「官記」と呼ばれる冊について、品川弥次郎が当時の総理三条実美の内覧に供したこと、それを毛利家が東京芝の高輪御殿に取り寄せていること、さらに山口用達所の兼重真一を通じて「私記」も提出するよう浦家に要請していること、そして明治三十五年(一九〇二)に提出された「(浦)靱負履歴草稿」には、浦家が「読本ことごとくみな毛利公へ献納」し、金千円を下賜された旨の記載があることを紹介している。
また、この「解説」では、この時期に毛利家が浦日記の全部を買い上げた背景として、明治三十四年(一九〇一)一一月から記録調査ならびに「忠正公御一代史料取調」が開始され、毛利敬親誕生の文政二年(一八一九)以降を対象とした史料収集と「忠正公父子編年史」の編纂が始まったことが関係していると述べている。
二 維新政府による「編纂作業」
一方、維新政府では、明治二十三年に金子堅太郎は「維新史編纂局」の設置と、『王政復古』の顛末の叙述の緊急性を、天皇、山縣総理、土方宮内大臣に建議しており、翌年の天皇の承認と事業の原資となる下賜金の提供による「彰明会」の結成を期にして、本格的な「国家プロジェクト」としての明治維新史の編纂事業がスタートすることになる。
それから二十年後の明治四十三年に、「彰明会」をひきついで「維新史編纂会」が文部省の付属機関として設置され、関東大震災をはさんで昭和六年七月に一端の脱稿となるが、さらに全体の訂正を重ね、昭和十三年六月十四日に天皇の承認を受けて、『維新史』の綱文としての『大日本維新史料』の脱稿となる。昭和十四年から十六年にかけて『維新史』5巻と付録一巻が発刊された。
そして、さらに二年をかけて昭和十五年に『維新史』の「普及版」としての『概観維新史』が発刊されるのである。
これらの経過にみられるように、複数の元勲を中心とする「彰明会」による維新史編纂の作業は二十年間にわたって進められたのであり、基本的な草稿はほぼ輪郭が当事者たちの手によって作成されていたことを物語っている。そして、それらの作業は彼ら出身藩、藩閥勢力の旧雄藩の手によってその基礎史料の収集と編纂作業が進められるが、やがてその事業は国家事業として、中央政府による維新史の編纂事業へと直結されていったことを示している。
また、「彰明会」の動きとは別に、明治二十一年、「宮内省」が特命により毛利・島津・山内・水戸の四家に維新史編纂を命じたのに対して、岩倉、三條の家も加わって「史談会」を組織して聞き取りを始めた。それは、会合を開いて当時の生き残りの関係者からの談話を聴取したり、旧藩史料を研究したものなどで、その記録を『史談会速記録』という雑誌に掲載した。これは、昭和七年まで続いたが、この会を一つの母体として、明治四十四年(一九一一)に文部省のもとに『維新編纂会』が組織されることになる。
さらに、『維新史』編纂の過程でも聴き取りが行なわれ、その記録は現在、「東京大学史料編纂所」に保存されている。
このように、明治・大正期の『維新史』編集事業は政府主導による、しかも二人の天皇(明治天皇・昭和天皇)の要請によって進められた国家プロジェクトであった。維新功労者への「贈位申請制度」は、維新史の厖大な個人史料をはじめ、維新史編纂の基礎史料を全国から収集できる制度でもあったのである。
その成果は、史談会メンバーで歴史家の田尻佐著『贈位諸賢伝』(昭和二年刊)などにも生かされている。
(脇村正夫著『明治維新史の「先行研究」の研究』より抜粋)
以上
◇東京町田「幕末維新史」を学ぶ会/ 第1回テーマ資料 『概観維新史』 目 次
概観維新史 目次
緒 言
第一章 孝明天皇の初世
第一節 即位及び朝廷の状態
一 即位 [i]
二 朝廷幕府の関係 [ii]
三 朝臣の覚醒 [iii]
第二節 幕府の衰頽
一 幕府政治の弛張
二 幕府政治の不振と諸藩の状態
三 尊王論及び攘夷論の勃興 [iv]
第三節 外警の頻至と幕府の對策
一 北邊西陲の警 [v]
二 外国船処置令の變遷
三 鎖國政策の破綻
四 海防勅諭と沿岸防備 [vi]
第四節 和親条約の締結
一 「ペリー」の來航 [vii]
二 日米和親条約の締結 [viii]
三 露英蘭三國と条約締結
第五節 幕府の対策と政局の推移
一 幕閣の強化
二 輿論の趨勢
三 国防の充実
四 外交問題を繞る朝幕関係
五 開國後の幕閣情勢
第二章 朝権の伸張
第一節 修好通商条約調印の奏請
一 米国総領事の駐紮(*在) [ix]
二 幕閣情勢の變轉
三 日米通商条約の談判
四 通商問題と輿論
五 条約勅許の奏請 [x]
第二節 将軍継嗣問題の展開
一 将軍継嗣問題の由来 [xi]
二 一橋派の運動
三 南紀派の策動
四 一橋・南紀兩派の暗闘 [xii]
第三節 条約の無断調印と将軍継嗣の決定
一 井伊直弼の大老就職 [xiii]
二 條約及び継嗣兩問題の経過
三 日米条約の調印 [xiv]
四 将軍継嗣の決定と水・尾・越三侯の處分 [xv]
第四節 朝幕の乖離
一 三家大老の召命
二 一橋派の回復運動
三 水戸藩へ降勅 [xvi]
四 九條関白の排斥
第五節 安政の大獄
一 間部詮勝の入京 [xvii]
二 間部詮勝の辯疏
三 宮・堂上の處分 [xviii]
四 大獄の処断 [xix]
第六節 桜田門外の變
一 水薩兩藩士の密謀
二 勅諚返納の紛議
三 大老襲撃 [xx]
第三章 公武合體
第一節 櫻田事變後の幕府
一 政局の推移と朝威幕権の隆替
二 久世・安藤の執政と局面収拾
三 皇妹和宮の御降嫁
第二節 開港と其の影響
一 五箇国條約と開港
二 貿易の趨勢と其の影響
三 外人殺傷の頻発
四 幕府の對外策
第三節 坂下門外の變
一 丙辰丸盟約.
二 常野志士の聯盟
三 閣老安藤信行の要撃
第四節 雄藩の國事周旋
一 長州藩の活躍
二 長州藩の國事周旋
三 薩州藩の活躍
四 嶋津久光の入京
五 志士の暗躍と寺田屋の變
第五節 勅使大原重徳の東下と幕政の改革
一 勅使の東下
二 幕府の勅使尊奉
三 幕政の改革
第四章 尊皇攘夷
第一節 攘夷勅使の東下
一 京都に於ける尊攘論の高潮
二 長州藩の藩論一變と土州藩の國事周旋
三 攘夷勅使の東下
四 幕府の攘夷奉承
第二節 尊攘運動の極盛
一 政局の中心京都に移る
二 尊攘派の矯激
三 尊攘派の實権掌握
四 将軍の上洛
五 攘夷の機運
第三節 八月十八日の政變
一 将軍の東歸
二 攘夷親征の議
三 八月十八日の政變
四 大和及び但馬の乱
第五章 朝権の確立
第一節 八月十八日政變後の政局
一 變後の政情
二 公武合體の態勢
三 横濱鎖港の議と長州藩處分問題
四 将軍家茂の再度上洛
第二節 禁門の變
一 長州藩の情勢と毛利定廣上京の議
二 池田屋の變と長州藩三家老の上京
三 長州藩士の歎願と動乱
四 筑波山の挙兵
第三節 征長初役 [xxi]
一 長州藩追討の部署
二 長州藩の恭順
三 征長軍の撤兵
第四節 条約勅許
一 生麦事件
二 下關の外船砲撃と其の報復
三 条約勅許
第五節 長州再征の議と将軍の進発
一 長州再征の議と将軍の進發 [xxii]
二 長州藩論の決定と長幕の折衝
三 幕軍の廃退 [xxiii]
第六節 薩長聯合
一 薩長二藩の融和
二 薩長聯盟の成立 [xxiv]
第七節 将軍徳川慶喜の施政
一 宗家相續と将軍
二 幕政の改革
三 長州処分と兵庫開港
第六章 王政復古
第一節 明治天皇践祚
一 御降誕
二 孝明天皇崩御と明治天皇践祚 [xxv]
第二節 討幕運動の趨勢
一 薩長土藝四藩の皇道
二 岩倉具視及び王政復古派堂上の運動
三 倒幕密勅の降下 [xxvi]
第三節 大政奉還
一 土藝二藩の建白
二 大政の奉還
第四節 王政復古大号令渙發
一 諸侯召集
二 薩長藝三藩兵の東上
三 大号令の渙発
四 小御所の会議
五 慶喜の大坂城退去
第五節 戊辰の役
一 危機一髪の政局
二 鳥羽伏見の戦と東征
三 徳川慶喜の恭順と江戸開城
四 東北及び函館の役
第七章 明治天皇の新政
第一節 新政府の新設
一 明治天皇の新政
二 國是の決定と政府の組織
第二節 新政府の施政
一 祭政一致
二 公議輿論の尊重
三 富國強兵策
四 外交の刷新
第三節 封建制度の廃止
一 版籍奉還
二 廃藩置県
三 近代国家への躍進 [以上]
[脚注]
[i] 仁孝天皇崩御、弘化三(一八四六)年正月二十六日、孝明天皇即位の大礼、弘化四(一八四七)年九月二十三日。
[ii] 江戸幕府による公家諸法度(朝廷控制)により、幕府から人事・予算に至るまでの干渉を受けた。
[iii] 学習院設置(建春門外)、弘化二年二月、建学の精神「皇国の風格を教育し、人と国のあるべき姿を学習する」。『記・紀』の学習、漢籍(儒教・王道論)の会読。奈良・平安期に官吏養成機関、「大学寮」が朝廷に置かれたが、それ以後は廃退していた。
[iv] 水戸学『弘道館記』、「皇道を発揚し報效の誠を致すを本領とし、名分を重んじ節気を尊び、大いに尊王の精神を広める」。
[v] ここでは、米・英・仏・露・蘭の来航による開国要求をさす。中国では、天保十一(一八四〇)年から十三年にかけて英国と「アヘン戦争」が戦われ、敗北した清国は「南京条約」(不平等条約)を締結させらされた。
[vi] 第一回は、弘化三(一八四六)年八月二十九日、米・英・仏が琉球・浦賀・長崎に来航し開国を求めた事に対するもの。第二回は、嘉永三(一八五〇)年十一月、英艦が浦賀・下田で海域を測量したことに対するもの。朝廷から幕府に対し、「海防」の厳守を命じるものであった。このような朝廷から幕府に対する勅諭(「勅命」)は、数百年来の朝幕関係を破る行為であった。
[vii] 嘉永六(一八五三)年六月三日、午前八時頃、浦賀鴨居村沖に四隻の米艦が投錨した。この米艦は、東インド艦隊司令官、カールブレイス・ペリーが率いるもので、ペリーは、米国使節として米国第十三代大統領ミラード・フィルモアの親書(国書)の受理を日本側に求めた。第一回の「海防勅諭」が出された際、米国は同様に大統領の親書をもった東インド艦隊の司令官を派遣しており、今回は二回目の開国要求だった。ペリーが持参した「国書」は六月九日、久里浜の応接所で受理された。国書の要旨は、一、捕鯨船隊の避難港および漂着米国人の保護、二、清国への航路開設に伴う貯炭地の要求であった。
[viii] 安政元(一八五四)年一月、ペリーは再来航する。五月十二日、「日米和親条約」(「神奈川条約」)が締結される。安政元年中に日英・日露の同条約が、翌年十二月に日蘭条約が締結された。
[ix] 安政三(一八五六)年九月二十一日、米国総領事ハリス・タウンゼントが下田に着任する。
[x] 安政五(一八五八)年三月、朝廷は日米条約の拒否の姿勢示す。
[xi] 嘉永六(一八五三)年十一月、家慶の後を承けて家定が将軍宣下となる。しかし、政治力に欠けたため、後見(継嗣)をめぐり対立が幕閣内に発生する。これに条約勅許問題をめぐる対立とが加わり、朝廷・幕府内のそれぞれの指導部内の対立も相まって朝廷・幕府間の対立関係は激化していく。
[xii] 将軍職継嗣(後嗣)候補、一橋派は、一橋慶喜(水戸藩徳川斉昭の七男)、南紀派は、紀州藩徳川慶福(家茂/いえもち)。
[xiii] 井伊直弼は安政五(一八五八)年四月、大老に就任する。井伊は、南紀派であり、「朝廷控制」の方向を朝廷対応の立場として堅持した。
[xiv] 「日米通商条約」、安政五(一八五八)年六月に締結。これ以前の五月二十六日、幕府はハリスとの間に「下田条約」(通商条約に先行する九ヶ条)に調印している。蘭・露・英・仏との「四カ国修好通商条約」は同年九月二日に締結。
[xv] 将軍家定が安政五年七月六日薨去、将軍は、大老井伊直弼による老中独裁体制の下、徳川家茂に決定された。新将軍家茂の下、一橋派であり、条約締結に勅許を主張する水戸藩主徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、越前(福井)藩主松平慶永(よしなが)の三侯は、井伊老中体制により、謹慎などの処分を受け、幕閣から排除される。
[xvi] 安政五年八月八日、傳奏萬里小路正房(までのこうじ・なおふさ)より水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門に勅諚が授けられた。安政五年の干支は「戊午」であったため、そしてこの勅諚は、幕府を経由せず水戸藩に直接に下されたため、「戊午の密勅」と呼ばれる。この「勅諚」は、幕府の一部が進める通商条約締結の推進や将軍職後継をめぐっての幕閣内をはじめ国内不和という事態を打開するために、井伊大老体制によって処分を受けている徳川三家および三家以下の諸侯(諸藩主)を召集しての衆議を求めるものであった。とくに水戸藩には、「列藩一同、特に三家・三卿・家門の衆以上について、隠居に至るまでこの旨を伝達するよう」仰せ下された。
[xvii] 間部詮勝(あきかつ)は、安政五年十月二十四日に入京する。間部の入京の目的は、通商条約勅許の奏請願であった。その一環として井伊の威を借り、「戊午の密勅」を弁疏するために徳川斉昭の「陰謀論」を展開するとともに、朝幕内の尊皇攘夷派に対する弾圧(大獄)を断行した。また、間部入京後の十月二十四日、家茂は、正二位・内大臣・征夷大将軍に任ぜられた。
[xviii] 「安政の大獄」により、一橋派、攘夷・条約反対派が処断された。朝廷指導部の堂上では、幕府派の九条忠尚(関白)と対立した鷹司政道(前関白)、鷹司輔熙(右大臣)、三條實萬(前内大臣/三條実美の父)、近衛忠熙(左大臣)が落飾(失職)となった。
[xix] 「大獄」では幕府・朝廷関係合わせて約百人が連座し、三次にわたり処断した。死罪となったのは、水戸藩鵜飼吉左衛門はじめ頼三樹三郎、橋本佐内、吉田松陰など。吉田松陰は、安政五年十一月、老中間部詮勝の襲撃を表明し、その年十二月、長州藩「野山獄」に入獄。幕府は安政五年十二月から翌年春にかけて大獄に関係する牢囚にある者を江戸に護送する。吉田松陰等は安政六(一八五九)年十月二十七日、伝馬町牢で斬首となる。
[xx] 「桜田門外の変」、万延元(一八六〇)年三月三日午前九時過ぎ登城途中、桜田門外において水戸藩・薩摩藩の志士に襲われ斬殺される。
[xxi] 元治元(一八六四)年七月二十三日、長州藩追討の朝命が幕府に下された。
[xxii] 慶応元(一八六五)年九月二十一日、長州藩「再追討」が勅許される。
[xxiii] 慶応二(一八六六)年八月二十二日、追討休戦の朝命。この年、七月二十日、家茂薨去。十二月二十五日、孝明天皇崩御。
[xxiv] 慶応二年正月二十一日、薩長同盟成立する。
[xxv] 明治天皇、嘉永五(一八五二)年九月二十二日降誕、万延元年七月十日、八歳、「儲君」(代継ぎの君)となる。同年九月二十八日、親王宣下、名を睦仁親王と賜る。慶応三(一八六七)年正月九月、十六歳、第百二十二代天皇に踐祚(位につく)。元治元(一八六四)年、十三歳。
[xxvi] 「倒幕の密勅」は、正親町三条実愛邸において、慶応二年十月十三日に薩摩藩大久保一蔵(利通)に、十四日、長州藩広澤兵助(波多野金吾)に下げられた。この勅書には、中山忠能(明治天皇の祖父)・正親町三條実愛、中御門経之の署名がある。
[1] 仁孝天皇崩御、弘化三(一八四六)年正月二十六日、孝明天皇即位の大礼、弘化四(一八四七)年九月二十三日。
[1] 江戸幕府による公家諸法度(朝廷控制)により、幕府から人事・予算に至るまでの干渉を受けた。
[1] 学習院設置(建春門外)、弘化二年二月、建学の精神「皇国の風格を教育し、人と国のあるべき姿を学習する」。『記・紀』の学習、漢籍(儒教・王道論)の会読。奈良・平安期に官吏養成機関、「大学寮」が朝廷に置かれたが、それ以後は廃退していた。
[1] 水戸学『弘道館記』、「皇道を発揚し報效の誠を致すを本領とし、名分を重んじ節気を尊び、大いに尊王の精神を広める」。
[1] ここでは、米・英・仏・露・蘭の来航による開国要求をさす。中国では、天保十一(一八四〇)年から十三年にかけて英国と「アヘン戦争」が戦われ、敗北した清国は「南京条約」(不平等条約)を締結させらされた。
[1] 第一回は、弘化三(一八四六)年八月二十九日、米・英・仏が琉球・浦賀・長崎に来航し開国を求めた事に対するもの。第二回は、嘉永三(一八五〇)年十一月、英艦が浦賀・下田で海域を測量したことに対するもの。朝廷から幕府に対し、「海防」の厳守を命じるものであった。このような朝廷から幕府に対する勅諭(「勅命」)は、数百年来の朝幕関係を破る行為であった。
[1] 嘉永六(一八五三)年六月三日、午前八時頃、浦賀鴨居村沖に四隻の米艦が投錨した。この米艦は、東インド艦隊司令官、カールブレイス・ペリーが率いるもので、ペリーは、米国使節として米国第十三代大統領ミラード・フィルモアの親書(国書)の受理を日本側に求めた。第一回の「海防勅諭」が出された際、米国は同様に大統領の親書をもった東インド艦隊の司令官を派遣しており、今回は二回目の開国要求だった。ペリーが持参した「国書」は六月九日、久里浜の応接所で受理された。国書の要旨は、一、捕鯨船隊の避難港および漂着米国人の保護、二、清国への航路開設に伴う貯炭地の要求であった。
[1] 安政元(一八五四)年一月、ペリーは再来航する。五月十二日、「日米和親条約」(「神奈川条約」)が締結される。安政元年中に日英・日露の同条約が、翌年十二月に日蘭条約が締結された。
[1] 安政三(一八五六)年九月二十一日、米国総領事ハリス・タウンゼントが下田に着任する。
[1] 安政五(一八五八)年三月、朝廷は日米条約の拒否の姿勢示す。
[1] 嘉永六(一八五三)年十一月、家慶の後を承けて家定が将軍宣下となる。しかし、政治力に欠けたため、後見(継嗣)をめぐり対立が幕閣内に発生する。これに条約勅許問題をめぐる対立とが加わり、朝廷・幕府内のそれぞれの指導部内の対立も相まって朝廷・幕府間の対立関係は激化していく。
[1] 将軍職継嗣(後嗣)候補、一橋派は、一橋慶喜(水戸藩徳川斉昭の七男)、南紀派は、紀州藩徳川慶福(家茂/いえもち)。
[1] 井伊直弼は安政五(一八五八)年四月、大老に就任する。井伊は、南紀派であり、「朝廷控制」の方向を朝廷対応の立場として堅持した。
[1] 「日米通商条約」、安政五(一八五八)年六月に締結。これ以前の五月二十六日、幕府はハリスとの間に「下田条約」(通商条約に先行する九ヶ条)に調印している。蘭・露・英・仏との「四カ国修好通商条約」は同年九月二日に締結。
[1] 将軍家定が安政五年七月六日薨去、将軍は、大老井伊直弼による老中独裁体制の下、徳川家茂に決定された。新将軍家茂の下、一橋派であり、条約締結に勅許を主張する水戸藩主徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、越前(福井)藩主松平慶永(よしなが)の三侯は、井伊老中体制により、謹慎などの処分を受け、幕閣から排除される。
[1] 安政五年八月八日、傳奏萬里小路正房(までのこうじ・なおふさ)より水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門に勅諚が授けられた。安政五年の干支は「戊午」であったため、そしてこの勅諚は、幕府を経由せず水戸藩に直接に下されたため、「戊午の密勅」と呼ばれる。この「勅諚」は、幕府の一部が進める通商条約締結の推進や将軍職後継をめぐっての幕閣内をはじめ国内不和という事態を打開するために、井伊大老体制によって処分を受けている徳川三家および三家以下の諸侯(諸藩主)を召集しての衆議を求めるものであった。とくに水戸藩には、「列藩一同、特に三家・三卿・家門の衆以上について、隠居に至るまでこの旨を伝達するよう」仰せ下された。
[1] 間部詮勝(あきかつ)は、安政五年十月二十四日に入京する。間部の入京の目的は、通商条約勅許の奏請願であった。その一環として井伊の威を借り、「戊午の密勅」を弁疏するために徳川斉昭の「陰謀論」を展開するとともに、朝幕内の尊皇攘夷派に対する弾圧(大獄)を断行した。また、間部入京後の十月二十四日、家茂は、正二位・内大臣・征夷大将軍に任ぜられた。
[1] 「安政の大獄」により、一橋派、攘夷・条約反対派が処断された。朝廷指導部の堂上では、幕府派の九条忠尚(関白)と対立した鷹司政道(前関白)、鷹司輔熙(右大臣)、三條實萬(前内大臣/三條実美の父)、近衛忠熙(左大臣)が落飾(失職)となった。
[1] 「大獄」では幕府・朝廷関係合わせて約百人が連座し、三次にわたり処断した。死罪となったのは、水戸藩鵜飼吉左衛門はじめ頼三樹三郎、橋本佐内、吉田松陰など。吉田松陰は、安政五年十一月、老中間部詮勝の襲撃を表明し、その年十二月、長州藩「野山獄」に入獄。幕府は安政五年十二月から翌年春にかけて大獄に関係する牢囚にある者を江戸に護送する。吉田松陰等は安政六(一八五九)年十月二十七日、伝馬町牢で斬首となる。
[1] 「桜田門外の変」、万延元(一八六〇)年三月三日午前九時過ぎ登城途中、桜田門外において水戸藩・薩摩藩の志士に襲われ斬殺される。
[1] 元治元(一八六四)年七月二十三日、長州藩追討の朝命が幕府に下された。
[1] 慶応元(一八六五)年九月二十一日、長州藩「再追討」が勅許される。
[1] 慶応二(一八六六)年八月二十二日、追討休戦の朝命。この年、七月二十日、家茂薨去。十二月二十五日、孝明天皇崩御。
[1] 慶応二年正月二十一日、薩長同盟成立する。
[1] 明治天皇、嘉永五(一八五二)年九月二十二日降誕、万延元年七月十日、八歳、「儲君」(代継ぎの君)となる。同年九月二十八日、親王宣下、名を睦仁親王と賜る。慶応三(一八六七)年正月九月、十六歳、第百二十二代天皇に踐祚(位につく)。元治元(一八六四)年、十三歳。
[1] 「倒幕の密勅」は、正親町三条実愛邸において、慶応二年十月十三日に薩摩藩大久保一蔵(利通)に、十四日、長州藩広澤兵助(波多野金吾)に下げられた。この勅書には、中山忠能(明治天皇の祖父)・正親町三條実愛、中御門経之の署名がある。
[序]
昭和十五年二月
維新史史料編纂會総裁 伯爵 金子 堅太郎
回顧すれば五十年の昔、帝國不磨[1]の大典[2]たる憲法の発布せられし直後、余は政府の命を帯び帝國憲法を携へて欧米に出張し、議会制度の調査を兼ねて、かの地に於ける斯の途の大家より我が憲法に關する批評を聴きたる際のことなりき。彼等は齊しく口を極めて、その條章の完璧に幾き[3]を稱賛したるも、我が立憲政治の由来、就中維新[4]回天[5]の大業に關しては殆ど知る所なく、何が故に憲法を制定せざる可かざりしかに就いて、多大の疑問を有したり。
是に於いて、余は我が憲法の發布は突如として為されたものに非ず、其の根底・淵源一に國體・國史に存するものなることを闡明[6]し、事了へて歸朝するや、明治天皇に委細を奏上し、併せて山縣内閣総理大臣・土方宮内大臣に國史編纂局設置の件を建議し、其の第一着手として先づ王政復古の顛末を編纂叙述するの急務なるを論じたり。これ實に明治二十三年七月のことなりき。
然るに、當時に於ける國内の諸事情は容易に其の實現を許さず、鳥兎匇々[7]早くも二十年の歳月を経過せり。而してその間、維新史の刊行せられたるもの無きにしも非ずと雖も、多くは一家の私見に止まり、又多數實歴者・古老の凋落と關係文書の散逸とは、年を経て愈々甚しく、今にして史料蒐集・編纂に着手せずんば悔を百年に胎すの優あらん事を痛感せしが、明治四十二年の半ば伊藤博文・山縣有朋・井上馨・大山巌・松方正義・土方元・田中光顕等諸元勲は、速やかに同志を糾合して維新史料の蒐集に着手すべきを協議し、之を明治天皇に奏上せるに、畏くも御嘉納遊ばされたるのみか、特に御内帑金[8]御下賜の優諚にさへ接したり。乃ち御下賜金を基本とし、これに舊諸侯有志の寄付金を加へ、會員時々集合して復古の事蹟調査に當れり。これ即ち彰明會なり。
然しながら維新史料蒐集の事たるや、頗る大事業にして、一彰明會の力を以てしては、到底所期の目的を達すること能はざるは明らかなり。是に於いて政府は議会の協賛を経て文部省所管として維新史料編纂會官制を公布し、又同會事務掌理のため維新史料編纂事務局を設け、彰明會設立の關係最も深かりし井上馨侯は編纂會総裁に就任せり。而して余は曩に國史編纂局の設置を建議せし故を以て、特に副総裁を命ぜられ、侯の薨去後は総裁として今日に及べり。
斯くして余は、故老の談話聴取を初めとし、史料の蒐集・編纂に就いては、鋭意諸員を督勵して其の事業の進捗を図り、大正十二年九月の大震火災には、本會廳舎の焼失により多大の損失を蒙りしが、幸に既成の史料稿本全部及び借入史料・貴重図書を収蔵せる書庫の災を免るゝあり。為に事業の根幹挫折するするに至らず。爾後遂年成績を擧げ、昭和六年七月には、弘化三年以降明治四年に亙る全期間の稿本四千百八十冊の脱稿を見るに至れり。正に是れ開局後滿二十年に當る。ただ維新の事蹟たる其の範囲甚だ廣く、随って其の史料も亦諸處に散在せり。乃ち四千冊を超ゆる稿本を以てして尚ほ重要なる史料の採録に洩れたるもの尠なしとせず。仍って本會は更に、既成稿本全部に付き史料を増補し、その訂正を行ひ、綱文を整齊統一せり。
是に於いてか、余は去る昭和十三年六月十四日参内して、天皇陛下に拝謁し、維新史料編纂の功程並びに将来の計畫に關して委曲上奏し、辱けなくも御嘉納の優諚を排せり。乃ち余は直ちに編纂官を督勵して維新史の稿を起こさしむ。
惟ふに、維新の歴史は我が國史中にありて最も光輝ある部面に属す。これ我が國民が尊厳無比の國體に覚醒し、最も善く日本精神を發揚せし時代なればなり。我が日本帝國は此の維新の鴻図[9]により、内は封建の陋習[10]を破り外は外國の壓迫を抑へ、遂に明治の聖代を展開し、茲に立憲政治の確立をみるに至れり。即ち今日國運の隆昌は、其の近因一に係りて維新の宏猷[11]に在り。吾人は須らく維新の史實を知り、聖天子の深き恩徳を頌へ[12]まつると同時に幾多先覚志士の献身的活動に對し感謝の忱[13]を致さざるべからず。
今や皇國は新東亜の建設に邁進して恒久の平和樹立に専念す。而して皇國の前途愈々[14]多事なるを想ふ時、吾人は深く維新の歴史に鑑み、更に一層其の覚悟を固めて相共に時艱克服に努むるを要す。
本會は既に昨年(昭和十四年)を以て維新史第一巻(全五巻・附録一巻)を公にし、今(昭和十五年)又概観維新史成る。而して今茲に紀元二千六百年に當りて敢て之を刊行して朝野に薦めんと欲す。若し夫れ世人が本書を繙き[15]て直ちに明治天皇の宏謨[16]を拝し維新志士の心魂に触れ、以て精神作興の資と為すを得ば、獨り余の喜びために止まらず、實に國家の大幸なりと云ふべし。
以上
概観維新史 [緒言]
明治維新は實に嚝古[17]の偉業、皇國空前の偉業である。宏謨を神武天皇の古に則り、兵馬の大権を朝廷に収め、武門執政の制を廢して天皇の親政[18]に復し給うたのである。
而して其の廟謨[19]を定めさせられるに當っては、幕府専権の迹[20]を絶って、萬機[21]を公論[22]に決し、上下和衷戮力[23]の實を擧げ、舊来の陋習[24]を破って天地の公道[25]に基づき、採長補短[26]の経綸[27]を行って、大いに皇基[28]を振起[29]することを、百官群臣を率ゐて天地神明[30]に誓はせ給ひ、綱紀[31]を皇張[32]し、億兆綏撫[33]し、進取以て今日の盛運を開かせ給うたのである。
其の規模の雄大高遠なることは、大化の改新、建武の中興の比ではない。國家の大生命に蘇った國民精神が復古と維新[34]、伝統と發展とに融合して、渾然一體と為って大成せられたのである。
此の偉業は宇内[35]萬邦に匹儔[36]を見ず、其の偉業は之を萬世に傳へて、範を後昆[37]に垂る[38]べきものである。
今熟々[39]其の由来する所を考へるに、蓋し[40] 國體[41] 精華[42]の發揚、肇國精神[43]の發露に外ならずして、尊王思想が實に其の中枢を為すのである。
元和偃武[44]以来の学問の興隆は、国民に國體観念[45]の覚醒を促し、大義名分[46]の唱導となり、尊王抑覇[47]の思想の發動となって、漸次[48]幕府存在の基礎を動揺せしめた。
之に加ふるに、江戸時代の末造[49]に及んで、昇平の餘り、奢侈文弱[50]の風は滔々として上下を風靡し、幕府を始め諸侯武士は悉く財政の窮乏に苦しみ、綱紀[51]の弛緩、士風の頽廃は甚しく、當に一大革新を要するものがあった。
特に幕府に在っては租法舊典に拘泥して、徒に其の形骸を墨守し、偸安苟且[52]、世の進運に副はぬ者が多く、従って、其の権威は年と共に陵夷[53]し、強弩の末、魯縞を穿ち得ざるものとなった[54]。就中其の國防の不備と士気の萎縮とは、朝野識者の憂惧して止まぬ所であった。
此の時に當って、欧米列強の勢力は東漸[55]して兵威を挟んで[56]我に開國を迫り、幕府は彼の堅艦巨砲に恐れて策の出づる所を知らず、忽ち萎縮退嬰[57]して彼の強壓に屈服し、鎖國の租法を破って、其の要求を容れるに及び、物議は騒然として起こり、維新變革の端[58]は蓋し夙く茲に啓かれた[59]のである。
外國の壓迫に遭うて蹶然[60]之を反發したものは、實に我等の先人である。國體の本義[61]に覚醒した我が大和民族には、固有の負じ魂がある。争いでか外人の跳梁[62]を黙視すべき。幕府の因循姑息[63]に對して、囂々たる批難の聲は擧り、國體擁護の運動は勃然として起った。攘夷といひ、開国といふも、之を今日より見れば、孰れか金甌無缼[64]の皇國を外國の蹂躙より免かれしめようとする愛國心の發現であらぬものかある。
而して列強の壓迫が益々加はって、積弱の幕府は其の措置を誤り、内治外交の衝突は年と共に激化して、國歩艱難が一層深刻となるに及んで、國民は幕府が速かに大權を皇室に還し奉り、国家を肇國[65]の正しき姿に復し、擧國一致の力を以て、社稷[66]の安寧を維持しようとする念願を強くするに至った。
しかも此の間に皇室の御陵威[67]は益々国民の上に輝き渡って、朝權は日に月に伸張するのであった。之に反して幕府は衰亡の一途を辿り、當然の歸結として遂に崩壊したのである。
喧々囂々[68]を極めた開鎖の論議は王政維新の盛挙によって、國是は開國進取に決し、一切の抗争・紛優[69]は雲散霧消して、忽ち一視同仁の皇恩に浴し、仰いで天日[70]の昭々たる[71]を見たのである。
此の幕末の非常時に際會して、畏くも孝明天皇は皇祖皇宗[72]の天業[73]を墜(おと)させ給はず、赤子をして塗炭の苦に陥らしめざるが為に、夙夜[74]
宸襟[75]を悩ませられ、常に朝臣を督勵し、幕府を鞭撻あらせられて、重大なる政務は必ず勅裁(天皇の承認)を仰がしめ給うた。
明治天皇は先帝の遺緒を承け給うて、御親ら艱難の先に立たせられ、上は列租の神霊に應へ、外は國威を四方に宣揚し給はんとの大御心を以て、未曾有の變革を行はせられ、統治の大権を皇室に収め、遂に帝國不磨(不滅)の大典たる帝国憲法を發布し給ひ、帝國今日の隆盛の基礎を定め給うた。乾綱[76]の廣大、威徳の洽浹[77]正に欽迎[78]し奉るべきである。
斯く聖天子、相次いで上に在はす。臣民下に在って争いでか之に感奮興起せざるべき。廟堂[79]の諸卿は乃ち肝膽[80]を砕いて輔弼[81]の獻替[82]の忱[83]を致し、大小の諸侯は各々藩力を傾けて報效[84] 翼賛[85]の力を盡くし[86]たのである。
若し夫れ決然起って王事に勤めた志士に至っては、國難を克服し、皇運を扶翼[87]せんとする丹誠[88]に燃え、斃れて後已む[89]の気概と、一死報國偏に神明の照鑑[90]を仰ぐの信念とに生き、大義[91]に悖らず[92]、名分[93]に反かざる限り、縦(よ)し其の身は囹圄[94]に呻吟し、一命を鼎鑊[95]に委しても、敢て恐怖する所なく、其の臣節義気は必ずや他日王政を古に復し、邦家を泰山の安に置くべしと信じて、毫(すこし)も遅疑[96]しなかったのである。
斯くして國體の精華[97]は遺憾なく發揮せられ、國民精神の昂揚は正に其の最高潮に達したのである。此の至誠の心こそ實に明治維新の成る骨子にして、維新史を修むるは名分を明らかにし、國體の本義に通暁する所以である。
今や我が帝國は興亜聖戦の半ばに在って、平和の克復は俄に庶幾し難いが、是によって東洋に永遠の福祉を請来するは帝國の責務であって、生来の負荷は益々以て重からんとするのである。我等國民たるもの相率ゐ(団結し)て、義勇公に奉じ[98]、進んで東亜新秩序の建設に努むべきである。
時は明治維新を距てること既に七十餘星霜、志士功臣の精神事蹟は漸(ようや)く忘れ去られんとしてゐる。よって本會は、正確なる維新史を公刊して、国民精神の作興に資せんとし、既に昨年を以て維新史第一巻を刊行した。是は維新の史實を努めて査覈[99]詳述し、学会に提供して、専ら学者の参考に資せんとするものである。従って書冊は浩澣[100]にして通覧するに容易でない。乃ち要路一巻を編修し、努めて繁縟[101]を避けて簡明を旨とし、以て廣く国民一般の閲読に便して概観維新史といふ。
今茲紀元二千六百年に當りて、皇威は宇内に輝き、なほ國民の覚悟に俟つ(期待する)こと至大なる秋(とき)に當り、之を江湖(世間)に薦める。
『大日本維新史』『概観維新史』編纂の時代背景
最初の提起 明治23年7月当時
明治18(1885)年 内閣制度設置(伊藤博文内閣
成立 12月)
明治22(1890)年 日本帝国憲法発布(2月)
明治23(1891)年 教育勅語発布(2月忠君愛国思想)
第一回帝国議会開会(11月)
彰明会設立 明治42(1909)年当時
明治36(1905)年 韓国総督府設立
明治42(1909)年 伊藤博文ハルピンで暗殺
明治43(1910)年 韓国併合・朝鮮総督府設立
発刊編纂開始 昭和十三年6月当時
昭和12(1937)年 『国体の本義』(文部省刊)
*「国体明徴」「教学刷新」めざす
昭和14(1939)年 「国民徴用令」公布(7月)
米国日米通商条約破棄通告(7月)
第二次世界大戦開始(12月)
以上
[脚注]
[1] ふま 不滅
[2] ほう 法
[3] ちかき
[4] いしん 政治改革
[5] かいてん 変革
[6] せんめい 開明
[7] うとそうそう 歳月の早いこと
[8] ないどきん(宮内庁予算)
[9] こうと 大きなとりくみ
[10] ろうしゅう 悪い習慣
[11] こうゆう 図りごと )
[12] たたえ
[13] まこと 誠意を示す
[14] いよいよ
[15] ひもとき
[16] こうぼ 企図
[17] こうこ 空前
[18] しんせい 天皇自らが政治を行うこと
[19] びょうぼ 朝廷として計画
[20] あと 行為
[21] ばんき 天子の政務
[22] こうろん 公衆による議論
[23] わちゅう りくりょく 心を合わせて協力する
[24] ろうしゅう 悪い習慣
[25] てんちのこうどう 万物は同一で平等という考え方
[26] さいちょうほたん 適切な
[27] けいりん 政策
[28] こうき 天皇制字の基礎
[29] しんき 整え起こす
[30] てんちしんめい 天皇の祖先神天照大御神
[31] こうき 国法
[32] こうちょう 確立
[33] おくちょう すいぶ 万民を安らかにする
[34] 王政復古と倒幕
[35] 国内
[36] ひっとう 同じもの
[37] こうこん 後世
[38] たる 伝える
[39] つらつら よくよく
[40] けだし つまり
[41] こくたい 国柄
[42] せいか
[43] けいこく せいしん 建国理念
[44] げんな えんぶ 大坂夏の陣による豊臣家滅亡と徳川家康の天下統一
[45] こくたい かんねん 国柄のあり方の考え
[46] たいぎ 天皇が国の主権者であること めいぶん 尊王思想
[47] よくは 幕府の強権を抑える
[48] ざんじ(しだいに)
[49] とき
[50] ぶんじゃく 文学におぼれる
[51] こうき 規律
[52] とうあん 安きに走る こうしょ ごまかし
[53] りょうい 衰える
[54] 幕府の権力は地に墜ちた
[55] とうぜん(東行する-幕府に向かう)
[56] はさんで もって
[57] たいえい 退く
[58] もと
[59] はやく ここに ひらかれた
[60] けつぜん 早くも
[61] こくたいのほんぎ 日本の国柄は天皇が治める国であること
[62] ちょうりょう 気ままにふるまう
[63] いんじゅん こそく ごまかしの態度
[64] きんおうむけつ 独立堅固な
[65] けいこく 国生み神話にもとづく天皇による統治
[66] しゃしょく 土地と五穀の神を祭る祭祀にもとづく天皇の為政
[67] りょうい 威光
[68] けんけんごうごう 混乱
[69] ふんじょう
[70] てんじつ 天子
[71] しょうしょう たる 当然の姿
[72] こうそ こうそう 天照大御神を租する万世一系の天皇としての
[73] てんぎょう 立場
[74] しゅくや 常に
[75] しんきん 心
[76] けんこう 天子の大権
[77] こうしょう 広くゆきわたる
[78] きんげい 慎んで喜ぶ
[79] びょうどう 朝廷
[80] かんたん まごころ
[81] ほひつ 補佐
[82] けんたい 補佐
[83] まこと 誠実に尽くす
[84] ほうこう 恩に報いる
[85] よくさん 協力
[86] つくし 尽くし
[87] ふよく 助成
[88] たんせい まごころ
[89] やむ 実現する
[90] しょうらん 判断
[91] たいぎ 君臣の道
[92] もたらず 背かず
[93] めいぶん 君臣関係の自覚
[94] れいきょ 牢獄
[95] ていかく 煮る釜
[96] ちぎ 疑い迷う
[97] せいか すばらしさ
[98] ぎゆうこうにほうじ 忠義と勇気をもって国家に貢献する
[99] さかく 調べる
[100] こうかん 巻数が多い
[101] はんじょく 煩雑
論文: 改定版『長州藩奇兵隊第三代総督赤禰武人「斬罪」の意味 - 幕末維新史の道糸を探る-
脇村 正夫 著 要クリック→
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長州藩奇兵隊第三代総督
赤禰武人「斬罪」の意味
- 幕末維新史の道糸を探る -
脇村 正夫
はじめに
幕末維新史はさまざまな政治的事象や人々の思いや行動が圧縮されて、複雑な模様を織り成している。これまでも、維新をテーマとした論説や小説が多く書かれ、テレビや映画など映像による作品も多数製作されている。しかし、それは一定の時期、一定の場所や一定の人物に焦点をあてて描かれることが多く、全体像としてその本質に迫るという形はあまり取られてこなかったように思われる。
それは幕末維新史が近世の末期であり、資料が比較的豊富に残されているということも手伝って事象的にも、関わった人物の数においても膨大な内容をもって、しかも複雑な関連性をもって現在に伝えられているという一面が原因しているためであろう。
また、これまでの幕末維新史の描かれ方を見ると、「桜田門外の変」や京都での「討幕派」、「新撰組」が展開する流血の抗争はじめ「戊辰戦争」など内乱による殺戮行為を「英雄視」したり「当然視」したり、諸事象を「受動的」、「消極的」な「悲劇」として描く傾向があるが、それは現代に生きる者としての視点、つまり維新史を批判的に検証して「伝える」という姿勢に不十分さがあるためではないだろうか。
わたしは、幕末維新史の本質、本源的動機に迫るために、一人の人物に着目し、その人物の維新史への関わり方の有り様を通して、幕末維新史の全体像を探るという手法をとった。複雑に綾なされた維新史をひもとくための一筋の糸口を見つけ出したいというのが本稿の目的でもある。
その人物とは、第一次長州藩追討に対して幕府との武力的対決を避け、平和裏に解決したいと奔走しながら、「不忠不義の至り」の烙印を押されて斬首されてしまう赤禰武人[1]である。赤禰武人は高杉晋作などの後を受けて第三代奇兵隊総督として、下関における欧米四国連合艦隊との戦闘を経験している。
赤禰武人は、萩本藩(宗藩)の家老職を務めた浦靱負の家臣であり、楊井(柳井)阿月地域の邑主であった浦靱負が主催する郷校「克己堂」に籍を置き、後進の指導にも当たった。
この研究論文の第二章、三章では、第一次長州藩追討をめぐって赤禰が斬首された「罪状」の内容、および赤禰の取った実際行動について記述し、さらにその「罪状」について検証をおこなう。
そして、長州藩の公武合体運動に対する同藩内の討幕派(正義派)による破壊策動から第一次長州藩追討までの維新史の流れを概観する。ここでは、とくに赤禰を斬首した当時の高杉晋作など長州藩政府の中心勢力であった討幕派(正義派)がとった諸行動を中心に記述する。
そして、第四章では、第三章の「真の不忠不義の至り」をおこなった者は誰であったのかを受けて、赤禰のしたかった弁明を代弁しながら幕末維新史の本質、その本源的動機を探ってみたい。
第一章では、まず、以上述べた維新史の流れの道糸の基点であり、幕末維新史の全体を貫ぬいて討幕派の理論的根拠(妥協なき信念)となった吉田松陰と宇都宮黙霖[2]とのいわゆる「勤皇問答」について述べてみたい。
第一章 吉田松陰に倒幕を決意させた「勤皇問答」
第一節 「勤皇問答」の背景
吉田松陰と宇都宮黙霖との『勤皇問答』と呼ばれる書簡論争では、安政二年九月十二日から同年十一月末までと翌安政三年八月十四日から九月一日までの二期にわたって全体で二十通余りの書簡が交わされている。
往復書簡のうち最も重要視され、「勤皇問答」、「弁明書簡」
と呼ばれているのが、安政三年九月十九日と二十一日に往復
された書簡である。
この両日に黙霖は、松陰に対して松陰からの二通の書簡に細註朱して返送したものとそれとは別に二通の書簡も送っており、その論争の熱烈ぶりを示している。
この書簡論争では、尊王攘夷から尊王倒幕へと幕末維新史の流れを確定させたその基礎理論が展開されており、この論争によって、来るべき幕末維新を構想した基本戦略が確定されたと言うことができる。
この論争がおこなわれた背景には、幕府主導でアメリカをはじめ欧米諸国と和親条約が結ばれるという事態があった。アメリカとの和親条約が締結された安政元年三月、松陰は米艦に乗り込もうとして失敗し、自首して下獄の身となり、安政元年の十月から長州藩の野山獄に入獄していた。その翌年、安政二年九月から松陰と黙霖との往復書簡が開始されるのである。
そして、松陰と黙霖との間で「勤皇問答」と呼ばれる書簡が交わされるのが安政三年八月、その八月は初代米駐日総領事ハリスが下田にやって来た月であり、また孝明天皇より「攘夷の密勅」が水戸藩に下った月でもあり、まさに幕末維新史の幕開けの時であった。
この書簡が往復される当初から黙霖は松陰に面談を求めているが松陰は会見を断っている。それにもかかわらず松陰は書簡を通して人伝えに聞き知っていた黙霖の「尊王論」に関する考えを聞き出そうとする。しかし黙霖は内容の重大さのために慎重を期すとして、当初自論を述べることを躊躇する姿勢を示した。
これに対し松陰は黙霖の「尊王論」への畏敬を表明する一方で黙霖の論を手厳しく論難した。これに対する黙霖の一代の心懐を吐露しての本格的な論争が書簡論争第二期目にあたる安政三年八月十四日から展開されるのである。この時交わされた往復書簡が松陰と黙霖の「勤皇問答」、黙霖の「弁明書簡」と言われるものである。
第二節 「一誠感兆人」論と「一筆誅奸権」論
黙霖と松陰の書簡論争の争点を浮き上がらせるために、まず安政三年八月十九日の書簡を見てみたい。この書簡は松陰の書簡(安政三年八月十八日)に対して松陰が書いた手紙そのものの行間や天地の部分に朱筆で答弁を書き沿えて送り返したものである。
この問答における争点は、松陰は武士階級、黙霖は仏教界とそれぞれの世界・立場に身を置く者同士であるが、同一の世界観である「天皇に対する『忠節』を天下に確立するためにはどのような手法をとるべきであるか」という「命題」をめぐるものであった。
この「命題」に対して松陰は「一誠感兆人」論を主張し、黙霖は「一筆誅奸権」論を展開した。
まず松陰の「一誠感兆人」論から見てみたい。松陰は「自分は毛利家の家臣であり、毛利家は天子の臣であるから、毛利家に忠勤することは天子に忠勤することと同じである。しかし、藩主の天子に対する忠勤は武家社会となってから六百年来不十分なものであり、この大罪を償わせたいと考えているが、今自分は幽囚の身である。許されて天下の士(武士)と交流できる日を待つのみである。もしそうなれば、まず藩主に六百年の罪と現在の忠勤の不十分さの罪を償うことを説得し、藩主の手によってこのことを全藩に徹底させる。さらに他の諸藩主にもこの意義を理解させ、その上で幕府に先の罪を理解させ、天子への忠勤を遂げさせたい」と述べる。これは、朱子学の「修己治人」的な発想によるもので、先の命題に対して、自らの周辺から外に向けて改革を連鎖的に拡大してゆくという主張である。
そして、松陰は、「もしこのことが成就せずに斬首となったならば、必ず一人の自分の意志を継ぐ士を残しておく。この意志が子々孫々と引き継がれていくならば、いつかその意志を成就させる機会はあるであろう。『一誠感兆人』とはこう言うことだ」と、自分の想いの時空を越える不屈さを語る。
この前提の上に立って松陰は、黙霖の「一筆誅奸権」論(言論によって政権にある者のけしからぬ誤りを正すとする論)の批判へと入っていく。「今の幕府が暴君であったとしても、我が主人も自分自身も天朝に忠勤を欠いているのであり、幕府の罪を指摘することなどできない。ただ自分の罪を顧みるだけである」と、松陰は幕府の「不敬」を論ずることの無意味さを語る。
そして「上人に不満なのは、上人が『一筆誅奸権』を主張していることである。今まさに天下は大変な危機的な状況にあって、論文など書いている時ではないのではないか。もし上人が危機的な状況の隙に乗じて『決起を企てる者は天下の賊である』という認識をお持ちであるのなら、今こそその考えを著して幕府を批判されることこそ、まさに『王民』としての立場ではないのか。上人の論は、実に独りよがりであり、『人の善に依拠して誤りを改める』という道理の否定である。人の善に依拠して誤りを改めることをしないならば、『一筆誅奸権』といっても『奸権』を改めることはできないし、朝廷を興隆することもできないではないか」。
ここでの主要な論点は、黙霖の「決起を企てる者は天下の賊である」という見解に松陰が異論を唱えている点である。これは後に松陰が、「人の善に依拠して誤りを改める」実践として、幕政の改革を求めて老中間部詮勝(あきかつ/「安政の大獄」で尊王攘夷派の公卿および市井の学者を弾圧する)の暗殺計画を企て、そのことを理由として、安政六年十月、江戸伝馬町牢で斬首(第二次「安政の大獄」)となるが、そのことを暗示していて興味深い。
このように、松陰は黙霖の「一筆誅奸権」論を挑発的に批判し、黙霖の反論を待つのである。
黙霖はこの松陰の書簡に朱書きを施して反論する。「そうではない。私が会いたいというのは、ただ一言、言いたいことがあるからだ。書通では言えないことである。あなたの『億兆を感ぜしむる』と私の『一人を誅する』との同否を論ずることはその優劣を争うものである。ようするに私があなたを同志といったことを嫌ってその同不同を言っているだけである。この人と同志となれば罪が及ぶことは必至であると。しかし、私は長い間王家を侮蔑した徳川を賛美することなどはしない。私が用意しているのは『その後に現れる伯者(支配者)に影響を与えて天子を敬わせる』ための工夫である」と、黙霖の「尊王論」の展開については幕府の弾圧を警戒して書簡にはしたくない理由を述べながら、その内容に若干触れて、その後に現れる「支配者」に与える影響について準備していることを洩らしている。ここでは「倒幕」ということについてはっきりと書いてはいないが、後の「伯者」という表現でそのことを考慮に入れた考え方の一端を提示している。
黙霖はその後の書簡で、核心的な内容に触れていく。「諸藩には外国勢を攻撃して日本の武威を示したいとする大名が六、七人あるが、心配なことがある。それは一家(藩体制)を安泰にしておきたいということである。天子に『臣下の立場として、西欧諸国の軍事力をかざしての開国要求という国難に際して、命をかけて外国勢を征伐し、天子の不安を取り除きたい』と申し上げれば、天子はお喜びになるであろうことを知らない大名は一人もいない。しかし、それができていない状態が心配なのである」。
そして、「日本は一姓の天子であるので、私は直に王室を尊ぶのである」と、天子以外に君主のないことを指摘して、松陰の毛利家も将軍家をも主とする生ぬるさを酷評する。
また、黙霖は「外国勢の件については、徳川氏は奉命して速やかに戦うべきである。今まで徳川氏は全く王室に功労を尽くしていない。豊臣家の夫人と子どもを欺いて今日まで来たのであって、王室に関係することは何もおこなってはいない」、「諸侯は何人いるか知らないが、一人でも朝夕天家を遥拝する国君はいるか。江戸に往復の時、畿内を通り過ぎる時に京都に向かって拝する人はいるか。輿に座り、馬にまたがって王室を目下に見て過ぎる大名などに王室に服する志をもてようはずがない」と、皇室中心の思想の絶対さ、「天子御親政絶対論」を展開するのである。
吉田松陰は、後にこの黙霖との論戦を振り返って次のように書いている。「天朝を憂えるがゆえに外国勢に憤る者がいる。また外国勢に憤って天朝を憂える者がいる。去る八月に一友に啓発されてはじめて悟ったことだが、私は天朝を憂えるのに外国勢に憤ってその考えを持ったのであり、本末転倒、真に天朝を憂えたからではなかったのである」と。
第三節 幕末維新の「妥協なき信念」
黙霖は松陰との書簡論争において独自の「天子御親政絶対論」、「尊王倒幕論」を言い尽くした後、松陰との会見を再び迫ることもなく忽然と萩を去った。
松陰は黙霖に向けて次の書を送っている。
「客月(先月)念(二十)四日ノ書、忙手折讀、反復して上人の厚情に感涙す。謝する所を知らず候。(中略)高教多少の事あり。一句に盡し畢(おわ)る。五、六年中読書に務め、神氣を養ひ以て朝廷を崇め奉るの素志を堅固にし、切に妄動を禁じ、切に冗語を誡む。例を破って一面すべしと、色々父兄に向って議論も致し候へども、官禁弛め難く僕欝悶炎發、五内焚くが如し。僕は絶えて放狂せず。却て妄動にて時々神氣を鼓舞するの氣味もあり。御氣遣下さる間敷候」(安政三年八月二十四日付)。
松陰は先にも述べたように、これから四年後の安政六年、「安政の大獄」に捕らえられ伝馬町の獄で斬首となる(三十歳)。この「書」は黙霖を追って周防妙圓寺の月性の元に出されたものだが、黙林に渡ったのは斬首されてから数年後のことであった。
これらの論争は当然秘密裏ではあったが、幾人かの関係者が見守る中でおこなわれた公開論争でもあった。安政三年八月十九日の黙霖の書に「能美席上にて、御答書を得候」とあり、西洋学の師範であり、藩世子定廣[3]の侍講兼侍医であった萩の能美隆庵宅で、八月十八日の夜、「嚶鳴社」の集まりがあり、黙霖はその場で松陰への問答の書き込みと手紙をしたためた。
この日の集まりの参加者には来原良蔵(木戸孝充の妹婿)、杉梅太郎(松陰の兄)、土屋蕭海(萩での黙霖の滞在先)、周布政之助、久坂玄端などの名が見える[4]。
「嚶鳴社」の名前は周布の依頼で権大納言正親町三条實愛が名づけたものである。この集まりは藩の有志の「雅会」ということになっていたが、この後の歴史を知る私たちにとっては尊王倒幕に向けた歴史の流れを根底から牽引しながら、その多くは志半ばにして倒れた長州藩「勤皇党」の人物群ともいえる「結社」であった。
また、黙霖は松陰との論争中、この後の歴史事象である「第
一次長州藩追討」の際、「禁門の変」の責任をとらされて切腹した益田弾正や「禁門の変」に関わった小国剛蔵とも長時間の筆談[5]をしている。
このように、黙霖と松陰の「論争」は書簡によっておこなわれたために、その後の維新政権誕生までの「尊王討幕派」の基本路線の集団的確認を容易とし、この「青写真」はそれ以後の幕末維新史の全史をつらぬき、さらに幕末維新政府樹立に向けた「妥協なき信念」となるのである。
第二章 赤禰武人の履歴
第一節 「第一次長州藩追討」と赤禰の行動
文久三年の「堺町御門の変」(「八・一八の政変」)」で七卿を伴って都落ちした長州藩の苦境を打開するために、長州藩主父子は「率兵上京」を計画し、これを岩国藩主吉川監物に相談した。「上京」とは藩主の世子定廣が上京して朝廷にお詫びするというものであった。文久三年十二月四日、監物は「平穏に入京はできないし、武力行為があれば『違勅』となる」として上京に反対。
年が明けて元治元年になっても藩内には討幕派(正義派)と幕府派(俗論党)、「進発派」と「自重派」の争覇、相克が渦巻いていた。藩主敬親は何としてもこの苦境を打開したいと考えた。同年四月に入ると宇和島、細川、島津、越前、土佐、尾張、筑前など有力な諸侯が京都から帰国して行った。久坂玄瑞などが京都から帰国して三奸(宇和島、薩摩、越前)が退京の今こそ乗ずべき時だと進発を煽る。
そこに同年六月五日、「池田屋の変」が勃発。この「変」を契機として藩内の自重論を押さえて上京軍の進発が始まる。「禁門の変」である。
元治元年七月十四日、世子定廣の軍は三田尻を出発。殿軍を任されている岩国藩主吉川監物に定廣は出陣を促す。監物は宗藩世子の上京軍の殿軍として出発するが、備前水島灘にさしかかった時、すでに先発の三家老(福原越後、国司信濃、益田弾正)および木島又兵衛の軍が暴発し、あえなくも敗走を始めていた。
同年七月二十三日、「長州藩追討」の「勅令」が発せられ、八月五日には英仏米蘭の四国連合艦隊が馬関(下関)を襲撃する。昨日まで「尊皇攘夷」の旗頭であった長州藩が一朝にして「逆賊の国」となったのである。
八月三日、長州藩主敬親は、岩国藩主吉川監物を通して幕府との間の周旋に芸州藩が協力するよう要請した。芸州藩は幕府軍として長州藩攻略の岩国口を部署としていた。
高杉晋作の後を受けて奇兵隊第二代総督となっていた河上弥一は、「八・一八の政変」後、長州藩に逃れていた七卿の一人、澤宣嘉と七卿滞留先の三田尻を脱走し、文久三年十月十二日、「但馬・生野の変」に敗れ自刃する。その後を受けて奇兵隊第三代総督となったのが赤禰武人であった。赤禰は元治元年八月五日の四国連合艦隊による下関襲撃の迎撃戦に参加した後、元治元年十月十日、総督を辞職している。
「第一次長州藩追討(長征)」にあたって幕府総参謀の西郷隆盛は当初、長州藩徹底打倒の意向であった。しかし、彼は元治元年の十月頃、つまり赤禰が奇兵隊を辞職した頃、長州藩庇護論に転換する。
この頃、筑前藩が長州藩と幕府との周旋に乗り出してきた。これは同年八月二日に長州藩が筑前藩に朝廷と幕府に対する「諒解周旋」を依頼していることに応えたものであった。
筑前藩士喜多岡勇平が岩国で岩国藩主吉川監物と会い、上坂して西郷隆盛に会って両者の連絡をとりもち、長州藩の内情、吉川監物の人となりを理解するにつれて西郷の意向は長州藩寄りとなっていく。
同年十二月八日、久留米藩の淵上郁太郎と筑前藩の筑紫衛の斡旋により馬関(下関)で、西郷隆盛など薩摩藩の藩士と筑前藩士及び五卿[6]の側近、それに赤禰が参会し、「禁門の変」で責任を問われていた前田孫右衛門など七人の政府員の救命と彼等の復職について相談している。
西郷隆盛は長州藩の実情の把握と岩国藩主吉川監物の人格を信頼して、長州藩と幕府との全面対決を避けるための方針を立てた。しかし、「禁門の變」の責任を問われていた三家老の切腹に反発して高杉など「討幕派」の奇兵隊と諸隊が決起する。その事に対する、幕府の「長征巡検使」の「先発幕吏」による詰問や決起派に対する攻撃対策のために、「幕府派」藩政府は元治元年十二月十九日、前田孫衛門など七人の藩政府員を斬殺する。
この間、赤禰は、前田等藩政府員を救出するために、高杉の挙兵を引き止めようと、高杉の周辺の切り崩しを策した。しかし、これに失敗した赤禰は、奇兵隊の「討幕派」に命をねらわれることになる。その後、翌慶応元年正月二日、赤禰は一旦筑前藩に身を寄せることになるが、これは長州藩の事態打開のために、筑前藩の力を借りようとする行動であった。
そして、翌月二月八日、赤禰は馬関(下関)の白石正一郎[7]方で行われた「薩長和解促進会議」に出席する。この会議には長州藩と薩摩藩、土佐藩の有志が参加した。
この会議に参加した五卿の側近土佐藩の中岡慎太郎は、「自今以後天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし、吾思うに天下近日の内に二藩の命に従うこと鏡に掛けて見るが如し、他日国体を立て外夷の軽侮を絶つも亦比の二藩に本づくなるべし」と板垣退助への手紙でその時の心境を書き送っている。
幕府の「長征」強行策から長州藩を救護するために、西郷隆盛などが立てた施策の一つである「五卿の九州転座」を実現させたものの、幕府は江戸への護送を促すなど五卿の立場は不安定なものであった。五卿の側近や筑前藩藩士は五卿の「宥免」による地位の安定と長州藩救護の「藩命」を受け上京することになる。
赤禰としても筑前藩に在る五卿擁護に責任を感ずる者として、上京して堂上の尊攘派公卿たちに直接会って長州藩主父子の誠意を伝え、事態の円満解決を図りたいと考えた。
しかし、慶応元年三月二十七日、京都での西郷などとの打ち合わせを前にして赤禰は久留米藩淵上郁太郎と共に大坂で幕吏に捕縛される。その後、釈放されて長州に帰るが、慶応元年十二月二十七日、周防大島の久賀の港から北東十五キロ沖合にある彼の生まれ故郷柱島で、今度は藩政府による「君命」を受け赤禰は縛に就くのであった。
明けて慶応二年一月三日、久賀から船で三田尻まで送られ[8]、三田尻から陸路山口の政治堂付属監獄に収監される。そして慶応二年一月二十五日、山口の出合河原で斬首され(二十九歳)、鳩首される。
当時、長州藩の明倫館教授に招聘されていた加藤有隣(ありちか/笠間藩)が記した日記(『榊陰年譜』)に次のようにある。
赤禰武人梟首せらるゝ由。捨札は、「この者御国を缼落致し、幕府に召捕らへられ候処、存外の書き出し致し、この度立ち返り候処、不忠不義の所業に付、斬首仰せ付けられ候」由なり。刑場に臨むに決し、白無垢に自らその背に書して曰く。
「眞(まこと)に誠(まこと)は偽(いつわり)の如く、眞に偽は誠の似(ごとし)」(*我が罪は冤罪であると主張している)
観る者堵(垣)の如し、罵る者有り、哀れむ者有りと云ふ。梟(さらす)は鰐石原。夜、窃(ひそか)に首を取り去るものありと云う。この武人、本は芸(芸州/広島)柱島(岩国領なり)の人、奇兵隊総督の任となり、隊兵は誠に心腹してありしなり。一昨冬俗論沸起の際、金六百両を周旋の為に取り入れて、それより長道太郎(三州と号す)と脱走。京師に出て囚に就き、その時甚だ叛心、我が本国を攻べき手段を申し出で候由。この度芸(芸州)より幕監連れ来って放つ。よりて大島辺へかくれ遂に刑される。憐れむべき哉(年三十なり。ありかを訴へたるは一向宗僧桑原多門なる者の由)
〇夜首を奪い取りしは三四人の士なり。内一人は義母なるもの男装し来る由。番人是を咎るに、刀を抜いて追ちらし、その間に奪い去ると云。この母実に烈婦といふべし。罪状は囚中、高杉を誅し、諸隊を分散させねば長州を討ち平らくることは難しと幕吏へ申し立るが罪なりと云。又逆臣。(加藤有隣著『榊陰年譜』「在鴻日記〔慶応二年正月二十五日付〕)
それから三十六年後の明治三十五年四月、武人の一人娘リウの夫が武人の遺骨を請い受け、岩国市柱島の西栄寺の先祖の傍らに葬った。またもう一つの墓が柳井市阿月赤崎山の山中に養父赤禰忠右衛門夫妻の墓と共にある。
第二節 赤禰武人の「罪状」の検証
赤禰の「罪状」は次の通りであった。
「右一昨年の冬奇兵隊総監所勤中脱走せしめ、上国に於いて相捕へられ、獄中より存外書面を差し出し候由聞え比度帰国の上も、数十日の間所々しのび隠れ候始末、旁多年の御厚恩を志棄し不忠不義の至り、罪科遁れ難く、之に依りて斬首仰付けられ候事」。
この罪状のうち「奇兵隊総監所勤中脱走せしめ」については、次の事情があった。元治元年十一月二十七日、赤禰は、諸隊参謀の時山直八等隊員数名と共に出萩して藩主に謁見する。この時赤禰は、藩主敬親より諸隊の沈静化を要請されている。この藩主の意向を受けて赤禰は諸隊・奇兵隊の挙兵を抑えるために、高杉周辺の切り崩しをおこなったのであった。しかし、赤禰はこれに失敗し、諸隊と奇兵隊の激派が「赤禰斬るべし」と身辺に危険が迫ったこと、また五卿を擁護する対策のために赤禰は一旦筑前藩に身を寄せることになったのである。
また、「上国に於いて相捕へられ」については、九州に転座した五卿の取り扱いの善処を堂上方に求めて上京し、大坂で捕縛されたものである。この間の事情については、倒幕派の恣意的な表現を考慮に入れても、この罪状への赤禰の弁明は成り立つ。
しかし、「獄中より存外書面を差し出し候由」が「倒幕派」藩政府が赤禰に厳罰を下す根拠となっている。藩政府が「存外書面」としている赤禰の「急務」と題した「意見書」には自分の扱いへの要望と幕府への提案が「五ヶ条」盛られている。
その意見書の筆頭には、「一、公武の御間柄弥々御合体在らせられ、御政令一途に出で人心をして方向を知らしめたき事」とあり、この条が「討幕派」藩政府の寒心を呼んだのである。
ここでは、「公武合体の方向で時局収拾に努力したい」としている。そして、「去り乍ら寛仁大度を以て許容申付けられ候はば吏聴し奉るべく、将又長州の始末諸藩の情実等より推して、天下の形勢愚見の廉申立つべく、猶沙汰次第腹蔵なく右の通り申し上げ可く候」と、「自分を無罪放免してくれれば、幕吏の指揮に従うとともに、長州藩の対策については諸藩の実情を知っている自分の見解は有効なものであり、要請があればそのことについて協力を惜しまない」と述べている。
これは、身に覚えのない捕縛、投獄という状態に陥った赤禰がこの境遇から脱出するための方便として、また切迫する情勢下において純粋に長州藩と幕府軍との戦いを避けたいという自らの意志に基づき、この提案を幕吏に進言したのであった。
その進言が入れられて、赤禰は長州藩に戻ることができ、支藩の長府藩や岩国藩などにはたらきかけをおこなうが、長州藩の情勢は幕軍との「追討」戦を前にして徹底抗戦、「倒幕」の方向に立ちきっていた。
それは赤禰武人が手がけた薩長同盟が実を結ぼうとしていた時期であり、朝廷と幕府内の公武合体派(幕府擁護派)が力を失いつつある時期でもあり、長州藩「討幕派」藩政府にとって絶対有利の情勢がそこにはあった。
一方、幕府の長州藩対策には、西郷隆盛の「宗支藩間を離隔し長州人をしてその過激派を制する」という戦略が背景にあった。赤禰等の上京と捕縛は、このことを前提にした西郷等の画策であった可能性が高い。
赤禰の「長州入り」には、新撰組の近藤勇等が同行している。このことが「みせしめ」的な彼の「最後」につながったと言えなくもない。長州藩対策に当たった幕府大目付永井尚志は、赤禰武人、淵上郁太郎を芸州藩で解放するが、これには新撰組の近藤勇らが同行していた。赤禰等が新撰組に入ったとの噂が流れる。しかし実際には赤禰等は解放後新撰組預けの身となったのであり、この背景には、取調べにおいて赤禰等の志を理解し、解放を決した永井尚志とは別の幕閣の意志がはたらいていたものと思われる。赤禰等の解放と同時に幕府は、新撰組にその存在を示すためのはたらきかけを長州藩領内に行なわせているのである。
赤禰の一連の行動、彼の長州藩の「事態」に対する姿勢は、彼が家臣として主と仰ぐ浦靱負の生き方を受け継ぐものであった。
浦靱負は元治元年暮れの奇兵隊の「挙兵」に際して、諸隊に激越な言動を避けるよう説得し、五卿を訪ねて諸隊の鎮静を懇請している。
また、文久三年、靱負は世子定廣、三条実美(別勅使)などを補佐して東下(江戸に行く)し、幕府閣老に「攘夷」に踏み切ることを説得し、また将軍家茂が上京して天皇に臣節を尽くすことを進言し、翌春に将軍上洛の確約を得ている。この功労により、靱負は特旨をもって紫宸殿御椽通で孝明天皇に拝謁を申しつけられ、上賀茂、下賀茂神社、石清水八幡宮の行幸の際には供奉が許された。
浦靱負は藩の執政の立場にあって、朝廷と幕府との対立関係を極力回避するという政治手法をとった。彼は、「征長」をめぐる長州藩と幕府との関係においても、また藩内の倒幕派(正義派)と幕府擁護派(俗論党)との対立についても、同様の姿勢を貫いたのである。赤禰は浦家家長である靱負の生き方に確信をもち、当然それを支持していた。
しかし、高杉の挙兵によって入れ替わった長州藩政府の対幕方針は「倒幕唯一論」であった。この萩の高杉をはじめとする「奇兵隊・諸隊」の倒幕志向との関係において、赤禰は、彼の置かれた地理的関係(拠点が楊井阿月地域)からも、そして思想的にも萩の倒幕派とは一線を画していた。
つまり、第一章で述べた吉田松陰に倒幕を決意させ、「萩を拠点とする」関係者の間で暗黙の了解事項となった「幕末維新」の「青写真」、換言すれば倒幕による「天皇親政」確立路線について、その「妥協なき信念」を共有するその「埒外」に彼は置かれていた[9]ということである。
さて、ここで、これまでの論述を踏まえて、「幕末維新史」の「本質」を簡潔に定義しておきたい。それは、「長州藩の吉田松陰に連なる久坂や伊藤、山縣等松陰門下生および桂小五郎、益田右衛門介など高位士族を始め全国の尊王討幕派の人士が結集し、朝廷内の討幕派公卿と結託して倒幕・天皇親政を実現した」と言うことである。
高杉派、「討幕派」の長州藩政府は、赤禰武人が「第一次長州藩追討」の際にとった行動を「不忠不義の至り」として、赤禰斬首の理由とした。しかし、討幕派による「倒幕」、「天皇親政」に至る彼らの行動こそが、欧米諸国の門戸開放要求に揺れ動く国内不和を「公武合一」という平和的解決の方向に求めようとした孝明天皇や当初の藩主毛利敬親の意向を否定するものであり、萩の倒幕派こそが「不忠不義の至り」であった、とわたしは定義するものである。
その討幕派がとった行動の実態を次に見ていくことにする。
第三章 真の「不忠不義の至り」
第一節 長州藩の「藩論・公武合体策」の破壊
徳川幕府による欧米列強との「和親条約」、「通商条約締結」と相前後して、朝廷勢力および幕府勢力の内部に激しい対立関係が生まれた。
長州藩、水戸藩などを中心とする尊皇派(天皇主権派)は、幕府が天皇の「勅許」を得ずに調印した「通商条約」に反対する朝廷内の「攘夷派」と連携して「尊王攘夷」論を展開した。そして彼等は、条約の廃棄と欧米諸国との国交断絶を迫り、「日本国の主権者は天皇である」という「天皇主権者論」をもって幕府と激しく対立した。
この対立関係は、朝廷内および幕藩体制内においてやがて「公武一和(合体)派」と「天皇親政・討幕派」との両極に別れていくことになる。
「公武合体」の動きは、朝廷と幕府との深刻な対立関係を緩和することを目的に、天皇の「主権者」としての位置を確認し、幕府が天皇の意思の下で政治を司っていくという朝幕間の上下関係の再認識による現状維持策であった。
条約調印をめぐる深刻な国内不和の傾向を前にして、長州藩は「公武合体策」を基調とする長井雅楽の「建言」を受け入れ、これを「藩論」として朝廷と幕府との間に周旋した。それは功を奏し、将軍家茂の上洛へと進展する。
長井の「航海遠略策」は、「外国船の来航を坐して待つのではなく、わが国も進んで五大州に乗り出していくべきである。そのための国の方針は今後は朝廷において大綱を決せられ、幕府はそれを受けて諸藩に号令するのでなくてはならない」というものであった。これは開国通商を是認するものであり、「国是」の決定を天皇の「叡慮」に待つという点で朝廷、幕府ともに納得できる「和解策」であった。
しかし、長州藩の久坂玄瑞をはじめ諸藩および朝廷内の「尊王倒幕派」は、長井の進める「公武合体策」を否定する動きを示した。また合わせて長井の建白書「航海遠略策」の内容に「朝廷を誹謗する文言」があるとして朝廷から「問責」を受ける事態となり、この策は頓挫、永井は責任を取り切腹となる。その結果、長州藩は「公武合体策」を放棄せざるを得なくなり、反対に幕府主導の「通商」政策を否定する「奉勅攘夷」の「藩是」を決定するに至る。
この長井の建白書文中の「誹謗に似寄り」を伝えたのは、議奏中山忠能(明治天皇の祖父/倒幕派公卿)であり、伝えられたのは、長州藩執政の浦靱負であった。
長州藩の藩主および長井による「公武合体」の「建白書」の方向は幕府においては幕閣の久世・安藤両老中によって推進されようとしていたが、朝廷内および長州藩内の「討幕派」はこれを破壊するために全面対決に向かった。
その一環として実行されたのが、長州藩の長井雅楽の「航海遠略説」を支持し、「公武合体策」を推進していた幕閣首脳への襲撃であった。大老井伊直弼が暗殺(「桜田門外の変」万延元年三月三日)されて以後、幕閣の実権を握り朝廷と幕府との関係改善をめざしていた老中安藤正信(対馬守)が、水戸浪士たちに坂下門外で襲撃[10]され、負傷する(「坂下門外の変」文久二年正月十五日)。
安藤はこの事件後、老中を罷免され、さらに隠居・蟄居を命じられる。こうして幕閣における「公武合体」策の牽引的実力者が失脚することになる。
第二節 将軍家茂の「上洛」と「王政復古」の策略
文久三年三月四日、将軍家茂は上洛のため京都に到着した。幕府側のねらいは幕府の威光を改めて各方面に示すとともに、政治向きの命令や「勅令」は幕府に一任する旨、朝廷に直接確約させたいという意向が根底にあった。
将軍上洛にあわせて、長州藩は天皇に「攘夷」祈願のための諸社行幸を企画し、世子定廣を通じて朝廷に建白していた。これは将軍を随えて天皇が「攘夷」祈願するというものであった。
同年三月十一日、孝明天皇は上賀茂・下賀茂両社に行幸し、将軍家茂も供奉した。
さらに長州藩世子定廣は石清水八幡への行幸を提案し、それは四月十一日実施されたが、家茂は病気を理由に参加せず、その際、将軍に授けられる「攘夷の節刀」を将軍の後見職、一橋慶喜が受け取ることになったが、慶喜は儀式を抜け出し、「節刀」は不受理となる。
だが、幕府は四月二十日、「攘夷」決行期限を五月十日と奉答する。
朝廷では、文久二年に「関白」などのほかに新たに設けられた国事係二十人も加わって事が決せられる体制となっていたが、国事係の大勢は倒幕志向の長州派公卿で占められていた。
将軍家茂の上洛に乗じて「尊王倒幕派」は「倒幕」の策動へと決定的な運動の変質の一歩を進めた。久留米の神官だった真木和泉は長州藩主敬親に天皇の上賀茂・下賀茂、石清水八幡の行幸に続いて大和への「攘夷」祈願を提案した。これを受けて藩主敬親は「大和行幸」を朝廷にはたらきかけるよう家臣に命じる。
しかし、この提案には将軍の「追放(倒幕)」と「王政復古」の「策略」が秘められていた。文久三年八月十三日、孝明天皇の「大和行幸」(神武天皇陵参拝)及び「攘夷親征」の詔勅が発せられた。奈良の春日大社に「攘夷」祈願に赴き、さらに神武天皇陵および橿原神宮まで足をのばすというものであった。
「行幸」の供として諸藩からの出仕が命じられた。それは、筑前の平野次郎、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の土方楠右衛門、長州藩からは益田弾正(右衛門)、桂小五郎、中村九郎、久坂玄瑞など「尊王討幕派」の指導的立場にある志士たちであった。同十五日、「学習院」で「行幸」の実施が協議された。
第三節 「大和の変」・「生野の変」
(一)大和の変
文久三年八月十四日、「尊皇討幕派」の圧力で出された「大和行幸」の詔に呼応して、「土佐勤皇党」の吉村寅太郎などを指導者とする「天誅組」は公卿中山忠能の子、中山忠光を擁し、「攘夷」先鋒の「勅命」を奉じると称して大和で「倒幕」の兵を起した。
同十七日、大和五條の代官所を襲撃して、朝廷領とすることを宣言した。
忠光はかねてから「尊王討幕派」と交わり、真木和泉、久坂玄瑞など討幕派志士の来訪を受けて時事を論じていた。
「大和行幸の詔」が下りた翌日文久三年八月十四日、中山忠光は方広寺(京都東山)に盟約のある同志を結集し、「数千の義民を募り候て、御親征御迎えに参上仕り候」と大和挙兵を決した。
一方、中山らの計画を知った三条実美や真木和泉は「行幸」直前に浪士が挙兵を起こすことは望ましくないと考え、平野國臣に説得を命じた。同十八日、平野らは大和に入ったがすでに代官所は襲撃されていた。
これに対し、同十八日、「八・一八の政変」により京都の長州藩「倒幕派」勢力は失墜する。孤立した「天誅組」は「朝命・幕命」による諸藩の追討を受けて九月下旬、吉野で壊滅した。吉野を脱出した中山以下七名は長州藩に逃れる。
(二)生野の変
さらに同年十月上旬、「尊王倒幕派」の平野國臣らは「八・一八の政変」で都落ちして長州に滞留中の「七卿」のうち澤宣嘉を擁して、「生野」で挙兵する。
大和挙兵中止の説得に失敗した平野は、反対に「大和義挙」を応援するために京都を脱出して但馬に向かった。但馬には真木、久坂、平野らの運動によって八月十六日、朝廷から「攘夷」のための「農兵召募」の許可が下りていた。
文久三年九月十九日、「但馬」で「農兵」の組織化を進めていた中心勢力は「天誅組」の「大和挙兵」に呼応するとして、「倒幕挙兵」を決する。同月二十日、平野らは都落ちした七卿を挙兵の首領に戴くため、長州・三田尻に向かった。
七卿は、長州藩が自重策をとっていたため表立って動けなかった。そこで、七卿の一人、澤宣嘉が密かに長州を脱し挙兵に加わることになった。同年十月二日、平野らは澤宣嘉と彼に従う河上弥一ら「奇兵隊士」を含む三十七名と共に三田尻を脱した。
同年十月十二日、彼らは「但馬」・「生野」の代官所を無血占拠し、澤宣嘉の「諭告文」を発表して農兵を募った。即日二千人を超える農兵が集まる。
代官所占拠の報を受けた出石・姫路の二藩はただちに約二千の兵を「生野」に進めた。
十月十三日、首領の澤は「生野」の本陣を脱出し長州藩に亡命する。同月十四日、澤脱出を知った農民たちは、妙見山に留まっていた河上ら奇兵隊士を偽浪士と罵り、攻撃。河上ら十三名は自刃、その他の者も切腹、戦死、捕縛された。捕縛された者の内、平野ら十一名は京都六角牢に入れられる。彼等は翌元治元年七月、「禁門の変」の際、未決のまま「新撰組」に斬首されることになる。
第四節 「八・一八の政変」と「参与会議」
(一)八・一八の政変
文久三年五月二十日、「尊王討幕派」の指導的立場にあった姉小路公知が暗殺され、現場に薩摩藩士の刀が落ちていたことから、薩摩藩は「御所」への出入りを禁じられる。
失地回復をめざす薩摩藩は「京都守護職」を務める会津藩に接近した。会津藩の藩兵交代時期の二千の兵力と薩摩兵の軍事力を背景にして、尊王倒幕派の長州藩を京都から追い落とすための薩摩藩と会津藩との「秘密同盟」が成立した。
文久三年八月十八日深夜、中川宮親王が突如参内すると、それをきっかけに守護職松平容保、京都所司代稲葉正邦らが武装した兵とともに入門し、京都御所内を内から固める。午前四時、薩摩藩士は長州藩が警護している堺町門に集結し、大砲を一発撃った。
急を聞いた長州藩は堺町門の正面にある鷹司邸に集結。長州兵数百のほか、三条実美の命により三十二藩から約千名の兵の動員に成功する。
しかし、ここでの開戦は不利との判断から、結局、長州藩勢は三条実美ら七人の公卿を護って国許へ退くこととなった。
(二)参与会議
「八・一八の政変」後、孝明天皇は島津久光、松平春獄、伊達宗城、一橋慶喜を京都に招集した。島津久光は、一橋派の諸侯を説得し、京都守護職松平容保を加えたメンバーを天皇が「参与」に任命し、この「参与会議」で国政を動かすという体制を作り出した。「参与会議」の正式発令は文久三年十二月の晦日になされた。
孝明天皇は「参与会議」の発足を喜び、家茂を呼んで長州藩を排撃し、幕府中心に軍備の増強を命ずるなど、この時期幕府と朝廷との政策は一体化している観があった。
しかし、文久四年二月、一橋派の諸侯が朝廷の実権を手に入れたのを機会に「鎖港攘夷」の「国是」そのものを「開国」の方向で「改正」しようとしたが、その中心となるべき慶喜だけが「鎖港攘夷論」に固執して成立をはばんだ。
元治元年二月十五日、中川宮朝彦親王の屋敷で島津、松平、伊達が前後策を話し合っているところに慶喜が酔って現れ、中川宮に向かって「この三人は天下の大愚物、大奸物にござ候ところ、いかにして宮は御信用あそばされ候や」と述べ、三月九日までに全員が辞表を提出して「参与会議」は正式に「分解」してしまう。
第五節 「禁門の変」
「参与会議」の崩壊の後、文久三年の「八・一八の政変」での長州藩の京都追放および元治元年六月五日の池田屋事件での「尊王討幕派」志士の殺害に憤激した長州藩は、「政変」で処罰された藩主毛利敬親・定廣父子の「赦免」と倒幕派勢力の京都での失地回復のため出兵を計画する。
長州藩は福原越後、国司信濃、益田右衛門介(弾正)の三家老を将として軍を編成し、同六月一五日、先発の木島又兵衛隊三百名が出発する。国司隊は嵯峨に、益田隊は天王山に陣取り京都を威圧し、それに京都潜伏中の脱藩浪士などが加わり、総勢二千六百名となった。
同年七月七日、一橋慶喜は長州勢に十一日までの撤退を命じ、十二日には西郷隆盛を軍監とする薩摩藩兵約千名が急遽入京、会津藩の松平容保の指揮下に入り会津軍二千名と合体、その他、彦根、津、淀、尾張の藩兵の合計一万での迎撃が決定した。
朝廷では七月十八日に「長州藩追討」を決定、一橋慶喜を追討総督に任じ、会津藩ら各藩兵に「御所」の九門を固めさせた。
七月十九日未明、戦闘が開始され、国司信濃隊五百名は「下立売御門」、「上立売御門」、「蛤御門」の三方向から攻撃、その中の木島又兵衛は会津の守る「蛤御門」に殺到して一時占拠に至る。
これにより、正親町三条実愛や中山忠能らは長州との和睦を中川宮朝彦親王らに主張するが拒否される。
蛤御門で苦戦している会津藩を「乾門」にいた薩摩の西郷軍が援護、木島を狙撃し形勢を逆転させる。薩摩軍の横撃を受けた長州軍は一瞬にして壊滅し、全軍総崩れとなって各藩や新選組に追われて長州藩に向かって敗走した。
この事変後、長州藩に「追討の勅命」が下され、欧米四国連合艦隊による馬関(下関)襲撃、幕府による「第一次長州藩追討」及び三家老・四参謀の切腹という歴史事象へと続いていくことになる。
第四章 幕末維新の「本質」
第一節 討幕派の性格
第三章の「真の不忠不義の至り」でみたように長州藩討幕派は藩是として進められていた長井の「航海遠略策」による公武合体の動きを破壊した。その目的のために久坂は長井の暗殺まで企てた。
第二代将軍秀忠以来、二百三十七年ぶりの将軍家茂の上洛と「攘夷祈願」を目的とした石清水八幡、上・下賀茂神社行幸の成功を受けて、「討幕派」はさらに「大和行幸」を計画し、倒幕挙兵としての「大和・生野の変」を起こす。
これに対する朝廷内の「孝明天皇・幕府派」のまきかえしを受けて、「八・一八の政変」(「堺町御門の変」)により長州藩は京都から追放されることになる。
長州藩はこの事態の弁明および失地回復のために毛利藩主世子定廣を京都に派遣して朝廷に誠意を示すとして卒兵上京を策した。しかし、先発の討幕派の益田弾正ら三家老の暴発により幕府派「御所守備軍」と戦闘となり、西郷隆盛の薩摩軍の参戦などにより長州軍は壊滅状態となって京都から敗走する。そして長州藩は「朝敵」とされ、「第一次征長」へとつながっていくことになる。
「第一次長州藩追討」への対応をめぐって長州藩の「幕府派」藩政府の政策に反対して高杉など「討幕派」の「奇兵隊」や「諸隊」が挙兵・決起し、藩政府の実権は「幕府派」から「討幕派」へと移行する。
この動きに対して、幕府は「第二次長州藩追討」をおこなうが、「四境戦争」において幕府軍は各地で敗退。「征長戦」は休戦となる。
このように、長州藩「討幕派」は、「公武合体」策など、藩主毛利敬親の国内不和に対する「平和的解決」の意向を否定するばかりか、藩主敬親を「大和の変」や「生野の変」にみられるような討幕派による水面下での画策に巻き込み、「京都追放」、「朝敵」といった不本意な事態へと否応なく追い込んでいったのである。
そしてさらに、「討幕派」は、長州藩が「倒幕」へと傾斜せざるをえない事態、つまり「長州藩追討(「長征戦」)という窮地へと陥れていくのであった。
「第二次長州藩追討」戦における長州藩側の勝利は、果たして「討幕派」藩政府の実力を示すものだったのだろうか。
長州藩勝利の要因としては、①「薩長同盟」の成立と薩摩藩の協力で新式銃が購入できたこと、②芸州藩などが不参戦など「征長」幕府軍が一枚岩でなかったこと、③とりわけ将軍家茂が戦闘中に大坂で死去したこと、などを挙げることができる。
「第一次長州藩追討」をめぐる対立により赤禰は「討幕派」藩政府の手によって斬首されるが、「斬首」という決定に「討幕派」の精神構造をうかがうことができる。第二章で述べたように赤禰が斬殺されたのは、朝廷と幕府との「合一」による「和平の追求」を行ったことがその理由であった。
そして赤禰の「斬首」は「討幕派」の「思想性」を象徴する事件でもあった。「討幕派」の論理は「幕府の絶対否定」であり、これは妥協の余地のないものであった。それ故に、幕府に協力する者もまた、「絶対否定」の「対象者」であり、その者は「抹殺」しても当然という論理へと結びついて行く。
この「絶対否定」の論理は、自らの目的のためには暴力、殺人を犯してまでも達成するという「論理」を「合理化」するものである。これは対象者とのそれまでのいきさつは全て捨象して、自派に反対する者は問答無用に抹殺するという論理の「公然化」である。「絶対化思想」は極端で徹底した「批判者排除」を伴うということであり、それは極めて「暴力的」であるということである。
「身命を賭して」という「討幕派」の主張は、そのまま他人の命をも目的のためには「抹殺する」という主張である。「絶対的存在」への「執着」は「徹底的」な「批判者否定」の上に成り立つということである。
実際に伊藤は文久元年十二月、「廃帝」の故事を調べていたとして国学者塙次郎を暗殺しているし、また文久三年一月には、高杉、伊藤らによって桜田藩邸内の「有備館」で幕府の密偵が殺害されている。
「尊王」という「心情上」の事柄が「天皇親政」、「倒幕」という政治課題、政治的手段となる時、それは「独善的」かつ「排除的」になる、ということである。
当初、幕府にたいする「幕政改革」運動は、「尊皇攘夷」運動として進められた。欧米諸国による門戸開放要求に対して、「これは日本国への侵略行為であるからこれから国を護るためには海外勢力を駆逐しなくてはならない。そのために海の守りを固める必要がある」として「攘夷論」、「護国論」(「海防論」)が展開された。長州藩では赤禰武人の師である浄土真宗僧侶釈月性がこの「論」の啓蒙活動を藩内て活発におこなっている。
「討幕派」は遅くとも「第一次長州藩追討」までの時期にこの「攘夷」論を放棄している。伊藤俊輔、井上聞多(馨)らは文久三年にイギリス・ロンドンに密航留学し、「第一次長州藩追討」時の四国連合艦隊の馬関(下関)襲撃に対する「全面講和」には、藩の代表として高杉が交渉に臨み、通訳として伊藤俊輔(博文)と井上馨とが対応している。「新式銃」の「購入」は井上、伊藤が担当したのである。
「奇兵隊」は本来、「攘夷」の「実践」の必要性から結成されたものであった。「第一次長州藩追討」の際に赤禰は前田孫衛門等七人の藩政務員を救うために当時の「幕府派」藩政府の「奇兵隊解散」要求に同意し、奇兵隊に「解散」を説得しようとして命をねらわれた。赤禰にとって奇兵隊が本来の目的を逸脱して藩内の内訌戦に機能することは不本意であったに違いない。しかし、「奇兵隊」の「中心勢力」は長州藩や他藩浪士の「討幕派」志士達であった。
赤禰は一旦は自分も参加した「奇兵隊・諸隊」が、たとえ幕府派(俗論党)の藩政府に対抗するものであったとしても、藩主を首班とする藩政府との内訌戦に決起することに断固反対し、幕府との関係においても「平和的解決」の方向に力を尽くしたのである。
では、長州藩「討幕派」は「尊王」という点ではどうであったのか。
「八・一八の政変」で討幕派を含む長州勢が一掃された後、「公武合体派」が朝廷を掌握した。文久四年、将軍家茂が再上京し、孝明天皇は家茂に「公武一和」を期待し、三条実美など激派の公卿や長州藩を糾弾する内容の宸翰を下し、家茂を従一位に叙して公武合体体制を確立させた。
「公武合体」運動の破壊策動および「大和・生野の変」、「禁門の変」などにおける長州藩「討幕派」の策動は、孝明天皇の「公武合体」の意思に反しておこなわれたものであり、三条実美などの「討幕派」公卿と「連携」して推進されたものであった。
ここまでの論述において、誰が「真の不忠不義」であったのか、明らかとなるのではないだろうか。また合わせて赤禰が斬首される折に獄衣の背に書いた辞世の句「真(まことに)に誠は偽(いつわり)の似(如く)、偽は真に誠の似(如し)」の意味が理解できてくるのではないだろうか。
長州藩の「第二次追討」における勝利の要因は、先に述べたが、何といっても大きな要因は、①将軍家茂(二十歳)が大阪で死去し、征長幕府軍が解散となったこと、そして、その以前、②「禁門の変」のあった年、文久四年二月に一橋慶喜の手で「参与会議」が空中分解し、孝明天皇が家茂と推進しようとしていた「公武合体」の芽が完全につぶされたことであろう。
家茂の死去を受けて、ただちに一橋慶喜が徳川宗家を引き継ぎ、続いてその年の十二月に孝明天皇(三十五歳)が崩御する。そして、翌慶応三年一月に明治天皇が即位するのである。
さらにその年の十月、明治天皇より毛利藩主父子の「禁門の変の罪」が許され、長州藩と薩摩藩に「倒幕の密勅」が下り、同年十二月、「王政復古の大号令」が発せられるのである。
この矢継ぎ早の事態の進展の中に「幕末維新史」の「本質」、「本源的動機」を見ることができるのである。
それは「皇位継承問題」であった。次の第二節でその問題を見てみたい。
第二節 朝廷内の人間模様
維新史の流れを導く「道糸」のその基点からその先端部
分にあたる、その「本質」にたどり着くための作業をこれまでに行ってきた。
「討幕派」の「ねらい」は、第一章の「吉田松陰に倒幕を決意させた勤皇問答」で述べた「倒幕による天皇親政の実現」であった。松陰と黙霖との間での論争を「青写真」として維新史の諸事象が展開されて行ったのである。
その論争とその「青写真」の確認の場には、長州藩の討幕派諸氏が参加していたが、その集まりである歌会「嚶鳴社」の名づけ親は正親町実愛であった。正親町実愛は、長井雅楽の建白書「航海遠略策」の朝廷側の窓口を担当した公卿であり、「倒幕の密勅」の発信者に名を連ねている人物である。
正親町三条実愛は慶応三年十月十四日、薩摩藩と長州藩の要人を自宅に呼んで、「賊臣慶喜を殄戮(てんりく)すべし」とする「倒幕の密勅」と「京都所司代桑名藩主松平定敬誅伐の命」の宣旨と「錦旗の目録」を授けている。まさに実愛は筋金入りの「討幕派」公卿の頭目であった。
さて、ここで天皇の縁戚関係を見てみたい。孝明天皇は正
親町実光の娘の子、つまり実光の外孫である。実光の子の正親町実徳は中山忠能とともに「討幕派」公卿である。
そして、明治天皇(祐宮)の母は義理の母(嫡母)が、英照皇
太后、生みの母は中山忠能の娘で、明治天皇は忠能の外孫に当たる。
中山忠能の子、忠光(明治天皇のおじ)は「八・一八の政変」で長州に逃れ、後「大和の変」に参加、敗れて長州藩に西下するが、元治元年十一月八日、当時の藩政府勢力であった俗論党(幕府派)の手で暗殺される。が、この事実は隠蔽される。この一ヵ月後に高杉晋作が「幕府派」藩政府打倒を掲げて挙兵するのである。
さて、「皇位」は主に藤原氏一族と天皇家との外戚関係により継承されてきたが、孝明天皇の正妻である夙子(あさこ)妃(幕府派の関白九条尚忠[ひさただむ]の娘)には男子がなかった。そこで孝明天皇が二十八歳の時に天皇の女官、「内侍の典侍」であった中山忠能(ただやす)の娘(慶子)が産んだ子(祐宮)が「勅令」により「儲君(実子)」として「公称」(定める)され(万延元年七月)、同年九月、「陸仁親王」宣下となる。
しかし、孝明天皇の妹、和宮が家茂と結婚することになった。もしこの二人の間に子ができ、しかも男子であるとするならば、徳川幕府の力を背景として皇位の行方が問題となる。この扱いの問題について、伊藤俊輔(博文)らに殺害された国学者塙次郎が調べていたと言われている。
「八・一八の政変」での長州藩追い落としの中心人物である中川宮親王は十二歳の時に、孝明天皇の父、仁孝天皇の養子となる。義理の兄弟としての孝明天皇からの信頼が篤く、「大和の変」における中山忠光対策や三条実美らの処分を上奏するなどで活躍する。
長州藩「討幕派」による「禁門の変」につながる「池田屋事件」はこの中川宮親王の「襲撃・幽閉計画」など、倒幕派の御所での失地回復と「倒幕」計画が露見したために起きた事件であった。
中川宮朝彦親王は当然、皇嗣としての資格を持つ身分であったが、孝明天皇の崩御後に岩倉具視らによって明治天皇の践祚(せんそ)を強行され、やがて参朝停止処分とされる。
「禁門の変」で長州勢が会津の守る蛤御門を一時占拠した時に、「討幕派」の正親町三条実愛や中山忠能は長州との和睦を中川宮に主張するが、これを中川宮が拒否するという場面がある。この緊迫した局面はまさに「幕末維新史」の「本質」を象徴的に顕わす一幕であったと言えるであろう。
おわりに
幕末維新史の複雑な歴史的事象の流れの中に確固としてその「本質」を示して流れる道糸とその先にある到達点としての「幕末維新史」の「本源的動機」を探ってきたが、それはすでに第四章の中で述べた。
幕末維新史の「本源的動機」をさぐる手段として、赤禰武人の「履歴」と「討幕派」の諸行動を対比するという論立て、つまり維新史の流れを分析するためにそのような「切り口」を設定した。
赤禰は柱島で捕縛される前に、伊保庄阿月の浦靱負邸にある「克己堂」の仲間を訪ねているが、その時、薩摩への亡命を説得されている。しかし、彼は生まれ故郷の「柱島」へと向かうのであった。
赤禰は死後でさえも「討幕派」の「維新政府」によって、肉親でさえも三十数年経って初めて、その遺骨を貰いうけることが許されるというほどの過酷な扱いを受けた。関係者が弾圧を恐れて、赤崎山の墓に骨は「ない」としてきたこともうなづけようというものである。
赤禰の墓は柳井市内から周防大島側の海岸線を走る県道「柳井上関線」の長崎付近、室津半島の中央部赤崎山の山中に隠すようにしてある。その墓は義母と義父の墓と並んで周防大島の先の方向、彼の生まれ故郷、柱島の方角を見つめている。身分は農民であった彼が士族の一員となった養子先の義理の父母の墓と共に彼の墓があるのである。
その墓には骨がないとされてきた。しかし、赤禰が斬首された日、夜陰にまぎれて武人の養子先の義母が複数の武士を引き連れてその首を持ち去ったと伝えられている。その武士集団は義母に率いられた浦靱負の手の者たちであった。私は、武人の首はこの赤崎山の墓に眠っていると確信している。
赤禰は、吉田松陰の松下村塾の塾生でもあった。赤禰は彼の師、梅田雲浜が「安政の大獄」で捕らわれた時、松陰に救出策を相談している仲でもある。
いずれにせよ、長州藩の人士は複雑な経過をたどりながらも、「討幕派」、「幕府擁護派」とに分かれ、人生を挺して自身の信念とするものに向かってまっしぐらにつき進んだ。その結果、多くの人々の生命が犠牲となり、さらに幕藩体制の崩壊という事態、つまり多くの人々が人生上の劇的な変換の嵐の中に飲み込まれていくことになるのである。
「幕末維新史」の中で最も苦難と苦悩に満ちた立場にあったのは長州藩主父子ではなかったろうか。天皇家に連なる家系として共通の皇祖神意識をもち、「社稷」を尊奉するという家訓を代々受け継ぐ毛利家にあって、その藩としての存在意義は「幕末維新史」の底流を構成する要素として、なくてはならない存在であった。家老職にあった浦靱負もそれに劣らぬ苦悩を胸に秘めたに違いない。
余談であるが、長州藩人士にとって、この身を引き裂かれるほどの「幕末維新」という苦難・苦悩の歴史にその因果を求めるとするならば、どのようなことが考えられるであろうか。
長州藩では天保十三年から翌年にかけて村田清風を指導者とする天保の改革の一環として民間信仰施設の破却がおこなわれた。これは民間財政の浪費を防ぐとして実施されたもので、破却された寺社堂庵は九千六百余り、石仏・金仏は一万二千余りに上った。
当時、周防国玖珂郡新庄村(現柳井市内)の庄屋職であり国学者でもあった岩政信比古(さねひこ)は藩政府が一方的な判断によって民間信仰施設を「淫祠」として処分したその根拠について『淫祠論評』を著して批判した。
その中で岩政は次のように述べている。「淫祠と名づけて正淫の差別なく情け容赦なく破却してしまうことは儒者のような神を恐れない政治であり、神の怒りを受けてその身だけでなく主君にも崇り、国民にも崇りがあるならば...」。「今の世の武士の中には神を畏れない者が多い。それは神であっても武力による威嚇を恐れると思っているからである。さらに、崇りに遭ったとしても神の崇りであると知らない者もいる」。「したがって、今の世の武士の慢心は根拠のないことである。恐れなくてはならないものを恐れないのは知ったかぶりの愚かである」。
これは一例であるが、浦靱負が主宰した郷校「克己堂」は「運営資金の不足を村内の『淫祠』として解除された跡地十七ヵ所に櫨や桑などを植えてそれからの収益金をもって補助した」(柳井市史)のである。
以上
□この論文は、筆者の放送大学「人間の探求コース」の卒業研究論文(平成十八〔二〇〇六〕年十月提出)に若干の補足・訂正を施したものである。
令和三(二〇二一)年十一月吉日
脇村 正夫
[註]
[1]「赤禰」の表記は文献資料によっては「赤根」とされているものもあるが、墓碑銘は「赤禰」とされており、また、柳井市史では「赤禰」と表記されているため、柳井市史の表記に従った。
[2] 宇都宮黙林は安芸国(広島県)出身の浄土真宗僧侶。安政年間に諸国の志士と交流し王政復古の画策をおこなう。そのなかには幕末維新史に決定的な影響を与えた頼三樹三郎、吉田松陰、梅田雲浜、僧月性等とのつきあいがあった。
[3] 安政元年、将軍家定の偏諱を受けて毛利広封(ひろあつ)から定廣
に改名。元治元年、禁門の変で幕府より官位の剥奪と偏諱の召し上げにより「広封」に戻す。明治維新以後「元徳」に改名する。
[4] 来原良蔵の「日記」にある
[5] 黙霖は病気の後遺症ために耳が聞こえず、言葉が不自由であった。
[6] 七卿のうち、澤宣嘉は「生野の変」の後、幽閉される。錦小路頼徳は元治元年三月に病死。
[7] 下関の豪商、尊皇攘夷派を支援。薩長同盟にも積極的に加担。奇兵隊創設に力を貸し、赤禰と共に奇兵隊員として四国連合艦隊の下関襲撃の際に参戦している。
[8] 浦日記の慶応二年正月元旦の条に護送途中浦家に寄り、赤禰武人と浦靱負父子とが面会したと推測できる記述がある。
[9] 彼は浦靱負の家臣との養子縁組で農民から武士身分となったが、萩の高級武士集団には属していなかった。「勤皇問答」が交わされた時期には大坂にいて、「安政の大獄」で投獄された彼の師、梅田雲浜の救出を模索していた。
[10] この「襲撃」の趣意書である「斬奸状」は水戸藩士川辺佐次右衛門(内田万之介)が長州藩桜田邸の桂小五郎に届けている。川辺は藩邸の有備館で自殺。その写しを浦靱負が日記に書き留めている。
著者プロフィール
脇村正夫(わきむらまさお)
出身地 山口県防府市
生 年 昭和二十六年七月
平成一九年三月 放送大学教養学部人間の探求コース卒(教養学士)
平成二十一年 三月 放送大学大学院文化科学研究科修了(学術修士)
[所属学会]
山口県地方史学会
茨城県郷土文化研究会
放送大学大学院歴史研究会
東京町田「幕末維新史を学ぶ会」代表世話人
[ e-mail ] wakimura365@gmail.com (東京都町田市在住)
[web site:脇村正夫著論文/史資料集] http://sites.google.com/site/2010bakumatu/)
阿月維新志士の碑
毛利元道(*毛利家当主・貴族院公爵議員)書
増正四位 阿月邑領主浦靱負は、寡黙謹厳座作苟もせぬ人であったが、まれに見る俊髦の英材を認められ、幕末動乱の難局に際し、挙げられて藩の執政の職についた。老極まるまで藩主ならびに世子を援け藩藩政を掌統して方途を過まらず。長藩が雄藩として維新の鴻業に寄与し得たのは、その功績に負う処が多い。嗣子滋之助、又父の志をついで王事に奔走し、家臣秋良敦之輔、赤禰忠右衛門、松村文祥、秋良政一郎、白井小介等は、夙くより梅田雲浜、頼三樹三郎、梁川星巌、吉田松陰、僧月性等と交通し、勤王の大義を防長の地にうつして天下に魁した史実は近年漸く衆目をあつめるにいたった。
その後長藩は、正義俗論の両党に分れて相争うことがあったが、わが全邑正義派に与して後るるものなく、藩内諸隊が結成されるや、その総督たりし者は秋良敦之輔、松村五六郎、赤禰武人、白井小介、秋良雄太郎等があり、後に奥羽鎮撫使参議となった世良修蔵あり。又志を同じうして活躍したものは、芥川義天、芥川十兵衛、芥川雅輔、松村五六郎、岡榮三、矢野勢輔、木谷良蔵、末永良太郎、赤禰謙次、坂田直亮、坂田昌熾、堀江芳介、松村宰輔、国行雛次郎、尾川猪三郎、芥川正人、鈴川敏介、竹浦清八、田中兵吉等を始め闔邑の士庶に亘っている。その多くは奇兵隊に在ったが、後に独立して第二騎兵隊を糾合組織し、周東の鎮めとして不敗の態勢を布き、更に東上して各地に転戦し、王政復古の礎を固めたことは人の知るところである。
このころ明治百年の年次に当って維新回顧の風が盛んとなったが、周南の小僻邑の故に勤王阿月の名は猶未だ江湖の認識の至らぬ憾みがある。ここに邑民相図って先人の功績を懐い、碑に刻んで後世に顕はさんとする所以である。
以上
□浦靱負邸(克己堂跡)跡 □浦靱負の肖像と維新志士の碑
史料■ 赤禰武人の生誕地「案内文」
赤禰武人生誕地(岩国市柱島) [案内板]
□武人の肖像画
赤禰武人は天保九(一八三八)年、柱島(岩国市民柱島)の医者松﨑三宅の長男としてここで生れました。嘉永六(一八五三)年頃、遠崎(柳井市大畠)妙円寺の僧月性の門下生となります。翌安政元(一八五四)年、武人の才能を見込んだ月性は、長州藩の重臣で阿月領主の浦靱負が作った学校克己堂に入学させました。その後柱島に戻った武人は、柱島の庄屋中冨十郎兵衛の婿養子となりましたが、再び柱島を出て克己堂で学びます。安政三年、月性の紹介により武人は松下村塾の門下生となります。また同年、浦(*家)の家臣であった赤禰忠右衛門の養子となりました。以降、赤禰武人と名乗ります。
安政四(一八五七)年、武人は上京し、尊皇攘夷を唱えていた梅田雲浜に学びます。しかしながら翌年に始まった安政の大獄により、九月七日雲浜とともに捕えられてしまいました。武人は釈放された後、雲浜救出のために上京しますが、阿月に連れ戻され、三ヵ年の自宅謹慎となります。
文久二(一八六二)年に入ると、高杉晋作、久坂玄瑞らと攘夷活動をおこなっています。十一月十三日、武州金沢(神奈川県横浜市)での公使襲撃未遂事件や十一月二十六日の御楯組の結成に加わり、十二月十二日には品川御殿山の英国公使館の焼打ちに参加しました。翌三年六月、高杉が奇兵隊を結成すると同時に入隊し、文久三年十月四日には第三代総督となりました。
元治元(一八六四)年八月、四国艦隊(アメリカ、フランス、イギリス、オランダ)が前年に長州藩のおこなった攘夷に対する報復のために下関を襲撃しました。武人は奇兵隊を率いて奮戦しますが、外国の圧倒的な力の前に長州藩は敗退し、数日で講和を結ぶこととなります。その後持病と眼病が悪化したため十月十日に奇兵隊総督の辞任願いを出し、阿月へ帰りました。
同年、禁門の変によって第一次長州出兵が始まると、長州藩では保守派が実権を握って革新派を投獄し、奇兵隊など諸隊の解隊を進めようとします。こうした状況を知り、十一月に奇兵隊に戻ってきた武人は、長府藩(下関)を通じて長州藩政府と交渉し、革新派の復権を目指すなど、状況の打開に努めています。しかし、武力による打開を考えた高杉は、奇兵隊などの諸隊を説得して動かそうとしたため、武人と対立します。
同年十二月十五日、高杉は功山寺で挙兵し、奇兵隊はこれに呼応しなかったものの、武人の藩政府との交渉には大きな影響を与えました。そして藩政府が革新派を処刑したことによって奇兵隊も内戦に参加し、結果、晋作の挙兵は成功する形となりました。藩政府は武備恭順へと方針転換をし、交渉による解決を目指して挙兵に反対した武人は難しい立場に置かれたため、九州へと避難しました。しかしながら、その後も長府藩士の時田光介を通じて情報収集するとともに、下関商人白石正一郎の屋敷で薩摩藩と和解の交渉もおこなっています。またこの頃親族にあてた手紙の中で、自分の望む手法での改革ではなかったにせよ、高杉の挙兵により革新派が長州藩の実権を握ったことは喜んでいます。
慶応元(一八六五)年三月十日、上京していた薩摩藩の西郷隆盛と会うため、久留米藩士の淵上郁太郎とともに上京しました。大坂で西郷隆盛と会った後、武人は淵上とともに幕府に捕らえられてしまいます。その後第二次長州出兵(四境戦争)が迫る中、十一月二日に幕府と長州藩の戦争回避を工作する目的で釈放されました。帰国した武人は、長州藩内で戦争を回避する方策を探りますが、藩内は幕府を迎えうつ方針で固まっており、逆に裏切り者とみなされた武人は故郷の柱島へ帰ることとしました。十二月二十七日、武人捕縛の命を受けた長州藩士によって捕えられてしまいます。そして、幕府に捕えられていた際に出したとされる意見書の内容と、釈放されて長州藩に戻ってきた後、数十日間隠れていたという罪状で、処刑が決定します。その間、一度の裁判もなされず、武人には弁明の機会すら与えられませんでした。
慶応二年一月二十五日、武人は鰐石河原(山口市)で処刑されました。その獄衣の背中には、「真は誠に偽りに似、偽りは以て真に似たり」と記されていたと伝えられており、弁明の機会すら与えられなかった武人の無念があらわれているようです。なお、武人の処刑の件については、良き理解者であった長府藩主毛利元周が弁明に駆けつけた話や高杉晋作が死の直前に後悔していたとの話も残っています。
明治に入り、西南戦争で戦死した西郷隆盛の復権のため贈位(*叙位叙勲)がおこなわれたのを皮切りに旧長州藩でも吉田松陰や高杉晋作など多くの人々が追贈されました。武人についてもその復権のため、義弟赤禰徳太郎の贈位請願にはじまり、柳井市や岩国市からも請願がなされましたが、奇兵隊時代の同僚であった山縣有朋らの反対によって武人の贈位かなうことはありませんでした。なお、松陰に大きな影響を与えたことでも知られる宇都宮黙霖は、武人の死後に「異しまず柱志士の元を喪うを 皇天后土其の冤を識る」という追悼の詩を送っています。「天地の神がその冤罪を知っている」というこの黙霖の詩に対して、岩国市出身の河上徹太郎は「この謹直な坊主に認められれば、山県輩のいい分など物の数ではなく、贈位に勝る雪冤である」と記しています。
岩国市教育委員会
以上
赤禰武人の墓(柳井阿月) [案内板]
□柳井市阿月赤崎山入り口にある案内板
元治元(一八六四)年十二月、高杉晋作は長州藩の実権を握る俗論派(幕府に従おうとする保守派)を打倒するために挙兵した。これに対し赤禰武人は長州藩内を平和的にまとめ、幕府との戦争を避けようとの考えのもと、晋作の挙兵に反対していた。これを契機として武人と晋作の対立は深まり、晋作が俗論派を排斥して藩の実権を握ると、身の危険を感じた武人は筑前(現福岡県)に亡命せざるをえなかった。
このことは、「奇兵隊日記」に「武人が馬関(下関)から脱走した」と記録され、以後、武人は長州藩から裏切り者とされ、脱走罪で追われる身となる。
慶応元(一八六五)年十二月、生れ故郷の柱島(現岩国市)に戻ったところを捕えに来た藩役人に、自らの考えを述べるため自首する。
慶応二(一八六六)年一月二十五日、武人は一度の詮議もないまま山口市の椹野川(*ふしのがわ)の河川敷(*鰐石河原)で処刑された。享年二十
九歳であった。
「真似偽 偽似真」(真実は偽りに似て、偽りは真実に似る)
この漢詩は、武人の辞世の句となる。武人が自首したのは、「裁判で自分の考えを主張し、その判決に従う」、すなわち、命がけで師である吉田松陰の「至誠」に従った行動であった。し
かし、ついに裁判がおこなわれることはなく、突然、長州藩から死刑が宣告されたのである。長州藩に忠義を尽くしたはずが、弁明の機会すら与えられず、最後は裏切り者として処刑される武人の無念がこの漢詩には表れている。
後に、医師の杉義介は、晋作(高杉)が死の間際、武人の心中を理解できず、死なせてしまったことを悔んでいたと伝えている。
百五十周年記念
阿月地区コミュニティ協議会
□□阿月赤崎山の中腹にある赤禰武人の墓
史料■ 赤彌武人の柱島での捕縛の事情
赤彌武人の柱島での捕縛の事情
(大心地正一郎薯『幕末の烈士赤禰武人 ‐志半ばにして悲涙に冥す‐』より 抜粋)
その後も赤禰武人の考えは変らず、百方庶民を戦渦から救い、日本を外侮から守るために内乱を止めよと説いた。
赤禰武人が新撰組に入ったとの噂は、この永井忠尚(むねたか)が新撰組の近藤勇らと同時に、赤禰武人、淵上郁太郎を伴って西下し、自分と志を同じくする者として、国士としてこれを遇し、近藤、伊藤と相呼応して、事件を平和裏に解決せしめたい彼の深慮から出ることに外ならなかった。
赤禰裁人は慶応元(一八六五)年十一月六日、故郷(*父方)である下蒲刈島にも立寄り、十一月十日、周防阿月に帰った。
十二月十日、恩師である秋良敦之輔、同志世良修蔵に会い、長府藩毛利元周なら共鳴して貰えると信じ、西下を告げたが秋良敦之助は、時期が悪いので、一時薩摩にでも身をかくして、暫く待つようにすすめた。
長州藩では再び高杉晋作が盛り返し、俗論党には切腹組が多く出る始末となった。
長州藩では藩公をもって第二奇兵隊軍監林半七に探させたが見つからず、赤禰武人が幕府の間諜である旨の汚名の下に、捜索の網を張ってしまった。
武人は室津に出て、友人小方謙九郎を訪ね、室津から船で西に向ったが、これは常に愛顧を受け今度の使命にも、最も頼りにしている長府毛利元周に謁して進言するためであった。然し藩内の実情は如何ともし難いとして、赤禰武人は空しく引上げ、十二月十四日再び阿月に戻った。
更に岩国吉川候に入説したが現状ではどうにもならなかったので柱島に戻った。
赤禰武人捜索に植村半九郎が林半七に代り、藤井という者から赤禰武人が柱島に居ることを察知した。
先づ武人の姉の婚家である善立寺の坊主を捕えて来て船のそこにに閉じ込め、赤禰を出さぬ以上は許さぬと人質を取り、村中は大混乱になり、正月は来たが餅も搗けぬということになった。
更に中富の息子為助をも人質に取るということになり、武人は自分の事から両人に迷惑を掛けてはなちぬと、善立寺から出て、谷五郎家で酒を飲みながら、中冨の座敷の用意の整なうのを待っていたが、用意が整ったという報せがあるや武人はやおら立ち上がって、宗信(姉きぬの善立寺の子)が迷惑するからのと、笑って出掛けた。
そこで槇村が君命を言い渡したが、自若としていた、
時に慶応元(一八六五)年十二月二十七日、赤禰武人二十八才、いみじくも馬関脱出した日を一週間後に控えていた。ほぼ一年後であった。
槇村は大畠久賀へ連れて行き縄乗物を拵えて山口へ送る用意をした。
武人が縛につく前、岳父中富十兵衛は自決を勧めたが、命を惜しむものではないが、今自決すれば受くぺきもない中傷やそしりを、自ら承認することになる、裁廷においてあくまで神明に恥じない自らの清明を論述し、時局心緊の急務である我が主張に、何処に誤りがあるかを責めた上で死を決し度い、自分には検問を論破して見せる自信がある、と悠然として縛についた。
明けて慶応二年一月三日、三田尻まで送られ、三田尻より陸路山口に入牢、何ら裁廷で論述する機会もなく、慶応二年一月二十五日、山口市鰐石河原において斬首され一生を閉じた。
その時赤禰武人は刑場に臨むに当って獄衣に「真は誠に偽に似たり、偽は即ち誠に似たり」と書いて辞世とした。
人の心奥の真偽は唯神の知る処である。掩われた真はやがては時が之を明かに顕してくれるだろう。知己を招来待つ心である。
誠に苦難と孤独の二十九年の生涯であった。長府藩主毛利元周は、赤禰が入牢していると聞き、武人を救うため馬で駆けつけたが、すでに斬首された後であった。(後略)
(*著者の大心地正一郎氏は武人の父の弟の孫に当たる。赤禰武人の旧姓は松崎であるが、本来は大心地であった)
以上
□柱島にある赤禰武人の墓
□武人養子先の柱島庄屋中富家跡(現在
はホテルが建てられている)