培覆論(文久二年正月)
平野國臣著
一橋を将軍とし、越前を後見として、その外然るべく人材を撰びて有司とし、幕府を扶け以て外寇を攘うと申し候御説は、去年来、堀(*直太郎か)、大久保両兄よりも拝承仕り候。
且つ当春密表の趣もやはり御同様の由、然らば御一藩の御定説哉と察され申し候。併せながら実に幕府の犯罪を正し、天朝を尊奉し、内政を整え、外夷を御攘斥成されたき御了簡にあらせられ候得共、もし然りする時は、却って内争を引き出し、外寇に隙を窺われ、終に恢復も攘夷も、行われまじきやとの御懸念より、事を止めえず、権道御用なされ度との御趣意、一応御尤もに相聞え申し候得共、その説は癸丑(嘉永六年)甲寅(安政元年)の砌、幕府のいまだ衰えざる時の事にて、託すに家族にては水戸烈公、尾張公、越前公など打ち揃われ、烈公には順聖公(島津斉彬)を初め、土州公、宇和島公など種々手を尽くし、忠告竭力これあり候も、却って罪を蒙られ、一事も行われず候。