勅諚
先般墨夷仮条約余儀無く次第にて神奈川に於いて調印、使節へ渡され候儀、猶亦委細間部下総守[i]上京言上の趣候得共、先達て勅答諸大名衆議聞召され度仰せ出され候詮も之無く、誠に皇国重大の儀、調印の後言上、大樹公叡慮御伺の御趣意も相立たず、尤も勅答の御次第に相背き、軽率の取計い、大樹賢明の処、有司心得如何と御不審思召され候、右様の次第にては蛮夷の儀は暫く差置き、方今御国内の治乱如何と更に深く叡虜悩まされ候、何卒公武御実情を尽くされ、御合体永久安全の様にと偏に思召され候、三家或は大老上京仰せ出され候処、水戸・尾張両家慎中の趣聞食され、且つ又其の余宗室の向きにも同様御沙汰の趣も聞召し及ばされ候、右は何等の罪状に候哉、計られ難き候得共、柳営羽翼の面々当今外夷追々入津容易ならずの時節、既に人心の帰向にも相拘はる可く、旁宸衷を悩まされ候、兼ねて三家以下諸大名衆議聞食され度仰せ出され候旨、全て永世安全公武御合体にて安叡を安んじられ候様思召され候儀、外虜計りの儀にも之無く、内憂之有り候ては殊更深く宸襟を悩まされ候、彼是国家の大事に候間、大老・閣老・其他三家三卿・家門・列藩・外様・譜代共一同群議評定之有り、誠忠の心を以て得と相正し、国内治兵公武御合体弥(いよいよ)御長久の様徳川御家を扶助之有り、内を整へ、外夷の侮を受けず様にと思召され候、早々商議致し可く勅諚の事。
[i] 間部詮勝(かつあき) 安政五年井伊直弼が大老となり、老中に再任、勝手掛兼外国掛を命ぜられた。同年九月上京して日米通商条約の勅許を奏請したが、得られず、直弼の指示により梅田雲浜、橋本佐内らの志士、鷹司政道・近衛忠煕・三條実万らの公卿を処罰した。その後直弼と対立して六年十二月職を退いた。さらに文久二年には一万石を削られ隠居・謹慎を命じられた。