「文久三年八月十八日の政変」の「勅諚」と長州藩の「返書」
(藤田葆著『小瀬口戦争私記』より抜粋)
[朝廷よりの「達書」]
堺町御門警衛の儀は思し召しを以て只今より免しなされ候、追て沙汰在らせられ候まで屋敷へ引退れベく勅諚に候
(禁中取次青山三河介より右御達書、清末公(毛利元純)より吉川幹経公へ御通しあり、右に付き堺町御門番兵は番所を引き渡し皆番所前に集り居るなり)
[勅諚]
攘夷御親征の儀兼々叡慮あらせられ候得共、行幸などの儀に付き、粗暴の処置これあり候段、御取調べあらせられ候、攘夷の儀はどこまでも叡慮確固あらせられ候事故長州においてますます尽力これあるべく候、これまで長州朝家に效力候に付き人心も振興し事向後いよいよ御依頼思し召され候間、忠節相尽くすべく候、藩中多人数の内故くれぐれも粗暴これなき様鎮撫を加え決して心得違いこれなき様ますます勤王忠力尽くすべく旨仰せ下され候事
(九ッ半時、柳原光愛中納言勅使として殿下(鷹司邸)へ来らる、勅諚清末公請取らる)