会澤正志齊著『新論(國體上)』研究
― 松陰・太華・正志齊の「國體」論争 ―
はじめに
幕末期、倒幕に向っての運動に先導的な影響を与え、また徳川幕府を廃し、天皇を主権者とする明治新政府へと移行する際に、その承認を全国民的規模で準備にした「啓蒙書」として、会澤正志齊が著した『新論』がある。
この『新論』はどのように受容され、または否定されたのか。
幕末期、長州藩において、この『新論』を積極的に受容し、その論理の実践を模索した吉田松陰等尊王反幕派勢力の存在があった。
当時、長州藩には、武士層の学問・教育機関として、藩校「明倫館」が置かれていた。明倫館は、儒教教義の教育・学問を建学の精神とし、幕末期には武道の他、医学・外国語翻訳等も合わせもった総合教育機関としての機能を備えた。
その明倫館を重建(拡充)し、学頭を勤めた人物に山縣太華がいる。吉田松陰は、自らが講義した『孟子』の講義録を『講孟箚記』としてまとめ、その評論を太華に求めた。その要請に応じて太華が返した論評が『講孟箚記評語』である。
双方の論述のテーマは、「尊王」と徳川幕府の天皇に対する姿勢、または立場を論ずるものであった。太華は松陰の主張に対し、水戸藩・会澤正志齊の著した『新論』の影響を指摘するとともに、老練儒学者としての本領を発揮して、松陰の叙述の各部を取り上げて、本格的な『新論』批判を展開するのである。この論争の主要な論点は、会澤の『新論』の主要テーマでもある「國體」論をめぐるものであった。
本論のテーマは、『講孟箚記評語』及び『新論』で論述される松陰・太華・正志齊の三者の「國體」をめぐる主張および争点の特徴の吟味をおこない、三者の主張の共通点および相違点を明らかにすることにある。