長州藩第三代奇兵隊総管赤禰武人の
「贈位反駁論」とその検証
― 冤名隠疇、無聞の城に沈める者 ―
[ 論文要旨 ]
本論稿は、史談会への赤禰武人の贈位申請の経過と、贈位申請に対する山縣有朋の意見書による「反駁」の内容を紹介し、赤禰の贈位が実現しなかったことに関する先行研究を参考としながら、山縣が主張する「贈位反駁論」を検証することを目的としている。
赤禰武人は、農民身分から長州藩家老・浦靱負の家臣となり、孝明天皇の叡慮、「攘夷」の実戦部隊である奇兵隊第三代総管に任命された。赤禰は、馬関での欧米四国連合艦隊との砲撃戦において活躍しながらも、幕府による長州藩追討攻勢のもと、長州藩内訌戦および幕府軍との戦闘に反対して、高杉晋作や山縣狂介(有朋)等藩内倒幕派と対立し、慶応二年正月、倒幕派藩政府により斬首の刑に処せられた。
明治三十九年、史談会の独自調査による維新功労者への贈位運動の開始とともに、赤禰の義弟赤禰篤太郎は史談会に赤禰の名誉回復を願って贈位申請をした。明治四十四年、帝国議会で贈位が決議されるが、政府段階で贈位は阻まれた。それ以後も繰り返し請願がなされるが、政府は赤禰武人への贈位手続きを行なおうとはしなかった。
そこには、政官界に絶大な権力を確立した山縣有朋が内務省に提出した「意見書」の存在があった。それは、史談会が贈位理由として議会に提出した赤禰武人の事歴に対して、奇兵隊結成時以降の赤禰武人の事歴を取り上げて批判・反論し、赤禰は贈位に値しない人物であるとの評価を下すことで、贈位に反駁するという内容のものであった。
この「贈位反駁論」は、赤禰への贈位が史談会および帝国議会で審議されていた当時、明治四十四年から四五年にかけて、山縣の「意見書」にもとづき、「やまと新聞」連載の『古希老公今昔譚』記事中においても展開された。『古希老公今昔譚』は、朝日奈知泉の筆になる山縣有朋の「伝記」記事である。
本論では、赤禰武人に関する先行研究の成果、および『史談(会)速記録』、史談会編『報効志士人名録』等を参考としつつ、赤禰武人の名誉回復支持という立場から、赤禰のとった行動の真意を探求し明らかにすることにより、『古希老公今昔譚』に述べられている山縣の「贈位反駁論」の検証を試みている。
以上
二〇〇九年九月四日
長洲 寂石 著