(略)といふのは此淵上氏は元久留米の農民であり早くより國事に鞅掌して藩の為め儘力し、叉長州の奇兵隊に加はり内外頗る周旋した人で有志中名ある人であります。後ち慶応の交奇兵隊總督赤禰武人氏と倶に大坂に上られしに、不幸幕府の手に捕はれ幽獄八ヶ月に及ひしに、幕府の懇請に依て長州と幕府の調和を図って貰ひたいといふことから内命を含んで、赤禰氏と倶に藩に歸されしに赤禰氏は叉同輩高杉晋作氏と意見が合はぬ處から赤禰氏は遂に反忠者の冤名を蒙りて惨殺されました。それで淵上氏も同類の名を呼はれて反對者より嫉目されて身を容る々處なく僅に三池藩士中同志の庇護に頼りて潜伏するの境遇に陥られたのであります。剰さへ淵上氏の弟淵上謙三氏は兄の嫌疑に依て詰腹を切らせられた。さう云悲惨なる點から淵上氏は益々危険を感する人となり、姑く肥筑の間に流浪して居られましたが慶応二年二月比柳川藩士の為め暗殺されました。それで今日迄或る一面から見ますと赤彌武人氏と淵上氏は反忠者であると云はれ、叉久留米有志の側に於ては淵上氏と相容れぬといふ情實があつて悪まれたのである。そこで昨年來赤禰淵上兩氏の遺族より其冤を申立生前の誠衷を表したいと種々な書類を提出して懇請、結果會に於ては充分其精神のある處を酌みまして調査した處立派な事實である。故に前期議会に向ひまして赤禰淵上兩氏の爲めに其冤を雪き其志を明かにする為に請願した次第であります。