御講武一件上書 (天保十一年九月・清風五七歳)
御当家は文武兼備の御家にて、御代々文学を以て天下の御師範に成られ、其の後、廣元公・元就公以来御好文の御政事は世に証き事に御座候。武道の儀は、維持公御渡唐延長元年三月、龍樹将軍より張良一巻の書を御傳授成され、承平元年七月御帰朝の上、朱雀院え備えられ、奏覧候より長く御当家の御秘宝として、元就公御書中にも、一巻の書の事は時々仰せ出され、御代々様御相傳遊ばされ候事存知奉り候。
其の後、承暦元年六月匡房卿男山八幡宮において源義家へ源家代々の兵説御授け成され、又は大和家へ傳へ申たる大元帥修法の事、猶又眞言家え傳へ候。大元帥修法は匡房卿より横川覚範律師に御傳え成され、朝敵降伏の法にて禁裏年始の御修法、江戸に於いては湯嶋霊雲寺にて公方家の御祈祷仕り候由。此の修法の事は、禁裏、将軍家、御当家の外は修業仕らざる由。其の法滿願寺え御預け成され候。大和家の儀は、輝元公御代御修法の為め抱き召され候家筋に御座候右御相傳。
文武の道を以て廣元公御代源頼朝公御補佐之れ有り。日本国の惣追捕使御願取、公家御衰廃の御政事御改革武家の御治世と相成り今に至り、六百餘年武家の政化に伏し、太平の世と相成り候事は、偏に廣元公御神謀中より出で、日本国中の萬民其の徳澤に潤ひ申す事に御座候。