万延元年 六十一歳 水戸城に在り。初め辛丑(天保十二年)の歳、公胸痛を患ひ歳餘にて方に痊ゆ是に至りて大に発作す。然れども公天資、豪邁、飲啖衰へず精神舊の如し故に外官に論亡く、近臣御医師の類と雖も亦其の深く憂懼すべしと謂(おもは)ざる也。秋八月十五日の夜諸公子と楽譜を閲し、諸公子退く、俄にて疾大いに作る、命じて執政大臣を召しむ。是夜三更晏然として正寝に薨ず。國人之を聞て皆哭涙聲を失す考妣(こうこく/父母)を喪くするが如し。