一 木谷良蔵[i]より風説書差越し候得共、取り留め之れ無きに付記さず候、桜田邸にて自殺致し候内田万之介[ii]の懐中に之れ有り候書の由差贈り侯、実否は知らず候得共書き置き候、左の通り
申年[iii]三月、赤心報告の輩、御大老井伊掃部頭殿を斬殺に及び候事、毛頭幕府に対し奉りて異心を挟み候義は之無く、掃部頭殿は執政己来自己の権威のみを振い、天朝を蔑如奉り、只管(ひたすら)戎狄を恐怖致し候心情より慷慨忠直の義を悪み、一己の威力を示さん為に専ら奸謀を廻らし候体、実に神州の罪人に御座侯故、右の巨奸を倒し候はば、自然幕府において御悔心も出来為させられ、向後は、天朝を尊み、戎狄を悪み、安危人心の向輩(背)に御心を附けさせられ候事も之有る可きと存じ込み、身命を拠(なげうち)て、斬殺に及び候処、
[i] 浦靱負の家臣。文久三年春、世良修蔵は木谷の娘知恵の養子となる。世良性は翌元治元年、浦靱負が与えたもの。
[ii] 内田万之介は変名。水戸藩士、川辺左次衛門のこと。安藤信正の襲撃の期に遅れ、ために桜田門の長州藩邸に桂小五郎(木戸孝允)を尋ね事情を告げて遺書(斬奸状)を託し、その場で自刃を遂げた。
[iii] 万延元年・一八六〇年