古稀老公今昔譚
奇兵隊の編成(明治四十四年十一月八日)
長州藩の京都追放(八月十八日の政変)後の奇兵隊編成に関する記述。
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久坂等以為(おもへ)らく、馬關砲撃の一擧、我が藩、勅を奉じて攘夷するの手始めをなしたり、此の上は、直に京師(けいし)に赴き、諸藩の有志と謀り、心を同じくして國家の時艱に當り、以て匡救(きょうきゅう)の事に任ぜらるべからず、然らずして一日を苟免(こうめん)せん乎、折角の聖意、恐らくは貫徹せず、變不測に起こりて、同志多年の苦心も或は水泡に歸して止まんとす、是れ豈座して成敗を待つ秋(とき)ならんやと。
乃ち同志を語らひ、相率ゐて馬關を去り、京師に向ひぬ。是れ同じ六月の事にして、馬關防禦の事、是に於て高杉に命ぜられ、高杉は建議して防長二州の有志を募集し、馬關防禦の一隊を編成し、名づけて奇兵隊と呼び、高杉はその総督となりぬ。
此月老公は、僂麻質斯(ろうまちす・ママ)を患ひ、起居の自由を缺きたるを以て、萩に赴き療養を加え、為に門を出でざるを數旬に渉りぬ。
八月京師にては大和に幸して御親征の軍議あらせらるべき旨仰出されたりしに、廟議俄然一變して長藩の堺町御門の警衛を免じて三条中納言(實美)を初め、参内を停止せられ、三条以下の七卿は西下して山口湯田に來りぬ。
幾(いくばく)もなく馬關の戍兵たる奇兵隊と撰鋒(せんぽう)隊との間に紛紜(ふんうん)を生じ、将に相闘ふに至らんとせしかば、老公は報を得て疾を力(つと)めて之に赴きぬ。