本論稿は、史談会への赤禰武人の贈位申請の経過と、贈位申請に対する山縣有朋の意見書による「反駁」の内容を紹介し、赤禰の贈位が実現しなかったことに関する先行研究を参考としながら、山縣が主張する「贈位反駁論」を検証することを目的としている。
赤禰武人は、農民身分から長州藩家老・浦靱負の家臣となり、孝明天皇の叡慮、「攘夷」の実戦部隊である奇兵隊第三代総管に任命された。赤禰は、馬関での欧米四国連合艦隊との砲撃戦において活躍しながらも、幕府による長州藩追討攻勢のもと、長州藩内訌戦および幕府軍との戦闘に反対して、高杉晋作や山縣狂介(有朋)等藩内倒幕派と対立し、慶応二年正月、倒幕派藩政府により斬首の刑に処せられた。