感動の塩田平!

2015年11月8日 旧ブログへの投稿

第18作 男はつらいよ 寅次郎純情詩集

今回は長野県上田市の塩田平へと行ってきた。

先ずはオープニングでのこのシーン

後ろに見えるのは上田電鉄別所線。駅が左に少ーしだけ見えている。

パッと見た目は別所駅にも見えるが、実はここは「中塩田駅」

ロケ地は駅の入口とは反対の後側となる。

今回のロケ地巡りは史上最多のカット数により、滞在期間は史上初の2日間!

かなり濃密な内容になっているので、たっぷりとお楽しみ頂きたい。

では、映画の流れでご紹介。


とらやを飛び出した寅は、ここ上田市へとやってくる

このシーンは寅が画面左方向へ歩きながら、カメラも一緒にパンしていく。

その連続した映像を繋げるとこうなる。

そしてこれが寅の眺めた風景の現在との比較

どうだろう、この雄大な眺め。

ここは塩田平の中でも一番大きなため池である「山田池」の側。

寅次郎は「山田池」より西側にある県道82号線「別所丸子線」を北へ歩いていたのであった。

その後山道を歩き

(この場所は残念ながら不明・・・)

この場所をご存知の方、ご教示ください!

前山寺へとたどり着く。

パンを食べる寅

前山寺(ぜんさんじ)

長野県上田市にある真言宗智山派の寺院。

山号は獨股山又は独鈷山。(とっこさん・どっこさん)

独鈷山(1,266メートル)の山麓にあり、塩田城の鬼門に位置する。

寺名は「ぜんざんじ」と呼ばれることもあるが、

正式には「ぜんさんじ」である。

出典:Wikipedia

「未完成の完成の塔」と呼ばれる国の重要文化財の三重塔

前山寺駐車場から見た塩田平

そして続くのはこの2つの遠景シーン

どちらもこの前山寺付近からのB班撮影と思われる遠景である。

今回はこの2つ遠景の解明が目的のひとつでもあったのである。

先ずはこちらの遠景から・・・

注目したのは丸囲い部分

アップにしてみると

茶色のひし形で示したような土の盛り上がりと、茶色の線で示した道路のようなものが見える。

1975年の航空写真で見てみると

山田池辺りにそれらしき道路と土手が見える。

ココが見える場所を探してみた。

ストリートビューで見て、景色が一番近い場所はココ。

アップ

よくわからず・・・。

そしてこれが実際に見た写真

アップ

あった!映画と同じ道路と土の盛り上がり!!

やはり見えていたのは山田池の土手と道路だったのだ!


では映画と同じ高羽アングルで風景を切り取ってみる・・・

少し高さが足りないような感じがする。

もしかすると1976年頃は前山寺周辺の森が低く、そこから撮影ができたのかもしれない。

撮影場所はほぼ確定。

場所的には間違いないということでこれにて終了。

ドンピシャでない事が少々心残り…

仕方なし!!


今度はこちらの遠景

何も思わなければ単なる塩田平の景色という事になるが、調べていくうちに何と!

この場面には貴重な歴史的事実が映っている事が判明したのである。




目印はこの建物

この建物は大きいし、何か公共的な建物に見えるので、現存している可能性ありと考え目標物にして捜索。


しかしこれが大きな間違い。


この白い建物は実は現存していないのだ。


そんな事とは知らずに黙々と探す。

これで約2週間を費やしてしまった。


かなり諦めムードになっていた時にもう一度全体を見てみた。

他に目印は無いか?


今度は赤丸の青い屋根と緑丸の段々畑?のような部分。

この距離でこれほど大きく見える屋根なら、建物自体も公共的な建物では?と考えた。


そして見つけたのがこの場所。

建物の屋根と畑?の在り方が酷似している。


丁度この頃、例の白い大きな建物の情報が入ってきた。

発見されたのは吉川さんのお知り合いのTさん。


1975年頃のそれらしき建物の写っている航空写真がコレ

共通する建物が4点

現在の航空写真と比較

やはり当初目印としていた白壁の大きな建物は現存していなかった!


そうなると後はこの場所と青い屋根の建物を結んだ線の延長線上に撮影ポイントがあるはず。


青い屋根の建物は何なのか?現在の位置で確認してみる。

【1975年】

【2000年頃】

【2010年頃】

この赤丸の場所にあったのは「法輪寺」


経過年数と共に屋根の色は青から赤へそして最後は屋根が無くなっている。

調べてみると法輪寺は2009年に取り壊されている。


当時の記事を見つけた。


--------------ここから----------------


2009年11月18日


同寺は本堂が老朽化し、今年8月に取り壊したため、お堂の替わりに回向(えこう)柱を立てることになった。


 回向柱は同委員会役員のほか住民や子どもらが伊藤建設前を出発し、法輪寺まで約200m引いた。

寺に到着すると参加者が大勢見守るなか、重機を使って立てられた。


 【立てられた回向柱の前で読経】


 回向柱の前では同寺の本寺である安楽寺の若林恭英住職らによって読経が行われた。

前島委員長は「新しい本堂が再建することと八木沢の諸々の願いが叶うでしょう」と挨拶した。


 回向柱は長さ6mで一辺が24㎝角。用いた杉の木は同寺の境内で育ったもの。

同地区の伊藤建設(伊藤一良棟梁)で削った。

伊藤棟梁は「大工の仕事をして58年。初めての経験ですが光栄です」と話していた。


 創建は1629年(約380年前)別所温泉の安楽寺の末寺。


--------------ここまで----------------

出典:東信ジャーナル



その後、2010年12月4日に法輪寺仏殿の棟上式が行われ、2011年5月29日に落慶法要があり法輪寺仏殿が完成した。

【完成した法輪寺仏殿(左)とあずまや(右)】




全体の地図で考えてみた撮影ポイント

ストリートビューで確認

ここが怪しい!

ストリートビューではこれが限界。


そして現場での確認。

遠くに見えている法輪寺と両サイドはドンピシャ。

しかし手前の建物群が上手く合わない。

おそらくもう少し手前だったのかもしれない。



現場では上手く合わせられなかったが、帰宅して写真を拡大してみると

実は当時と同じ建物がちゃんとあったのだ!


その同じ建物というのはココ

この白い建物だけが無い。

そしてこの白い建物、調べてみると実は地元では

有名な共同稚蚕飼育所だったのだ!


映画で手前に映っていた葉はその蚕の餌になる桑の葉なのである。



この事実は、この撮影をしている時に近くで作業をされていた地元の方に聞いて判明したのだ。


お話を聞いたのは私ではなく、

今回もご一緒させて頂いた全国のロケ地を巡られているロケ地巡りの猛者、ちびとらさん。


そのお話の上手さは天下一品!


私の怪しげな口調では警戒されて話が進まないが、ちびとらさんは一瞬で相手の方の懐近くに入り込み親しくなられる。


寅さん仲間は、皆さん本当に素晴らしい。


話は戻って…


上田市は「蚕都上田」と言われるくらい蚕糸業の盛んな場所だった。


そして、そしてもっと調べてみると意外な事が!


この共同稚蚕飼育所のあった場所は、通称「大城」(おおしろ)と呼ばれていた倉沢邸。


この倉沢家は代々この地の庄屋だったとの事。

明治2年の百姓一揆ではその標的にもされたという。


その時の焼き討ちの跡が、この正門の屋根裏の支柱に現在も焼跡として残っている。

そしてなぜここが「大城」と言われていたか?


実はここは「手塚大城」という大城がかつてあったのだ。


「手塚大城」とは「手塚太郎金刺光盛の館」の事。

では、この「手塚太郎金刺光盛」とはどんな人物なのか?



治承4年(1180年)、源義仲が挙兵するとその麾下に参加し、有力な部将の一人となる。


寿永2年(1183年)篠原の戦いに従軍。

その際に斎藤実盛を討ち取った際の逸話は、『平家物語』において著名である。


寿永3年1月、源範頼、義経の追討軍と戦い、主君義仲と共に戦死。

最後まで義仲に従った四騎の内の一人であったという。



後代において光盛の末裔を称する者に、江戸時代後期の蘭学者・手塚良仙やその子孫である

昭和の漫画家・手塚治虫などがいる。



出典:Wikipedia

------------------------信州上田之住人 太田 和親さん 2004年9月10-16日随筆より引用------------------------


時代は遡り治承四年(1180年)


以仁王の平家追討の宣旨を受けた木曽義仲は、現長野県小県郡丸子町の依田城にて

東信および群馬の兵馬を集めて蜂起した。


この時、義仲に従ったのは、現上田市手塚の手塚太郎金刺光盛や現東御市海野宿の海野氏らがいた。

兵馬は約三千騎にて依田川と千曲川の合流点付近の白鳥河原に集合した。

これを白鳥河原の勢揃いという。


義仲の軍は千曲川の横田河原で越後から来た平家味方の城四郎の軍四万騎と戦って、わずか三千騎で勝利した。

その様子は「平家物語」の「横田河原の戦」の段で語られ著名である。

-----------------------ここまで-----------------------


物語はこれだけではない。


この個人の敷地内には唐糸観音堂という御堂が建てられているのだがここにも物語が…。



  


------------------------信州上田之住人太田 和親さん2004年9月10-16日随筆より引用------------------------

(唐糸の物語)


 その頃の日本は、平氏義仲頼朝の三者でほぼ三分割されていた。


しかし、頼朝は同じ源氏の従兄弟の義仲が、先に京に入ったことを快く思わず、

鎌倉から義仲殺害の指示を出した。


その頃、手塚太郎金刺光盛の娘、唐糸頼朝の下で働いていた。

唐糸はこれは父、手塚太郎の主君、義仲の一大事と、京にいる父に手紙で知らせた。


頼朝のすきを見て唐糸頼朝の寝首を掻くので、首尾よく成功のあかつきには父手塚太郎に信濃と越後の二国を下さい。

義仲様の了解のあかしに、代々伝わる家宝の短剣を唐糸に下されば、それで頼朝を討って見せましょう。」


父、手塚太郎光盛は、この手紙を主君義仲に見せた。


義仲は、唐糸の忠義を大いに喜び、家宝の名刀の短剣とともに手紙に

「この度の唐糸の注進、誠にありがたい。御褒美に父の手塚に信濃と越後二国を与えよう。

さらに首尾よく成功したら関東八ヶ国をもさずける。このこと人に知られるな。」

と書いて鎌倉の唐糸の元へ送った。


唐糸はこの短剣を肌身離さず、また、義仲の手紙は部屋に隠した。


頼朝のすきをうかがうが、なかなかよい機会が巡って来ない。

そうこうしていると、頼朝とその妻政子のお風呂のお供を仰せつかった。


脱いだ着物の下に隠しておいた短剣を、風呂奉行の土屋三郎に見つかってしまった。


問い詰められ、木曽殿に仕えている時に形見にと頂いたと言い訳するが、

木曽殿の代々伝わる名短刀を女の持つ形見にしてはあまりに不釣り合いと、

いよいよ疑いを深められ、松が岡の尼寺に暫く預けられた。


風呂奉行の土屋は、さらに唐糸の部屋を捜索して木曽義仲の手紙を発見し頼朝暗殺計画を暴いた。

そこで唐糸は石の牢屋に入れられてしまった。


信濃国手塚の唐糸の娘万寿姫は、母の入牢を伝え聞き、名を隠し鎌倉に上って母を救い出す決心をした。


万寿姫はお祖母さんの反対を押し切って、乳母の更級とともに鎌倉に上り、名前や出自を偽り頼朝の屋敷で働いた。


母の入れられた石牢を見つけ出したがどうすることも出来ない。


そうこうしていると頼朝の屋敷で不思議なことが起こった。

何と屋敷の中の畳のへりから松が六本生えてきたのだ。

凶か吉かを占わせるために陰陽博士を呼んだ。

松は千年の命ゆえ、六本も生えたのは頼朝の子孫が、六千年も栄えることを意味する、吉兆であると占いが出た。


そこで、祝賀の宴を開くことになった。

十二人の美しい舞姫の舞いを鶴岡八幡宮の神前に奉納することとなった。


舞姫は十一人まで集まったが、あと一人だけ足りなかった。

そこで人にすぐれて美しい万寿姫がその舞姫になることを、乳母の更級が勧めて舞うことになった。


美人の万寿姫が今様を上手に華麗に舞うと、感動の余り頼朝も途中から万寿姫と一緒に今様を舞った。


翌日、頼朝万寿姫を館に呼び出し「なんじは今様の名人だ。国は何処だ。親は誰だ。

褒美に如何なる望みのものも取らせる。」と告げた。


万寿姫はこの時を逃せば母を助けることは出来まい、我が命を奪われても構わないと心に言い聞かし、

「実は、石牢に捕らわれの唐糸の子で、万寿姫と申します。母の代わりに私が石牢に入りますので、母を助けて下さい。」

と助命を涙ながらに申し出た。


その母を思う娘の孝行な心根に、頼朝をはじめ同席の全ての者が心打たれてもらい泣きした。

そして、頼朝から母唐糸ばかりか娘の万寿姫も信濃に一緒に帰ることを許された。


その上、頼朝からも他の多くの武士からも二人に沢山のみやげが贈られた。


 信濃国手塚では、お祖母さんが娘の唐糸と孫の万寿姫の二人のことを毎日心配し、その心労の余り病の床に着いていた。


二人が帰国して無事な姿を見せると、お祖母さんは元気になったという。

誠に唐糸の忠義、万寿姫の親孝行のめでたい話である。


その後、唐糸の物語は「唐糸草子(からいとぞうし)」という名前の絵本として

室町時代からあるとのことをインターネットで知った。


「唐糸草子」は「御伽草子(おとぎぞうし)」の中の二十三話の一つである。


御伽草子は室町時代を中心に、平安末期から江戸初期までの比較的短い様々な話を集めたものであり

民衆に大変喜ばれ絵と文が付き、奈良本が有名である。


つまり、絵本で「文正草子」「鉢かつぎ」「唐糸草子」「ものぐさ太郎」「一寸法師」などが入っている。


私も上田市立図書館で「御伽草子」を借りて読んでみた。


「御伽草子」には「一寸法師」などの荒唐無稽なそれこそおとぎ話が沢山入っているので、「唐糸草子」も

史実ではないように思われる方がいるそうだが、曲尾勝さんによれば手塚太郎金刺光盛も唐糸も万寿姫も

実在の人々で唐糸の物語は実話である。


手塚太郎金刺光盛は、ここ手塚の地名の由来になった人であり、「平家物語」にも出てきて

斉藤別当実盛を討った人としても有名である。


最期は義仲と一緒に近江の粟津の戦で亡くなっている。

木曽義仲が敗れたので手塚地区の手塚の人々は、危険を避けるためにここからいなくなり、

曲尾さんによると手塚地区に手塚という姓の家は今一軒もないとのことである。


唐糸観音堂のある手塚大城は倉沢正二郎氏宅地の通称で、このお宅を道から入って行って

お庭を横切ると宅地の北東の隅に、観音堂が建っている。


--------------中略---------------


また、倉沢正二郎氏宅前の道を川下に向かって百メートル位行くと、

堰口(せんげぐち)という地区の集会場と火の見やぐらがあるところがあり、

その道を隔てた向いのお宅が樋口さんという。


この樋口家のお庭に、父手塚太郎金刺光盛の墓の五輪塔(「光盛五輪塔」という)がある。


これもまたなんとひとの屋敷の中にあるという。


--------------中略---------------



「唐糸観音堂」と「光盛五輪塔」


それぞれ個人のお宅に、平安末期の文化財があるのである。


 このように手塚地区にこれらの案内板や掲示が全くなく、探し当てるのは至難の業であった。

是非早く案内板が欲しいと思う。


また、「唐糸観音堂」と「光盛五輪塔」はもっと有名になっていいと思うのにほとんどの上田市民に

いや地元の手塚地区の人々にさえ知られていないのは残念である。


是非、上田の観光協会か教育委員会で、もっとこれらの史跡について広報と支援をしてもらいたいものである。



-----------------------ここまで-----------------------


http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s09.htm



この歴史的にも貴重な共同稚蚕飼育所の写真は、もしかするとこの映画にしか残っていないのかもしれない。

昭和28年5月建築。大きさは当時を知る方の資料を元にしたお話より。



そしてこの共同稚蚕飼育所が建つ前にはもっと貴重なものがあった。



 


------------------------信州上田之住人 太田 和親さん 2004年9月10-16日随筆より引用------------------------



約70年ほど前までは二階建ての木造の館があったらしいが、

蚕種選業の組合の共同作業場を建設するためにその建物は取り壊された。

(当時は文化財保護意識が低かったかららしい。)


もし取り壊されていなければ、中部地方で最も古い木造建築物であっただろう。

なぜなら、市内前山地区にある同時代に建てられた中禅寺の阿弥陀堂は

中部地方最古の木造建築と言われているからである。


そしてもしも唐糸が頼朝暗殺に成功していたら、日本の歴史は全く変わっていただろう。

木曽義仲の武家政権が誕生し丸子幕府か、上田幕府が出来ていたかも知れない。



-----------------------ここまで-----------------------



結果、今回映画の遠景と同じジャストな高羽アングルは、遂に見つけられなかった。


今回調べたこの倉沢邸辺りのお話は、山田組スタッフも

その時の周辺散策で知ったのではないだろうか。


こんなに多くの所縁のある場所なのに、地元の方でさえその事実をあまりご存知ではない。

(郷土研究されている方くらいしか知らないらしい。)


であれば映画の中でそのひとつを形として残して…という思いから山田組は撮影したのでは・・・


そう考えるのは個人的な妄想なのかもしれないが、歴史を知ってしまうとそう思えてならない。


このシーンに込められているであろう深~い意味を知ることができたことは

今回の調査での大きな収穫のひとつとなった。


この俯瞰と同じ場所での撮影は恐らく不可能と思われるが、

一番近い場所は長野県上田市前山1688辺り

感動の塩田平!

おしまい