湯川たから館 髙羽哲夫の軌跡

2022年10月8日記載

2021年10月初 

かねてから行ってみたいと思っていた福島県にある髙羽哲夫記念館に、遂に行くことができた。

私は常に高羽さんのアングルを意識しながら、映画と同じアングルを狙ってロケ地を撮影している。

それは単に映画と同じだからというだけではなく、他のキャメラマンとは違ったそのアングルは、決して演出にだけに寄ったアングルなのではなく、観ている私達観客の目線であったり、演者の方々への想いであったり、そして何よりも高羽さんの人柄を感じさせてくれるような優しいアングルになっているのである。そんな敬愛なるアングルに少しでも近づけるよう意識して、私はいつも撮影をしているのである。

そして高羽さんのアングルに近づく事によって、時を超えてこの映画の当時の瞬間に立ち会えたように感じることもできる。いつも思うことだが、その場所に行ってみて映画のアングルを探してみると、景色の切り取り方にいつも感動してしまう。風景撮影に高羽さんがどれだけ参加していたかは定かではないが、風景をメインにしていた撮影B班にも恐らくその高羽イズムはきっと備わっていたのではないかと思われるのである。

高羽 哲夫

(たかは てつお、1926年8月31日 - 1995年10月31日(69歳没))は、日本のカメラマン。福島県河沼郡湯川村出身。福島県立会津中学校(旧制)卒業。


1948年、松竹に入社。1965年、「霧の旗」で第9回三浦賞を受賞[2]。映画カメラマンとして主に山田洋次監督とコンビを組み、特に「男はつらいよ」48作の撮影に携わったことで知られる。1992年、紫綬褒章受章。1995年、死去。 

 ※参考:Wikipedia

代表作 寅さん映画「男はつらいよ」シリーズ


湯川が生んだ撮影監督

湯川村出身の故髙羽哲夫​氏は、撮影監督として山田洋次監督とコンビを組み「男はつらいよ」シリーズをはじめ数々の作品で日本映画界に大きな業績を残されました。

​ふるさとの先輩、髙羽哲夫​氏をより多くの方に知っていただき、映画作りにかけた思いが伝わればとご遺族から寄贈いただきました当時着用していたものや、48作品のポスターや台本など貴重な品々を展示公開しております。

 ※湯川村商工会HPより

湯川たから館  髙羽哲夫の軌跡

湯川たから館

福島県河沼郡湯川村大字勝常字堂後830 

地域活性化施設 湯川たから館

電  話 0241-27-3957

開館時間 9:00~16:00

休 館 日 火曜日、年末年始

そ の 他 入場無料

湯川たから館 玄関

早速、寅さんが  出迎えてくれる。

奥の部屋が高羽さんの 展示室となっている。

男はつらいよの映画ポスターが壁一面に飾られている。

また、ショーケースには高羽さんが実際に使用された各作品の貴重な台本が大切に保管されている。

山田監督、吉岡秀隆さん、倍賞千恵子さんのサイン

2019年12月5日の山田監督のサインは、「お帰り寅さん」撮影後に墓前報告に訪れた際に立ち寄られたと思われる。

※2019年12月6日の朝日新聞デジタルからの引用

■山田洋次監督、寅さん撮影監督の墓参り

シリーズ最新作「男はつらいよ お帰り 寅さん」の全国公開(今月27日)を前に、山田洋次監督が5日、会津若松市を訪れ、50年前に公開された第1作から第47作まで撮影監督を務めた湯川村出身の高羽(たかは)哲夫さん(1926~95)の墓参りをした。山田監督は「あなたのおかげで、もう一本作ることができましたよと報告できた」と話していた。

 墓参には主人公・車寅次郎(故・渥美清さん)の妹、さくらを演じた倍賞千恵子さんと、おいの満男役の吉岡秀隆さんも同行した。

 山田監督は市内を一望できる高台にある霊園に到着すると、「夢」の文字と映画撮影用カメラの絵が彫られた高羽さんの墓にひしゃくで水をかけた後、線香を手向け、手を合わせた。

テレビ番組の回顧録で山田監督は高羽(たかば)さん、倍賞さんは高羽(たかば)ちゃんとよく言っていらっしゃるので、私たちももっぱら高羽(たかば)さん、とか、映画でのアングルを(敬意をもって)高羽(たかば)アングルと呼ばせて頂いている。

正確には髙羽(たかは)なのだが、もはや言い直しができないくらい高羽(たかば)が定着してしまっている。

展示室にあったスナップ写真  その①

第44作「寅次郎の告白」高羽さんと吉岡さん

第39作「寅次郎物語」撮影風景 ボートの外側にせり出し撮影。

山田監督から生涯の伴侶と言われるくらいに、撮影現場では山田監督の傍らに常に高羽さん。

山田監督からの手紙  その①

 頭の良い人はいる。高い教養や豊かな創造力の持主もいる。

 しかし、高羽さんのように、そのすべてを合わせ持った人は、めったにいるものではない。

 この人を仕事の伴侶に得たぼくは、はかりしれぬ果報者だった。

 ぼくが彼を独占していなければ、彼はもっともっと優れた仕事を残したかもしれない。

 高潔、という、今は死語になりつつある言葉にふさわしい生涯を生きた人だった。

 あらゆる意味で、一流の人だった。

 1995年11月30日

               男はつらいよ”寅次郎紅の花”の撮影現場にて

                                  山田洋次

山田監督からの手紙 その②

第41作「寅次郎心の旅路」

高羽さんを称える

山田洋次


監督の腕前などたかがしれている、とぼくは常に思っている。

大切なことは、どんなスタッフとめぐり逢えるかである。それで映画は決まる、といっていい。

その意味で、ほくは大勢の素晴らしいスタッフに恵まれて今日まで寅さんシリーズを始めとして沢山の仕事をしてきた。

そして、カメラマンの高羽さんは、その一番目の人、ほくにとって最も大切なパートナーである。

高羽さんは、現場において優れたカメラマンであるだけでなく、ぼくの仕事の企画の段階から始まって、脚本、キャスティング、撮影全体のデザインに至るまで、すべてについて、素晴らしい助言を与えてくれ、相談にのってくれる。

恐らくこんな形での監督とカメラマンの関係は、他にないに違いない。

高羽さんなくして、ぼくの仕事はあり得ない。その意味で、高羽さんにめぐり逢えたことは、ぼくにとって大きな幸運だった。

高羽さんを称えると共に、その高羽さんを生み、育てた父祖の地、彼が誇りにしてやまない会津の地に対しても、ぼくは常に一目も二目も置いて敬しているいるつもりである。

日本映画技術賞    選定理由書

第45回(1991年度)

日本映画技術賞 選定理由書

「息 子」の撮影

高羽 哲夫 君

高羽氏のキャメラアイは、人間愛。この作品の背景は、「寅さん」等で30年も日本中を巡り、美しい故郷、開発で変貌する祖国、各地の素朴な人々と出逢い、作品に参加してもらい、日々の暮らし、喜びや悲しみについて話し合い、国の政策が変わる度に振りまわされる、庶民の喜怒哀楽を見守ってきた、心優しい山田組が、常々ロケ先等で話し合っていた、日本はこれで良いのか、日本人は今、本当に幸せだろうか、その想いが、シナリオを練り上げ、意気の合った技術スタッフと、演出、俳優皆融合し、精根結集し「息子」を創造し、生み出している。高羽氏は、シネスコを完全に己のものとし、演出意図を把握、構図と色彩心理を熟慮、徹底した準備、ロケハン、都会と田舎の空気感、条件ネライ、季節感、緻密な撮影設計で、セット、ロケ、実景と処理し、松竹マークからラストまで、1ショットで流れるようにドラマが展開し’90年初頭、故郷初日本を描いている。松竹伝統の人間賛歌。冴えて程良い感動の映像詩。映画史に残る傑作に仕上げられている。よって1991年度の日本映画技術賞に該当するものと認める。

1992年5月21日

社団法人 日本映画テレビ技術協会

会長  中村好郎

 1994年日本アカデミー賞~1993年の「学校」の受賞       1992年日本アカデミー賞~1991年の「息子」の受賞楯

高羽哲夫 プロフィール

高羽哲夫 プロフィール

〇1926年(大正15年)8月31日

 福島県河沼郡笈川村(現湯川村)生まれ

〇1945年(昭和20年)3月

 福島県立会津中学校卒業(現会津高等学校)

〇1948年(昭和23年)

 3月・米沢工業専門学校機械科卒業

   (現大学法人 山形大学工学部)

 6月・松竹大船撮影所撮影部入社

〇1964年(昭和39年)1月

 山田洋次監督の映画「馬鹿まるだし」でデビュー

 以降、山田監督の女房役として撮影監督を担当

〇1969年(昭和44年)8月

 「男はつらいよ」第1作スタート、47作まで撮影監督

〇1974年(昭和49年)12月

 「男はつらいよ」第14作で日本映画技術奨励賞受賞

〇1975年(昭和50年)10月

 「同胞」で日本映画技術賞、富士フイルム映画技術賞受賞

〇1985年(昭和60年)

 「映画の日」特別功労章受章

〇1991年(平成3年)10月

 「息子」で日本映画技術賞、毎日映画コンクール撮影賞、

 日本アカデミー優秀賞受賞

〇1992年(平成4年)11月

 「紫綬褒章」受賞

〇1993年(平成5年)5月

 「学校」で日本映画技術賞、日本アカデミー優秀賞受賞

〇1995年(平成7年)

 10月31日逝去 享年69歳

 「勲四等旭日小授賞」受賞

〇1996年(平成8年)

 1月・絵ランドール特別賞受賞

 2月・毎日映画コンクール特別賞受賞

 3月・日本映画アカデミー協会長特別賞受賞

高羽さんが撮影されたスナップ写真

週刊平凡(春爛漫特大号)昭和51年5月6日発行より  倍賞さんの珍しい水着姿、渥美さんの普段の横顔など貴重な写真が目を引く。

南の国の島めぐり“寅さん”一家のタヒチの休日

“最後の楽園”といわれるタヒチは、エール・フランスの直行便ができてから、遠い島ではなくなった。

東京を飛びたって12時間、時差の関係で出発したその日の午後には、もう素朴な現地人と言葉を交わし、目をおおいたくなるようなギラギラした太陽のもとで、どっぷりと“自然”にひたることができる。

山田洋次監督をはじめ、渥美清、倍賞千恵子、佐藤蛾次郎など、おなじみ“寅さん”一家が、4月6日から10日間、タヒチの休日としゃれこんだ。「こういうところで“寅さん”の映画のロケをやりたいね」と、今回で3度目のタヒチ訪問の渥美は、タヒチアンにもすっかりなじみの顔になり“イアオラナ”(こんにちは)と、とりかこまれ、細い目をなおいっそう細くしていた―――。

撮影 高葉哲男(これは恐らく誤植で正しくは高羽哲夫)

撮影スナップ「第45作 男はつらいよ 寅次郎の青春」

高羽氏使用のカメラ

高羽氏愛用の帽子とカメラバック

映画関係者からの年賀状と高倉健さんの暑中見舞い。中村はやとくんの年賀状が何ともかわいい。

展示室にあったスナップ写真 その②

第46作「寅次郎の縁談」

第41作「寅次郎心の旅路」

山田監督と高羽さん

第42作「ぼくの伯父さん」

第39作「寅次郎物語」

第44作「寅次郎の告白」

第42作「ぼくの伯父さん」

第43作「寅次郎の休日」

「男はつらいよ 50 お帰り寅さん」のエンドロールにSPECIAL THANKSとして次のような文面が登場する。

「カメラマンの高羽哲夫さんをはじめとして「男はつらいよ」を共に創った大勢の仲間たちにこの作品をおくる。」と。

今でも山田監督やスタッフの方、そして出演された方々の心の中に、そして何よりも映画のアングルの中に高羽さんは生きているのである。


最後に・・・

高羽さん、素敵な映画をありがとうございました。




湯川たから館ご担当の高倉様、および施設の皆様、この度は大変お世話になりました。誠にありがとうございました。事前のお電話ではとても親切にして頂き、そして実際に施設にお伺いした際の御心遣いとご対応に深く感謝申し上げます。

またいつの日かお邪魔させてください。どうぞよろしくお願いいたします。

寅福 拝


この度、湯川たから館へご一緒させて頂きました寅友のちびとらさんのサイトです。

とても詳しくレポートされています。

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吉川さんとも同じ日に湯川たから館へご一緒させて頂きました。

こちらは湯川たから館での発見からら秩父の雲海へと続きます。

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