㉑軍歌は止めて

大樹町文化協会 町民文芸誌「樹」51号 2019年11月発行 ・・・一部加筆

今から随分前の話になるが、戦時中の昭和20年頃、私は釧路高等女学校(現 釧路江南高校)に通学していた 。

その頃の女学校は4年制で、1年生は学校の敷地にジャガイモを植え、2年生は防空壕作り、3年生の夏半年は弟子屈方面に援農に行くことになったので、ほとんど勉強はしていないが、小学校時代は一応基本の勉強をしたので読み書きはそれなりにできた。

3ヶ月ほど経った20年8月15日、後に言うところの終戦の日(敗戦の日)を迎えた。その日は農家へは行かず、昼前に合宿していた村の小学校の前庭に並ぶよう、先生に言われた 。

正午、天皇陛下の玉音放送のラジオを聴かされた。実際は雑音が多くはっきりとは聞こえなかったが、誰言うとなく戦争に負けたというか終わったと判り、ヒザをついて聴いていた私達は大泣きをした。子供なりに苦労をしたのにと、手を取り合って泣いた。

ところで、援農先は貧農と言うと悪いが働き手を戦争にとられた人達なので、農協を通して「秋まで居てほしい」と希望されたと先生から言い渡された。

農機具などまともに無い頃なので、草と作物を区別できずに一緒に刈り取ってしまう私達でも、猫の手よりましとのこと 。

後で判った事だが5クラスある3年生のうち、援農に行った他のクラスの中には、学校へ戻ったクラスもあったと聞いた。私達は勉強から解放されたと心の中で喜んでいた 。

その秋の収穫が終わった後、農協のトラックの荷台に乗せられて、30名ほどの級友と川湯・弟子屈の温泉地を廻り、川湯のホテルで一泊の慰労会の後、学校へ戻ったのであった 。

3学期には、今で言う「サハリン」からの引揚者で級友は50名以上に増えた 。

そして敵国語と言われてきた英語の授業が始まったのである。ほとんど4年生の1年間だけだったので、あまり身につかなかったが・・・。

現在、当時は考えられないほど「米国」と「日本」は仲良しの国のようであるが、アベさんの態度を見ていると私は納得がいかない。「鬼畜米英」と忌み嫌っていたのにと、心の中で失笑しているのである。〈戦争は絶対反対である〉。

学生とは名ばかりで勉強もまともにできなかったのは戦争のせいだから 。

先日、通っているデイサービスで軍歌をカラオケで歌う人がいた。

「月月火水木金金・・・」などの響きは当時ラジオから毎日流れていたので、いやな記憶が蘇る 。

戦争経験の無い人々に年長者として一言申し上げたい 。

「軍歌は止めてくれ。」と言いたいのである 。