ヤ. 丙午と母

8月7日の母の命日をむかえて、この夏はなぜか母の事が気になる。

36年前の夏、夫の転勤で私達一家は広尾から札幌へ移り住んだ。

引越しの手伝いに、帯広にあった実家の母もついてきてくれた。

多分、母芳枝にとってはこの世でたった一人の孫である、我が息子の可愛さにひかれたのだろう。

アパート一部屋の引越し片付けなどは、あっという間に終ってしまい、姑と母と息子を連れて、私にとっても初めての札幌の街を、毎日のようにあちらこちらと出歩いた。

シラネアオイ

母は知らない土地なのに、どこへでも先に行ってしまうので、ついて行くのが大変だった。

予定の一週間がすぎ、母が帰る朝になった。当時走っていた市電豊平線の始発駅が近かったので、そこ迄見送りに行った。

母が実家に戻り4、5日後に一通の電報を受取った。

「ヨシエシス、チチ」

背中に冷水をあびた思いがした。

母は心臓麻痺が死因で、明け方に「うーん」と一声苦痛の声を出したきりだったという。

前夜おそくまで押入れの中を整理していたことを後になって聞いた。

夏にしてはひんやりとした街が、やっと目ざめた頃、一人で見送る私に、市電のデッキに立って別れの言葉を言う母の笑顔が、淋しくゆがんでいたのを心の底で気にしてはいた。

私の母はかつて「夫を食い殺す」という迷信できらわれた「丙午(ひのえうま)」年生まれであった。

でも50歳を目の前にした母は、祖母や父よりも早く旅立ってしまった。生まれ年のせいで縁遠かったのか、親戚の仲立ちで東京からはるばる道東の厚岸へと嫁いできた人である。

母は実家に居た娘時代も家庭状況からいってもけっして幸福ではなかったらしい。むしろ姑は居ても物わかりの良い人だったので、結婚してからの方が恵まれていたのではと私は思うのだが。

母は幼い時に実母を病気で亡くして、義母に育てられた。一人子だった母に弟が生まれた。

その頃の家族で写した写真を見ると、いつも母は暗い顔で写っている。

後年、母の義母が空襲をのがれて私達の住む道東へ疎開してきたので、その人となりを知る事になるが、それは只きびしいだけの人だった。

私は母の死に接して、迷信の無意味さをいやという程感じた。

もし今、母が健在なら86歳。まだまだ元気でいられる年だ。

そして自分が苦しんで育っただろう「丙午」生まれの女の孫が、二人の娘にそれぞれ居て、適齢期になっている。そのうちの一人がまもなく結婚するのを見て、世の中の移り変わりをどんな思いで眺めただろうかと、考えてしまう。

(1991年8月)