カ. 天国の父さんへお願い

「昨日、山菜取りの足を伸ばしたと、三枝子夫婦が、隆史を連れてきましたよ。」ひとしきり話した後に、父さんの思い出話になりました。

昔の国鉄職員の給料と暮らし向きの話、戦時中の物の無い時に、我が家には、石炭が山積みされていた話なども出ました。

「こんなに石炭のある家は、珍しいだろう。」

と父さんが自慢をしていたと、これは三枝子が良くおぼえていましたよ。

皆が帰った後に、ふと気が付くと、父さんの祥月命日でした。無信心の私のこと、ついうっかりしていました。あわてて仏壇に、といっても当家のですが、お参りをした次第です。本当にすみません。

今から20何年前になりますね。父さんが、くも膜下出血で倒れたのは。

半年程の入院ののち、自宅での闘病生活が続いていましたね。

昭和42年の5月はじめに、札幌に居た私の所へ、「チチキトク」と、兄さんからの電報が届き、取りあえず、帯広への列車に飛び乗りました。坐席に居ても、ジリジリとする何とも言えない気持ち、これは何時かも経験したなあと、乱れる頭で考えて見ると、11年前に、「ヨシエシス、チチ」との、青天の霹靂のような電報を受け取り、矢張り札幌から鈍行列車で、夫と子供達とで帯広へ向かった時の事を思い出したのです。地の底に沈みそうな気持は、忘れられませんが、母さんの事は、また別の時にします。

「キトク」というのは、一層いやなものですね。死に目に会えるかどうかという、変な事を考え、空を飛んでも行きたい気持に、駆り立てられるものでしたよ。

義母と、兄夫婦に看とられてはいても、四人の娘達は、すでに結婚していて、まして私は遠く離れた所に居ましたね。その上、姑と同居の身ですから思うように看病をしてあげられなかったですね。でも学校が休みの時など、子供達を連れて、父さんに会いに行きました。

やっと辿り看いた我が家といっても、こんな事は、言ってはいげない事だけど、水入らずではない家、そんな中で父さんは、すっかり弱りきっていましたね。

それから三日程、枕辺から離れず、父さんの脈にさわっていました。時々打たなくなる脈に、不吉な気になると、また打つのでした。私が口に運んであげると、父さんは少しは流動食を摂りましたね。

段々、病状が良くなり、元気が出てきたようでした。釧路の叔母さん夫婦も安心したような顔をしていましたよね。

その頃、朝のテレビ小説で「旅路」をやってましたね。元気な時は、父さんも楽しみに見て居たそうですが、この二、三日はそれどころではありませんでした。でもこんなに元気になったのだからと誰言うとなくテレビを付け、国鉄マンだった父さんの布団の周りに皆が集まって見ましたね。

その直後位でした。父さん、あなたの容態が急変したのは。タンがつまって苦しそうな息をしていました。必死に取ってあげようとしましたが、父さんは目を落してしまいましたね。

実はこの朝、元気になった父さんを見て連休最後の日でもありましたので、それぞれの家に帰ろうと話し合っていたのです。それが、皆を帰したくなかったんですね。いいえ私は、子供孝行な父さんだったと、今でも思っているのです。どうしてもいけなくなるものでしたら、私達が札幌に戻ってからだったら、死に目にも会えず。またすぐ引き返さなくてはなりませんでしたもね。大勢の身内に囲まれて、息を引き取りたかったのですね。

それは夜明け方に、「うーん」と一声出しただけで死んだと聞く母さんとは、あまりにも違いましたね。

一人っ子に生まれて淋しがりやだった父さんの最後に、ふさわしいと思いましたよ。

あの世では、随分先に逝った母さんと、めぐり逢えましたか。母さんにとっては、出来物の姑と同居で何かと大変だったですものね。長女として、いろんな場面を見たものです。天国で晴れて、仲の良い夫婦生活をしていますか?

兄さんが早死してしまい両親の後を追ってそちらに行ってしまったので、私は、頼りない弟妹達のまとめ役をしているのです。幸い良い伴侶に恵まれている事は、父さんも良く知っているでしょうが、それで何とかつとまっているのですよ。

こんな訳ですから、私をあまり早く呼ばないで下さいね。呉々も、父さんにお願い致します。さようなら

(1987年5月)