⑪人生を駆け抜けた妹へ

42号 平成23年3月発行

自分が未だ若い頃には、80歳迄生きられるとは考えてもいなかった事である。

人生50年の時代はとうに過ぎ去り、今、日本は世界一の長寿国といわれている。でも私の身近では、この半年の間に、それも平均寿命80歳を前にして、三人もの人がこの世を去って行った。

一人は、6年前に亡くなった妹三女M子の夫が長患いの後に逝った。75歳だった。

また一人は、私と同じ年の長年の友人が、80歳を目前に喉頭ガンで亡くなった。

三人目は、妹次女Y子を一月に亡くした。元気な姿しか思い浮かばず、今も信じられぬ日々を送っている。

74歳だった妹Y子は、おしゃれで几帳面で、一度決めた事はきちんとする性格であった。元気いっぱいに人生を駆け抜けていったとしか、言いようのない妹である。

子供の頃から、親や周りの者に上手に要求を通すという面もあった。四人姉妹の中で人並の顔に恵まれたY子は、学生時代や会社勤めの時も、自分の思い通りに生き生きと暮らしていたらしいとは、家を離れてた私が後で知った。

20代の終り頃、働き者で優しい男と知り合い結婚し、一人娘にも恵まれた。車両関係の仕事をしていたY子の夫は、誰にでも面倒見が良く、男気があった。仕事もするが仕事仲間の交際も多く、夜、家に連れ帰る事が多かったらしい。そういう事を一切しない夫を持った私には、想像もできない。

義弟が山菜などをドンと採ってくるので、せまい団地のベランダで、始末が大変とY子がコボしているのは良く聞いた事である。また、私には一人も居ない小姑が四人も居て、そのアツレキは聞きしにまさるものだったらしい。

その義弟は30代の終り頃、機械事故で瀕死の重傷を負ったが、何とか助かり仕事に復帰した。働きづくめの人生だったが、60代で二度の脳出血になり、それ以後は寝たきりになってしまった。現在はN病院に入院中で、十数年を経ている。話を聞くというか聞こえるらしいのだが、話す事は出来ない症状で、Y子の行くのを待っているだけの日常であった。

Y子は結婚した娘家族と同居し、男の孫二人にも恵まれたが、どこにでもある家族のイザコザから、外へ出たついでの外食が多くなっていった。

昨年11月、三女M子の夫が亡くなった頃、Y子は入院していた。日頃の様子を見ていた姪に説得され、検査したところ大腸ガンとの告知だった。

6歳も年上の私が見舞いに来るのをいやがり、「来なくても良いよ」「早く帰ったら」といつも言っていたのが忘れられない。苦しむ姿を見られたくない気持が強かったのだろうと思う。

一ケ月半が過ぎ新年を迎えた。正月から末の妹T子は私の家に泊り、二人で病院へ通った。

二人は、8日の夜も家へ戻ったが眠れず布団の中で話していた。ウトウトした頃電話が入り、姪からの「危篤」の知らせにT子と駆け付け、何とか末期の水をふくませる事が出来たのだった。

4月の百ケ日の納骨では、北国札幌の墓地にまだ雪が残っていたが納める事ができた。

N病院に入院中の義弟は、急にパタッと妻が看護に来なくなり、どんな思いでいるのかと考える。母親の代りに車椅子のリハビリに通っている姪が「母さん、今来られないから」と話をすると、義弟はいやな顔をしたと伝え聞いた。

真相を知るよしもなく、その時の義弟の胸中は如何ばかりだったのか。誰にも窺う事はできないのである。

タチギボウシ