ホ.「東京のおばあさん」

幼い日、母の実家の養女になるはずだった私が、両親と共に帰って来てしまってから、10年の月日が経っていた。10年前のあの日、大人の間にどのような話し合いがあったか、私は気にもせず、また忘れてしまっていた。

昭和12年の支那事変に続いて、16年の12月8日、米英への戦争の火蓋が切られると、年を追って国内の治安も乱れ、東京で一人暮しをしていた母の継母、つまりは私には祖母になる訳だが、19年の夏に、遥々釧路管内の標茶に疎界して来た。

その頃住んでいた鉄道官舎の、たった三間きりの家に、父方の祖母と、両親、兄弟姉妹7人が暮らしていたが、東京の祖母を加えて11人の生活が始まった。祖母が2人では、まぎらわしいと、誰いうともなく「東京のおばあさん」が、新しく加わった祖母の呼び名であった。

もうその頃は米の配給はなく、茶色の麦粉、短めん、後にはフスマ入りの粉、でん粉カス等が主食だった。両親は、足だけは確保されている列車に乗って買出しに行き、遠くは北見迄行ったらしいが、買える物は豆だけだった。その豆を煮てつぶし、粉を入れて作った団子汁が当分の間つづいた。「東京のおばあさん」は、仲々きかん気の人である。また、ひどい食糧難を東京で経験していたので、その団子の数を一人何個と、きちんとかぞえて渡す役目をしていた。父方の祖母は控え目な人で、それで何とかうまくいっていた。

段々と配給もとどこおり、日に当たって青くなった豆つぶのような芋と固いフキ、自分達で作ったまずい南瓜などを食べ、20年の7月には、北海道にも大空襲があり、8月15日終戦となった。

「東京のおばあさん」は、7人になっていた私の兄弟の中から物色して養子を探していたものか心には決めていたのかは判らないが、翌年の春を待ちわびて小学生だった4番目に当る妹を道連れに、皆の止めるのも聞かず東京へ様子を見に行くと言って、旅立って行ったのである。

(1983年2月)