二. 風(ふう)が悪い話

遠い昔、私がまだ幼かった頃の出来事である。母の実家では、母の結婚後、たった一人の子供として残った後継ぎの腹違いの弟 敏雄は、昭和11年の世にいう二・二六事件で、近衛軍の一下士官であったそうだ。

叔父は大学を卒業して徴兵検査を受け、そして陸軍に入隊したという事である。

知るよしも無かったが、叔父は事件後無理が崇ったのであろう、風邪がもとで肋膜炎になり、九十九里浜にあった療養所で一年近い入院の末、世を去った。まさしく桜花の如き25年の短い生涯であった。

大人の間に、どんな話し合いがなされたか知らぬが、当時小学校二年生になったぱかりの私は、赤ん坊だった妹とともに、両親に連れられて、根室から母の

実家のある東京に向かった。

ヒダカハナシノブ

その頃住んで居た鉄道官舎の、親しい人々に離別の挨拶もして、私は養女になる為に出発したというのだが、その辺の事は、記憶にもないし、どんな内容の挨拶だったのかも思いだせない。ただ子供心にも生まれて初めて見る東京の賑やかさに、驚いていたことだけが思い出される。

母の実家に着くと、頼みの息子に先立たれた祖母は、半病人で床に就いていた。

お葬式の事などは、おぼろげにしか解らないが、一つだけ良く覚えている事がある。祖母が、ヒステリーの発作らしいのだが、台所の床に倒れて、手足をバタバタとさせているのを見た。皆が押えたり、医者を呼んだりと大騒ぎをしていた様子が、とても恐ろしく、幼い心にも大変な事と感じていたのを忘れることができない。

何日か経ち、やっと落ち君いた祖母は、私を引きとめる為に、色々と気を使ってくれた。何やかや買ってくれたり、上野動物園へ連れていってくれたり、親類を廻ったり、両親ともども目まぐるしく日を送った。

根室を発ってから、三週間位経った頃に両親が「明日は北海道に帰るからね。」と言った。それを聞いた私は、自分の立場をどう理解していたのか分からないが「私も一緒に帰る。」と言った事だけば、とても良く覚えている。

ともかくそのひとことで大変な事になったらしい。

祖母は、只一人になる辛さから必死に引き止めるし、私の両親はというと、父は長女である私~その頃、兄、弟、妹と四人の子供が居たが~を手雛したくない思いで、只おしだまっていたようだ。母は小さい頃から育てて貰った義理と、本家でもある実家を絶やすことのできない、戦前の家族制度への拘り~弟が生まれてからは、随分いじめられたと後年耳にはしたが~そうした継母に預けるつらさとの複雑な気持の中で、私の帰心を引き止めていたように思う。

でも子供の心に、一度帰る気持ちが起きたら、どうしようもなく、結局一緒に北の端の根室へ帰って来てしまった。

父方の祖父母が未だ健在だった頃で、両親にはその後あまり何も言われなかったが、ただ祖母だけが「まったく近所の手前、餞別迄貰っていったのに、英子が帰って来てしまって何とも風が悪くて困る。」と何度か口にしていたのを思い出す。

10年後に、養女の約束を果たす為に、私は再び東京の土を踏むこととなるが、その時の印象が鮮明なだけに、幼い日の事は、思い出の底にひとごとのように残っているのみで、昔話のおりなどに思い出す事はあっても、私自身はそんなに風が悪くないのである。

(1982年7月)