ハ. 車内談義

何年もの間、大樹と札幌を往復しているうちに、すっかり旅馴れてしまった。

昭和52年に、大樹に住む事になったが、はじめは帯広から特急を利用した。

乗車券も駅に予約しておき、やっと買えたと安心して出発していたが、度々行くうちに、平日の日中なら、便利な急行があり、指定席より自由席の車の数が多く旅行出来る事を知った。特急券の分で駅弁を買う事も出来るし、何よりも特急の2人並びの座席は、相手を選べないので、何度か窮屈な思いをした。

相客が若い男性の時が一番苦手である。息子を持っているんだから何とかと思うのだが、どんな考えを持っている人かは、少し話して見なければわからないので、そんな時は、はじめから一言も口を聞かないで、終点迄行く事がある。相客もそれを何とも思っていないようなのが、現代人らしい。

男性でも中年過ぎの方は、世馴れているので結構お話がはずむ。

急行を利用するようになってからは、空席を見付けて座る時に、中年過ぎの女の人と同席させて貰う。向かい合って四人の座席は、なかなか楽しいものである。

男の人が一人位居ても無視出来るし、もっぱら生活一般の話に花が咲き、色々と教えられる事が多い。

物価の話、家庭菜園の知恵、子供の結婚観、また姑の心得等々どんな話にも得る所がある。さしずめ列車井戸端会議である。ほとんどの場合、名前はお互い名乗らない。でも一度向かいの席の浦幌から乗ったとおっしゃる中年の婦人とお話した時、私も浦幌出身の若い方に知り合いのある旨話しているうちに、その方のお母さんである事がわかり、こちらも名前を名乗って偶然を驚き、いっそう話がはずんだ事があった。

それにしても、私の事を子供に過保護だと皆に言われているし、自分でもそう思っているが、世の中には、私の上を行く母親の多いのに驚かされる。子供が結婚しても、身軽な方は、手作りのおかず持参で喜々として運んでいる。また、何かと呼び出しが掛かると満足気である。子供達が結婚した後の自分の姿を想像して見て考え込んでしまう事が度々ある。

ある時、札幌へ向かう列車が江別を過ぎた頃と思うが、向かいの中年婦人と、最近のキナクサイ世相を心配した末に「何があっても我が息子を戦争にだけはやりたくない。」と話し合っていると、それ迄ずっと居眠りしていたように見えた初老の男性が、隣の席から突然□を開き「奥さん達、息子を戦争にやりたくなかったら憲法改正をしなくてはならない。」と、とうとうと話し出した。

温和そうに見えるけど戦前の保守の代表のような話しに、私達は納得出来ないと言 うと、また再軍備の必要な事を演説するうちに、札幌に近づき「もっと早くから御 意見を伺えばよかったわね。」と顔を見合せたが、複雑な気持だった。

また、ある日70過ぎと紹介のあったおじいさんと、四人の座席に二人だけで、札幌から帯広迄、しゃべり通しで来た事がある。

話好きの方で、話題は随分と広がったが、最後は奥さんに先立たれ、三人の子供さんをそれぞれ結婚させ、特に娘さんが心配して同居を申し出ても、一人暮しをしているという日常の生活の話で、明治の男性の強さを感じながらお別れした。

帰宅して夫にその話をすると、70過ぎでも男の人と聞いて、いやな顔をされたので、それからは、男の人と話した事は言わない事にしている。

私の車内談義は、まだ当分続きそうである。

(1981年7月)

ハクサンチドリ