⓪夫には内緒

平成2年5月《未発表》

「現金をお取りください」

通帳を開いて残高を見ながら、出口に向かっていた私の背中に、自動支払機からの声が、無人の部屋にひびき渡った。あわてて引き返し、口を開けたままの機械から数枚の札を受け取りながら「私はここに何をしに来たのだろう」とつぶやいた。

私は生来の粗忽者だが、最近は歳と共に物忘れも加わったのでどうしようもない。

夫婦とも60歳を越し、お互いに「ボケた?」「ボケた!」となぐさめ合っている。

先日も、こんなこともあった。

私は珍しくウイルス性の病気になり、罹りつけの病院に行った。

昼すぎに終わり食事に入った店で注文した時に、布製の大きな買い物袋の中に角ばったセカンドバッグが無いことに気づいた。中身のアレコレを考え、さすがの私も血の気が引いた。歩いて来たので落とすはずもない。

必死に病院へ戻った。大きな待合室の中の水飲み場にあるテーブルの上に、奇跡のように私が置いたままの状態でバッグが残っていた。

すぐ薬を飲むように指示されていたので、薬を出したあとポンとバッグを置いた。左手の買い物袋の重さも結構あったので、そのまま前を向いて歩き出したのだった。近くには大勢の人が薬を待ちながら座っていたが、誰にお礼を言いようもなく、そっとバッグを取り上げた。

この二つの出来事は夫には内緒である。