セ. 創作「霧の町」

七月も半ばというのに、もう何日も肌寒くうっとうしい曇天が続いている。久子は夫の吉男を一人にして、朝早く出た事を気にかけながら、我が家へと道を急いでいた。夫は以前から足が弱かったが、この何年かで耳もすっかり遠くなって居た。

近くのスーパーの大売出しを広告チラシで知り、たまたま必要品が目玉にあるのを見て、9時前に家を出たのである。

舗装道路から砂利道へ、そして細い路地へと歩いていくと、3軒先の我が家が木の葉がくれに見えて来た。

「ただいま!」

と引き戸を開けながら、久子が少し大き目の声をかけると、吉男が息せき切って出てくるなり、

「母さんが出掛けてすぐに、N市の梅沢の貞ちゃんから電話があったよ。S町だかに用事があり、その帰りに寄るそうだよ。月曜日の日だって。駅についたらすぐに電話をくれるそうだよ。」と伝えてくれた。

久子は、暫く会っていない姪の貞子から連絡があったのに、夫だけにしていた事を悔んだ。それと共に、ここの所立てつづけに、死んだ母や兄の夢を見て、気にしていたのだが、それは貞子が来る知らせだったのかと、思い返して居た。

どんな用事で、また誰と一緒になど、知りたい事はあっても、今となっては、どうにもならない、すべて2日後に貞子がK市に着いてからの事だと、急に浮々と買物を片付けだした。

4人の子供は、それぞれ結婚して家を出て居た。遠くに離れた子供もいるが、長男は、この市内に住んで居た。

日曜日には、孫共々一家で訪ねてくれる。

夫婦共に、70歳近くになって居た。特に大病もせず、二人だけの日常生活を過ごして居た。在職中に建てた家なので、家は大分古くなった。でも、こじんまりとはしているが庭もあり、裏に花畑と野菜畑とで50坪近くあり、それぞれが役割分担を決めて、二人の生甲斐として、種々の物を作り育てて居た。

久子は、自分の人生の終末が、大まかに分かるようになった現在、あらためて過去を振り返って見るのだった。

サラリーマンの妻として、半生を過ごして来て、矢張り、人生は苦労ばかりではないと言われるように、老後の今が、一番幸福だとつくづく思われるのであった。

久子の母は、3人目の久子を出産後、肥立が悪く死んでしまった。幼い3人の子を残された久子の父は、親族会議の末、上の2人を手元に残して、赤ん坊の久子を義姉の所に引き取って貰う事にした。

義姉は、男の子一人だけで、ほしくても後に恵まれなかった。

久子は伯母の家の長女として、そして貞子の父にとっては、妹として大切に育てられた。久子の兄と姉は、親類筋から後妻に入った人に、育てられて居た。

養父母も兄も、温厚な人達であった。生さぬ仲の娘を感じさせるものは何もなかった。

然し小学生になり、成長と共に親類としての交際を通して、実の兄や姉が居る事を、自然に知らされた。兄や姉の言葉の端々から、久子の今の生活の幸福をも知ったのであった。

15歳になった頃、10歳年上の兄の許にお嫁さんが来る事になった。

もう自分の身の上を、充分心得ていた久子は、知人の世話で、呉服屋に女中奉公に出る事になった。

きびしい奉公に堪えた。帰る家は無いと同じである。毎年数日の休日と、たまに母が会いに来てくれる以外は、楽しみはなかった。

台所仕事の合間に、針仕事を仕込まれた。生まれつき好きでもあったし、女にとっては大切な針仕事である。一心に仕立物に精を出したのである。

23歳の秋、兄の後輩である吉男と、結婚する事になった。

嫁入り前の複雑な心境と、仕度に追われる日々も、貞子を頭に5人になって居た兄の子達と、両親も一緒の大家族の家の中では、久子の身の置き所もない有様だった。

6人兄弟の末である吉男は、両親と同居する事もいらず、生まれて始めて、久子は自分の城を持つ事ができた。

男2人、女3人の子供に恵まれて、つつましく、平凡な月日が流れていくかに見えた。

50年近い夫婦の暮らしの中で、何といっても、末っ子を死なせてしまった事が、忘れる事の出来ない、つらく悲しい事実である。

その事故は、戦争中の疎開先である、吉男の田舎での出来事である。

勤務の為に、吉男だけK市に残っていた。久子は、子供達に食べさせる食糧増産に、必死の働きをして居た。

春の雪どけの頃だった。子供もそれぞれの手伝いをし、小さい兄弟の子守をして助けてくれて居た。陽気にさそわれて、いつか小川のそばに遊び場が移って行って居た。

「あーっ、母さん!」という子供の叫び声に、はっとした久子は、無意識に川の方角に走って居た。

末っ子が川を流されていく。川岸を夢中で走った。名前を呼びながら、草の根に足をとられ、木の枝につまずきつつ、ただ一心に走った。

かなり流されて、川幅がせまくなった所の、木の根株にひっかかり、やっと末っ子を抱きあげた時には、もう息絶えていた。

吉男がK市から駆けつけて、冷たくなった幼子と対面した。その悲嘆ぶりは、終生忘れる事の出来ないものであった。

それ以後、人一倍子煩悩な吉男との仲に、一つの翳りをさしたのも止むを得ないと久子は思うのだった。いくら言訳をしても済むものではない。年月が解決してくれるのを待つのみであった。

実家の母が、ショックに打ちひしがれた久子の元に、何ケ月も暮らして居た。何時、久子が川に身を投じるか、分からない有様だった。

その後、吉男の両親も此の世を去り、本家に祀られてはいるが、仏壇を用意して位牌を作り、末っ子と共に納めて朝夕お参りをしたいと、いくら久子が頼んでも、吉男は頑として、購入するのを拒んだ。親より先に逝った我が子の死を、みとめる事が、つらかったのだろうと思う。やっと近年になって、その思いが叶ったのである。

月曜日の朝、貞子からの電話を、今か今かと待つうちに、やっと10時前に掛って来た。

「今、K駅にいます。S町に二晩も泊まってしまったの。今朝早く発って来ました。おじさんにお聞きと思います。これからお邪魔します。バスの乗場は変わっていませんか?」

というのを聞き、久子は声を張り上げて、

「おじさんは耳が遠いので、貞ちゃんが、S町だかT町だかに用事とかいっていたけど、さっぱり分からないというので、何の用事だったんだろうと話して居たのよ。くわしい事は会って聞くから。バスは前と同じ所から乗っていいのよ。でも、この辺も、すっかり変わってしまったから、終点で降りて待って居て。おじさんを迎えにやるから。」

といいながら、そばで何か言っている夫に、

「バスはちゃんと教えたから、心配しなくていいの。」

と言いながら、貞子を無事迎える迄は、自分の責任という顔をしている吉男に答えた。

じっとして居られずに、もう立ち上がって玄関に向かう、丸く小さくなった吉男の背中を見つめながら久子は思う。平穏無事と周囲からは見られているらしい老人家庭に、貞子が一陣の新風を持って来てくれるだろうと。

玄関の外迄、吉男を送り出した久子は、新風と共に、この曇天もさっと晴れて、霧の街の汚名をはらしてほしいものと空を見上げるのだった。

相変らず冷たい風が、すっと頬をなでていく。

(1983年)