ヘ. 五右衛門風呂

戦前の教育を受けた女性、特にそのうちでも一部の人は、本心をあからさまには語らない躾が、身に付いているように思う。それは争いや、失言、失敗が少ない事につながるのだろう。

それに引き替え大方の道産子は、この風土とあいまって女性もその例にもれず、自分の思った事をはっきりと話す。私もその中の一人である。戦中派として、色々ないまぜの教育を受けた事もあってか、何度か後悔したり、反省して考え込む事があった。

今考えても顔から火の出る思いをした忘れられない事がある。それは小田原市にある夫の父方の本家での出来事であった。

もう随分前の事になるが、夫が実に20何年振りかで、父親の墓参りに帰郷したいということから、家族一同での旅行とあいなった時の事である。

夫は終戦の年18歳であった。その年の七月に、まさか一カ月後に、戦争が敗戦で終わるとは露知らず東京を後にした。それは昼夜をとわずの空襲にさいなまれ、また、つらい食糧難から逃れたいと思っての事だった。

たまたま募集していた開拓団に応じ、本道の一隅に入殖し、5年間辛酸をなめたという事である。

単身で地元の篤農家のお世話になった後、家族を呼びよせた。軍人であった父親は、昭和17年に戦没して居た。草一本取ったことのない母親と、中学生の弟との三人で開拓生活が始まった。

夫は馬を使い、母親と弟が後を追う。40過ぎて、初めての農作業である。夏ともなれば、草を取るより休んで居る方が長かったとは、姑自身の後々の語りぐさだった。

旧制中学校を卒業した弟は先の見通しの無さから、教師の道をえらんだ。姑は体が弱い人で、夫一人の働きではどうにもならず、冬には雪の舞い込む小屋で色々思案したそうである。夫の若い理想は、無残にも打ちくだかれたのであった。

弟はH町の学校に転勤して行った。その学校の先任者のつてで、夫にも就職の話がもち上がった。母と共に弟を追って、その町のある会社に就職した。夫は文字通り、畑違いの仕事に精出して働いた。

三年程の後に、上司の世話で、私との出会いとなったのである。夫は、墓参に帰郷したい気持ちを押え、必死に働いたそうである。行くなら、自分の子供を連れてと考えてきたという。

結婚後、10数年が過ぎてしまった。相談の末、子供達が小学生のうちにとやっと決心し、実行する事となった。

小田原の本家をはじめ東京の親戚に連絡し、夏休みを利用しての家族旅行に出発した。

東京の青山墓地にある父の墓前に、一同は佇んだ。夫は20何年振り、私と子供達二人は、初お目見得である。

4、5軒ある東京の親戚に挨拶廻りをした後、長い間墓守りをして頂いた小田原の本家へ、お礼に伺う事となった。

私にとり東京の親戚の方々も初対面で緊張したが、それ以上に気むずかしい伯父と、姑から聞かされてきていたので、余計固くなって本家の玄関を入った。

90歳を目前にした伯父と70代の伯母は、兄弟の中で、ただ一組だけ健在なのであった。伯父は日清、日露、第一、二次大戦をくぐり抜けた軍人だった人らしく威厳があった。写真でしか見た事のない、夫の父とそっくりである。

伯母はいかにも明治の女らしく、奥床しくそして神経質らしい、ほっそりとした人だった。私のもっとも苦手なタイプの人である。これは気を付けなけれぱと心に決めた。後でお聞きしたが、長年不眠症に悩まされていて、よそへ行くと一睡も出来ないとの事だった。でも、不眠症では死ぬ事はないという見本のように、現在も御存命である。

婚家先から夫の従姉達も来て下さり、珍しい魚料理などで、その夜は歓待された。私は、ついつい遠慮なく頂いてしまった。

夫と子供達は、食事の前にお風呂を頂き、縁先で涼みながら、伯父をまじえて積る話をしているらしい。時折笑い声が聞こえる。

さて、私がお風呂を頂く事になった時、伯母が何気なく、「北海道に五右衛門風呂はありますか?」と聞いた。

すかさず私は、「五右衛門風呂ですか?。

何度か入った事はあります。でもあれは、周りが熱くて入りずらい、大変なお風呂ですよね。」と正直に答えた。伯母はだまって聞いていた。

私は案内されて、風呂場へ向かったのである。湯気の立つ風呂場へ足を踏み入れた途端、暖い所なのに、私の顔から、さっと血の気の引くのが分かった。

そこには五右衛門風呂が、でんと裾え付けられて居たのである。初めて伺った、それも本家で、私は何という失言をしてしまったのだろう。

飛び出す訳にも行かない、ゆっくり考えようと、弥次・喜多道中さながらに、浮いている板の上にそろりと足を乗せて、身を沈めた。

どんな顔で伯母と向き合ったものかと、ドキドキする胸で考えた。ぬる湯好きの私が、すっかりのぼせた顔で、おずおずと茶の間に入った。

ヤマタニタデ

伯母は、「湯加減は如何でしたか?」と何食わぬ顔である。

私は意を決して「誠に失礼致しました。良いお風呂でした。」と慌てて答えた。伯母は五右衛門風呂に付いては一言もいわず、「英子さんは東京生まれですか? 言葉も標準語のようですし。」という。

私は、恐縮しながら、「いいえ北海道生まれです。俗にいう、道産子です。アクセントは違うらしいですが、大体、言葉は標準語です。」と、ひどい北海道弁など使った事もないような顔をして答えた。

どうやら伯母は、私を江戸っ子と見てはっきりした受け答えに納得していたらしい。

それにしてもと、私は今でも考えるが道産子ならこんな時に、「家は五右衛門風呂ですから、気を付けて入って下さい。」と言わずもがなの事を、はっきりというだろうと思う。夢にも考えなかった事を聞かれて大失敗をして、ホゾをかんだ。にもかかわらず、いまだに失言をしては、娘にまで注意されているのは、どうした事かと、我ながら考えてしまう。

その夜は、二階の普段は使わない、かなり古い部屋に寝かされた。これも古びた麻の蚊帳の中に、どこからか入った蚊にせめられた。むし暑さと、階下では聞こえなかった新幹線の列車が通り過ぎる音と、お風呂の事などで、まんじりともしない旅の一夜であった事を忘れる事が出来ない。

(1984年8月)