⑭新聞小説「天佑なり」に寄せて

45号 平成26年3月発行

私は新聞連載の小説は必ず読むことにしている。昨年の北海道新聞朝刊連載小説「天佑なり」は409回もの長い物語が年末に完結した。難解だなあと思うときもあったが、どうにか読み終えた。

それが途中では思いもしなかったことが読み終わってみて不思議なつながりのあったことに気づき驚いている。

高橋是清が暗殺されるところで小説は終わるが、この2.26事件と私との間には、わずかな因縁がある。

私の母の実家は東京で、縁あって道内に嫁いで来たが、母のたった一人の弟は早稲田大学を卒業して近衛兵になっていた。

2.26事件が起きたとき、雪の降り積もった東京で一晩中皇居の警備に付いていた。

2.26事件は1936年2月26日、陸軍の皇道派青年将校らが、国家改造・統制派打倒を目ざし部隊を率いて、首相官邸などを襲撃したクーデター事件である。

内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺鉄太郎の三人を殺害し鈴木貫太郎に重傷をおわせた。事件後粛軍の名のもとに軍部の政治支配力は強化されたのである。

母の弟は風邪から肋膜炎になり入院のかいなく亡くなってしまった。

遠く離れていた私は、その叔父とは一度も会ったことは無いのだが、祖父は既に亡く

祖母一人が残された。現在では考えられないことだが、本家であった母の実家を継ぐために養子になるよう私が選ばれてしまった。そのために小学二年の私と赤ん坊の妹と両親の四人で東京に向かった。

私は訳もわからないままに、一緒に出かけ葬儀に出席したのである。しかし一週間後、両親が「英子、父さん達は明日北海道に帰るぞ」と言われ、私はその途端「私も帰る」と主張し、帰ってきてしまったのである。両親としても子供から帰りたいと言われてしまえば、なすすべも無かっただろうと思う。

十数年後、私は結婚した。

私の夫は陸軍一家に生まれ育った。十代の終わりに父の死に遭遇した後、終戦間近に母と弟を連れて開拓団の一員として十勝に入植していた。東京空襲の体験は、忘れることは出来ないと常々話していた。

日本に戦争が起こり軍人である父親を失うことがなければ、北海道に住んでいる私とは接点も出会うことも何もなかったのである。

夫の父はビルマ(現ミャンマー)で連隊長の時にマラリヤで亡くなった昭和17年、陸軍大佐から少将に昇進しているとのことだった。

私の父は当時国鉄職員で一人息子でもあったため、軍隊・陸軍には何の関わりも無い。そんな私が陸軍一家に育ち少将の父を持つ夫と、結婚することになったのも何かの奇遇であろうか。

一つの小説から自分の過去をふり返り、因縁と言っては大げさかも知れないが、いろんなことを考えさせられる、きっかけとなったのである。

ミズバショウ

義弟の一周忌法要

八十云歳にして、一人ではじめて羽田から千歳まで飛行機に搭乗した。何を大げさなと

笑われそうだが、私としては大冒険。今までも団体や急ぐ旅などで乗ったことはある。だが、一人では、はじめての体験をした。

七月末、亡夫の弟の一周忌が東京であった。昨年は、息子、娘と三人で葬儀に出席したが、娘は「暑い東京になんか行かないよ!」とのたまう。息子は法要の後出張があり、そのまま東京に残るとのことだった。

私は一人で帰るのは何とも気が重いなあと固い気持ちになった。だが若い娘さんが何人か一人で乗っているのを見て気を取り直したのだった。

喪主である甥は高齢の私を、どうしてもと期待はしていなかったようだが、とても喜んでくれた。

羽田まで車で迎えに来てくれ、途中江戸川区の自宅へ寄り、一休みのあと千葉県の津田沼駅前のホテルまで送ってくれた。

翌朝は、姪が車で迎えに来てくれて、三人で習志野市の墓地に向かった。

義弟の墓参と法要が管理事務所で行われた。十二名の親族が集まり、その後会食したときに、本当に行って良かったと実感したのだった。

食後、私しか知らない義弟の若かりし頃の思い出話を色々した。

その前に甥と姪に渡してあった『天祐なりに寄せて』を、どなたか読んで頂きたいと私が頼み、教師をしている姪の夫が読んでくれることになり、皆に披露してもらった。読み終わった途端、皆が一斉に拍手をしてくれた。私は面はゆいと感じながらも書いて良かったと思った。

その後、文章に書かれている内容にふれて、誰かが、ここにいる私の息子と甥と姪の三人、また、その子供達も含めて、もしかしたら、この世にいなかったかも知れないのだと話し出し、あらためて世の中の縁の不思議さを、皆で語り合い、大いに盛り上がったのであった。