ヲ. 危機一髪

「ガチャーン」

と、ものすごい大きな音がしたのでベンチに坐っていた私は、びっくりして立ち上がりそちらを見た。

それは何ともすさまじい交通事故だった。まかり間違えばというより、そこに街路樹が無ければ、旅行中の夫と私は見知らぬ地で事故死か、大怪我をしていた事だろう。

それなのに、その直後も夜も全然恐怖心がわかないのが我ながら不思議だった。

初めての京都を訪れて、一日目は観光バスで市内の主な名所を廻り。二日目のその日は嵐山と嵯峨野を歩いた。

退職したばかりの夫は、まるでそれが仕事のように何日もかかって、分きざみの計画表を作った。

その日も予定通り実行していたが、足が痛くなったという私の言葉も聞こえないように歩かせるのだった。

大きな道路に出た所で、私がバスに乗ろうと丁度目に入ったバス停に立った。夫も「では!」と時刻表を見てバスの来るのを待った。それは新丸太町通りであった。

私達の外に男の子を連れた母親が待って居た。夫以外の三人はバス停のベンチに坐って居た。物が衝突する音と、その親子の悲鳴と共に、私の頭上にもパアーと水気のものが飛んで来た。

私の見たものは、白っぼい大型乗用車の助手席あたりが街路樹に喰い込んで居る現状だった。

若い運転者は、親か上司か分からないが後の座席の老人を気遣っているが、動けないようだ。

やっと車の外に出て来たひよろっとした若者は、胸の辺りを手でおさえながら、何とも言えぬ珍妙な顔付をしながら身をかがめている。外傷は無いようだ。

「準備中」の札が掛っていた飲食街のシャッターが一せいに上がり、あちこちへ連絡する人達と共にヤジ馬が集って来た。

良い天気の昼近い頃、特に車も混んではいないので「わき見運転だろう」とか「居眠りしたのだろう」とかのささやきが聞こえる。

立木が無くてあのまま歩道に乗り上げられたら、ベンチの親子と共に私はどうなっていたのか。夫は立って居たが、他の方を見ていたらしい。その親子は見ていたかどうか分からないが、私の方も突進してくる車は葉陰で見えないので、信じられない気持ちであった。

一番近かった母親の足許に、くずかごが倒れてきて当ったので、私が「大丈夫ですか?」と何度も聞いたが、「この子が何でも無くて良かった。」とだけ見知らぬ私にくり返し言っていたのが忘れられない。

警察官の事情聴取に夫は何か説明していたが、私は「旅行者ですので。」と言ってそうそうに立ち去る事にした。救急車で運ばれた老人や若者の事が気にはなったが、何もしてあげられないので・・・。

其の夜は、その光景を思い出して眠られないだろうと思ったが、歩きつかれてぐっすり眠ってしまった。

帰途、札幌に立寄り子供達の顔を見て「こうして元気な姿では会えなかったかも知れないのよ。」と言った途端ぞっとした私である。

(1987年3月)