イ. 親離れ子離れ

札幌へ向かう列車内でいつになく自問自答していた。何が私を駆り立てているのかを。只一途な子供への愛か、仕事が趣味みたいな夫に取り残された、一人の主婦の退屈な日常からの逃避か、はたまた、札幌の親戚、知人に逢いたくてかと。

でも子供が気になるのが、やはり一番だなと結論づけた。

月に一度の札幌行きが、もう2年以上続いている。それは生産性の無い、子供達の住む家への往復である。が、それもそろそろ先が見えて来たというか、終わりに近づいて来たように思う。といっても二人の子供の結婚が決まった訳ではなく、一向進歩のない私に比べ、子供の親離れの方が先のようであるから・・・。

最近の出札の折、たまたま将来の事を含めた話の中で、兄妹二人の子供を前にして特に、娘には気を使いながら私の話を話した時に、思い掛けず娘の口から「親離れはもう出来た。」と言われたのである。内心私は、長い間その言葉を待っていたんだとホッと安心すると共に、いささかの淋しさを感じたのが、正直な気持ちであった。

夫が単身赴任を一年程した頃、娘が高校を卒業し就職したばかりの5月、突然電話で「家が見付かった。○日に引っ越すから準備して置くように。」との一方的通告に、唖然としたが、夫の命令である。バタバタと大樹へ運ぶべき荷物の用意をした。

転勤族ではない我が家は、二人の子供の高卒迄は離れ離れの生活の経験は無く、家事などほとんど手伝わせずに、過保護に育ててしまった娘に、あわてて日常生活の種々を教えた。息子は大学の四年間を寮で過ご

した経験があり、就職後の研修期間中で、任地は札幌から二時間程の町に内定していたので、実質的には週の大半を一人暮らしとなる娘の身を考えて、将来のための試練になると思う反面、馴れぬ勤めと主婦代理が

上手くやれるかと思うと複雑であった。

引越しは色々な都合で、夜中からの荷物の積み込みとなり、未だ明けやらぬ3時半頃に、いよいよ同じ車で発つ時が来た。娘の部屋は襖が固く閉ざされたままだったが、眠っているとは到底考えられない。部屋の戸を開ける事はどうしても出来なかった。外から「じゃあ、発つからね。体に気をつけて。」とだけいうのがやっとだったように思う。

その時の娘の胸中は、翌年にかけて女の体の変調を来たす。気のせいか暗く落着きの無くなった性格。また、一月後にようやく私が札幌の家に行った時に見た、家中の引越しの残がい。うず高いホコリの中で暮らしていた様子等々で察する事ができ、思い出すと今でも胸が痛む。

5年前に姑を見送り、子煩悩な夫の理解と身軽さから、それ以後月の一週間位を札幌で過ごす事にしている。周りの人々からは「どちらか一方の生活に決めたら良い。」とか「行ったり来たり出来て幸福だわね。」とか、また「良く行くわね・・・。」等々おっしゃる。

その内何度か往復する間に、娘が札幌の家の主婦になり切って、家の掃除、料理、買物等こちらがお伺いを立てたり、また、お手伝いさんの立場になっていったが、それでも口からは、「何時迄大樹に居る気。」とか「私は置き去りにされた。」とか「来ても又すぐ帰ってしまうんだろう。」という言葉がはき出されるし、私の妹に「母親を取られたと父親を恨んでいる。」とも聞いていたので「何でも娘の言いなりになっている。」と姪が笑っているのも知らぬげにせっせと通った。

大樹へ戻るときも、母親が帰るべき家がもう一軒ある事をなるべく感じさせぬよう「ちょっと行って来るよ。」と軽く言って出たりと努力したつもりだが、帰った後は余計に空しかった事と思う。それは夫に私が「留守中何が一番困るか。」と聞いた時に「精神的安定だ。後の事は何とでもなるがね。」というのを聞くと、又、私は一層両方の板ばさみを感じて来た。

でも昨年末、家族が集まった席上で息子は「主婦なんだからもっと落ち着いて暮らしたらどう。子供に引かれて札幌へそうそう飛んで行く事はないだろう。」と私に言った。その時娘が「同じ年頃の人達が一人暮らししてるのに、親から自立出来ない自分自身が歯がゆいのだ。」と生来勝気な娘が悔し涙を流した時に、ああ大人になったなぁと感じられたし、進歩のない私は二年前と変わらぬ気持ちで往復していたが、社会に出た娘の心境の変化は気付かぬうちに、親離れの方向へ進んでいたようだ。

就職3年目に入り仕事にも責任を持たされるようになって、意欲が出て来、今年同僚に自分と同じ立場の人が来られたことも一因だろう。それは又、私の方からの電話の回数が多すぎてムダ使いだと言ったり、以前には機会を逃さず大樹に遊びに来ていたのが、日程に余裕が無い時には取り止めると変わってきた。

札幌には、故郷を離れて生活している女性が沢山居る。大樹からも大勢の方が行っていると耳にする。

私が常日頃考えている事は、その人の初心が大切だという事である。いくらか気の進まぬながら行った人も居るだろう。でもその人達は自分の意志で出発して行った事と思う。我が娘は望まずに過保護の所へ、急に一人立ちを強いられたので、年月が掛かったのだと思う。私が戻って来て夫に娘の親離れの話を伝え、「段々に札幌への回数が減るだろう。」とどんなにか喜ぶかと思ったら「それでも行ってやれ。」というダメ親父であり、それもそうだと思う全然進歩しないダメ母親ではある。今後の私はいかにして子離れしていくかが、これからの人生そして老後への課題である。

(1979年7月)