ロ. 離島への旅

昭和53年夏、私達夫婦は銀婚式を目前にして、家族四人での旅行をと考えた。

ぎりぎりの生活だった私達は、昭和28年という世相もあり新婚旅行など出来なかった。

別にそれを不満とも思わず過ごして来たが、25年の長い歳月には、姑との葛藤と姑の死、二人の子供の成育と様々な我が家の歴史があり、過ぎ去った日々をじっくりと振り返って見るのも意義があると思うし、其の上仲人御夫妻が東利尻町のK町長さんなので、御挨拶に伺うという名目を立てて利尻島を選び計画を立てた。

親子四人が、三ケ所に離れ住んで居るので、まるで同窓会の打合せよろしく調整し、矢張りお盆休みしか無いという事になった。

1ケ月前に4人グループの国鉄キップと寝台券の手配をし、集合場所は、娘が一人住んで居る札幌の家である。13日にそれぞれの地から集まり、墓参りをすませ、寝台車で稚内へ向かった。

朝6時に着いた稚内は生憎の雨だったがすぐ、利尻航路の桟橋に向かう。割に大きなフェリーだったが、観光シーズンでありやっと船底に近い席に四人坐った。

早い人は寝ころんで居る。暫くしてエンジンの音と共に揺れを感じ、それが随分続いているので、礼文島に向かって進んでると思い「矢張り、大きな船はいいわね、大分進んだかしら。」と私が言うと、近くに居たカニ族の一人に「未だ船は動いて居ませんよ。」と言われて顔から火が出た。なるほど離岸するとかなりの揺れである。

先ず娘が目が回ると言い出す。席を立って寝せると、どんどんひどい揺れに私も酔ってしまい思わず吐いてしまう。少しの隙闇を見つけて寝転んだ。

2時間半の苦しさから解放され、やっと礼文島の船泊港へ着いた。バスで島を半周して香深に向かう。礼文から見る利尻冨士の眺望が一番と、たってのお奨めで渡った島だったが、大雨の中でそれも果せずに、利尻島へ向かった。

今度は、小さな船だったが、船底の息苦しさから逃れるべく甲板に席を取った。10分位たった頃~後でわかった事だが潮流の関係で必ず大揺れになるとも知らず~船が木の葉の様に揺れ出した。娘と私は、船員の指示通りにバランスを取りながら、荷物を必死に掴んでやっと船室に向かったが、下は満員、通路にリックを背に寝てる人々もいる。

空いている1等船室のドアを開けて、転がるように畳の座席に寝た。と同時に係員の「この部屋は別にお金が掛りますよ。」と言う非情な怒嶋り声がした。私は頭も上げられず「払います。払います。」と叫んだ。

係員はさすがにそれ以上は言わずに見下ろして居る。此処には枕と毛布もあり2等とは違うなあと思ってると、夫と息子が真っ青な顔で飛び込んで来た。先程は、女2人をせせら笑うように見ていたのにと、こんどはこっちが可笑しくなる。4人枕を並ぺて揺れと戦った約40分の船旅が、とても長く感じられた。

利尻島の鴛泊港に着く頃は、一時的に雨も上がり、多勢の乗客と共に港を見ると、K町長御夫妻のお顔が見える。長い行列の末やっと地に足を付ける事が出来てホッとしたが、頭痛は未だ取れない。

予約して下さった宿で一休みの後、車で島の一周をという事になった。港に着いた直後、フエリーの横腹から、生活用品がどんどん陸上げされ、見渡す限りでは、とても島とは思えない程広く大きい印象だったので、周囲68kmの島を目で確かめるべく車中の人となった。

途中、姫沼、会津藩土の墓、郷土記念館、熊の形に見える岩を眺め、仙法志の海岸、沓形の市街を通って沓形港、野口雨情の歌碑と全舗装された道路を通って案内された。記念撮影もその都度、息子がしてくれたが、むっとする熱気と共に時々にわか雨が落ちて来て、早々に車に駆け込む事が度々なので、私は町長御夫妻に申し訳無くて「全ての予約はしたつもりだったが、お天気の予約だけは忘れました。すみません。」とあやまり大笑いとなった。

その夜は、名産の料理を楽しみ、船旅の疲れなどで、あまり我が家の歴史の話も出来ず4人床に付いた。時々目が覚めると、風雨と波の荒い音にがっかりしたが、朝を迎えて見ると、段々と晴れてくる様子に嬉しくなる。

昨日は船酔いに弱っていた娘もすっかり元気になり、三人で近くの灯台山という90m程の山登りに出かけて行ったが、戻るなり「利尻岳が段々に見えてきたよ。」と言うので、私は急いで外へ出て空を振仰いたが、あまりに近くて裾野しか見えない。早く容姿を見たいと思った。

朝食後、町長御夫妻がまた見え、一泊ではお話が沢山残ってしまったとおっしゃるが、息子の休暇の都合で今日中には札幌へ戻らなくてはならない。10時発のフエリーに乗船すべく身仕度し、お土産を買い込んだ。夫は「結局、往復とも重い荷物の運び役だなあ」とこぼしていたが、私は「矢張り男性の連れがあると頼もしいと思ってます。」と持ち上げておいた。息子は色々のレンズを詰め込んだカメラ一式で、この鞄も重そうだ。

船も続けて3回も乗ると気持に余裕が出て来る。それに今日の海は凪いでるし、フェリーは900t程の大きい稚内行きである。刻、一刻と空は晴れ渡り、船の上から待望の利尻富士の秀蜂を眺める事が出来た。噂に違わぬ雄姿である。車のある人を先に乗船させるので、船室はまた満席だった。昨日の苦い体験を思い考えたが、ベタナギの海なので、甲板に居る事にし、椅子席に少しの空席を見つけた。文字通り鏡のような海を、白い波頭を残して、船は稚内に向かう。

はじめは、島の家並、港等と一緒に眺められた利尻富士が、2時闇近く進む中に、島影は全然見えず山だけがポッカリと海申に浮んで居るように見えていた。

船尾に陳取った娘は、この時とばかり陽に体を焼いて居る。潮流と天候の関係とは思うけれど、余りにも昨日と違う船旅である。途中も全然揺れる事が無く、樺太が見えると望遠鏡を覗く人、肉眼でも見えると走り廻ってる人々を尻目に、私は飽かず美しい利尻富士を跳めていた。

こんなに良い天気なら、また船旅も良いものだなあと、心の底から思うと共に、人の心の移ろいをしみじみと感じた船旅であった。

(1980年8月)