ヒ. さい果ての街へ

「ああ、この店覚えている。空襲で焼けなかったのねえ。」と、誰も居ない店の前に近づいて、私は小さく叫んでいた。

子供の頃の私には、何の係わりもなかった店だったが・・・。

それは、50年の歳月を経て根室の地を踏んだ、昨年7月の事だった。

金刀比羅神社への道を辿っていた私の目に、古くて大きい鍛冶屋の店が飛びこんできた。

聞いてみたい事は沢山あったのだが、用事も無い鍛冶屋さんを呼び出して声を掛けることもならず、私は何分かののち、また歩きはじめた。胸の中がじーんと暖かくなった。

少女時代の8年余りを過ごした根室の街は、私にとっての原風景である。

その根室が、戦時の空襲で街が全滅に近い被害に遭ったと伝え聞いていた。

多感な夢を育んでくれた街が、跡形もなくなったと知り、その姿を見るのが怖かった。

でも、日本の多くの街がそうであるように、根室もたくましく復興したということも聞いていた。それなのに何故か、根室を訪れる気持ちと機会がなかった。

釧路にいる高齢の伯母夫婦に会っておかなくてはと、もっともらしい理由をつけ、そのあとに根室へ今度は必ず足を延ばそう。今この目で見ておかなくてはとの強い思いで出発した。

花咲駅を過ぎて、太平洋側からぐるっとオホーツク海へ回る途中に、昔はなかった東根室駅がある。「日本最東端の駅」の標識が立っていた。戦後、北方四島などからの引揚者で人口がふくらんだ根室市。原野だった所に沢山の家々が建っていた。

戦前より小さくなった根室駅に降り立った。旧国鉄時代、父が勤務していた駅だと思うと、急に懐かしさがこみ上げる。

予約してある駅前の民宿に荷物を置き、早速、街を歩いて見ようと外へ出た。

駅近くの、かつて住んでいた鉄道官舎あたりへ行って見る。幾棟もあった官舎は空地に変わり、奥の方に4階建のアパートが3棟建っていた。その中の1棟は住人が居ないのだろうか。入口には板が打ち付けられている。

そこからすぐの母校北斗小学校へ行った。二十間道路といっていた道が、今は立派な国道44号線となり、昔のおもかげはない。道路を渡り校舎に近づいていった。

遠くからも見えてはいたが、私が学んだ木造校舎は影も形もなく、コンクリート3階建の大きな箱に変わっていた。

空襲で焼かれてしまったのだから、致し方ないか・・・。

こんどは街の様変わりを見ようと、3キロ弱と一寸遠いが街はずれの丘の上にある、金刀比羅神社に参詣することにした。私はやはり古い人間だなと自分を笑いつつ、毎年、父や兄達と除夜の鐘を聞きながらお参りに行ったのを思い出す。子供の身には寒さも感じなかったようにおもうのだが・・・。

港街はどこもそうだが、港へ向かって坂道になっている。舗装道路に生まれ変わった時にけずられたのか、昔より傾斜がゆるく感じられた。又、子供の頃には気にもしなかったが、梅ケ枝町などの繁華街の海際の道路は、平坦ではなく波打っているように高低差があった。帯広などの平野の街とは違うなあと新しい発見もした。

港に近づくと焼け残った建物も目に付き、件の鍛冶屋の前を通った。子供の時に何回も目にしたとはいえ、「思い出に残っている所が此処だけとは。」と、むなしい気持になったと同時に、どうして懐かしいのだろうと考えてみた。

祖父母は山形県から道東の厚岸へ渡ってきて、やはり鍛冶屋を営んでいた。そこで私の父は生まれた。

私、子供、孫と、もう道産子4代目になるんだと思った。

誰も居ない店の奥に、祖父母や両親、兄の面影がだぶついて、私はしばしそこに佇んで居た。

1泊2日の旅程では、過ぎ去った50年の何分の一にふれる事が出来たのかと、今更のように考えて見た。

しかし私の心の中で、一つの区切りは出来たという思いはある。

(1994年6月)