ヰ. 春の夜

春の転勤シーズンになると、若い頃のある夜の事が頭に浮かんでくる。

私は家を離れて勤めをしていた。父が転勤で釧路管内から十勝管内のある街へ、一家中で引越しすることになったと、日時を手紙で知らせて来ていた。

家族達の出発前日に、2つの列車を乗りつぎ私は道東の標茶町に向かった。

家族皆の顔を思い描きながら、懐しい鉄道官舎の中の我が家に歩いて行った。もうすでに日は暮れている。翌日の引越しの為のざわめき、大勢の話し声が聞こえるはずの玄関に立った。

しんとした真っ暗な家だけが私を迎えた。どうしたのだろう。

なぜか?一瞬私は、天涯孤独になった思いがした。

その頃旅館など考えもつかない。何分か停んだ後、前の官舎の端の家が同級生の家だったと思い出した。

オオカメノキ

だが『待てよ。お前はその友人に対して反省すべき点は無いのか? 同等の接し方をしてこなかったのではないか』とささやきが聞こえた。

でも春先の寒さが身にしみる。思いきってその家を訪ねた。

すると翌日の十勝の街に早く着くように、釧路の親戚の家へ皆が昼間発って行った事を私は知らされた。

何も知らない私は、家族達の居る釧路を素通りして、はるばる来てしまったのだ。

心良く泊めてくれた友人とその家の人に、私は身を小さくして寝せてもらった事を思い出す。

未だ、家庭に電話もない40年も前の出来事である。

(1991年4月)