⑥一周忌を前にして

37号 平成18年2月発行

夫、隆夫は自分が建立した札幌里塚霊園にある墓地に、死去後7ヶ月目の命日に納骨された。強い夏の太陽の下、親族8名のささやかな式だった。

夫は、職業軍人だった父を昭和17年夏に亡くした。その後は長男として母と弟3人家族の長となった。16歳で中学(旧制)在学中だった。

当時住んでいた東京は、戦争の影が日増しに濃くなり空襲も度々繰り返された。それと同時に食糧も乏しくなり、庭先で作る物に限界を感じた夫は農業をめざして本道へ渡ってきた人である。それは後1月後には、終戦の日を迎えるとも知らずに、20年7月の事だったと後日談で聞いた。

その8年後に結婚した私には詳細は分からない。開拓団ではなく十勝の川西村(当時)に入植した。

紆余曲折の後、大樹町に住んでいた頃、私が一代記を書いてはとすすめても書かなかった。せめて聞き語りで私が書くべきだったかと今になって悔やまれるが、5年間の農業体験はつらい思い出ばかりだったと思う。夫と同じ昭和一ケタ生まれの私には良く分かる。戦中・戦後の苦労は多かれ少なかれ、皆が通ってきた道といえる。

夫の弟が教員になり、その伝でサラリーマンに転職した。体の弱い母(後に私の姑になる人)相手では、とうてい農業を続けられなかったのは当然である。一家は広尾町に移り住んだ。

結婚して十数年も経てからだろうと思う。私は夫に聞いた事がある。

「印刷会社の営業の仕事一筋で来たけれど、何か別の職業に変わりたいと考えた事はないのかしら?」

「いや、無い。これが自分に与えられた天職だと思って続けて来た。」

夫はきっぱりと言った。サラリーマンに転職した時の恩義・事情を知らない私が軽々と言う事ではなかったと、その後は口を閉ざして暮らしてきた。

会社の上司に「営業には向かないのではと思ったが。」と後年聞かされた事がある。でもその後会社が札幌にも進出して、入社5年後に姑と私達夫婦と1歳の長男4人家族は、夫の転勤で札幌へ移住した。それからの夫は、営業の仕事に一段と成果を表したと思う。

人は誰でも長所・短所があって当然の事。夫の短所はさておき、数ある長所の中でも長男を可愛がった事は、人後に落ちないと思う。子供が生まれる前から「男の子・・・」と望んでいたが、思いが叶って飛び上がって喜んでいた。多忙の中、許される所へはどこへでも連れ歩いた。大きくなっても息子の名前ばかりを呼んでいた。

その分、下に生まれた娘は敏感にそれを察していて、誰から聞くともなしに「私は、父さんに抱いてもらった事が無いんでしょう。」と今でも言う。夫は姉を小さい時に病気で亡くして、男兄弟二人で育った。それで女の子への接し方に疎かったらしい。でも「大人の女性への接し方は?」これは今となっては全て藪の中である。

仕事に精一杯励んだ夫だったが、豊かな生活とは言えない日常を送って来た。退職前後の20年程を大樹町で暮らした。広い十勝平野を夫はバイクだけで走り、夫婦共に車の運転が出来ず、無形文化財?と人に言われながら一生を過ごした。でも、列車での旅行は大げさに言えば、日本中を回った。修学旅行など無い時代に生きて、せめて少しでも取り戻したい気持ちで名所旧跡を歩いた。思い残す事は無いくらいである。

只、今私が考えている事は、一度行って見て「ああ、ここはもう少しゆっくり歩きたい。」と心残りのある地が無いわけじゃない。夫との思い出のある所への再訪であるが、何時の日にか実行出来たら良いがと思っている。

一昨年、ささやかな金婚式を祝う会を二人の子供と家族が催してくれた。何よりも嬉しい出来事だった。夫のその日の笑顔が目に浮かぶ。何とか健康でその日を迎えられた事に、今は亡きそれぞれの4人の両親に感謝したい。

今は12月の一周忌を前にして、何かと用件も有り、私自身、体の老いを確かに感じるし症状もある。

残された者の責務として過ぎた日々を懐かしみながら、何とか元気にその日を迎えたいと念じながら暮らしている。

エゾトリカブト