前回は、耳のチューニングというお話をしました。
今回は「テストじゃ英語は身につかない」ということを書かせていただきます。
私は多読と出会うまで、学校英語に対してものすごく否定的な考えを持っていました。
教わったことをどれだけ覚えているか、暗記しているかをテストされたり、
文法的な解説を日本語でしているばかりで英語自体に触れる機会がなかったり、
問題が “解けても” そこで出てくる言葉や表現をまったく使えなかったり、
発音は日本語流で済ませるくせにスペルの1文字にまでこだわったり、
ピリオドを忘れるなとかクエスションマークをつけろとか、
Mrの後にはピリオドをつけるとかつけないとか、
主語の「 I(私は)」は “必ずいつも” 大文字で書くだとか、
「○○の訳は?」と聞かれたり、
長い文章でも一文ずつ訳して読んでいったり、
訳語を知っていれば理解していることになると勘違いしてしまったり、
知っている言葉なのに訳さなければ何が書いてあるのか読み取れなかったり、
知っている言葉ばかりなのに聞き取れなかったり、
ネイティブの人から話しかけられてもまったく分からなかったり、答えられなかったり・・・。
自分が受けてきた英語教育で身に付いたレベルというのは、せいぜいこの程度でした。
私たちが受けてきた英語教育というのは何だったのか、
考えれば考えるほど「怒り」が込み上げてきます。
言葉を身につけるためには「量!」が大切なのです。
それなのに従来型の英語教育というのは、わざと英語から遠ざけたり、
触れる量を制限しているのではないかと思わせることばかりが目立ちます。
英語教師の説明が全て日本語だったり、
テストではどれだけ英語を日本語で理解できているかが問われ、
英語を使って「表現する」という視点もなかったり、
わざわざ単語を並べ替えたり、わざわざ同じような意味合いになる文を作らされたり、
特に興味もない、読めもしない “難しい” 文を、ちょこっと読まされたりさせられ続けています。
それが終わるとどうなるか?「もっと英語に触れたい!」と、なるはずもありません。
「よし終わった!」
「この問題が出来なかったな…」
「次は間違えないように気をつけよう」…など、
そう思えればまだ “マシ” な方で、
大抵は・・・、
「こんなに出来なかった…」
「何で自分はこんなに英語が分からないのだろう?」
「英語なんて将来使わないからいいや…」などと
否定的でネガティブなことばかりを考えてしまいます。
そのようなことを長く続ければ続けるほど、
英語に対する「自信」は遠のき、
終いには英語そのものから遠のいていくということになることが多いのではないでしょうか。
テストじゃ英語は身に付きません。
よくよく考えてみればお分かり頂けると思いますが、
そもそも「言葉の能力」というのは、
テストされるため “だけ” にあるものではありません。
母国語であれば、言葉の使い方が正しいか間違っているかということよりも、
その「内容」(言わんとしていること)の方に注目するはずです。
その「内容」というのは、私たち人間の「生活すべて」です。
どんなことにも「言葉」が関わってきます。
言葉を「使って」生活しています。
そういう視点で言葉に触れていく、
言葉を使っていくというスタイルにシフトできるのであれば、
外国語であってもどのように触れていくのが良いか、
答えは自分の中から出てくるものではないかと感じています。