前のページでは、
「直訳」というのは使い物にならない
という話から、映画に出てくるセリフを例に、
つまらない話をしてしまったのではないか
と反省しています。
文法の話しなどもそうですが、
『言葉それ自体についての話』というのは、
概して面白くないのではないかと感じています。
『訳すということの1番目の弊害』は、
『いつまで経っても、英語の音でもって、
その“意味するところ”をコントロールできるようにならない』
ということでした。
それは、英語の音だけを使って意味を理解したり伝えたりすることが、
いつまで経っても出来るようにはならない、ということです。
そして『訳すことの2番目の弊害』というのは、
『同じ言葉や文でも、それが使われる状況によって
その“意味するところ”が変ってくるということを無視してしまう』
ということです。「Open your eyes.」という映画のセリフを例に出しました。
「知ってる単語」であればあるほど、
特に“訳す行為”が身についてしまっていると、
どんな状況であっても
その「知ってる意味」と結びつけて考えてしまい、
かえって理解を妨げるということも出てきたりします。
「ひとつの訳」「自分の知っている訳」にこだわるあまり、
そのイメージだけが強くなってしまい、
どういう状況でどういう使われ方をしているか
ということに目が行かなくなってしまう、
というような状態です。
正に『木を見て森を見ず』という状況に陥ってしまうということです。
しかし、最も恐ろしいことは、
“その言葉(単語)の訳を知らないから解らない” と決めつけて、
英語そのものから離れようとしてしまうことではないでしょうか?
もしかしたら、次の文に理解を助ける説明が書いてあったり、
口答でも違う表現で説明してくれれば分かったりするかもしれません。
例えば、本のタイトルに“知らない言葉”があったとしても、
ページを開いて読んでみればどういうことが書かれているのかは分かるものです。
それ以上でも、それ以下でもないのではないかと思います。
面白くなければ、途中で辞めたとしても、
その分ほかの本を読んでいくことにつながって行けば、
その方が断然良いと思います。
余計な話ですが、
そもそも「本のタイトル」という “道具” は、
本の内容を “100%分からせる” ためにあるのではないはずです。
その本を「読もう!」と思ってもらえれば
その役目の半分は果たせたようなものだと思います。
実際に本を手に取り眺め、
ページを開いて読んだ「後」に、
改めてタイトルを眺めて「じ~ん」
となるのではないでしょうか?
或いは「ジーン」とするのは何年か後かもしれません。
「読書」というのはそういうものではないでしょうか?
“タイトルを完全に理解してから読もう” では
いつまで経っても読み始めることができないかもしれません。
同様に、“英語が分かってからやろう”
“文法が分かってからやろう” では、
いつまで経っても「分かる瞬間」は訪れないかもしれません。
“空を知ってから飛ぼう” では、
いつまで経っても飛べるようにはならない。
“海を知ってから泳ごう” では、
いつまで経っても泳げるようにはならない。
そんな諺が、どこかの国にはあるそうです。