「英語の力」というのは「英語の吸収量」に比例しています。
無意識のうちに体の中に溜まった英語が多ければ多いほど、
まるでコップの水が溢れるときのように、いざという時に英語が出てくるようです。
これは英語に限らず、どの言語でもそうだと思うのですが、
母語であれば“赤ちゃんの時代”にコップに「水」を溜め始めます。
お腹の中にいるときからそれは始まっているのでしょう。
そしてある日ある時、一滴、また一滴とコップから溢れてくるのではないでしょうか。
それは「親」と呼ばれる方々が、一番よく知っていることだと思います。
その「溜める」ための手段として、多読では『やさしくて短い文』から始める発想が出てきたということです。
「英語が“できる”」というのは、コップの「水」が溢れてきたということだと感じています。
私なんかはこのくらいのイメージ、これくらいの捉(とら)え方でいいんじゃないかと思っているのですが、
中には「我々は大人なんだから、子どもとは習得の仕方が違うんだ!」と考えてしまう方々もおります。
話が変わるかもしれませんが、
みなさんは『英語で会話をするときに、日本語から英語を作ろうとして、途中でつまってしまった経験』
というのはお持ちでしょうか。私は…何度もあります(^^;)
言いたいことは確かに“ある”のに、それを表す英語が出てこない(笑)
それについて、「多読の酒井センセー」(電気通信大学)はある講演で、
次のような喩(たと)えをしていました。
『私たちは大きな樽(たる)を背負っているとします。
その樽には “エイゴ” という水が入っていて、
話す時というのは、その樽を背負ったまま、
小さなひしゃくを使って水を汲もうとしているようなものです。
水がたっぷり入っていればすくいやすいですが、
水が底の方にうっすら溜まっているくらいだから、
すくおうとしても上手く水が入ってくれない訳です…。』
自分が樽を背負ってがんばっている姿を想像して、ひとりで大笑いしたものでした☆